#これ描いてる時に改めてデザインを確認して、あれ、もしかして上海に羽がある解釈で描いてるの私しかいない?って思った。
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#my art#東方project#touhou project#alice margatroid#アリス・��ーガトロイド#これ描いてる時に改めてデザインを確認して、あれ、もしかして上海に羽がある解釈で描いてるの私しかいない?って思った。#個人的には対アリスの時に出てくるドット絵の人形のデザインが正だと思ってるので基本的に人形は羽があると解釈してます#As I was drawing this#I checked her design again and realized: “Huh? Am I the only one interpreting Shanghai as having wings?”#The pixelart of the dolls she uses when she fights the player seems to have wings#so I personally interpret her dolls as basically having wings.
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打ち上げ花火、解釈(暫定)
今回レビューを書いたのは、あまりにも誤解というか、変な観方をされていたからです。 君の名は。とかと比べられたり…声が批判されたり...
追記
なんか勢いで書いてしまったので、訂正させて欲しいです...
君の名は。はめちゃくちゃ好きだし、作品的にもエンタメ的にもとてつもない完成度だと思います。好き。別に比べるのも悪くないんです。今の日本に受け入れられるアニメーションであることは確実に証明されているし、同じ夏アニメで、男女の話だし。比較対象として出てくるのは当然と思います。何が問題なんだ?!浅いとか深いとか言うつもりもないです。浅い深いどちらがいいということも思っていない。ただ、この作品に適した見方をされてないと思うんです。それはネットの感想を見る限り君の名は。の影響が大きくて。もちろん、見せ方がまずかったのはあると思います。でも、企画はこの映画の方が先だし、君の名は。がここまでヒットすると考えて作られていない。そういった点を考えると、積極的に庇いたくなったんですね...なんか表現が難しいな
君の名は。に負けないくらい素敵な作品であることを広めていきたい。
僕は全く声に問題があるとは思わなかったし、内容は苦しくて切ないけれどまっすぐで前向きで、すっきりして、幻想的な映画だったと感動しました。
広告もよくなかったし、典道の見た目が高校生っぽくなっていた構造的な問題もあったと思いますが、 一番の理由は、暗喩が理解されなかったことにあるんじゃないかと思います。
たくさんはないですが、構造や比喩に関して述べているレビューだったり、ツイートがあるので、僕も便乗して、他の的外れな批判たちに埋もれないよう、私はこう観たぞという文を残そうと思いました。表面の絵だけ追う観方では魅力が半減する映画だと思うので、その助けになれば幸いです。
かといって未鑑賞の人にはオススメしないけど...
比喩について
「桐島部活やめるってよ」は、ゾンビ映画の比喩が理解できないとイマイチ楽しめないし、作中に出てくる塚本晋也監督の「鉄男」はドリルの比喩がわからないとよく理解できないでしょう。
例えば、物凄く難解なパズルがあって、なんかすんごい些細なアラに見えるバグみたいな要素に憤慨して、もっと完璧なパズルよこせと言う人より、いや、これはなにか解くのに必要な要素なんじゃないかと疑問を持てる人でないとその作品は楽しめないし、凄さもわからないのです。
なんか疑問に思っても、いや、この製作者はそんなミスをしない人達なはずだから、なにかあるに違いないと思ってみないと、とけないパズルだった感じがあります。
制作物全てがパズルではないし、無論パズルとして見なくても面白がれるのですが、ただのアラのある立体としてしか見ることができないとそりゃあ面白くないだろうなと思います。
なんだよ、去年の立体は素人が見たってめっちゃ綺麗な形で、こんな出っ張りなんて一つもなかったぞ!!!となる。 せめて、解くことはできなくても、その物体がパズルであり、解くことができる、かっちり美しく組まれているということを知らないと出っ張りの意味がわからず楽しめないのです。
そういうものもあるそういうたのしみかたもあるということです。
なお、映画を見たのは一回きりで、文章を書いている間に原作を観ました。 感動の余韻で急いでメモしたことをとりあえずまとめたものですので、文体とか、読みやすさとか、時系列を考えていません。
なお、本人ですらうまく表せていないなと感じています。アニメに対しての「実写」という表現だったり、「大人の世界」だったり。
思いついた言葉で書いてますので、あ〜だいたいこういう方向性の意味ね、という感じでお読みください。
言葉足らずだったり、記憶違いだったりするかもしれませんが、大目に見ていただければ嬉しいです。
以下、アニメ実写ともにネタバレあります。 鑑賞後にお読みください
1 ぼりのしん個人の読みとき
あくまで一例にすぎません 映画も一度しか見ていないので、勘違いしているところがある可能性が高いです。 でも、楽しんだもの勝ちだと思っているので、あくまで例にすぎませんが、解釈の一助になれば、という思いで書きます。
まず、話の大筋を書きます。
男子に比べ、ちょっと成長の早い女子(なずな)が大人側の世界にまきこまれてしまう。まだ子供の世界にいたがるのだけれど、どうやら強制的に大人にならなければならないらしい。 それを見た典道は彼女が可哀想になって、覚悟を決めるまで付き合ってあげられたらなと妄想します。(妄想に入った段階はまだ判断できていませんが最初からか、海でなずなを見た時からか、プールでなずなをみたときらへんではないかと思います)
『ま��大人になりきれていない女子は怖さから逃げることを考え、切なさから、道連れを探すんじゃないか。 プールで成長をはかり、少しでも成長しているほうを巻き込もうと賭けるんじゃないか。 そうなったらその道連れに進んで選ばれてあげよう。 でもやっぱり怖くなって大人の世界にいくの無理かもしんないぞ。 下ネタや冒険のあるホモソーシャルな世界が心地よいし、仲間より先に大人になったらバカにされたり、疎まれたりするだろうし。』的な。
今は物語全体が典道の妄想説が有力なんじゃないかと思ってます。 おそらく実世界の典道は朝なずなを見かけてから、その日1日、自分の行動に重ねて妄想を繰り広げていたのではないだろうか…
男子はおそらく花火が球であることを知ってるんじゃないかと思います。 いずれ、それを認めなくてはならない、そんなことを気にすることすらできなくなることを知っていて、認めたくないのではないか��
子供のままであろうと試みているなずなには大人の世界から催促がきて、決断できずにうじうじしている典道は彼女が覚悟を決めるまでの時間を稼げずゲームオーバーです。その度に、いや、そこはこうすればいいのか、と妄想しなおしたりしますが、女の子の気持ちがうまく想像できないことや、都会を知らないので想像できなかったり(うる星やつら2、アベノ橋☆魔法商店街、まどマギ劇場版)、御都合主義の結末に典道自身でも納得がいきません。
それでも諦めずに考え続けた典道は妄想の中で成長し、花火が平面じゃないこと、いずれ自分も大人にならざるをえないことを受け入れ、ついになずなともお別れすることに成功します。 無事妄想を終えることができた典道(なずな)は友達を残し一足早く妄想の世界から消えてエンドです。
基本的に以降の考察は以上の考えで進めていきます。
鑑賞二回目追記
最初の3回は確実に、もしも球を使う前、キーンという耳鳴りがしてますね。
おそらくこれが妄想の始まりなのではないでしょうか。耳鳴りの後にもしも球が画面に出てきます。
「なずな」は春の植物で、8月には咲きません。最初の「もしも」の少し前、草原に咲いているのはなずなだと思いますが、これは妄想説を裏づけます。
どうやら、アイドルシーンの回といい、なずなの「もしも」妄想も入っているみたいですね。もしも球の存在を知っているのはなずなと典道だけだし。
なずな回の女の子花火、典道はもしも球を投げようとしているのにわざわざ祐介が突き落としに来る。普通勝手に女の子とつきあっただけで灯台からその子ごと突き落としたりしません。思うに(なずなの妄想なので)心中でしょう。そのあとの典道回でアイドルシーン二回目の時、典道が引いている、怯えているような表情はそのためでしょう。
一回目は『家出』、二回目は『駆け落ち』、三回目は『心中』と、すべての選択肢��試してみているのでは。
なずなは典道が「どこに行けばいいかわからない!」というと楽しそうです。(人生において)なずなも同じなので、嬉しいんじゃないだろうか。
2 比喩の解釈
この話はいわゆるループものでも、並行世界ものでもないと思います。 ちょっとやそっとでは変わってくれない世界を主人公が努力して変えていくという話ではないし、 何よりおっぱいの大きさや球の大きさ、花火の形が現実ではありえない変化をしているからです。 めちゃめちゃご親切に提示してくれている「もしも」「if」という言葉からも、単に典道の頭の中なのだと思いますね。 友達が、灯台へ行く前に典道と祐介が一緒にいたことを知っているような口調なのもそもそもが典道の頭の中だからだし(原作では「あとは典道か〜」)、女子が憧れている世界(アイドル)の妄想がチャチくなってしまう(松田聖子のシーンのCG)のも典道が女の子の理想をよく知らないからです。
2-1 知っているであろうわけ
男子(典道)が花火の形を知っているだろうというのは、祐介の言動の二転三転がまず怪しいです。平べったいに決まっていると言った時も、出したうちわの例えが矛盾しています。
縦にうすい花火であるならば、下からみてもうすい花火であるはずです。 このうちわ問題は細かい指摘に見えますが、原作のラストで言及されている問題なので、タイトルが「正面から」ではなく「下から」のままである以上、意識的な矛盾でしょう。 作中でも階段の下に平行に落ちたうちわを祐介が見ているカットがなぜかあります。 祐介は花火が平面ではないことを受け入れたくない、確かめに灯台に行きたくないのです。 受け入れたくないよ〜と言うのが男子共通の暗黙のノリなので、 泳ぐのが早かったうえにマセてる典道が勝手に仲間の輪を抜けたことに祐介がもやもやするのは当たり前なのですね。せつねえ。
鑑賞二回目追記
うちわトリック、祐介が花火は平べったいと言ってうちわを投げた直後、典道はうちわを下から見ています。そこだけスロー。あとの祐介のシーンと合わせて、二人とも気づいた、もしくは違和感を持ったといえそう。
祐介は父から私立に行けと言われていたようです。
おそらく男子で遊びたくて、いつまでもつるんでいたくて、父親を突っぱねて公立に来ているのでしょう...せつねえ...
2-2 プール
ここでいう、泳ぐのが早かったというのは、成長のことを暗に示しています。 なずなと祐介と典道がプールで競争をする、これは成長の早さを競うレースな訳です。 早く大人になった方がなずなに告白できるし、一緒に駆け落ちできるわけです。 察するに、典道がターンでミスをしたのは、なずなの大人の体を見てこわくなったか、わざとか、または別のなにか大人になりたくない事件があってつまづいていたのではないでしょうか。
この場合プールというのはミニ人生、ミニ社会です。対比されるのは海ですね。
序盤、海の向こうを臨むなずな 大人にな��なければならないということを表すシーンですが、男子は海なんて見ずに、じゃれてるのが印象的です。 海と違って安全で、泳ぎを訓練できる、まんま義務教育の終わり、中学校のような意味です。 プールでは掃除をサボって泳ぎたがり、夏休みは遊びたがる男子たちの口から、海で泳ぎたいという言葉が出てきていなかったように思いますが、海は大人の世界だからです。 海で泳ぐのは怖いから、安全なプールで仕事を放棄して遊ぶ… なずなが寝ているシーン、片足を突っ込んでいますが、まさにモラトリアムに片足突っ込んでるわけです。(たぶん海で泳がないといけない、ちゃんと泳げるから、ちゃんと成長しているから)
打ち上げ花火は海の向こうで打ち上がりますが、おそらく未来の輝き的なことなのではないでしょうか。
自分が大人になることを認めたくない祐介にとって、灯台で花火をみるということは恐怖であったはずです。 現実を、未来の眩しさを直視しなければならない。だからこそ「平面に決まっている」なんてことを言って、行きたがらなかった。 でもみんな行ってしまう…みんな大人になろうとしているのに自分だけ子供でいるのは恥ずかしいし、怖いので、典道も残れよ〜と誘いますが振られるわけです。
レールは人生のメタファーとしてよく用いられますが、ここでもそうで、海に行きたくない二人は船ではなく電車で都会を目指すわけです。 海もレールも「大海原に漕ぎだす」「敷かれたレールの上を走る」みたいな感じでよく比喩に用いられます。 ですが、おそらく作中ではずるい手段なんじゃないでしょうか。お金を払ってる感じもしないし、16歳だと偽ってから乗ってるわけなので。大人の乗り物? 多分、この世界で大人になるには海の向こうへと、泳いで行かないといけないんでしょう。その訓練のためのプールです。
2-3 灯台と校舎
灯台も大事なシンボルで、海の向こうを見渡し、進むべき道を照らす役割です。 打ち上げ花火、正面から見るか?横から見るか?にならなかったのは、うちわトリックもありますが、この海を見渡す高さが必要だからでしょう。 灯台は、工事中の足場の描写もあり、まだ考察すべきところです。
灯台と同じく重要な建物が校舎です。 シャフトに有り勝ちな独特なデザインですが、すごく連想しやすい。 大事なのは円柱であることと、二つあることです。 平面(子供)が(年、勉強が)積み重なって立体(大人)になった形であると同時に、母性の象徴、おっぱいでもある。 おそらく学年が上がると上の階に進むはずです。おっぱいもそうですが、平面から立体へ進む場所なので。
鑑賞二回目追記
灯台が工事中であるのは、男根の比喩であるからと予想。
工事中の足場は皮を表している。
2-4 おっぱい
この作品の大事なモチーフであろうおっぱい。 冒頭でなずなのおっぱいが強調されたり、先生のおっぱいがバカでかかったりとめっちゃ出てきます。 花火同様、平面か球体かが重要です。 なずなはじめ、中学生女子のおっぱいは平面から膨らみを持ち、球状になる、なっている時期であると思います。
先生のおっぱいは、子供���保護する大人の、母性の象徴であると同時に相対的に典道の成長を示すアイテムになっているんだと思います。 もしもを繰り返し、花火大会に来ていた先生カップルと会った時、先生の胸が小さく、平べったくなっていましたね? わざわざ彼氏にセクハラさせてまで強調しています。 原作では胸の大きさは変わらない代わりに、最後に先生に、花火の形は平べったいはず、と言わせています。 どちらも成長していない特徴です。 これは少し複雑で、物語全体の救いというか、なずなの母親が大人の代表になることの否定なのではないだろうかと考えています。 ただ受け入れることが大人になるということじゃないよ、もしくは、大人になっても中身は子供で、受け入れられていない人もいるよ、ということでしょう。 デート中の先生は花火大会という場で、童心に帰っているということかもしれません。
もう一度観る時、なずな(となずなの母)のおっぱいが最初と最後で大きさが変わっていないか見ようと思っています。
あと、序盤で先生のおっぱいの大きさを男子が想像する?シーンがありますが、あまりにしつこいので、もしかしたら(後のシーンで先生のおっぱいが小さくなっていたことをふまえると)典道のループ、もしもの回数、階層とリンクしているんじゃないかと思ってます。 読み上げられていたのはD〜J?の7回。 もしも球の発動が7回であれば最初からもしもの世界、6回であれば最初は現実と捉えられたりするかなと… 典道が大人になればなるほど先生のおっぱいは(役割とともに)小さくなっていくのでは?
ラストシーン、教室での点呼でギリギリ先生のおっぱいのサイズが確認できないのは、あの世界がもしもの世界(妄想)か現実かをわからなくさせるためなのではないでしょうかね。
鑑賞二回目追記
回数、そんなに多くなかったですね...
カップ数、何かあるんだと思うんですが...
点呼のシーン、祐介は典道がいないことをあまり不思議に思っていないようです。むしろなにかむすっとしているように見えました。
3 声優と俳優
大人になろうとする主役二人の声が話題ですが、俳優や女優を使わずに声優を使って欲しいとの意見が多いようです。 個人的には全く違和感のない声で、演技もうまいし成功していると思いましたが、逆に考えて、なぜ脇役も実写の人にしなかったのかという疑問が生まれました。 しかもめっちゃ豪華。 実写の声の人は主役二人の他にもいてなずなの母親もそうです。 単に広告の意味合いなのであれば、なずなの母親よりかは祐介に実写キャストを当てるのが自然に思えます。
まだ考える余地はありますが、仮説として一つ考えていることは、 アニメと実写作品で、平面か立体かを対比しているのではないかということです。 大人になることを受け入れられている人物は平面ではない俳優や女優を起用しているのではないでしょうか。 違う世界の人物だよということをキャスティングから示唆しているのではないでしょうか…? かんがえすぎだろうか。
そう考えると、原作の実写作品の分岐、「もしも」作品だということも考えられてこないですか?? 「『打ち上げ花火』実写で見るか?アニメで見るか?」 平面で見るか、立体で見るかということです。 映像が花火だとすれば、立体の映像を見るか、平面のアニメを見るか���いうことですね。 無論、しつこいようですが、解釈は自由だし、アニメと実写どっちが優れているということでもなければ、 子供と大人どっちがいいという話でもないです。
鑑賞二回目追記
ラストの台詞、「観月ありさ〜」の直後に「それ前も聞いたよ」の台詞。
原作の分岐だと考えると、小ネタとして自然。
この解釈でラストを見ると、世界から消えたのはなずなと母親と典道という実写キャストです。 アニメーションで語られた妄想世界から厳しい現実世界に旅立ったと考えられないでしょうか…? (再婚相手…)
4 もしも球
おっぱいと花火、という球体を平面と見るか球体と見るかが重要であることは書きましたが、もう一つ、もしも球(他のレビューサイトでこう呼ばれているようなので)についても書こうと思います。
もしも球は妄想の産物です。 原作には出てこないし、登場も唐突で、仕組みも描写されない。時かけのようにルールや枷があるわけでもない。 妄想が進んで、大きく改変されればされるほどもしも球も大きくなります。 妄想の産物で、典道が考え出した、その名の通り「もしも(こんな)球(があったら)」ということなのではないでしょうか。 最終的に酔っ払い花火師に打ち上げられますが、もしかしたら、花火であっているのかもしれません。 今のところ、平べったい花火の(世界をつくる)尺球という解釈をしています。正直まだ考察が足りてないです。 典道が毎回花火を打ち上げていた、最初に投げた時、もしも球の爆発を横から見ていた、というのはなかなか好きですが。
以上の考察を以って、原題を引用すると、 「少年たちは打ち上げ花火が平面であって欲しかったけど、認めたくなくて、横からみたかったのにみることができずにいた」 という話だったのではないかと解釈しています。
鑑賞二回目追記
もしも球も平面が積み重なったような見た目をしている。
5 残された謎
まだまだ完成度の低い解釈で申し訳ないです。 残っている謎としては、風力発電機の羽の描写の意味、花火師がなぜ嘘をついたか、なずなを見てなぜうんこしたくなったか、でしょうか。 うんこは典道に告白のチャンスを与えるためとか思ってるんですがちょっとまだよくわからない。
しつこいようですが、僕の解釈はあくまで一例です。 解釈、楽しみ方は本当に人それぞれです。
ここ違うんじゃないか、などありましたらコメント?などお願いします。 後から編集する可能性があります。 よろしくお願いします。
鑑賞二回目追記
風車は時間のモチーフで良さそうです。
今までのシャフト作品から見ても、劇中の描写から見てもそうですね。
時計回り→正しい時間の進み方
反時計回り→回想へ
あと、これは初回から思っていたのですが、冒険のための荷物が否定されて笑われるのが切ないです。スタンドバイミーをやるにはおとなすぎるし、あんな冒険できっこないこともわかっているんじゃないかというようなことを思いました。
めちゃくちゃ重要なことを忘れていました。なずなの父親が亡くなった時にもしも球を持っているようですがなぜなのかわかりません。本当にこれはだれか教えて欲しい。幼いなずな?をおぶっている人物も母親に���見えないが...
あと、サイレンの音も何かあると思います。
鑑賞二回目追記
父親のシーンは心中か...?
追記 なずなが絶対的美少女であるべきだというようなレビューを見かけるんだけど、僕は思いません。原作版に比べて、なずなのミステリアスな感じを意図的に抜いていると思う。なずなに翻弄された男子の話ではなく、ともに何かを受け入れた典道となずなの話でいいと思う。特別なファムファタールではなくて、まるで別のアニメにも出てきそうな女の子(物語シリーズ戦場ヶ原)でいいのだと思ったんだけど、どうなんだろうか。やはり原作を見てからだと違うんだろうか。
追記2
(球体だと)わかっているけど認めたくない、の構図はラストもそうで、なずなの「また会えたら」みたいな台詞は、中1でよそに引っ越した相手と偶然また会って、付き合って、結婚する!といった、ことはまあおそらく、そんなことってないのわかってて、でもきっとあるって信じたい、ということなんですよ。あえないことはわかってるけど、でも信じてみてもいいじゃんという。
花火で言えば、球体だってわかってるけど、平面かもしれないってわくわくしてたいじゃん。
鑑賞二回目追記
ラストシーンはどうやらめちゃくちゃなハッピーエンドなのではないだろうか...
典道が告白しようとする前のなずなの台詞「また会えたら」的なやつは、おそらく原作と同じで、あえないことを知ってての、知らせるための、それでもそうだといいよね、そう思いたいよねという台詞だと思うのですが(だからこそ告白しておこうとする)(その少し前、俺はこの世界でなずなと一緒にいたい!の場面でなずなを見つめる典道と違い、なずなはドームの向こうを見つめている、受け入れている)、花火師がもしも球を打ち上げて世界の枷が壊れた時、典道がなずなとの未来を掴み取っていることを考えると、おそらく「君の名は。」を超える(主観)ハッピーエンドなのではないだろうか...結末のわかっている時かけと言ってもいいけど、おそらく再会するんじゃないでしょうか...
そうなると二度目のなずなの台詞「今度会えるのはどんな世界だろうね」は「未来で待ってて」的なことになる?なんかもっとうまく言える気がするのですが...
というか『妄想の世界』ではなく『現実の世界』で会おうよってことかな
あと、最初にもしも球を投げる前はなずなが「家出」と言っているのが気にかかる...以降は「駆け落ち」だと言い張るのに...
この映画、オタク以外にはわからない、みたいな分け方をして欲しくないな...
勢いで書いているので、不快に思うところもあると思いますが、お許しください...
誤字を除いて、極力編集せずに追記と言う形で書いていきたいと思います。
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