#[3:18]いばらとあ���みはあなたのために生むでしょう。あなたは畑の植物を食べなければならない。
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1:1]神が天と地を創造された当初、
[1:2]地は無形の空虚であり、暗闇が深層の顔を覆っていたのに対し、神からの風が水面に吹き荒れた。
[1:3]それから神は「光あれ」と言われました。そして光がありました。
[1:4]そして神は光が良かったのを見ました。そして神は光と闇を分けました。
[1:5]神は光の日と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。そして、夕方があり、朝、最初の日がありました。
[1:6]そして神は言われた、「水の中にドームを作り、水と水を分けさせなさい」。
[1:7]それで神はドームを作り、ドームの下にある水とドームの上にある水を分けました。そして、そうでした。
[1:8]神はドームスカイと呼ばれました。そして夕方があり、二日目は朝でした。
[1:9]そして神は言われた、「空の下の水が一つの場所に集められ、乾いた地が現われるように」。そして、そうでした。
[1:10]神は乾燥した土地を地球と呼び、集められた水を海と呼びました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:11]神は言われた、「地は草を生みなさい。種を産む植物、種を含む実を結ぶ地上のあらゆる種類の果樹」。そして、そうでした。
[1:12]地球は植物を生み出しました。植物はあらゆる種類の種を生み出し、あらゆる種類の木は種を含む実を結んでいます。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:13]そして夕方があり、三日目は朝でした。
[1:14]そして神は言った、「空のドームに昼と夜を分ける明かりを置いて、しるしと季節と日と年とにさせなさい。
[1:15]そして、それらを空のドームの光にして、地球に光を放ちましょう。」
[1:16]神は二つの大きな光を造りました。昼を支配する大きな光と夜を支配する小さな光、そして星です。
[1:17]神は彼らを空のドームに置き、地球に光を与えた。
[1:18]昼と夜を支配し、暗闇から光を分離します。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:19]そして夕方があり、四日目の朝があった。
[1:20]そして神は言った、「水が生き物の群れを生みだし、鳥が空の���ームを越えて地球上を飛ぶようにしましょう」。
[1:21]それで神は偉大な海の怪物と、水が群がるあらゆる種類のあらゆる生き物、そしてあらゆる種類の翼のある鳥を創造されました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:22]神は彼らに祝福を与えて、「実り豊かになり、海の水を増やし、水を満たし、鳥を地上で育てなさい」と言われた。
[1:23]そして夕方があり、五日目に朝があった。
[1:24]そして神は言った、「地はあらゆる種類の生き物を生むようにしよう。牛と忍び寄る物、あらゆる種類の地の野生動物。」そして、そうでした。
[1:25]神はあらゆる種類の地球の野生動物、あらゆる種類の牛、あらゆる種類の地面に忍び寄るすべてのものを造られました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:26]それから神は言った、「私たちの似姿に従って、私たちの姿に人類を作りましょう。海の魚、空の鳥、牛、そしてその上に彼らを支配させましょう。地球のすべての野生動物、そして地球に忍び寄るあらゆる忍び寄るものの上に。」
[1:27]それで神は人類を彼のイメージで、神のイメージで創造した。男性と女性が作成しました。
[1:28]神は彼らを祝福され、神は彼らに言われた、「実り豊かになり、地を満たし、地を征服し、海の魚と、空の鳥と、すべての生き物とを支配する。地球上を移動します。」
[1:29]神は言われた、「見よ、わたしはあなたに、すべての地の表面にある種を産むすべての植物、およびその実に種を含むすべての木をあなたに与えた。
[1:30]そして、地球のすべての獣、空のすべての鳥、そして地球上にcreepうすべてのもの、生命の息吹を持つすべてのものに、私はすべての緑の植物を食物に与えました。」そうだった。
[1:31]神は自分が作ったものすべてを見ました。実際、それはとても良かったです。そして夕方があり、6日目の朝がありました。
[2:1]こうして天と地は完成し、すべての群衆は完成した。
[2:2]そして、七日目に神は彼がした仕事を終え、七日目に彼がしたすべての仕事を休んだ。
[2:3]それで、神は七日目を祝福され、神を祝福しました。
[2:4]これらは、天と地が創造された時の世代です。主なる神が大地と天を造られた日に、
[2:5]畑の植物がまだ地上になく、畑の草がまだ芽を出していないとき-主なる神がそれを地上に降らせず、地上まで耕す者がいなかったから;
[2:6]しかし、小川が地球から上昇し、地面の表面全体に水をまく-
[2:7]それから主なる神は、地のちりから人を形成し、命の息を鼻孔に吸い込んだ。その男は生き物になりました。
[2:8]主なる神は東のエデンに庭を植えられた。そしてそこに彼は彼が形成した男を置きました。
[2:9]主なる神は、地上から、目にやさしく、食物に良いすべての木、庭の中にある命の木、善悪の知識の木を育てられた。
[2:10]エデンから川が流れ出て庭に水が行き、そこから川が分かれて4つの枝になります。
[2:11]最初の名前はピションです。それは金があるハビラの全地の周りを流れるものです。
[2:12]その土地の金は良い。 bdelliumとオニキスの石があります。
[2:13]第二の川の名前はギホンです。それはクッシュの全地を流れるものです。
[2:14]第三の川の名前は、アッシリアの東を流れるチグリスです。そして4番目の川はユーフラテス川です。
[2:15]主なる神はその人を取り、エデンの園に入れてそれを耕し、それを守った。
[2:16]そして神は主に命じられた、「あなたは庭のあらゆる木を自由に食べてもよい。
[2:17]しかし、善悪の知識の木からはあなたは食べてはならない。あなたがそれを食べる日には、あなたは死ぬであろう」。
[2:18]主なる神は言われた、「その人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼を彼のパートナーとして助手とする」。
[���集] 2:19それで、主なる神は、地上から野のすべての動物と、空のすべての鳥とを形成し、それらを人のところに連れて行って、彼らが何と呼ぶかを見させた。そして、その男があらゆる生き物と呼ぶものは何でも、それはその名前でした。
[2:20]男はすべての牛、空中の鳥、野のすべての動物に名前をつけた。しかし、男性にとって、彼のパートナーとしてのヘルパーは見つかりませんでした。
[編集] 2:21それで、神、主は深い眠りを人に降らせ、彼は眠った。それから彼はrib骨の一つを取り、肉でその場所を閉じました。
[2:22]そして、神、主がその男から取ったrib骨は、彼が女にして、その男に連れて来た。
[2:23]それから男は言った。「これはついに私の骨の骨であり、私の肉の肉です。これは女性と呼ばれるでしょう。
[2:24]それで男は父と母を離れて妻にしがみつき、彼らは一つの肉になります。
[2:25]その男とその妻は両方とも裸で、恥ずかしくない。
[3:1]さて、蛇は、主なる神が造られた他のどんな野生動物よりもcraftであった。彼は女性に言った、「神は「庭のどの木からも食べてはならない」と言ったのですか?」
[3:2]女は蛇に言った、「庭の木々の実を食べてもいい。
[3:3]しかし、神は言われた、「あなたは庭の真ん中にある木の実を食べてはならない。また、それに触れてはならない。さもないと死ぬ。 '"
[3:4]しかし、蛇は女性に言った、「あなたは死なない。
[3:5]神はあなたがそれを食べると目が開かれ、善と悪を知って神のようになることを知っています。」
[3:6]それで、女性は木が食物に良いこと、そしてそれが目に喜ばしいこと、そして木が一人の賢者を作ることを望んでいることを見たとき、その実を取って食べました。彼女はまた、夫と一緒にいた夫にいくつかを与え、彼は食べました。
[3:7]それから、両方の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。そして彼らはいちじくの葉を縫い合わせ、自分用にふんどしを作りました。
[3:8]彼らは夕風の時に庭で神の主が歩いている音を聞き、男とその妻は庭の木の間に神の主の臨在から身を隠した。
[3:9]しかし、神、主は人に呼ばわって、「どこにいるのか」と言われた。
[3:10]彼は言った、「庭であなたの音が聞こえた。私は裸だったので、怖かった。自分を隠した」。
[3:11]彼は言った、「だれがあなたが裸だとあなたに言ったのですか。あなたは私に食べないように命じた木から食べましたか」。
[3:12]男性は言った、「あなたが私と一緒にいた女性は、木から実をくれたので、食べました」。
[3:13]それから、神、主は女に言われた、「あなたはこれをどうしたのか」。女性は「蛇が私をだまして、食べました」と言いました。
[3:14]主なる神は蛇に言われた、「あなたはこれをしたので、あなたはすべての動物とすべての野生の生き物との間でのろわれている。あなたの腹の上に行き、あなたはあなたの人生のすべての日を食べなければならない」 。
[3:15]私はあなたと女性の間、そしてあなたの子孫と彼女の間に敵意を置きます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打ちます。」
[3:16]彼は女性に言った、「私は出産時にあなたの苦痛を大きく増します。痛みであなたは子供を産みますが、あなたの欲望はあなたの夫のためであり、彼はあなたを支配します。」
[3:17]彼は言った、「あなたはあなたの妻の声に耳を傾け、わたしがあなたに命じた木を食べたので、 『あなたはそれを食べてはならない』と呪われた。あなたの;あなたは苦労してあなたの人生のすべての日それを食べるものとします;
[3:18]いばらとあざみはあなたのために生むでしょう。あなたは畑の植物を食べなければならない。
[3:19]顔の汗で、地面に戻るまでパンを食べる。あなたは塵であり、塵に帰らなければならない。」
[3:20]その男は妻イブと名付けた。なぜなら彼女はすべての生きている母親だったからだ。
[3:21]主なる神は人とその妻のために皮の衣を作り、それを着た。
[3:22]主なる神は言われた、「見よ、人は善と悪とを知って、わたしたちのようになった。そして今、彼は手を伸ばして、命の木から取って食べ、永遠に生きる" -
[3:23]それで、主なる神は、彼をエデンの園から、彼が連れ出された地まで送られた。
[3:24]彼は男を追い出した。エデンの園の東に彼はケルビムと、命の木への道を守るために燃え上がり回る剣を置いた。
[4:1]今、その男は妻のイブを知っていたので、彼女はカインを考え出して、「主の助けを借りて男を産んだ」と言った。
[4:2]次に彼女は彼の兄弟アベルを産んだ。アベルは羊の番人であり、カインは地の耕うん機でした。
[4:3]カインは時間の経過とともに、地の実のささげ物を主にささげた。
[4:4]そしてアベルは、その群れの初子である脂肪分を持ち込んだ。そして、主はアベルと彼の捧げ物を尊敬していた、
[4:5]しかし、カインと彼の捧げ物については、彼には何の配慮もありませんでした。それでカインは非常に怒っていて、彼の表情は落ちました。
[4:6]主はカインに言われた、「どうしてあなたは怒っているのか。なぜあなたの表情が落ちたのか。
[4:7]うまくいけば、受け入れられませんか?そして、あなたがうまくいかなければ、罪はドアに潜んでいます。その欲望はあなたのためですが、あなたはそれをマスターしなければなりません。」
[4:8]カインは弟アベルに言った、「野原に出よう」。そして、彼らが野原にいたとき、カインは彼の兄弟アベルに対して立ち上がって、彼を殺しました。
[4:9]主はカインに言った、「あなたの兄弟アベルはどこにいるのか」。彼は言った、「私は知らない。私は私の弟の番人か?」
[4:10]主は言われた、「あなたは��をしたのですか。聞いてください。あなたの兄弟の血が地からわたしに叫びます
[4:11]そして今、��なたはあなたの手から兄弟の血を受け取るために口を開いた地面からのろわれています。
[4:12]あなたが地面に着くと、それはもはやあなたにその力を譲りません。あなたは地上で逃亡者であり、放浪者になります。」
[4:13]カインは主に言った、「私の罰は耐えることができないほど大きい!
[4:14]今日、あなたは私を土から追い出しました。そして、私はあなたの顔から隠されます。私は逃亡者であり、地球上の放浪者になります。
[4:15]それから主は彼に言われた、「そうではない!カインを殺す者は七度の復venに苦しむだろう」。そして、主はカインに印をつけられたので、彼の上に来た者はだれも彼を殺さない。
[4:16]カインは主の前を離れ、エデンの東のノドの地に定住した。
[4:17]カインは妻を知っていたので、彼女は妊娠してエノクを産んだ。彼は都市を建設し、息子エノクにちなんでエノクと名付けました。
[4:18]エノクに生まれたのはイラド。イラドはメフヤエルの父、メフヤエルはメトサエルの父、メトシャエルはラメクの父でした。
[4:19]ラメクは2人の妻を連れて行った。一人の名前はアダで、もう一人の名前はジラでした。
[4:20]アダはジャバルを産んだ。彼はテントに住んで家畜を飼っている人々の祖先でした。
[4:21]彼の兄弟の名前はジュバル。彼はly琴とパイプを演奏するすべての人々の祖先でした。
[4:22]ジラは、あらゆる種類の青銅と鉄の道具を作ったツバルカインを産んだ。トゥバルカインの妹はナアマでした。
[4:23]ラメクは妻に言った:「アダとジラ、私の声を聞いてください。あなたはラメクの妻たち、私の言うことを聞いてください。
[4:24]カインが7倍に復すれば、本当にラメクは77倍になります。」
[4:25]アダムは再び彼の妻を知り、彼女は息子を産んで彼にセスと名付けた。彼女は言った。
[4:26]セスにも息子が生まれ、エノシュと名付けました。その時、人々は主の名を呼び始めました。
#[3:4]しかし、蛇は女性に言った、「あなたは死なない。#[3:5]神はあなたがそれを食べると目が開かれ、善と悪を知って神のようになることを知っています。」#[3:6]それで、女性は木が食物に良いこと、そしてそれが目に喜ばしいこと、そして木が一人の賢者を作ることを望んでいることを見たとき、その実を取って食べました。彼女はまた、#[3:7]それから、両方の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。そして彼らはいちじくの葉を縫い合わせ、自分用にふんどしを作りました。#[3:8]彼らは夕風の時に庭で神の主が歩いている音を聞き、男とその妻は庭の木の間に神の主の臨在から身を隠した。#[3:9]しかし、神、主は人に呼ばわって、「どこにいるのか」と言われた。#[3:10]彼は言った、「庭であなたの音が聞こえた。私は裸だったので、怖かった。自分を隠した」。#[3:11]彼は言った、「だれがあなたが裸だとあなたに言ったのですか。あなたは私に食べないように命じた木から食べましたか」。#[3:12]男性は言った、「あなたが私と一緒にいた女性は、木から実をくれたので、食べました」。#[3:13]それから、神、主は女に言われた、「あなたはこれをどうしたのか」。女性は「蛇が私をだまして、食べました」と言いました。#[3:14]主なる神は蛇に言われた、「あなたはこれをしたので、あなたはすべての動物とすべての野生の生き物との間でのろわれている。あなたの腹の上に行き、あなたはあなたの人生のす#[3:15]私はあなたと女性の間、そしてあなたの子孫と彼女の間に敵意を置きます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打ちます。」#[3:16]彼は女性に言った、「私は出産時にあなたの苦痛を大きく増します。痛みであなたは子供を産みますが、あなたの欲望はあなたの夫のためであり、彼はあなたを支配します。」#[3:17]彼は言った、「あなたはあなたの妻の声に耳を傾け、わたしがあなたに命じた木を食べたので、 『あなたはそれを食べてはならない』と呪われた。あなたの;あなたは苦労してあな#[3:18]いばらとあざみはあなたのために生むでしょう。あなたは畑の植物を食べなければならない。#[3:19]顔の汗で、地面に戻るまでパンを食べる。あなたは塵であり、塵に帰らなければならない。」#[3:20]その男は妻イブと名付けた。なぜなら彼女はすべての生きている母親だったからだ。#[3:21]主なる神は人とその妻のために皮の衣を作り、それを着た。#[3:22]主なる神は言われた、「見よ、人は善と悪とを知って、わたしたちのようになった。そして今、彼は手を伸ばして、命の木から取って食べ、永遠に生きる#[1:2]地は無形の空虚であり、暗闇が深層の顔を覆っていたのに対し、神からの風が水面に吹き荒れた。#[1:3]それから神は「光あれ」と言われました。そして光がありました。#[1:4]そして神は光が良かったのを見ました。そして神は光と闇を分けました。#[1:5]神は光の日と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。そして、夕方があり、朝、最初の日がありました。#[1:6]そして神は言われた、「水の中にドームを作り、水と水を分けさせなさい」。#[1:7]それで神はドームを作り、ドームの下にある水とドームの上にある水を分けました。そして、そうでした。#[1:8]神はドームスカイと呼ばれました。そして夕方があり、二日目は朝でした。#[1:9]そして神は言われた、「空の下の水が一つの場所に集められ、乾いた地が現われるように」。そして、そうでした。#[1:10]神は乾燥した土地を地球と呼び、集められた水を海と呼びました。そして、神はそれが良いことを見ました。#[1:11]神は言われた、「地は草を生みなさい。種を産む植物、種を含む実を結ぶ地上のあらゆる種類の果樹」。そして、そうでした。#[1:12]地球は植物を生み出しました。植物はあらゆる種類の種を生み出し、あらゆる種類の木は種を含む実を結んでいます。そして、神はそれが良いことを見ました。
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1:1]神が天と地を創造された当初、
[1:2]地は無形の空虚であり、暗闇が深層の顔を覆っていたのに対し、神からの風が水面に吹き荒れた。
[1:3]それから神は「光あれ」と言われました。そして光がありました。
[1:4]そして神は光が良かったのを見ました。そして神は光と闇を分けました。
[1:5]神は光の日と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。そして、夕方があり、朝、最初の日がありました。
[1:6]そして神は言われた、「水の中にドームを作り、水と水を分けさせなさい」。
[1:7]それで神はドームを作り、ドームの下にある水とドームの上にある水を分けました。そして、そうでした。
[1:8]神はドームスカイと呼ばれました。そして夕方があり、二日目は朝でした。
[1:9]そして神は言われた、「空の下の水が一つの場所に集められ、乾いた地が現われるように」。そして、そうでした。
[1:10]神は乾燥した土地を地球と呼び、集められた水を海と呼びました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:11]神は言われた、「地は草を生みなさい。種を産む植物、種を含む実を結ぶ地上のあらゆる種類の果樹」。そして、そうでした。
[1:12]地球は植物を生み出しました。植物はあらゆる種類の種を生み出し、あらゆる種類の木は種を含む実を結んでいます。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:13]そして夕方があり、三日目は朝でした。
[1:14]そして神は言った、「空のドームに昼と夜を分ける明かりを置いて、しるしと季節と日と年とにさせなさい。
[1:15]そして、それらを空のドームの光にして、地球に光を放ちましょう。」
[1:16]神は二つの大きな光を造りました。昼を支配する大きな光と夜を支配する小さな光、そして星です。
[1:17]神は彼らを空のドームに置き、地球に光を与えた。
[1:18]昼と夜を支配し、暗闇から光を分離します。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:19]そして夕方があり、四日目の朝があった。
[1:20]そして神は言った、「水が生き物の群れを生みだし、鳥が空のドームを越えて地球上を飛ぶようにしましょう」。
[1:21]それで神は偉大な海の怪物と、水が群がるあらゆる種類のあらゆる生き物、そしてあらゆる種類の翼のある鳥を創造されました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:22]神は彼らに祝福を与えて、「実り豊かになり、海の水を増やし、水を満たし、鳥を地上で育てなさい」と言われた。
[1:23]そして夕方があり、五日目に朝があった。
[1:24]そして神は言った、「地はあらゆる種類の生き物を生むようにしよう。牛と忍び寄る物、あらゆる種類の地の野生動物。」そして、そうでした。
[1:25]神はあらゆる種類の地球の野生動物、あらゆる種類の牛、あらゆる種類の地面に忍び寄るすべてのものを造られました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:26]それから神は言った、「私たちの似姿に従って、私たちの姿に人類を作りましょう。海の魚、空の鳥、牛、そしてその上に彼らを支配させましょう。地球のすべての野生動物、そして地球に忍び寄るあらゆる忍び寄るものの上に。」
[1:27]それで神は人類を彼のイメージで、神のイメージで創造した。男性と女性が作成しました。
[1:28]神は彼らを祝福され、神は彼らに言われた、「実り豊かになり、地を満たし、地を征服し、海の魚と、空の鳥と、すべての生き物とを支配する。地球上を移動します。」
[1:29]神は言われた、「見よ、わたしはあなたに、すべての地の表面にある種を産むすべての植物、およびその実に種を含むすべての木をあなたに与えた。
[1:30]そして、地球のすべての獣、空のすべての鳥、そして地球上にcreepうすべてのもの、生命の息吹を持つすべてのものに、私はすべての緑の植物を食物に与えました。」そうだった。
[1:31]神は自分が作ったものすべてを見ました。実際、それはとても良かったです。そして夕方があり、6日目の朝がありました。
[2:1]こうして天と地は完成し、すべての群衆は完成した。
[2:2]そして、七日目に神は彼がした仕事を終え、七日目に彼がしたすべての仕事を休んだ。
[2:3]それで、神は七日目を祝福され、神を祝福しました。
[2:4]これらは、天と地が創造された時の世代です。主なる神が大地と天を造られた日に、
[2:5]畑の植物がまだ地上になく、畑の草がまだ芽を出していないとき-主なる神がそれを地上に降らせず、地上まで耕す者がいなかったから;
[2:6]しかし、小川が地球から上昇し、地面の表面全体に水をまく-
[2:7]それから主なる神は、地のちりから人を形成し、命の息を鼻孔に吸い込んだ。その男は生き物になりました。
[2:8]主なる神は東のエデンに庭を植えられた。そしてそこに彼は彼が形成した男を置きました。
[2:9]主なる神は、地上から、目にやさしく、食物に良いすべての木、庭の中にある命の木、善悪の知識の木を育てられた。
[2:10]エデンから川が流れ出て庭に水が行き、そこから川が分かれて4つの枝になります。
[2:11]最初の名前はピションです。それは金があるハビラの全地の周りを流れるものです。
[2:12]その土地の金は良い。 bdelliumとオニキスの石があります。
[2:13]第二の川の名前はギホンです。それはクッシュの全地を流れるものです。
[2:14]第三の川の名前は、アッシリアの東を流れるチグリスです。そして4番目の川はユーフラテス川です。
[2:15]主なる神はその人を取り、エデンの園に入れてそれを耕し、それを守った。
[2:16]そして神は主に命じられた、「あなたは庭のあらゆる木を自由に食べてもよい。
[2:17]しかし、善悪の知識の木からはあなたは食べてはならない。あなたがそれを食べる日には、あなたは死ぬであろう」。
[2:18]主なる神は言われた、「その人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼を彼のパートナーとして助手とする」。
[編集] 2:19それで、主なる神は、地上から野のすべての動物と、空のすべての鳥とを形成し、それらを人のところに連れて行って、彼らが何と呼ぶかを見させた。そして、その男があらゆる生き物と呼ぶものは何でも、それはその名前でした。
[2:20]男はすべての牛、空中の鳥、野のすべての動物に名前をつけた。しかし、男性にとって、彼のパートナーとしてのヘルパーは見つかりませんでした。
[編集] 2:21それで、神、主は深い眠りを人に降らせ、彼は眠った。それから彼はrib��の一つを取り、肉でその場所を閉じました。
[2:22]そして、神、主がその男から取ったrib骨は、彼が女にして、その男に連れて来た。
[2:23]それから男は言った。「これはついに私の骨の骨であり、私の肉の肉です。これは女性と呼ばれるでしょう。
[2:24]それで男は父と母を離れて妻にしがみつき、彼らは一つの肉になります。
[2:25]その男とその妻は両方とも裸で、恥ずかしくない。
[3:1]さて、蛇は、主なる神が造られた他のどんな野生動物よりもcraftであった。彼は女性に言った、「神は「庭のどの木からも食べてはならない」と言ったのですか?」
[3:2]女は蛇に言った、「庭の木々の実を食べてもいい。
[3:3]しかし、神は言われた、「あなたは庭の真ん中にある木の実を食べてはならない。また、それに触れてはならない。さもないと死ぬ。 '"
[3:4]しかし、蛇は女性に言った、「あなたは死なない。
[3:5]神はあなたがそれを食べると目が開かれ、善と悪を知って神のようになることを知っています。」
[3:6]それで、女性は木が食物に良いこと、そしてそれが目に喜ばしいこと、そして木が一人の賢者を作ることを望んでいることを見たとき、その実を取って食べました。彼女はまた、夫と一緒にいた夫にいくつかを与え、彼は食べました。
[3:7]それから、両方の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。そして彼らはいちじくの葉を縫い合わせ、自分用にふんどしを作りました。
[3:8]彼らは夕風の時に庭で神の主が歩いている音を聞き、男とその妻は庭の木の間に神の主の臨在から身を隠した。
[3:9]しかし、神、主は人に呼ばわって、「どこにいるのか」と言われた。
[3:10]彼は言った、「庭であなたの音が聞こえた。私は裸だったので、怖かった。自分を隠した」。
[3:11]彼は言った、「だれがあなたが裸だとあなたに言ったのですか。あなたは私に食べないように命じた木から食べましたか」。
[3:12]男性は言った、「あなたが私と一緒にいた女性は、木から実をくれたので、食べました」。
[3:13]それから、神、主は女に言われた、「あなたはこれをどうしたのか」。女性は「蛇が私をだまして、食べました」と言いました。
[3:14]主なる神は蛇に言われた、「あなたはこれをしたので、あなたはすべての動物とすべての野生の生き物との間でのろわれている。あなたの腹の上に行き、あなたはあなたの人生のすべての日を食べなければならない」 。
[3:15]私はあなたと女性の間、そしてあなたの子孫と彼女の間に敵意を置きます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打ちます。」
[3:16]彼は女性に言った、「私は出産時にあなたの苦痛を大きく増します。痛みであなたは子供を産みますが、あなたの欲望はあなたの夫のためであり、彼はあなたを支配します。」
[3:17]彼は言った、「あなたはあなたの妻の声に耳を傾け、わたしがあなたに命じた木を食べたので、 『あなたはそれを食べてはならない』と呪われた。あなたの;あなたは苦労してあなたの人生のすべての日それを食べるものとします;
[3:18]いばらとあざみはあなたのために生むでしょう。あなたは畑の植物を食べなければならない。
[3:19]顔の汗で、地面に戻るまでパンを食べる。あなたは塵であり、塵に帰らなければならない。」
[3:20]その男は妻イブと名付けた。なぜなら彼女はすべての生きている母親だったからだ。
[3:21]主なる神は人とその妻のために皮の衣を作り、それを着た。
[3:22]主なる神は言われた、「見よ、人は善と悪とを知って、わたしたちのようになった。そして今、彼は手を伸ばして、命の木から取って食べ、永遠に生きる" -
[3:23]それで、主なる神は、彼をエデンの園から、彼が連れ出された地まで送られた。
[3:24]彼は男を追い出した。エデンの園の東に彼はケルビムと、命の木への道を守るために燃え上がり回る剣を置いた。
[4:1]今、その男は妻のイブを知っていたので、彼女はカインを考え出して、「主の助けを借りて男を産んだ」と言った。
[4:2]次に彼女は彼の兄弟アベルを産んだ。アベルは羊の番人であり、カインは地の耕うん機でした。
[4:3]カインは時間の経過とともに、地の実のささげ物を主にささげた。
[4:4]そしてアベルは、その群れの初子である脂肪分を持ち込んだ。そして、主はアベルと彼の捧げ物を尊敬していた、
[4:5]しかし、カインと彼の捧げ物については、彼には何の配慮もありませんでした。それでカインは非常に怒っていて、彼の表情は落ちました。
[4:6]主はカインに言われた、「どうしてあなたは怒っているのか。なぜあなたの表情が落ちたのか。
[4:7]うまくいけば、受け入れられませんか?そして、あなたがうまくいかなければ、罪はドアに潜んでいます。その欲望はあなたのためですが、あなたはそれをマスターしなければなりません。」
[4:8]カインは弟アベルに言った、「野原に出よう」。そして、彼らが野原にいたとき、カインは彼の兄弟アベルに対して立ち上がって、彼を殺しました。
[4:9]主はカインに言った、「あなたの兄弟アベルはどこにいるのか」。彼は言った、「私は知らない。私は私の弟の番人か?」
[4:10]主は言われた、「あなたは何をしたのですか。聞いてください。あなたの兄弟の血が地からわたしに叫びます
[4:11]そして今、あなたはあなたの手から兄弟の血を受け取るために口を開いた地面からのろわれています。
[4:12]あなたが地面に着くと、それはもはやあなたにその力を譲りません。あなたは地上で逃亡者であり、放浪者になります。」
[4:13]カインは主に言った、「私の罰は耐えることができないほど大きい!
[4:14]今日、あなたは私を土から追い出しました。そして、私はあなたの顔から隠されます。私は逃亡者であり、地球上の放浪者になります。
[4:15]それから主は彼に言われた、「そうではない!カインを殺す者は七度の復venに苦しむだろう」。そして、主はカインに印をつけられたので、彼の上に来た者はだれも彼を殺さない。
[4:16]カインは主の前を離れ、エデンの東のノドの地に定住した。
[4:17]カインは妻を知っていたので、彼女は妊娠してエノクを産んだ。彼は都市を建設し、息子エノクにちなんでエノクと名付けました。
[4:18]エノクに生まれたのはイラド。イラドはメフヤエルの父、メフヤエルはメトサエルの父、メトシャエルはラメクの父でした。
[4:19]ラメクは2人の妻を連れて行った。一人の名前はアダで、もう一人の名前はジラでした。
[4:20]アダはジャバルを産んだ。彼はテントに住んで家畜を飼っている人々の祖先でした。
[4:21]彼の兄弟の名前はジュバル。彼はly琴とパイプを演奏するすべての人々の祖先でした。
[4:22]ジラは、あらゆる種類の青銅と鉄の道具を作ったツバルカインを産んだ。トゥバルカインの妹はナアマでした。
[4:23]ラメクは妻に言った:「アダとジラ、私の声を聞いてください。あなたはラメクの妻たち、私の言うことを聞いてください。
[4:24]カインが7倍に復すれば、本当にラメクは77倍になります。」
[4:25]アダムは再び彼の妻を知り、彼女は息子を産んで彼にセスと名付けた。彼女は言った。
[4:26]セスにも息子が生まれ、エノシュと名付けました。その時、人々は主の名を呼び始めました。
did you just send me the whole japanese bible.
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1:1]神が天と地を創造された当初、
[1:2]地は無形の空虚であり、暗闇が深層の顔を覆っていたのに対し、神からの風が水面に吹き荒れた。
[1:3]それから神は「光あれ」と言われました。そして光がありました。
[1:4]そして神は光が良かったのを見ました。そして神は光と闇を分けました。
[1:5]神は光の日と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。そして、夕方があり、朝、最初の日がありました。
[1:6]そして神は言われた、「水の中にドームを作り、水と水を分けさせなさい」。
[1:7]それで神はドームを作り、ドームの下にある水とドームの上にある水を分けました。そして、そうでした。
[1:8]神はドームスカイと呼ばれました。そして夕方があり、二日目は朝でした。
[1:9]そして神は言われた、「空の下の水が一つの場所に集められ、乾いた地が現われるように」。そして、そうでした。
[1:10]神は乾燥した土地を地球と呼び、集められた水を海と呼びました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:11]神は言われた、「地は草を生みなさい。種を産む植物、種を含む実を結ぶ地上のあらゆる種類の果樹」。そして、そうでした。
[1:12]地球は植物を生み出しました。植物はあらゆる種類の種を生み出し、あらゆる種類の木は種を含む実を結んでいます。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:13]そして夕方があり、三日目は朝でした。
[1:14]そして神は言った、「空のドームに昼と夜を分ける明かりを置いて、しるしと季節と日と年とにさせなさい。
[1:15]そして、それらを空のドームの光にして、地球に光を放ちましょう。」
[1:16]神は二つの大きな光を造りました。昼を支配する大きな光と夜を支配する小さな光、そして星です。
[1:17]神は彼らを空のドームに置き、地球に光を与えた。
[1:18]昼と夜を支配し、暗闇から光を分離します。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:19]そして夕方があり、四日目の朝があった。
[1:20]そして神は言った、「水が生き物の群れを生みだし、鳥が空のドームを越えて地球上を飛ぶようにしましょう」。
[1:21]それで神は偉大な海の怪物と、水が群がるあらゆる種類のあらゆる生き物、そしてあらゆる種類の翼のある鳥を創造されました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:22]神は彼らに祝福を与えて、「実り豊かになり、海の水を増やし、水を満たし、鳥を地上で育てなさい」と言われた。
[1:23]そして夕方があり、五日目に朝があった。
[1:24]そして神は言った、「地はあらゆる種類の生き物を生むようにしよう。牛と忍び寄る物、あらゆる種類の地の野生動物。」そして、そうでした。
[1:25]神はあらゆる種類の地球の野生動物、あらゆる種類の牛、あらゆる種類の地面に忍び寄るすべてのものを造られました。そして、神はそれが良いことを見ました。
[1:26]それから神は言った、「私たちの似姿に従って、私たちの姿に人類を作りましょう。海の魚、空の鳥、牛、そしてその上に彼らを支配させましょう。地球のすべての野生動物、そして地球に忍び寄るあらゆる忍び寄るものの上に。」
[1:27]それで神は人類を彼のイメージで、神のイメージで創造した。男性と女性が作成しました。
[1:28]神は彼らを祝福され、神は彼らに言われた、「実り豊かになり、地を満たし、地を征服し、海の魚と、空の鳥と、すべての生き物とを支配する。地球上を移動します。」
[1:29]神は言われた、「見よ、わたしはあなたに、すべての地の表面にある種を産むすべての植物、およびその実に種を含むすべての木をあなたに与えた。
[1:30]そして、地球のすべての獣、空のすべての鳥、そして地球上にcreepうすべてのもの、生命の息吹を持つすべてのものに、私はすべての緑の植物を食物に与えました。」そうだった。
[1:31]神は自分が作ったものすべてを見ました。実際、それはとても良かったです。そして夕方があり、6日目の朝がありました。
[2:1]こうして天と地は完成し、すべての群衆は完成した。
[2:2]そして、七日目に神は彼がした仕事を終え、七日目に彼がしたすべての仕事を休んだ。
[2:3]それで、神は七日目を祝福され、神を祝福しました。
[2:4]これらは、天と地が創造された時の世代です。主なる神が大地と天を造られた日に、
[2:5]畑の植物がまだ地上になく、畑の草がまだ芽を出していないとき-主なる神がそれを地上に降らせず、地上まで耕す者がいなかったから;
[2:6]しかし、小川が地球から上昇し、地面の表面全体に水をまく-
[2:7]それから主なる神は、地のちりから人を形成し、命の息を鼻孔に吸い込んだ。その男は生き物になりました。
[2:8]主なる神は東のエデンに庭を植えられた。そしてそこに彼は彼が形成した男を置きました。
[2:9]主なる神は、地上から、目にやさしく、食物に良いすべての木、庭の中にある命の木、善悪の知識の木を育てられた。
[2:10]エデンから川が流れ出て庭に水が行き、そこから川が分かれて4つの枝になります。
[2:11]最初の名前はピションです。それは金があるハビラの全地の周りを流れるものです。
[2:12]その土地の金は良い。 bdelliumとオニキスの石があります。
[2:13]第二の川の名前はギホンです。それはクッシュの全地を流れるものです。
[2:14]第三の川の名前は、アッシリアの東を流れるチグリスです。そして4番目の川はユーフラテス川です。
[2:15]主なる神はその人を取り、エデンの園に入れてそれを耕し、それを守った。
[2:16]そして神は主に命じられた、「あなたは庭のあらゆる木を自由に食べてもよい。
[2:17]しかし、善悪の知識の木からはあなたは食べてはならない。あなたがそれを食べる日には、あなたは死ぬであろう」。
[2:18]主なる神は言われた、「その人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼を彼のパートナーとして助手とする」。
[編集] 2:19それで、主なる神は、地上から野のすべての動物と、空のすべての鳥とを形成し、それらを人のところに連れて行って、彼らが何と呼ぶかを見させた。そして、その男があらゆる生き物と呼ぶものは何でも、それはその名前でした。
[2:20]男はすべての牛、空中の鳥、野のすべての動物に名前をつけた。しかし、男性にとって、彼のパートナーとしてのヘルパーは見つかりませんでした。
[編集] 2:21それで、神、主は深い眠りを人に降らせ、彼は眠った。それから彼はrib骨の一つを取り、肉でその場所を閉じました。
[2:22]そして、神、主がその男から取ったrib骨は、彼が女にして、その男に連れて来た。
[2:23]それから男は言った。「これはついに私の骨の骨であり、私の肉の肉です。これは女性と呼ばれるでしょう。
[2:24]それで男は父と母を離れて妻にしがみつき、彼らは一つの肉になります。
[2:25]その男とその妻は両方とも裸で、恥ずかしくない。
[3:1]さて、蛇は、主なる神が造られた他のどんな野生動物よりもcraftであった。彼は女性に言った、「神は「庭のどの木からも食べてはならない」と言ったのですか?」
[3:2]女は蛇に言った、「庭の木々の実を食べてもいい。
[3:3]しかし、神は言われた、「あなたは庭の真ん中にある木の実を食べてはならない。また、それに触れてはならない。さもないと死ぬ。 '"
[3:4]しかし、蛇は女性に言った、「あなたは死なない。
[3:5]神はあなたがそれを食べると目が開かれ、善と悪を知って神のようになることを知っています。」
[3:6]それで、女性は木が食物に良いこと、そしてそれが目に喜ばしいこと、そして木が一人の賢者を作ることを望んでいることを見たとき、その実を取って食べました。彼女はまた、夫と一緒にいた夫にいくつかを与え、彼は食べました。
[3:7]それから、両方の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。そして彼らはいちじくの葉を縫い合わせ、自分用にふんどしを作りました。
[3:8]彼らは夕風の時に庭で神の主が歩いている音を聞き、男とその妻は庭の木の間に神の主の臨在から身を隠した。
[3:9]しかし、神、主は人に呼ばわって、「どこにいるのか」と言われた。
[3:10]彼は言った、「庭であなたの音が聞こえた。私は裸だったので、怖かった。自分を隠した」。
[3:11]彼は言った、「だれがあなたが裸だとあなたに言ったのですか。あなたは私に食べないように命じた木から食べましたか」。
[3:12]男性は言った、「あなたが私と一緒にいた女性は、木から実をくれたので、食べました」。
[3:13]それから、神、主は女に言われた、「あなたはこれをどうしたのか」。女性は「蛇が私をだまして、食べました」と言いました。
[3:14]主なる神は蛇に言われた、「あなたはこれをしたので、あなたはすべての動物とすべての野生の生き物との間でのろわれている。あなたの腹の上に行き、あなたはあなたの人生のすべての日を食べなければならない」 。
[3:15]私はあなたと女性の間、そしてあなたの子孫と彼女の間に敵意を置きます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打ちます。」
[3:16]彼は女性に言った、「私は出産時にあなたの苦痛を大きく増します。痛みであなたは子供を産みますが、あなたの欲望はあなたの夫のためであり、彼はあなたを支配します。」
[3:17]彼は言った、「あなたはあなたの妻の声に耳を傾け、わたしがあなたに命じた木を食べたので、 『あなたはそれを食べてはならない』と呪われた。あなたの;あなたは苦労してあなたの人生のすべての日それを食べるものとします;
[3:18]いばらとあざみはあなたのために生むでしょう。あなたは畑の植物を食べなければならない。
[3:19]顔の汗で、地面に戻るまでパンを食べる。あなたは塵であり、塵に帰らなければならない。」
[3:20]その男は妻イブと名付けた。なぜなら彼女はすべての生きている母親だったからだ。
[3:21]主なる神は人とその妻のために皮の衣を作り、それを着た。
[3:22]主なる神は言われた、「見よ、人は善と悪とを知って、わたしたちのようになった。そして今、彼は手を伸ばして、命の木から取って食べ、永遠に生きる" -
[3:23]それで、主なる神は、彼をエデンの園から、彼が連れ出された地まで送られた。
[3:24]彼は男を追い出した。エデンの園の東に彼はケルビムと、命の木への道を守るために燃え上がり回る剣を置いた。
[4:1]今、その男は妻のイブを知っていたので、彼女はカインを考え出して、「主の助けを借りて男を産んだ」と言った。
[4:2]次に彼女は彼の兄弟アベルを産んだ。アベルは羊の番人であり、カインは地の耕うん機でした。
[4:3]カインは時間の経過とともに、地の実のささげ物を主にささげた。
[4:4]そしてアベルは、その群れの初子である脂肪分を持ち込んだ。そして、主はアベルと彼の捧げ物を尊敬していた、
[4:5]しかし、カインと彼の捧げ物については、彼には何の配慮もありませんでした。それでカインは非常に怒っていて、彼の表情は落ちました。
[4:6]主はカインに言われた、「どうしてあなたは怒っているのか。なぜあなたの表情が落ちたのか。
[4:7]うまくいけば、受け入れられませんか?そして、あなたがうまくいかなければ、罪はドアに潜んでいます。その欲望はあなたのためですが、あなたはそれをマスターしなければなりません。」
[4:8]カインは弟アベルに言った、「野原に出よう」。そして、彼らが野原にいたとき、カインは彼の兄弟アベルに対して立ち上がって、彼を殺しました。
[4:9]主はカインに言った、「あなたの兄弟アベルはどこにいるのか」。彼は言った、「私は知らない。私は私の弟の番人か?」
[4:10]主は言われた、「あなたは何をしたのですか。聞いてください。あなたの兄弟の血が地からわたしに叫びます
[4:11]そして今、あなたはあなたの手から兄弟の血を受け取るために口を開いた地面からのろわれています。
[4:12]あなたが地面に着くと、それはもはやあなたにその力を譲りません。あなたは地上で逃亡者であり、放浪者になります。」
[4:13]カインは主に言った、「私の罰は耐えることができないほど大きい!
[4:14]今日、あなたは私を土から追い出しました。そして、私はあなたの顔から隠されます。私は逃亡者であり、地球上の放浪者になります。
[4:15]それから主は彼に言われた、「そうではない!カインを殺す者は七度の復venに苦しむだろう」。そして、主はカインに印をつけられたので、彼の上に来た者はだれも彼を殺さない。
[4:16]カインは主の前を離れ、エデンの東のノドの地に定住した。
[4:17]カインは妻を知っていたので、彼女は妊娠してエノクを産んだ。彼は都市を建設し、息子エノクにちなんでエノクと名付けました。
[4:18]エノクに生まれたのはイラド。イラドはメフヤエルの父、メフヤエルはメトサエルの父、メトシャエルはラメクの父でした。
[4:19]ラメクは2人の妻を連れて行った。一人の名前はアダで、もう一人の名前はジラでした。
[4:20]アダはジャバルを産んだ。彼はテントに住んで家畜を飼っている人々の祖先でした。
[4:21]彼の兄弟の名前はジュバル。彼はly琴とパイプを演奏するすべての人々の祖先でした。
[4:22]ジラは、あらゆる種類の青銅と鉄の道具を作ったツバルカインを産んだ。トゥバルカインの妹はナアマでした。
[4:23]ラメクは妻に言った:「アダとジラ、私の声を聞いてください。あなたはラメクの妻たち、私の言うことを聞いてください。
[4:24]カインが7倍に復すれば、本当にラメクは77倍になります。」
[4:25]アダムは再び彼の妻を知り、彼女は息子を産んで彼にセスと名付けた。彼女は言った。
[4:26]セスにも息子が生まれ、エノシュと名付けました。その時、人々は主の名を呼び始めました。
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1:1]神が天と地を創造された当初、[1:2]地は無形の空虚であり、暗闇が深層の顔を覆っていたのに対し、神からの風が水面に吹き荒れた。[1:3]それから神は「光あれ」と言われました。そして光がありました。[1:4]そして神は光が良かったのを見ました。そして神は光と闇を分けました。[1:5]神は光の日と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。そして、夕方があり、朝、最初の日がありました。[1:6]そして神は言われた、「水の中にドームを作り、水と水を分けさせなさい」。[1:7]それで神はドームを作り、ドームの下にある水とドームの上にある水を分けました。そして、そうでした。[1:8]神はドームスカイと呼ばれました。そして夕方があり、二日目は朝でした。[1:9]そして神は言われた、「空の下の水が一つの場所に集められ、乾いた地が現われるように」。そして、そうでした。[1:10]神は乾燥した土地を地球と呼び、集められた水を海と呼びました。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:11]神は言われた、「地は草を生みなさい。種を産む植物、種を含む実を結ぶ地上のあらゆる種類の果樹」。そして、そうでした。[1:12]地球は植物を生み出しました。植物はあらゆる種類の種を生み出し、あらゆる種類の木は種を含む実を結んでいます。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:13]そして夕方があり、三日目は朝でした。[1:14]そして神は言った、「空のドームに昼と夜を分ける明かりを置いて、しるしと季節と日と年とにさせなさい。[1:15]そして、それらを空のドームの光にして、地球に光を放ちましょう。」[1:16]神は二つの大きな光を造りました。昼を支配する大きな光と夜を支配する小さな光、そして星です。[1:17]神は彼らを空のドームに置き、地球に光を与えた。[1:18]昼と夜を支配し、暗闇から光を分離します。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:19]そして夕方があり、四日目の朝があった。[1:20]そして神は言った、「水が生き物の群れを生みだし、鳥が空のドームを越えて地球上を飛ぶようにしましょう」。[1:21]それで神は偉大な海の怪物と、水が群がるあらゆる種類のあらゆる生き物、そしてあらゆる種類の翼のある鳥を創造されました。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:22]神は彼らに祝福を与えて、「実り豊かになり、海の水を増やし、水を満たし、鳥を地上で育てなさい」と言われた。[1:23]そして夕方があり、五日目に朝があった。[1:24]そして神は言った、「地はあらゆる種類の生き物を生むようにしよう。牛と忍び寄る物、あらゆる種類の地の野生動物。」そして、そうでした。[1:25]神はあらゆる種類の地球の野生動物、あらゆる種類の牛、あらゆる種類の地面に忍び寄るすべてのものを造られました。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:26]それから神は言った、「私たちの似姿に従って、私たちの姿に人類を作りましょう。海の魚、空の鳥、牛、そしてその上に彼らを支配させましょう。地球のすべての野生動物、そして地球に忍び寄るあらゆる忍び寄るものの上に。」[1:27]それで神は人類を彼のイメージで、神のイメージで創造した。男性と女性が作成しました。[1:28]神は彼らを祝福され、神は彼らに言われた、「実り豊かになり、地を満たし、地を征服し、海の魚と、空の鳥と、すべての生き物とを支配する。地球上を移動します。」[1:29]神は言われた、「見よ、わたしはあなたに、すべての地の表面にある種を産むすべての植物、およびその実に種を含むすべての木をあなたに与えた。[1:30]そして、地球のすべての獣、空のすべての鳥、そして地球上にcreepうすべてのもの、生命の息吹を持つすべてのものに、私はすべての緑の植物を食物に与えました。」そうだった。[1:31]神は自分が作ったものすべてを見ました。実際、それはとても良かったです。そして夕方があり、6日目の朝がありました。[2:1]こうして天と地は完成し、すべての群衆は完成した。[2:2]そして、七日目に神は彼がした仕事を終え、七日目に彼がしたすべての仕事を休んだ。[2:3]それで、神は七日目を祝福され、神を祝福しました。[2:4]これらは、天と地が創造された時の世代です。主なる神が大地と天を造られた日に、[2:5]畑の植物がまだ地上になく、畑の草がまだ芽を出していないとき-主なる神がそれを地上に降らせず、地上まで耕す者がいなかったから;[2:6]しかし、小川が地球から上昇し、地面の表面全体に水をまく-[2:7]それから主なる神は、地のちりから人を形成し、命の息を鼻孔に吸い込んだ。その男は生き物になりました。[2:8]主なる神は東のエデンに庭を植えられた。そしてそこに彼は彼が形成した男を置きました。[2:9]主なる神は、地上から、目にやさしく、食物に良いすべての木、庭の中にある命の木、善悪の知識の木を育てられた。[2:10]エデンから川が流れ出て庭に水が行き、そこから川が分かれて4つの枝になります。[2:11]最初の名前はピションです。それは金があるハビラの全地の周りを流れるものです。[2:12]その土地の金は良い。 bdelliumとオニキスの石があります。[2:13]第二の川の名前はギホンです。それはクッシュの全地を流れるものです。[2:14]第三の川の名前は、アッシリアの東を流れるチグリスです。そして4番目の川はユーフラテス川です。[2:15]主なる神はその人を取り、エデンの園に入れてそれを耕し、それを守った。[2:16]そして神は主に命じられた、「あなたは庭のあらゆる木を自由に食べてもよい。[2:17]しかし、善悪の知識の木からはあなたは食べてはならない。あなたがそれを食べる日には、あなたは死ぬであろう」。[2:18]主なる神は言われた、「その人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼を彼のパートナーとして助手とする」。[編集] 2:19それで、主なる神は、地上から野のすべての動物と、空のすべての鳥とを形成し、それらを人のところに連れて行って、彼らが何と呼ぶかを見させた。そして、その男があらゆる生き物と呼ぶものは何でも、それはその名前でした。[2:20]男はすべての牛、空中の鳥、野のすべての動物に名前をつけた。しかし、男性にとって、彼のパートナーとしてのヘルパーは見つかりませんでした。[編集] 2:21それで、神、主は深い眠りを人に降らせ、彼は眠った。それから彼はrib骨の一つを取り、肉でその場所を閉じました。[2:22]そして、神、主がその男から取ったrib骨は、彼が女にして、その男に連れて来た。[2:23]それから男は言った。「これはついに私の骨の骨であり、私の肉の肉です。これは女性と呼ばれるでしょう。[2:24]それで男は父と母を離れて妻にしがみつき、彼らは一つの肉になります。[2:25]その男とその妻は両方とも裸で、恥ずかしくない。[3:1]さて、蛇は、主なる神が造られた他のどんな野生動物よりもcraftであった。彼は女性に言った、「神は「庭のどの木からも食べてはならない」と言ったのですか?」[3:2]女は蛇に言った、「庭の木々の実を食べてもいい。[3:3]しかし、神は言われた、「あなたは庭の真ん中にある木の実を食べてはならない。また、それに触れてはならない。さもないと死ぬ。 '"[3:4]しかし、蛇は女性に言った、「あなたは死なない。[3:5]神はあなたがそれを食べると目が開かれ、善と悪を知って神のようになることを知っています。」[3:6]それで、女性は木が食物に良いこと、そしてそれが目に喜ばしいこと、そして木が一人の賢者を作ることを望んでいることを見たとき、その実を取って食べました。彼女はまた、夫と一緒にいた夫にいくつかを与え、彼は食べました。[3:7]それから、両方の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。そして彼らはいちじくの葉を縫い合わせ、自分用にふんどしを作りました。
Ik for a fact theres more but this is all I could fit.
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2024.08 不帰嶮(猿倉~白馬鑓温泉~天狗の頭)
天狗の頭からの絶景、これから通過する不帰キレットから唐松岳まで見える
日本三大キレットのひとつ、不帰キレット(不帰嶮)。2020, 2021年には一番むずかしい大キレットを攻略したのだが、やはり全部攻略してみたい。なにやら不穏な名前だが、想像の通り、昔この山域に入山した人々が帰ってこなかったから付いた名前だとか・・・。バリエーションルートのためもちろん難易度は高いが、その実態としてはキレットだからではなく、険しい崖登り要素によるものだった。
【1日目コースタイム】猿倉荘(1235)→小日向のコル(1355)→杓子沢(1435)→鑓沢(1455)→白馬鑓温泉(1515)
お盆が始まる直前の金曜日、白馬駅から猿倉へのバスは自分含めて2名だけ。前回猿倉を訪れたのは2019年と5年前で懐かしい。今年は高温だったり、昨年の降雪が少なかったりと白馬大雪渓はクレバス多数で通行不可。なので今年猿倉に来る人達はみんな鑓温泉経由で白馬岳や不帰キレットへ向かうことになる。
はじめはハイキングのような緩やかな傾斜だが、ずっと樹林帯が続き無風、気温は25度以上はあるか、めちゃくちゃ暑くて汗が大量に。60分は耐える時間。
80分くらい殺風景で過酷な樹林帯を抜けると、視界が少しひらけて湿原のような場所に出る(小日向のコル付近)そこまで広大ではなく、見えている範囲より少し広いくらいか。
前方にまだ大きく残った雪渓が見えてきた。8月上旬でもまだあんなに残っているか。本日の宿の白馬鑓温泉はあんな雪渓を3回くらい通過した先にあった(雪渓上を歩いたわけではない)。
雪渓の雪解け水がながれる沢を何度も通過する。ここは杓子沢で、このあとの沢を含め水量は一番多かった。水が冷たく、火照ったからだを冷やして気持ちいい。
杓子沢を渡って振り返る。(先程は自分もいたが)巨岩の上に何人か、これから同じく白馬鑓温泉に宿泊する中国人の団体さん。
ハイペースだったか、2.5時間歩きようやく白馬鑓温泉が見えてきた(写真右上に小さく)。登山開始時間が遅かったため、少し早めにとは意識していた。
樹林帯から抜けているのである程度風は通るが、それでもやはり暑い。そんな中でいたるところに沢が流れて見ていて気持ちいい。
中でも温泉直下の雪渓は冷気のためか雲みたいなのできてたし、ここらへんに来てようやく気温的にも気持ちよく感じるようになってきた。
この一帯はお花畑すごい!なんだろうと思って帰って調べてみたが、ミヤマキンポウゲとシナノキンバイのどちらかと分かったけど、写真見比べても2種の違いがマジでわからん・・・。たぶんミヤマキンポウゲの群生。
長い雪渓が削られてる
約3時間で温泉着、標高2100mの山の中にあり、一般の観光客が到達することはまずない山の中の温泉、全国でも珍しいだろう。周囲はほのかに硫化水素の(温泉の)匂いがする。入浴は裸でも問題ないが、みんな水着もってきてるな、知らなかった。露天風呂は男女混浴なので、女性は100%水着。一方で女性専用の内風呂も1つある。宿泊者は無料だがそうでなければ入浴料1500円。けっこう熱い41度くらいか?当然だが源泉かけ流し。とりあえず一回汗を流すため露天に浸かる。今日はかなり雲が湧いていてあまり景色よくないが、晴れていればすごいんだろうな。
足湯もある。一度露天風呂に入って以降はずっと足湯に入っていた。露天はやはりちょっと熱い、足湯は少しだけ温度が低く、周囲も涼しくなってきたので無限に浸かっていられる。
1740夕食(二回目の回)。ハヤシライスは美味しかった、山で食べるならカレーよりいいかも。ご飯後は足湯。太陽はすでに落ちているが19時に雲が晴れ、遠くに妙高火打、高妻山のシルエット。気温は20度きってるため上に何か羽織らないと肌寒いのだが、足湯のおかげで心地よい。温泉の流れる音も心地よい。周囲は暗く、灯りは露天風呂のライトだけ。お湯の流れる音が聞こえるだけの静かな山奥。
【2日目】
朝0500起床。朝食1回目は0500だが、自分は2回目の0530から。昨日はガスに覆われていたけど朝はいい景色だ。こんな景色見ながら温泉入れるというのがすごいよな。
【コースタイム】白馬鑓温泉(0600)→大出原(0710)→鑓温泉分岐(0740)→天狗山荘(0800-0815)→天狗ノ頭(0830)
朝イチの登りにしては傾斜がキツイ。それだけでなくゴーロ帯であったり、大したことはないのだが鎖もちらほら。気温18度くらいとまだ涼しいはずだが、夏の太陽の日差しがすでに暑い、まだ朝の6時だというのに!
下から湧き上がる雲が少しずつ高度を上げてきている。巻かれないようにと思ったが、自分の足なら雲より早いみたいで一応心配ない。しかしこの日差しの暑さ、むしろ雲に巻かれてもいいような?徐々に雲海みたいになってきた。
しばらくは樹林だが、40分登ると森林限界を超え、稜線が見え始める。けっこう荒々しいがこの青空と山並み、夏の北アルプスにやっと帰ってきた感じ!いろんな種類の高山植物もキレイで、白馬岳周辺といえばどちらかと言えばやはり大雪渓の上あがりが有名かもだけど、同じ山域ということもあり、こっちもなかなか劣っていない。
・・・さて、まずはその見えている稜線まで到達しなくてはならない、景色は格段に良くなったからテンション上がっているが、それでもけっこう長いなあ。中央に先行者1名。
遠くには八ヶ岳(左)とそのすぐ右に富士山(てっぺんがほんの少しだけ)、中央アルプスか?
地道に高度を上げていく。コマクサが一鉢だけ生えているの発見。周囲には一切生えてないのになんでここだけに?
稜線への最後の登り。中央やや右に先行者。
通ってきた道、下界は少し雲海の様。
100分でようやく稜線上まで上がってきた、温泉からの標高差700m!まず目に入ってくるのは迫るような巨大な白馬鑓ヶ岳。山頂に人が何人かいるのが見える。今まで無風〜そよ風程度だったのが、ちゃんと風が通って益々気持ちいい。
そして剱岳と縦走路、北アルプスの縦走路といえばこれだよこれ!まだ7時半だけど、おそらく山頂立っている人いるだろうな、あっちの山頂もいい天気そうで良かったね。
稜線上に出てきてから天狗山荘まではすぐそこ20分、白馬鑓温泉からは2時間。漆黒のカッコいい山小屋で少し休憩。こんな標高高い(2726m)稜線上の小屋なのに水が無料だって、すごい。天水ではなく沢水汲んでいるとのこと。
そこからは最高の稜線歩き。
小屋から15分歩くと天狗の頭、ここが今回の旅の最高峰2809m。前泊地の白馬鑓温泉からの標高差800m、猿倉登山口からだと標高差1400m。ここから見える唐松岳方面の景色が最高(冒頭の写真)。そしていよいよ不帰キレットへ突入していく。
続く
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1:1]神が天と地を創造された当初、[1:2]地は無形の空虚であり、暗闇が深層の顔を覆っていたのに対し、神からの風が水面に吹き荒れた。[1:3]それから神は「光あれ」と言われました。そして光がありました。[1:4]そして神は光が良かったのを見ました。そして神は光と闇を分けました。[1:5]神は光の日と呼ばれ、闇は夜と呼ばれました。そして、夕方があり、朝、最初の日がありました。[1:6]そして神は言われた、「水の中にドームを作り、水と水を分けさせなさい」。[1:7]それで神はドームを作り、ドームの下にある水とドームの上にある水を分けま
した。そして、そうでした。[1:8]神はドームスカイと呼ばれました。そして夕方があり、二日目は朝でした。[1:9]そして神は言われた、「空の下の水が一つの場所に集められ、乾いた地が現われるように」。そして、そうでした。[1:10]神は乾燥した土地を地球と呼び、集められた水を海と呼びました。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:11]神は言われた、「地は草を生みなさい。種を産む植物、種を含む実を結ぶ地上のあらゆる種類の果樹」。そして、
そうでした。[1:12]地球は植物を生み出しました。植物はあらゆる種類の種を生み出し、あらゆる種類の木は種を含む実を結んでいます。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:13]そして夕方があり、三日目は朝でした。[1:14]そして神は言った、「空のドームに昼と夜を分ける明かりを置いて、しるしと季節と日と年とにさせなさい。[1:15]そして、それらを空のドームの光にして、地球に光を放ちましょう。」[1:16]神は二つの大きな光を造りました。昼を支配する大きな光と夜を支配する小さな光、そして星です。[1:17]神は彼らを空のドームに置き、地球に光を
与えた。[1:18]昼と夜を支配し、暗闇から光を分離します。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:19]そして夕方があり、四日目の朝があった。[1:20]そして神は言った、「水が生き物の群れを生みだし、鳥が空のドームを越えて地球上を飛ぶようにしましょう」。[1:21]それで神は偉大な海の怪物と、水が群がるあらゆる種類のあらゆる生き物、そしてあらゆる種類の翼のある鳥を創造されました。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:22]神は彼らに祝福を与えて、「実り豊かになり、海の水を増やし、水を満たし、鳥を地上で育てなさい」と言われた。[1:23]そして夕方があり、五日目に朝があった。[1:24]そして神は言った、「地はあらゆる種類の
生き物を生むようにしよう。牛と忍び寄る物、あらゆる種類の地の野生動物。」そして、そうでした。[1:25]神はあらゆる種類の地球の野生動物、あらゆる種類の牛、あらゆる種類の地面に忍び寄るすべてのものを造られました。そして、神はそれが良いことを見ました。[1:26]それから神は言った、「私たちの似姿に従って、私たちの姿に人類を作りましょう。海の魚、空の鳥、牛、そしてその上に彼らを支配させましょう。地球のすべての野生動物、そして地球に忍び寄るあらゆる忍び寄るものの上に。」[1:27]それで神は人類を彼のイメージで、神のイメージ
創造した。男性と女性が作成しました。[1:28]神は彼らを祝福され、神は彼らに言われた、「実り豊かになり、地を満たし、地を征服し、海の魚と、空の鳥と、すべての生き物とを支配する。地球上を移動します。」[1:29]神は言われた、「見よ、わたしはあなたに、すべての地の表面にある種を産むすべての植物、およびその実に種を含むすべての木をあなたに与えた。[1:30]そして、地球のすべての獣、空のすべ
ての鳥、そして地球上にcreepうすべてのもの、生命の息吹を持つすべてのものに、私はすべての緑の植物を食物に与えました。」そうだった。[1:31]神は自分が作ったものすべてを見ました。実際、それはとても良かったです。そして夕方があり、6日目の朝がありました。[2:1]こうして天と地は完成し、すべての群衆は完成した。[2:2]そして、七日目に神は彼がした仕事を終え、七日目に彼がしたすべての
仕事を休んだ。[2:3]それで、神は七日目を祝福され、神を祝福しました。[2:4]これらは、天と地が創造された時の世代です。主なる神が大地と天を造られた日に、[2:5]畑の植物がまだ地上になく、畑の草がまだ芽を出していないとき-主なる神がそれを地上に降らせず、地上まで耕す者がいなかったから;[2:6]しかし、小川が地球から上昇し、地面の表面全体に水をまく-[2:7]それから主なる神は、地のちりから人を形成し、命の息を鼻孔に吸い込んだ。その男は生き物になりました。[2:8]主なる神は東のエデンに庭を植えられた。そしてそこに彼は彼が形成した男を置きました。[2:9]主なる神は、地上
から、目にやさしく、食物に良いすべての木、庭の中にある命の木、善悪の知識の木を育てられた。[2:10]エデンから川が流れ出て庭に水が行き、そこから川が分かれて4つの枝になります。[2:11]最初の名前はピションです。それは金があるハビラの全地の周りを流れるものです。[2:12]その土地の金は良い。 bdelliumとオニキスの石があります。[2:13]第二の川の名前はギホンです。それはクッシュの全地を流れるものです。[2:14]第三の川の名前は、アッシリアの東を流れるチグリスです。そして4番目の川はユーフラテス川です。[2:15]主なる神はその人を取り、エデンの園に入れてそれを耕し、それを守った。[2:16]そして神は主に命じられた、「あなたは庭
のあらゆる木を自由に食べてもよい。[2:17]しかし、善悪の知識の木からはあなたは食べてはならない。あなたがそれを食べる日には、あなたは死ぬであろう」。[2:18]主なる神は言われた、「その人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼を彼のパートナーとして助手とする」。[編集] 2:19それで、主なる神は、地上から野のすべての動物と、空のすべての鳥とを形成し、それらを人のところに連れて行って、彼らが何と呼ぶかを見させた。そして、その男があらゆる生き物と呼ぶものは何でも、それはその名前でした。[2:20]男はすべての牛、空中の鳥、野のすべての動物に名前をつけた。しかし、男性にとって、彼のパートナーとしてのヘルパーは見つかりませんでした。[編集] 2:21それで、神、主は深い眠りを人に降らせ、彼は眠った。それから彼はrib骨の一つを取り、肉でその場所を閉じました。[2:22]そして、神、主がその男から取ったrib骨は、彼が女にして、その男に連れて来た。[2:23]それから男は言った。「これはついに私の骨の骨であり、私の肉の肉です。これは女性と呼ばれるでしょう。[2:24]それで男は父と母を離れて妻にしがみつき、彼らは一つの肉になります。[2:25]その男とその妻は両方とも裸で、
恥ずかしくない。[3:1]さて、蛇は、主なる神が造られた他のどんな野生動物よりもcraftであった。彼は女性に言った、「神は「庭のどの木からも食べてはならない」と言ったのですか?」[3:2]女は蛇に言った、「庭の木々の実を食べてもいい。[3:3]しかし、神は言われた、「あなたは庭の真ん中にある木の実を食べてはならない。また、それに触れてはならない。さもないと死ぬ。 '"[3:4]しかし、蛇は女性に言った、「あなたは死なない。[3:5]神はあなたがそれを食べると目が開かれ、善と悪を知って神のようになることを知っています。」[3:6]それで、女性は木が食物に良いこと、そしてそれが目に喜ばしいこ
と、そして木が一人の賢者を作ることを望んでいることを見たとき、その実を取って食べました。彼女はまた、夫と一緒にいた夫にいくつかを与え、彼は食べました。[3:7]それから、両方の目が開かれ、彼らは自分たちが裸であることを知った。そして彼らはいちじくの葉を縫い合わせ、自分用にふんどしを作りました。[3:8]彼らは夕風の時に庭で神の主が歩いている音を聞き、男とその妻は庭の木の間に神の主の臨在から身を隠した。[3:9]しかし、神、主は人に呼ばわって、「どこにいるのか」と言われた。[3:10]彼は言った、「庭であなたの音が聞こえた。私は裸だったので、怖かった。自分を隠した」。[3:11]彼は言った、「だれがあなたが裸だとあな
たに言ったのですか。あなたは私に食べないように命じた木から食べましたか」。[3:12]男性は言った、「あなたが私と一緒にいた女性は、木から実をくれたので、食べました」。[3:13]それから、神、主は女に言われた、「あなたはこれをどうしたのか」。女性は「蛇が私をだまして、食べました」と言いました。[3:14]主なる神は蛇に言われた、「あなたはこれをしたので、あなたはすべての動物とすべての野生の生き物との間でのろわれている。あなたの腹の上に行き、あなたはあなたの人生のすべての日を食べなければならない」 。[3:15]私はあなたと女性の間、そし.
てあなたの子孫と彼女の間に敵意を置きます。彼はあなたの頭を打ち、あなたは彼のかかとを打ちます。」[3:16]彼は女性に言った、「私は出産時にあなたの苦痛を大きく増します。痛みであなたは子供を産みますが、あなたの欲望はあなたの夫のためであり、彼はあなたを支配します。」[3:17]彼は言った、「あなたはあなたの妻の声に耳を傾け、わたしがあなたに命じた木を食べたので、 『あなたはそれを食べてはならない』と呪われた。あなたの;あなたは苦労してあなたの人生のすべての日それを食べるものとします;[3:18]いばらとあざみはあなたのために生むでしょう。あなたは畑の植物を食べなければならない。[3:19]顔の汗で、地面に戻るまでパンを食べる。あなたは塵であり、塵に帰らなければならない。」[3:20]その男は妻イブと名付けた。なぜなら彼女はすべての生きている母親だったからだ。[3:21]主なる神は人とその妻のために皮の衣を作り、それを
着た。[3:22]主なる神は言われた、「見よ、人は善と悪とを知って、わたしたちのようになった。そして今、彼は手を伸ばして、命の木から取って食べ、永遠に生きる" -[3:23]それで、主なる神は、彼をエデンの園から、彼が連れ出された地まで送られた。[3:24]彼は男を追い出した。エデンの園の東に彼はケルビムと、命の木への道を守るために燃え上がり回る剣を置いた。[4:1]今、その男は妻のイブを知っていたので、彼女はカインを考え出して、「主の助けを借りて男を産んだ」と言った。[4:2]次に彼女は彼の兄弟アベルを産んだ。アベルは羊の番人であり、カインは地の耕うん機でした。[4:3]カインは時間の経過とともに、地の実のささげ物を主にささげた。[4:4]そしてアベルは、その群れの初子である脂肪分を持ち込んだ。そして、主はアベルと彼の捧げ物を尊敬していた、[4:5]しかし、カインと彼の捧げ物については、彼には何の配慮もありません
でした。それでカインは非常に怒っていて、彼の表情は落ちました。[4:6]主はカインに言われた、「どうしてあなたは怒っているのか。なぜあなたの表情が落ちたのか。[4:7]うまくいけば、受け入れられませんか?そして、あなたがうまくいかなければ、罪はドアに潜んでいます。その欲望はあなたのためですが、あなたはそれをマスターしなければなりません。」[4:8]カインは弟アベルに言った、「野原に出よう」。そして、彼らが野原にいたとき、カインは彼の兄弟アベルに対して立ち上がって、彼を殺しました。[4:9]主はカインに言った、「あなたの兄弟アベルはどこにいるのか」。彼は言った、「私は知らない。私は私の弟の番人か?」[4:10]主は言われた、「あなたは何をしたのですか。聞いてください。あなたの兄弟の血が地からわたしに叫びます[4:11]そして今、あなたはあなたの手から兄弟の血を受け取るために口を開いた地面からのろわれています。[4:12]あ
なたが地面に着くと、それはもはやあなたにその力を譲りません。あなたは地上で逃亡者であり、放浪者になります。」[4:13]カインは主に言った、「私の罰は耐えることができないほど大きい![4:14]今日、あなたは私を土から追い出しました。そして、私はあなたの顔から隠されます。私は逃亡者であり、地球上の放浪者になります。[4:15]それから主は彼に言われた、「そうではない!カインを殺す者は七度の復venに苦しむだろう」。そして、主はカインに印をつけられたので、彼の上に来た者はだれも彼を殺さない。[4:16]カインは主の前を離れ、エデンの東のノドの地に定住した。[4:17]カインは妻を知っていたので、彼女は妊娠してエノクを産んだ。彼は都市を建設し、息子エノクにちなんでエノクと名付けました。[4:18]エノクに生まれたのはイラド。イラドはメフヤエルの父、メフヤエルはメトサエルの父、メトシャエルはラ���クの父でした。[4:19]ラメクは2人の妻を連れて行った。一人の名前はアダで、もう
一人の名前はジラでした。[4:20]アダはジャバルを産んだ。彼はテントに住んで家畜を飼っている人々の祖先でした。[4:21]彼の兄弟の名前はジュバル。彼はly琴とパイプを演奏するすべての人々の祖先でした。[4:22]ジラは、あらゆる種類の青銅と鉄の道具を作ったツバルカインを産んだ。トゥバルカインの妹はナアマでした。[4:23]ラメクは妻に言った:「アダとジラ、私の声を聞いてください。あなたはラメクの妻たち、私の言うことを聞いてください。[4:24]カインが7倍に復すれば、本当にラメクは77倍になります。」[4:25]アダムは再び彼の妻を知り、彼女は息子を産んで彼にセスと名付けた。彼女は言った。[4:26]セスにも息子が生まれ、エノシュと名付けました。その時、人々は主の名を呼び始めました。
-🐙
Will ya date me? Breath if yes! Recite the bible in Japanese (or just ignore) if no!
I’m desperate for a rq partner :333
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2021/05/23 聖日礼拝
説教題:創世記(18)神様を礼拝する信仰
聖書:創世記12:1〜9
讃美:新聖歌3、20
主の聖なる御名を崇めます。
牧師の突然の入院のため、ここのホームページに説教文をアップさせていただくことになりました。これをお読みになる方やおうちでネット礼拝をささげる方々に神様の豊かな恵みがありますようお祈り申し上げます。
私たちは創世記を学んでいます。第12章に来て、神様がアブラムに行われたことを学びました。神様はアブラムに信仰をお与えになりました。その信仰とは次のようなものです。
一、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着る
二、神様の命令に従う
今日は、これに続いて「神様を礼拝する信仰」について学びましょう。
まず、礼拝とは何ですか?色々の言葉で表すことができると思いますが、今日の聖書箇所から教えられることがあります。アブラムの行動からです。「礼拝とは、神様を求めること」です。神様はアブラムにこのような信仰をお与えになりました。
まず、12:7を読みましょう。
主はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8も読みましょう。
彼は、そこからベテルの東にある山の方に移動して、天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は、そこに主のための祭壇を築き、主の御名を呼び求めた。
アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築きました。それから、しばらく経ってベテルの東にある山の方に移動して天幕を張りました。この時、アブラムはまだ遊牧状態だったことがわかります。
では、アブラムが祭壇を築いた目的は何ですか?それはいけにえの動物を神様��献げるためです。いけにえの動物を神様に献げる行動は、旧約聖書に現れる「礼拝の行為」です。神様を礼拝する者が、感謝の意味として、あるいは罪の贖いの意味として、いけにえの動物を神様に献げます。
それから、7、8節に直接に書かれているように、祭壇を築いた目的は「主のため」であることがわかります。
こういうことから、アブラムが祭壇を築いたという表現は、「神様を礼拝した」、或いは「神様を求めた」、「神様を覚えた」と言い換えられるのではないでしょうか。即ち、アブラムはカナンに着いて、神様を覚え、求め、礼拝したということになります。神様がアブラムにお与えになった信仰は、神様を覚える信仰、神様を呼び求める信仰、神様を礼拝する信仰です。これはまた、神様を恐れる信仰と言えます。
異教の地に住んでいたアブラム、神様を知らなかったアブラムをお召しになり、彼をイスラエル民族の始祖としてくださった神様は、彼に神様を礼拝する信仰をお与えになりました。彼がカナンの地に着いて、一番最初に行った主な事は、祭壇を築くこと、すなわち礼拝でした。長い旅をして来た彼とその家族、まだ遊牧民のような生活が続く中で、彼は2回も祭壇を築きました。言い過ぎかもしれませんが、彼は行く所々で神様を礼拝したということでしょう。神様を覚え、求め、恐れている彼の信仰の様子が良く現れています。
このような信仰を私たちに適用していただきたいです。アブラムに神様を礼拝する信仰をお与えになった神様は、同じく私たちにもお与えになりました。では、私たちは神様からいただいた「神様を礼拝する信仰」をどのように行っているのでしょうか。自分の信仰をかえりみていただきたいです。
神様を礼拝する信仰とは、神様を求めることです。生活のどの領域においても神様を求めることです。「主よ。ここに来て下さい」と求めることです。神様の臨在を求めることです。これはほかのどのものよりも神様を第一に求めることです。聖日になって、教会に行って、礼拝式を行うこと以上に、私たち自分自身の中に常に神様を第一に求める霊の状態を持ち続けることです。それからその第一の場所に神様以外のものを居座らせないことです。これは出20:3の「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」というみ言葉を実践する生活です。
では、私たちの実生活の様子を覗いてみたらどうでしょうか。私たちは弱くて罪深い者であって、知りながらも心の偶像、偽りの神を作ってしまいやすいのではないでしょうか。
それでは、いったい偶像とは何でしょうか。それは、私たちが神様よりも重要だと見なすもの、私たちの心と思いのすべてを吸い込むもの、そして、私たちが神様からしかいただけないものをそこから得ようとする、すべてのものが心の偶像です。目に見える偶像を作っていなくても、とある石像を拝んでいなくても、上記のようなものが私たちの心にあるなら、それこそ心の偶像です。
そして、私たちがこういった心の偶像を持っているなら、それは「偽りの神」になってしまうのです。神でないものを神のように見なすから、偽りの神です。まことの神様が居座っておられるべき場所に、神以外の何かが居座っており、そしてそれらが私たちの心をコントロールできるので偽りの神です。人はそれに情熱、エネルギー、感情、時間、金銭などを注ぎ込みます。
偽りの神になりうるものにはこういうものがあります。家族と子ども、仕事や成功、金銭とそこから得られる満足感、虚栄や見栄え、人からの賞賛や人に認められた���欲求、社会的地位を維持すること、恋人や人間関係、身体の健康、将来の夢、ボランティア活動や救済活動、教会での奉仕などが偽りの神になりうるという事実を認めなければなりません。
では、私たちの内にもしもあるかも知れない偽りの神を捨てて、まことの神様のみを第一にし、この方のみを礼拝することができるでしょうか。心の偶像、偽りの神を持っているということは、自分の心が神様以外の何かのために生きている、という状態です。ですから、心の偶像を捨てるためには次のようなプロセスが必要です。
まず、自分に心の偶像があることを認め、悔い改めることです。ここから始めます。自分には神様以外の何かのために生きている自分自身があることに気づき、認め、悔い改めます。
その次のステップは、心の偶像を神様に置き換えることです。神様が私たちのためになさったことを覚え、感謝し、喜び、味わい、そこに憩うことです。つまり、神様の愛を自分の心の中に植える作業をします。偶像を追い出しても、神様の愛を喜ぶことがないなら、偶像はまた来ます。神様から来るものだけで十分な喜び、満足感、楽しみ、生きがいを体験し続けている時、偶像は私たちの心の中に巣を作ることはできません。それらに見向きもしないし、関心も持っていないし、味わおうともしないからです。
ここで思い浮かぶみ言葉があります。ハバクク書3:17〜18です。
「いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。」
何もなくても、神様にあって、神様のために喜び踊り、神様にあって楽しめる霊の状態になることです。神様から得られる幸せ、神様との関係から得られる平安、言いようがない喜びや満足が溢れているから、ほかのもので置き換えたくありません。神様を愛し、礼拝する甘さや楽しさにどっぷり浸かる人は、ほかの代替を思いめぐらすことはしません。簡単に言って、「もう、ほかは要らない!」という霊の状態です。
願わくは、神様を礼拝する信仰がこのようなものであってほしいです。神様を愛し、神様を礼拝する甘さ、楽しさ、喜びにいつもどっぷり浸かっていて、神様のみで満足する者でありたいです。これこそ、神様を第一にする信仰、神様を最高の価値にする信仰ではないでしょうか。
説教を終わりたいと思います。
アブラムは主のために祭壇を築きました。彼は神様を第一に覚え、この方を求め、礼拝しました。彼のこれからの人生に失敗も現れますが、彼をお召しになり、信仰をお与えになった神様は彼をずっと握ってくださり、信仰を守らせてくださり、導いてくださいます。この恵み豊かなお方を私たちの唯一の神様にし、いつまでも喜び、ほめたたえ、礼拝する者とさせていただきましょう。アーメン。
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#8「世界大戦とレジスタンスの記録」
世界大戦におけるレジスタンスの記録は世界に様々にあります。では、日本の演劇において存在したのか? 戦後新劇や総力戦体制下の移動演劇に焦点に当てながら、日本の演劇人が満州事変から始���る世界大戦の中で何を見、考え、行動していたのかを探りました。 下記は、講義の概要をまとめたものです。 -- 講義では、「ジャガイモを掘るベケット石を投げるサイード」にまず触れました。「ジャガイモを掘るベケット」とは、第二次世界大戦におけるナチスドイツに対するレジスタンスの諜報員であったベケットがパリから逃げる時に、畑のジャガイモを食べながら生き延びたエピソードを指しています。(それが「ゴドーを待ちながら」の原風景となっていると、幾つかのベケット伝に書かれています。)また、「石を投げるサイード」は、パレスチナのインティファーダを指します。圧倒的に不利な状況にあっても侵略行為を犯すインスラエルに石を投げるサイードの姿勢。こうした世界大戦におけるレジスタンスの行為としてのささやかな振る舞いというものが、実は演劇活動とか、あるいはサイードのような思想家としての活動としての根拠になっているのではないか、と鴻さんは考えます。 そしてまた、こうした状況下での作家の姿勢について、戦後日本の新劇復興という活動も視野に入れながら、日本の演劇人について考えたとき、一体どういったことが起こっていたのでしょうか? ◼︎ドイツの、そして日本の戦争責任 鴻さんは、まずドイツの思想家カール・ヤスパースは『我々の戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫)について触れました。その著書の中で、ヤスパースは、「我々」すなわちドイツ人の戦争責任とは何かについて語っています。その中で、戦後の裁判についての言及がこうあります。 -- ……「この裁判は全てのドイツ人にとって、国民的な恥辱である。せめてドイツ人が判事であれば、少なくともドイツ人がドイツ人に裁かれることになるであろうに。」とある論者がいう。
これに対してはこう答えることができる。いわく、「裁判が国民的恥辱なのではなく、裁判を招来したゆえんのもの、[なぜ裁判が行われることになったのか?] すなわち、そのような政府が存在してかくかくの行為をしたという事実こそ、国民的恥辱なのである。国民的恥辱という意識はドイツ人にはどっちみち逃れられないものだが、それが裁判に対しての意識であって、裁判の起こるもととなった原因に対する意識でないとすれば、それは方向を誤っている。 さらにまた戦勝国がドイツ人の法廷といったものを構成させるか、あるいはドイツ人を陪審判事に任命したとしても、事情は少しも変わらない。 -- この部分を、ドイツ人を日本人として読み替えた時、それはそのまま東京裁判の話のようだと鴻さんは言います。また、ここで重要なのは、ヤスパースは戦勝国と敗戦国という区別をしている点でもあると指摘します。ヤスパース自身はドイツ人なので敗戦国の人間。この本は敗戦直後1946年にそうしたことを考えながら書かれているものです。 -- 戦勝国が敗戦国の人間による法廷といったものを構成させたり、ある��は、敗戦国の人間を陪審員に任命したとしても、事情は少しも変わらないのではないか。ドイツ人が法廷にいるのは、ドイツ人の自己解放力によるものではなく、戦勝国の恩恵によるものである。してみれば、国民的恥辱に変わりはないはずだ。裁判は、我々が犯罪的な政権から自己を解放したのではなく、連合国に敗北したことによって解放されたという事実から裁判が生じている。こうした状況の中から、戦後が出発しているということをどう認識するのかということが、実は大きな問題なのであるにもかかわらず、この裁判はインチキであるというような、要するに、戦勝国が敗戦国を裁くという絶対的に有利な立場から、法的な機関というものを無視することもできるような形で裁きの無効性を主張するような議論もよく起こるのだけれども問題は自らの力によって敗戦に追いやられた政権を、つまり、その独裁的な権力を倒すことができなかったということが、後々の我々に大きな禍根を残しているのだ。 -- ヤスパースは、世界大戦における戦争責任の問題は、過去に遡り、問題を様々な形で考え直していかなければならないのではないか、という提言を1946年にドイツの人たちに向けてしていた。この本の解説を書いている加藤典洋は、こういうような明瞭な提言というものが、悲しいかな、日本にはなかったと書いていると鴻さんは語ります。 ヤスパース自身は、ナチスの政権下でユダヤ人の妻がいました。ナチス党から離縁を勧告されたとき、それを拒否して大学を去りました。ヤスパースはそうした形で具体的な抵抗を示していたのです。しかし一方で、ヤスパースは殺されることがわかっていながら、それでも抵抗して死んでいくべきであるとは言いませんでした。ではどこまで抵抗するべきなのか? そこに、道徳の問題が絡んでくるとヤスパースは書いてる。そして、そこでは、ある種の抵抗をした人たちと、また多くの抵抗しなかった人たちを含めた、罪の問題をどう考えていけば良いのかという分類がなされている、と鴻さんは解説します。 ◼︎ 満州事変から第2次世界大戦へ、その歴史的局面 ヤスパースは、著書の中で、ナチスの政権が1933年に政権を取ったところで、後戻りのできない状況になっている、そこが一つの転換点だったと分析しています。第一次世界大戦が終わってから15年、新たな戦争を避けるための様々な局面もあったというのです。 例えば、日本軍の満州侵略という暴力行為がなかったなら、それに対する適切な国際的な対応というものがなされていたならば、ナチス的な政権の独裁というものも防げるような方策を考えることができたと書いています。 そのこと自体の検証はできないけれども、世界がどのように動いていくのかということを考察するときに、ドイツの思想家が1946年の敗戦の直後に、ドイツがこういうような状況に向かっていくのを阻止できなかった原因の一つに日本軍の満州侵略を上げていることは興味深いことであると鴻さんは考えます。 また、鴻さんは、満州事変が世界大戦へ向けた一つの転機であるというような発言をしているのは、ヤスパースだけではないと言います。フランスの思想家シモンヌ・ヴェーユは『フランス支配圏内における植民地の新たな主要件』という論文の中で、帝国主義社会における人間の大きな問題である植民地をどのように扱えば良いのか? と問い、日本について言及しているそうです。 フランスは、ドイツに対するレジスタンスをしながら、しかし、一方で植民地政策を続けていました。この頃、イギリスの植民地は南アフリカからアフリカ大陸を南北縦断するように、フランスの植民地は西アフリカからアフリカ大陸を東西縦断するように、それぞれが植民地展開をしていた。その縦横がぶつかるところで、植民地戦争が起こり、フランスはイギリスに負けたけれども、まだ植民地を持っていたのです。 シモンヌ・ヴェーユは、基本的には、植民地に関しては具体的な方策を考えながら解放を目指すべきであると考えていました。植民地住民は彼ら自身の利益を目指して、彼らの政治的経済的生活に関与すべきである、しかし、実際はそうではない。そうした政策が実際に遂行されるのであれば、あらゆる植民地問題が解決へ向かう。部分的な解放であれ、それによる自由が完全な解放へとつながる可能性がある、と1938年に語っています。 しかしながら、フランスはそうした解放への動きは全くしなかった。こういう状態で、もし日本が今、インドシナを奪おうとしたとき、日本がベトナム人(フランス植民地)を利用することは大いに考えられる。フランスが少しの自由を保障していれば、日本がそれを習うことは難しい。フランスは植民地解放へと動き出すべきであるとシモンヌ・ヴェーユは主張していたと鴻さんは説明します。 このようにシモンヌ・ヴェーユも、1938年に日本がフランス植民地インドシナをフランスから奪い取りに来るだろうことを予測していました。日本は、実際3年後の41年に真珠湾攻撃と合わせて、上陸作戦を開始します。37年盧溝橋事件をきっかけに、日本の中国大陸への具体的な侵略が開始されたとフランスの知識人たちは見ていたのです。 ◼︎ 外の世界がなかった日本 ー 総力戦体制と移動演劇 鴻さんは、1927年にヨシフ・スターリンは、中国革命は3段階で起こるだろうと予測していたと言います。 第1段階は、ブルジョワジーが革命を支持する形で外国帝国主義に対する戦いが開始される。第2段階は、ブルジョワ民主主義革命が起きて、それ以降はブルジョワは革命から離れていたにもかかわらず、農民の革命に対する支持が開始される。第3段階でソビエト的な革命が起こる、こうした将来が必ずやってくるとスターリンは考えたのです。そして、中国では実際に共産革命が起こりました。 また、スターリンは日本についても言及していると鴻さんは引用します。 -- 西欧で我々の敵である者たちは、皆もみ手をしながらこう言っている。中国で革命運動が起こった。これはボルェヴィキ(ソヴィエト)が中国人民を買収したのだと悪口を言っている。これはロシア人が日本人と戦う道へと導くであろうと皆が言っている。こんなことはデタラメである。中国の革命運動は信じられないほどである。我々は帝国主義者どもの束縛から中国を解放し、中国を単一国家にするために戦っている。中国革命に共鳴している。日本もまた、中国の民族運動の力を考慮する必要があることを理解する。 -- このスターリンの日本に関する予測は当たりませんでしたが、しかし、こうした裏には、自分たちの国以外の国がどのようになっているのか、その人たち��何を願い何を考えているのか、もしかしたら事態はこうなるかもしれないということを考えながら、スターリンが記述していることがわかる、戦後、ヤスパースは我々(ドイツ人)の戦争責任を考えていたけれども、日本人はそう言ったことは考えていなかったのか。では何を考えていたのか? と鴻さんは問います。 こうした日本の盲目性に関して、森秀男が「戦中と戦後をまたぐ――『女の一生』の場合――」という論文を書いています。鴻さんたちが、『シアターアーツ』で「戦争と演劇」という特集を組んだ時に、掲載された論文です。 これは、今も繰り返し上演されている文学座の『女性の一生』という作品について書かれたものです。作者である森本薫が『女の一生』を執筆時は戦中でした。戦時中に上演されたということは、それは“反戦”演劇ではなかったということです。戦時下で上演された『女の一生』��台本は、戦後の台本とは異なります。初演台本と戦後の改定された台本、そして定本として読まれている台本がそれぞれいろんな形で違っているのです。この初演台本は長いこと簡単には読めませんでした。この経緯についてよく知っている文学座の戌井市郎などに、森秀男さんが話を聞きながら、変更箇所について調べたことがこの論文に書かれているそうです。 『女の一生』が、どのように戦前の演劇から戦後の演劇へと変わったのか? 例えば、主人公のけいが想いを寄せるが、中国へと姿を消す栄二という登場人物は、戦後の改定において、最初は左翼的な人間だったのが、転向して情報員として戦争協力する仕事などをしながら、敗戦後、帰国する、という設定がなされたりしている。 1961年の『女の一生』パンフレットで、森本薫から杉村春子に当てた敗戦前後の私信の抜粋が公開されました。また、当時舞台女優に宛てた森本薫の手紙が残っています。そこでは、森本薫が次のように言っています。 -- 1945年8月3日付 『怒涛』や『女の一生』がダメなのは、描くことだけに力を入れて自分を込めるというか、なんといったらよいかわからんが、ともかく作家自体が芝居の中で求めているものがはっきりしない。あるいはないことだ。 -- 1945年10月11日付の手紙 とにかく皆誰かなんとかしてくれるだろうという他力本願を捨てて本当に一生懸命準備しなければならん。僕は『田園』から『女の一生』までの文学座を省みて、岩田豊雄に逃げられたり、戦争にいじめられたりしながら、我々自身大して自信もなく歩いて来た道は、そう無駄な道ではなかったと思う。我々は我々が到達したところからしか出発できない。しかも我々は率直に楽しめる現代劇から真面目に社会を考える現代演劇への第一歩を踏み出している。僕は色々と取り越し苦労をしているように見えるかもしれないけれども、今回の出発に関して新しい風は左翼演劇からは現れないということを断言する。左翼演劇ではなく、自分たちのやろうとしている演劇から新しい風が吹き始める。 -- 森秀男は、「森本薫は8月15日を境に、戦中と戦後という時代をほとんど苦労なしにまたぐことができたようだ。戦争中、時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉は見当たらない」と書いています。 この時、「時局に順応した作品を書かなければならなかったことへの自責の言葉」がどういう風に語られるのかについて問題にしているのがヤスパースであり、その道徳的罪であるとか、政治的罪についてを『我々の戦争責任について』で書いている。戦争犯罪を実際に犯すことと、その国の政権が独裁的で侵略戦争をしていからという理由でそれに抵抗できなかった人間は、戦争犯罪人ではない。ただし、道徳的罪はあるだろうとヤスパースは言っている。そこで、自責の言葉がどういう風に語られるのかが問題である、と鴻さんは展開します。 ◼︎日本戦時下の移動演劇 ー その問題性と魅力 ここで、鴻さんは「だんだん日本の演劇人の戦争中の行動と、それに対する戦後の自責の念のなさという私の批判が始まるのではないかと思う人もいるかもしれないのですが、こういうことを踏まえた上で、私はいま全く違うことを考え始めている。」と、日本の移動演劇の歴史について語り始めます。 例えば、戦時下の演劇が孕む問題性とその魅力が同居するときにどうしたら良いのか? ー日本では戦中、移動演劇が盛んでした。演劇をより多くの人に見せるために、農村地帯や漁村、山村など様々な場所に展開しました。有名なのは、移動演劇の部隊であった桜隊が1945年8月6日広島にいたということです。その時に、原爆が落とされて、桜隊のメンバーが原爆で亡くなっています。(そのことを巡って、井上ひさしは『紙屋町さくらホテル』という作品を書きました。新国立劇場のこけら落としに執筆され、1997年に上演。鴻さんが劇評を執筆しています。) そして、戦争が終わり、他の移動演劇も敗戦とともに消えていき、なくなってしまいます。 演劇評論家の茨木憲は、『昭和の新劇』という本のなかで、戦後の新劇人たちは、戦時下において自分たちがやってきたことの反省において新劇活動をしなかったということを告発していると鴻さんは参照します。 日本の戦後新劇のはじまりを告げたのは、1945年12月に文学座と俳優座の合同公演として上演された、アントン・チェーホフの『桜の園』でした。1940年に国の一斉検挙があり、新協や新築地の両劇団は国情に適しないから解散するようにと命令された時、当局の推奨を受ける形で存続していた文学座は「国情に適した」劇団だったのでしょう。そして、戦後の合同公演で直ちに、雰囲気劇としてチェーホフを上演したのです。 ここには、森秀男によって詳細に分析された『女の一生』の改ざんの問題における日本の戦後新劇人の自覚のなさと共通するものが見られると鴻さんは考えます。 そして、茨木憲が著者の中で戦時下の空白期と書いているところに、実は移動演劇がありました。 戦時下に移動演劇連盟が作られたのが1941年6月。その後、1943年2月に再編成されます。この移動演劇の活動初期1年半で動員した観客の数は約450万という膨大な数に上ります。農村、山村、漁村、工場、鉱山などを周り国民に観劇の機会を与えることを目的に公演回数は3,500回を数えました。 時は真珠湾攻撃の直前。ビラ広告のキャッチコピーは「米英撃滅 今このとき!」。勇ましい宣誓文が続きます。 -- 我々は文化領域における翼賛運動の一助たる我らの職域を明瞭に自覚する 我々は協力一致の精神と誠実明朗の態度をもって我々の使命に奉仕する -- 移動演劇は、東京毎日新聞などの資本を得つつ、主に公的な資金で運営されていました。入場料は無料です。移動演劇は商業演劇のような単なる娯楽ではなく、教化=教え諭すことで、正しい国民を作っていくことを目的に上演されていたのです。 移動演劇連盟の委員長は、岸田國士。大政翼賛会の文化部長であった岸田國士が個人の資格で委員長になりました。そして、副委員長が伊藤熹朔、事務局長も兼任していました。伊藤熹朔は千田是也の兄です。このように、演劇界の重要人物たちが移動演劇連盟を仕切っていたのです。 伊藤熹朔は、昭和18年に『移動演劇の研究』という本を書いています。移動演劇は、劇場がないような場所でも上演をするので、ときには劇場作りから始めなければならず、巨大な装置は使えないという点から色々な工夫がなされていました。 ここで重要なのは、国民全員が見る体制を作ること、単に楽しむためだけでなく、国民が考える場所を提供することを目的に移動演劇が作られたと書かれていることだと鴻さんは指摘します。 いろいろな場所で上演できるような一種の実験的な試みを展開しつつ、新しい創意工夫のもとに移動しながら演劇を上演していく、こうした移動演劇という新しい様式を作り上げていったと伊藤熹朔は書いています。 鴻さんは、この研究書を読みながらロシア・アヴァンギャルドのアジプロ演劇を想起したそうです。ロシアでは、1918年にボルシェビキのプロパンダ演劇のための劇場が列車となり移動し上演するアジプロ列車というものができました。アジプロ船もありました。 当時の日本ではアジプロ列車についてどの程度知られていたのか不明ですが、移動演劇では、舞台美術家である伊藤熹朔が中心を担って、プロセニアム劇場ではない形の舞台で、どういう演劇を、具体的に作っていくのかが模索されました。 このように、劇場なしでの上演を巡って移動演劇に新しい可能性があると考えた人たちがいて、それが国策で行われました。非常事態において行われていたことが、重要な演劇的な意味合いを持っている可能性があると鴻さんは論じます。 研究書の中で伊藤熹朔は、移動演劇の起源はギリシア演劇の起源にあるテスピスの車輪だと書いています。そうした歴史的な起源にまで遡りながら、伊藤熹朔は自分たちがやっていることは芸術的な革新運動であると思っていた。それを国策演劇であるということで切り捨ててしまうと、その面が見えなくなってしまう。一方で、独裁政権化の軍事政権ファシズムが演劇による総力戦化という中でそういうことが行われていたことは事実です。この2つの歴史的事実をどう繋げて考えていくことができるのか? さらに、植民地主義の抱える矛盾。ソビエト科学アカデミーの中の歴史書シリーズの中に、「植民地に対する侵略と略奪がなければ資本主義の成長はありえない」という一文があります。資本主義がなければ私たちはいないのだけれども、その植民地をいかに解放するのかというシモンヌ・ヴェーユの悩み。 それらの文脈の中に、日本の移動演劇がどう位置付けられるのか? 鴻さんは、日本の植民地主義や戦争責任を巡る議論と移動演劇の活動を参照しながら、それを演劇論として論じるのは非常に困難な作業であるが、そうした探求を進めることこそ演劇研究の役割であると言って講義を終えました。 参考文献: カール・ヤスパース『われわれの戦争責任について』(橋本文夫訳、ちくま学芸文庫、2015年)[ドイツ語原典は、1946年出版、初訳は、1950年桜井書店から『戦争の責罪』として刊行され、その後『責罪論』、『戦争の罪を問う』などのタイトルで幾度も出版されている]。 伊藤喜朔『移動演劇十講』(健文社、1942年) 伊藤喜朔『移動演劇の研究』(電通出版部、1943年) シモーヌ・ヴェーユ『シモーヌ・ヴェーユ著作集1:戦争と革命への省察』(春秋社、1968年) スターリン『スターリン全集』7、10(大月書店、1952、53年) 文/椙山由香
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もう限界!食べすぎて嫌いになった「大好物」
集計期間:2020年4月18日~4月20日 回答数:15035
大好物の食べものは、どれだけ食べても飽きることはない…そう思っている人って、けっこう多いのではないでしょうか。
しかし、物事には限度があるもので、嫌というほど食べれば文字通り嫌いになってしまうことだってあるでしょう。そんな食べもの、貴方にはありますか?
今回は「あんなに好きだったのに、食べすぎて嫌いになってしまった食べもの」に関する調査を行いました。
食べすぎて嫌いになった食べ物はありますか?
回答者15035名のうち、食べすぎて嫌いになった食べものがある人の割合は、全体の約28.4%という結果になりました。
ここからは、何を嫌いになったか具体的な意見を見ていきましょう。
あんなに好きだったのに…
<肉類>
・バーベキューのやりすぎで焼肉が苦手になった
・しゃぶしゃぶで、牛肉をたべすぎ、それから、あまりたべられなくなった。
・焼肉のせんまい。独特の食感にハマって一時期は焼肉に行くとせんまいばかり食べていたけど、突然飽きてしまい今では全く食べません。
・すき焼き。昔、1人暮らししてた時に いつもコンビニ弁当を食べてたので正月休みの時にたまにはちゃんとした物が食べたいと思ってすき焼きの材料を買いすぎて正月休みの間ずっとご飯はすき焼きを食べてたら嫌いになった
・子どものころ、母親がハンバーグばっかり作るからマジ嫌いになった。最近はわりと好き
・子供の頃、脂身たっぷりの豚の角煮を食べ過ぎて夜にリバース…トラウマで今も脂身が食べれない。
・冷凍春巻きを高校時代毎日お弁当に入れられてしばらく食べられなくなりました。
・幼い時、冷凍餃子を食べ過ぎて、冷凍餃子が嫌いになりました。
・学生時代、冷凍コロッケを常備していて、晩ご飯で困った時はコロッケを食べていました。あまりにも食べ過ぎたので、嫌いになりました。
・給食で出てた、鯨の竜田揚げ。休んだ人の分まで貰って食べてたら、食べ過ぎたのか、戻してしまった事があります。
・レバー大好きな子どもでした。少し体調が悪い日の夜ご飯にた��さん食べてしまい・・・その夜もどしてしまった。その匂いでたべられなくなりました。
・缶詰のポーク。幼い頃は生で食べるほど好きだったが、暫くの間食べずに過ごしてて久々にポーク卵おにぎり食べたら体が受け付けなくなっていた。
・関西出身で中部地方に嫁ぎました551蓬莱の豚まん大好きですが中部地方は冷凍しか販売しておらず里帰りした時は30個購入し帰路の車の中でまた帰宅後・次の日約24時間、家族三人で完食してましたが食べすぎて現在、豚まんとは疎遠になっています
・肉まんが大好きで 冬場6から7個を毎日食べていたら10 kg あっという間に太ったのでやめた。
<野菜>
・野菜が嫌い。小学生の時の朝食は毎日、ボウルいっぱいの野菜サラダだけだった。パンとか肉(ウインナーとか)など全くなし。食べ終わらないと学校に行けない。妹は時々遅刻していた。なので今の野菜嫌いはそのせいだと思っている。
・病院食に出るブロッコリー
・嫌いというよりアレルギー。昔ナスとトマトの農家で、食卓が出荷できないナスとトマトのメニューばっかりだった。今はアレルギーでどっちも食べられない
・椎茸。姉の嫁ぎ先で椎茸の栽培をしていた。遊びに行くと山の様にくれた。最初は美味しく食していたが、程度問題。鼻につきだし、もう見るのも嫌になる。
・しいたけが小さい頃大好きで、しーさんと呼んでよく食べていたら、大人になったら嫌いになった。
・メンマが大好きで瓶で食べてたら、大人になって食べれなくなりました
・子供の頃きゅうりのキューちゃんという漬物が好き過ぎて大量に食べた数時間後吐いてしまいそれ以来食べられなくなりました…
・大根小さい頃に毎日大根の味噌汁が好きで作ってもらって食べていた結果、今では大根どんな調理方法でもダメです
・子供のころ、毎食トマトを1人1個食べさせられていた。毎食なので、平日は1日2個、休日は3個。成人し、家を離れてからトマトは食べなくなりました・聞けば、兄弟3人とも離れてからトマトは極力食べないようになったと言ってた。
・毎日アボカドを2年くらい食べていたら食べたくなくなりました
・かぼちゃ妊娠中食べすぎて、今はもう食べたくない…見るのも嫌
・パクチー好きで食べすぎてカメムシの臭いに感じ出して以来食べられなくなった
・ネギが大好きで、何にでもかけたり、入れたりしてましたが、あるラーメン屋さんで、入れ放題だったんですが、何故か物凄く臭くて、吐いてしまい、それから、食べられなくなりました。
・きゅうり。となりのトトロでおばあちゃん家の畑で取れたてのきゅうりを食べてるメイちゃんのシーンを見て、当時幼稚園生の私は毎日2本丸かじりして食べてました。おかげで今はあの青臭さが苦手でウリ��全般苦手になりました。
・銀杏が子供の頃好きすぎて親戚と温泉に行った時みんなの茶碗蒸しから銀杏貰っていっぱい食べたら気持ち悪くなってみんなの前で吐いてしまいそれから銀杏食べれなくなった
・竹の子、シイタケ。田舎の暮らしは貧乏だったので、竹の子の季節になると裏山に次から次へと生えるたけのこが、毎日毎日食卓のおかず。大皿にいっぱいのたけのこの煮物。無くなると、また母が作り、時期が終わる迄、たけのこと、タクアンの漬物だけがおかず。米農家だったので、ごはんには事欠かなかったけど椎茸も同じような物で、裏山の松の木の枝に椎茸菌を植え込み、育った椎茸を売りに出していたので、季節問わず椎茸の煮物ばかり。母は農作業に忙しく、料理もあまり工夫もなくて、煮物しか作らない大人になっても暫くは、食べたいとは思えませんでした。還暦を過ぎ、やっとたけのこと椎茸のシブい味がわかるようになり、たまに食べてます。
<果物>
・実母の実家が農家をしていてイチゴ、スイカ、メロンが食べ放題…食べ過ぎた結果、食べると口の中がかゆくなるようになり、以降は食べなくなりました。
・メロンが好きで沢山食べていたら口が痒くなり、あまり食べれなくなった。
・キウイフルーツ。子供の頃にたくさん食べたら酵素で舌が痛くなり今はちょっと苦手になりました。
・パイナップル。食べ過ぎて舌が痛くなり嫌いになってしまった。
・梨。水分はいいけど、果肉が意外と腹に溜まる
・りんご。若い頃、りんごダイエットをしていて、一生分食べました。もう食べる事はないと思っていましたが、昨年、再びりんごダイエットをして、もう一生分を食べました。今度こそはもう食べる事はないと思います。
・バナナダイエットの流行に乗って食べたバナナ。あの時に食べすぎたせいで今はバナナの匂いだけで気持ち悪くなる。
・妊娠中にプルーンを食べ過ぎて嫌いになった
・スイカ。小さい頃志村けんの真似をして食べ過ぎてから今じゃ食べられなくなった。
・記憶にないくらい幼少期にレーズンを一袋1人で食べたらしく、(母親から聞いた)お腹を壊したか吐いたのか、口に入れると吐き気を催す。
<魚介類・海産物>
・子供の頃に生牡蠣が大好きで食べていたのですが今は食べると気持ち悪くなるし売ってるのを見ても美味しそうに見えないです。
・骨折後に小エビを食べすぎてその後はしばらく食べたくなかった
・ホタルイカを沢山食べて、食あたりを経験し、それ以来、たべつけなくなった。
・高校生の頃シーチキンを食べ過ぎて嫌いになりいまだに食べられない
・イワシが髪に良いと聞いて毎日食べ2ヶ月 さすが飽きました。まだまだあるけど何か美味しい食べ方ないかな?
・鮪とかの刺身。前夫の実家が都内で魚屋をやっていて近所だったから毎日のように、鮪のブツやら姑が調理した魚料理がワンサカもらって(要らないといっても強制的に持たされた)必死で前夫と食べてたから、もう食べたくない。でも再婚した夫は刺身大好き。‥仕方なく少し食べてるけど。もう一生分食べたから要らない。
・数の子。正月に祖父が、私のお皿に永遠に数の子を乗せて来たので、残してはいけないと食べ切った。
・うなぎ私が子供の頃、魚屋で働いていた母親が、売れ残りのうなぎの蒲焼きを、度々もって帰ってきました。ゴムみたいになったままの蒲焼きを何度も何度も食べることで、うなぎの蒲焼きが好きでなくなりました。きっと美味しかったら嫌いにならなかったと思います。
・タコですね。子供の頃なんか忘れましたが、食べ過ぎて熱を出し寝込み50年位前ですが、今は見るのは大丈夫だけど、食べれませんね
・鯖寿司。母が好物で、美味い店を見つけたと言っては1人一本買ってきて食卓に出しました。最初は良かったんですが、ずっと続いたせいでその内一切れも食べれなくなりました。
・しじみが大好きで、お味噌汁のしじみを、母親が良かれと殻をとって身だけをいっぱい入れてくれたが、その様が気持ち悪くて嫌いになった。
・寿司が苦手です。板前として働いていたので、食べません。
・大トロが小さな頃から好きで回転寿司や回らない寿司屋で食べまくっていたら高校くらいから気持ち悪くて食べられなくなりました。
・ムール貝。知り合いのお店に遊びに行ったら何故かムール貝のお料理が次々に出てきた。食べきれない程の種類と量に、お店中の人にもお裾分けしたがまだ余る。帰宅後、死ぬほど吐いたが、それ以来ムール貝は食べれない。
・修学旅行で北海道に行った時お店のかたが良かれとイクラ丼を超大盛りにしてくれて、正直そんなには…と思ったけど好意に悪いなとも思い、無理して食べた結果もう二度と食べなくなった
・親が海産系の仕事をしていて小さな頃はよくいくらや刺身を食べていたが、今ではあまり好きじゃなく、特にいくらはなるべく食べたくない
・しゃこえび好きで食べ過ぎて当たった。吐いて下痢してを一晩中繰り返して、二度と食べれなくなった
・だいぶ前の話ですが、カニ食べ放題で食べてしばらく食べれなかった。今もあまり好きでは無いです。
・お寿司のエンガワ。廻るお寿司屋さんで初めて食べた時、とても美味しかったので、エンガワ、エンガワ、エンガワと5皿も食べ続けていたら、次第に脂の味しか感じなくなり、それからそれを思い出して食べられなくなった。
・髪が黒くなると言われ、ひじきをいつも食べさせられて嫌いになった。
・切り昆布の煮物。毎日どんぶり1つ食べてたが吐き気がする様になってやめた
・うなぎ。子供の頃、身体が弱く、また好き嫌いが多かった私を少しでも栄養が高い物をと両親が印旛沼の専門店まで毎週買いに行ってくれて、週3くらい食べていた。幼稚園の弁当にも入れてもらい、アルミの弁当を冬にストーブの近くに置いてあたためてもらうと、うなぎだと匂いで周りの子にバレ、ウナギ女とあだ名をつけられて、食べ過ぎと嫌なあだ名が重なり嫌いになった。
・牡蠣です。昔から酢牡蠣が大好きで、頻繁に食べていたが、大学自体あたりから、いわゆる酢牡蠣で食当たりするようになり、その頻度が上がってきた。社会人になっても、性懲りもなく食べていたが、30過ぎたあたりから体が受け付けないというか、食べたいと思わなくなった。一度、食べざるを得ない状況となり、食べたところ、やはり体調不良となり、今では食べたいどころか、あまり見たくもない。
<ご飯もの・お餅>
・卵かけご飯です。小学生の頃、毎朝食べていたら、突然苦手になりました。今は食べれないわけではありませんが、基本的には食べません。
・学生時代に炒飯を毎朝出されて見るのも嫌になりました
・お餅が大好きだったけれど、かなり毎日食べ過ぎて苦手な食べ物なってしまった!
・香川県白鳥町のぶどうもちがあまりに美味しすぎて食べすぎたので何年か食べれなくなった事がある
<麺類>
・東日本大震災の後、コンビニにミートソースがいち早く並んだため、当時は好物で苦にならず連日おにぎりと食する日々が続いたが、ある日を境に身体が受け付けなくなり、今も可能な限りパスタは食べたいと思わなくなってしまいました。
・冷やし中華、チャーシュー小学生の時に食べ過ぎて。ちらし寿司バイトのまかないで食べすぎて。
・カップラーメンやインスタントラーメンが好きで中学生の時にほぼ毎日間食のように食べてたら今では風味が嫌いになりました。ラーメン自体好んで食べるものじゃなくなってしまいました。
・子供の頃、親が仕事をしていたのでインスタントラーメンを自分で作って食べてました。2年間食べて小3から食べていません。
・素麺を高校のクラブの合宿でバケツ一杯食べさせられて、素麺を見るたびにあげそうにない。
・35年ほど前に朝昼晩と1日3食×7日間、大好きな焼きそばを食べたら大っ嫌いになり、未だに食べられません。
・小さい時にお昼となると焼きそばかナポリタンが出て、しかも味のむらがあり、あまり美味しくなかった記憶があり、今でも苦手です。
・シンガポール仕様の「出前一丁」。日本より食材の値段が高く驚いて、スーパーで取り敢えず安かったこれを買って、こればかりお昼とかに食べていたら、本当に心底飽きて食べられなくなった。日本に帰ってきてからも一度も買っていない。
<豆類・大豆製品>
・小さな時に、納豆好きで食べてたが…中学生以降、突然嫌いになり、それから食べて無い
・貧乏だった幼少期に豆腐を食べさせられて今も嫌いです。多分、あの時期に一生分の豆腐を食べました
・小豆水ダイエットで毎日食べる茹でただけの小豆。痩せるし健康になるけど食事が楽しくなくなる。
・小学生の頃、家族でおばぁちゃんちに行った際、親戚から送られてきた落花生などがあり、1歳下の妹と一緒に落花生をどれくらい食べれるか競争して、食べ過ぎてしまったのか気分が悪くなり嘔吐してしまいました。それ以来、落花生を食べるのが怖くなり、食べず嫌いしています。アレルギー検査など1度もした事がありませんが、食べ過ぎでアレルギーを起こすという事例も多いと聞いたので、もしかしたらアレルギーになっている可能性ありますね。
<乳製品>
・中学生の頃、給食に出ていたスライスチーズが気に入って友達の分ももらって食べていたが、食べ過ぎて嫌いになった。
・ホイップクリーム10代までは美味しく食べていました。親元を離れてケーキバイキングに行けるようになり好きなだけ食べました���ある日突然気持ち悪くなり体が受け付けなくなりました。今では大嫌いです...。
・中学受験の頃にナチュラルヨーグルトにハマり、毎日500mlのパックを1つを3か月位食べ続けた結果、その後10年以上は「一生分のヨーグルトは食べたからもう食べない」と一口も食べられなくなった。最近また少しずつ食べるようになったけれど、まだ好きには戻れない。
<お菓子・スイーツ>
・ケーキ屋に勤めていた兄がチョコレートケーキの端切れを毎日持って帰って来てくれましたが、余りにも食べ過ぎた為それから10年程食べられなくなってしまいました。ある時たまたま食べたらとても美味しく感じられ、それ以降はまた食べられる様になりました。
・小学生の時の誕生日に、どうしてもケーキをワンホール一人で食べたいと言い張り、食べ過ぎて吐き、それ以来生クリームのケーキが嫌い。
・和菓子。以前のパート先で午前、午後の休憩時、年配の先輩から毎日和菓子の差し入れが(-_-
・嫌いにまではならずとも、一時的にドはまりして食べ過ぎたが故に飽きてしまい、自らでは殆ど買うことがなくなってしまったお菓子が多数あります。
・子どもの頃、コアラのマーチが大好きでした。家でコアラのマーチを食べていたら、盲腸のマックスの激痛と重なってしまい、それ以来トラウマとなり手が出なくなってしまいました。
・ゴーフル。小さい頃 大して美味しいお菓子もなかった中で、時々お土産でもらうゴーフルはもう格別に美味しかった。ほとんど自分だけで1缶食べてしまい、その夜 食べ過ぎで 全て吐いてしまいそれ以来 ゴーフルを見ると気持ち悪くなる。
・玉子ボーロ、小さい時大好きで毎日食べていたらある日突然食べると気持ち悪くなった。以来食べると気持ち悪くなるので40年以上食べてません。
・お菓子のおっとっと昔1日1箱食べてたんだけど、いつしか嫌いになってしまった
・小5の頃、やっすいラムネを(透明の箱で黄色の蓋の)をしょっちゅう食べてたら、蕁麻疹出てそれ以来二度とラムネが食べれなくなった
・ポテトチップスのコンソメ味が、発売された当初、母がいつも食べさせてくれたのですが、食べ過ぎて、今では、あまり食べたくないです。
・ポテトチップス、揚げつまみフライ等、油物に吐いて苦しい思いをしたので、もう食べないと思っていました。ずっと、食べずにいましたが、今は、ポテトチップスは、食べるようになりましたが、揚げつまみフライは、まだです
・心太(ところてん)。30年前、高校生の頃にダイエットしようと心太ばかりお腹いっぱい食べていたら気持ち悪くなった。それ以来、食べたくなくなった。
・抹茶。以前は大好きでした。でも今の職場が和菓子工場で毎日毎日抹茶のお菓子の味見やら抹茶その物の匂いにさらされて今では何もときめきません。
・小さい頃きなこが大好きでよく食べていました。しかし、ある時大量にきなこをかけたお餅を食べようとした時、きなこでムセてしまい…。もともと咳がひどく、ムセはなかなか治らず。それが原因であまり好きではなくなりました。
・コーヒーゼリーにハマってよく食べていたが、どんどん食べていくうちに味がマンネリ化してきて結果的にコーヒーゼリーもコーヒーも嫌いになった
・メロンパン。一時期ハマっていて色々なコンビニのものを食べ比べしていたけど、食べ過ぎて嫌いになった。
・プリンが大好きな友人に、コンビニの棚にあるだけのを全部買ってお礼に渡したら、次に会ったときには大嫌いになってた。
・子供の頃にプッチンプリンを食べ過ぎて、プリンが嫌いになりました。が、18歳頃から食べられるようになりました。焼きプリンから。
・小学生の頃輸入食料品店で売っていたシナモンのクッキーが大好きでよく食べていました。ある日いつもの様にクッキーを食べていたら、腕やお腹に赤い発疹が出て、小さな赤いブツブツがどんどん増え繋がって皮膚がボコボコに。蕁麻疹でした。それ以降シナモンの入っている食べ物は食べられなくなりました。嫌いと言うより、また蕁麻疹が出るかも?と怖くなってしまったのです。
・小学生の頃、プチシュークリームを食べ過ぎて、気持ち悪くなり、大人になるまで食べれなかったです。
・父がお土産にコンビニスイーツをたまに買って来てくれるのですが、ティラミスとかエクレアとか美味しいって言うとずっと買い続けるので、正直飽きて嫌いになってしまいました。
・ミルクチョコを食べ過ぎて油分が気持ち悪くなり食べられなくなったことがありました。その際は油分があまり感じられなかったホワイトチョコを食べてました(結局チョコは食べてました
・チョコレート。子供の頃、父がもらったバレンタインチョコを食べ過ぎて、気持ち悪くなってから、嫌いになった。
<飲みもの>
・自動販売機のコーンスープを飲み過ぎて嫌いになりました
・生茶パンダの懸賞でシリアル番号が欲しくて何箱も箱買いした。それでも当たらなくて生茶を飲みまくってたら体が受け付けなくなってしまった…。今でも生茶だけは飲めない。
<調味料>
・餃子にサウザンドドレッシングをかけるのにハマって毎日したらある日吐き気が。それからサウザンドドレッシングが無理。
・マヨラーだったので、ほうれん草のお浸しやツナサラダ等にもマヨネーズをかけて食べていました。ある朝お弁当に持って行くツナサンドを作ろうとして、マヨネーズをツナにかけていたら「ぷちゅんっ!」と容器から出てきてしまったのです。左手に着いたマヨネーズを舐めた途端に気持ち悪くなり、以来マヨネーズは苦手な調味料になってしまいました。
<その他>
・父がピザが安いときにピザばかり食べさせてきて、それ以来大嫌いになりました
・フィレオフィッシュを3日続けて食べたら気持ちが悪くなって食べられなくなった。
・ポンデリングを続けて3個食べたら気持ち悪くなって、何回も挑戦するけど気持ち悪くなってもう食べられなくなった
・うずらの卵の水煮。こどものころ、食べすぎて吐いて、しばらく食べられなかった
・家庭用たこ焼き器が流行った時に買い、母が作りすぎて嫌いになった
・天ぷらを食べすぎてお腹を壊し、以来滅多に食べなくなった。
・チーズタラを食べ過ぎて吐血した。大嫌いになった。
・子供のころ手作りの刺身こんにゃくを食べすぎてこんにゃくと名のつくものは全てダメ
・ダイエットしてこんにゃくとしらたきがにがてになりました
・幼稚園のお弁当で必ずご飯にかかっていた「さくらでんぶ」。一生分食べたので、今はもう見なくてもいい。
まとめ
みなさんから寄せられた意見をまとめると、
・食べすぎた結果、体調を崩すなど痛い目に遭った経験が多い
・親の仕事内容など、家庭環境が左右する場合もある
・しばらく期間を空けた結果、克服した例も
といった具合です。大トロやいくらなどの高級品にくわえ、ハンバーグや天ぷらといった「子どもの好物」とされるものも挙げられており、人によって事情はさまざまであることがわかりました。
好きなものを腹いっぱい、嫌というほど食べてみたいという願いを叶えるには、相応のリスクが伴うようですね。
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●スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)
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●スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数) コメント コッピー 日本神話って面白くて素敵ですよね☆ 神秘を感じます 私はスクナビコナ(小人の神様)のお話が好きです^^ 初めてしせて貰った。 聞いた時は 小人だと思っていたら 本当にチンマイ 一寸法師のように小さい。 可愛くて力は一寸法師と同じ様だ。 図体小いさくても 色んなところで取り上げて居るようだ。 色んなモノが有る様だ。 ★スクナビコナ http://bit.ly/H3xeZo スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数) 日本神話における神。 『古事記』では少名毘古那神、『日本書紀』では少彦名命(すくなひこなのみこと)、『出雲国風土記』では須久奈比古命、『播磨国風土記』では小比古尼命(すくなひこねのみこと)、他に須久那美迦微、少日子根などと表記する。 『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされ、系図史料には天湯河桁命の子とされる。 『古事記』によれば、スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実とされる)に乗り、鵝(ヒムシ=ガとされる)の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した。『日本書紀』にもこれと同様の記述があるが、ミソサザイの皮の着物を着ている。スクナビコナが登場するのは、『記』・『紀』以外では、『播磨国風土記』や『伊予国風土記』(逸文)、山陰や四国、北陸などの地方伝承である。 スクナビコナはオオナムチ(大国主神)同様多くの山や丘の造物者であり、命名神である。その一方で、スクナビコナは悪童的な性格を有するという記述がある(『日本書紀』八段一書六)。スクナビコナはのちに常世国へと渡り去るが、これは草に弾かれて常世へ渡った、川で溺れて神去りしたなど様々な説話が存在する。 ★スクナビコナ (小惑星) http://bit.ly/H1BRwX スクナビコナ (10725 Sukunabikona) 小惑星帯にある小惑星である。 1986年11月22日に愛知県豊田市で鈴木憲蔵と浦田武が発見した。 日本神話における神。 スクナビコナ(少名毘古那神、少彦名神、少御神)にちなみ命名された。 ★日本神話に関する名を持つ小惑星の一覧 日本神話に由来する名前を付けられた小惑星および由来の一覧。 ・(9106)八咫烏 (小惑星) - 八咫烏 ・(10209)イザナキ (小惑星) - イザナギ ・(10227)イザナミ (小惑星) - イザナミ ・(10412)ツクヨミ (小惑星) - ツクヨミ ・(10385)アマテラス (小惑星) - アマテラス ・(10604)スサノオ (小惑星) - スサノオ ・(10613)クシナダヒメ (小惑星) - クシナダヒメ ・(10619)ニニギ (小惑星) - ニニギ ・(10627)オオクニヌシ (小惑星) - オオクニヌシ ・(10725)スクナビコナ (小惑星) - スクナビコナ ・(10727)秋津島 (小惑星) - 秋津島 ・(10768)サルタヒコ (小惑星) - サルタヒコ ・(10804)アメノウズメ (小惑星) - アメノウズメ ・(10831)高天原 (小惑星) - 高天原 ・(10888)ヤマタノオロチ (小惑星) - ヤマタノオロチ ★オオクニヌシ 第7章 スクナビコナ http://bit.ly/Hpcje6 ★日本の神話 古事記 http://www15.plala.or.jp/kojiki/index.html 日本の神話を読んだことはありますか? 子どもも大人も、楽しく日本の神話を読んでみましょう! 2018.1.13 このサイトは、日本の若い人たちに日本の神話を楽しく読んでもらおうという目的で作りました。それでは素朴で大らかですばらしき古事記の世界へみなさんをご案内いたしましょう! ★少彦名神 - 山の辺の道 散策 ガイド http://sakuwa.com/yz6.html <故(かれ)大国主神、出雲の御大之御前(みほのみさき)に坐す時に、波の穂より、天の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鷦(さざき)の皮を内剥ぎに剥ぎ衣服と為て、帰り来る神有り> 古事記は、大国主命の国造りの段で、大国主命が美保関(島根県松江市)にいたところ、つる草のガガイモの実を船にして、小鳥のミソサザイの羽毛を着物にした神がやって来た。と記す。神の名前は少名毗古那神。高天原の別格の神とも言うべき神産巣日神の御子であるという。 ★神様コレクシ���ン@wiki スクナビコナ http://bit.ly/Hr5k6R 日本神話の神。 豊穣をもたらす農耕神。医薬の神、酒の神とも言われる。 オオクニヌシ(大国主命)とともに国造りを行う。 親神については日本書紀と古事記で別の説をとる。 江戸時代以降、中国道教のシンノウ(神農)とともに薬祖神として祀られるようになる。 ○別名: ・スクナヒコナ (少彦名神) ・スクナミノカミ (須久那美迦微) ・スクナミカミ (少御神) ・スクナムチ (少名牟遅神) ・イクネ (生根神) ・クシ(2) (久斯神) ・テマノアマツカミ (手間天神) ★生根神社 https://www.norichan.jp/jinja/benkyou2/ikune.htm 祭 神:少名彦命 説 明:ご由緒を転載します。 「当社の御創立は不詳なるも住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り (日本書紀では一九〇〇年前)延喜式の神名帳(約千三百年前に制定)においても 当時の式内官幣大社に列し年四度の官幣に預るとあり。古来有名大社であった文献にも多く残っている。特に豊臣時代には淀君の崇敬社にて片桐東市正勝元が奉行して現存の御本殿が寄進されている(現大阪府重文、文部省重文申請中)。徳川時代においても、徳川綱吉将軍が修理を奉幣している。(住吉大社造営記)古来住吉郷の郷社だったが、徳川時代に神宮寺と倶に住吉大社の管理下に入り、後明治五年元の如く(住吉郷現住吉区全体)の郷社に戻り、現在においては上記の氏子区域の氏神様として多くの参拝がある。 ★のりちゃんの実験ファイル https://www.norichan.jp/index2.htm のりちゃん,ハムスター,願い事,神社,紹介,恋愛 作者プロフィール 願い事別神社紹介 大阪の女性ライター「醸工房」 ブログ 神話ブログ 弥生ブログ 神社占い 気分別昔話紹介 テーマ別伝説紹介 野山を歩こう 日本神話を肴に日本酒を呑もう リンク オフ会レポート my website in English ★日本のお酒の神様!日本三大酒神神社とは? | 日本酒専門WEB ... https://jp.sake-times.com/knowledge/culture/sake_godofsake 2016/01/14 日本第一酒造神として名高い松尾神社 松尾神社は梅宮神社と同じ京都市右京区にあります。大山咋神(オオヤマクイノカミ)が御祭神として祀られており、京都の松尾大社を総本山として、全国に20以上の松尾神社が存在します。 出雲にある松尾神社は「佐香神社」とも呼ばれ、ここで祀られている久斯之神(クスノカミ)は、出雲大社に全国から集った八百万の神々に酒を醸し振る舞ったという伝説があり、これを日本酒発祥とする説もあります。 出雲大社というと、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治するために、八塩折の酒と呼ばれる非常に濃く強い酒を飲ませたという話など、酒に関する伝説がたくさんありますよね。 ★手間天神 | 椙の子のブログ https://ameblo.jp/piano-boesendorfer/entry-12227512272.html 2016/12/18 【天神社】. 奈良市高畑にある神社です。 天神社略縁起によれば、この地域が. 平城京の頃、平城の飛鳥とよばれた聖地で、 国つ神の中心の一柱である少彦名命より、 手間天神とよばれ、医学や学問の神とされたと、あります。 神社境内は地域の方々が守られており、 清々しい気持ちで参拝出来ました。 奈良公園よりちょっとだけ足をのばすだけで、いいスポットがありますね。 ★手間天神 - 門戸天神社の口コミ - トリップアドバイザー 2020/01/04 https://note.com/testu_awaji/n/n8f400bcf026e 【由緒略記】
延喜式神名帳にある淡路国小社十一座のひとつとされる。 往古より手間天神・申の宮・田井の天神と呼ばれ、志筑七社の首座であった。 延喜式は複数あり、中には「志築(シチクノ)神社」と表記されたものや、「志筑」だがフリガナで「シチクノ」となっているものもある。 地名については、別途マガジンを作って報告しようと考えている。 ★古事記ー紹介と古事記による変奏曲 https://tokino-koubou.net/1-kojiki.htm 古事記の紹介 ●古事記の文体 ………原文の記され方について ●日本書紀の文体 ………日本書紀の場合 古事記による変奏曲ー神代編 ● 古事記第1変奏、イザナキとイザナミ、あるいは天地創造 その1、天地初めて起こりし時 その2、みとのまぐわい その3、イザナキとイザナミの子生み その4、ヒノカグツチ その5、黄泉つ国での再開 その6、イザナキとイザナミの別れ その7、生みの果てに ● 古事記第2変奏、天の石屋戸、あるいはスサノヲ天上編 その1、タケハヤスサノヲの命 その2、うけい その3、我(あれ)勝ちぬ その4、天の石屋戸(あめのいはやと) ● 古事記第3変奏、八俣のヲロチ、あるいはスサノヲ地上編 その1、クシナダヒメ(櫛名田比売) その2、八俣(やまた)のヲロチ その3、八雲立つ ● 古事記第4変奏、オホナムヂ(大穴牟遅)の神、黄泉つ国編 その1、因幡の白兎 その2、末弟(すえおと)殺し その3、スセリビメ(須勢理毘売) その4、腕試し その5、鳴鏑(なりかぶら) その6、こやつめ ● 古事記第5変奏、オホクニヌシ(大国主)の神、中つ国編 その1、スクナビコナ(少名毘古那) https://tokino-koubou.net/1-kojiki/kojikivar5-1.htm その2、神語り(かむがたり) その3、次妻(うはなり)妬(ねた)み その4、オホクニヌシの神の系譜 ● 古事記第6変奏、天孫降臨(てんそんこうりん) その1、アメノワカヒコ(天若日子) その2、オホクニヌシの国譲り その3、天孫降臨 ● 古事記第7変奏 ホオリとホデリ 下書 ★「スクナビコナ」のタグが付けられた質問 16件 http://bit.ly/H1DCKC ★スクナビコナ(ハロくんの御祭神情報)<パワスポ.com> http://powspo.com/god/099/ 大国主の国造りの時に波の彼方より天乃羅摩船に乗ってきた神だニャン。 【読み】すくなびこな 【性別】女 【別名】30は有る ・少名彦(すくなひこ) ・少彦名太神(すくなひこなのおおかみ) ・少彦名大神(すくなひこなのおおかみ) ・少彦名神(すくなひこなのかみ) ・少名比古那神(すくなひこなのかみ) ・少名日古那神(すくなひこなのかみ) ・少彦那神(すくなひこなのかみ) ・少名毘古名神(すくなひこなのかみ) ・少名毘古那神(すくなひこなのかみ) ・少那比古神(すくなひこなのかみ) ・少名彦名神(すくなひこなのかみ) ・少毘古那神(すくなびこなのかみ) ・少名彦那命(すくなひこなのみこと) ・少那彦名之命(すくなひこなのみこと) ・少那毘古那命(すくなひこなのみこと) ・少名毘古那命(すくなひこなのみこと) ・少彦名尊(すくなひこなのみこと) ・少名彦命(すくなひこなのみこと) ・少比古那命(すくなひこなのみこと) ・少名彦名命(すくなひこなのみこと) ・少名比古那命(すくなひこなのみこと) ・少彦名命(すくなひこなのみこと) ・小彦名命(すくなひこなのみこと) ・少毘古那命(すくなびこなのみこと) ・少名彦大神(すくなひこのおおかみ) ・少名彦神(すくなびこのかみ) ・少彦命(すくなひこのみこと) ・少奈彦命(すくなひこのみこと) ・少名彦尊(すくなひこのみこと) ・少名比古命(すくなひこのみこと) ★出雲大社が建てられた経緯と大国主大神はなぜ別名が多いのかを解説【日本を守り続けてきた神 大国主】 2019-07-11 2019-12-18 https://genhou-akaisora.com/izumooyashiro1/ 出雲大社が建てられた経緯と大国主大神はなぜ別名が多いのかを解説【日本を守り続けてきた神 大国主】. 目次 1 出雲大社の呼び方 2 大国主神は葦原中国を作ったのか? 3 大国主大神にはなぜ名前がたくさんあるのか? 4 大国主大神はどんな活動をしていたのか? 5 【出雲大社建設の理由】国譲りの真相 ★お稲荷さんの別名 めぐり研究所 https://www.megurilab.com/?p=1235 「お稲荷さん」といえば、商売繁盛のご利益で有名な日本の神ですが、お稲荷さんほど、別名の多い神は他に類を見ません。 お稲荷さんを丁寧に呼ぶ場合、稲荷大神(いなりおおかみ)ですが、さらにその正体である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)や、同一神とされる豊受大神(とようけのおおかみ)、保食神(うけもちのかみ)、荼枳尼天(だきにてん)など、日本固有の習合的思想から、あるいは『古事記』、『日本書紀』に端を発する、「またの名は」の文化の影響下で、日本、いや世界で最も名前のバリエーションが多い神として、一つの次元を築いている存在、それがお稲荷さんです。 そもそもこれらは別名であるともいえ、別名でないともいえます。 どういう事かというと、稲荷信仰では稲荷の上に○○稲荷などの号を付し、同一の神でありながら、あたかも別の神であるように扱われることが殆どだからです。 それらは同一の神の別名なのか、一つのグループの中の個性をもったそれぞれの神々なのか。 こうしたお稲荷さんの性質を踏まえ、この記事では体系づけるために、上位区分と下位区分の二種に別けて解説したいと思います。 (全部で30くらい、石碑に刻まれている)稲荷信仰の総本山である伏見稲荷大社で撮影 https://www.megurilab.com/wp-content/uploads/2018/05/DSCN3621-450x600.jpg ★やさしい古事記講座(215) 大国主74 スクナビコナ3 天津麻羅と天津羅摩船。うつはぎ。鏡百枚 http://bit.ly/HmpyRg 2009-05-28 古代史・古事記講座(宇摩説) ★オオクニヌシの国造り http://bit.ly/H6xGyP 少名毘古那神 (小彦名神) すくなびこなのかみ ・カミムスビ神(前述)の御子、小さき小神 ・農耕神、温泉神、酒神、医療や禁厭の法を制定した神 ・大神神社(官大、奈良桜井)札幌神社(官大)台湾神社(官大)樺太神社(官大)酒列磯前神社(国中)他 ★スクナビコナ (小惑星) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/スクナビコナ_(小惑星) スクナビコナ (10725 Sukunabikona) は、小惑星帯にある小惑星である。 1986年11月22日に愛知県豊田市で鈴木憲蔵と浦田武が発見した。 日本神話における神、スクナビコナ(少名毘古那神、少彦名神、少御神)にちなみ命名された。 ★古事記〜[10]国作りのおはなし - 神社人 https://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=166 ようやく、プライベートも一段落した大国主命(オオクニヌシ)の私生活話はさておき、ここから、いよいよ国作りに入ります。そして、そんな時にこそ、出会いは突然と始まります。それは、オオクニヌシが、出雲の美保(みほ)の岬(みさき)にいた時のことです。 海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね:ガガイモの小舟※ガガイモは多年生の植物のひとつ)に乗って、蛾(が)の衣を着込んだ小人神が突如として現れたのです。 しかし、オオクニヌシは、彼の名を尋ねても返事をしてきません。誰だろうと思っていると、そこにヒキガエルの多邇具久(タニグク)が現れて、「これは、山田の案山子(かかし)の神、久延毘古(クエビコ)に聞けば分かりますよ」と答えました。 そして、改めて、クエビコの元に訪れ、彼の名を尋ねると、「その小人神は、神産巣日神(カミムスヒ)の御子さまである少名毘古那神(スクナビコナ)のことでしょうな」と答えました。そこで、実際に、カミムスヒの元を訪れ、その事実���確認したところ、これは間違いなくカミムスヒの御子神で、スクナビコナは、カミムスヒの指の隙間から落ちてしまった子だということが判明しました。 そして、続けて、カミムスヒは、我が子、スクナビコナと共に、国作りを続けるよう命じました。こうして、オオクニヌシとスクナビコナの両神は、ともに兄弟となって、国作りに励むのでした。因に、このスクナビコナの親となるカミムスヒですが、これが日本書紀だと設定が異なり、高皇産霊尊(タカミムスヒ)の子となっています。 ★神社のすすめ 神社を楽しむための基礎知識 https://jinjajin.jp/modules/contents/index.php?content_id=7 神社へ参拝するにも、神さまを祀るにも、何やら知らないことだらけやな〜、つ〜ことで、ここでは神社や神道に関する基礎知識を上げてみました。知れば、もっと楽しい日本文化巡りの第一歩です! 古事記を読んでみよう 古事記 さて、神社とくれば、そこには、八百万(やおよろず)と言われるほど無数の神さまの存在が上げられますが、そんな神々を記した代表的な書物に、日本最古の歴史書となる「古事記」と「日本書紀」の存在が上げられます。特に、「日本書紀」はいわゆる政府がまとめた「正史」として認められた存在ですが、実際のところ、私たちはほとんど、その内容を知りません。ということで、こちらでは、古事記の簡単な概説とそれにまつわる神社をご紹介します。 ★少彦名命スクナビコナノミコト – 神道の心を伝える https://00m.in/4VWKL https://shinto-cocoro.jp/zukan_yaoyorozu/%E5%B0%91%E5%BD%A6%E5%90%8D%E5%91%BD%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%88/ 2017/10/27 オオクニヌシがスサノオに託され、国造りを行なった際に尽力した小さな神様がスクナビコ。 その容姿が小さいことから、一寸法師の原型になったとも言われる。 身体は小さいが、わんぱく者で根性は相当なものだった。 スクナビコは、蛾の皮を身にまとい船で出雲美穂崎に辿り着いた。 高天原(天界)の神は、オオクニヌシに「スクナビコと兄弟の契りを結んで、国を守り固めよ。」と告げた。 オオクニヌシの片腕であり、国造りのナンバー2であるスクナビコ。 ★“だめんず”だらけ!?【日本神話がギャグでしかない件】面白エピソード4選! https://studysapuri.jp/course/junior/parents/yomoyama/article-61.html 日本最古の歴史書「古事記」と日本最初の国史書「日本書紀」は、どちらも日本の建国神話を記した書物。どのような経緯を経て日本という国ができたのかを知ることができる重要な本なんです。日本人なら一度は読んでみたいと思いますよね! とは言え、古い本だから難しそうと敬遠してしまっている人もいるのでは? ただ、実際に読んでみると、個性豊かな神様たちが繰り広げる笑いあり、涙ありの物語でとっても面白いんですよ! 今回は日本神話に登場する有名な神様たちの、ちょっと笑えるエピソードをご紹介したいと思います! ★『少名毗古那神』日本神話の神様|スクナビコナノカミ https://kojiki.co/gods/sukunabikona.html 出雲の美保岬でオオクニヌシと出会い、国造りをするお話し。 日本書紀. 古事記ではカムムスヒの子と表記されていますが、日本書記ではタカミムスヒの子と記されています。
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ファミリーでも気軽に!ロープウェイで行ける山集めました【北日本】
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ロープウェイを使って山を楽しもう!
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「登山は疲れる」「時間がない…」「子どもの体力が心配…」そんな思いから山をあきらめていませんか? そんな人たちの強い味方になってくれるのがロープウェイ! ロープウェイを利用すれば気軽に山を楽しむことできるので、体力に自信がない人にも、観光のついでに山の空気を味わいたい人にもおすすめなんです。
ロープウェイ登山の注意点
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ちょっとでもラクして登りたい!という人にはロープウェイはありがたい存在です。 しかし、気軽に山に行けるからといっても、これも立派な「登山」だということを忘れてはいけません。いくつか注意すべき点を紹介します。
標高の違い
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山の気温は標高が100m高くなると0.6℃下がるといわれています。 旭岳のロープウェイを例に挙げましょう。旭岳ロープウェイの出発地点「旭岳温泉駅」の標高は1,100m。到着地点の「姿見駅」の標高は1,600m。実に500mの標高差です。 つまり、約5℃の気温差があるということになります。5℃違うと予想以上に肌寒いので防寒具を忘れずに準備しましょう。
靴
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山によっては、ロープウェイの終着地点から本格的な登山道だったり、ハイキングコースだったり様々です。 登山靴が望ましいのですが、観光で訪れたとしても最低限スニーカーで行きましょう。 すべる危険性があるので底のすり減っていないものを。サンダルやヒールはもちろんNG。
その他の注意点
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ロープウェイには運行時間があるので最終のロープウェイの時刻や運行間隔の確認は必須。 また、リュック等、両手が使える状況で行くことが望ましいです。さらに、クマよけの鈴があれば安心。
【北海道】ロープウェイ登山おすすめ4選
北海道の雄大な景色も、ロープウェイを使えば気軽に上から眺めることができます。ロープウェイからの景色も壮大なので、最初からワクワクすること間違いなし!
北海道のテッペンへ!旭岳(あさひだけ)
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標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 2,291m 北海道東川町 ★~★★★ ★~★★★
凡例はこちらをクリック:グレーディング表
言わずと知れた北海道一の標高を誇る百名山。百名山に登録されているのは「大雪山」となりますが、これは単体の山ではなく総称で、旭岳が大雪山の最高峰となります。 現在も大地の息遣いが感じられる噴煙の上がる活動中の火山です。
出典:PIXTA
ロープウェイは一気に標高1,600mまで上がってくれます。ここから旭岳頂上までは約2時間。急登もある火山礫の荒々しい登山道をクリアすると北海道一の高さからの景色を満喫できます。 姿見駅周辺には、旭岳を映す姿見の池を中心とした2km弱の散策路もあり、こちらもおすすめです。 【営業時間】06:30〜17:30(平日) 【料金(往復)】大人/1,900円、小人/950円 【所要時間】約10分 大雪山旭岳ロープウェイ(公式ホームページ) ▼旭岳の詳細はこちら
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大雪山の主峰にして北海道の最高峰・旭岳。ロープウェイで一気に5合目まで行ける事から、登山者はもちろんのこと、気軽に散策を楽しむ多くの観...
「神々の庭」の入り口!黒岳(くろだけ)
撮影:Takamasa
標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 1,984m 北海道上川町 ★~★★★ ★~★★
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黒岳は旭岳と同様、「大雪山」の一部。大雪山はアイヌの人々から「カムイミンタラ(神様の遊ぶ庭)」と呼ばれていました。 山頂からは大雪山を構成する山々を一望でき、まさに神が集うにふさわしい広大な世界が広がります。また、黒岳は日本一早い紅葉を楽しめることでも人気があります。
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ロープウェイの区間は層雲峡温泉街(標高670m)から5合目(標高1300m)まで。そのあとのリフトを使えば一気に7合目(標高1,500m)まで行くことができます。 7合目から山頂までは約1時間。ロープウェイからは層雲峡温泉を眼下に、そして前には北大雪のダイナミックな山々も堪能できますよ! 【営業時間】06:00〜18:00 【料金(往復)】大人/2,400円、小人/1,200円 【所要時間】約7分 大雪山層雲峡・黒岳ロープウェイ(公式ホームページ) ▼黒岳の詳細はこちら
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北海道のほぼ中央に広がる大雪山。その大雪山の一つ、黒岳は、麓に北海道を代表する層雲峡温泉が広がる自然豊かな山。ロープウェイやリフトが完...
道都札幌を一望!藻岩山(もいわやま)
出典:PIXTA
標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 531m 北海道札幌市 ★~★★ ★~★★
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藻岩山の標高はそれほど高くないですが、山頂からは札幌の街を一望できるとあり、年中多くの人が訪れる人気の山。 山の北側には、モイワナズナ、モイワシャジン、モイワランなど、この山の名前が付いた植物も見られる原生林が広がり、国の天然記念物にも指定されています。
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ロープウェイは途中の「もいわ山中腹駅」までですが、ここから山頂まではミニケーブルカー「もーりすカー」で行くこともできます。 登山気分を味わいたい方は山頂までは徒歩で行くのもおすす。また、行きはロープウェイ、帰りは整備された5本の登山道を使ってハイキングという楽しみ方もできますよ。 【営業時間】10:30〜22:00 【料金(往復)】大人/1,100円、小人/550円 【所要時間】約5分 札幌もいわ山ロープウェイ(公式ホームページ) ▼藻岩山の詳細はこちら
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夜景もいいけど昼もおすすめ!函館山(はこだてやま)
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標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 334m 北海道函館市 ★~★★ ★~★★
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函館山は牛が寝そべっている姿に似ていることから「臥牛山(がぎゅうざん)」と呼ばれ、市民からも慕われている山。 山頂からは函館市街や海、そして反対側には遠く本州を望む津軽海峡を眺める広々とした景色を満喫できます。
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函館山ロープウェイといえば夜景を想像される人も多いのでは。しかし日中の景色も負けてはいません! 函館山は軍事要塞として一般人の立ち入りが半世紀ほど制限されていたため、自然も豊か。行きと帰りのどちらかにロープウェイを利用して、景色と自然を一度に楽しむのもおすすめです。 【営業時間】10:00〜22:00 【料金(往復)】大人/1,280円、小人/640円 【所要時間】約3分 函館山ロープウェイ(公式ホームページ) 函館山ハイキングコースマップ
【東北】ロープウェイ登山おすすめ4選
東北の山は「奥深い」というイメージの方も多いかもしれませんが、ロープウェイを利用すれば気軽に登れる山もいくつかあります。神秘の山で自然のパワーをもらって、心も体もリフレッシュしましょう。
点在する湿原も魅力!八甲田山(はっこうださん)
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標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 1,584m 青森県青森市、十和田市 ★★~★★★ ★★~★★★
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八甲田山は日本百名山にも登録されている名峰。しかし、八甲田山という単独の山ではなく、八甲田大岳を最高峰とする山々の総称です。 大岳に至る道や大岳山頂から見る景色は雄大で、青森市街はもちろん、数々の湿原、そして遠くには北海道まで眺められる絶景が楽しめます。
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「山頂公園駅」は標高1,300mで、ここから大岳までは2時間半の道のり。八甲田山の「田」は「田代(湿原)」が由来なのだとか。 山頂公園駅からはこれらの湿原をめぐる遊歩道「八甲田ゴールドライン」が整備されており、湿原巡りや高山植物も気軽に楽しめます(長靴の無料貸出あり)。 【営業時間】09:30〜16:20 【料金(往復)】大人/2,000円、小人/700円 【所要時間】約10分 八甲田ロープウェイ(公式ホームページ) ▼八甲田山の詳細はこちら
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お釜も気軽に!蔵王山(ざおうさん)
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標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 1,841m 宮城県蔵王町、山形県山形市 ★~★★ ★~★★
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天候条件によって色が変わり「五色沼」とも呼ばれる「蔵王のお釜」で有名な蔵王山も日本百名山のひとつ。 熊野岳を最高峰とする蔵王連峰の総称で、秋の紅葉はもちろん、点在する沼やコマクサの群生地など、楽しめるバリエーションが豊かで、初心者から経験者まで満足させてくれる山です。
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ロープウェイは山麓線と山頂線に分かれており、山麓線の「樹氷高原駅」からリフトに乗れば、有名な「いろは沼」を散策できます。 「樹氷高原駅」から山頂線に乗り換え、到着駅の「地蔵山頂駅」から熊野岳を越え、お釜が見られるスポットまでは約2時間。 【営業時間】08:30〜16:45 【料金(往復)】大人/2,800円、小人/1,400円 【所要時間】約17分 蔵王ロープウェイ(公式ホームページ) ▼蔵王山の詳細はこちら
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花も紅葉も楽しめる!安達太良山(あだたらやま)
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標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 1,700m 福島県二本松市、郡山市、大玉村、猪苗代町 ★~★★ ★~★★
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日本百名山、花の百名山にも指定されており、6月中旬ごろから本格的にミネズオウやイワカガミなどが見られる花のシーズンが始まります。 また、秋は赤や黄や緑の色とりどりのコントラストが圧巻。頂上からは磐梯山や飯豊連峰を見渡せる360°のパノラマが登山客の目を楽しませてくれます。
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標高1,350mの山頂駅から安達太良山の山頂までは1時間半ほど。山頂から少し歩けば、この山が火山であることを教えてくれる爆裂火口跡「沼の平火口」があります。 山頂駅は薬師岳の山頂で、「薬師岳パノラマパーク」に続く遊歩道も整備されており、ここから見る安達太良山も見事です。 【営業時間】08:30〜16:30 【料金(往復)】大人/1,700円、小人/1,300円 【所要時間】約10分 あだたら山ロープウェイ(公式ホームページ) ▼安達太良山の詳細はこちら
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冬は樹氷も!森吉山(もりよしざん)
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標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 1,454m 秋田県北秋田市 ★~★★ ★~★★
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花の百名山でもあり、赤や紫、黄に白…いろいろな色を一度に楽しめるのも森吉山の魅力。秋は紅葉、冬はスキーや樹氷も。 森吉山に着くまでも高山植物が咲くお花畑をはじめ、日本��や男鹿半島を眺められる展望台や湿原とお楽しみスポットがあるので、飽きずに登山を楽しめます。
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冬にはスキー客を乗せるゴンドラで標高1,167mの山頂駅に向かいます。そこから山頂までは約1時間40分。 冬には山頂駅から徒歩5分の場所に遊歩道が整備されており、1周約30分で圧巻の樹氷の鑑賞が可能です(スノーシュー・かんじき無料貸出あり)。 【営業時間】10:30〜16:00 【料金(往復)】大人/1,800円、小人/800円 【所要時間】約20分 阿仁ゴンドラ(森吉山阿仁スキー場公式ホームページ) ▼森吉山の詳細はこちら
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ロープウェイ登山で山をもっと身近に!
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ロープウェイを使えば標高が一気に高くなるだけでなく、テンションも高くなること間違いなし。 ロープウェイ登山は、山を身近に感じられる選択肢のひとつ。体力と時間を節約しながら山に触れ合えるロープウェイ登山にチャレンジしてみてはいかがでしょうか。 【登山時の注意点】 ・登山にはしっかりとした装備と充分なトレーニングをしたうえで入山してください。足首まである登山靴、厚手の靴下、雨具上下、防寒具、ヘッドランプ、帽子、ザック、速乾性の衣類、食料、水など。 ・登山路も複数あり分岐も多くあるので地図・コンパスも必携。 ・もしものためにも登山届と山岳保険を忘れずに! ・紹介したコースは、登山経験や体力、天候などによって難易度が変わります。あくまでも参考とし、ご自身の体力に合わせた無理のない計画を立てて登山を楽しんでください。
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25歳の夏休み
ヨーロッパでのバカンスについて、長くなりそうだけど、日を追って旅行の記録を残しておこうと思います。ちなみに旅程はパリ(ジヴェルニー)→アルル→ローザンヌという感じ。
9/15(土) 朝5時のアラームで目を覚ます。前日までバッタバタで仕事してたので、荷造り終わってなかったけどそのまま疲れて寝てしまったのでした。とりあえず5時に起きれば何でも解決すると思っている人間なので。 洗濯して、扇風機強風で乾かしながら、布団をしまって荷造りを終えて、だらーんとしていたらいつのまにか9時半になっていた。10時過ぎの新幹線に乗る前にタバコ買ってお金も下ろしておきたかったため、急いで掃除機をかけて家を出た。小雨が降っていたがバックパックから折りたたみ傘を出すのがめんどくさかったのでそのまま歩いたら、蒸し暑さで汗をかいてしまった。このあと40時間は風呂に入れないというのに。 旅行前でさえピシっとできないわたし、なんだかまだ現実感がわかない。実は飛行機取れてないんじゃないかとか、本当に今日から休みでいいんだっけとか、ていうかパリってどこ?みたいな気持ちになりながらなんやかんやで成田に着く。チェックインも荷物検査も出国審査もいつもどおりスムーズに通って、搭乗ゲート前で積読してた小説を読んだ。倉橋由美子の「暗い旅」。旅行のおともにするには向いてなさすぎるタイトルである。。 成田から、乗り継ぎのバンコクまでのフライトが30分押しで離陸。乗り継ぎ時間にそんなに余裕がなかったので内心気が気じゃないけど、隣の席になった同年代くらいの女性と仲良くなって、お互い旅行好きということで今までいった場所の話で盛り上がった。めっちゃいい人だった。バンコクでの乗り継ぎはやっぱりぎりぎりで、その人が一緒にいてくれなかったらたぶんわたし泣いてたと思う笑。彼女はそのあとロンドン行きということで、荷物検査を通った後にさようなら。名前すら交換しなかったけど、またどこかで会えたらいいな~。
9/16(日) 予定時間より少し遅れて、パリのシャルルドゴール空港に到着した。空港では、SNSで知り合ったパリジャンのニコラと、ニコラの友達のユカさんと会うことになっていた。ニコラは思ってたより背が高くて、初めましてのハグとビズをしたときに云われた言葉が忘れられない。「ちっちゃいね^^」。 ユカさんはパリでワーホリ経験のある、フランス語もしゃべれる人。。ちゃきちゃきしてて私の憧れるタイプの方でした。とにかく私はまだ実感がわかなくてふわふわしてて、切符の買い方から二人に教えてもらってしまった。それぞれのホテルに荷物置いてから、バスティーユ広場のマルシェを歩いた。野菜も果物もパンもチーズもでかい。。。あと広場にあった、回転遊具のスピードが尋常じゃなくて、乗ってたちっちゃい子が泣いてた笑 絶対に絶対にオルセー美術館には行きたかったから、二人に美術館まで連れてってもらえてありがたかった。そこから別行動になってしまって、最初はびびったけど、後から考えたら美術館なんて一人で見た方がいいから、よかった。私の好きな絵も見れたし、初めて見るけど美しくて感動した絵もあったし、大満足でした。美術館のテラスから見えたモンマルトルがおもしろそうだったので、一人で地下鉄に乗って行ってみることにした。 パリの地下鉄はスリが多いって聞いてたけど、私は一人で乗ってても全然危ない目には合わなかったよ。たまに音楽鳴らしたり歌ったりして乗客にチップせびってる人はいたけどね。あ、そういえばチュイルリー公園でお土産とか水とか売ってる人もいた。なんかネジ巻いて飛ばすトリコロールの鳥のおもちゃが微妙に怖かった。どこ落ちてくるかわかんないから。 モンマルトルはそういえば、フランス語の先生の大おススメだった。「まじでMagnifiqueだから、まじで。」みたいに云われたのでちょうどいいや~と思い、地下鉄を待ちながらガイドブックをちら読みしたところ、映画「アメリ」のロケ地になったカフェがあるそう。ついでに探してみよ~と思いながら駅から出たら、ここにもマルシェが開かれていた。そうか日曜日か。 サクレクールの階段はなぜかおしっこのにおいしたけど景色は本当によかった。景色見てもどれがオルセーだかよくわからなかったけども。中に入ると壮大なモザイク画が天井を覆っていた。(撮影禁止だそうなので写真は撮っていません。構わず撮ってる人も多かったけど。) それからよさげな路地を見つけるたびに曲がったり下りたり登ったりを繰り返していたら道に迷った。アメルのカフェは結局見つからず。疲れて地下鉄の駅を探すも見つからず。やっと見つけた駅は最初に降りたところから2駅離れてた。疲れた。でもよかった。本当はそのあとエッフェル塔にでも行こうかしらと思ったけど、たぶんモンマルトルから見える景色とそう変わりないだろうなと勝手に納得してやめた。ただエッフェル塔は広場がとってもきれいらしいので次にパリに来たら絶対行こう。 夜はニコラとユカさんと合流して、ビルのテラスにあるカクテルバーに行った。夕日を背にしたエッフェル塔を見たときに、やっと自分がパリにいることを実感した。 次の日ジヴェルニーに行く約束してユカさんとお別れして、ニコラともう一軒だけ行って、ホテルの近くでバイバイした。
9/17(月) 目が覚めたら夜中の3時で、昨晩23時まで飲んでそのままベッドにうつ伏せになっていたことを思い出す。ぱりっぱりのコンタクトを外して、シャワー浴びながら服を手洗いして、ホテルの部屋にあった扇風機の最強にあててまた眠る。朝の6時半のアラームでまた目を覚まして洗濯物を確認したところまあまあ乾いてたのでちょっとうれしくなった。外のカフェで朝ごはんを待ちながら道行くパリの人々を眺めていた。歩行者は信号守らないんだなあなんて思いながら一服していたところ、トラックの運ちゃんに「マダム、一本ちょうだいシルブプレ」とか云われた。そう、こんな私でもフランスに来ればマダムと呼ばれるのです。 思った以上に朝食に時間がかかり、急いでチェックアウトを済ませてサンラザール駅に向かったけど遅刻は確実で、「ごめん、遅れる、本当にごめん」とニコラにメッセージを送るものの読まれた気配がなく、電話も出ず。おかしいな、これじゃ落ち合えないぞと不安になり、急いでニコラのインスタから辿ってユカさんのアカウントを発見し、メッセージを送るとまだサンラザールにいてくれていた。ていうかSNSってすごいね?? ニコラは寝坊したのでユカさんと二人でジヴェルニーに行くことにした。切符を買ってから発車までかなり時間があったので、私のアルル行きの切符を買うのまで付き合ってくれた。駅員さんにフランス語で色々聞いてくれたりして本当に頼りになる優しいお姉さん。。わたし朝遅刻したのに。。本当にありがとうございます。 ジヴェルニーにはモネの家を目的に行ったんだけど、もうその庭が、植物いっぱいですごくかわいくて、ユカさんが「女同士で来れてよかった」って言ってくれて嬉しかったし本当その通りだと思った。なんとなくね、男性と花とか見て「きれい」って言っても、どっか感じてる部分が違う気がするんだって。なんかわかるね。あとねモネの家見てたら自分の家建てたくなった。そういう変な話もできるの、同じ場所にいる同年代の同じ言葉の女性同士だからって気がしたな。 お昼に食べたクレープがめっちゃ多くてふたりで苦しい~って云いながら、それもそれでいい思い出です。クレープと一緒にたのんだニース風サラダとモネの庭が似てるなって思った。 食べながら、日本での仕事の話とか、ユカさんのワーホリの話とか、典型的なフランス人の性格とか、いろいろ聞かせてもらった。ほんと、いろんな生き方があるね。たった二日しか一緒にいなかったけど、ユカさんが大好きになった。 二泊目のホテルに荷物を移動させてからこの日こそはエッフェル塔へ!と思ったけど、やっぱり疲れてたし暗くなる時間だったのでおとなしく諦めた。タバコ吸う場所ある?ってスタッフのおじさん、サムに訊いたら、「君も喫煙者なの?僕のマルボロあげるよ、こっちの窓辺で吸ってごらん!あ、スーパーでビール買ったの?部屋で飲むの?よかったらここで僕のロゼでも飲みなよ。そうそう、キウイもあるけど食べる?君はどこから来たの?日本人って本当にいい人ばかりだけど君はベリーグッドだね!夜のパリって本当にロマンチックだと思わない?あ、マルボロもう一本どう?」みたいな感じでめっちゃもてなしてくれた。マルボロもロゼもキウイもおいしかった♥またパリに来たら絶対ここ泊まる。
9/18(火) アルル行きのTGVに乗るために、早朝にチェックアウトしたにもかかわらず、サムは嫌な顔ひとつせずまたねありがとうって手を振ってくれた。暗い時間の地下鉄は少し不安だったけど、やっぱり危ない目にはひとつも合わず、無事にパリリヨン駅に着いた。日本みたいに行先によってホームが決まっているわけではなくて、その電車ごとに電光掲示板に発着ホームが発表されるみたい。空港みたい。 私はアルルまで直通のTGVを予約していたから、そのホーム番号を確認して席に着いてすっかりリラックスしていたら、なにやらフランス語でアナウンスがかかり、みんな途中駅のサンテグジュペリ駅で降り始めた。「?」って顔してたら通路挟んで隣に座ってた若い男の子が「フランス語しゃべれる?アナウンスわかった?ここで乗り換えなきゃいけないんだよ」って教えてくれた。なんて親切なんだ。自分が逆の立場だったら同じことができただろうか。。。ありがとうムッシュー。しかし本当になぜ乗り換えなければいけなかったのか今となっては謎のまま。 そしてアルル駅を出た時の気持ちを決して忘れない。太陽と飛び交う言葉と土埃や建物の色。水の色。いよいよ一人旅が始まったんだなっていうのと、こんなに美しい場所に一人で来てしまってよかったんだろうかっていう思いと。もうもったいなさすぎて、友達にテレビ電話しちゃったよね。シェアしたさすぎて。あ、そう、思ったんだけど、一人旅でもネットが使えれば何にも心細くないんだなって!迷いそうになったらナビアプリもあるし翻訳アプリもあるし、シェアしたくなったらSNSもあるしね。 行先としてアルルは、まじでなんとなくで決めてたから何を見ればいいかわからず。。とりあえず一番目玉っぽい円形闘技場に行ってみたら、そのへんの遺跡とかミュージアムとか回れるパスが売られてたのでそれを買った。このこのへんからいよいよ一人旅が楽しくなってくる。パスと一緒にもらった地図を眺めながら、次はこの道を通ってここに行こうとか、おやちょっとこの路地が雰囲気いいから寄り道しようとか、時間が迫ってるけどもう一か所行けそうだから小走りで行っちゃえ!とか。うん。一人旅は楽しい。そしてアルルを選んでよかった。アルルのいいところはもうひとつ、パリと比べて英語が得意じゃない人が多いから、カフェのウェイターさんとか、こんなわたしにもフランス語で話しかけてくれるところ!下手くそでもフランス語通じて嬉しかったな。 人生初のドミトリーを経験したのもアルル。行く前は、他の人が部屋にいるのに洗濯物とかどうやって干せばいいんだろうって思ってたけど、開けた瞬間でっかいブラが干してあるの目に入って、その心配は吹き飛びました。でも部屋まで案内してくれた男性スタッフがちょっと気まずそうにしてた笑。同室の台湾人がめっちゃフレンドリーで、夕ご飯一緒に食べに行って、そのあとスーパーで次の日の朝ご飯と、ロゼを買い、フランスって水よりロゼが安いってほんとだねなんて言いながら、二人で円形闘技場の下で乾杯した。今までの経験したことのない特別な夜だった。おかげでロゼ、めちゃくちゃ好きになりそう。
9/19(水) 朝ご飯に、台湾人と一緒にオムレツを作った。日本にいる感覚で半熟卵にしちゃったけど、「台湾では卵に細菌がいるから絶対にしっかり焼いて食べるんだよ」なんて聞かされてからその日ずっと気が気じゃなかった笑。そんで午前中に急ぎ足でアルル観光の続き。ゴッホが病んで耳を切り落とした昔の療養所が意外と近くにあって、そこに寄ってポストカードを買った。療養所の庭はなんとなくモネのそれに似ていた。それからスーパーで適当にお土産用のお菓子を買い、レジ袋をもらえないので全部手にもってまた急ぎ足でゲストハウスに戻った。アルル、もっとゆっくりいたかったけど。でも次の目的地のスイスまではアルルから6時間かかるししかたないね。南仏は絶対またゆっくり遊びに来ようと心に決めました。いえ、円形闘技場に誓いました。その日が来るまで私の心はあそこに置き去り���す。TGVの乗り換えで30分だけいたマルセイユもすごく眺めがきれいだった。海で遊びたいなあ。 6時間��て、切符買ったときはすごく長く感じたけど、実際、電車に乗ってる間はそうでもなかった。移り行く景色がすごく新鮮で刺激的だったから。トウモロコシ畑!岩山!牛!羊!協会!赤い屋根!みたいな。スイスに入った瞬間は思わずナビアプリでスクショ撮ってしまった。 陸路で国境越えるときって入国審査とかどうするんだろうって思ってたけど、ジュネーブ駅からスイス鉄道に乗り換えるときにシェパード犬を従えた国境警察の前を通らなきゃいけなくて、そこで一人一人チェックすんじゃなくてランダムに呼び止めてIDを提示させてた。私は見るからに外国人だけどスルーされた。どういう基準だったんだろうか。スイス鉄道の車窓の景色もまた美しくって、あこがれのレマン湖をやっと望むことができて感動した。 ローザンヌのゲストハウスは丘の上にあって、バックパックをしょって歩くのはちょっとだけ大変だった。しかもスイス涼しいと思ってたから厚着しちゃってたし、汗かくし、喉渇くし。着いてみたらとってもきれいで近代的なゲストハウスだった。レセプションのお姉さんがちょっとそっけない感じだったけど毎日朝から晩までわけのわからない外国人相手に仕事してたらそうなるよね~しゃーないしゃーない。 荷物置いてちょっと休んで、スーパーを探したけど見つけられず、結局また坂を下って駅の売店で買った水が飲んでみたら炭酸入りでした。部屋に戻ったらかわいらしい台湾人の女の子がいて、その子もまた人懐っこい感じで色々しゃべってくれた。「スイストラベルパス買ってないの?これさえあれば電車もバスも船も乗れるしミュージアムにも入れるしめっちゃお得だよ。」と教えてもらい、そこから必死にネットでお得に買う方法を検索する。どうやらローザンヌ駅で買うのが一番よさそうだと思ったので、朝一で窓口に寄ろうと決心して寝た。
9/20(木) 寝坊しないか心配だったけど、ワクワクしすぎて6時前に目が覚めた。ドミトリーだったので周りを気にしつつ、ひっそり身支度を整えているとわたしより遅く起きた昨日の台湾人の女の子が、わたしよりも先に部屋を出ていった。颯爽と。 ローザンヌ駅でまた下手くそなフランス語で「スイストラベルパスを買いたい」と伝えたところまあなんとなく通じて、無事にゲット~そのままモントルーへ向かう電車に飛び乗った。モントルーは何があるのか知らないけどまあとりあえずフランス語の先生があそこはめっちゃきれいだよ!って言ってたしとりあえず行ってみるという感じで、電車の中で観光地をぐぐっていた。進行方向右手にレマン湖、左手にブドウ畑と、たぶん目玉が4つぐらい足りないなあと泣きそうな気持ちをこらえる。 モントルーといえばこれしかないっしょみたいな観光地、シヨン城というところを目指すことに決め、とりあえずレマン湖畔にあるらしいことだけ確認したので湖沿いをぐるりと歩くことにした。モントルーはレイクリゾートで有名なエリアなので、高級そうなホテルが立ち並んでいる。早朝の人の少ない散歩道をすがすがしい気持ちで歩いていたのだけれど、一人、バスタオル一枚で湖畔にたたずんでいる女性がいてちょっとびっくりした。治安いいからな~(?) シヨン城見終わってからはバスでまたモントルー駅に戻った。そういえばスイスってバスも電車も乗り降りするときお金払ったりしない。ばれなきゃ無賃乗車もし放題。ただ、不意打ちでチェックされることもあるらしく、そのときチケット持ってなかったらけっこうな額の罰金を払わされるんだって。スイストラベルパスがあれば大丈夫なんだけど、その路線が有効かっていうのがわかりづらかったから、知らずに使えないやつ乗っちゃってたらこわいなあとは思いました。 バス降りてからさすがにおなかが減っていたので、ブランチにカフェでパニーニを食べたのだけど、中に入ってたトマトが白いTシャツにこぼれてしまい、天気よかったし気温も高かったので脱いでしまうことにした。日本だとタンクトップ1枚でって歩き回りづらいけど海外だと全然気にならなくなるのなんでなんでしょうね。両肩から指先にかけて空気にさわる感覚がとっても気持ちいい。パニーニ食べながら次どこ行くか調べて、グリュイエールという村に行ってみることにした。そこは牧歌的な景色の中にある小さい村なんだけど、映画「エイリアン」のデザイン?をしたHRギーガーの美術館がある。わりと気持ち悪い作品しかなかったけどあの景色の中にあるから逆にいいんだろうな~と感じた。そこからもう少し丘をのぼったところにグリュイエール城があったのでそこにも立ち寄って、テラスから見える景色とか庭とか、いかにもスイスっぽい空気を堪能しました。このときだけは、誰も自分を撮ってくれる人がいないという状況をもどかしく感じた。 この日、ゲストハウスに帰ってから、また台湾人の女の子とおしゃべりしたんだけど、「グリュイエールってどこ?なんで行こうと思ったの?」とか聞かれて何も答えられなかった、、笑 ほんとに理由なんてなかったから「ただ私の足が選んだの」みたいな。
9/21(金) 朝っぱらからブドウ畑を見に行った。これも、台湾人の女の子の話を聞いて、行かなきゃ!と思ったから。(ドミトリー泊っていいね。はまりそう。)朝8時過ぎだったからか、ここも観光客が誰もいなくて、斜面にぶわ~っと広がるブドウ畑と朝日を映すレマン湖を独り占めしていた。熟れたブドウが放つ少しつんとしたにおいが祖父母の畑のにおいを想起させて、そっかこのへんの農家さんにとってはこの景色が日常なんだななんて思ったりした。丘の上の駅から湖畔の駅まで下るコースを歩いたんだけど、ゴールの駅で電車を待ってる間に湖の波打ち際まで行ってみたらちょっとした海水浴場みたいなつくりになっていて、9月も半ばを過ぎたというのに泳いでいる人がいた。こんなにあったかいって知ってたらわたしもそのつもりで水着とかもってけばよかったな~。 そのあとはヴェヴェイという町にあるチャップリン博物館に行った。晩年にチャップリンが住んでいた邸宅を博物館として公開しているところ。等身大の人形とか、映画のワンシーンとか、アカデミー賞授賞式の映像とか、映画で実際に使われてた小道具なんかも展示されていて、ファンとしてはぐっとくるものがありました。団体さんは地元の小学生とか、欧米からのご年配とかが多かった。みんな、流れてる映像を見て声をあげて笑っていて、いいな~と感じました。なんとなくチャップリンが演出してる笑いの表現って日本人にはピンとこないものも多いというか、だから子どもがああいう感じで笑ってるのを見て意外に思いました。 ヴェヴェイから船でローザンヌに帰り、そういえばローザンヌって全然観光してなかったなと気づいたので、とりあえず遠くからでもよく見える大聖堂に行ってみることにした。近くまで行ってみたら、美術館と博物館が隣接してあったのでまずそこに入った。美術館でクレイアニメの展示やってて、そういうのって言葉がわからなくても楽しめるしラッキーでした。ちょうど近所の学校が終わったぐらいの時間だったのか、学生カップルも何組かいた。大聖堂はステンドグラスがすごかった。パリのサクレクールに行ったときも思ったけど、宗教って芸術を生み出す力があるよね。信じてなきゃあんな細かい装飾できないよ。 そしてこの日が最後の夜だったんだけどついにマックスに会うことができた。彼もニコラと同じSNSで親しくなった人。見た目も話してる印象も思ってた以上にいいやつだった。ビール飲んでごはん食べて、小雨が降っている中だったけどローザンヌを少し案内してもらった。いつもマックスが服を買ってる店とか、日本食のお店とか、好きなビールとかね。ローザンヌ駅で、わたしがお土産でもっていった上善如水を二人で飲んだ。彼は日本のアニメが大好きで、特にナルトがお気に入りらしいので、「カゲブンシンノジュツ」とか「シャリンガンとか「カトン・スイトン・ドトン」とか、そういう日本語よく知ってるらしい笑 「ちょっと影分身の術やってみせてよ」って言ったら一生懸命印結んでて純粋な人だなあと思いました。 ちょっと寒かったし、おそらくあのせいで軽く風邪ひいたけど、思い出に残る特別な夜でした。またいつか会えるのかな。「来年僕が日本に行くね。約束だよ」なんて正直あまり期待してないんだぜ。
9/22(土) 日本に帰るため、ローザンヌからチューリッヒへ。。だから朝からゲストハウスを出なきゃいけなかったんだけどあの台湾人の女の子の方が先にチェックアウトしてしまって、「Bye」とだけ短く交わした挨拶が今思い返すととても寂しくなる。 そこから先、電車も空港でのチェックインも搭乗もすべてがスムーズに進んでいった。マックスがくれたチョコを食べたり、ブレスレットをいじってみたりしてるとやっぱり寂しくなったので、絶対にわたしはまた来ようと決めました。だから英語もフランス語ももっと上手になりたい。今の職場で2年勤めあげたらヨーロッパに移る。そう考えたらとってもワクワクするし何も寂しくないって思えるね。いろいろやり方はあるだろうけどいちばん理想的なかたちを求めていけば間違いないはずです。
***
とにかく帰国してからの時間の流れが早すぎて、これを書きながら、あのとき確かにそう感じていたはずのこともこんなにも薄まってしまうのかと自分にがっかりしております。だから昨日フランス語のレッスンでも先生に軽く決意を伝えてみたりした。ていうか昨日知っ��けど先生は今ワーホリビザで日本にいるからもうすぐいなくなっちゃうのね。やっぱり1年後とか2年後とか言わずすぐ行動できることを探さないと年齢制限あっというまに来ちゃうなあなんて、焦ったりしてます。
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欧州旅日記
6月12日(日)
成田→(アムステルダム)→(ジュネーブ)→ベルン
成田からアムステルダム経由でジュネーブに到着。すべて順調。オランダ航空のスチュワーデスさんたちは体の大きい人が多かった。はきはきした応対が気持ちがよい。機内で11時間。アムステルダムに着く直前に、隣の男性が声をかけてきた。村上春樹の「海辺のカフカ」なんて読んでいるから、ちょっと気取った奴かなと勝手に思っていたが(ゴメンなさい!)、海外のITがらみの投資企業に勤め(ニューヨーク在住)、ロンドンや東京を行き来する、気心の優しい国際ビジネスマンだった。私がNPOの仕事で電磁波問題の海外取材に行くのだと話すと、素直に「それは大事な仕事をなさっていますね」と共感してくれた。名詞を交換して「よい旅を!」���声をかけあった。
ジュネーブからベルンに行く電車にぎりぎり間に合った。外国で電車に乗るときはいつもどぎまぎする。チケットの扱い、路線、行く先……どれも日本と要領が違うし、標識もわかりにくいものが多いからだ。途中、ローザンヌを通ってベルンに向かったのだが、レマン湖の周辺の景色のきれいなこと! 迫った山の連なり、点在する石造りの家々、湖面の深い青……これらがなんとも見事に調和している。スイスは観光で生きていける国だと感じさせられた。車窓から見る限り、路線に沿って家々はまばらで、企業のスマートなビルや中規模の工場が時々姿を現す以外は、畑と牧場だった。牛の姿を久しぶりに見たが、その数は決して多くはない。観光以外では、スイスの人たちは主に何で生計を立てているだろう?
ベルンに到着し2日間滞在することになるホテルにたどり着いた。予約しておいたホテルの部屋がやたら大きいことに驚く。洗面と風呂場がひとつになった部屋がなんと6畳はおろうかという広さだ。これでもユニットバスと呼んでいいの?? トイレで用を足しながら妙な気分になった。
明日は一日をかけてベルンをじっくり歩きまわる。
6月13日(月) ベルン 昨晩は早く寝たので、今朝は朝4時に起床。驚いたのは、朝5時、つまり夜が明けてくる頃に、3種類ほどの鳥の声が聞こえてきたことだ。首都のど真ん中のホテルでこんな感じだとすると、市のいたるところに小さな森がたくさんあるのかもしれない。午前5時から7時までの2時間、「電磁調理器使用に伴う低周波磁場の被曝量計量モデル」を考える。朝食をホテルでとって8時半に出かける用意ができた。朝食に出たパンがやたら美味しい。ついついたくさん食べてしまう。ベルンの中心街は地図で見る限り2時間もあれば一周できそうな感じだったが、ホテルから出て歩き始めて、それが本当だとわかる。道に沿って並んでいる建物や家屋のきれいなこと! 1階部分はアーケードで連なっていて(全部あわせると長さが6キロにもなって、ヨーロッパで最長とのこと)、しゃれた感じのお店が延々と続く。大聖堂や時計台をはじめとする背の高い中世の建物、そして道路に点在する噴水や彫像がアクセントをつけ、どの建物も全体と調和を保ちつつ一つ一つが目を引く要素ももっている。まるで一人の人間が設計したものが長い時間を経て熟成したかのような落ち着きとしっくり感がある。世界遺産に登録されるのも、むべなるかな。午前9時半頃にあいにく雨が降り出し、バラ園を訪れたときにはずいぶん降られたが、その後はさっと雨が引き、少々暑く感じるほどに晴れ上がった。 道行く人々を見下ろす位置にあるレストランのテラスで雨上がりの涼しい風に吹かれながら昼食をとり、午後にはベルン自然史博物館に出かけた。(ベルンの施設は月曜日は休館、もしくは午後2時からの開館となっていて、この自然史博物館もそうだった。)動物の剥製が多いことは前もって知っていたが、いやー、この博物館はすごい。ロンドンの自然史博物館をある面では超えていると思う。剥製技術の精巧さは言うに及ばず、網羅的に生物の種を示そうとする収集へのこだわり、内部の解剖や骨格、運動の様子なども含めて、生きている身体の様子や周りの環境とのやりとりをあの手この手を使って再現させようという点など、面白い博物館のお手本のような展示がいくつもあって、びっくりした。蟻を何千(何万?)匹も飼って巣を作らせ、その活動の様子を見せるために透明なチューブで結んだ3つほどの大きな透明なケースに住まわせて行き来させるやり方には圧倒された(人によっては猛烈な数の蟻が蠢く姿を見て、気持ち悪くなるでしょう)。生きたカブトガニも初めて目にすることができた。アンモナイトや羊歯類の化石の数や大きさも半端ではない。巨大な哺乳類、非常に多数の鳥類、そして超精巧な製作技術を要するようにみえる両生類など小さな生き物の剥製や骨格標本……いずれも作る者の執念を感じさせるこだわりの品々だった。(説明がドイツ語しかなかったのは残念。) ベルンの街の主だった通りを歩きまわってすごした一日だったが、東京の繁華街のどこと比べても人の数がうんと少なくて、混雑した感じがまったくないのは、うらやましい限りだ。アーレ川が中心街全体をぐるっと取り囲むようにU字型に流れ、その外側にはまた街全部を覆うように、小高い丘(というか山)に緑鮮やかな木々が生い茂る。至る所に赤いゼラニウムの花が咲き、家々の屋根はすべて赤茶けた色の煉瓦屋根に統一されている。落ち着いた時間の流れを感じるのは、こうした中世の風情が残っているためだろうか? こんな街に住んでみたい、と思わないではいられない。
6月14日(火) ベルン→ジュネーブ 今日は午後から「スイス健康局」(スイス連邦公衆健康局)に取材に出かける。これは日本の厚生労働省に相当する政府の省庁だ。事前に申し込みをしていたMartin Meierさんにお話をうかがう。 午前中少し時間があったので、昨日月曜日は休館だった「ベルン市立美術館」に入る。パウル・クレーの作品が2000点以上も収められていると聞いていたので、大いに期待して入ったのだが、なんとなんと、少し離れた丘の方に6月20日に開館する新設の「クレー美術館」へ、1点を除いて全部移したのだとこと。残念でならなかった。ただ、アンケルやホドラーといったスイスの画家やドラクロワ、セザンヌ、モネ、ムンク、ブラック……など、どれも1点か2点ずつであるものの、重要な作品が展示されていて、じっくり眺め入った。帰りにクレーの絵の絵葉書を2つ買う。 その後、正午までの時間で、ベルンの大聖堂の中に入り、長くて細い螺旋階段を延々と上ってすばらしい展望を楽しむ(足元から急転直下の切り立った所からの見晴らしなので、ほんとのことを言うと、かなり怖かったです)。高さ100mのこの大聖堂はほぼ500年をかけて造られたのだという。礼拝堂は20mはあろうかと思える高さのドーム状の天井を持ち、後期ゴシック様式の彫刻とステンドグラスがじつに見事だ。美しく装飾された巨大なパイプオルガンもあり、静かな音楽が奏でられていたが、それが礼拝堂全体をなんとも美しい響きで満たしていた。造られた当時に音響設計の複雑な計算などなされたとは思えないのだが、これほど美しいオルガンの調べと響きは耳にしたことがない。職人が自身の感性を研ぎ澄ませたところに成立する技術は、奇跡的なことを可能にするものだという気がする。 午後は健康局に向かった。連邦政府の官庁なのだが、コンクリート打ちっぱなしの飾り気のない箱のような建物が郊外のだだっ広いところにポツリポツリと建っているという感じなのだが(研究都市のつくばを連想させました)、中に入ってびっくり。きわめて斬新なデザインで、個々のオフィスがガラス張りになっているところが多く、外から中の様子が眺められる。扉も開けっ放しにして誰でも出入りできそうなオープンな感じが全体に漂っている。カフェテリアで約束の時間が来るまでを過ごしたのだが、職員や研究員たちは背広を着ている人はほとんどいなくて、みなとてもカジュアルでインフォーマルな姿だ。なんと言っても若い人が多い。大学の自然科学系研究室の仲間たち、といった感じだ。 Meierさんが迎えに来てくれて、彼のオフィス(研究室)に通される。30歳半ばくらいに見える男性で、柔和な表情が印象的。生物学と物理学のPhDを持つ。私がなげかける質問に「国の政策についてはそれほど詳しくはないのだか」と断りながら、電磁波規制に関する取り組みや現在の問題点について丁寧に語ってくれた(話の中身は別のところで詳しく取り上げる)。貴重な資料もコピーをいただいたいり、情報源を教えていただいたりした。 公衆衛生・健康に関して予防原則の尊重を法的に規定しているため、個々の環境問題で予防的措置をとることに、日本とは比較にならないほど前向きである。ほとんどまったく普及していないIH調理器についても、家庭内の熱システム全体からの電磁波被曝を調べようとするプロジェクトの中で調査対象のひとつと位置づけられていることからも、それは伺える。 バスでベルン中央駅に戻り、鉄道ICでジュネーブに向かった。夜の(といっても明るいのですが)7時にホテルに到着。明日からWHOのワークショップだ。
6月15日(水) ジュネーブ ジュネーブの中央の中央駅であるコルナバンからバスに乗って10分のところに、国際機関が集中して立ち並んでいる一角(アッピア通り)がある。不覚にも、今朝はいくつもあるバス停-しかもかなり距離的に分散している-のどれからその通りに向かうバスが出ているのか、4人ほどの人に尋ねたのだが、みんなはっきりわからず、ワークショップの開始時間のこともあったので、やむを得ずタクシーを使う。 10階ほどの巨大な建物だが全体がガラス張りで細長い直方体の形をしているので威圧感はない。周りに緑が多い。入り口でパスポートを示して参加証となる名札をもらい中に入る。昨年のワークショップでもお目にかかった日本からの参加者SさんとOさんの姿が見えたのでご挨拶する。今回は他にも日本人が4,5人参加している。中央に円卓を配して、その周りを正方形状に囲むように机が並ぶ。TVで映る国連の会議場の雰囲気とやはり似ている。 ワークショップのテーマは「携帯基地局と無線ネットワーク」だ。主たる話題は、携帯基地局からの高周波電磁波が人体にいかなる影響をもたらしているか、科学的にどこまでわかったかを検討しようというもので、1日目は「携帯通信革命」「高周波電磁波の被曝量計測」「基地局電磁波の健康影響研究の評価と今後求められる研究」……といった話が続く。30分のプレゼンで濃い内容をつめこもうとほんとんどのスピーカーがかなりの早口でまくし立てる感じだ。こちらは聞き取るのに必死。やはりあまりに専門的な内容になるとわからない部分も出てくる。幸いパワーポイントの大きな画面がスクリーンで映し出されるので、おおよそのところは把握できるが、的確な質問を瞬時に返せるくらいに聞きながら内容をつかみとるのが難しい。これは英語圏に属さない参加者にわりと共通した悩みなのではないだろうか。というのは、やはり質問する人がかなり限られているように思えるからだ。ワークショップの中身については、講演予稿集もあるので、別の機会に詳しく紹介することになる。(帰国して間もない26日に簡単な報告をする機会もある。) 日本でワークショップ形式の専門家会議を行うときと比べて、少し違うなと思えるのは、ブレイクの時間が長いことだ。昼食(1時間半)を別にして、午前に1回、午後に1回、30分の休憩が入る。コーヒーなどの飲み物とスナック類が用意される。会議中に質問の時間が十分とれなかったことを、これで補おうとしている感じさえする。 1日目の会議が終わって、簡単なレセプションパーティーがあった。数人の参加者といろいろおしゃべりした。台湾の2人の研究者(毒性学、環境アセスメント)、ドイツの社会学者、オーストリアの政府で環境関連の仕事をする女性……なかなか楽しかった。こちらがNPOだと言うと「どのようにして資金を得ているのか」という質問が必ず出てくる。オーストリアの女性はどうも私と年が同じくらいで、しかも生物学を専攻していて途中で方向転換したところも似ているので話が弾んだ。「大学に入りたてのときは、よし分子生物学を研究して癌を撲滅させるための画期的な発見をするのだ、と息巻いていたわ」と語っていた。私が発生生物学を専攻したことを述べると、「それこそ生物学で一番興味深くて核心的な分野ね」と反応してくれた。女優のジョディ・フォスターによく似た美人で、にこっとするときの知性的な笑顔が素敵だった。
6月16日(木) ジュネーブ WHOのワークショップの2日目。 今日のテーマは携帯基地局のリスクアセスメントやリスクコミュニケーション。一番興味深かったのは、各国の事例紹介の中でスイスが予防原則をそう生かして高周波の規制を行っているか、という点とイタリアがはやり独自の規制を設けていて、それが現実に守られているかどうかをモニタリングする方法を編み出している点だ。イタリアは全国に100箇所を超えるモニタリングポイントを設け、環境中の電磁波を定点計測していると同時に、を全国で「青バス」という名をつけたバスをいくつかの都市部などで街の中を走らせて、気になる環境に赴いての計測も行っている。この2つの国は携帯基地局の問題で紛争がないわけではないのだが、それを解決していくために賢明な政策的対応をなしていこうという姿勢が著しいように感じた。 一昨日スイスの健康局でインタビューした際に紹介されたバウマンさんがスピーカーとして話をされたので、ブレイクの時間につかまえてお話をした。スイスでは家電製品からの電磁波漏洩の問題は“環境問題”として扱わないので、電磁波規制をしていく対象としてとらえていないが、全部の家庭に共通する要素(たとえば熱供給システム)や職場に固有の要素については“環境”として扱うので、規制の対象としてとらえていく傾向がある、との指摘をされていた。 会議は夕方5時半まで続き、様々出た意見をどうまとめるのか、なかなか明確にみえないまま、幕を下ろした。WHOの電磁波プロジェクトがこの問題に一定の見解をfact sheetとして示すのがいつになるのかはわからないが、世界各国でもめている携帯基地局設置の問題だけに、メディアからも大いに注目されるだろう。 昼食の後に、各国の状況を伝えるための自発的なショートプレゼンテーションの受付けがあった。日本人の参加者の中から某国立研究所に所属するある若い方が5分ほど発表をしたのだが、あまりにお粗末で筋違いな発表だったので、唖然としてしまった。「各国の報告」とは、基地局をめぐる状況を伝えることだ。何を考えているのか、総務省のホームページの紹介そのままといって過言ではない、「日本には電波防護指針があり、その中で規制をしている。生体電磁環境推進委員会があり、各種の研究をしています」といった類のことを述べただけ。基地局の設置に関する問題点や紛争のことは一言たりとも触れない。日本は他の国と比べても基地局のことでは解決すべき課題を多く抱えているはずだが、この人はとにかく上司から「日本のことを伝えてこい」と言われて、総務省のスポークスマンになればよいと考えたのだろうか。英語も非常につたなかったけれど、それ以前の問題として、他の参加者をポカンとさせることを自分がしゃべっているという事態がわかっていない。それが恐ろしい。 ワークショップを終えて、夕方の涼しい風に吹かれながら、レマン湖の突端にあたる場所(「英国公園」があるあたり)を歩きまわった。ベルンと違ってやはり大都会だ。道行く人々も様々な国籍の人がいるように見受けられる。テラスにテーブルを構える店が軒を連ねるあたりを見つけ、1軒を選んでテーブルにつき、注文する。メニューがすべてフランス語なのでよくわからなかったが、あたりをつけて3品を頼む。ここのところ野菜不足だったので少し大き目のサラダと、オムレツ(なぜか量が少ない!)とパスタ。そしてビール(これも量が少ない!)とグラスワイン(同様!)。スイスは物価が高いと聞いていたいが、これら全部をあわせて日本円で4500円もしたので驚いた。
6月17日(金) ジュネーブ→(パリ)→ブリュッセル 今日は移動の日だ。ジュネーブからパリを経てブリュッセルに向かう。鉄道での移動は初めての旅で一番不安を掻き立てる要素だ。電車の指定席を手に入れても、ちゃんと出発の時刻までにその駅にたどり着けるか、ヒヤヒヤすることがあるからだ。今日も、パリでいったん地下鉄に乗ってブリュッセル行きの電車に乗り換えることになったのだが、この地下鉄、どれがどこ行くのかがわかりにくい(パリ駅のインフォメーションセンターのお姉さん、こちらが英語で尋ねた内容がわかっているくせに、英語で返事しないでフランス語のメモ書きをポンと渡すだけ、というのはやめてよね)。荷物も抱えているし、載り損ねたら大変だし……と、どうしても焦ってしまう。でも無事ブリュッセルに到着。朝10時に電車に乗って、待ちや乗り継ぎを経て、夕方4時20分に到着。長い車中旅行だった。面白かったのは、ジュネーブからパリに向かう列車から見た風景だ。ジュネーブを出てすぐにフランスに入ったはずだが、そこからパリの直前まで特急延々2時間半ほどの間、見渡す限り農場と牧場が広がっていたことだ。「フランスは農業国」とはよく言われることだが、それを実感させる光景ではあった。 ブリュッセルの街は立ち並ぶ建物こそ中世風の造りをとどめているといえ、軒を連ねる店舗やオフィスはモダンだし、駅の周辺や中央広場付近には高層のビルがいくつもそびえている。ホテルにはタクシーで向かったが、いったん街に繰り出してみると方向がわからず、そもそも手元に地図を持っていないので(ベルギーだけの観光マップを手に入れることができなかった)、とにかく街に掲げてある大きな地図を見つけて、どこをどう歩けばいいのかを把握しようとやっきになった。車が多くて、けっこうスピードを出しているものもある。歩道はやたら広くて(スイスでもそうだった)、これに慣れると日本に戻ったときつらく感じるだろうなと思う。広大な植物公園がホテルから歩いて10分くらいのところにあった。中をぐるっと回りたかったが、どうもいくつかの部分はもう閉まっているらしい(夕方6時)。そこをあきらめて、目抜き通りを歩く。銀座に雰囲気がよく似た通りだ。大きく違うのは、道往く人々の国籍が多様であるという点(どういうわけだか、トルコやイランンなど中東から来ているとおぼしき人が多い)、そして通りのうんと先が見通せてそこには巨大な宮殿が控えているという点だろう。 期待のベルギービールを2種類飲んだが、どちらもきわめて美味しかった(ひとつはすごく甘みの強いビールだった)。お店の給仕の男性もがっしりとしているのに動きが軽やかで、無口だけれど笑顔が素敵な、まるで映画俳優のような雰囲気を漂わせた人だった。ベルギー人とフランス人やドイツ人を見分けるのは難しい(というよりたぶんできない)が、全体として日本人よりやや大柄といった背丈で、少し北欧系の肌の白さが強い(そして目が青い人が多い)という印象を持った。 明日は憧れの街、ブルージュを訪れる。
6月18日(土) ブリュッセル→ブルージュ→ブリュッセル 今日は土曜日。ベルギーのブリュージュを訪れた。ブリュッセルから電車で2時間弱。素晴らしい晴天に恵まれて、期待に胸が膨らむ。駅前の広場から街に聳え立ついくつかの聖堂や塔が見える。街の中央部に到るいくつもの道があるようだが、とにかく一番高い聖堂を目指して歩くことにした。 歩き始めて直ちにここが「屋根のない美術館・博物館」と呼ばれる理由がわかる。 車と観光客がいなければ、中世にそのままタイムスリップしたと錯覚するような光景。どの道もどの建物もすべてが一つに溶けあっている。美しい川と馬車と至る所に生い茂る大きな樹木と小鳥たちの囀り……。石造りの家々が石畳の道に沿ってどこまでも続く様は、これは映画のためのセットではないかと目を疑いたくなるほどだ。電柱や電線は一切ない(あたりまえか……)。観光客を乗せたボートや馬車がゆったりと行き来するのが、なんとものどかだ。 昼食はベルギーの名物ムール貝と美味しいビールをいただいた。 歩き疲れて川べりで寝そべり、空を見上げた。たくさんの葉っぱが太陽をさえぎったり透かされたりしながら、川の水の流れを映して刻一刻と変化する微妙な緑のグラデーションを生じている。風に吹かれて枝がゆっくりと揺れ、それがまた陰影の変化をもたらす。聞こえるのは水が流れる音、風に吹かれて葉がすれあう音、小鳥の声だけ。僕自身もこの街に溶け込んでしまいそう……。 心ゆくまでのんびりとこの美しい街で一日を過ごせたことは、一生忘れられない思い出となるだろう。
6月19日(日) ブリュッセル→デン・ハーグ 今日は国境を越えてオランダに移動する日。そう言うと大そうに聞こえるが、実際はブリュッセルから特急で2時間ほど乗るだけ。電車待ちの時間が1時間近くあったが、もし前もって時刻表など読めるようになっていれば、その待ち時間も短縮できる。ブリュッセルの駅もそうだったが、デン・ハーグの駅も1つではない。つまり「中央」があり、「北」があり……で3つも同じ名前で始まる駅名であったりする。これが混乱のもとなので、ホテルを予約する際は要注意だ。デン・ハーグのホテルは特急が到着した駅から近いのかなと思っていたが、まず中央駅まで一駅電車で向かう必要があった。そこからインターネット入手していた地図を手がかりにホテルに向かったのだが、この地図には駅が示されていないので、まず方角で迷う。ドイツと同じでオランダにはすべての通りに名前がついているので、一つだけでもその通りが認識できれば後は大丈夫。しかし、大きな地図に細かな道がたくさん記されていると、求める名前を探すこと自体が大変だ。大きな荷物を抱えながら目的のホテルにやっとのことで到着した(初めから路面電車のルートが分かっていれば、もっと楽だったろう)。 デン・ハーグの街は日曜日であるせいなのか、とても閑散としていた。駅前に超近代的な高層のビル(デザイン的にすぐれている)があると思えば、宮殿風の非常に大きな古い建物が運河沿いに続いている。(後で分かったのだが、オランダの国会議事堂だった。なんと立派な!)自転車道路、路面電車道路、車道、歩道と4つがきれいに分かれていて、道路が全体としてとても広いせいか、街の見通しがよく、気持ちがよい。花壇や街路樹も到るところに目にするし、洗練されたショーウィンドを持つお店などが並ぶ路地も面白い。なぜか書店、ギャラリー、古本屋が多い。日本人が着ても似合う人は少ないだろうなと思える、いかにも高級で見栄えのするスーツやドレスのお店も目に付く。もちろん、教会の聖堂や塔もある。 ただ、日曜日だということでレストランがほとんど閉まっていて、探すのにちょっと苦労した。1件見つけて入ったのはおよそ午後4時半。夏の盛りに入っているのだろうか、非常に日差しが強く、かなり暑い(蒸し蒸しはしないけど)。美味しいビールを飲んで、まったくわからないオランダ語のメニューを見ながら給仕の人にひとしきり説明を受けて、海産物の取り合わせがいろいろある品を���文した。海老やイカの揚げ物や炒め物が中心だったが、なかなか美味しかった。いつものうように、店の外にテーブルを並べているテラス風のスペースで(正式にはなんて言うのでしょう、こういうスペース?)食べたが、60席くらいあるところに数組しかおらず、日本だったらかかっていそうなBGMもまったくなく(これは街全部がそうです)、なんとも静かでさんさんと明るい夕方だった。こちらのカラスに相当するのか、日本のカラスの半分ほどの大きさのカラスが、もの欲しそうにテーブルのまわりをちょっと高めのトーンの「カァ」という鳴き声を出しながらうろついているのがおかしかった。 夜は9時半頃まで明るいので、食後もデン・ハーグの街をぶらつきながら、明日のインタビューや明後日の「被曝モデル」の相談、そして日本の友人たちのことを考えた。国際電話をかけてみようかなと思ったが、時差が7時間ほどあるので、日本は真夜中。さすがにあきらめました。
6月20日(月) デン・ハーグ デン・ハーグでの取材の日。 朝一番に、取材先である「オランダ健康評議会」が入っている建物を探す。駅からホームページにあった指示通りに歩いてみると、なんと昨日デン・ハーグの駅に着いてすぐに通りがかった巨大でモダンな建物の中にあることが分かった。この建物自体は「健康、福祉およびスポーツ省」という政府の省庁であり、その中に健康評議会が入っている。 今日も朝から相当暑かった。部屋には冷房が欲しいほどだったが(ちょうど朝の日差しが部屋に入ってくる位置だった)、安いのホテルの悲しさで、空調はなく、トイレとシャワー室も共用。少し落ち着かない感じでシャワーを浴び、インタビューの準備をする。 お昼の2時頃に永瀬ライマー桂子さんが宿に到着。1年ぶりに再会する。今日と明日のインタビューの通訳していただくためだ。本日のオランダ健康評議会は英語でのインタビューも可能であると知らされていたが(というより、オランダ人にとってドイツ語を使われることはむしろ若干嫌われる傾向がある、第二次大戦でのドイツによる支配の歴史があるから)、相手にドイツ語で話を進めてみることを承諾してもらえるようならそれでいき、専門用語などで差し障りが生じるようなら英語を随時使うという方針にした。 インタビューの時間(午後4時半)を迎えて建物の中に入っていったのだが、ベルンの時にもまして、とても省庁とは思えない見事なデザインと構造になっていることにまず驚かされる。入口で電子入館証となっているカードをもらい、目的の部屋まで歩いていったが、階段といい、各部屋といい、資料が並べてあるスペースといい、モダンな博物館・美術館といった雰囲気がしてならない。健康評議会の入口には、何ゆえか日本の着物とおぼしきもの(ただし人が着るものの2倍くらいはありそう)が飾ってある。秘書さんが待ち構えていてくださって、部屋に通され、冷たい飲み物をすすめられた。普段から打ち合わせに使っていると思えるそのオフィスのものも、明るくて落ち着いたオレンジっぽい色調で統一されている、広くて清潔感にあるれる部屋だった。 インタビューに応じてくださったのは、健康評議会のヘッドの地位に相当すると思われるExecutive DirectorのPasschierさん。白髪の60歳ほどのお年にみえるいかにも厳格な学者を思わせる感じの方だ。マースリヒト大学のリスク分析の特任教授もしておられる。105年の歴史を持つこの健康評議会が、公衆衛生や健康にかかわる政策決定をなすにあたって必要な専門的情報や判断を政府や国会に提供するための研究機関であり、かつ審議・諮問機関でもあることから話が始まった。200人ほどの専門家(科学者、公衆衛生関係者)を擁して、政府からは独立しながらも、科学技術政策のためのブレインとして��能する極めて重要な機関だ。 Passchierさんの話は脳死臓器移植や環境問題、予防原則の一般論にも及び、驚くほど守備範囲が広いことを伺わせたが、さらに驚いたのは、おそらく扱う領域の一部でしかないはずの電磁波問題に関しても、こちらが言及した、国際的にある程度知られた報告書やデータのことはどれもよくご存知で、「日本にはこういうタイプの専門家はほとんどいないのではないか……」と感じないではいられなかった。Passchierさんは「予防原則は科学的根拠に立脚しつつ適用することができるものだ」との考えを示されていたが、オランダが予防原則をどう政策に適用していくかの方針に関わる報告書を現在まとめておられるとのことだった。年末に英語で報告書がまとまるらしい。私の直感だが、これは世界的に見て、予防原則に関する重要な文書になるのではないだろうか。インタビューの詳しい内容は、また別の機会に紹介する。 取材を無事終えて、永瀬さんが前もって教えてくれていた「オランダはインドネシア料理が美味しいのですよ」という教えにしたがって、ホテルの近くのインドネシア料理店に入る。食べ物が美味しかったのはもちろんだが、お店の店主やウエイトレスさんたちが大変フレンドリーで、思いっきりくつろげた。店を出た後もホテルの軒下のカフェ・スペースで引き続きビールをいただき、気づいてみれば4時間ほども楽しいおしゃべりに興じたのだった(次々と面白い話題が飛び出してきて、笑いすぎてお腹が痛かったです)。
6月21日(火) デン・ハーグ→ケルン→フランクフルト 昨年も訪れたnova研究所(nova-Institute)でのインタビューのために、デン・ハーグからユトレヒトを経てケルンに向かう。ユトレヒト行きの電車が、通勤に利用されているのか、けっこう混雑していた。途中の駅で電車が何かのトラブルのために止まってしまい、「どうしたのだろう?」と思っていると、「ドアが開きません。今開けようとしています」とのことで、都合1時間近くも遅れることになった。でも乗客たちはそんなに焦っているふうでもなく、車内アナウンスが流れたときに苦笑している人が多かった。 ユトレヒトからケルンに向かう電車では、指定席のコンパートメントは4人が2人ずつ向かい合う形の座席だったが、同席したアメリカ人のビジネスマンが、同席のよしみで声を交わすうちに、なんと永瀬さんが学んだのと同じオランダの大学の同窓生であることが判明。ひょっとして同期かもしれないと、話が盛り上がった。彼は物理学を専攻して、情報系の会社、自動車メーカーと勤め、今は放送関係企業のIT関連の部署で働いている。一流のビジネスマンであり、極めて頭がよいように思われた。私が「電磁波問題でWHOのワークショップに参加した」と言ったら、俄然興味を示し、電磁波リスクのことやモバイルのシステムや規格のことなどで矢継ぎ早に質問を投げてきて、ひとしきり議論してしまった。日本では乗り合わせただけの他人とここまで話が弾むことはなかなかないので、これも国境を越える旅だからこその体験かなと思った。 電車のトラブルはあったものの約束の時間に10分遅れほど駆け込むことができそうなので、ケルンの駅について駅前の超巨大な大聖堂に見とれる暇もなく、すぐさまタクシーに乗り込んでnova研究所に向かう。 1年ぶりに再会したスタッフのPeter Nieβen博士およびMonika Bathow さんのお二人は、素敵なアパートメントの2階つながりの部屋を使った事務所で私たちの到着を待ち構えてくださっていた。「この1年の活動はどうでしたか?」と聞いてくださったので、食プロジェクト、ナノテクリスクプロジェクト、生命操作プロジェクトのことなどとともに、電磁波プロジェクトで行った、関東の鉄道会社13社への「電車内の携帯電話使用に関する公開質問状」のことなどもお話した。 nova研究所は、電磁波、過疎地域援助(EUから資金援助を受けて、旧東ドイツの産業不振地域などを対象に)、代替原料(ディーゼル→菜種油、木綿→麻などエコロジカルな原料の推奨・普及)の3つのテーマに取り組むNPOで、専属スタッフ20人、うち電磁波チームは4人でそのうちの2人が電磁波問題専属だ(インタビューに応じてくれた二人が専属である)。 このたびは、市民科学研究室の「電磁波プロジェクト」がIHクッキングヒーターの調査研究をすすめるにあたって、いかに被曝モデルを設計して有効な計測データを得るのか、そして得たデータをリスクの評価にどうつなげるかを相談するのが目的だ。ドイツではIHはほとんどまったく普及していないが(逆に「日本ではなぜ普及するのですか? 電熱器ではダメなのですか?」と訊かれました)、nova研究所が様々なところから請われて精密な電磁波計測(低周波ならびに高周波)を行っているので、私が考案した「IH被曝モデル」が妥当かどうかを議論していただこうと考えたわけである。 近くのレストランでの庭先のテーブルを囲んで、私が用意した資料などにも目を通してもらいながら、熱心に意見を述べてくださった。計測にあたっての具体的なアドバイスもいくつかいただき、本当に来てよかったと思った。2時間半に及ぶ話し合いが終わり(永瀬さん、通訳お疲れ様でした!)、お二人はアップルパイを私たちにおごってくださった。いやー、そのパイの大きいこと! お二人の心の広さ、暖かさに似つかわしい、大きくて美味しい手作りパイだった。 nova研を後にして、ケルンの駅で永瀬さんと別れ、フランクフルトに向かう。昨年泊まったのと同じ駅前のホテルを予約しておいたのだが、その場所が変わっていて、戸惑ってしまった。この欧州旅行の最後の夕食を、喉越しに気持ちよいビールとともにいただいた。ひと時の夕立も涼しい夜を招いてくれる恵みのように感じられた。
6月22日(水) フランクフルト→(アムステルダム)→成田 11日間の欧州取材旅行を無事終えて、11時の飛行機に乗るためにフランクフルトに向かった。フランクフルトは欧州最大の空港で、成田空港も作る際に日本から視察団が訪れて参考にしたといわれる。オランダ航空の便に南米からの一行が乗り合わせたのだが、陽気で騒がしく、この人たちもし12時間も飛行機で隣同士になったら大変だろうな、と思った。中継はアムステルダム空港だったが、これがまた大きい。トランジットで1時間半ほどあったので、御土産の買い物がてら時間をつぶしたのだが、「寿司バー」(カウンターで寿司とワインがいただける)あり、インターネットカフェあり、大きな書店あり、高級ホテル風のレストランあり……で飽きさせない。チーズを数種類買ったが、その際に搭乗券の提示を求められ、バーコードが素早く読み取られるシステムになっていた。 11時間のフライトは、窓際の座席の上の蛍光灯が始終点いたままになっていたので、快適とはいいかねたが(私は外が明るかったり、電灯が点いていたりすると、眠れないのです)、途中で延々と広がる雲の“大海”のはずれから太陽がゆっくりと昇る、極めて美しい“日の出”を眺められたのは嬉しかった。驚いたのは、機内でヘッドホンで聞ける音楽のうちクラシックのチャンネルをひねったら、ずいぶんと通(ツウ)向きの曲が流れていたこと。私が愛してやまない、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲たちの嚆矢、第12番の第一楽章が、久しぶりに聞けた。雲上で体験する“日の出”とボンの巨匠の流麗な音楽。ヨーロッパの旅の締めくくりにふさわしいな、と思った。
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◆生きるための糧
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◆生きるための糧 身近で最も難しい問題である。 瞬間瞬間で変わっていくもの。 でも人はこの言葉に生きる希望を託しているのではないだろうか。 前回 ◆生と死 ◆生命 ◆命 を書いた。 ●「誕生死」◆水子 その他に沢山の物を書いてきた。 ドレも大切な事で一つに繋がっている。 便宜上 一つ一つの事柄として分けて考えている。 ◆生きる とは そのままで息をすること。 息しないと 其の先の行動には繋がらない。 息をしているから食欲も物欲も性慾も湧いてくる。 ソレを実行することによりその後の展開へと進んでいける。 その過程が糧になるのかな。 糧 - 大辞泉 では 食糧 食物 精神・生活の活力の源泉。豊かにし、また力づけるもの。 となっている。
◆生きるための糧とは 無論 精神・生活の活力の源泉であり 豊かにし、また力づけるもの である。 デモ食べ物としての意味も大きい。
生きるとはこの様に大きな問題。 タダ息して飯食って糞しているだけではない。 仕事に生きがいを見つけたり 女遊びに生きがい見つけたり 登山にダイビングに生きがい見つける人もいる。 ボランティアもいる。 そしてコレが生きる糧だと言う。 精神的なものが多くて言葉では言い表しにくい説明が不十分になる言葉である。
みなさん 一度 ジックリと考えてみるのも一考かな。 ◆人は一人で生きて行けない理由 - 人生の案内ステーション http://jinsei-sinri.com/jinseitoningen/jinseitoningen05.html しかし、誰も人のいない山奥などで、たった一人で暮らすことは可能でしょうか? 結論から言うと、たった一人で人生を生きていくということは、ほぼ不可能です。 まれに人間社会を離れて、まったく人のいない山奥に暮らす、仙人のような人がいるかもしれません。 ◆Masaoのおっさん人生 - 社畜が結婚したくなるとき http://bit.ly/yDaXG7 みなさん、今日も元気に社畜してますか?僕も社畜です。 日々社畜をしていると、自分の人生に虚しさを覚えることが普通にありますよね。「あぁ、俺はこんな大してやりたくもない、どうでもいいような仕事に、一生のほとんどの時間を費やして死んでいくのだろうか?」って。 こういうとき、社畜は自らが生きる意味に疑問を抱き、「私が死んでも代わりはいるもの」とつぶやき、ふと、駅のホームから線路に身を投げてみたくもなるものですよね! そんな気分のとき、社畜の頭をもたげてくるのが結婚願望です。 ◆【江刺の稲】耕すは種蒔くために非ず https://agri-biz.jp/item/detail/715?page=1 『農業経営者』編集長 農業技術通信社 代表取締役社長 昆吉則 第11回 1995年06月01日 昔から日本人にとって「だがやす」とは、「田を返す」ということでも、ただ単に「作物を植える準備として、田畑を掘り返す」ことでもなく、農業の基本原理としての田から得たものを「田へ返す」「戻し続けよ」「循環を守れ」を意味する言葉であったのだと僕は思う。 ◆「神の道具」として天の采配を素直に実行する(2018年を振り返って) https://takubotakeshi.jp/tubuyaki_181231 2018/12/31 2018年を個人的に振り返ると、短かったようで、長くもあり、何も無かったようで、実はいろいろあって… でも、そのいろいろあった事に執着があまりないという感覚と、反面、こうして改めて振り返ると、そのひとつひとつは感慨深くもあるという、例年とはまたちょっと違った感覚の大晦日を迎えています。 そんな、田久保剛の2018年を思��つくままに書きました。 1 「神の道具」という啓示; 2 直感に従う体験; 3 相手の神に向き合う; 4 瞑想の大きな可能性と天の采配; 5 ☆2019年1月8日迄の限定企画★ 【2018年末&2019お年玉キャンペーン実施中!】 5.1 おすすめ関連記事 日常生活の中で、普遍意識に意識を合わせ続ける、本質的な意味での瞑想の普及も、私の役割と思っていますので、セミナーや ... そう思いながら、成功法則やスピリチュアル、精神世界などの様々な情報を探し求め、時間とお金を費やしても、なぜか一向に、現状が良くならない・・・ ◆武家���法 暴力なき武士道 http://bit.ly/zFVtf2 小笠原宗家礼法総師範 源松斎山根菱高 「武家礼法」は武芸とともに武士のたしなみであった。すなわち武家礼法は、武士としての所作を実現するものであり、町人の「ビジネスマナー」や婦女子の「お作法」とは本質的に異なったものである。武家礼法においてこそ、現代の我々が実現できる武士道となりうることを追究したい。 江戸時代の武家政権は商業を軽蔑・軽視したがゆえ財政的に崩壊した。 確かに経済の価値は否定できない。 まず人は生きるための糧を得 なくてはならない。 しかしそれは生きるための必須の「手段」ではあるが、決して「目的」となるものではない。手段が自己目的化してしまっては永遠に真の目的に近づくことはできない。 ◆ナタリー - [Power Push] FUZZY CONTROL http://bit.ly/yA0fq7 時代が変わっていく音がしてるじゃないですか、あちこちで最近。そんな中で、自分が今見えてるものを信じながら生きていくことが、とりあえずの答えっていうか。 今日生きる ための糧だって、そういうことを言いたかったんですよね、歌詞の中で。 ◆ネコ灰だらけ:The pinballs「生きる糧だ!トランジスタラジオ」2011年3月21日 https://necotaro.ti-da.net/e3346395.html 小生は、戦争難民の少年が、生きるための情報を得るため、あるいは唯一の無二の娯楽である音楽を聴くために、まさに「生きる糧」であるラジオに耳を傾けている姿を想像していました。 ◆生きていく限り、生きる糧が必要なのだ|洋子|note https://note.com/yoko_fl_/n/neb5613901f13 2019/07/25 「生きる糧になる」 本当に重い、体重がのった言葉だ。 どれだけ間違ったことをしてバッシングを受けている人間も、生身の人間なのだ。仕事どうこうではなく、生きると決めたなら生きなければならない。この問題が騒がれている今も、いずれ忘れ去られる未来も、彼は生きていく。生きていく限り、生きる糧が必要なのだ。 だからいろんなものを背負っている彼に、ファンや仲間という「生きる糧」があって本当にほんとうによかったなと思っている。 ◆今月のフィロソフィ 「夢は明日を生きる糧」 | サンブログ - サンフロ賃貸 https://search.sunfrt.co.jp/blog/staff/philosophy_m/p10700/ 2018/02/26 ※参考文献~2009松下幸之助 日々のことば 希望 (PHP研究所)~ 皆さんは夢を持っているでしょうか。 私は夢を持っています。 (声に出すと良いといいますが、ここでは言いません) 夢でも目標でも持っていると、自分の生き方に軸ができます。 どんなに苦しいことが起きても前を向いて歩いていくことができます。 高い壁を乗り越えてやる、今に見てろという気持ちにもなります。 そうすると、自分自身の心も強くなり言葉にも力が出てくるはずです。 小さい夢、大きい夢、目標でも何でも大丈夫だと思います。 強い思いを持って前向きに生きていきましょう。 (まちゃこ) ◆自分が一日一日を精一杯生きる糧に。 | ひろしまドナーバンク | 感謝の手紙 http://hiroshima-donor.net/taiken03.html 庄司 美登里さん(50歳/広島市), 自分が一日一日を精一杯生きる糧に。 「娘の分まで、誰かに生きていてほしい」。8年前、18歳だった娘さんを交通事故で亡くした。そのことが、庄司さんにとって命の大切さを考えるきっかけになった。 自分自身、かつて貧血に苦しんだ時期がある。「病気で苦しむ人の役に立ちたい」。 娘さんの死後、そんな思いを持っていたところ、市役所のロビーでたまたま骨髄バンクのパンフレットを目にした。 ◆学校ではゼッタイに教えてくれない・・・人生を生きる上で大切な「9つのコト」 2015/03/19 TABI LABO編集部 https://tabi-labo.com/98263/life-lesson 学校では多くの物事を学ぶことができる。そこであなたが培った知識や経験は、その後の人生の糧となっていくはずだ。 だが人生には、実際に生きてみないと、どうしても学べない事が存在する。教科書には載っていないモノゴトの本質に触れる機会がたくさんあるはずだ。海外メディアで話題になった、学校では教えてくれない「9つのこと」を紹介しよう。 ◆「自分の人生を生きていないとき」人は病気になる 「言葉で病気を消す」 https://president.jp/articles/-/18207?page=2 2016/07/02 自分の人生を生きることは、今すぐにでもできる 「自分の人生を生きる」ということは、誰かと競ったり、自慢するためだったり、または誰かのために生きることではありません。自分が心から喜びを感じることをやっているかどうかに尽きます。家族のために仕事をし、我慢をしながら一生懸命に頑張ることが当たり前で、必死にやっているというのが世間の大半でしょう。「本当にやりたいことだけできる人生なんて幻想だ」という人もいることでしょう。しかし、視点を変えて、今やっていることに新しい意味づけをすることは可能です。今していることをすぐにやめて、やりたいことだけをやるという必要はありません。 ◆自分を見失いそうになった時に心に聞きたい、5つの質問 - TABIZINE https://tabizine.jp/2016/03/27/61863/ 2016/03/27 「何のために生きているのか」 「何のために頑張って働いているんだろう」 「自分は何をしたいんだろう」 こんな風に考えれば考えるほど、どうすればいいのかわからなくなってしまうもの。 ますます自分を見失い、ただ不安や焦燥感が募るばかりですよね。 そんな時は、次のような5つの質問をあなたの心に問いかけてあげてみてください。 目次 Page 1 1 今苦しいと感じているのはなぜ? Page 2 1 大好きな人・物・事は何? 2 1か月後死ぬとしたら、したいことは何? Page 3 1 今自分に変えられること、できることは何? 2 自分らしくいられる時はどんな時?
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●古代文明はなぜ砂漠化した
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●古代文明はなぜ砂漠化した ◆水と砂漠と文明、それぞれの因果関係 http://home.e08.itscom.net/21water/bunmei.htm 人間文明とそこに不可欠な水資源との関わりかたに興味を持っている。本誌にそくして言えば、大きな意味で、河川とその水に関わる人間の文化だからだ。 ■砂漠化は文明の仕業か? 水が希少な場所の代表は砂漠である。水が比較して豊富な我が国から見ると、砂漠は人間文明とは対極の位置にあるように思える。水が枯渇し文明が滅んだ土地としての砂漠の印象が拭えないのだ。 その砂漠が、現在でも「砂漠化」によって拡大しているという。 過放牧による植生破壊、農地利用の大規模灌漑の末の塩害、更にはそれらの結果裸地化した表土が風食、水食され、表面の植生土壌を喪失して、砂漠化は進むと説明されている。以上は人間活動によるものだから、その最たるものとして文明が敵視されるのである。 ◆なぜエジプトは砂漠化したのか? - 絵文字姫・まくまく雑学のぉ城 https://blog.goo.ne.jp/celestial_princesa/e/384f2fb49748af19f0306be09b30f8ae 2006/08/17 エジプトは、ナイル川の岸辺のごく一部を残して、乾燥しきった国土をもつ国です。 しかし、かつてこの土地には、世界で最も豊かな農業国家が栄えていました。 巨大なピラミッドを作る力があることからも豊かな国であった事が伺えます。 この富を顕示しようとしたのがピラミッド建設 しかし、このピラミッド建設が緑豊かな国土をカラカラの乾燥地に 変えてしまったのです。皮肉な話ですね・・・。 ◆四大文明と縄文文明 〜学校では教えてくれない四大文明のウラ〜【CGS 日本の歴史 1-6】 2015/07/31 https://www.youtube.com/watch?v=9fk5jZkeuiE 世界四大文明、と言えばエジプト文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明と教わるかと思いますが、未だにこんな事を教えているのは日本くらいです。 実はそれ以前から文明の流れがあったという事が調査により判明しています。(そこに大きな文明があった事実は変わりありません。) もちろん日本にも、文明と呼ばれる文明はなくても、このような流れが遥か昔から続いていました。 他の文明の中心地が砂漠化をする中で、緑豊かな大地を保ってきた日本の持続可能な社会についても、学校で教えるべきではないでしょうか。 ◆世界最古の文明は日本から? 【CGS 日本の歴史 1-2】 2015/07/03 https://youtu.be/7DK8zIy2Fzg 今回は日本の文明の興りについてご紹介します。日本列島では約11万年前には打製石器が、3万年前には磨製石器が使われていました。 そして世界最古の土器は、日本?それとも中国?しかし中国であるという確たる証拠はありませんでした。 また、石器に関しても少し認識がおかしい様です・・・。 気をつけたいのは、世界最古であるから日本は偉いのだ、という事ではありません。正しく認識し、正しく教える事が大切です。 ◆第二回 黄土高原の歴史と砂漠化(2000年9月25日第464号)橋本紘二 http://www.nouminren.ne.jp/dat/200009/2000092508.htm 2000/09/25 黄土高原は昔から砂漠化した大地ではなかったようだ。 黄土高原は古代から大きな国が生まれ、文明が発達したところでもある。紀元前七百年前の周の時代、黄土高原の東南部(現在の山西省の南部)には唐という国があり、春秋時代(BC722~450)の晋は山西省を中心とした勢力であった。そして、黄土高原の南西部にあった秦が、始皇帝によって初めて全国統一(BC221)を果たす。 また、黄河のほとり、西安(長安)には漢王朝(BC202~196)が前漢、後漢時代合わせて四百年も続いた。そして、四世紀末には山西省の大同に北魏の都が置かれ、人口百万の大都市だったという。 つまり、黄土高原に大きな国や都ができたということは、その兵力や大人口を食わせるだけの豊かな農業と自然があったという���とである。 ◆砂漠化 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/砂漠化#砂漠化した地域とその原因 砂漠化した地域とその原因 中東、特にメソポタミア(現在のイラク)は、農業が始められた最初の文明が起きた地域と言われている。 ここは緑に豊かで土壌が肥えていたが、過度な農業活動により土壌が渇いていったことと、河の上流にあった森林の��採によって上流に降った雨が一気に河に流れ込むことにより洪水が発生し、下流の表土を流し去った。 また、灌漑によって表土の塩性化を招いた。 さらには上流からアルカリ性の土砂が流れ込むことにより植物の成育には向かなくなった。 同様のプロセスはエジプトやインダス河流域でも起きている。 インダス河流域に発達したインダス文明は、メソポタミア文明(シュメール)との交流が強く、同様の農業活動を行なったと思われる。 森林は焼き煉瓦を作るために伐採された。 農耕地帯ではしばしば土壌の維持や再生の理解を無視した大規模な農地開発が行われ、結果的に「砂漠化」を招いた例がある。 ◆世界四大文明が起こった所は必ずしも大河のほとりではない | 沖大幹 講義詳細 https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=754 水と地球と人間と(1)水と文明 沖大幹/国際連合大学 上級副学長/東京大学生産技術研究所 教授 ●大河を利用する灌漑技術が文明を生んだ 大上 今日は、東京大学生産技術研究所の沖大幹さんという非常に立派なお名前の先生にいらしていただきました。これから「水の話」をしていただきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。 沖 よろしくお願いします。 大上 それではまず、世界地図を見ながら「水と文明」について語っていただけますか。 沖 世界の四大文明は、大河のほとりに生まれたといわれています。ナイル川のエジプト文明、インダス文明、チグリス・ユーフラテス川のメソポタミア文明、そして黄河文明。どれも確かに大河のほとりですが、大きければよいわけではありません。世界の大河には、南アメリカのアマゾン川、北アメリカのミシシッピ川、次にロシアのオビ、エニセイ、レナという北極海にそそぐ三つの大河川があり、そのあとにはラプラタ川などがあって、ようやくナイル川が来ます。四大文明河川は、世界の大河川の中では、必ずしも大きな川ではないのです。 ◆【衝撃】サハラ砂漠は“人工砂漠”だった! 科学メディアの発表に大反響、定説覆る可能性 https://tocana.jp/2017/03/post_12651_entry.html 2017/03/16 世界最大規模の砂漠「サハラ砂漠」。あまり知られていないことだが、実はサハラ砂漠は8000年前まで森林が生い茂る豊かな土地だったと言われ、砂漠の地下には巨大な川の痕跡も見つかっている。それがどうして、北米とほぼ同じ面積を持つ巨大不毛地帯に様変わりしてしまったのだろうか? ■サハラ砂漠化は人間の責任、8千年前まで緑豊かな土地 従来の理論では、緑豊かなサハラが急速に砂漠化した原因は“地軸のズレ”による気候変化とされてきたが、ここにきて考古学の常識を大きく覆す新説が飛び出してきた! 科学ニュースメディア「Science Daily」(3月14日付)が報じている。 韓国・ソウル大学校の考古学者デイヴィッド・ライト教授によると、サハラの砂漠化は人間が引き起こした“人災”だというのだ。 ◆文明は「砂漠に川」で生まれる | Fukushima-days https://michikuina.com/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AF%E3%80%8C%E7%A0%82%E6%BC%A0%E3%81%AB%E5%B7%9D%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B 2019/04/25 世界史では、まず「メソポタミア文明」続いて「エジプト文明」を学習します。 どちらも(四大文明すべて)、乾燥した砂漠のような気候の地に、源流を遠方に持つ大河(外来河川といいます)が流れているという特徴があります。 砂漠は、水に対する不安が絶えずある土地です。 しかし、そこに川が流れていれば、それは爽やかで、大変快適な生活地となります。 特に定住を始めた人間にとって、地質と日光に恵まれた土地に、水があれば、最高の農作地が手に入るというものです。 農業はこうした地域で発展しました。 農業は「長い時間我慢する」すなわち「ずっと先の結果を想像し、目先の利益に左右されない」というとても人間的な知恵を要するものです。これこそが文明の始まりですね。 古代エジプトの人々は、ある季節になると決まっておこる洪水を「困るものだが、これによって土地がより豊かになる」と考えていました。 ◆1. 宇宙考古学とは - 東海大学情報技術センター http://www.tric.u-tokai.ac.jp/isite/sarchaeology/jsa.html 世界の古代文明の発祥地域は水と深く関わっています。 エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス・ユーフラテス川、インダス文明はインダス川、そして中国文明は黄河や長江の流域に発祥しています。 人類はこの大河に沿って長い歴史を築いてきましたが、古代��都市や遺跡を調査すると、そのほとんどは世界の中緯度帯の非常に乾燥した砂漠地帯に分布しています。 これは砂漠地帯に文明が発祥したのではなく、その地域に環境変動があり砂漠化したことにより、人間の生活条件が変わってしまったことを示唆しています。 このような文明や環境の変遷に関わる調査は、その地域の歴史的事実の解明だけではなく、地球温暖化や森林破壊をはじめとする近年の地球規模の環境問題への取り組みや将来的な環境変動予測のための貴重な手がかりとなりえます 1972年にランドサット1号が打ち上げられて以来、人工衛星データによる地球観測技術は、環境、災害、気象、海洋、資源など、様々な分野の調査・研究に応用され、これまで多くの成果をあげてきました。衛星に搭載されるセンサが高解像化し、赤外線やマイクロ波センサによって地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきました。 この宇宙からの情報技術を考古学の領域に応用し、現在の地球環境をモニタリングしながらかつて文明があった地域の遺跡や古環境を推考するための研究を宇宙考古学(Space Archaeology)と言います。 ◆水と文明|水とくらす 古代文明の発祥地 http://www.thr.mlit.go.jp/mogami/learning/kids-corner/mizu/mizu_04a.html なぜ古代文明は、川のそばで栄えたのでしょうか? 紀元前3000年頃、地球は寒冷化し、気候の乾燥化が起こり砂漠がひろがっていきました。牧畜民は生活の場を追われ、水を求めて大河のほとりに集中しはじめました。 大河のほとりでは農耕民が生活の場として生活していました。 そこで、2つの異文化を持つ民族が同じ場所で生活するようになり、争いもたびたび起こりましたが、文化の交流も盛んにありました。 そうした文化の交流の中で古代文明は誕生し、豊かな水源のもとで隆盛していったのです。 ◆「古代中国の文明観」に学ぶこと | 日経 xTECH(クロステック) https://tech.nikkeibp.co.jp/dm/article/COLUMN/20070409/130351/ 2007/04/09 資本主義経済における「イノベーション・差異化→模倣…」の永久運動は,結果として高度な「技術文明」をもたらす一方で,自然を商品化することで地球環境問題に直面していることから,その永久運動の方向を変える必要が出てきている,と述べた。そしてその糸口として,「アジアをはじめとする新興国をこの永久運動を続けるための新天地と見る一方で,西洋とは違う文化であるということを見直すことで,その方向を少しでも変えられる可能性にも注目してもよいのかもしれない」と書いたところ,以下のようなコメントを頂いた。 ◆弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか〜【CGS 日本の歴史 1-10】 2015/08/21 https://youtu.be/QwgK9s42Oxk 第1章最後の回は、前回の「稲作が縄文時代から始まった」という事に続き、弥生人は渡来人という定説のウソを暴きます。 よく言われるのが横長の顔の骨格が縄文人、縦長・平たいのが弥生人、のように骨格に差があるとされてきましたが、実は骨格の差はなかった様です。そしてそこには「捏造の歴史」がありました。 いわゆる自虐的な歴史観はこの時代からもう存在していたのでしょうか。 ◆解明が進む縄文人の軌跡・前編 ~イメージを覆す高度文明~ 2019/11/07 https://youtu.be/E8KpiR4KdI0 日本人の祖先と言われている「縄文人」。 縄文人といえば、竪穴式住居に住む狩猟民族のイメージを持つ人は多いでしょう。 しかし、近年の研究でそんな縄文人のイメージを覆す発見が次々と明らかになってきているのです。 今回は縄文時代や縄文人について・前編として、日本列島での縄文人がどのように過ごしていたのか、ご紹介したいと思います。 ◆解明が進む縄文人の軌跡・後編 ~世界に渡り古代文明を興した?~ 2019/11/17 https://youtu.be/vs6XjXFjR4M ハテナ見聞録では以前、「縄文人が海洋民族だった」というお話をご紹介しました。実は、縄文人の痕跡は日本国内だけでなく、日本列島の外でも見られるのです。 今回の動画は、海外で発見される縄文人の痕跡から見る歴史背景と 縄文人が世界各国の文明の発祥に少なからず関わっていたのではないかとされる説についてご紹介したいと思います。 ◆砂漠化している「世界四大文明」と緑豊かな「縄文文明」 | 天命発見 ... https://ameblo.jp/matsuyan02/entry-12385249365.html 2018-06-20 【世界四大文明とは】 ・エジプト文明 : 5000年前 ・メソポタミア文明 : 5500年前 ・インダス文明 : 4300年前 ・黄河文明 : 5000年前 世界四大文明は4300年前から5500年前ごろできた文明の事を言います。 しかし、現代の世界の考古学会では 黄河文明より古い長江文明などが発見されていることから、 もっと古い時代からもっと大きな文明がある ことが常識になっている。 そして、これらの世界四大文明はGoogleEarthで 見てもわかるようにすべて砂漠化している。 黄河文明の端に一部緑があるが、 これは日本が戦前統治した地域で億単位で植林をしてきた結果だそうだ。 世界四大文明は結果として自然を破壊し人が住めなくなるような土地になっている。 これが文明なのか?文明観がおかしいと語られる。 縄文の女神は1万3000年前であり世界四大文明よりはるかに古い時代から 文明に相当するものが育ってきているそして、いまだに日本は緑が豊富である。 自然と共生している。 持続可能性の高い社会を創れる能力が高いのが日本人。 ◆広い視野で縄文時代を見る http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2000dm2k/japanese/02/02-08.html 縄文時代と同じ頃の西アジア − 西秋 良宏 − 定住、農耕、都市 縄文時代と同じ頃、アジア大陸の反対側にある西アジアでは、どんなことがおこっていたのか。 西アジアは、その間に、旧石器時代から新石器、銅石器時代はもとより金属器の時代、歴史時代にまで移りかわった。 社会の体制でいえば、狩猟採集民の世界から、農耕牧畜村落、さらには都市や帝国の時代まで駆け抜けている。 1万年もの間、縄文という一つの時代でくくって考えられるほどの安定性、継続性がみられる日本列島の場合とは、きわだった違いだ。 ◆ 縄文の記憶 http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/2000dm2k/japanese/02/02.html 縄文の記憶 坂村 健 21世紀の縄文時代研究 今村啓爾 学史 モースの大森貝塚コレクション 今村啓爾 日本先史土器の分類学的研究 —山内清男と日本考古学— 鈴木公雄 縄文人の埋葬骨 諏訪 元 広い視野で縄文時代を見る 縄文時代の地球と宇宙 松井孝典 東アジアと縄文時代 西田泰民 縄文時代と同じ頃の西アジア 西秋良宏 縄文文化 西本豊弘 旧石器時代と縄文 西秋良宏 新しい手法 DNA分析 岩本(木原)昌子 川口昭彦 放射性炭素(炭素14)で年代を測る 吉田邦夫 竪穴住居址の小柱穴位置について 渋谷文雄 ◆『【縄文文明】世界最古の文明!?』縁側-日出づる処の天子の掲示板 - 価格.com https://engawa.kakaku.com/userbbs/2261/ThreadID=2261-549/ 2019/09/23 紹介文 日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す 聖徳太子さまは今頃何をしておいででしょう? キントーンならお会いすることが叶うかも知れませんね。 縄文時代より日本は豊かな自然に囲まれ戦争のない自由と平等と自然を神様として平和な日々を送ってました。 (縄文文明) 弥生時代は戦争難民が大勢移住して人口が膨れ上がりました。 水耕栽培もそのころ始まり、増えた人々の胃袋を満たしました。 仁徳天皇は民のため多くの政策を実行。 土木工事で水路を大阪湿地帯で行い稲作耕地を庶民に与えました。 そのころの土木工事の跡が多く存在します。 そして現代の大阪・日本があるのですね。 ◆世界最古の文明は縄文文明だ!文明は日本から世界へ広がった!【縄文王国】 2018/09/12 https://youtu.be/9dkyCvFuewY 縄文文明が世界最古の文明であることを知らない日本人は非常に多く、 このチャンネルを通して、縄文文明の素晴らしさについて知っていただければと思います。 ◆山内丸山遺跡の発見 (縄文前期~中期の集落遺跡)500人超が定住生活。 ・巨大なヒスイの珠。ヒスイに穴が多数出土。 ↑ヒスイは新潟県糸魚川周辺で産出。 ・黒曜石で出来た石器も多数出土。 ↑北海道が産地。 ↑岩手県から琥珀が。 ※交易が行われていた。(船?) ◇縄文人が船で沖で漁をしていた証拠も。 ・1mの真鯛の骨も見つかる。 ◇栗の人工栽培(DNA鑑定) ・大型哺乳類の骨は殆どない。 ⇒農耕が行われてたことが科学的に���付けられた。 ◆ーー縄文土器ーー 世界で最初の土器発明は縄文人。 ↑世界最古の縄文土器は大平山元遺跡から出土したもの。 ⇒年代測定法で16000年前と判明。 ※世界最古とされたメソポタミアは10000年前。 ◆ーー漆も土器も日本で発明された。 ◇中国:長江下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)出土が約7000年前。 ◆北海道南茅部町の柿の島B遺跡(垣ノ島遺跡(かきのしまいせき))から9000年前の漆製品が発見。 ↑中国漆技術と比較して高度な漆技術。 ↑三内丸山遺跡の漆のDNAは中国と別系統。 ⇒日本から中国に漆技術が伝わった可能性が出てきた。 <<炭化ケイ素による焼き戻し法>> ↑現代のセラミック加工技術に通じる特殊な処理が施されてる。 ◆11万年前には、石器がつくられ 3万年前には、加工した石器(磨製石器)がつくられ 16500年前には、世界最古の土器がつくられ 13000年前には、人の形をした土偶がつくられ 12500年前には、漆が栽培され使われていた。 ◆岩宿遺跡の打製石器 https://ja.wikipedia.org/wiki/岩宿遺跡の打製石器 ◆焼畑農業 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/焼畑農業 焼畑農業(やきはたのうぎょう)/ 焼畑農法(やきはたのうほう)は、主として熱帯から温帯にかけての多雨地域で伝統的に行われている農業形態である。 通常は耕耘・施肥を行わず、1年から数年間は耕作した後、数年以上の休閑期間をもうけて植生遷移を促す点が特徴である。 英語では移動農耕 (shifting cultivation) という語が使われ、火入れをすることは必ずしも強調されない。 (実際、湿潤熱帯の各地では火入れを伴わない焼畑農耕も見られる) 英語圏の研究においては、短期の耕作と長期の休閑が繰り返されて循環することにより、焼畑が定義されることが多い。 ◆世界中ですすむ森林の減少と劣化 - 地球・人間環境フォーラム https://www.gef.or.jp/forest/deforest.htm ●世界中で進む森林の減少と劣化 ●森林減少と劣化の要因 ・農地転用 ・産業植林 ・焼畑農業 ・違法伐採 ・森林火災 FAO(国連食糧農業機関)の "Global Forest Resources Assessment 2000(FRA2000)"によると、世界の森林(樹冠率10%以上)の面積は約38億6,900万ha であり、全陸地面積の約30%を占めている。このうち95%が天然林であり、5%は植林である。 これを地域別に見ると、ヨーロッパ(東欧・ロシアを含む)が10億3900万haと最も広く、次いで南米、アフリカとなっている。世界の3分の2の森林が、ロシア、ブラジル、カナダ、アメリカ、中国、オーストラリア、コンゴ、インドネシア、アンゴラ及びペルーに集中している。また、国土に占める森林面積の割合を見ると南米が最も高く、約50%であり、次いでヨーロッパの46%となっている。 2000 年、UNEP-WCMC(国連環境計画-世界保全モニタリングセンター)の調査によると、樹冠率30%以上の森林は、合計34.2億haとなっている(UNEP-WCMC, 2000)。 うち、熱帯地域における森林は15.2億ha、非熱帯地域における森林は18.9億haである。 同調査においては、28の森林タイプごとの森林面積、保護地域面積を算出している。 それによると、最も大きい面積を占めるのが非熱帯常緑針葉樹林(樹冠率30%以上)であり、8億ha(全体の約18%)である。 ついで、熱帯低地常緑広葉樹林(樹冠率30%以上)で約7.3億ha(全体の約16%)、樹冠率10-30%の非熱帯林(5.8億ha、13%)、樹冠率10-30%の熱帯林(5億ha、11%)となっている。以下、非熱帯落葉広葉樹林および非熱帯落葉針葉樹林の面積が大きい。
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鳳来寺山l山全体が天然記念物!歴史が息づく見どころ満載な登山コース紹介
アイキャッチ画像出典:PIXTA
鳳来寺山(ほうらいじさん)ってどんな山?
出典:PIXTA
標高 所在地 体力レベル 難易度レベル 695m 愛知県新城市門谷鳳来寺 ★★ ★★
愛知県新城市に位置する鳳来寺山。岩肌が印象的な山で、新日本百名山のひとつに数えられています。山全体が原生林に覆われており、1931年には国の「名勝天然記念物」にも指定。古くから天台宗や真言宗の密教の道場として栄え、現在でも多くの貴重な史跡や寺院が残る霊山です。
麓から伸びる参道の階段は1425段を数え、山中には「鳳来寺」や「東照宮」などの歴史的建造物が多く点在。また、秋には紅葉の名所として多くの人で賑わいます。
1300年の歴史的を刻む鳳来寺
出典:PIXTA(鳳来寺)
鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。 1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。
圧巻の迫力「傘杉」
出典:PIXTA(傘杉)
仁王門から100mほど参道を登ったところに、樹齢800年の見事な「傘杉」がそびえ立っています。「新日本銘木百選」に選定される国の天然記念物で、周囲7.5m・樹高約60mの大きさは、近年まで日本一の高さとして知られていました(現在は2位)。周囲にも大杉が多く生息し、天高く伸びる姿は圧巻です。
声の仏法僧「コノハズク」の生息地
出典:PIXTA(コノハズク)
鳳来寺山の山中には、愛知県の県鳥にもなっている貴重なフクロウ「コノハズク」が生息。その鳴き声が「ブッポウソウ」と聞こえることから、コノハズクは「声の仏法僧」とも呼ばれ親しまれています。
鳳来寺山の登山適期は?
出典:PIXTA(鳳来寺山の紅葉)
鳳来寺山の登山無雪期は4月頃から11月頃まで。その中でもやはり紅葉の時期が人気で、11月の中旬から下旬が最盛期。険しい岩肌と色とりどりの紅葉のコントラストはまさに絶景。毎年秋には「鳳来寺山もみじまつり」も開催され、多くの登山者や観光客で賑わいます。 天気も必ずチェック
GPSアプリやココヘリも忘れずに!
登山時には必ずGPSアプリなど地図の準備はしておきましょう。また、もしもの遭難時に、登山者を早く見つけ出すことに特化したサービス「ココヘリ」も登山の新常識となりつつありますよ。
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1425の石段を歩く!定番の表参道コース
提供:YAMAP
【体力レベル】★★☆☆☆
日帰り
コース距離:約8km
コースタイム:約5時間
参考:YAMAP
【技術的難易度】★★☆☆☆
・登山装備が必要 ・登山経験、地図読み能力があることが望ましい
凡例はこちらをクリック:グレーディング表
表参道登山口→鳳来寺山自然科学博物館→仁王門→鳳来寺本堂→鳳来寺山山頂→瑠璃山→天狗岩→鷹打場→鳳来寺山東照宮→鳳来寺本堂→→鳳来寺山自然科学博物館→表参道登山口 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
コース詳細
提供:ヤマレコ/WashiTabi
今回は参道入口、三ノ門のすぐ側にある「笠川駐車場」からスタート。15分ほどで鳳来寺山の登山口に到着すると、日本で3番目に長いと言われる石段が始まります。登ってすぐの道脇に松尾芭蕉の句碑もありますよ。
出典:PIXTA(仁王門)
朱色の橋を渡り石段を登ると、立派な仁王門が現れ迫力ある二対の仁王像に出迎えらます。
提供:PIXTA(傘杉)
傘杉がそびえるあたりは、登山道脇に巨木杉が立ち並ぶ壮観な景色。
提供:ヤマレコ/bigriki(松高院)
石段を登っていくと「松高院」や「医王院」など数々の寺院跡が登場します。霊山らしい独特の雰囲気が感じられますよ。
提供:ヤマレコ/bigriki(石段)
所々に何段目か表した看板が。表参道ルートは、緩急ある石段が続くコースなので体力的にきつく感じるかもしません。
出典:PIXTA(鳳来寺本堂)
1316段の階段を登り切ると、ついに鳳来寺本堂が現れます。トイレも併設されており、本堂の向かいには大きな休憩舎もありますので、お参りを済ませたらひと休みしましょう。
提供:ヤマレコ/WashiTabi(勝岳不動)
鳳来寺本堂からは本格的な登山道に。道中には、寿命を悟った利修仙人が亡くなったとされる「勝岳不動」や、阿弥陀如来像を作成した杉の木「六本杉」などが見られます。
提供:ヤマレコ/WashiTabi(鳳来寺奥の院)
木の階段や桟橋がある登山道を更に進むと、今は損壊が激しい「奥の院」が現れ眺望も開けてきます。そこから15分ほど登っていくと山頂です。
出典:PIXTA(鳳来寺山山頂)
鳳来寺山山頂は岩がゴロゴロしており、山頂標識と道標の他にベンチも設置されています。残念ながら木々に囲まれて、山頂からの眺望はほとんど望めません。
提供: ヤマレコ/bigriki(瑠璃山からの眺望)
鳳来寺山の頂を踏んだ後には、ここから目と鼻の先にある「瑠璃山」を目指しましょう。尾根を進むと10分ほどで、見晴らしのよい瑠璃山に到着。大きな岩陵の頂からは奥三河の山々が望めます。
提供: ヤマレコ/WashiTabi(天狗岩)
鳳来寺山山頂に戻ったら尾根沿いの「東海自然歩道」を歩いて「天狗岩」へ。眺望のよい天狗岩からは気持ちのいい景色が広がり、少し先にある展望台からは南アルプスも満喫できます。
提供: ヤマレコ/WashiTabi(鷹打場)
天狗岩を下って、分岐を「鷹打場」方面へ。分岐から3分程で岩陵の鷹打場展望台に到着。こちらも眺望が良く、正面にはハートの地形をした山が望め、撮影ポイントとしても人気です。
出典: ヤマレコ/bigriki(木の階段)
最後の見どころ、鳳来寺山東照宮を目指して下りましょう。木の階段や橋を数カ所通りますが、雨の日は滑りやすいので要注意。
出典:PIXTA(東照宮)
山中に佇む立派な東照宮がお出迎え。お参りや記念撮影を済ませたら、ここから10分ほどの鳳来寺本堂に向かいます。本堂からは往路の登山道を戻り、表参道登山口まで下ってゴールです。
駅から歩いて登れる!行者も越えた裏参道コース
提供:YAMAP
【体力レベル】★★☆☆☆
日帰り
コース距離:約11km
コースタイム:約6時間
参考:YAMAP
【技術的難易度】★★☆☆☆
・登山装備が必要 ・登山経験、地図読み能力があることが望ましい
凡例はこちらをクリック:グレーディング表
湯谷温泉駅→湯谷峠→鳳来寺山東照宮→鳳来寺本堂→鳳来寺山山頂→瑠璃山→天狗岩→鷹打場→鳳来寺山東照宮→湯谷峠→湯谷温泉駅 「湯谷温泉街」からスタートするコースで、湯谷温泉駅から歩いて登頂可能。こちらは裏参道コースと呼ばれ、かつては修験者が難所の岩場を越えた道として知られています。途中からは「東海自然歩道」と合流。登山道は鉄階段などが整備されており、特筆すべき難所もありません。
コース詳細
提供: ヤマレコ/bun-iopapa(茶畑の分岐)
湯谷温泉駅からすぐ近くにある、湯谷温泉駐車場の奥から登山道に入って行きます。舗装路を過ぎてしばらく歩くと茶畑が出てきますので、分岐の看板を左方向に進んでいきましょう。
提供:ヤマレコ/bun-iopapa (登山道の鉄階段)
しばらくは林道はが続き、山道が始まると辺りは樹々で鬱蒼としてきます。
提供: ヤマレコ/bk138(湯谷峠)
約1時間登ると、東海自然歩道と合流する「湯谷峠」に到達。樹々に囲まれた峠には、石碑や道標の他にベンチも設置されています。
提供: ヤマレコ/bun-iopapa(鳳来寺山パークウェイの歩道橋)
湯谷峠からほどなく、「鳳来寺山パークウェイ」にかかる歩道橋に出ます。歩道橋を渡り、石垣の間を進み「行者越」へ。
提供: ヤマレコ/bk138(行者越)
かつては、この行者越が鳳来寺参道の最大の難所とされ、江戸時代までは修業のために険しい岩場を越えていました。今では木橋が渡されているので、難なく通過できます。
提供: ヤマレコ/WashiTabi(東照宮に向かう舗装路)
行者越を登りきって尾根まで出ると、テーブルやベンチもある広い休憩所に到着。そこから登山道を進むと、山頂駐車場から続く舗装路に合流します。舗装路を歩いて東照宮を目指しましょう。
出典:PIXTA(鳳来寺山東照宮)
東照宮からは鳳来寺を巡り、先程紹介したコースと同様に山頂を目指してぐるっと周回します。登頂後は東照宮まで戻って、往路と同じルートで湯谷温泉まで下りましょう。
立ち寄りたい周辺施設情報
見どころの多い鳳来寺山の麓には、たくさんの観光ポイントや温泉などが充実しています。登山と一緒に満喫して、さらに素敵な1日にしてみてはいかがでしょうか。
湯谷温泉
出典:PIXTA(湯谷温泉)
鳳来寺山の麓、鳳来峡の宇連川沿いに位置する湯谷温泉。「日本百名湯」にも選ばれる湯谷温泉は、開湯が1300年以上と歴史ある古湯で、川沿いには風情のある旅館が軒を連ねています。温泉街の入口には温泉スタンドもあり、他には無料で利用できる「利修仙人の足湯」も人気。登山で疲れた体を湯谷温泉で癒してください。 住所:新城市豊岡字地蔵元6 電話番号:0536-23-7613(新城市観光課) 営業時間:9:00〜18:00 料金:無料 ※湯谷温泉での日帰り入浴は、各旅館によって営業時間や料金が異なります。湯谷温泉の公式HPにて確認してください。 湯谷温泉HP 鳳液泉 利修仙人の足湯
鳳来寺山自然科学博物館
出典: Facebook/鳳来寺山自然科学博物館友の会
鳳来寺山の表参道入口付近に「鳳来寺山自然科学博物館」があります。鳳来寺山を中心とする郷土の成り立ちや、そこで生きる貴重な動植物についての展示が充実。中庭ではフクロウ(大コノハズク)が見学でき、夏にはモリアオガエルの卵なども展示されています。こちらに寄れば、鳳来寺山をより深く理解することができるでしょう。 住所:新城市門谷字森脇6番地 電話番号:0536-35-1001 営業時間:9:00 〜17:00 定休日:火曜日(※7月20日~8月31日、11月は無休開館) 料金:高校生以上210円/中・高生100円 鳳来寺山自然科学博物館
四谷の千枚田
出典:PIXTA(四谷の千枚田)
新城市の山あい、鞍掛山の麓に広がる見事な棚田が「四谷の千枚田」です。開墾から400年もの歴史があり、約1300枚もの棚田が作り出す風景はとても美しく幻想的。また、季節や時間帯によって様々な表情を見せてくれる千枚田は1年を通して人気の観光名所です。懐かしい日本の原風景を味わうことができますよ。 住所:新城市四谷 電話:0536-29-0829(新城市観光協会) 料金:無料 駐車場:20台 四谷の千枚田
アクセス・駐車場情報
鳳来寺山の登山口へのアクセス方法、および最寄り駐車場の情報をお伝えします。観光地のため混雑して無料駐車場に止められない場合は、近隣の有料駐車場を利用しましょう。
表参道登山口
鳳来寺山へのメインルートの表参道登山口へは、無料駐車場の中で1番近くにある「笠川駐車」がおすすめ。無料駐車場は他にも、木戸駐車場、合鏡駐車場があります。ちなみに登山口から近い場所に有料駐車場もありますので、混雑や状況によってご自身で選択してください。 【車でのアクセス】 東名豊川ICより国道151号線経由して新城方面へ約1時間。 三遠南信自動車道鳳来峡 ICより国道151号線経由で豊橋方面へ約40分。 住所:愛知県新城市門谷笠川 駐車台数:17台 料金:無料 トイレ:有り 【公共機関でのアクセス】 JR飯田線「本長篠駅」下車→豊鉄バス田口新城線「鳳来寺」下車。
湯谷温泉駐車場
湯谷温泉から鳳来寺山を目指す際には、湯谷温泉にある公共の「湯谷温泉駐車場」に駐車しましょう。駐車場の奥からそのまま登山口へと進むことができます。電車でお越しの際は、湯谷温泉駅から湯谷温泉駐車場まで歩いて5分ほど。 【車でのアクセス】 東名豊川ICより国道151号線経由して新城方面へ約1時間。 三遠南信自動車道鳳来峡 ICより国道151号線経由で豊橋方面へ約40分。 住所:愛知県新城市豊岡地蔵元 駐車台数:約50台 料金:無料 トイレ:有り 【公共機関でのアクセス】 JR飯田線「湯谷温泉駅」下車。
鳳来寺山パークウェイ山頂駐車場
こちらは、山頂から1番近い駐車場になります。鳳来寺山に最短で登頂を目指す場合は、パークウェイ山頂駐車場に止めましょう。駐車場からは舗装路の参道を��り、鳳来寺や東照宮まで簡単に行くことができます。 【車でのアクセス】 東名豊川ICより国道151号線を利用して新城方面へ、鳳来寺山パークウェイを経由して約1時間。 三遠南信自動車道鳳来峡 ICより国道151号線経由で豊橋方面へ約40分。 住所:愛知県新城市門谷鳳来寺7−27 電話:0536-35-1074 駐車台数:180台 営業時間:8:00〜18:00 料金:510円 トイレ:有り 【公共機関でのアクセス】 JR飯田線「本長篠駅」下車→豊鉄バス田口新城線「鳳来寺山頂」下車。(土日祝のみ運行) JR飯田線「湯谷温泉駅」下車して徒歩約50分。(タクシー8分) 豊鉄バス時刻表
鳳来寺山は魅力的な名所が満載!
出典:PIXTA(鳳来寺山一本松)
一段一段石段を登りながら、刻まれた歴史に想いを馳せる山行が楽しめる鳳来寺山。山中では鳳来寺をはじめ東照宮や寺院跡など見どころが満載です。絶景の紅葉や傘杉などの豊かな自然にも癒されますね。普段の登山とは違う、鳳来寺山ならではの雰囲気を味わってみてください。 【登山時の注意点】 ・登山にはしっかりとした装備と充分なトレーニングをしたうえで入山してください。足首まである登山靴、厚手の靴下、雨具上下、防寒具、ヘッドランプ、帽子、ザック、速乾性の衣類、食料、水など。 ・登山路も複数あり分岐も多くあるので地図・コンパスも必携。 ・もしものためにも登山届と山岳保険を忘れずに! ・紹介したコースは、登山経験や体力、天候などによって難易度が変わります。あくまでも参考とし、ご自身の体力に合わせた無理のない計画を立てて登山を楽しんでください。
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