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初めて海外に行ってきーたよ^◯^
バンコクに行ってきた。思ってたより暑くなかったけど日差しは激アツだった。日陰は肌寒いくらいだった。
めちゃきれ〜〜〜^◯^
なんか知らんけどお城みたい。
これはスリーピングブッダって言うんだって。タクシーのおじさんがゆってた。
ご飯おいし〜〜〜〜〜^◯^
ホテルの最上階で飲むワイン美味しすぎたな〜〜〜夜景綺麗だし美味しいワインボトルであけても全然安いしタイコスパいい〜〜〜
そして絶望したんだけど英語がわけわからんすぎてなんとなく何言ってるかは分かるけどアウトプットできなすぎてほんとに絶望。同行者にとりあえずTOEICやろうねってゆわれたからテキスト買いまちた、、、
アメリカまでにTOEICアメリカまでにTOEIC
来年はアメリカ行くぞ〜〜〜英語がんばろ、、、
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VR刀剣
福岡行く前にまとめなきゃと思ってたけど福岡向かいながらこないだの東京のまとめ。
トーハクに三日月とVR刀剣を見に行った。なんか三日月は何度目かで興奮抑えて見れたせいかいままでで一番傷だらけに見えた。もちろん美しいんだけど、ここまですり減ってきた日々が見えたような。
あとVRで初めて三日月に傷があることを知った。
銀座の泰文堂に行ってきたんだけどほんとに偶然刀工さんがいらっしゃってサインいただいた。も〜〜ほんとにね、、、 その方の作った脇差を見せていただいたんだけだほんとに素晴らしくて鎌倉だった。このワードでわかる人にはわかりそうだけども。
古青江と虎徹とその脇差を2時間くらい無心で見ていたんだけど腕が筋肉痛になった。太刀めちゃめちゃ重い。けどいつか太刀欲しい〜〜
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名刀は語る
佐川美術館に行ってきた〜〜〜!!
初めて行ったけどめちゃめちゃ素敵な建物だった! お堀みたいに水に囲われた美術館、いとをかし。
だいたい出入口に置いてあるのに今回作品目録ないな〜と思っていたらお姉さんがわざわざ声掛けて下さって目録いただけた、、、 優しい好き、、、 また行きます、、、って思いました。
あとこれはいま目録見て気づいたけど佐野美のものを展示してくれていたのだね。佐野美の図録が置いてあったの謎〜〜と思っていたがそういうことだった。もう持ってるから買わなかったけど家帰ったら読みつつ追加するかも。
以下ざっくり感想。
3.重美 太刀 銘 包平
包平作って多分大包平しか見たことなかったんだけど大包平と全然違くて驚いた。包平といえば大包平みたいなイメージあったけどいい意味で裏切られた感。刃長75.1cmだからそんなに大きくはないけど姿がめちゃめちゃ綺麗で小鋒、静かだけど堂々とした姿という印象。すごく綺麗だった。
9.重美 太刀 銘 来国俊
姿は然る事乍ら写りがすごくて美しかった。来派はわりといいなって思うことが多い。
11.太刀 包永
なんとなく鶴丸もこんな感じかな〜〜と思いながら見ていた。細身ですらっとしなやか。
13.重文 太刀 無銘 正宗
沸がすごいぎらぎらしゃらっとしてて沸のお手本か?と思うくらいにまじでやばい。
15.太刀 銘 (柄傘)尚宗/一
下手くそな絵で申し訳ないがこのような絵が入っている。���がわからなかった。
キャプションの抜粋:銘の上の(柄傘)は貴人の家柄かもしれない。作風は上品、地鉄の鮮やかな移、小丁子の小沸、則宗などと近似している。
一見した派手さはないが品良くまとまりのある印象。トーハクにいる貞次に似てるかも。
19.短刀 銘 長船長光 永仁三年十月
感動したのでキャプション抜粋。
天才的な光忠に対して、長光は長船一族を大工房へと発展させ、後の長船派隆盛の基を築いた。時あたかも蒙古襲来という国難に対して日本刀の需要に応えた。
小丁子だったかな。派手だなと思ったのは覚えてる。あとで図録確認しておく。
ちなみに別の長光の作品で「作風は光忠の作風を受けた華やかな丁子と直刃調の地味なものがある」って書いてあった笑った。確かにあの光忠と比べたら地味だよな。でも上杉展示にいた直刃の長光めちゃめちゃ好きだな。長船の長光かは知らんけど。
24.重美 太刀 銘 貞次
古青江派。ゆったりしていて亀甲の長いバージョンみたいな感じを受けた。すらっと長くスタイルが良い。あと特にものうちのあたりに映りが見えた。4月に薬師寺で青江の太刀を触ったんだけどその時も映りが良く見えて青江派の特徴なのかな。あんまり明るくないので知らんけど調べてみよって思った。杢目肌かな。書いてなかったから自信ない。杢目と板目って区別つかんくない?
25.重美 太刀 銘 守次
古青江派。キャプション:腰反り高く、大肌の混じった黒めの地鉄に素朴な直刃と間遠な逆足、備前の整った作風と異なって、備中独特ののどかさがある。
��めない漢字あったから調べとくわ。
これは24の作品と同じような印象でゆったりのどかだなって感じ。
26.重美 太刀 銘 為次
キャプション:鎌倉中期頃の風変わりな刀工。反りが極めて少なく刃文は備前一文字風に鎬を超えるほどの高い焼刃であるが、丁子の形が整わず水面に映った月影の如くである。
風変わりな刀工でもう無理だったんだけど水面に映った月影の如くってめちゃめちゃ雅やんけ、、、と思いました。
鎬にある焼き、映りよりはっきり見えるけど皆焼ほどバキバキに焼けてるわけではなくて、それも局所的になっているからなんというかまさしく「風変わり」に深く頷きながら見ていた。
反りが殆どないため姿は24.25とはまったく似ないが優雅さは共通しているかなという印象。
23.重美 太刀 銘 雲生
キャプションのメモしかしてなかったけどめちゃめちゃ好き。好きって思ったってことはおそらく細身の小鋒で腰反り高いのではと推測。刃文はそこそこ派手だったような。
とにかく好きって思ったことしかわからんメモ。
48.刀 銘 備前国住〜祐定
長いから省略。室町中期以降の長船刀工の中で最も腕達者。作域は広く直刃、乱刃を自在に焼く。やばいよね。
蟹の爪っていうらしいんだけどどこら辺が蟹かはわからんがとにかく派手派手の派手。トップオブ派手。今日の派手大賞はアンタだ。
存在感が圧倒的すぎた。
京都ふらっとしてきたよ。
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高野山
7月が終わる前に。
7月15日、高野山に行ってきた。秀次様の命日。
残念ながらお墓参りはできなかったんだけど予約がいるの?お寺の前まで行ったんだけど看板にそんなようなことが書かれてて泣く泣く引き返してきた。来年はもちょっと調べて行こう。
7月だけどめちゃめちゃ寒かったな。雨はギリギリ降ってなかったけど霧が凄かった。
九度山は今度きちんと降りて行ってみたい。
柳の間を見てきたんだけどたった十二畳しかない狭くて暗い部屋だった。経年のせいだろうけど襖とかあらゆるところの隙間が結構酷かった。蝉の声も聞こえないし薄暗くて寒いし時々思い出したように鳴く鳥の声しかない寒々しい部屋だった。
ここで死んだんだ。って思って泣いた。
新大阪でお肉食べた。美味しかった。
帰りは梅田で一時間迷子した。ウィンチェスター館かよ。
また来年行きたい。
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京都
こないだ京都行ってきた。京都はよく行くしなんなら今年3回目だけど普通に観光したのなんだかんだ初めて。
金閣寺と銀閣寺。
嵐山にね。行ったんだ。
刀剣乱舞のスタンプラリーで京都回ったときに嵐山から大覚寺まで徒歩20分て書いてあったのでそれくらいなら歩くか〜って歩いたら全然つかないしなんなら阪急線の方にいてなんかもう2時間さまよってた。今回はめちゃめちゃ確認しながら行ったので無事ついたよ。
渡月橋。
竹林。
あとこれは竹林の中の踏切なんだけどえもえものえもだった。絶対と〜けんだんしくんたちいたもん。私には感じられた(??)
楽しかーーった^◯^
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曜変天目
曜変天目茶碗見てきた〜〜!!天気よくてめちゃめちゃロケーション良かった...
備前刀もかっこよくてほんとにいい展示だった...
静嘉堂文庫のあと刀剣博物館もいってきーたよ^◯^ 無料で入れる日だった。
トーハクも行ってきた! 備前刀沢山見れて楽しかった〜〜〜
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山姥切≠長義 イベント
5/3の講演イベントに参加してきた〜〜!
以下レポ。
今回のイベント枠100人にも関わらず応募は1000件近く、枠を180に増やすも急遽次週にもう1回開催決定するほどの人気ぶりだったとか。まじで大興奮なので先に(個人的)驚きポイントをあげておく。
・長義は昭和に入るまで一度たりとも山姥切と呼ばれたことはなかった。所持していた尾張家にすらその認識はなかった。
・蔵帳を生で間近で見れた。
この2点に尽きる。個人的な備忘録として。
まず結論から。
長義は尾張家の蔵帳ではずっと長義とのみ記載されており号に関する言及はなかった。山姥切という号は国広に先についたもの。昭和35年大正から長らく行方不明であった山姥切国広の再発見により、これを見た佐藤先生は長義とそっくりだ、と気づく。昭和37年初めて山姥切という号が本作長義に付けられたものかと言及される(だが断定はしておらずこの時点では号の由来は不明とされている)。昭和41年本間先生の著作により「山姥切は本作長義につ��られた号であり、国広は長義の写であるため山姥切国広という号とされた」と断言され、以後そのまま広がった。
よって「山姥切」とは国広にのみつけられた号である、というのが今回の講演での原先生の結論でした。
以下、レジュメとそれ以外の先生の発言も交えて詳細。
◎長義の号について
「本作長義」の蔵帳記録
・最古の蔵帳記録(〜元禄六年)
[尾張徳川家三代綱誠の指料とする為、本阿弥光務を仲介として、1681年度末9月に金百五十両一分で購入。購入時点では折紙付、拵はちゃめちゃ無し。光務が所持していたか、別の人物が所持していたかは不明。]
折紙にも蔵帳にも「山姥切」の表記なし。
・三代綱誠所持刀の蔵帳記録
折紙代金「拾五枚」に対して四割増
①金二十一枚=二百十両で、本阿弥光務へ代金を支払う
②本来金十〜十一枚だった価値をもって四割増にしてもらって、金十五枚=百五十両を支払う
どちらの意図か不明だが、後者ではないかとの見解。
「山姥切」の表記なし。
・1745年成立の尾張家刀剣蔵帳
付属品として鎺(上金無垢下金着)がある事が記載。
名物、号の表記は一切無し。
・1824年成立湾れ刃尾張家刀剣蔵帳
江戸後期に至っても名物、号の表記は一切無し。
・明治5年成立の尾張家刀剣刀剣蔵帳
明治に至っても名物、号の表記は一切無し。
*蔵帳記載の「名物」「号」について
「名物」成立語の蔵帳では、享保名物帳に記載のある名物には「名物」と記載あり。しかも享保名物帳には記載されない御家名物まで「名物」として記載している。名物ではなく単なる「号」のみの刀剣も通称名で記載。手放した名物まで勘違いで注記している(この間違いは明治5年の蔵帳まで間違ったまま踏襲される)。
蔵帳は事務引継ぎ書類でもあるため、間違った記載はそのまま後世に引き継がれる。書かれている内容について、後世の者ではその是非は検証出来ない。
逆に文字として書かれていないのに千振以上あった刀剣の中で、「本作長義」だけ「山姥切」の号があると二百年間口承のみで後世に引き継ぐことは絶対に出来ない。
「本作長義」は、購入してから一度も山姥切と呼ばれることなく(というより、尾張家の者は誰一人その認識したはなく)江戸時代を通じて近代へ継承された。
◎山姥切国広の伝来
①長尾顕長
②北条家旧臣、石原甚左衛門
③関ヶ原合戦に石原より井伊家家臣、渥美平八郎が譲り受ける
④維新後、渥美家が��窮した為、滋賀県ひこね長曽根の醤油屋北村へ質入れする
⑤旧彦根藩氏、三居氏が質請けして所有する。
その後...
元彦根藩主井伊伯爵家所蔵時^◯^関東大震災で焼失したという噂があった。その後行方不明となるが昭和35年、本間順治氏により発見される。井伊家伝来と聞き取り。(新刀名作集の技術を見る限り井伊家が所持した時日はないか?)
◎その後の学術見解
・山姥切が再発見されて二年目に出版された佐藤貫一氏の著作では号の由来は不明とする。号に対する特段の研究がないまま、一説として「山姥切」号は「本作長義」の刀に付けられた号との見解を出す。
昭和三年:「山姥切国広」が新刀名作集で紹介されるかこの時点でも「本作長義」の写しという認識、伝承はない。
昭和14年:本間順治氏が本作長義を鑑定し、初めてこの刀の存在を知る。
昭和14年9月3日:本作長義、重美指定される
昭和24年2月18日:本作長義、重文指定される
昭和35年、本間順治氏によって「山姥切国広」学術再発見される
昭和37年:佐藤貫一したが、「山姥切」の号は本作長義に付けられていた号の可能性がある事を初めて言及するも、号の由来は不明とする
昭和37年6月21日:山姥切国広学術重文指定される。文化庁は佐藤貫一氏の見解を踏襲する。
昭和41年:本間順治氏の一連の著作により山姥切は本作長義に付けられていた号と断言され、以後踏襲される。
◎結論
以上のことから、山姥切とは国広作の刀剣のみに付けられた号と断定される。
という講演内容でした。
たのしかーった^◯^
これは「山姥っぽく」とオーダーしたらしいカップケーキ。
徳川園。
すごく��気良くて景色も良かった。体調悪すぎたのが悔やまれる。次はひつまぶし食べたい。
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桜
きのう高田城に桜見に行ってきた。
歴史博物館に聚楽第の屏風が展示されててそれも見てきた。学術調査報告書があったので買ってきて。読むの楽しみ。
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薬師寺 特別展
薬師寺の特別展で大倶利伽羅と乱、テフロン藤四郎を見てきました。
��ちゃめちゃ天気よかった。中は撮影禁止だったので外見だけ。
通常展示は最初に刃文のコーナーがあって、ここから覗くと見やすいゾーンにテープ貼ってあってすごい見やすかった。直刃、湾れ刃、丁子、皆焼、簾があった。肌も板目肌、杢目肌、柾目、綾杉ってルーペ付きで展示してあった。綾杉は月山でさすが〜って思いました。
新撰組コーナーでは虎徹(真作)と清麿が並んでいたんだけど、個人的に近藤さんが持ってた刀は虎徹でも清麿でもないと思う。パネルにも「虎徹なのか清麿なのかはたまたまったく別の刀なのか」みたいに書いてあった���
乱藤四郎初めて見たんだけどほんとに乱れてる...って思いました。すごい肌つやつやで可愛かった。
乱藤四郎とテフロン藤四郎、全然違った。偽物の折り紙は新しい紙にお茶を付けて揉み込んでアイロンかけたって書いてあった。そこまでするかよ〜。いやでもほんとに見比べると全然違くて、折り紙も刀身も鎺もなにもかもが全然違った。テフロン藤四郎は肌が荒くて、吉光の地鉄の素晴らしさを実感できた。
大倶利伽羅もはじめましてだったんだけどいかにも南北朝らしい作りで迫力がすごかった。思っていたよりも刀身短かったんだけど、それにしても素晴らしい迫力だった。倶利伽羅龍かっこよかったし、もんもんのしたにいた龍も可愛くてほんと大倶利伽羅きみそういうとこやぞって思いました。
あとふくれのある刀ね!ふくれはじめて見れたんだけど思っていたより目立たないものだった。探さないとわからなかった。ぱっと見てあ〜ふくれあんじゃん〜とはならない。空気逃がすのに穴あいてたからわかったけど、でもこれ刀身全体にあったのならもっとわかるのかね。
ふれあいコーナーがあって、私は青江と和泉守を持ったんだけどやばかった。青江の乱れ映りがほんとにお手本かよみたいに美しくてめちゃめちゃ興奮した。和泉守も青江ほどではなかったけどもの打ちのあたりに乱れ映りがあって、互の目も綺麗でいやもうほんとよかった。また機会があれば行きたい。アンケートの見たい刀剣は光忠と左文字書いてきた。叶え〜〜〜(^ν^)
以下、講演について。一応Twitterに載せてもいいですかって係の人に許可得たよ。ここTwitterじゃないけどね。
めちゃめちゃメモしたけど長すぎるから特に興味深いところだけ箇条書きでいく。
・刃側は硬く、峰側は柔らかい。ダンボールを切ると傷つくレベルの柔らかさ。
→峰側で斬りつけるとわりかしすぐ折れる(るろ剣の逆刃刀は理論的にアリなのか?とコメントあり)。
・皆焼は焼きが峰側にも入っているため全体的に硬く折れにくく非常に強い。
→相州広光が皆焼を完成させた。
・江戸以降、中心部に良い鉄、外側は安い鉄を使っていた。戦闘中刀が折れたら命取りだが曲がっても戦えるからだといわれている。
・昔鉄は高く、平安や鎌倉の頃は金よりはるかに鉄の方が高価であった。明治の頃も鉄は高く、火事が起きると釘拾いをしていたほど。
→これらから、作刀のコストダウンの目的も考えられる。
・刃文は熱の伝わり方、冷え方、水質で変わる。これらを計算する刀匠のデザイン能力で決まる。
→特に水温は重要機密で弟子��も教えない。正宗の弟子(?)が水に手を入れて確かめたら怒って手を斬ってしまったという逸話があるほど。
・水がぬるい:匂い、冷たい:沸になる。
・鍛刀技術は直系の子供?にだけ口伝で教えていた(正宗→貞宗→広光と)。が貞宗は養子らしい。
・ただし、刀の出来は同じ作者でも材料や時間の有無でグラードは大きく異なる。
・焼入れをすると鉄の中の炭素だったが膨張して反りがでる。直刀→反る、反りのある刀→もっと反る。
→奉納時直刀を依頼され困るという話もあるらしい。
・正宗、貞宗は直接鎌倉幕府が買い上げていたため銘がない(なくても正宗、貞宗とわかるため)。
・広光は途中で倒幕したため誰が買うかわからず、銘入れする必要ができた。
→しかしいままで入れたことがなく銘がない。どうしたものかと悩んでいると狐が「コーコー」と鳴いた。よって広光(コーコー)となったという伝説がある。
・山鳥毛一文字はずぶ焼き。銘がない。
・無銘について、上手くできなかったから銘を入れなかったと考えることが多い。もちろん時代の流れによって擦り上げが流行ったためその限りではない。
・ずぶ焼きは失敗する確率が高い。
→よって見事な刃文だが偶発的にできたものではないか?失敗作なのか成功作なのかわからない。生ぶのため、意図した作品ではなかったために銘を入れなかったのではないか?とのこと。
※ずぶ焼き:焼入れ時粘土を使わず一気に焼き入れるため急速に冷えその時点で割れる確率が非常に高い。と言っていた気がする。ここはメモしていなかった。
以上。
夜に高台寺に行ってきーたよ(^-^)(^-^)(^-^) 夜桜綺麗だった。
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81番重文記念日
安土城跡に行ってきました。
奇しくも3月28日がお休みだったので行くしかないなと。元々ずっと行ってみたかったのもあるし、負けずの鍔も欲しかったし。どうせ行くなら記念日に行こうかなと。晴れててよかった。
本丸跡。
てっぺんからの眺め。
信長もこの景色を見たんだなとしみじみした。本丸跡の真ん中にしゃがみこんでちょっと色々考えたというか私と宗三くんの思い出が走馬灯のように駆け巡ったし宗三くん今日まで生きててくれてありがとう〜;;;という気持ちで堪らなくなった。
負けずの鍔はあとで写真追加しとく。とりあえず今日中にどうしてもあげたいので。
信長の館も行きました。著作権のあれこれで中の写真は上げられないけど迫力が凄かったので近くに行くことがあればぜひ行って欲しい。
安土城考古資料館も行ってきた。信長の資料を集めたコーナーがあったんだけどそこにあった図録に「コレクションとしてではなく実用として左文字を愛用していたよう」と書かれていました。 は〜ありがてぇ〜と思ってとりあえずメモしてきた。これが事実だとして、信長の死後どんどん泰平の世へと変わっていき大きな戦もなく刀は専ら贈答品として扱われてきた中で、やはり宗三にとって信長は特別なんだなと思った。
建勲神社。どうしてもこの日に来たかった。
桜咲いてた。
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三嶋大社に行ってきた。2月だけどあったかくて晴れてて気持ちよかった。鹿がいた。驚いた。
佐野美術館行きました。2回目。宗三くんを見るのは3回目。今までは永禄三年〜の側が表になって展示されていて鏡などで裏側も見えてはいたけれどそんなにじっくり見れたことはなくて。今回は織田尾張守〜の側が表になって展示されていたのでいままで見れなかった面をじっくり見ることができました。いままでも混んでいて数十秒程度しか見れなかったけど今回は平日の昼間だったからか人も疎らで1時間ほどゆっくり眺めることができました。いままで少ない時間で見たなかではゲームのキャラとは裏腹にがっしりと力強いという印象だったけど今回よくよく見たら思っていたよりずっと傷だらけで、一生懸命天下を歩いてきたんだなぁと感慨深かったです。スケッチしました。
帰ったらじっくり図録読みたい。
他の焼身の刀は熱で刀身がぐにゃぐにゃになっていたり、赤みがでていたり、まるで人の体と同じようで呆然とした。赤いのが血みたいで。どれだけ熱かったかなとかどれくらいの時間燃えていたのかなとか考えた。そんななかで綺麗に残っていた焼身の燭台切や児手柏はまるで奇跡の存在なんだなと改めて実感した。去年徳ミュで見たときはこん��にぐにゃぐにゃなものはなくて焼身とはいえ比較的状態の良いものばかりだった(焼身に良いも悪いもないのかもしれないけど)。
もしかしたら燭台切もこうなっていたのかなとか。宗三くんもこんなに綺麗にはならなかったかもしれない。ぐにゃぐにゃで宗三くんともわからなかったかもしれないとか考えてしまいちょっと泣いた。
今回このテーマで展示してくれてほんとに有難かった。直視するに耐えず目を逸らしたくなるものも多かったけど全部「そういう歴史」なんだなとひとつ思うことにした。
こういうものひとつひとつが歴史を作っていくんだね。
こんのすけ。
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山姥切問題について
前提として
・山姥切長義:1352~81年頃、備前長船長義によって作刀される。天正14年(1586年)7月、北条氏政→長尾顕長拝領。天正18年5月、国広に銘入れを依頼、本作長義〜と入る。
・山姥切国広:天正18年(1590)2月、国広に山姥切写し作刀依頼する。
この二振のなにが問題かといえば、山姥切国広の存在そのものなのではないかと思う。以下便宜上、山姥切長義を長義、山姥切国広を国広と表記する。
まず長義は国広を「偽物」と呼んでいるが、「写しだから偽物」と言っているわけではない。長義は「自分こそが山姥を切った化物切りの山姥切長義である」と認識しているが、なぜか写しの国広も「山姥切」だと名乗っている。南泉との回想をみても、長義にとって「何を切ったか」ということは非常に重要で自分のコアになっている。磨り上げや銘の変更(おそらく磨��上げ前当初は長義の銘が入っていたのではと考える)はそれだけで存在を揺るがせるような事象だが、さらに「写しに存在を食われる」となれば写しに大してあれだけの激情を発露するのも頷ける。しかもその銘入れも写しの出来が良かったから入れさせた、とも言われるくらいである。
元々人口の少なかった刀剣界隈だが、刀剣乱舞の流行でこぞって人が集まるようになった。刀剣乱舞きっかけで刀鑑賞をするようになった人の殆どが刀剣乱舞から刀に興味を持ったのだと思う。そうだとすれば必然的にこの二振に関して、先に認知したのは初期刀にもなっている“写し”の方になる。そこから写しがどういうものか知って、元となった本作長義の存在を知り、長義について「こんな刀があるんだ、これが山姥切の本歌か」と思ったことだろう。斯く言う私もそうだった。これがまた長義にとっては許し難いポイントになっているのだと思う。本来なら「これが長義の写しか」と見られるはずが、完全に立場が逆転してしまったから。本作長義があんなにはっきり銘入れされているにも関わらず“山姥切長義”として実装されたのは、すでにゲーム内でも写しの方に存在を引っ張られているからでもあるのかなと思った(単純に本歌と写しということで同じ山姥切とした可能性ももちろんある)。銘入れのことといい、悉く“写し”に動かされてしまっている。自分こそが山姥切であるはずなのに、“写し”を通して認知されている。
しかも国広にとって化物切りであるかは実にどうでもいい事象で、極めてからは「堀川国広の第一の傑作で、今はあんたのための刀。大事なことはそれくらいだな」と言い切るくらい。山姥切の逸話については「案外どちらも山姥を斬ったりしていないのかもな」というレベルにすらなってしまった。そんなにふうな写しの方が山姥切と呼ばれている事実を長義はなかなか認められないし、ついに存在を食った写しが逸話を否定したら本科のコアが粉々になる。
けれどここでもうひとつしんどいのが、ひとつだけ確かなことは「長義がいなければ国広は生まれなかった」という事実。ほんとに難しい関係だよなと思う。
そこで明らかに喧嘩腰で仲がいいとは言い難いが、お互いが逸話を真実であることを前提として関わっている南泉は、長義にとって少しだけ救いになっているのではないかと思う。
以上ついったのTLとか回想を見ていての考えと感想。
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壁打ち用
完全に壁打ち用。流されやすい自覚はあるからTwitterとかは楽しいけど自分だけで壁打ちして整理する用に使う。
私は好きだからまだ刀剣乱舞続けててもいいわけだし、刀鑑賞も行きたいときに行きたいところに行けばいい。旅行も好きなときに好きなとこに行く。これでいいんだよ。
ここはネタのまとめとか、リアル日記とか、そんなふうに使っていく予定だけど使い方全然わかってないしtumblrの存在を今日知った!
とりあえず山姥切長義ね。またみてまとめようと思う。
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