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#15 一文物語
OLが急足でオフィスを出てイヤホンをし久々の定時上がりで見上げた新宿の空はまだ明るく、始まったばかりの月曜日は一週間果てしないと大きく息を吸い込むと、どこからか、そこにあるはずもない子供の頃欲しかったプチコロン香りペンの香りが確かにして、自分はあの頃より確実に前進していて、今日くらいは少しだけ小さな贅沢をしていいんじゃないかと思えた。
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ファンシアン・メモリー
PART.2
白い靄が視界を遮っている。カスミはその向こう側に行かなければならないことを直感的に知っていた。歩みを進めていると、人影が見えた。彼女はこの光景をどこかで見たことがあるような気がした。それがいつどの場所であったか、記憶は喉の奥まで出かかっているのに正確に思い出せなかった。次第にその人影が女性であることが分かってきた。
「待っていたよ」
その人影の声は、馴染みのある声だった。
「わたしを?」
「そう」
すると靄が次第に晴れていき、人影の顔が露わになった。彼女の髪は長く、オレンジ色で、目は薄い緑色をしていた。自分とは違う顔立ちなのに少しも警戒心を抱かなかった。さらに妙なことに、その女は自分だということをカスミはすぐに理解した。
「あなたはわたしよね?」
「ええ、もちろん」
「どこかで会わなかった?」
「会ったわよ」
「どこでだったか思い出せないの」
「無理して思い出す必要はないわ。だっていつだってわたしはあなただもの」
女は会わせたい人がいる、と言ってカスミの手をとって歩き出した。二人はずっと靄の中を歩いた。その靄は二人が歩くと道を作るように右へ左へと開けていくのだった。
「あなたの名前は? わたしはカスミ」
「知ってる。わたしもあなたと同じ名前」
「あなたもカスミ?」
「違うよ、でも同じ」
「どういうことかな?」
すると女は歩みを止めて、カスミの手を離した。大きく吸い込んだ息をゆっくり吐き出すと、彼女の艶やかなオレンジ色の髪が揺れた。
「ヘイジーだよ。ほら、あなたもわたしも、ここに浮かんでいるでしょう」
すると遠くの方から何かが聞こえてきた。
「この音は何?」
ヘイジーはこの言葉を待ち構えていたように微笑んだ。
「あなたに会わせたかった人」
ヘイジーはカスミの手をもう一度取ると今度は子供のように無��気に走り出した。二人は靄の間をすり抜けて、ネオンに包まれる丘を目指した。
丘の上に着くと、この世のものとは思えないほどの豊かな音楽がそこには流れていた。これまで聞いたこともないその音は靄を照らし出すネオンの点滅と溶け合っていた。そしてその音を奏でているのは、橋本譲二だった。
その瞬間、これは夢だと気がついた。ヘイジーも、橋本譲二も、自分自身が作り出した幻想に違いなかった。彼女は一歩一歩後ずさりした。
「どこへ行くの?」
ヘイジーが首を傾げると小さなホクロが髪の隙間から覗いた。
「もう行かなくちゃ」
カスミが一歩を踏み出すと、地面は突然崖となり容赦無く彼女を放り出した。
「「決して起こらなかった記憶を呼び起こして!!」」
♩
「間違いなくそう言ってたの?」
男は驚いた顔をした。彼の驚いた顔は想像していたものと少し違っていた。それは無理もなかった。なぜなら彼女がこの男に会うのはこれが初めてだったのだ。
昔働いていた渋谷のライブハウスに彼女の大好きなバンドが来日するということで数年ぶりに彼女はそこを訪れた。テツロウも来るはずだったが、急遽仕事が入ったため彼女一人だった。彼女の目当ては三番目で、彼女が入店した時には客はまだ両手で数えるほどしかいなかったのだが、既に一番目のアーティストが演奏している時間だった。引っかき傷さえ当時のままの懐かしい鉄の扉を開く。
足を踏み入れた途端、これまでに抱いたことのない思いがこみ上げてきた。聴こえてくる音は、まるで別の星から舞い降りて来るように美しかった。そしてその音の連なりは単なるメロディの役割を超えて、人間には決して分からない、しかし明確な意図を持った信号のように、カスミの耳に響いてきた。照明の青白いライトがアーティストを照らし出し、影を作っていた。その影はその未知なる音楽に合わせてリズミカルに揺れていた。彼はどこかで見覚えのある顔をしていた。それどころか、彼の名前も知っていた。橋本譲二だった。今度は確かに夢ではなかった。
「橋本譲二さんですよね?」
二番目のアーティストの演奏が終わり、三番目のバンドの演奏が始まるまでのインターバルで、カスミは譲二を見つけた。彼はJOEと名乗っていた。ラムコークを飲む彼は演奏中に見た時の神秘めいた雰囲気を持っていなかった。けれど彼が被っている帽子がどこかのピザ屋のものだったので好感を持った。
「そうだよ、その名前は使ってないけど」
「偶然テレビで見たんです、あなたのお父さん��研究所・・・」
譲二が目を逸らしてばつの悪い顔をしたので、カスミは何を言いたかったのか分からなくなってしまった。
「そしたら、あなたが夢に出てきて、こう言ったんです。『決して起こらなかった記憶を呼び起こして!』って。それで・・・」
「間違いなくそう言ってたの?」
「ええ、言ってた。でもその言葉の意味が分からなくて。それに、何だかあなたの事までもが他人ではないような気がしてたの」
二人の間を二人組が通り抜けた。会場はいつの間にか人で溢れていた。そろそろ三組目の演奏が始まろうとしていた。
「次の演奏が別の会場であるからもう行かなきゃならないんだ。僕は演奏以外ではここで働いてる。もしまた話したくなったら、ここに来て」
彼はカスミのiPhoneに彼の電話番号と店の住所を残し、さよならを言って出て行った。彼が出て行ってからしばらく、彼女が見に来たバンドの演奏が頭に入らず、彼が残したタバコの吸い殻を見つめていた。
♩
着信があったのはカスミが電話をかけてから二日後だった。電話に出たとき、彼女はパーティへ行く身支度をしていた。
「電話をくれたね」
「ええ」
「僕も君に話したいことがあるんだ、あの言葉について何だけど」
今は手が離せないの、と彼女は受話器を挟んだまま塗っていた口紅のキャプを締める。
「分かった。じゃあ僕の働いてるお店に来て」
「いつ行けばいい?」
「君が今だ、と思うときに」
そして彼は電話を切った。
♩
あの着信から五年が経った。彼女は二八歳になった。五年という月日はとても長かった。彼女の環境も内面も変わった。恋人が去って住む家を失ったり、友人に裏切られたり、冷蔵庫が壊れたり、入院したりもした。けれど、いいこともあった。新しい地に出向くきっかけになったり、友人が増えたり、野良猫が懐いていつの間に家族になっていたりもした。そして譲二とも再会した。住む家がなくなったときに助けてくれたのは譲二だった。彼は彼女の指針を導いたし、彼は彼女の内側から生まれて来た言葉を信じた。
「君は頭に雪を乗せてやって来るんだね」
譲二はカスミの頭の上に乗っていた柔らかい雪を払った。譲二が前会ったときと同じピザ屋の帽子を被っていることは妙にカスミを安心させた。
「今だ、と思って来たんだ」
「雪が降ってて、ネオンが光っていて、あの夢のときと同じだと思ったから」
譲二はレジの鍵を閉めて、スタッフルームの奥へ消えた。《BETWIXT》と書かれたこの店にいると、自分が今どこにいるのか分からなりそうだった。黒光りしたドラキュラのマネキン、今にも踊り出しそうなピエロのマネキン、暗闇から飛び出して来そうなキャットマスクのマネキン。ここは誰が来る店なのだろうか?
「『決して起こらなかった記憶』は、君の中にあるんだよ」
譲二がホットワインを二つ持って戻って来た。
「君が本当だって信じたいこと、君が行きたい場所は、ちゃんと心の中にあるんだよ。君が夢を見たみたいに。だけどそこに行くまで危険な道を通らなくちゃならなかったり、何かを犠牲にしなきゃならなかったりするよね。そういうリスクを心配して君は、無意識に忘れようとしてるんだ。だから思い出せってことじゃない?」
「でも、どうやって体験してもないことを思い出すのかな?」
「きっとそれ自体は体験したことじゃなかったとしても、君が思い出したその『記憶』は君の中に眠っていた色々なことが結晶となって混ぜ合わさって出来た鉱物みたいなものなんだよ。その鉱物を取り出すことが大事なんだ。今は本当に行きたい場所も、やりたいことも、信じたいことも出来ずに自分と向き合えてないんじゃないかな」
「どうしてそう思ったの?」
「僕がそうだったからだよ。僕が研究所を抜け出したのは、そういうことだよ」
カスミはワインを一口すすった。
「わたしはどこから抜け出したらいいのか分からない」
「そのうちわかるよ。そのうちね」
♩
朝五時。カスミは五線譜と向き合って最後に置くべき音を考えていた。別に大した楽曲でもなかったけれど、実際に頭の中を行ったり来たりするイメージを確かなものへと置き換えることはとても素敵だと彼女は知った。
ゆらゆらと風が通り過ぎて柔らかいレースのカーテンが眠たげに膨らんでいる。窓辺に置いてあるネフェリンが朝日を吸い込んで光を放っている。この瞬間のこの光を音にしたいな、とカスミは思う。
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ファンシアン・メモリー
PART.1
一人の女が煙草を燻らせている。彼女は土曜の夜のパーティにいて、賑わいに包まれている。白い指の間で生まれる煙から視線をそらして彼女はピンクのネオンに照らされた曇りガラスの方を見た。白いセーターを着た女が、雪が積もってる!と興奮気味に声を出したからだ。すると二組のうちスミレ色のワンピースを着た女がピンキー・サワーの入ったグラスとは反対の空いた方の手でガラスの水蒸気を拭き取り、額を擦り寄せて向こう側を凝視した。ほんと!と振り返った彼女の頬は赤く染まっている。女は視線を煙に戻す。向かいの男はその間喋りっぱなしで、恐らく外の雪化粧に気が付いていないだろう。
「おい、どこ見てる?」
滔々とした言葉の流れが途切れていることに気が付いた。見上げると彼の眉間がごく僅かに狭まっているのが分かった。
「カスミ、俺の話聞いてた?」
彼女は意識的に小さく笑みを浮かべた。これは常日頃使い分けているいくつかの笑みの一つで��返事に困ったときや間が悪い場合に用いるものだった。すると男の顔に刻まれたしわは次第に解けていき、彼女の微笑を緩やかにそこへ写し取った。
「ぼうっとしちゃって。今なんて?」
カスミはもう一度煙草をくわえた。きっとこれが最後の一本になるだろうとふと思った。
「これからどうする?」
「これからって?」
カートリッジをインディ・ローズに染めた煙草を灰皿に置き、セヨンのグラスに手を伸ばそうとしたが、男がそれを遮った。彼女には男がなぜ自分の動作を遮ったのかまるで分からなかった。それが親密さを示しているのか、それともそうであることを装っているのか、もしくはまるでひと匙の意図も含んでいないのか。
「そろそろ君は身を固めたいとか思わないの?」
急になに、と彼女ははみ出した髪を耳の横にかけた。
「急な話じゃない。前にもこの話したことがあるじゃないか」
ここで一つ男は深呼吸をした。彼なりに表現を慎重に選んでいるに違いない。彼女は適切な言葉を見つけようと意識を巡らせる彼の眉間を見つめながら白い煙を吐き出した。銀縁のフレームから覗く彼の物憂げな瞳は間違いなく女性を惹きつける艶やかさを備えていたが、その思慮深さがセクシーだと彼自身が気づいていなければどれほど魅力的だろうかと彼女は思った。しかしそんなことは今更どうでも良いことだった。
「お前は今の仕事に満足してる?下着の広告とか、カラーコンタクトのモデルとか、そんな中途半端で誰がやっても変わらないような仕事で満足してるわけ?」
大きな手がセヨンのグラスから離れた。カスミはこのタイミングでそれを飲むべきか、飲まざるべきかを考えていた。
「自分の年齢を考えろよ。今はまだ若くてモデルが務まるけど、一気に仕事はなくなるぞ。お前がどれだけ老けずにいたとしても、若くて新しいティーネイジャーが出てくるとどうなる? 捨てられる前に手を打たないと」
グラスの底に残ったセヨンを傾けるとHAZY SHADOWのネオンサインが見えた。その光は心地よい眠りを誘うようにゆっくりと点滅した。冬の凍った空気を溶かしているみたい、と彼女は見惚れた。点いたり消えたりするその店名を見ると、いつもウォッカ&ライムの風味が口の中に広がった。そして同時にポール・サイモンの後ろ姿を思い浮かべた。季節の歩みに逆らえないもどかしさに耐えかねてアルコールに記憶を飛ばし、目覚めると未発表の歌詞が広がっているのだ。友人には希望を失うんじゃないと言うくせに、彼は希望に満ちてるふりをするのだから、彼はもう限界に近いに違いない。分からなくないな、と店内���意識を戻すと、いつの間にか音楽が変わっていることに気がついた。
さらにカスミを驚かせたのは、看板のネオンサインがこれまでとは違う光り方をしていることだった。それが聞こえてくる不思議な音楽のリズムに従って。
「いい加減にしろよ、お前のことを心配して言ってるんだぞ」
「あのネオンがさっき・・・」
テツロウ、と誰かが呼びかけた。男が振り返ると、ピンキー・サワーを持ったリエが立っていた。彼女は彼の仕事仲間だった。彼女がテツロウのシガレットケースから一本取り出した。彼が付けた火で焦がしながらリエは何かを考えるみたいに首を傾けた。ミディアムボブの形が崩れ、かすかにローズの香りが漂う。
「煙草の煙って白くてつまらないよね」
リエが煙を吐き出しながら呟いた。
「色がついていればいいのにね、自分の好きな色に」
「例えば?」とテツロウも煙草に火を付けた。
「赤とか?」リエは向き直った。
「カスミちゃんは何色がいいの?」
「紫かな、やっぱり」
あの歌を思い浮かべていた。あの曲を聴くといつも、空にどうやってキスするのだろうと考えてしまう。
テツロウがリエに何かを言いかけた時だった。
「ごめん、わたしもう行かなきゃ」
カスミは煙草の吸殻を灰皿に押し付けると、荷物をまとめ始めた。
「行くってどこに?」
外の空気は澄んでいて、月光は雪の白さを際立たせた。
雪が降ってる、と彼は驚いたが、それを言い終える前に彼女はライダースのポケットから何かを取り出した。
「雪が降るともう要らなくなるの、これ持ってて」
それは雪景色にはあまりにも鮮やかな青で、中国土産を連想させる精密な柄が描かれていた。カスミはそれを彼の手のひらに無理やりねじ込むと、微塵の未練も感じさせない足取りで歩き始めた。
「もう終わりだね、付き合ってられない」
立ち尽くした彼が小さくなって行く。彼女にしてみれば雪が降っていることなどとっくに知っていた。それはリエがはしゃいだからでもなく、テツロウの饒舌に退屈して窓の外を眺めていたからでもない。それは、今日が彼女の二三回目の誕生日で、企てていた「出発」の日には雪が降って然るべきだと彼女自身が心得ていたからなのだった。
♩
「少し煙っぽい気がします」
カスミは寒さを感じた。ガタガタと身体の芯から震えるような寒さではなく、隙間風が身体を撫でていくような寒さだ。目には見えないけれど、もしかしたら吐く息も白いのかもしれない。
「いい調子よ。あなたはもう別の場所に来ているの」
「別の場所?」
触れているクリスタルを彼女はより一層力を入れて握りしめた。
「そう。そこは、あなたの意識の中。普段生活している時には分からない、意識を超えた次元。ほら何か、特別なものを感じない?」
特別な場所・・・。わたしは確かにずっとここにいるのにな、と彼女は思った。目を瞑る前まで占い師と向かい合っていて(彼女の髪は増えるワカメみたいだ)、��いて両手で三角を作ると、さあ目を瞑ってと言ったのだ。きっと彼女はそのままの状態なんだろう。それなのにどうして移動したと言えるのだろうか。
「何か、とは何ですか?」
「疑問を疑問で返すだなんて。それはあなたが見つけることよ、あなたが見ているのだから。些細なことでもいいから、何か言ってちょうだい」
占い師の口調はカスミを不安にさせた。ここへ来たのは確かに彼女自身が決断したからに間違いはなかったが、何も見えていないものについて説明を強いられるとは考えてもみなかったし、それほど主体的な姿勢を求められるとは思っていなかった。どんなに目を凝らしてもただ暗闇の中に青っぽいような赤っぽいような、あるいは白っぽいような粒子が伸びたり縮んだりしながら散っているだけだ。
「説明してと言われても、分からないんです。ただ何だか煙っぽくて、少し寒気を感じます」
占い師は呆れたようにため息をついて、じゃあもう一度ときびきびした口調で言った。彼女が目を開くと、やっぱりワカメの占い師が変わらずにそこにいた。唯一変わっていたのは、彼女の後ろに掛かっている時計の針の向きと、目の前の黒々とした髪が心持ち増量したように思えたことだった。
「二〇分コースで三〇〇〇円になります」
レジの女性スタッフは占い師の持っていたような異質な、あるいはどこか神秘を演出するような雰囲気を持っていなかった。化粧で目鼻立ちを整え、髪は艶やかで、ブラウンのカラーコンタクトをしていた。会計を済ませると、スタッフは気持ちのいい声で「またのご来店をお待ちしております」と言ってお辞儀をした。カスミは曖昧に会釈をしてエレベーターが登ってくるのを待った。
《あなたの中に眠っている本当のあなたに会える》
エレベーターの中に店の看板と同じ文句があった。この言葉が彼女を占いへと誘ったのだった。これまで占いなどジンクスのようなものでしかないと思っていたし、カスミの周りに占いに没頭している人もいなかった。女性向けの雑誌に毎月掲載されている星座占いだって、読み飛ばすこともあれば斜めに読んでおしまいにすることがほとんどだった。しかし今日、それは二〇一七年七月の終わりだったが、カスミはふとこの言葉に吸い寄せられ、そして他人ごとではないような、このまま通り過ぎてしまったら永遠に後悔をしてしまうような思いに囚われて入ったのだった。
エレベーターを降りて外に出ても妙な違和感が捨てきれないことに不安を覚える。いつも見ていた渋谷の風景が、映画のワンシーンのために用意されたセットのような白々しさを持ってカスミの瞳に映った。遠くの方から吹いてくる夏の風の爽やかさだけが、唯一信じられるような気がした。
《あなたの中に眠っている本当のあなたに会える》
変なことではあるが、あの占い師がこの魔法のような約束を果たしたかどうかをカスミは少しも気にしていなかった。人によっては料金を騙し取られたと言って怒鳴り込んでもおかしくはないのだ。けれども彼女にとっては「自分の中に眠っている本当の自分���が誰なのかという問題よりも、どうして普段ならば反応しない言葉が妙に際立って見えたのかかが問題であった。だから、彼女はあの占い師が「本物」かどうかをもちろん知らないままだったし、後日確かめてみようとも思わなかった。その日の晩帰宅するとカスミはご飯も食べずにシャワーだけ浴びてベッドに潜り込んだ。隣のベッドは今日も空っぽだった。いつもより念入りに身体を洗ったはずなのに、あの部屋で感じた嫌な緊張感だけは洗い流せず身体の中に居座り続けていた。
♩
「「決して起こらなかった記憶を呼び起こして!!」」
落ちる!と衝撃と共に目覚めた。汗をかいていて、うなされていたようだ。付けっ放しのテレビが誰のためでもなくだらしなくバラエティ番組を映し出していた。その時カスミは、録画する番組を間違えていたことを思い出した。その番組はテツロウに録画を頼まれていたもので、家にいることの多いカスミが彼の代わりにすることになっていた。彼女にしてみれば録画できようができまいがそれは同じことだった。問題なのは、見るはずのなかったその番組を試しに見てみると案外興味深かったが、重要だと思われる場面を正確に思い出せないことだった。記憶を頼りにリモコンを手にとって巻き戻す。
テツロウとは二年近く同棲していたが、彼は転職を経てカルチャー雑誌の出版社に四年勤めていた。彼は彼女よりもいくつか年上だった。彼女が彼に出会ったのは彼が若くして編集長を務める雑誌のあるコーナーがきっかけだった。そこでは「知られざるクリエイティブ女子」というテーマで何人かの学生がインタビューされ、そのうちの一人にカスミが掲載されることになったのだった。彼女は当時学生で、渋谷のライブハウスでアルバイトをしつつ趣味で音楽を作っていた。そのライブハウスは小さかったけれど雑誌に取り上げられることが度々あり、知る人は知っている場所だった。そこで初めて二人は出会い、偶然にも彼がそのテーマを担当することになり、彼女にその話を持ちかけたのだった。それはカスミにとって大きな出来事になるはずだったが、運悪くそのコーナーは出番が来る前に打ち切られてしまったのだった。
それ以来彼女は顔の広い彼を通じてちょっとしたモデルや広告の仕事をもらうことが度々あったが、定職に就くことはなかった。いくつかアルバイトをして、長く続けて社員を目指そうとも思ったけれどいつも何か些細なことで挫折して辞めてしまった。彼女の両親は焦らなくていいと毎月仕送りを送っていたし、テツロウは編集者としての力量を兼ねそなえ会社でも重宝がられていたから差し迫って生活に困ることはなかった。ただ漠然とどうやって暮らそうかというぼんやりしたものが忘れた頃に押し寄せて来るのだった。
テツロウに頼まれていた番組はスポーツ番組で、「今度サッカー選手のインタビューがあるから」とラインを寄越したのだった。一方間違えて録画してしまったのはこれまでに見たことも聞いたこともない番組だった。それは流行りの芸���人が出るわけでもなく、昔からやっているわけでもない、ただその放送枠が余ってしまったから穴埋めに、という粗末な雰囲気をしていた。録画を再生すると途中から始まった。それはとある場所の「呼出音研究所」を取り上げていた。
ナレーション:
呼出音は昭和六〇年になると、事業用電気通信設備規則により、そのトーンを四〇〇 ヘルツに一五 – 二〇ヘルツの変調をかけることが定められた。当時を振り返って研究員の橋本は、呼出音についてこう語っている。
(当時の黒電話から橋本の研究場面に切り替わる)
橋本:
「今となっては一秒オン、二秒オフの繰り返しが定着していますが、これは日本スタンダードなんですね。
(〜♬ 日本の呼出音)
イギリス連邦だと〇・四秒オン、〇・二秒オフ、〇・四秒オン、〇・二秒オフの繰り返しで出来ています。
(〜♬イギリス連邦の呼出音)
北米やヨーロッパにも、もちろんそれぞれの呼出音があるわけです」
(ここで世界中で電話が使用されていることをほのめかすイメージ映像から橋本の父の映像に切り替わる)
ナレーション:
橋本の父は呼出音の研究に三〇年以上の月日を捧げていた。彼の研究こそが、日本スタンダードの呼出音を生み出し、今日の生活をより快適なものにしてきたのである。
橋本:
「この呼出音はあらゆることを想定して作られました。日本の生活空間、日本人の耳の形、日本人の手の長さなど、他にもちょっとやそっとじゃ思いつかないようなありとあらゆる事です。父はこの呼出音が完成したとき、日本の将来は約束されたと確信したようです。なぜなら、この呼出音こそが我々日本人の生活を、人生を、そして日本の行く末を切り拓いていく扉になるのですから」
(研究室から学会の場面に切り替わる)
ナレーション:
2017年5月。日本橋のとある会場で学会が行われた。
橋本:
「可聴音に関する学閥ですか? それは根強いですね。我々の他に、着信音研究所、発信音研究所、話中音研究所が存在しますが、ここ数年の学会では前進が見られないですね。議論が活発なことは良いことですが、お互いの揚げ足を取り合っている姿は醜いです」
ナレーション:
橋本には譲二という息子がいた。彼は埒のあかない学会の希望の星となるはずだった。
(橋本の息子、譲二の少年時代〜青年時代の映像が流れる)
橋本:
「譲二は非常に優秀な息子でした。確かな音感を持ち、人に呼びかけるという行為に対して私以上の深い理解を持っていたのです。しかし、彼が音楽に出会って以来、その『呼びかけ』に対して造詣をあまりにも深め過ぎてしまったのです。息子は今年の三月に、作業着を着たまま研究室を���・・」
録画はここで終わっていた。テレビは再び能無しに戻り、使い古された展開を平気で持ってくるバラエティ番組を垂れ流した。カスミはしばらく動けず、言葉さえ思い浮かばなかった。テツロウが帰宅するまで、テレビ���面の向こう側、ずっと奥にある青年時代の譲二を思い浮かべ、そのまま横になった。
…PART.2 へ続く…
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#15 一文物語
「虚無病、幻想病、懐疑病、過信病、傷心病」と出社前の女は、木曜日の朝もいつも通り症状を覚える名もなき病の数を無意識に数えて駅へ向かっていると、目の前に夏服を着た女子高生が歩いていて、清潔な白い半袖のシャツから劣らず雪のような肌を覗かせ微塵の憂いもなくしゃんと歩く彼女を見て女は、「わたしもまだ制服を着れるんじゃなかろうか」と半分冗談でそう思い急いでいるわけでもなく彼女を追い抜かしてみると、彼女との共通点は背丈のみであって、肌や髪の艶は弾ける玉のように輝いている彼女の横顔を見て、高校卒業後の十年間に誰かに気づかないように若さを盗まれていたような理不尽な気持ちになり、最後に「少女病」と付け加えて改札口に入った。
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#14 一文物語
書類、押印、差戻し、書類、差戻し、書類、書類、書類、差戻し、差戻し、得意先からの急な依頼、書類、電話、書類、電話、書類…と書類の束と電話のベルに振り回される一日を疲弊して終えたわたしはアパートに着くと扉の前でうずくまる何かを見つけ、目を凝らすとそこにはクロネコヤマトの制服を着たクマが荷物を積み重ねた台車を脇に座り込んでおり、わたしの存在に気がつくと慌てて立ち上がるや否や「決して見なかったことにしてください。本当はお客様の帰宅を確認してすぐ戻るつもりだったのですが…こちらがお客様宛のお荷物です。…不思議に思わないでください、クマも生計を立てなければならないので」と小包に大きな花束を添えて手渡すと制服を着たクマはわたしの印鑑も貰わずに小走りでアパートを後にしたが(そもそも印鑑を貰わない姿も見せない配達なんてあり得るのか)、その花束は違和感のない程度に食べられ、小包の贈り主はわたしの知り合いではない上に宛先もわたし宛では無かったのだが、目の不調のせいで書類に不���が多いわたしのようにクマにも事情があるのだろうと訝るのをやめ好奇心にもかられ小包を開けるとバウムクーヘンとメッセージカードが添えてあるので読んでみると「鹿島さん(わたしではない)、今日は特別な日ではないけど、あなたの事だから今日も頑張っているだろうと思って。バウムクーヘンが好きでしたよね。一切れ食べたら、暖かいお風呂に入ってぐっすり眠ること。それから…」とそこまで読むと、ボタンに気が付き、押してみるとオルゴール調の「愛の讃歌」が流れ、それはわたしの記憶から小学生の頃に通っていた小さなパン屋さんの甘い香りやメリーゴーランドの壁紙やパンを包んでくれるお婆ちゃんを思い出させ、目の奥が温かくなるのをこらえきれず、カードの続きも滲んで読めないのだった。
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#13 一文物語
師匠の大好物であり見習い工の僕が大好物でもあるロールケーキはシンプルだが大ぶりで生地にオレンジピールが練り込まれており、生クリームがたっぷりと巻かれ、スポンジのふわりとした舌触りと生クリームのしっとりとした食感がやみつきになるのだか、例によっていつもの洋菓子屋へそのロールケーキを買いに行くと店は薄暗く不気味で、僕は不安になって止せばいいのにいつもと違う扉へ出てしまい、そこには視界一面にラベンダー畑が広がっていて、気付けば開けっ放しだった扉は跡形もなく消え、そうだここは昔、身体中から蔓が巻き花が咲く植物病に苛まれた美しい女性が自ら土に潜り息を引き取った場所だ、と湿った草原の月光の下で雄羊は夢を見て眠り、渦巻く立派な角をせっせと伸ばしている。
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#12 一文物語
バンコクの気候は50年以上の一生涯をアイルランドで過ごした男にとっては殆ど陰湿な暴力にも等しく、一度かいた汗は乾くことなくとぐろを巻く蛇のようにしつこく体にまとわり付き、一方で店はどこも巨大冷凍庫と化し、薄着をした無防備な男に容赦なく冷風を吹き付け汗を冷やし、体力の消耗と共に数年もの年月を経て受け容れた娘の国際結婚への不満が蘇りかけたが、屋台で頼んだトムヤムクンのスープを口に運ぶと、スパイシーな辛味に舌鼓を打ち、パクチーからひょっこりとヒゲが覗く海老の頭も残さずきちんと美味しくいただき、飛び交うタイ語や読めない看板、観光地と思しき色褪せた写真のエキゾチックな雰囲気にようやく胸が高鳴り、愛想の良いタイ娘に勘定を済ませから、自分の娘に会って真っ先にしたことは、産まれたての孫娘に通りすがりの雑貨店で見つけた小さな靴下履かせることで、男と娘は胸がいっぱいなり、赤ん坊は熊にも似た男の赤ひげに絡まった海老の破片を見つけて笑った。
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おまじない
バークレーのある老舗のバーで話し込んでいる。明日の朝食を買いに行く途中、道の角でジェシーにばったり再会したのだ。彼女とは共に中学、高校の同級生で当時はお互いの家で映画を観たりホームパーティに招待したりする仲だったが、ジェシーがニューヨークの大学に進学して以来、連絡は途絶えたきりだった。
「それで」わたしは笑い過ぎて溢れた涙をそっと拭きとる。ジェシーは昔からジョークが達者だった。
「どうして急に帰ってきたのよ。連絡してくれればいつでも泊めてあげたのに」
わたしの部屋は立派ではないが、友人一人泊めるには困らない。
「なんか思い付きできたんだけどさ・・・」彼女のそれまでの陽気な表情に雲が立ち込める。
「初心に戻るっていうの?」彼女は深刻そうに左手を額に当てた。その左手はひんやりと冷たいだろうと何故か思った。
「何がダメなんだろうって思ってさ」
「何がって何よ」
「そうだね・・・人生?」
隣のテーブルにカップルが座った。チェック柄のコートに雪が積もっている。
「なんでよ。あんたはいつもちゃんとしてきたじゃん」と言ってはみたが、説得力にかけていることが自分でも分かる。
「まあね」
ジェシーが三杯目のビールを注文した。もしここでわたしが「ちゃんとしている」ことについてこれ以上説得力を持たなければ、ジェシーが話すのをやめてしまいそうな気がする。
「ほら・・・あんたいつでもコツコツ頑張るタイプだったじゃない。最後の年、成績もグッと伸ばしてさ、諦めないで勉強してたし。ニューヨークの大学だってちゃんと卒業出来たんだし。仕事はどうなの?」
「順調だよ。あのね、なんて言うんだろう。そういうのはちゃんと出来るの。というか、ちゃんとしようとし��ぎなのかな」
カラカラとグラスが音を立てた。二杯目のジンが底をついたようだ。
「彼氏と長く続いたことがなくてさ。そろそろ結婚したいなってとこでフラれちゃうんだよね」
「そうだったの」
「まあそれはさ、次の人見つければいい話じゃん」ジェシーは三杯目のビールを飲み干した。
「飼ってた犬が死んじゃったの」
店員が四杯目のビールをカウンターに置いた。
「それは気の毒に・・・」
「あの犬ほんと賢くてさ。人懐っこいけどちゃんと人の都合も分かってるんだよね。だからわたしが一人で居たい時は扉空いてても入ってこなし。逆にその彼氏に降られた時なんかはさ、一晩中ずっと隣に居てくれたのよ。トリップ・・・」
頬に雫がつたった。彼女の頬は氷のように冷たかった。
「トリップはあんたにとって一番失いたくないものだったのね」
そう、とジェシーは何かを言いかけてやめてしまった。そして顔が蒼白になる。
「ジェシー?」
彼女がわたしの顔を見た。目が合って、わたしは思わずどきりとした。左右に備えた一つ目の猛獣が今にも飲み込もうとしているようだ。
「ねえジェシーったら、あんた真っ青だよ」
わたしの声は届かず、遠い意識の中を見ていた。額に汗が流れ、彼女の呼吸は早まった。声にならない声は鋼の唇を必死に押し開けようとしている。
「ねえ!」
ようやくわたしの声は届き、彼女はわたしを見つめ返した。「エミリー・・・」
その表情は戸惑いと悲嘆の間を行ったり来たりしているように捉えがたいものだった。
「わたし・・・帰るね」
「今?大丈夫なの?」
ジェシーはさっと会計をしてコートを羽織った。
「帰るって、ホテルどこなのよ?」
「大丈夫。わたしはホテルの場所分かるからさ」
彼女が店を出ると見計らったようにタクシーが止まった。後ろ向きのまま彼女は手を振り、手際よく乗り込んだ。わたしは急な事態にたじろぎ、ろくに紙幣を見もせずに勘定する。歩道に駆け込むと彼女の乗ったタクシーはウインカーを出していて、運転手がハンドルを切ろうとしたまさにその瞬間、その記憶は降ってきたのである。
バカだ!
ところが込み上げた謝罪の念を振り切るかのように、タクシーは視界の端へと消えてしまった。
「前見ろよ!」通行人に怒鳴られ道を塞いでいたことに気が付く。わたしはそもそも何の為に家を出たのかも忘れてとぼとぼと帰宅する。
わたしはあの時、おまじないを解いてあげるのを忘れてしまった。いつだったか、よく空が晴れていてジェシーの制服のブラウスが眩しかったのを覚えている。彼女はニューヨークで会計士として働く夢を持っていたが、彼女の両親が移住に反対していた。わたしは彼女を励ましたくてそのおまじないを教えたのだ。
「お願い事を書いた紙を大きな木の枝に結ぶのよ。でもこのおまじないは慎重に言葉を選ばないとダメ」
「どうして?」
「その望みを叶えるのに、何かが犠牲になるの」
「何かって?」
「��あ。それはその時になってみないと分からない。とにかくあんたが失いたくない何かだよ」
その後その望みが叶ったら言うつもりだった。「すごいじゃんジェシー!あのね、あのおまじないはね、わたしが作ったデタラメだったの。だってあんたいつも頑張り過ぎて自分をダメにしちゃうじゃない。わたしには分かってたんだよ、あんたが自力で夢を叶えられるってこと!」
二年後。ジェシーの結婚式に呼ばれてわたしは彼女と再会した。バーで会ったときよりも丸みを帯びていてい幸せそうに見えた。新郎のグレッグとは友人づてに知り合ったのだとに紹介してくれた。その日も彼女はよくジョークを言い、彼も気さくにわたしに話しかけてくれた。正直、彼女が結婚式に招待してくれたことが予想外だった。彼女のあの日の戸惑いの表情は、わたしを責めるべきか迷っているようにも見えた。わたしはその日真実を話そうかとも考えたが、わざわざ話すことで彼女との仲がより複雑になることも恐れた。結局誤解は解けないまま、架空のおまじないはその後もジェシーとわたしの関係に奇妙な影を投げかけ続けるのだった。
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#11 一文物語
クラシック喫茶のメイドを勤める彼女は休日になると家に閉じこもり出来る限り大音量でR&Bを掛けるが、それは営業中垂れ流されるマスター好みの単調なクラシック音楽にうんざりしているだけでなく、身体の内側から込み上げようとする抑えがたい倦怠感に抵抗する様にもみえるが、そんな誤魔化しもそろそろ限界を越えようとしているのを感じながら、彼女はリズムに揺れている。
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#10 一文物語
ドライブの途中、ゴールデンゲートブリッジですれ違った見知らぬ女性は息を飲む美しさで、彼女の瞳が彼の瞳と出会った瞬間、彼の脳裏に駆け抜けたインスピレーションとしては、彼女の瞬きで煌めいたゴージャスなアイシャドウの発色は冷たい夜の星の輝きよりも眩しく、閉じた瞼を持ち上げる力は閉ざされた蕾を押し開く薔薇の花より力強く、彼女の艶やかな栗色の髪を撫でる風は繊細なタンポポの綿毛を運ぶそよ風よりも情緒にあふれ、そして彼女に浮かんだ微笑はあらゆる神話で語り継がれてきたどの女神よりも幸福をもたらすといった具合で、数年後彼はその体験から着想を得た映画作品で賞をとり、女性役を務めた女優もめでたく受賞したが、どんなに評価を得ても長い人生で唐突にもたらされた啓示的とも言えるあの輝かしい瞬間が本物として認識出来るのは自分しかいないという圧倒的に頼りない真実が時に彼を支配し、その体験の信憑性を揺るがすのだった。
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#9 一文物語
夜道に見上げた陸橋は見れば見るほど暗闇に溶け込み見慣れない姿となり、過ぎ行く一般車、トラック、タクシーは視界の端から現れては端へと吸い込まれ消えていったが、その先に待つものが見慣れた交差点とは言い切れない、何故ならここは人も街も夢見る夜の国なのだから。
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#8 一文物語
征服図に見立てたパズルの完成とともに王国の統一を夢見た国王が滴り落ちる血の海に反射した1ピースの空白に悟ったことは、地図専門家J.Sの不手際によって初めからこのジグソーパズルの完成は約束されていなかったことと、人間の生命の儚さからしてもこの世界は完全な意味で誰かのものにはなり得ず、自分が手にしたものは子供騙しのジグソーパズルでしかなかったことだった。
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#7 一文物語
真夏に二人、馴染みの通りでソフトクリームを食べていたら「子供の頃は文字が読めなくて、塗りたてだなんて知らなかったのよね」と話し出した友人が指差したのはコンクリートにくっきりと残った子猫の足跡だった。
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#6 一文物語
あなたが「もしもわたしが美人だったら」と空想をする度に、「もしも」の世界に住むあなたはその都度産声をあげ直さなくてはならないし、あなたの隣に座っている彼・彼女も同様に何度も何度も赤ん坊からやり直しているので、「もしも」の世界の住人たちはちっとも大人になれやしない。
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#5 一文物語
夜毎に月光浴する彼女の瞳がその晩に輝くどんな星よりも眩しいことを彼女はもちろん知らないし、惑星を超えたテレスコープの向こう側には天蓋ベッドのカーテンが手招きしてなびいていることを知る由もない。
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#4 一文物語
未亡人が書斎から発掘した一冊のノートは文化人類学者として五三年の人生を捧げたとされる李浩然の最後の記録であったが、百頁余りに渡って残された中国民族のパラダイムに関する研究が論文として陽の目を見なかったことに未亡人は未だ癒えずにいる心の傷を痛めながらも、不自然に設けられた空白の一頁をめくるとそこには二十日鼠の観察記録がびっしりと書き連ねており、赤ペンでこう記されていた「二十日鼠が食事を済ませると小石を見つけて一心不乱に門歯を削るのはそれが一生伸び続けるという生態を、そしてその運命を全うするからであるのに、我々人間がどうして知的生物だからといって賢いと言えるだろうか、私は学術論争の軋轢に耐えかねて自己の滅亡さえ望んでいるというのに」。
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#3 一文物語
アカデミー賞作曲賞を受賞したターナー氏は欧米屈指の名監督に見込まれ次回作のオファーを二つ返事で受け入れたものの、締め切り三日前の朝に目覚めるとまっさらな五線譜の上に空のウイスキーボトルが転がっており、丁重に辞退の電話を入れる前に気を落ち付けようと一服しに公園へ向かうと、大学へ向かう青年が何やらハミングしながら目の前を通り過ぎ、このメロディは神からの御加護だ!とターナー氏は思わず膝を打ったが、締め切りに追われ神経衰弱に陥った作曲家が一服するためにベンチに腰掛けようとするまさにその瞬間に合わせてハミングをするのは一三七回目にして二度目の成功であった。
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