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みはなだ色の夢。

書評のようなもの。
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三上信夫の目差しは、まっすぐであたたかい。相手を知ろうとする目の奥に、相手を尊敬する心が見えるからだ。 戦後期「日本のチベット」と呼ばれた岩手県北部の北上山地で、家庭の事情から学校に行けない長期欠席児童(以下、長欠)問題に取り組んだ三上さん。本書はご本人の新聞投稿や寄稿と編者が執筆した三上さんの活動の足跡を加えた全三章で構成されている。 三上さんは昭和2年、岩手県岩泉町釜津田生まれ。12人兄弟の3人目、次男である。義務教育終了後は、盛岡市の岩手師範学校(現・岩手大学教育学部)へ進学。昭和24年に卒業し、郷里にある大川中学校釜津田分校へ教師として赴任、以降へき地を巡る。昭和33年からは岩手県社会教育課に席を移し、へき地担当として岩泉町に駐在。社会教育活動を通して村づくり運動を推進し、長欠問題に取り組んだ。 へき地の小学校での出来事をつづった文章も掲載されている。 「一年生の子供たちが五、六人やってきて、『センセイ。アデミテ(来てみて)エ』とせがむので、長靴をつっかけて行ってみた。/何かと思ったら学校の裏の便所のところにネズミの穴らしいものを見つけて、騒いでいた。(中略)/『みんないいもの、めっけだなぁ(みつけたな)』/『なんの穴だべ』と首をひねる。/『センセイ、モグラだがねえ』『木ネズミだがねえ』(中略)地方の子供達は口が重い…うそだ。地方の子供達は学習意欲に欠ける…これもうそだ」 人間に正しいあり方はないが、善きあり方はある。 「みんないいもの、めっけだなぁ」は、善きあり方への手がかりになる魔法の言葉だ。口にすると自然に「みんな」と目線の高さが近付き「いいもの」への興味が湧いてくる。 一方、社会教育活動でも歯がゆい場面が多かった。開催する講習会や懇親会に、本当に参加してほしい長欠の保護者が参加できないのである。子育て、家事、畑仕事に追われ、自分の時間がないのだ。 けれど、参加したくないわけではない。 わざわざ三上さんの家を訪ねて、生活の悩みを聞かせてくれる母さんもいた。気の置けない仲間たちとの少人数の集いで、子どものこと、夫の機嫌の取り方、果ては初潮の話まで、時間を忘れておしゃべりに花を咲かせる母さんたちもいた。何度も生き生きとした姿を見るうちに、集まりでは口を利かない「寡黙な母さんたちでも、時と場所さえ得れば、誰もが語り手になることを発見」する。 「私はふじん会のほうに協力したくても子供らをおがし(育て)すんでから協力したいと思います」。「釜津田婦人会会報」に掲載された文章が目に留まり、文集づくりを決意。 文集「働く母」は昭和35年に第一集が発行された。 昭和39年にへき地勤務から町場へ転勤し、社会教育から学校教育に仕事が変わっても、母さんたちからの便りや記録は任地へ届き、延べ600人もの母さんが寄稿。平成11年まで64集を発行している。 寄稿は手を加えず掲載し、コメントを付けた。「一字一句、余すところなく受け止め」る姿勢に「みんないいもの、めっけだなぁ」の目差しが宿っている。 といってこの目差しは地方の人たちにだけ向けられる、特別なものではない。ガードレール越しに野花を摘もうとする近所のご婦人や、小さな白い実を必死に運ぶ自宅の庭の一匹の黒アリにまで向けられる。 これは性分なのだ。 ご婦人には野花の正体が帰化植物のキクニガナだと知らせ、アリの荷物はフクジュソウの実であることを突き止める。アリの食料と知って、庭のフクジュソウをより一層大切になさったに違いない。 平成20年、盛岡市にて81歳で逝去されている。
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風の強い日

風の強い日だった。 11月の中旬で、まだ午後3時だというのに、東の空は太平洋との堺がわからないほどの群青色。西の空では遠くの稜線に接しようとする日が、ひときわ強く燃えていた。 宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区を知ったのは偶然だった。 住宅撮影の依頼をいただいたのだ。 初めて見た閖上という文字と音の美しさに惹かれて、ネットで調べると東日本大震災の記事で画面が埋まってしまった。 仙台市の南、沿岸にある名取市では、震災で923名が犠牲となっている。内7割を超える709名が、県内沿岸部唯一の市街化地域である閖上地区の方々だ。 原因は海から近いというだけではない。防災無線の故障や、市が指定する避難所だった公民館が津波に対応していないという誤った情報による避難指示があったそうだ。 撮影現場は再開発の最後に残された住宅地の一角だった。5分も車を走らせると漁港に着くほど海が近い。 帰りに港に立ち寄った。 住宅地を離れると次第に建物はなくなり、数台の重機が山になった砂をならす作業をしている。広い更地に幾筋ものゆったりした黒い道路が、静かに整然と横たわっていた。 震災から8年8カ月が過ぎている。 標高6・3メートルの日和山と震災のモニュメントが見えて右折した。隣接する駐車場に車を停める。 海風に逆らって歩を進め、クリーム色のモニュメントの前に立った。種から伸びる芽がモチーフで、ひょろりと長い。天を仰ぐように見上げる。高さ8・4メートル。この地点に到達した津波と同じ高さという。 足元の石碑には、現天皇皇后両陛下が皇太子皇太子妃時代に閖上を訪れ、復興住宅の完成を祝して詠まれた歌が刻まれている。 あたらしき 住まひに入りて 閖上の 人ら語れる 希望のうれし 短歌に無知な私でも、ひざをついて相手と同じ目線になるお二人の姿が浮かぶ。 眺めていると大型バスが来た。学生服姿の男女が次々と降りてきて、震災被害の説明が書かれた看板へと誘導されていた。
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