Tumgik
oshasins · 5 years
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備忘1
自分は社会でやっていく基本的な原則は「原則(=本質)を見つける」「勝てることをする」の二点と考えている。
一つ目、原則を見つける、これはその字面の通り、「どんな問題を解きたい/解くべきなのか」に対して「どのように解けば良いのか」を発見することとも表現できる。解く問題がわからないときは「解くべき問題がわからない」という問題を解く。そのために仮説と検証を繰り返す。問題の設定と解放の発案が済んだらあとは実行→検証なので無になる。一般的には検証は外的要因がどのくらい変化したかで考えるが、検証が難しい項目は内的要因の観測でも許容する。と自分は考える。実際はこんなに理性的な分類ができないので、折り合いをどこで持たせるか、の方が重要で、そのための検証コストは仕方ないものとして扱う。また度々原則を見直す。上記二つの原則も、原則と言えるかわからないし、足したり引いたりするかもしれないため。
二つ目、勝てることをする、これは凄く簡単で、「目前にとても出来る奴がいたらそいつは何が出来るのか」を考えて、「同じ土俵に上がらない」ということ。別の土俵を探す。この時にも何が原則かを考えることは重要で、原則と関連の無いところに土俵は無いため。経験的に言うと、本物の天才以外は土俵を探してそこで勝っているので、その原則がわかっていない人々が横綱を横綱たらしめるための手駒をやるしかなくなり、阿鼻叫喚、しかし誰も助けてくれない、の構図に陥る様子は度々観測できる。
具体の話をしましょう、僕は人事、とりわけ技術職採用に専門性を持つ人間なので一つ目、何が原則か。これは明らかに「候補者がどのくらいいるのか」「その人たちはどのくらいの人数が今この瞬間、転職・入社可能なのか」「その人たちにどうコンタクトを取るのか」の三点しかない。一番目の原則は往々に既に定義されていることがあり三番目の原則にばかり目が行くが、一番目を再定義することは三番目を工夫するのと同程度かそれ以上の価値がある。二つ目、勝てることをするについて、一般的に技術職の採用担当者はロクに勉強しないので、ちょっとやると勝てる。情熱やビジョンなんかを頑張る人もいるが、大半の技術職は自分の技術が評価されるのかを気にしている原則的傾向があるので、そこをやる。後は、今やってる最中なので何とも言えないが、人事も英語が出来ると勝てることがわかったのでやっている。ちなみに企業単位だと非日本語話者の採用が出来るようになると勝てる。
あと、原則がわかった上で勝てることが見つからない時、その時はそれをやらない。すぐにその場から移動する。やるだけ時間の無駄なので。
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oshasins · 5 years
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フロー
 4年近く付き合った人と別れて同棲を解消して、マンスリーマンションのような部屋に越した。家具を全てその部屋に残して、普段着る服と、生活用品の一部、お土産などいくつかの思い出系の物、趣味の道具なんかをまとめて出てきた。本は貸し倉庫に預けた。そうするとキャリケース二つとダンボール一つにまとまった。こんなものにまとまるのかと思った。越してからシャンプーとか、洗剤とかをいくつか買い、備蓄するような食料品をいくつか。1万円くらいだった。こんな金額で生活が成立するのかと思った。初めて一人暮らしをした時のような、新しい暮らし、という感覚はほとんど感じなかった。今、爪切りが無くて困っている程度。(これからコンビニに買いに行く)
 思い返すと社会人1年目の冬からずっと同棲していたので、仕事をしながら一人で暮らしている期間の方がよほど短かった。そのためナーバスになり別れた当初こそ正直置いてきた人を心配していたのだが、別れた後のSNSの振る舞いが気に食わないとわざわざ連絡が来てその心配も吹き飛んでしまった。勝手にするとよい。越した翌日に大雨が降って、唯一持ってきた傘が壊れた。越した翌々日に携帯を落として使えなくなった。これは今日だ。せっかくまたLINEが使えるようになって、少し友人と会話したのでトーク履歴が半年ぶりに人間で埋まったのに、また消えてしまった。FacebookもInstagramもデータは端末に依存しないのに、LINEだけは端末にどっぷり依存していて本当に腹が立つ。携帯を何かの拍子に落っことす奴に丁寧な引き継ぎ機能など使えるはずがない。明日会社に行ったら携帯に挿すマウスを探さなければならない。色々身の回りから消えた。シャツの下着は足りなかったので買った。
 引っ越しに伴って色々な物を失っているがそもそもモノとして資産を蓄えることがなくなりつつあるので、どれもそんなものなのかもしれないと思う。人は資産がフロー化しミニマルな感じになっていくと、完全な球体に漸近し最終的には自重でブラックホールとなって人生は終了する。間違いない。そう言いつつも物を捨てる度に体重が軽くなる気がしている。どんなにくだらない物でも記憶に関連するものであればアイデンティティを自覚せしめる錨の役割を持つのかもしれない。俺の質量は最早、キャリケース2個とダンボール一箱ぶんくらいしか無いのだ。でかめの冷蔵庫くらいの重さしかない。
 墨田区は道路が計画された碁盤状で、だいたい方角が合っていれば道に迷うことは無い反面、特徴が無いので正確に距離感を感じ目的地へリーチできなければまあまあ遠回りする羽目になる。それは別に良いのだがとにかく無機質な区画に有機物がゆっくりゆらゆら生えているような街で、ちゃんとしている人のためにあると思った。色々無くなって未熟ながら焦燥感的なサムシングを覚える自分は宙に放られたようで不安を煽られるだけであった。自宅の概念が完全にアップデートされてしまった。目の前に迫り横切り通り過ぎていくだけのたくさんに対して愛着を持ってしまうというか、頑張って見つめているからかもしれないが、それらはとにかくどんどん流れていく。
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oshasins · 6 years
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oshasins · 6 years
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追憶、博打
普段は渋谷との往復ばかりで学生の集団なんぞ見ない。日米友好祭のために随分電車に乗って、久しぶりに見た。わかりやすめのエモである。
もう殆ど記憶が無い、自分はとにかく昔の記憶が無い。みんなこんなものなのかと不安になるくらい記憶が無い。スタンド攻撃を受けている並に無い。いろんな事を忘れている。思い出そうともしていないからかもしれない。色んな事と人を忘れている、冷たい人間だと言われるかもしれない。
我々は最早インターネットでは生きていけない。残念ながら二周りほど上に、先に飛び込んだおじさんたちがいる。インターネットの次は何。近頃はそんなことばかり考えている。
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oshasins · 6 years
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人にものをあげたり、もらったりすることについて
4回目の屋上のゲスト:あずま @sngazm
人生において、自分が欲しいものを手に入れるには大きく分けて3つの方法がある。一つはお金を払って買うこと、もう一つは人にもらうこと、最後に盗んだり無理やりぶんどったりすること。僕はものを人にあげたりもらったりするのが好きで、趣味で時々やっている。
いま使ってるデジタル一眼レフカメラは「一眼レフ欲しくなってきた…」とツイートしたら大学の後輩の鈴木くん@klzxxx がくれたものだし、アナログカメラとレンズは友人のTさん@realkojitokidaにもらった。前に使っていたPCは欲しい人を募集して、応募してくれた友人の友人の久保くん@kb88697424にあげた(彼にはまだ会ったことがなくて、近所に行ったら飲みに誘おうと思っている)。キーボードは自分でカンパを募って1万円するやつを買った。最近はメーン会場というツイッターで知って4回ぐらい会ったことのある友人がMacを新調したがっていたので現金で少しカンパした。今は郷田いろはさん@iroha1221の引っ越しの際にもらった本を読んでいる。
別にもらうときは貧困にあえいで藁にもすがる思いというわけではないし、あげるときは善意や義務感であげているわけではない。ただ、お金による交換とは違う手段で何かを手に入れたりあげたりすることには、独特の楽しさとメリットがある。その話の前に、少し遠回りだけどお金の話をしよう。
働いて得たお金を使って、欲しいものを買う。暮らしていく上で当たり前のように感じられているこの行為だが、実はかなりあやふやな、よく考えてみると必ずしも妥当とはいえない仕組みを前提としている。
お金には3つの機能があることが知られている。価値を保管する機能、価値の尺度になる機能、価値を交換する機能。これらの中で、もっとも根本的でかつ不思議なのは価値の尺度になる機能だろう。もともと、ものの価値とはいろいろな側面を含んだものだ。トマトはサラダに入れると彩りが増えて良いし栄養もあるけど、トマトを着ることはできないし、トマトに住むこともできない。そもそもお腹がいっぱいだったら食べられないし、トマトが嫌いな人もいる。だから服が欲しければ、トマトが好きでお腹が減ってて服を余らせてる人を探して交換しなければならない。それは想像するとかなり大変な作業だ。ところが、何でもある一定の数値に変換して交換させてくれる「お金」というものが間に挟まることで、その価値を数値化して市場を通じて交換可能にしてくれている。そういうわけで、トマト農家は服を買うことができる。
しかしこの「一つの数字でものの価値を比べられる」というのは便宜上の嘘で、価値は多次元で価格は1次元なので、本当は一つの数字にきれいに落とし込むことなどできない。お金という道具はあまりに便利なので、お金の仕組みをあまり考えずにいると、書いてある値段が価値のように思い込んでしまう。モノサシが価値そのものになってしまうという反転現象はよくある話で、WebメディアのPVとかテレビの視聴率とかもそうだ。そうなると、ものの価値を値段でしか判断できなくなって、働くことや暮らすこと、身の回りのあらゆるものがお金を得るため(または払うため)の手段に成り下がってしまう。
ついでにいうと、この多次元の価値を1次元に変換する市場のしくみには、いくつかの側面に、自分の生活と必ずしも関係のない部分で「ひいき」が入っている。例えば、駅で新聞の値段を見比べてみよう。普通の新聞は110円から150円で売られているけど、競馬新聞は500円で売られている。競馬はデータの入手と分析がモノを言う世界で、うまく当てれば多額の現金が手に入る。そういう人たちからすると500円は決して高くないのだ。このように、ものの価値のうち、「これを手に入れるとお金が儲かる可能性が上がる」という属性を持つものは、(たとえ、あなたと関係がなかったとしても)市場において他の属性よりかなりひいきされる。ほかにも、「数が少ない」とか「みんなが良いって言ってる」という属性もなかなか強い。
別に「ひいきがあるのはズルい!」と怒っているわけではなくて、お金も結局は人間が回しているシステムなので、そういう偏りが生まれてしまうものなのだ。それはそれで当然のものとしたうえで、利用するか、距離をとるかはその都度ごとに判断するのがお金という仕組みとの健康的な関わり方だと思う。
(これは余談だけど、あるおじさんが、清貧で知られるとあるコミュニティの有名な人に会いに行って「Facebookの友達申請したけど承認してくれなくて、次のタイミングにお近づきの印にとX万円分の商品券積んだらようやく承認してもらえたよ。やれやれ、この人もなんだかんだ言って結局金か、と思ったね」という話をしているのを聞いて、いや自分やってることカオナシやんけと思った。余談終わり)
お金で買うのも取引だが、人にものをあげる、人からものをもらう、というのもまた取引だ。取引の形態にはたくさんあって、もらった側が何も返さないような取引もあり、一部の人には信じられないことだが、お互い満足して成立する。僕が人にものをあげるのは、べつにその人だけのためではなく、自分自身のためだったりもする。
あまり知られていない事実だが、人が欲しがっているものをあげるようにしていると、自分が欲しいものが欲しい時にたまたまもらえる可能性が高まる。それも、あげた当人からお返しにではなく、予想もしなかった誰かからもらえるのだ。もちろんその確率じたいは体感で3%から5%とか、クリティカルヒット程度の確率でしかないので、毎回自分の欲しいものがただで手に入るわけではないんだけど、人にものをあげているとその確率が0.3%ぐらいずつ上がっていく。
なぜそのようなことが起こるかというと、別にスピリチュアルな縁が働いているわけではなく(そう解釈することもできるけど)、僕の経験からすると主に二つの要因が挙げられる。
一つは、自分が欲しいものを宣言することに抵抗がなくなるからだ。言葉を換えると、十分に図々しくなるともいう。ギブアンドテイクというけど、自分が何かを欲しがってる人に気前よくギブしていれば、それだけ他者からテイクすることに抵抗がなくなる。それだけ人に頼ることができるようになる。それに、考えてみれば当たり前のことだけど、「ものをあげる」という行為はもらいたい人とあげたい人が引き合わされなければ成立しない。不要なものを捨てるぐらいなら必要な人にあげるという人は多いが、それがなぜ多くの場合行われないのかというと、図々しい人が少ないことが理由に挙げられる。図々しい人が少ないと、あげる側がわざわざ必要としている人を探すコストが発生する。そのコストがさっさと捨てるコストを上回ってしまう場合、譲渡は行われない。自分がもらいたいものを宣言表明すれば、条件の半分は整ったようなものだ。
もう一つは、自分の周囲で人にものをあげることの楽しさを知った人が増えていくからだ。人にものをあげるともらった人が嬉しいのはもちろん、感謝されると自己肯定感が上がって嬉しくなる。そういう様子を見ていると周りの人もその行為に興味を持ち始める。
こういうわけで、人にものをあげていると、自分の中と身の回りの人々の中で、「普通にものをあげる空気」が醸成される。そうすると、欲しいものが欲しいタイミングでもらえる確率がじわじわ上がっていく。それは買い物で使うお金のように一度使うとなくなるものではなく、数値で確認もできないけど、しかし確実にそこにあり、人生を通じてじわじわと影響を及ぼす隠しパラメータのようなものだ。
といっても、自分があげられるものを人が欲しがっているチャンスってそうそう訪れるものではないので、そういう人を見かけたらパラメータを上げるチャンスなので躊躇せずあげた方がいい。
まぁ大抵の場合、欲しいものがあってお金が使えるならお金を払って手に入れる方が楽なんだけど、その他にも単発で再現性が低いけどもらえると嬉しい方法とか、いくつかの手段を行使できる体制を整えておくことは、精神衛生上もいいと思う。生きることはそんなに単純なゲームではないので、状況に応じて様々な手が打てた方が柔軟におもしろくプレイできるのだ。
それに、人にものをあげたりもらったりするのは単純に気持ちがいい。ジャストで必要なものをあげたりもらったりすると、いいトリックが決まった気分になる。
ルートを縫うようにして、アドリブで再現性の低い自分のやり方を構築していくような感覚。そういう感覚がけっこう好きだ。
それとは特に関係ないんだけど、無料でそうめんを配るフリーソーメン(http://freesomen.org/)という秘密結社をやっていて、次回の屋上もフリーソーメンです。フリーソーメンをやっているという理由だけでタカラトミーの人から送られてきた『ビッグストリームそうめんスライダー エクストラジャンボ』をキャリーカートで押していきます。お楽しみに!
こういう話に興味があったら読むと良いかもしれないテキスト:
・贈与論 / マルセル・モース
・人間の経済 / カール・ポランニー
・石器時代の経済学 / マーシャル・サーリンズ
・エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと / 河邑 厚徳
・「贈与経済」論(再録) / 内田樹
http://blog.tatsuru.com/2012/04/08_1404.php
・フリーそうめん+ドリンク 1500円
・7/25 19:00-23:00(そうめんコアタイム19:30〜/20:30〜)
・浅草Buttobiにて
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oshasins · 7 years
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専業主婦が一般的だったのは高度経済成長期の数十年、たった1世代でしかないという事実 よくあることなんだけど、今現在の社会的な慣習を永続的なものだとみんな勘違いしちゃうんだよ。 みんなでクルマを持つようになってまだたった1世代。 腕時計をするようになって1世代だが、携帯のせいで売り上げが3分の1に激減 社会人のたしなみと誰も疑ってなかったはずのものが、1世代であっけなく終了。 タバコと酒の消費量は戦後で1人あたり5倍くらいになってて、今みたいにパカパカ摂取するようになって1世代。 (だから健康被害とか出てくるんですよ。当たり前やがな) バカみたいな飲み会とかやってたのは実は団塊だけ。タバコは今のペースならあと0.5世代で滅ぶ。 自由恋愛も1~2世代ですよね。だいたい告白という風習が少女漫画から広まったものじゃなかったっけ。1世代。 (社会慣習は意外とフィクションの影響を受けている) 日本女性がブラジャーをつけるようになって1.5世代くらいか。 今のスタイルの葬式がもうちょっと長くて2世代くらい? ほかにも「実はたった1世代」ってモノや慣習は無数にある。ちょっとこの事実にお前ら恐怖したほうがいいです。 だからまあ、なんも考えず親世代の真似をしようとするのはやめろ。無理だから。 親の言うことも聞くな。だいたい親もこの辺のこと分かってねえから。愚者は経験に学ぶ。しかもたった1世代の。
「実はたった1世代」ってモノや慣習は無数にある。ちょっとこの事実にお前ら恐怖したほうがいいです。 | DIGITAL DJ (via sotamblr) (via gscube) (via hotpantz) (via hibiky) (via suigetusawa) (via avycko9) (via to-fuya) (via hetaremozu) (via ipodstyle) (via makototz) (via ipodstyle) (via yaruo) (via soresore) (via konishiroku) (via n13i) (via fukumatsu) (via iyoda) (via pinto) (via otsune) (via kasei-san) (via skashu) (via ssbt) (via stratums2) (via quote-over100notes-jp) (via casiomasasi) (via escrap) (via dontrblgme404) (via datteowww) (via mr-moai) (via edieelee) (via jun26) (via wataruuu) (via fukusanity) (via fmmzk)
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oshasins · 8 years
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アダルトなデモクラシー
 インターネット広告は低俗だ。性に関する商品やサービス、怪しげなダイエット食品、健康器具、生年月日を入れるだけの占いなど、漫画雑誌の裏のページみたいな広告が溢れかえっている。これはなぜか。ひとえに民主制の持つ機能に尽きる。  これまでインターネット広告は「ダイレクトレスポンス」と呼ばれる、インターネット上でだけ完結する商売のシステムに偏重してきた。つまり広告を見る→ストアに遷移する→購入する、という流れをユーザーがとったかどうかだけが広告の効果とされてきた。すると広告を出せる広告主は二種類に絞られる。広告効果を測れる企業と、測らない企業。低俗と前述した企業はもともと通信販売だけをしているダイレクトレスポンス系の企業だから親和性があった。加えて、ここで言う広告効果が高い商品は「店頭で買いづらい」という特徴がある。すると自然と耳目の集まるアダルトで怪しい商品は見られるし売れてしまうし、売れてしまうから効果がよく、広告が増えてしまう。  では広告主から見た「プレミアム」なメディアはどうやってプレミアムたるブランドを作るかと言うと、単にアダルトや違法性を排除してるだけである。インターネット広告が排除していない最大の理由は「プログラマティック」と呼ばれる配信方法によるネットワーク化されたメディアの、どこに出るかわからないから。例えるとたくさんの雑誌の広告ページに、どんな広告を掲載するかを選べるやつがいて、そいつがそれを武器にハチャメチャに広告主を捕まえて、そこかしこの雑誌に広告を載せているような状況。そんなことしたらVOGUEにバイアグラの広告だって出る。  このシチュエーションが今の状況を産んだ。民主主義のコンテンツと関心、それによる広告業者の利益。いつも思うが、広告は関心を売り買いする業態で、悪の組織ではない。(悪はいつも我々の心にあるのである、まさに、魔が差す瞬間が集まると、そこそこ大きなお金がうまれる)  今はどうなっていくかと言うと、選択により擬似的に浄化する方向に進んでいる。ほとんど完全な民主主義が根底に流れる世界では、浄化などという統治はできないのです。さてブロックチェーンが民主主義を産むと期待されているが恐らくほとんど似た流れを取るのかもしれない。浄化システムが無い。みんなエロサイト見なければ風俗は乱れないが、誰かが見出すととたんに崩れるだろう。公私を分けるシステムができあがれば尚更に。そもそも人間の根本は悪で、それはとっても気持ちの良いものなんですね。自由をやっていきましょう。
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oshasins · 8 years
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仕事をして
最後に書いたのは2015年の12月だった。おおよそ1年前、まだボケてた大学生だった頃だ。あの頃は無意味な卒論で瀕死になっていた。
仕事を始めて半年と2か月近く経つ。元々任せられると思っていた仕事と全く違う事をやっていて、ある程度何とかなっているけれど、大変だ。てっ��りコンサルのような、現状の数値を出して打ち手を考えるようなことをすると思っていた。何故か営業をやっている。飛び込みしまくる営業ではないからまだ大丈夫だけれど、調整の能力が問われる。よく言う「お客の為に」みたいなこと本気では考えてない。口では言えるけど。思考の形態が違うんだと思う。無償の愛が無い。ずっと誰かの為に何かをやるような事をしていなかったし、多分これからもあまり出来ないと思う。早い話、人間的な程度が低いんだと思う。長いこと色んな人に怒られてることだ。激烈な体験で矯正する必要があるのかもしれない。自分の性格を最適化するのは好みじゃないけど、僕たちはもう大人なので。
大学の頃と圧倒的に違うのは、金があること、時間が無いこと、友達と会えなくなること。全部普通の話だった。コーラを飲んだらゲップが出るように。生きるも死ぬも自由なのは意外と大学の頃と同じだし、堕落しようと思えばいつでも奈落が迎えてくれる日々は続いている。ただ、仕事をする前は綱渡りで生きていくと思っていたがそれは違っていて、足元は平均台くらいの幅があるし、平均台の下にはいくつも別の平均台があった。眼下にはだいたい3つくらいの平均台が連なっていて、少し遠いけど横には何本も別の平均台があって(平均台は平行でなく歩き続けると他の平均台が近づく)、少なくとも道とかいうヌルいものでは無いけれど、案外何とかなりそう。これが一番想像と異なっていた。社会人になっても適当ぶっこいてる糞野郎がいるのは想像通りだった。一種の強迫観念に駆られてパフォーマンスを向上させる方法は僕らにとって受験の頃から顕在だけれど、近頃はこれは自発的に行う分には構わないが、他者によって駆られるのは悪だなと思い始めている。筑波大学のボケナス共にも教えてあげたい。平均台が何本もある話、上の平均台に乗ってた方が良い話、案外何とかなる話。素行が悪くて呼ばれません。
仕事を始めても変わらないことは、適当なこと言って楽しんでるところ、納得出来ないことの精神的優先度がめちゃ下がること、発想が極端なところ、ゴミみたいな話聞くと爆笑してしまうところ、コーヒーを豆から挽いて煎れるのが好きなところ。良い所も悪い所も、良くも悪くも、最適化されずに暮らしている。久しぶりに会った人に、「変わらないね」と言って貰えるのは少し嬉しい。芯の部分が出来上がってきたのかもしれない。小学校から始まった学生時代で目まぐるしく変わる自分の好みや話し方、行動の仕方は、ようやくある程度の強度を伴って自分として形作られつつあるのかも、しれない。過去を捨てちゃう性分だと思っていたけど大事に持ちたいものが無かっただけだった。知らんけど。
逆に、変わった部分は何だろうと考えると、仕事を最優先のものとして捉えなくなったところかもしれない。傍から見たらまだまだ優先度高いのかもしれないけど、本当に24時間捧げると思っていたので、それに比べると、という話。これはやる気が無くなったとかでなく、仕事と関係ない人と会って話したり、仕事と関係ないことをしていないと、仕事しかなくなってしまうことが危ないと思えているから。確かに仕事だけしてても後ろ指刺されない。ところが人間としてぺらぺらになってしまう。今の仕事だけを一生するわけじゃないし、週次で何十人もの配属が変わるような会社に籍を置いている以上、今の仕事しか出来ないのはまずい。意識的に色んな物を吸っていないと駄目になる。 飽き性だし丁度良い。
これからのことを考えると漠然としてしまう。正直よくわからない。「とりあえず偉くなる」みたいな話してしまう連中もいる。別に無くても良いと思う。パフォーマンスが上がるのであれば実の無いトリアエズでも掲げれば良いし、上がらなければ別の方法で上げれば良い。セレンディピティは幾らでもあるっぽい。一つの会社で一つか二つの仕事をして一生を終えるのは日本むかし話になってしまった。電通鬼十則も日本むかし話になってしまった(ざまあ見やがれ)。爆速でシチュエーションは変わっていく。まだ脱皮して間もない柔らかい自我の芯が折れてしまわないようにしながら、つまらない話をしないようにしながら、いつまでも爆笑していたい。その為だったら腹の底が冷える喧嘩だってする。
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oshasins · 9 years
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卒論やってわかったこと
スマホに書いてあったやつ。
本当に苦しくて苦しくて、大変だったし、とんでもなく理不尽としか思えないこともあったけど、そのことで喚いてもオオカミ少年としか思われないし、特に助けられない。ほとんど不可能だしもしかしたら助けようともしてくれなかったのかもしれない、本当に苦しい時自らの力でぶん殴る必要がある、周囲に頼れるほど周囲は頼もしくないかもしれない。
自由という語の危うさ。結局は管理者が思う「自由」であって、俺の自由ではない。誰かの下に居る限り俺の自由は得られない。
研究の先が全く見えない。研究として何が得られて何が得られなかったのか不明。時間を費やした対価を得られた意識は無い。そんで多分これからも生まれない。
嵐が過ぎるのを待つ姿勢を取るような人間ではないのに、あまりの不自由さと意味不明さにその態度をとってしまった。これは今後も起こり得る事態。善処すべし。
俺は追い詰められると他責に走る。事実なのかもしれないけど、判別できないレベルに多いからなんとも。ただ自責をすることも難しい状況だったと思う。やることはやっていたはずなのに…という想い。
無駄が多いと言われたけどそうするしかなかった。そうしなければ足りなすぎて。だから苦虫噛んだ顔で無駄だと言われてもやるしかなかった。
どうせという意識がとても強かった。どうせ一歩踏み出してもコテンパンにされるだけだから、どうせ進言したって却下されるだけだから。
終わりよければ全て良しではない。 尾を引かせろ。
まるで煮え切らず、この劣等感、そもそも本当に関心あるものが違ったのか。学問に対してアウトプットをしたいという想いが無かったのかもしれない。 インプットが楽しいのは過程で感じた。
自責してないのかと言われると、していた。ただそれは漠然と。また一つ誰にも頼れなくなったという点だけ。俺は強くならねば死ぬ。
あまりに周囲に信じて貰えなすぎて本当に大変だったのか、理不尽だったのか、わからない。 
アジェンダを立てなかった。モチベにも通ずること。 アジェンダがないのでヌケる、漏れる、酷いもんだった。そのせいで精神的な拘束時間が異常。今どこにいるのかわからないから寝ても覚めても不安で精神的な拘束がやばい。いつ気を抜いていつ気合い入れるのか。これが明確でなければ無駄に疲れる。
これらの文章は11月の下旬から12月中旬にかけて残されていたもの。薄っぺらな表現をすればマッチングが悪かったとかに集約されるのだけど、マッチングが合うかどうかなんてすぐに判ることでない。適宜修正や改善を加えながらすり合わせていく必要が絶対にある。今回はそれが出だしで出来なかったからこんなに苦労した。これは備忘録。紙媒体では足らないから電脳に残していつでも見れるようにしておく。慢性的に過去の自分に復讐するお家芸。
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oshasins · 9 years
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いつでも陽気に笑っていろ。
いつでも
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 ドロヘドロっていう漫画で、悪魔が残した台詞に「いつでも陽気に笑っていろ。」があった。ドロヘドロはさらりと通読しただけなのに、なんでもないシーンのこの台詞が妙に印象に残っている。多分「確かに~」と思ったから。
 ブラックユーモアが好きで人の憂き目がだいたい笑い話に聞こえる。散々な目に逢っているほどたまらない。ごくまれに笑うところじゃないと非難の目を向けられるわけなんだけれど、これには誤解があって馬鹿にする攻撃的な笑いではないから、個人的に倫理上問題ない気がするんだけど、ただ感覚的な話なので説明が面倒くさいし大体伝わらない。イジリとも違うし、愛想笑いとも違くて、愛しさがあるようなないような、ねぎらいの意味があるようなないような、経験自体に興味を見出してるようなないような、でも確実に馬鹿にしてないんです。感じてくれ。
 もちろん人が死んだら話は少し変わってくるけれど(一応社会的にまずい気がして)、祖父が死んで棺桶ごとウェルダンにされた後、ペースメーカーを骨壺に入れるか否かで笑いながら遺骨を拾った家族親戚と育ったので話の内容によっては内心笑うことがあり得る。(ペースメーカーは、入れなかったら「天国行った瞬間に心臓止まるかもしれん」として結局入れた)加えて確か吉本の芸人に母と息子でコンビ組んでてお母さんが70歳近いのを活かした葬式のネタやってる人もいるくらいで、まるきり笑えないとも言えなくない。そのコンビに限らず葬式のコントはいくつか目にした覚えがある。人死んでても笑うことは不可能でない。
 しかし笑い飛ばさなかったらどうやってつらくて悲しい事を消化するんだ。一緒に泣いてくれる人がいいわけか。そうですか。それなら貴方はわたくしに沿いませんで。失敬ですがお席を外して頂いて...。喉元過ぎれば熱くないの原理、ストローであんかけ飲んでも大丈夫、焼けるのは僅か舌だけ、じき治る、どんだけつらくても笑えるところはあるものです。俺はそれを探すのが大好きだし話の中に見つけるのも好きだから何でも笑っちゃうからたまに怒られる。笑っちゃうけど笑い飛ばすことをやめないのは絶対大切なことだと思っているからで、眉を八の字にするのは同じでも泣くよか笑っていた方が何とか立っていられる気がする。泣いてしまったら膝が折り曲がってしまう気がする。
 「どんな時でも陽気に笑っていられる奴が一番恐ろしい奴だ。」は一理、どんな目に逢っても笑い話に出来るならあんな目にこんな目に逢っている最中もこれはいずれ面白くなるぞととか考えながら含み笑いをしながら熱湯浴びれる、キモいな。でも強い。近頃どんどん都会のビル街から吹く向かい風が強まってきてキンタマ縮み上がるほど寒いけど昔は笑えなかったこともどんどん笑えるようになってきたから、きっと何とかなるのだろう。これを明かしたら幻滅されるんじゃないか俺のもとから離れていっちゃうんじゃないかといった類の、不安が拭われつつあるのかもしれません。とても有難いことだと思う、つらいことがあったら一緒に笑うくらいしか出来ないけど何かあったらいつでも一報下さい。
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oshasins · 9 years
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俺は麻薬になりたい
より激烈な快楽をご提供します
 大学も最終年となるとロクなサークルに所属してない俺は友達が増えにくい。北海道民会という最高なサークルがあったが後輩に引渡してから完全に西日で衰弱しきったので特にこれと言って無い。内定先くらいだ。仕事仲間は友達にならないというドライでアンニュイな大人の意見を鵜呑みにしたくないけれど今までとは打って変わってシビアな関係になりそうなので真っ向から否定も出来ない。蓄えた交友関係の資源を食いつぶすような、ドフトエフスキーの「地下鉄の手記」の主人公のような生活になるのか。おいおい勘弁してくれ。しかしならないのである。俺は近頃人づてに友達を増やしている。あと地下鉄の手記はキモいので読むのを途中でやめてしまった。
 面白い奴に面白い奴いないかと聞いて紹介してもらう、昔のmixiのような方法で安心安全高品質、釜出し一番な友達が増えるという、文字にするとめっちゃ普通で古臭いアレである。 人間は古典に回帰するのか。ただ面白い奴が認める面白い奴はだいたい間違いなく面白いので現状打率100%であり大変良い方法に思える。社会人になった後もきっとこの方法で友達は増やせるだろうと思うと少し朝日が差す気持ちになる。頑張って生きていてよかった。
 精神の新陳代謝が激しい方で熱し易く冷め易いと言えば陳腐だがそれに近い。趣味も嗜好も人間も。色々を食って糞をする、精神的にね、肉体的にも起きているけど、こういうことをしていると唯一好きな詩である石垣りんの「くらし」がちらつく。ざっくりでは「食べ物から肉親から自分はあらゆるものに支えられそれを食い散らかしている」といった旨なのだが、もしかしたらもっと深い解釈が可能かもしれないがそもそも作者のバックグラウンドを知らないと解釈できない作品が文学に限らず大嫌いなのでこの辺でとどめる、そういう解釈の詩なのだけれど、ちらつくのは食べ散らかした鶏の骨やにんじんのしっぽに涙を流す石垣りん、俺は食い散らかし続ける今、食べれなくて捨てた部分や食べ飽きて途中で捨てたものに泣いたことはない。これから捨てたものを想って悲しくなったりするんだろうか、もしそうなら贅沢に捨てすぎているんじゃないかと不安になる。先の事を案じても無駄だけど少し気になってしまう。新しい友達が出来て、より強烈な人間と関わる時間ためにそれ以下の人間と関わる時間を捨てている。にんじんのしっぽ。鍋に入れればまだ食べられなくは無い気がするけど、美味しい部分が既に煮えている。
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 薬物依存のメカニズムは快楽物質への慣れから量が増えるもの。同じ快楽を与えてくれるだけでは飽きてしまう、と言うか、感じなくなるのだ。もうほろよいでは“ほろ”も酔えないし、タール1mmでは脳が揺れない、そこらの連中の話では笑えない。心が勃起しない。永遠に地面水平の角度を超えてギンギンに勃起させ続ける為には激烈な快楽が必要だ。ただ人に求める俺自身も激烈である必要があって、それはとっても大変なことだけど。現状取れる方法は色々を食って捨てて純粋な部分を蓄える精神的生物濃縮。中毒を起こしてください。俺は麻薬になりたい。
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oshasins · 9 years
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oshasins · 9 years
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この端末は現在保護されています
いつもありがとう
 時折ウィルススキャンと言ってスマートフォンが異物を探して、往々にして脅威は無く、この端末は現在保護されていますと通知してくれる。よかった俺はまたしてもギークに襲われずに済んだのである。人間が脅威を作り人間が人間を守る。  コンピュータプログラムの時代が始まって久しいこの頃、物心着いたときにはコンピュータがあった。Windows98がまだ働いていた頃から、黒いスクエアのフロッピーディスクが働いていた頃から、コンピュータに触れていた。あの頃はきっずgooとかいう、人参が嫌いなひねたウサギのキャラクターが跳ねたり飛んだりするウェブページに没頭していた。コンピュータは娯楽と仕事の為に使われていた時代から現在最早触れなくては現代的文化的生活から外れてしまうほど。  今はあまり呼ばれないが少し前に仮想現実と言う語がよく国語の評論に出てきていた。ウェブがまだ現実と呼ぶほどの地位では無かったからだろうか。仮想現実は人間が作った世界で、仮想現実の中で完結しているかのような扱いだったけれど、今や生活の中に入り込んだ仮想現実の割合が増えすぎて仮想と呼ぶに大きすぎるようになった。作られた仮想現実に人間が住み着き、人間が仮想現実を拡張し機能を移していくことを狙って攻撃する連中がいる。人民の人民による人民の為の世界だ、リンカーンにも見せてやりたいね。  先日読んだ本に高度経済成長を経て自然は共生するものでなくコントロールする、よく言われている欧米的な扱いになって、という節があった、そのことにやんややんや言わないけどもう人間は自然に生きず便利で不確かさの無い仮想現実に生きている。たまに自然災害に脅かされてコードに繋がれ変な液体に満たされたカプセルから夢から覚めたようにハッと起きる、良いと思う。人類は発展している。  ウェブ広告が好きなんだけど、これのとても強いところはあらゆるログから個人の属性が判ることで、言わば関心と消費に基づく人間のグルーピングが可能で、将来的に配信技術・デバイスの展開からより詳細なログと高速な判断が可能になることと思う。この話をすると詳細なログ、自らの行動の痕跡を他人に読まれるのが気持ち悪いと感じる人は結構多く、なんだか足跡を気にする草食動物のようで可愛い。雪道を歩くウサギはわざわざ巣を通り過ぎて、自分の足跡に合わせて後退して��ら巣に行くそうじゃないか。ともかく技術は人間の行動や体調、関心、もしかしたら感情や思想も数値化しやがる、コンピュータでも判るように。数値化以降に使われる理論は心理学者が着々と無邪気に積み立てている。巨人の肩は高くなるばかり。駆逐したほうがいいのかも。  これからも仮想現実に機能は改善された上で移されて、早く正確になっていくのは間違いない。仮想現実が現実を食らいつくした時に残った部分が人間のコントロール出来ない現実なのかもしれないね。俺は何も残らないと思っているけど。
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oshasins · 9 years
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正義は勝つ
これほどまでに勝った奴が正義負けた奴が悪  就活をやっていて思ったこと。こうすれば内定が取れるとかグループディスカッションで勝てるとかエントリーシートが通るとかその手の話がマジで山ほどある。そういう産業はいわば就活の不安を一時的に拭ってくれるもので世の中の大半の就活生が何らかの壁を感じてひとつの方法として採るのだと思う。いち産業のモデルとしては綺麗だし塾に通ってた自分だから特に咎める気もない。儲かる仕組みだし、一時期不安を商材とするのは面白そうだなとまで思っていた。不安産業は人道的に見れば悪だがビジネス的に見れば完全に正義だ。  産業として成立してる分にはまだ良いがよくあるのは内定者が教える就活術みたいなやつ、これはまじで悪だと考えている。だって冷静に見てみれば当たり前で、さも俺が正解だと言わんばかりにあれこれと偉そうに話す、自己分析をひたすら、ゆっくり話すことを心がけた、とか。阿呆か。勘定に入れなければならない社会や会社のニーズとか全く無しで、多分前に出て偉そうに話す人の一部は何で自分が内定を貰ったのかもいまいち判っていないだろう。だけれども大学の先輩がそんなところに内定貰ってるなんて、とロールモデルのように見えてきて、なんだか頑張れば同じことをすれば自分もそこにいけるかのような錯覚が得られてしまう...。実際は就活のような機械処理のない振るいがけに対して性格も考え方も実績も経歴も異なる先駆者と同じ道筋を通るなんて不可能だ。世の道理として先駆者だけは正義だ。  結局は勝ったもの、内定を取ったもの勝ちで、取れなかった者が悪。それは別に今に始まったことでは無いけど。受験とかもそうだったよね。俺は今でも母校に来て大して賢くもない大学に推薦で行った馬鹿が偉そうに話してたのを許していないからな。社会的に殺す。悪は倒す。それが俺の正義だ。  この辺の話は後輩に本当に伝えたい就活の話。幸い一社、志望度高いとこに内定貰った。だけど就活テクニックみたいなの一言も言う気がなくて、ていうか言うことが一つもなくて、こういうノイズ、どういしようもない事をちゃんとどうしようもないんだぞいと伝えていきたい。あわよくば授業か何かに乗り込んででも話したい。俺は後輩がまじで好きだから。話は変わるがソフトバンクの社長がインド人になるらしい。孫は正義だ。
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oshasins · 9 years
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あさり
俺は薬箪笥だ
 先日千葉に住む叔父夫婦に連れられ人生二回目となる潮干狩りに行ってきた。往路の車内で爆睡した俺はあさりの量で信頼を挽回しようとしたがそもそも到着が遅く、ひとしきり狩られた死の砂浜をほじれどほじれど貝殻しか出てこず、結局上限6kgのところを2kg半ほどでタイムアップ、あさりを取りまくって選別するまでに裕福なおじさんがいたので叔母さんが寄って分けてくれとお願いしたら普通に分けてくれた。(選別していたから当然ではある)そのお陰で1時間以上ねばって届かなかった上限6kgにものの数分で到達した。秘訣を聞いたら熊手みたいなアレで採るんじゃなくて、籠で海底をこそぎ取り砂をすすぐみたいな真似をするんだそうだ。マジで何が楽しいんだと思ったが効率はめちゃくちゃ良いらしい、でも効率を求めているならスーパーで沢山買った方がいいのでは...。して、帰宅後にいとこを加えてあさりの酒蒸しとあさりの味噌汁、あさりの炊き込みご飯を夕飯に食べたのだけど、いとこのあさりの食べ方が貝を咥えて歯と唇でこそぎ取る様な食べ方で、“貝殻に穴を開けてそこから貝を食べる貝"を思い出した。箸でちょんと摘めば取れるだろうに貝柱が残るのが嫌なのだろうか。ちなみに貝を食う貝はツメタガイと言うらしい。
 バイト先の飲み会で同年代の学生バイトに30代から40代くらいの社員を交えたものがあった。そこに映画と音楽が好きな社会人が居て、好きな映画を列挙すると結構社会人に知られてる作品があって盛り上がった。賞を総なめした作品からB級のクソ映画まで幅広く、音楽に関しても90年代が好きな俺はウケが良く、年齢を何度も確認された。引き出しが多いと褒めて貰った。中学生くらいのころトリビアの泉が流行し世は大雑学時代に突入した訳だがその真っ只中にいた俺はまさに雑学界のモンキー・D・ルフィ、どうでも良い知識の仕入れが趣味だったのである。携帯電話に雑学が羅列されたメモを作るなどしていた。特に生物の雑学が好みで、素っ頓狂なイラストを添えた早川いくをの「へんないきもの」シリーズは読みやすく大変に有難がっていた。雑学好きは昔ほどではないが名残なのか人の顔と名前は両方覚えられない癖にどうでもいい情報が記憶に残り易く、脈々と蓄えられたどうでもいい情報が会話の中に飛び散り引き出しの多さになっている。俺は薬箪笥だ。
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 薬箪笥。漢方をこまごま入れる為に細かい引き出しが多い。まるで俺だ
 近頃Instagramを始めたのだけどFacebookに友達が300人以上もいるくせにそれと連携しているはずのInstagramに全然知り合いが出てこない。30人弱しか相手取れていないのである。細々と自分の写真を載せると3人くらいからLikeが来る。全然やりがいが無い。最近気付いたのだが俺は他人から反応があるものの方が断然やる気が出るのだ。あと褒められて叩かれると伸びる。叩くだけでも褒められるだけでも面白くない、バイト先の社員に引き出しを褒められたと前述したが褒められる前に“今やってる分析の結果はいつ出るんだ?”と叩かれて冷や汗をかいている。(このケースは伸びるものが無いけど)
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oshasins · 9 years
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クトゥルフ眠るミックス
まずはこちらのTweetを見て頂きたい。
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クトゥルフ眠るミックス...なんなのだろうか。調べてみるとアダルト動画がヒットした。
恐らく上記のTweetと同様のものだ。内容は可愛い女の人が跳ねたり踊ったりしながらストリップしていくもの。なるほど、なるほどね...と思いながら視聴を終えたが「クトゥルフ眠るミックス」の意味がわからない。女優さんはアジア人だし、複数登場するので女優さんの名前でもなさそうだ。「クトゥルフ」で調べると顔がタコの悪魔が出てきた。
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以下引用。
旧支配者の一人とされ、四大元素の一つ水を象徴する。宇宙の原初の混沌「アザトース」を遠い祖とする。風を象徴するハスターと対立しているとされる。 (中略) 彼は同神話上での最高神のように思われがちだがあくまで旧支配者の中の水属性の者たちの長である。 しかしこれは広い海洋に覆われたこの地球において、もっとも大きな影響力を持つに至った理由としては至極当然であり上記のような誤解の生まれる理由の一つである。 (中略) つまり旧支配者の中では下っ端なのである。 
(中略)
我々が平穏と感じる時間は、クトゥルフが眠る僅かな間だけである。 
めちゃくちゃ悪いことをしている奴ではないようだがとはいえ特段今回の件には関係が無い様である。「クトゥルフ 眠る」で調べても同様のサイトしか出てこない。クリームパイとか言ったものに代表される海外のアダルト・スラングではないようだ。謎は深まるばかりである。話を少し戻して先ほどの動画の関連動画を見ると「 兄嫁が眠っている俺の布団に...」とか「 日本エロ緊縛ミックス 」とかミックス、眠るに反応した関連動画が連なるばかりである。ちなみにミックス系動画を確認したが複数のアダルトビデオを繋いで一本の動画にしただけとか、一つの動画に二つのアダルト動画が同時に流れる(効率は良い)とか、そんなものだった。
動画の元リンクに飛んでも同様。せいぜい「 Cthulhu Sleeps Mix 」となっているのみ。なんなんだ...と思いつつ「Cthulhu Sleeps」を検索して答えが出た。「 Deadmau5 - Cthulhu Sleeps (OFFICIAL) [HD] 」なる音楽ビデオがヒットし、開いてみると「 DKYF - クトゥルフ眠るミックス 」のBGMと同様ではないか。
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なんと。単純なことだったのだ、クトゥルフ眠るミックスとはアダルトビデオにDeadmau5の「Cthulhu Sleeps」がミックスされただけ。なーんだ、そんなことか...と言った事は世の中にいくらでもあるな。今回のケースもそれ。よかったよかった。俺の話は以上です。
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oshasins · 9 years
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近頃
 先日二回検尿にひっかかり、タンパクが反応して、いずれも心当たりがあり(タンパクは激しい運動やその他のアクティビティの後に検出される)、三度目はまあ大丈夫だろうと思いちゃんとひっかかるような事はせずに再々検査に行ったら血尿が反応した。意味不明である。  近頃は近況をFacebookに書いてしまうのであまりこちらで書くことが無く、持論を広げようとしてやめ、広げようとしてやめを繰り返し結局筆は滞っている。Facebookで不服なのはフィードバックが貰えるのは良いがそもそも長文を読んで貰えないので何となくムカつくところである。情報爆発と言われ吸収でなく取捨選択するに至った現代では俺のキモい文章は「捨」なのである。しゃ。  しかし話は戻るが血尿が案外ショックで、別に真っ赤な血が出たわけでない(そんなん出たらすぐに病院に駆け込む)が、しっかりと不安にさせてくれるのである。就活より遙かに不安を煽る。だって小便から血が流れてるらしいんだぞ。らしいと言うのは目に見えるほど出ている訳でないのだ。どうも検査したら血が混じってるらしい。とのこと。病は気からとはこのことで俺は目に見えない程度���血が混じった小便が出たことにショックを隠せないのである。隠せないが血尿検出から今日に至るまで友人と会ってないので結果的には隠れている…。
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