Don't wanna be here? Send us removal request.
Text
久々に夜行バスに乗った。最近の遠出は空港が徒歩圏内にあるのと割引が効くのとで飛行機だったり、バスでも昼行のものだったりで、朝夜行バスで現地に着いてその夜にまた夜行バスに乗って帰る、という0泊スケジュールは多分数年ぶりだった。夜行バスはコロナ騒ぎで破格の値段になっていた。大阪から東京に行って帰るのに、リラックスシートでも5000円掛からなかった。夜行バスに乗る時はいつもイヤホンを持ち込むようにしている。旅は好きだが人に囲まれた中で熟睡できる性格ではない。せめて��だけでもシャットアウトしようと、スマホのプレイリストを延々と流しながら波のように寝たり起きたりを繰り返す。ふと目を覚ましかける。意識はぼんやりとしながら頭はすっきりしている。瞼は閉じたまま。視界も無い中にいると、いつもの曲がぐんと鮮明さを増して流れ込んできて驚く。一つひとつの音が普段より粒立って聴こえてくる。それまで見えなかった輪郭に気付く。これも疑似的な覚醒だったりするのだろうか。薬でトリップしている人たちはこんな気持ちなのだろうか、と考えたりする。
茨城に住んでいる中高時代の部活の後輩に会いに行った。大学でお笑いサークルを立ち上げて活動していたが、いよいよプロの芸人を目指すべく大学を辞めると言う。退学記念ライブを見届けた後、少し話をした。在学中特別何かしてあげられた程出来た先輩ではなかったが(入部自体は自分の方が遅いので先輩と称するのも怪しい)、同期と同じくらいには近い立ち位置にいたこと、だからこそ親心のようなものが働いたこともあって正直心配な気持ちもあった。それよりも、同じ「自分の身体で舞台に立つ」ことを選んだ人間として興味があった。かつての仲間の一度しかない門出のライブ。スケジュールのブッキングも無い。なんとバスも安い。行くしかないと思った。舞台上の彼は真剣だった。「笑いをとる」という事に対し十二分に誠実に向き合っているのが分かった。何より「笑いをとる」ことを彼自身が楽しんでいた。自分を見つめ、自分を手に入れた人間の姿だと思った。きっと彼は道に迷っても自分に迷うことは無いだろう。彼のことを何も知らなかった自分を恥じた。
時勢の影響で色々な公演が中止や延期を余儀なくされている。興行としての演劇に対して向けられる視線において、芝居を「観る人」と「観ない人」の認識の乖離は激しい。しかしそれを責められるほど、我々は自分の興味の無いジャンルに対して理解を持っていないだろう。身内主義だと言われても、最後まで演劇人の味方をできるのは演劇人以外にいないのだと思う。今月は観劇の予定が随分減った。お世話になった人達の最後かもしれない役者姿は観ることが叶わなかった。そこに懸けるはずだった想いや幕を上げられなかった悔しさ��、誰かが、或いは自分達がバトンのように引き継いでいくべきものなのか、分からない。
自分が演劇を始めるきっかけをくれた劇団が年末で解散することが決まった。作品に憧れ、劇団員の方々の人柄に憧れ、この人達の仲間になりたいと思って演劇を始めた。一度客演もさせてもらった。いつかもう一度という夢は叶わなくなった。心の拠り所としていた場所が無くなるという事実にどう向き合えばいいのか。芝居を通して貰ったものはあまりにも多くて自分だけの手には余る。この人達に貰ったものを自分が誰かに還元していくことがその人達への報いになる、まだそう言い切れるほど強くはない。ただ「舞台に立つ自分」を形成してくれたのは紛れもなくその人達なのだ。それを忘れたまま芝居はできない、という事だけは確信している。
「舞台に立つ」とは何なのだろうと考える。その本番だけじゃない、稽古に割いてきた時間、場合によっては出演のためのオーディションにかけた時間、オーディションに受かるためにかけた時間、それまでの経験、過去の積み重ね、その舞台に「出よう」と決めた意志、そう決断するまでに至った感情、舞台に出ることで実現できる何かへの約束、演劇でも音楽でもお笑いでもダンスでも変わらない、その人の生きてきた時間、すなわち命の一部が、結晶になって舞台の上に在る。本番で輝くことが、本番以外の時間を懸命に生きてきたことの証明になる。だから舞台は生きているし、自分達は本番という時間に心血を注ぐし、その舞台を中止にしようものならそれは生きてきた時間を自分達で否定することになるから、自分の命を絶つのと同じだから、上演したいと思う。そう願うことはそこまで自分勝手なことだろうか。
0 notes
Text
最近気付いたが、子供の頃にいわゆる「変身ベルト」を買ってもらったことが一度も無かった。念のため付け加えておくと「ちゃんと正しい音が鳴るやつ」の話である。それなりに日曜朝のテレビ番組は観ていたし、高校生の一時期特撮の劇伴にハマって(これには諸々の経緯があるが省く)新たに2,3作品ほど観たりもした。興味のない子供だった訳ではなく、単純にそういうものを買い与えられない家庭だった。なので「ベルトを巻いてヒーローになりきる」という「男の子共通の原体験」が自分の中に欠けている。欠けていたという事に最近気付いた。
変身ベルトなんざよりもっと重要な原体験の欠落なのだが、人生において「給食」を食べたことが無い。小学校も中学校も高校も私立の学校だった。小学校は創立者の「親の愛情がこもったお弁当が一番である」という教育方針でほぼ毎日弁当を持たされていた。このご時世で叩かれていないか心配である。中学も高校も(一貫校だった)基本は毎日弁当だった。そもそも学食というものは存在しなかった。給食で出てくるアレが美味いとかコレが不味いとかいう話で輪が盛り上がる度に「まずは給食を食わせてくれ」と思ってしまう。
例に漏れず今年もポケモン映画を観に行った。第一作目「ミ��ウツーの逆襲」のフルCGリメイクと銘打たれていたが、本当にただCGに焼き直しただけだったので逆に驚いてしまった。さすがに「あの感動をもう一度」みたいなテーマでやっておいて結末を書き換えてしまっていたら炎上騒ぎになっていただろうが、それにしても物語の補填も新しい演出も全く存在せず、ただただ原作通りの展開が進むだけだった。正直例年のポケモン映画より楽しめなかった気もした。が、同時にこれは「観る側の問題」だったように思う。22年前、小学生だった自分は親に手を引かれて映画館に足を踏み入れ、大スクリーンでぶつかるポケモン達の迫力に興奮し、その身を投げ打って争いを止めるサトシの姿にポケモン達と共に涙した夏休みの思い出、みたいな経験が自分にあれば間違いなく楽しめた作品なんだろうと思う。あいにく22年前の公開時は��まれているかも怪しいので自分にそんな原体験は無い。随分ターゲットを絞った作品だったように感じた。
「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」をそうした“原体験を必要とする”映画だったとするならば、ハリウッドからやって来た方のポケモン映画「名探偵ピカチュウ」は“原体験を植え付ける”タイプの映画だったように思う。ポケモンユーザーなら誰もが考える「現実にポケモンがいたら、ポケモンと共生できたら」という妄想を120%の再現度で映し出す描写は、劇場を出た瞬間に鳥ポケモンが空を飛んでいないという事実によって多くのポケモンファンを絶望に叩き落とした。守衛室のガラスにひっついて眠るキモリ(5秒くらいのシーン)に100万点あげたかった。我々が欲していた原体験を実写映画で生み出す。これ以上ないくらい欲望に忠実な映画だった。
「原体験」というのはすごく貴重なもののように思う。ある特定の年齢、地域でしか作れない体験もあるし、初めてそれに触れるのが子供か大人かによってもその意味合いが変わることもある。という事を実家の自室で考えていた。ここもある意味原体験の牙城なのだろうか。
0 notes
Text
読書感想文が嫌いだった。本を読んだ感想が言語として出てくる、という事の意味が分からない。本を読むのは昔から好きだったが、それは自分にとって読書というものが完全な“娯楽”だったからで、あぁ面白かった以上の感想なんて無いし、出てこないものを無理矢理ひねり出して書いたものが感想だとは思わない。主人公に自分を重ねて何になるのだろう。そして学校の宿題として求められるそれは往々にして小説レビューでは許されない。「この作品はここがこうなって面白いからみんな読んで!」とかそういう内容の方がまだマシだ。他人の読書感想文を読んでも同じだった。お前の話なんか知らねえよ作品の事を教えてくれよ、としか思わない。そもそも感情を言語化する事がそんなに大事なのだろうか。
歌に共感する事はよくある。自分の過去と重ね合わせる事もあるし、自分で歌うとしてもその感情はそのまま音に乗せやすい。ただそれは予め用意された言葉があるからで、自分の感情そのものを言語化している訳ではない。逆に考えればそれを一から紡いで歌詞にする人達は本当にすごいと思う。
このところ大事なものが何なのかよく分からなくなる。自分の芯とか、覚悟とか、愛とか、これだと信じていたはずのものが本当にそうだったか思い出せなくなる。自分で選んだはずのものに自分が囚われていやしないかと考えだすと堂々巡りになる。人に話すまいと思っていた秘密を不意に口から洩らしてしまう。自分が好きだと思っている事が本当に好きだったか分からなくなる。自分で線引きをしておきながら、自分が選んだのが線の内側だったか、外側だったか忘れている。
人に相談するには自分の地獄を全てさらけ出さないと話が進まないので話せる訳もない。自分が傷つかないように自分の地獄を共有するにはもう一人自分を作るしかない。ただし自分は自分のことが嫌いなので自分なんかと話したくはない。心の底では誰かに全部受け止めてほしいと思っている気がする。でもそう思って打ち明ける相手は、自分がありもしない虚像を作って押し付けた相手であって、本当の相手ではない。救われたいけど自分には救われる資格も無い。
文章に書き起こすことで気持ちの整理をしている。整理したから解決するという話でもないし、そもそもちゃんと言語化できているかどうかすら定かではない。書いているうちに別のものにすり替わっている気さえする。読書感想文に適当な嘘を書き連ねて“自分の気持ち”だとしていた頃から、何も変わっていないんじゃないだろうか。
0 notes
Text
連休中、人に会った。SNSを通して知り合った同い年の人で、たまたま大阪に来るというので微力ながら案内役を買って出た。お互い高校生の頃からの付き合いなので3,4年は話をしているはずだが、顔も声も、本名も知らない。知る由もない。実際に会った後の今でも本名は分からない。名前を知らなくても人柄は分かる。自分はネット上で知り合った人とよく会っている方だ、と自負しているが、名前も知らない人の方が付き合いやすかったりする。身の周りの悩み事を、隣にいる友人には話せないのに、顔すら見たこともない人に相談したりしてしまう。「自分の肌に接する生活圏内とは切り離された人だ」という認識が、話しやすさを生んでいるのかもしれない。相談されるのが迷惑だったら��めんなさい。
自分は人との縁にだけはすこぶる恵まれていると思う、というのは高校生の頃から強く実感し始めた。決して部活の仲間に恵まれなかったとかいう訳ではない(むしろ真逆だ)が、それ以上に学校の外で新しい出会いを得るようになった。出会った人たちがみんな優しい、というのは自分の唯一の自慢だ。演劇をするようになったのも人との出会いがきっかけだった。もしあの人たちに出会えていなかったら今の自分は何をしていたのだろう、と時折考えると想像がつかな過ぎて怖くなる。
人付き合いは決して嫌いじゃないが、遊びに誘うのが苦手過ぎる。誘い方が分からない。一人でいてもそれはそれで趣味に時間を費やしてしまうから、結果一人でいる事の方が多くなってしまう。もっと他人と気軽にコミュニケーションが取れる人間になれたらいいのにな、と思う。
匿名で仲良くなる人は、趣味が似通っているという事が分かりきっているので良い。それがコミュニケーションを取る動機になる。誰と友達になるかを選ぶこともできるけれど、そのためには自分から会話を切り出さなければならない。現実だと何となくになってしまいかねない「話し掛ける」という動作が、SNSではくっきりとした形を取って表れるのは面白い。友達を得るために最も能動的な必要があるのはインターネットなんじゃないか、という気さえする。
「インターネットで知り合った友達は本当の友達じゃない」みたいな事が、自分が子供の頃はよく叫ばれていた気がする。今でも言われているのだろうか。まだTwitterにも触れていなかったが、その頃から「なぜ友達の作り方について他人に干渉する資格があるのか」という疑問を持っていた。「名前も知らない相手の事なんて向こうは真剣に考えてくれてはいない」なんて事を言う人もいたが、随分と“向こう”に対して失礼な言い草だ。逆にそんな事を言う人たちは、相手の顔と名前を知っているだけでその人の事を分かっている気になっているのかもしれない。気付いたら親から与えられていた、自分で選んだ訳でもない名前にどれ程の意味合いがあるのだろう。自分でつけたハンドルネームや、自分で描いたアイコンの方が、余程その人の一部たるに相応しい気がする。
0 notes
Text
バイトを辞めた。これで二度目になる。
同じ組織に半年以上腰を落ち着けることができない。途中で何かしらトラブルを起こして出て行かざるを得なくなる。図太く居座ってもいいのかもしれないがそれも出来ない。自分は社会生活に向いてないと思う。就職しても同じように半年で辞めてしまう気がする。
“就活”というものが実��すぐそこに迫っているという事につい最近気付かされた。何もしてない。したくもない。定職に就かずとも元気に生きてる人は沢山いる。自分の周りに山ほどいる。進学校だった高校の中だけにいたら気付く事のなかった世界だと思う。そこで生きてる人たちが好きだ。自分はそうはなれないだろうけど。それでも定職なんかクソくらえ、的な気概ではい続けたい。定職に就く事だけが正しい人生だとは思わないし、思いたくない。
バイトしながら芝居をしてる人たちの事を母親は「俳優業でお金が稼げないから仕方なくバイトしてる」と言う。それが真実かどうかは問題じゃない。それを「仕方なく」という目線で捉えているのが気に食わない。他人の人生に対して横から「仕方なく」なんて言葉を使うな。そもそも知ったような口を利くな。“苦しい生活”、“楽な生活”はあるかもしれない。でも、“正しい生活”、ましてや“間違った生活”なんて物は存在しないと思う。というか存在してほしくない。私の好きな人達の生き方を、自分の物差しで勝手に測ってほしくない。その物差しだって自分で考えた訳じゃない、“一般論”とかいうフワフワした物から借りてきただけの癖に。失礼だ。
「社会的に成功する」ことが必ずしも正義なのだろうかと、よく考えるようになった。芝居が上手いかどうかと、芝居で生活しているか否かは似て非なる問題だと思う。そこに生まれる責任も、持ち込む覚悟も変わってくる。だからこそ、“俳優”という職業に就く人たちが持つ類まれな才能と絶え間ない努力に最大限の尊敬と賞賛を示した上で、自分は絶対にそこに行きたくないと思った(実際なりたくてもなれやしないだろうけど)。それは「金を貰ってやる芝居」に曲がりなりにも、一瞬だけでも身を置いた今だからこそ思えるのかもしれない。だから言葉尻だけ捉えられて「そうそう、俳優になんかならない方がいいよ」なんて同意を親戚とかにされると無性に腹が立つ。理解の道筋が絶対に違うし、自分が心身を削って出した結論に上っ面だけの一般論で同意を得られたくない。かと言ってこういうところでだけつまらないプライドが顔を出してくるのもどうかという気はしているが。
山登りが趣味の人が全員プロの登山家を目指している訳ではないように、娯楽として芝居を楽しむことも普通だと思う。就活の時「趣味は芝居です」と胸を張って言えたらいいなと思う。言えるのだろうか。
1 note
·
View note