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ポエマティック・ノベライズ第三弾 Born/心は金の代わりになり得るかのネタバレしかないのでご注意ください
思考をするための回路が、すべて一瞬にして錆びた感覚さえあった。 ――知らないのか?みんなドッペルゲンガーなんだよ。私だってそうだ。 脳が理解を拒絶している。彼女は、何を言っている? 冬の夜、人通りの少ない路地。呼吸をするたび、白い息が細く消えていく。突如として眼前に現れた明金さんは、まるで当然のことを語るように、それでいて愉しそうに何も言えないでいる僕を見ていた。 ――世間一般が、それこそ総理大臣だってそれを選んだ。 ――これは正当な人類の『進化』だ。29年も生きてきて、成り代わってないのはおまえだけだよ。 全てを一方的に叩きつけて、彼女は去っていった。���はただ、その背中を見送るしかできないままで。 あの夜からずっと、ふいにあの日の光景が頭を過っては動けなくなる。そのせいで貴重な有給を無為に消化する羽目になった。 13課へ向かう足取りがどうしようもなく重い。誰もいない廊下を歩く。 部屋に入るための扉に手をかけて、けれども開けることを躊躇してしまう。あの日の言葉が本当なら、明金さんも先輩も、この世を生きる人々のほとんどがドッペルゲンガーだ。得体の知れない恐怖が、足元にまとわりついている。何が変わっているとも明言できない。ならばこれから、どう接すればいい? 曖昧な不安を消せないまま、ドアノブを思い切り捻った。扉を開けると、奥にはひとつの人影があって、あの日に見送った背中と重なる。静かな部屋に、ひとり座っていたのは果たして明金さんだった。思わず手元の時計を確かめる。始業時刻よりも1時間早い。13課に配属されてそれなりの時間を過ごしてきたが、明金さんがこんな早い時間に出てくることなど、今までにたったの一度もなかった。 「おはよう、ございます」 「ん」 明金さんは僕のほうを一瞥して、すぐ興味なさげに手元の資料に視線を向ける。その素振りに普段と変わったところは何もないように見えた。それはそうだ、ドッペルゲンガーは見目も記憶もすべて同じだ。ほんのすこし、オリジナルよりも優秀なだけで。 つまりは、この早朝出勤は彼女が優秀であるが故のものなのだろうか。何も変わらないと知っていて、それでも些細な差異を探してしまう。 「……あの、珍しいですね、明金さんがこんなに早いなんて」 「遅刻すれば説教、早朝出勤しても嫌味かよ」 「いえ、そんなつもりでは」 隣に座り横目で彼女を見る。声も、態度も表情も、僕の知る限りの明金サラでしかないのに。何も変わらないように見えてしまうから、あの夜の出来事が悪夢だったと信じてしまいたくなる。 僕の隣にいる女性は、僕にとっての『明金サラ』であるのだろうか。あるいは他人? 「……昨日の、話ですけど」 すべて嘘だと、ただの悪夢だと否定したくて、ぽつりと言葉を零す。その自分の声があまりにも乾いていて、それ以上を切り出せなかった。 明金さんは黙り込んでしまった僕を怪訝な顔で見据えた。その眼差しが、あの夜と重なる。 ――残ったのは、劣化オリジナルか。 自傷にも近しいと分かっていて、それなのにリフレインが止められない。 何も、言えなかった。彼女の言葉すべてが、僕にとって致命傷になり得る鋭さで突き刺さっていた。悪夢であってほ���かったのに、これほどまでに鮮明に思い出せてしまっている。 「どうした?」 気付くと、明金さんは窺うように僕の顔を覗き込んでいて、余計に混乱してしまう。突き放すようなことを告げたのはあなたじゃないですか。 「明金さんは、どうして、ドッペルゲンガーを選んだんですか」 「……は?」 こいつ本当に頭イカれちまったんじゃねえかと思われていそうだ。そんな声だった。 僕は消えたっておかしくなかった。生きることを勝ち取ったわけではなく、この世界に残されたというほうが正しい。鏡に映ったほうの僕は、そういう選択をした。ならば、明金さんは、何を選んだというのだろう。 目を合わせられなくて、俯いたまま返事を待つ。 「だったら、その答えの前に、お前の過程すべて話せ」 慈悲にも似た声が、僕の喉首を捕らえる。 逃げられないという矛盾した安堵をわずかに感じていた。
「――ふうん」 訥々とした僕の話を、明金さんは最後まで黙って聞いていた。 明快とは言い難い説明ではあったから、茶化すことなく、呆れることなく聞いてくれたことに若干の安堵がある。13課に在籍している以上、気が触れた人間の妄言だと一蹴することはないだろうと想定していたとはいえ。 そっと視線を向けると、明金さんはいつもの不機嫌そうな表情を崩さないまま、僕をじいと見ていた。こがね色の薄い眼差しが細められる。 「で、最終的に何も言えずにしょぼしょぼ帰ったと」 「それは……明金さんの選択に、僕が言えることなんか、なにも」 「おまえは落胆してるわけだ。『本物』の影丸虎太郎にとって、今ここにいる私は『偽物』でしかないもんな」 当て付けるような声色。明金さんは笑っていなかった。 ――それは違います、と言うはずだった。言うはずだったのに。 彼女がどんな選択をしても、それは彼女自身が決めたことだから尊重すべきだし、僕が口出しできることでもない。それなのに、否定の言葉が咄嗟に出なかったということは、つまり、僕のふかい部分の本音は彼女の言う通りなのだろうか。 いったい、いつから? 僕と出会う前からドッペルゲンガーであるのなら、それは僕にとっては本物の明金さんだ。僕はオリジナルを知らないし、知ることもない。 けれど、もし、13課に配属され、僕と出会った後の選択だったなら。 目の前にいるのは、捜査を共にし、反発と協力をしてきた明金サラではなく、記憶が同じというだけの存在だと捉えてしまいそうな自分がいる。どうしようもなく自分勝手な考えだという自覚はある。それでも、平穏ではなかった日々を、同じように、大切に思っていてほしかった。 「……僕のことは全て話しました。次は、明金さんの答えを聞かせてください」 自分の感情から逃げるように、明金さんに問いをかけた。これ以上、自分に向き合うには覚悟が届かない。 明金さんは、そうだなと口元に手を当てて、しばらく考え込む素振りを見せている。そうして、逸らした視線を僕に向け���かと思うと、口角を吊りあげて笑った。 僕はこの笑みを知っている。完全に、僕で遊ぶときの表情だ。 「ドッペルゲンガーと本物を見分けるってのは、"バディ"にはちょっとばかり難しかったらしいな」 ――なんだって? 彼女の楽しそうな声色に反し、疑問符しか頭の中に浮かばない。反応ができないでいる僕に、彼女はさらにたたみかける。 「いいか、そもそも質問の前提に私はいないんだよ。やってもない罪を自白するほど私は馬鹿じゃない」 「……それは、どういう、」 「は、思考停止は得意だったか?おまえが言うに、オリジナルとドッペルゲンガーの差異は他人どころか家族にすら分かんねえんだろ。だったら、なんで急に出てきた私が『劣化オリジナルのほうか』ってドヤ顔で語れるんだよ」 無遠慮な正論で殴られる。でもドヤ顔とまでは言ってない。 それでも、泥のように重たかった頭の中が一気に清明になる。こんな簡単なことに、どうして今まで気付かなかったのか。それほどまでに追い詰められていたのかもしれない。 「そんなにショックだったかよ、私に煽られたの」 「……明金さんなら、どっちを選ぶんですか」 もしも、自分がドッペルゲンガーだったら。選択を、決断をしなければならないのなら。居直るような口調になってしまったが、明金さんは気にする素振りを見せず、退屈そうな顔で頬杖をつく。 「本物だの偽物だの、死ぬ程どうでもいい。今ここにいる私が消えなきゃいけない道理が存在するか?」 「……はは、明金さんらしいですね」 「へえ、"私らしい"が分かるとはさすがだな」 「もちろん、それは自信がありますよ」 皮肉を理解した上で被せていく。明金さんは僕の反応に訝しむ態度を隠さない表情だ。 「腕っぷしが強くて、聞き込みが苦手で、正義感に溢れているのに不遜で、でも優しいところが捨てきれなくて、――痛ッ!」 「おまえ、本当にばかじゃねえの、これだから、……」 明金さんは僕の眉間にデコピンを喰らわせて、大きくため息を吐いた。そのまま椅子から立ち上がって、僕に背を向けてしまう。 「え、どこに行くんですか、話はまだ、」 「コーヒー」 それだけを言うと僕のほうをすこしも見ずに出て行ってしまった。 彼女は嬉しいとき、照れるようには笑わない。困惑が最初にあって、その後ろを緩く追うように沈黙がある。僕はそれを、笑みを隠すためのものだと知っている。存在を確かめるみたいに、ひとつひとつを並べてなぞっていけば、気付くことはあまりにも容易だった。 そこに自我があり、願い、悩み戦った末に立っているのがどちらだったとしても、僕は彼女が彼女でいてくれることをただ嬉しく思うだけでいい。 僕のバディは紛れもない『明金サラ』であって―― ふいに、思考の端が凍る。浸食するような冷たさが僕の内を占めていく。 ――そんな彼女が、僕のことを劣化オリジナルだと嗤うだろうか? 自問してすぐに答えは出る。はじめからわかりきっていたはずだ。 ならば、あれはいったい『何』だ? 仮にあれがドッペルゲンガーだとするならば、僕の眼前にオリジナルの明金さんがいる以上、オリジナルの消滅を避けられない6日目を迎える前の存在だ。だが、あれの口ぶりから察するに、成り代わったのはそれこそ何年も前のはずだ。でなければ、政府の要人がドッペルゲンガーなどという機密を知り得ない。 あの日の表情が思い出せない。あんなにも鮮明だった衝撃が、その事実だけを明確に残しながら薄れていく。どんな表情で、どんな声で僕に語っていた? 最初に考えるべきは『あれが何か』だった。明金サラというテクスチャを被った別の何か――彼女に危害を加える可能性のある存在。 思考がそこまで辿り着いたと同時に、はじかれるように部屋を飛び出した。 廊下を走れば、すぐに気怠そうに歩いている明金さんの背中が視界に入る。彼女が振り返るより早く、腕を掴んだ。明金さんは完全に不意を突かれたらしく、困惑の表情を浮かべている。 「な、んだよ急に……奢んねえぞ」 「違います、あの、明金さん、最近なにか身の危険を感じることはありませんでしたか」 「現在進行形で感じてるよ、怖えよおまえ、顔がマジで」 あの夜、僕は彼女を失ったのだと思った。 気が触れる寸前まで届くほどの衝撃と喪失を、僕はもう、二度と。 「僕はあなたを失いたくない」 考えるよりも先に零れたのは、紛れもない本心だった。 明金さんはわずかに口を開いたまま、じっと僕の目を見ていた。だから、僕は彼女の薄い虹彩が揺れるのを見逃さなかった。 「――ばかだな、本当に、」 こんな表情を見るのは初めてかもしれない。 彼女の右手が静かに握られるのを見て、僕はそっと目を閉じる。
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ポエマティック・ノベライズ第二弾 Born / 心は金の代わりになり得るかのネタバレしかないのでご注意ください
リッツカールトンから見る夜景に飽きてしまった。
はじめはあんなに綺麗にみえた夜の明かりも、今ではぜんぶ騒がしいだけに思えてしまう。インスタ用の写真も、いくつかを撮っただけで未だにフォルダに眠ったままだ。こんなこと、友達に言ったらヒンシュクを買うだろうな。たぶんツイッターで呟けば5秒と経たずに炎上する。確実に。
――ずっと、ずっと遠くへ来てしまった。ひとりで。 ひとりで知らない街へ来て、知らない人と話して、知らない場所で眠る。 心細いとか、悲しいとか、こわいとか、そういうものをひとりで。
眼下にチカチカとひかる、都会の明かりをぼんやりとみながら、目付きのわるい顔を思い浮かべた。今、わたしがしているのは勝手な意趣返しというやつだ。わたしにできる反抗で、いちばん破壊力のあるものはなんだろうと考えて、辿りつく答えなんてひとつしかない。 サマンサのバッグ、ジルスチュアートのチークとディオールのリップ。シャネルのスカートの値札をみたときはさすがに心臓がどきどきしたけど、躊躇したのは一瞬だけ。 ――おそろしい額の引き落としにおびえてしまえばいいんだと、当り散らすみたいに豪遊を重ねている。
あの日から5日目の夜。 今日を終えてしまえば、先生の言うように、夢から覚めるのかもしれない。目も、耳も塞いで、なにもかもから逃げてしまえば。 窓ガラスに映る、輪郭の曖昧な自分の姿をぼんやりと見る。きっと、本物のわたしにとって、この曖昧な存在が『わたし』だ。そっと手を伸ばせば、映るわたしも同じように動く。曇りひとつないガラスに、指先で触れようとして、手を引っ込めた。あの日の光景がリフレインする。
――怖いの、助けて、早く来て!
追い詰められた必死な声。目の前で消えてしまったあの子。 もしかしたら、わたしもそうなっていた。あるいは、これから。
夢だと思いたかった。あの日の声が消えてくれない。
――お前は悪い夢を見ているだけだ。
真夜中の青みたいな声が、冷たく鼓膜を揺らして響いていく。 自慢じゃないけど、わたしはヒトの感情の機微には聡いほうだと思っている。つくりあげた表情や言葉のうちに、いろんな感情がひそんでいて、わたしはそういうものをひらいていくことが得意だ。
「……着いてくって、言ったら怒る?」 「ああ」
だから、先生がわたしを遠ざけるのは、優しさなんかじゃない。
胸の奥がぐしゃぐしゃになる感覚。鼻の奥がツンと痛くなって、目に映る夜のひかりがぐにゃぐにゃと歪んだ。薄い涙の膜をまばたきでなかったことにして、キイと先生を見上げて睨む。
「――じゃあ、いいよ。絶対に財布、返してあげないから!」
たぶんこういうのを逆切れっていうんだろうな。おい、という先生の声を無視して乱暴にタクシー��乗り込んだ。運転手に、わたし��知る限りの、ずっと遠い街の名前を行先に告げる。 ふいと視線を向ければ、窓ガラスの向こうの先生はわざとらしく肩を竦めているから、余計に苦しくなる。すこしは繕えばいいのに。そういうの大人は得意なはずでしょう? 浮かんだ文句のひとつも言えないままで、タクシーが走り出した。先生のほうを振り返りたくなくて俯く。どうせもう、背を向けているだろうから。 靴先を意味もなく見ていると、ああ、と驚いたような声が車内に落ちた。反射的に顔を上げて、運転手のほうを見る。ふと気付くと、ルームミラー越しに運転手がこちらを見ていて、穏やかな笑顔を浮かべていた。 ――娘があなたのファンで。着いたらサインを貰えませんか。 わかりやすい好意を内包した声や眼差し。それなのに、今は苦しくてちゃんと笑えない。それでもどうにか快諾して、営業用の笑顔を貼り付ければ、ミラー越しの目元がやわらかく細められる。それを受け入れたくなくて、眠るふりをしてしまった。
先生の前では耐えたのに、遠くなるにつれてぼろぼろと涙がこぼれてきた。眠い目を擦るふりをして、カーディガンの袖で涙を拭う。わたしを遠ざける理由やその言葉に、ほんのすこしでもいいから優しさが含まれていたならきっとこんなに泣かなかったのに。 でも、だからこれは、ただのわたしのワガママでしかない。わかっていたはずなのに、どうしてこんなふうに悲しくなるの?
窓ガラスに映る自分が、泣き腫らした顔をしているようにみえる。 逃げるように、カーテンを閉めてベッドに倒れ込んだ。騒がしい明かりを遮ってしまえば、部屋の静けさばかりが追い立ててくる。さみしさを消してしまうための雑音が欲しくて、ナイトテーブルに置いてあるテレビのリモコンに手を伸ばした。 ザッピングする気も起きなくて、点いたそのままの番組をぽやぽやと眺める。なにか見覚えがあるな、と思っていたら、わたしが映っていた。そうだ、ずっと前に収録したやつだ。 わたしが、何も知らない顔で笑っている。テレビの向こうにいる自分は、まるで遠い他人みたいにみえた。――他人みたい、ではなくて本当の意味で他人なのかもしれない。 だって、テレビの向こうで笑っているのは過去の『本物』のわたしであって、そこからわかれた『わたし』じゃない。たとえ、いままでのぜんぶの記憶がおなじだとしても。なら、世間一般やお母さんや友達、先生にとってこの『わたし』は偽物でしかないの?
お前はどうしたいんだ?
ベッドから飛び起きて、バッグに入れたままの黒い財布を取り出した。身分証が入っているからという先生の言葉を思い出す。言葉通り、免許証がカードポケットに入っていた。免許証の目付きの悪さが目立つ写真は、なにも見目は変わらないはずなのに、知らない人のように見える。 しとうかげふみ。――きっと、わたしと同じ、影法師の先生。
わたしが偽物でも本物でもどっちでもいいの。だってわたしはここに生きているのに。でも先生は別だ。不遜で、無愛想で、人の名前を間違える、目付きのわるい先生は、わたしにとってたったひとりしかいないから。
レイトチェックアウトの手続きをして、これでリッツカールトンともさよならだ。黒い財布をぎゅっと握る。もう時期外れの修学旅行はおしまい。 ここに来たときと同じように、タクシーを呼んで、わたしの住む街の名前を告げる。加えて、なるべく急いでとお願いをした。 きっと、今ごろ財布を渡したことを後悔しているだろうから。
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ポエマティック・ノベライズ第一弾 13・13 / ダブルサーティーンのネタバレが無くはないのでご注意ください
どうしてあの人だったんですか、と泣いて女は頽れた。 私に答えられるとでも思ってんのか。 死ぬのがあんたの恋人じゃなきゃ誰でも良かったのかと、いつもの調子で詰りそうになるのをぐっと堪えた。ヒステリックに巻き込まれでもしたら疲弊するのは目にみえている。 こういうときにアイツがいればと、一瞬だけあの湿っぽい面が脳裏を掠めたがすぐに否定した。押し付けのお節介で迂闊に心情に踏み込んで、そうですねお辛いですね時間が解決しますよとカウンセリングをさせられる未来が確定している。そんな茶番に付き合ってられるか。 何か気になることがあれば連絡しろと名刺を渡してマンションを後にする。聞き込みの結果は振るわず、感情的な話ばかりで大した情報は得られなかった。日はとうに落ち、帰宅を足早に急ぐ人間とばかりすれ違う。募っていくのは、青黒い夜が背を責っ付く感覚と、時間を無為に食ってしまった苛立ちしかない。 13課に押し付けられたのは通り魔殺人の捜査だった。 被害者の関連性なし、犯人の目撃情報なし、凶器不明。通り魔なんてものは一課の管轄のはずだが、捜査に関わっていた人間がことごとく精神を潰されたとかいう曰くが付与されたせいで13課の案件となっている。 手始めに最初の被害者が住んでいたマンションへ足を運び、防犯カメラの映像を確認、回収の後に居住者に聞き込みをしていく手筈だった。だというのに、カメラの映像を確認している最中にあの野郎は「すみません、先に行っていてください」と視線を映像に向けたまま呟いて、返事も待たずにどっかへ消えていきやがった。追いかける気にもなれなかった。 帰路を歩く。街灯が明滅している。 目の前で嗚咽���零す女の姿が、ささくれた内側にこびりついて離れない。泣きながらの「どうしてあの人が」なんて、ありきたりな定型文だ。そんなことは分かっている。分かっていると自分に言い聞かせるたび、何も飲み込めていない事実ばかりが目についてしまうのに。こんなふうに、誰かの言葉に精神が逆立ってしまうような人間じゃなかった。 かつての部署にいたときは、人の悪意を食って生きているような感覚があった。それが今はどうだ。誰かの悲しみまで付随している。 ——ガラじゃない。思考を振り払うように歩く足を早める。 直帰しても良かったが、影丸の件もあって足は13課へと向かっていた。 「明金さん、戻ってたんですね」 ふいに投げかけられた声に振り返る。開けっ放しの扉の向こうに立っていたのは果たして影丸だった。やたら多い書類を抱えているところをみると、鑑識からの帰りか。自分の机に書類を置いて、てっきり直帰されたのかと思ってましたと何故か嬉しそうに話すコイツは、数時間前の自分の行動を覚えていないのかもしれない。 「聞き込みを私に丸投げした上に、行き先も告げずにどっかに消えてったヤツの開口一番が『戻ってたんですね』か」 「え、あ、それは違うんです、いや結局は違わないんですけど……えっとすみません、少し気になることがあって」 「ふうん、気になることがあれば"バディ"を置き去りで単独行動も許されるのか」 そりゃ良いことを聞いたな、と見せつけるように口元だけで笑う。私の皮肉たっぷりの言葉に、影丸は慌てる素振りを隠さずに弁明を並べ立てはじめた。ばかだな、冗談に決まってんのに。半分は。いつだって私の協調性のなさを咎めて、バディですから協力しましょうと困った顔をするくせに、いざ手掛かりを見つければ立ち止まっていられないのはどっちだ。 「でもほら、その分ちゃんといろいろ調べてきたんですよ!これからこの資料を洗い出していこうかと」 「ああそう、ご苦労サマ」 「僕は泊まり確定ですけど、明金さんは?」 「適当に飯食って帰る」 そうですか、じゃあお気をつけて。手伝おうとしない私に文句をぶつけることはなく、影丸は引き出しからがま口の財布を取り出して外へ出て行った。たぶん徹夜を乗り切るためのコーヒーでも買いに行ったんだろう。いつか過労死するんじゃないか?クマのある顔のほうが見慣れるのも時間の問題かもしれない。 ふと影丸の机に目をやれば、珍しく開けっ放しのままの引き出しにあのノートが入っているのが視界に入った。隠す気があるんだかないんだか分からない保管状況がために、もはや中身は白日の下に晒されている。最初に読んだのはいつだったか。何となしにノートを手に取り、几帳面に書き綴られているそれをぱらぱらとめくっていけば、例の項目のページに辿り着いた。 ——明金サラについて。
その100 正義感がつよい。この人になら背中を預けられる。 絶対に彼女を理解し、活かすことが��きればどんな怪事件も解決できる。先輩を見返してみせます!
力強く書かれた、それでも丁寧な文字に乾いた笑いがちいさく零れる。 どうしようもないことに、この文章を何度も読み返して、その度に零れるのは自分に向けた嗤笑でしかなった。 ——いったい私の何を見て、正義感が強いだなんて言えるんだ。 疑問なんて持たなくとも、答えは既に出ている。見たいものを見ている、ただそれだけのことだ。 「明金さんは砂糖入りでしたよね」 ガチャリと扉が開く音がして、影丸が案の定コーヒーを持って帰ってきた。隠すようにノートを引き出しにしまう。別にバレたところで恥ずかしいのはアイツだから構いやしないのだが。さすがにこのタイミングじゃ気付かれるかと開き直る気でいたのに、影丸はふつうに隣に座ってコーヒーの缶を差し出してきた。 まるで当然のように差し出されたのは私の好きな銘柄で、思わず窺うように影丸のほうを見る。何故。これが好きだと伝えたわけじゃないし、そもそもなんで砂糖入りを好んでいることを知っているんだ。というか頼んでないし。ほんの一瞬だけ迷ったあと、無言で差し出された缶を受け取った。影丸は笑っているんだか曖昧な表情だ。 他人のことをよく見ているなと思わないではない。いや、実際のところよく見ているのは事実だ。その結果があの主観たっぷりのノートだというのは、熱量の向ける先を大いに間違えている気がするが。 「そうだ、明金さんのほうはどうだったんですか」 「あ?」 「聞き込みで何か分かったこととか……」 「あるように見えんのか」 「え、でも」 影丸は納得のいかない表情で、じいと私を見る。ああ出た、私はコイツのこの視線がきらいだ。地下鉄の窓に似ている。相対してしまえば、否応なしに自分のすがたを見る羽目になる、ふざけた眼差し。逃げるように、いつの間にか握り締めていたコーヒーの缶へ視線を落とした。スチールの一部がわずかにへこんでいる。 「……どうしてあの人だったんですか、だとよ」 「?」 「被害者の恋人」 いびつになってしまった缶の表面に触れる。吐き出す先を見つけられないまま胸のふかいところに淀んだ感情を、ため息と一緒に投げつけた。八つ当たりなのは否定しない。 影丸は口元に手を当てて何か考え込んでいる。何度か視線を揺らめかせたあと、真顔を崩さずにそうですね、と話し始めた。 「被害者に関連性は今のところありませんし、何故というのは現時点では答えられませんね」 「……は?」 思わず顔を上げてしまった。どう考えても今のはそうじゃないだろ。いや、状況を見ずに私の言葉だけを捉えればそうなるのか。なるか? 「でも、その問いに答えるために、僕たちが頑張るんですよ」 どこか誇らしげな表情で影丸は言う。完全にずれている。 コイツの思考回路はどうにも読めない。歪な姿を映す窓が、私を見据えている。——ああもうこれだから嫌いなんだ。 結局のところ、私や影丸に出来ることはそれしかない。警察官という役割に属している以上、私たちは誰かの悲しみの上に成り立っているという自覚を持たなければならない。それを選んだのは、���れもない自分自身だ。 「——半分よこせ、」 机に積まれた書類を、有無を言わせずに奪い取る。不意打ちに影丸は何か言いたげな表情をしていたが、完全に無視を決めた。何か言ってきてもシカトの予定だったが、何も言ってこなかった。表情だけは緩んでいたのかもしれない。知ったこっちゃないが。 へこんだ缶のプルタブを引く。徹夜を乗り切るための最初の一口は、すっかり温くなっていた。それを悪くないと思ってしまう日が来ることなんか、ほんの少しだって考えたことなどなかったのに。 秘密を盗むように、視線を隣に向ける。 ——影丸虎太郎について。 ——その1 コーヒーはブラック派。
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respirator brain soup
「脳というのはね、その構成において脂質が圧倒的に多いんだ。だからね、人間が死ぬと、脳は壊死を起こして融解してしまう。まるでスープのようだよ」
「けれども心臓はそうではないんだ。心筋線維は蛋白質だからね。凝固して、残る」
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戦友の血に塗れた姿に胸を撲ったこともないではないが、これも国のためだ、名誉だと思った。けれど人の血の流れたのは自分の血の流れたのではない。死と相面しては、いかなる勇者も戦慄する。
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