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今日で ムッキがいなくなって、3年。 ずいぶんと迷っていたけれど 今回の更新をもって 一旦、最終回にしようと思った。 もちろん、これからも 不在という状態の ムッキとの暮らしは続いてゆく。 朝には遺影の前の水を換え、 花を飾る。 PCを立ち上げれば ムッキの姿が目に飛び込んでくるし、 番組のジングルでは ムッキが喉を鳴らす音も聴こえてくる。 月命日には これまでどおり 好きだった栗やあんこやきなこのお菓子を 供えて、一緒に食べる。 思い出さない日はない。 それはつまり、 わたしが生きている間 ムッキが不在という存在のまま 生き続けること、と言っても いいだろうと思う。 それはときに とても淋しく、苦しいと感じることもあるけれど。 濃密な20年を 忘れることなど 到底できない。 今後、何か違ったかたちで ムッキのことを残しておきたい、という 思いもある。 その際にはまた こちらでもお知らせしようと思います。 ここは当面 このまま残しますので、 またときおり ムッキのことを思い出したら 覗いてやってください。 人見知りの激しい子ではありましたが かつて友人が言ったように やさしい子でもあったので、 もしかしたら 空の上から 何かしら、ささやかな愛のかけらを 投げかけてくれるかもしれません。 3年の間、つたない投稿に おつきあいくださったみなさん、 本当にありがとうございました。
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衣類の整頓をしていると、 時折ムッキの毛が 付着していることがある。 何度も洗濯しているものにも ついていたりするから、不思議だ。 まるで わたしがムッキのことを忘れていないか、 ムッキが確かめているような感じさえする。 そんなアピール、しなくても 忘れっこないよ、とひとりごちて 細いその毛を ついポケットなどに納めてしまう。 そんなことをしているからだろうか、 いつまでたっても 身の回りのどこかに ムッキの毛がついているのは。 ひっかかれたり 噛みつかれたりした わたしの身体の傷は すっかり癒えて わからなくなっているけれど、 衣類に立てた爪の跡は そのままだ。 抱き上げるといつも わたしの左肩に 前脚を乗せていたので、 当時着ていたトップスの多くは 左肩の前後に ちいさな穴がいくつかできている。 後ろ身ごろの、背中から裾にかけて ひとつふたつ穴やひっかけた跡があるのは、 驚いたりあわてたりして 逃げた際のものだろう��� もとよりそんなに高価なものは 着ていないけれど、 お気に入りがほつれるのは 少々悲しくもなる。 おろしたてなら、なおさらだ。 しかしムッキにしてみれば そんなことはあずかり知らぬこと、 膝に乗りたいと思えば飛び乗るし、 甘えてくっつきたければ、そうするまで。 やがてわたしも、あまり気にしなくなった。 服は買い直せても、 ムッキとの時間は 世界中どこを探しても、 売っていないのだから。
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窓の外の雨の音が 細かい霰の さらさらした音に変わった。 我が家の台所は 川に面しているので、 冬ともなると 川を渡る風が当たって とても寒い。 足元につめたい空気が じっと居座る。 ヒーターを台所に持ってきて スイッチを入れるたび、 かつてムッキがよく ヒーターの前に陣取って わたしを監督していたことを思い出す。 ヒーターで背中はいくぶん 温まっていたのかもしれないが、 冷えた床の上で じっとしている間に、 ムッキの肉球は こちらが触れて 驚きのあまり 声が出てしまうほどの冷たさになっており、 あわてて抱き上げたものだった。 ムッキは冷たさを 感じていなかったのだろうか。 でも、尻尾を前脚に巻き付けて 座っていたりもしたから、 きっと本当は 冷たかったにちがいない。 ムッキの肉球は、 ほんの��しだけ、ピンク色の部分があっただけで ほとんどがこげ茶色。 一生のほとんどを家の中で過ごしていたので、 目立った傷などはなかった。 基本的に脚を触られるのが 好きではなかったけれど、 ときどき眠っているときに 伸ばしている脚を そっと握って肉球を触ると、 嫌そうな表情をしながら 爪を出したり引っ込めたりして 見せてくれていた。 ムッキの身体がなくなって もうじき3年になろうというのに、 冬の台所に立つと 二階から ムッキがとことこと降りてくる音が 聞こえてくるような気がしてしまう。 いや、ひょっとしたら やっぱり 姿が見えないだけで、 今でもときどき ヒーターの前に座っているのかも。 でも、肉球が冷えて困る、ということは、ないか。 そんなことを つらつらと考えているうちに、 細かい霰の音は止んで雪になり、 しんしんと積もり始めていた。
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猫を愛するひとに 猫のどんなところが好きか、なんて きくのは 野暮なことかもしれない。 なぜなら、 猫という存在そのものを 愛しているからで、 それはもう、全部好き、としか 答えようがないからだ。 それでもあえて、 では、どんなところが「より」好きなのか、と 問われたら、 わたしが挙げるのは 「ウィスカーパッド」と呼ばれる、ひげの付け根だ。
以前、猫の表情について 書いたことがあったが、 このウィスカーパッドのふくらみなどで 猫の表情の変化が分かることもある。 何かしら興奮状態にあるときに このウィスカーパッドが むくーっとふくらむのだが、 それがたまらなくかわいい。 ムッキの場合、 怒ったりおどろいたりした際に ふくら��でいたことが 多かったように思うが、 うれしいとかたのしい、といった気持ちのときにも ふくらんでいたのだろうか。 このウィスカーパッドという部位から フェロモンが発生するそうで、 猫たちが口元をさまざまな場所に すりつけているとき、 そのフェロモンをつけてまわっているのだそうだ。 ムッキが我が家にやってきて 避妊するまでの1年の間に 一度だけあった発情期には、 いつもとは違う鳴き声で くねくねしては、 わたしの足に このフェロモンをつけていたことになる。 また、避妊後 発情期でないときにも、 家具などあちこちに 口元をすりつけていた。 この行動は、あいさつや 自身の居場所の確認のため、とも いわれている。 どなたがおっしゃっていたか 思い出せないのだが、 その行為を「祝福を与えている」と 表現されていて、 なるほど!と思ったものだ。 残念?なことに わたしは ムッキ以外の猫たちには 「祝福を与えて」もらったことが ほとんどない。 しかし、 今ふりかえってみると 20年ほども ムッキの祝福を盛大に与えられて きたからこそ、なのかもしれない。 毎日抱きかかえては 大好きだ大好きだと言い、 ムッキの身体が 見えなくなった今でさえ こうして面影を追っているけれど、 ムッキからの祝福を ずっと受けていたことに ちゃんと気づけていなかったのでは なかろうか。 そう思うと、 長い時間いっしょに過ごしても 伝わりきらないこともあり、 しかしそれでも ムッキが気持ちを 表し続けてくれていたかもしれない、と思うと 自身の身勝手さが 何とも申し訳なく、また ムッキのことを改めて とてもいとおしく、 本当に良い出逢いをしたのだな、と思う。 あの、すりっ、とやる仕草や 感触を思い出して さびしくも懐かしく感じる、晩秋の夜である。
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SNSなどで さまざまな猫たちの姿を 拝見しては、 目を細めて ひとり静かに喜んでいるこの頃。 猫たちがそれぞれに 箱の中に入って、満足気にしている姿が 少なくない。 その箱の大きさも さまざまである。 すっぽりと猫の身体が 隠れてしまうものから、 どうやったって はみ出てしまうでしょう?と 言いたくなるような ちいさなものまで。 同居人が猫のために購入した おもちゃには目もくれず、 そのおもちゃが梱包されてきた 段ボールに夢中、というようなこともある。 ムッキも例にもれず、紙袋と同じくらい 箱に入ることを好む猫だった。 前述のように、メロンの箱で 眠っていたこともあるし、 段ボールがあれば まずはにおいを嗅いで、 問題がないようなら 入ってみなければ気が済まない。 最初はこちらも 驚いたりおもしろがったりしていたが、 だんだん慣れてくると おや、居心地はどうだい?などと たずねる始末。 ムッキの場合 身体の2/3が隠れるくらいの、 そして 身体の幅がぴったりな箱に入って 香箱をかき、 わたしが近くに来ると 何かを訴えるような表情で わたしを見上げる、ということを 時々やっていた。 わたしはそれを 捨て猫ごっこ、と呼んでいて、 そうなった際には ムッキを抱き上げて 赤子をあやすように可愛がり、 するとムッキは喉を鳴らす…ということが しばらく繰り返されるのだった。 酒類や大きなペットボトル飲料の 段ボールに入ることもあった。 画像のように、側面に 持ち手の穴があいているようなタイプは かくれんぼの気分が盛り上がるのだろうか。 おや、誰かいるぞ、と 穴をのぞこうとすると 猫パンチが繰り出される、ということもあった。 自身の身体より ちいさな箱に入ろうとすることは あまりなかったように思うが、 慎重に確認しながら 足だけを入れてみる、ということは たまにしていた。 たいていは ちょっと入ってみた、というような表情で しばしその中にいて、 おおむね満足そうにも見えた。 猫の好奇心によるところなのだろうか。 ひょっとすると トイレと間違えてしまう危険もあったため 箱はなるべく放置しないようにしていたけれど、 こと段ボールに関しては 最初にウチにやってきたときのこともあり、 ムッキにとっては 安心できるアイテムだったのかもしれない。 メロンの箱は、 未だに物置の窓際に残っている。 今でもときおり、 ムッキがその中に丸まって うとうとしているような気がしてならないのだ。
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猫と暮らした経験のある人と 話していると、 猫の嗜好が 実にさまざまであることに 驚く。 それは食べものにおいても そうだし、 猫じゃらしなどのおもちゃや 行動においても、 例えば Aさんの猫はこれが好きだけど Bさんの猫は嫌がるね、といったようなことがある。 一頭一頭の こだわりのようなものが ちゃんとあるように思うのだ。 袋との向き合い方も、そのひとつではなかろうか。 知人の家の猫が スーパーマーケットのレジ袋の カサカサいう音が苦手だ、と聞いて、 ムッキは好きなのに、猫によって ずいぶん違うんだな、と思ったものだった。 また別の人の猫は 好むレジ袋の色が決まっているのだとか。 ムッキの場合、 レジ袋は 口を開いて そのあたりに置いておくと、 中の匂いを嗅いだり 大きいものなら 中に入ってみたり。 丸めておくと、 ボールのようにして 前脚を使って転がして遊ぶこともあった。 より気に入っていたのが、 紙袋だった。 じぶんがすっぽりと入って 隠れられるような大きさの紙袋が とても好きで、 袋が立ててあると ひょい、と飛び込むようにして 中に入ってすまし顔で座っていたし、 横に倒して��ると ズザザーっ!と勢いよく スライディングするようにして入り、 中で香箱をかいてくつろぐことが多かった。 さらには 横に倒してある袋の前を わたしが通り過ぎる瞬間に 前脚でわたしの足をつかまえて びっくりさせる、という 遊びに発展することもあった。 そうしてさんざん盛り上がったあげく、 持ち手部分がどういうわけか 首にかかったり、たすきがけになったりして、 スーパーマンのマントのように 袋が身体にまとわりついて 困る、という顛末に こちらは吹きだしたものだ。 この他、トートバッグや バックパックにも よく入っていた。 ムッキが入った状態で バッグを持ち上げると 一瞬「どこかへ連れていかれるのか」といったような 不安そうな表情をするのが かわいかった。 その後、バックパックは 中で粗相をされてしまう、なんてことも 起こったけれど。 ムッキは傾向として 何かしらに囲まれたり 包まれたりしているのが 好きだった、ということだろうか。 箱や鍋など、仕切られた中に 入るのが好きな猫は 多いような印象があるが、 ムッキはそういう選択肢の中でも 袋状のものを好んだようだ。 ムッキにとって 安全な状態であることが 大前提ではあるが 身近にある、人間の道具と ムッキの行動の関係は 他にもいろいろ おもしろいものがあったように思う。
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もうどのくらい前になるだろうか。 夏のある日。 イベントのロケハンに 同行してもらった知人と 猫の話題になった。 聞けば、ムッキとよく似た キジトラの猫と暮らしているという。 ぜひムッキに お目にかかりたい、というので ウチに上がってもらうことに。 以前からここで書いているとおり、 ムッキはかなりの人見知りだった。 知らない人が3人以上 階下にいる場合、よっぽどでないと 2階から降りてこない。 1人、2人の場合でも 人による、といったところ。 わたしが 2階でムッキを抱きかかえて降りてきても、 腕から速攻で飛び降りて 会うか会わないかというほどに 猛ダッシュで2階に戻る、ということが よくあった。 そんなわけで ムッキは「幻の猫」と呼ばれていたわけだが、 ちょうどそのときは 昼下がりの、少しムッキが うとうとしているような時で、 相手は 体格のしっかりした大男だけれど ひとりだし…どうだろう、などと 思いながら、 ムッキを連れて降りたのだった。 いつもなら 相手を見るやいなや わたしの腕に猫キックをかまして 逃げるところだが、 この日は違った。 相手の方が一枚上だったのだ。 知人は そのしっかりしたおおきな手で ムッキが逃げる姿勢を取る前に 「かわいいねー!」と ムッキを抱え込んでしまったのだ! わたしとしては ムッキが爪を立てたり噛んだりして 知人が怪我をしないか 心配していたのだけれど、 それどころか ムッキは完全に 固まってしまったのだ! かなわないと思ったのか、 はたまた 何が起こっているのか 分からなかったのか…。 目をおおきく見開いて されるがままのムッキ。 さすがに 一緒に暮らしていても 見たことのない姿で、驚いた。 後にも先にも そのような状態のムッキを見るのは そのときだけだったが、 あまりの驚きに 動けなくなる、というのは 本当に起こることで また猫にも人にも 共通しているのかもしれない。 当時は少し滑稽にも 思えて つい笑ってしまっていたが、 昼寝から起こされての その状態は ムッキには さすがに申し訳なかったな、と 今でも思い出しては反省している。
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ムッキは 取り込んだ洗濯物や 取り換えたばかりのシーツが たいそう好きな猫だった。 取り込んですぐの 洗濯物の上に よいしょ、と言わんばかりに 乗ることも時折あったが、 たいていは わたしがたたんで重ねた 洗濯物に、 なぜか上半身というか前脚を 乗せてくつろぐことが多かった。 洗濯物を重ねて 少し高さがあるときでも 前脚を乗せようとする。 上半身に限る、というのが ムッキなりの こだわりだったのだろうか。 古い携帯に残っていた動画では、 洗濯物に乗っているムッキに さらに たたまれた洗濯物が重ねられていくのだけれど、 降り落とすこともせず むしろムルムルと 喉まで鳴らしている。 そういえば、 そのまま眠ってしまうこともあった。 お日さまの匂いや、 冬場などは 乾燥機から出してすぐの 洗濯物に残るぬくもりが 心地よかったのかもしれない。 シーツを取り換えるときは 新しいシーツの下に潜り込み、 マットレスとシーツのあいだに はさまって、 モゴモゴと動くのがたのしかったようだ。 呼んでもいないのに いそいそとやってきて マットレスの上に乗ってしまう。 おろそうとすると 割と本気で怒るので、 気が済むまで遊んでから シーツをかける。 すると今度は シーツの上に寝転ぶ、という具合。 さっと済ませたいときに このようなことが起こると 少々困るといえば困るけれど、 日常の些細なことの中にも ムッキがいたことで 思わず笑ってしまうような瞬間が いろいろあったのだな、と思う。 ここのところ、雨が続いていて 洗濯が一向にはかどらない。 除湿機を稼働させて なんとか乾かした洗濯物を たたみながら、 ムッキの背中の感触を 懐かしく思い出している。
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猫はマタタビを好む、と よく言われている。 マタタビの実や枝、また パウダーになったものなど さまざまな形状で 販売されているけれど、 その香りに 反応するかどうかは 猫による、ときいたことがある。 ムッキは、といえば マタタビはどの形状のものにも 一���の反応を示した。 中でも枝をカットしただけのものが お気に入りで、 寝っ転がって 長さ5cmほどの マタタビの棒切れを 前脚で持ち、 ふんふんと香りを嗅いだのち ひたすらに舐めて、 さらには マズルにこすりつけ…というのを うっとりしながら しばらくやっていた。 人間が お酒を飲んで 心地よくなるような感覚なのだろうか、と 思いながら いつもその様子を 興味深くながめたものだった。 人間がお酒に酔うのと 違うところは、 醒め方だろうか。 これも猫によって違うのかもしれないが ムッキの場合は 何かスイッチが切り替わるかのように 唐突にうっとり状態が終了するような感じで、 それはそれでまた なんとも滑稽だった。 キャットニップ、というハーブでも 同様のことが起こった。 こちらもムッキは大好きで 乾燥させたキャットニップを ガラス瓶に入れておいたところ、 それを延々と追いかけて 転がしている、ということもあった。 キャットニップ入りのおもちゃなどは よだれでぐっしょりになったものだ。 キャットニップは 鉢植えにして 玄関先で育てていたのだけれど、 ある朝 見知らぬ猫が 鉢の上にどっかりと寝そべって 恍惚とした表情をしていたこともあった。 キャットニップも 猫によって 反応するものもいれば まったく素知らぬ顔をしているものも いるらしい。 マタタビにせよ キャットニップにせよ、 猫たちがうっとりするのは どうしてなのだろう。 母親猫の何かを 想起させる香り、という説もあり、 それなら 反応に差があるのも まぁわからなくもない。 香りが似ているかどうか、 少なくともわたしには あまり似ているようには思えないのだけれど、 ムッキは ペパーミントの ハーブティーのティーバッグにも 同様の反応をしたので 驚いたことがあった。 ティーバッグの入っていたパッケージを 執拗に追いかけるので 隠さなければならないほどだった。 ここしばらくは 人間の世界でも 外出を控える傾向にあって、 実際に体験してみて ああ、ムッキは20年ほども こういう状態で過ごしていたのかしら、と思った。 わたし自身は さほどストレスは 感じていないつもりだったけれど、 それでも時折 外に出られないが故の 不都合も出てきて、 何かしら気持ちを和らげたり 切り替えたりするような要素の 必要性は感じたし、 ムッキにとっては それが マタタビや キャットニップだったのかな、とも思った。 虹の橋の向こう側では きっとのびのびと過ごせるだろうから いらなかったかもしれないが、 別れの際には いちばんよく抱えていた 手製のキャットニップのクッションを 棺桶に入れた。
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いつ頃からか ムッキがやってくる前から、 なんとなしに 猫は水に濡れるのが嫌いな生きものだ、と 思っていた。 しかし 猫と暮らすことになって 例えばトルコのヴァン猫のように 泳ぐものもあれば お風呂が好きな猫も存在する、と知るようになる。 湯を張った洗面器に入って 温泉よろしく 気持ちよさげにしている子猫や、 湯舟には入らないけれど 同居人と一緒に風呂場にいる猫など、 実にさまざまだ。 ムッキは、というと ここはわたしのイメージ通り、 水に濡れるのがたいそう嫌いな猫だった。 短毛だし、基本的には ずっと屋内にいるので、 シャンプーをしたのは 我が家にやってきて間もない まだノミがいたころに 数回だけ。 抱きかかえて風呂場に行き 扉を閉めてから シャンプーが終わるまで ひたすら、 扉の向こうに向かって 助けを求めて 大声で鳴き続ける。 まさに阿鼻叫喚、といったところ。 水に濡れるのもイヤなら ドライヤーの風もイヤなのだから、 ムッキにとって入浴、シャンプーは 多大なる苦痛の時間でしかない。 どんな猫なで声でちやほやされても ダメなものはダメなのだ。 不思議だったのは、 ムッキでなく わたしが入浴中にも 風呂場の扉の前で鳴き続けていたことだ。 あんまり鳴くので 風呂場に入ってくるのかと 扉を開けても 入ってこない。 それでは、と扉を閉めると また鳴く。 それが繰り返される。 とても落ち着いて入浴できない。 仕方がないので、扉越しに 声をかけながら入浴する、ということが続いた。 ながらく、このことは謎だったのだが SNSか何かで見かけたところによると 同じような経験をされている方が いらっしゃるようで、 どうやらこれは猫が 風呂場で濡れる人間を 心配しているらしい、ということだった。 ムッキもそのように 思っていたのかどうかはわからないけれど、 同居人が水に濡れて 大変な目にあっているかもしれないと 思っていたとすれば、 これはなんともかわいらしい。 それ以���、風呂場の扉の向こうで 呼び始めた際には 大丈夫だよ、と答えるようになった。 ムッキとの暮らしの こういったささやかな出来事を ふりかえるたびに、 ムッキの、あるいは 猫という生きものの 独特なやさしさと 絶妙な距離感に気づき それがない今、 たまらなく その存在が恋しくなるのである。
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ムッキの身体がなくなって、 2年と少し。 諸事情あって 新たな猫を迎えるつもりは 目下のところないのだが、 どういうわけか 猫たちが どこからか ときおりふらりと 庭に姿を現すようになった。 カラーも迷子札も ついていないところを見るに 野良か、半野良なのだろう。 5匹ほどが 入れ替わり立ち代わり、 庭にやってくる。 ただ通り過ぎるだけのときもあれば、 日当たりのよい場所で 小一時間の昼寝をしていくことも。 猫と暮らすことのしあわせを 知ってしまった身としては、 庭での(というかほとんど窓越しの) つかの間の邂逅は 少々もどかしいところがある。 悪天候の日などには どうしているだろうか、と気になることも。 しかし、彼らは ムッキとは 決定的に何かが違う、と 彼らの姿を見るたび、思ってしまうのだ。 もちろん、一頭一頭 キャラクターが異なるのは当然だし、 どちらが良いとか悪いとか、 どの猫が特別どうだ、ということではない。 また、子猫ではないので警戒してもいるだろう。 共通言語がない感じ、とでも言おうか。 こちらが「こんにちは」と声をかけても、 言葉が通じないので 「この人、何か言った���ど、なんだろう」という顔をされ、 状況によっては驚いて逃げる。 そんな独特の距離感が漂う。 そう思うと、 ムッキは子猫のときに 我が家にやってきたとはいえ、 ムッキなりに わたしとこの生活環境を 受け入れようとしていたのかもしれない。 また、その覚悟をしたのだろう。 ムッキがやってきた日に 同席した友人が ムッキのことをやさしい子だと言ったのは、 そういう意味だったのかもしれない。 そしてわたしもまた 同じように ムッキの一生を受け入れる覚悟をした。 猫と暮らしていく、ということは 愛おしいものとのかけがえのない時間であり それによって癒される、ということもあるのだろうが、 同時に、こちらの想像の斜め上を行く出来事が 起こったりもするわけで、 その一切を投げ出すことなく 最期まで相手を受け入れきる、という 愛の約束でもある。 愛、というとなにかキラキラしたような、あるいは ふんわりとしたような印象もあるかもしれないが、 それはその覚悟をする、ということでもあり さながら船の錨のように こころにしっかりとした重みをもって 刻まれるものでもあるのだ、と ムッキを看取った際に思った。 ひょんなことからとはいえ、ムッキは その約束を結べる相手であったということ、そして そういうご縁によるものだった、ということなのだろう。 ムッキにとってわたしは、 そのような存在であったろうか。 答えのない問いだとわかっていながらも、 薄曇りの四月の空を見上げて つい思ってしまうのだった。
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ムッキと暮らすようになってはじめて 猫という生きものの魅力に触れ、 猫との暮らしを しみじみ良いものだ、と思うようになった。 だから、というわけでもないのだろうけど 猫の模様の何か、であるとか 猫のかたちをした何か、といったものが ムッキが我が家にやってきてから 格段に増えたように思う。 プレ��ントでいただいたものも多いが、 自分で購入する際にも いつのまにか 猫柄を選んでしまっていたりする。 あるとき、雑貨店で ムッキによく似た 猫のマスコットに目が止まった。 体長5cm、キジトラで 目の色もムッキと同じ。 お尻がくいっと上がっていて 尻尾はピーン、と伸びて なかなかご機嫌よさそうな様子。 これはかわいい、と購入して帰宅。 ムッキに見せたら 何か反応するだろうか、と パッケージから取り出して見せたところ、 ムッキは意外な行動に出た。 まるで自分の子どもを可愛がるかのように そのマスコットの毛づくろいを始めたのだ。 前述のとおり、ムッキは 生後2か月で我が家にやってきて そのおよそ1年後には避妊手術をした。 母猫のエミリアと一緒に過ごしたのが2か月、 それからは基本的には室内で暮らし 他の猫との接触もなく、避妊、という流れで 過ごしてきたので、 当然ながら出産も育児も経験していない。 しかし、自分にそっくりのマスコットを見て 母猫のように毛づくろいをするというのは、 ムッキの母性が そうさせているのか、 はたまた 単に気に入っただけなのか。 とにかく あんまり熱心にグルーミングをするので マスコットの鼻のパーツが 早々に取れてしまい、 誤飲があってはいけない、と 隠しておくはめになった。 猫の形をしたものを見せるのは これが初めてではなかった。 ムッキと同じくらいの大きさの 猫用まくらには 敵意をむき出しにしたし、 ぽってりとした黒猫のぬいぐるみは まるで無視。 そういうことがあったため、 このマスコットに対しての ムッキの反応には とても驚いたのだった。 鼻がもげて 熱烈な毛づくろいで すっかり薄毛になってしまった マスコットは、 今はムッキのちいさな遺影を守っている。 相性の合わなかった猫用まくらは、 古いセーターでできた ムッキが最期を過ごした 猫ベッドの中。 どちらも 彼女との日々を 静かに思い出させてくれる、 大切な仲間たちである。
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動物と暮らす日々というと こころあたたまる、たのしい面も もちろんあるが、 驚いたり困ったり、ということも 当然それなりの頻度で また絶妙なタイミングで発生し、 言葉にならない思いをすることもある。 ムッキも そういったさまざまな ハプニングを起こした。 わたし自身は 正直なところ、 そういったハプニングの類を たのしめるタイプの人間ではないのだけれど、 ムッキのおかげで 多少はとっさのことに対するメンタルが 鍛えられたのではないか、と思うことがある。 また、 ムッキが起こした事象ではあっても 元をたどると わたしがいけなかった、ということも多く、 ムッキがちいさい頃には 一旦は叱ったものの、 あとでよくよく考えてみて、謝ることもあった。 そんな出来事のひとつを 寒い季節になると思い出す。 もともとわたしは 末端冷え性気味なのだが それまで 使い捨てカイロというものを 用いることがほとんどなく、 たまたまそのときは 仕事先でどなたかが 気を利かせて用意してくださったと思われる ちいさなカイロをひとつ、 ポケットにしのばせて帰宅したのだった。 いただいて それなりに時間も経っていて、 ぬくもりも もうさほど残っていない、そのカイロを わたしはどうもうっかり そのへんにポン、と置いたらしいのだ。 らしい、というのは あまりに無意識で、 カイロを置いたことすら 覚えていないから。 その部屋を離れて しばらくの後 戻って戸を開けると、 そこには カーペット一面の、 黒い、粉。 そして、 無残に 引き裂かれた、カイロが 放置されていた。 目撃したその瞬間というのは、 不思議なもので 声も出ない。 まず、目の前で 何が起こっているのかを 理解することから始めなければならない。 どうもこれは、 わたしが置いておいた使用済みのカイロを ムッキが裂いた上、 そのカイロが脚の爪にでもひっかかっていたのか ムッキが移動したところに カイロの中身がばらまかれた、ということのようだ。 となると、まず心配すべきは ムッキがこの粉を誤飲していないか、また 誤飲した際にはどうしたらよいか、だ。 当のムッキは、といえば 何事もなかったような顔で、そこに座っている。 わざとやった、ということでもなさそうだ。 猫を叱るときは 現行犯でないと意味がない、と 聞いていたので、 ここは叱ってもしょうがない。 というより、じぶんがいけないのだ。 しかし、 こういうことは やっ��はいけないのだ、と ムッキに伝える必要は��る…。 …などといったことが 一時に脳裏をよぎるのである。 結果、卒倒しそうになりながら ひとまず掃除機をかけて 黒い粉を撤去。 ムッキは以前少し触れたとおり 掃除機が嫌いなので、 バツ悪そうにその場を離れる。 その後、 カイロの内容物についてと 誤飲してしまった際の対処について 調べ、ムッキの様子を見ることに。 幸いそのときは 誤飲もなかったようで 事なきを得たものの、 こういった 気が気でない案件というのが 思いがけず発生するのだ、と 思い知らされた。 ムッキが不在となって2年の今日は カイロがいらないほどには暖かく、 外は やわらかな雨が降っている。 肝を冷やすような目には できるだけ遭いたくはないが、 これもまた ムッキとの暮らしあってこそだったのだな、と思うと 懐かしいような淋しいような、 独特の温度と空気が こころに静かにこみ上げてくるのである。
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猫の健康管理のことを思うと あまりふくよかすぎても いけないのかもしれないが、 それでもやはり ほどよくぽってりとした 猫の座り姿や まるまるとして眠るさまは 猫を愛する人間には たまらないものがあると思う。 特に冬毛の頃ともなれば ふっかり(ふっくら+しっかり)とした密度の 毛並みと体温が 膝上に乗ったり 添い寝などしてくれようものなら、 僕(しもべ)冥利につきる、と言ってしまうほどには わたしは猫たわけではある。 しかし、猫と暮らす人と話している際に 「ウチの猫はなかなか抱っこ��せてくれない」という声も 時折耳にする。 憶測でしかないけれど 猫にしてみれば、 人間と暮らしていなければ 「抱きあげられる」という状態が 発生することは ほとんどないのではないだろうか。 つまり、人間に抱きあげられる、ということは 彼らにとっては不自然で 気持ちの良いこととは言えないのかもしれない。 そう思えば 抱っこを拒絶する猫がいても おかしくはない。 ムッキがどうだったかというと、 正直なところ、よくわからない。 ただ、ムッキは 自分が抱きあげてもらいたいときに限っては 嫌がっていなかったように思う。 その理由としては、 寒いから、とか わたしが 彼女の好きな質感の服を 着ているから、ということが挙げられる。 もっと希望的な推測をするならば わたしに対しての好意を表明するため、とも 言えるかもしれないけれど… まあそれは 「そうだったらいいなぁ」ということにしておこう。 基本的には僕なので 抱きあげてほしいときには 抱きあげて当然、くらいの感じだったのではないか。 そのときの ムッキは、 まずは わたしの足元に来て じっと視線でアピールする。 わたしが気付くと、 次に前脚をわたしの膝にかけ、 一瞬、待つのである。 たいていはここで わたしが彼女の両前脚の下に 手を入れて 膝上に乗せるのだけれど、 そうしない場合には 自身で飛び乗ってくるのだった。 そして膝上を踏みかためるように ぐるぐる回って 座り位置を整え、やがて わたしの腹部に ドスっ、と体重を預けて座る。 座らない場合もあり、 そのときは 両前脚をわたしの左肩に乗せて 自分の腹部をわたしの胸部から腹部に当て、 やがてずり下がってくる、ということが多かった。 こうすると、ちょうどわたしの顔の横に ムッキの顔がくっつくような状態になる。 ここで、ムルムルと喉を鳴らすので おお、ご機嫌麗しいのですか、と思うと 頬を本気で咬んだりするので 判断に困ることもあった。 フリース素材の服を着ているときに 特に抱っこを所望されることが多く、 二人羽織のように 服の中に入れると、 襟元から顔を出したり わたしの腹部で丸くなって 喉を鳴らしたり。 少なくともわたしにとっては ムッキとの暮らしにおける 冬のささやかなたのしみだった。 この冬は ここ北陸にしては ちょっと心配になるほど 雪もなく、比較的あたたかい。 ムッキが好んだ 少し厚手のフリースの服が 登場することも 目下はなく、 違和感と淋しさが ぼんやりと漂っている。
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人間と共に暮らす猫たちの中には、 カラー(首輪)をしている猫が 少なくない。 たいていは いわゆるイエネコである、という 識別のためだろうと思う。 普段から外に出る場合は カラーをしていることで 同居人がいることが分かるし、 災害時など万が一の際に 同居人の元に帰るための 手がかりになったりもする。 迷子札などをつけていることもある。
また、 猫という生きものと暮らして 分かったことだが、 猫はじぶんの気配を消すのが とてもうまい。 なので、カラーに鈴をつけておけば どこにいるか分かって 安心する、ということも あるかもしれない。 …と、ここまで書いて、 やっぱり思うのだ、 「これは同居人側の都合だな」と。 ムッキが我が家にやってきて 1年ほどは、わたしも カラーはつけるものだ、つける方がいい、と思って さまざまなカラーを買ってきては ムッキにつけていた。 しかし、ムッキにすれば カラーを装着している状態は 首周りに何かしらが付着している、という 認識だったのかもしれない。 後脚で掻いて ぼろぼろにしてしまうことが多かった。 また、冬毛になると 身体が全体的にもっふりとするので 首周りが苦しそうに見えることもあり、 それでは、とカラーをゆるめると、 どうしてそうなるのか分からないが 前脚のどちらかが カラーの中に入ってしまい 窮屈なたすき掛けのようになって 悲痛な声をあげる、ということも起こった。 皮や布など、素材を変えてみたり まぁとにかくいろいろ試してみたが、 ムッキにとっては どれも違和感でしかなかったのだろう。 「これを嫌がったら、 カラーはやめよう」と用意したのは、 今までのものより幾分幅が細く、 比較的軽い、コットンのカラー。 少しくすんだ、大人っぽいピンク色の生地に 水色の星の模様がちりばめられていた。 違和感が少ないように 考えて選んだつもりだったが、 やはり後脚の爪で 外側の生地はやがて破れてしまい、 さらには 舐めたり咬んだりして 涎でぐしょぐしょになってしまったのだった。 かくして、 ムッキにはカラーは 装着させないことになった。 外に出さないことにしていたので 大丈夫だろう、と 思っていたのだが それが意外�� そうでもなかった。 気配を消されてしまう問題、である。 ムッキのような毛の色の場合、 似たような色の壁や 濃い目の色の木製の家具のそばで じっと気配を消されると 意外にこちらが気付かず、 家の内外を人間が おろおろと捜索する、ということが起きた。 (以後この状態は 置き物ごっこ、と呼ぶようになった) ある時などは 炊飯器(今はもう使っていないが)の後ろで 暖をとってうとうとしているムッキに 誰ひとり気が付かず、 その日我が家に集まっていた人間がみな、 真剣な表情で ムッキを探す、ということもあった。 どこに行ってしまったのだろう、と 深夜の台所で ひとりになって途方に暮れているところに よく寝た!と言わんばかりに 炊飯器の後ろから登場したムッキを見たときは、 もうなんともいえない気分で こちらはすっかりふぬけてしまったのだった。 姿がなくなって もうじき2年になろうとしているけれど ある意味 気配を消しているのと変わらず 本当はそのへんにいて、 遺影に話しかけるわたしを 「そっちじゃないのになぁ」というような眼で 見ているのかもしれない。 不在の淋しさがまぎれるのなら、 そんな考え方も悪くないかも、と 苦笑いする歳の瀬である。
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動物が楽器を鳴らしたり 音楽にあわせて 歌うように吠えたり鳴いたりするのを 時折ウェブ上で 見かけることがある。 人間が 音楽を聴いて 気分が高揚したり 落ち着いたり、といったことは あるけれど、 動物たちにも そういった感覚が あるのだろうか、と 動画などを観るたびに思う。 ムッキが 音楽を好きだったかどうかは 正直なところ、分からない。 わたしが歌の練��をしていると ふらりとやって来て、 膝に乗りたがったり、ということは 度々あったが、それは 歌を聴くため、というより 単に相手をしてほしかったから、なのではないか。 読もうとしている新聞の上や PCの画面の前に 座り込んだり、というような アレに似たようなこと。 椅子の上で 静かに聴いているようなことも 時々あったが、 それも 聴いている、というよりは 「監督している」という雰囲気だった。 (この「監督行為」については、今後書こうと思っている) 記憶に残っているのは、 ギターやブズーキとティン・ホイッスルなど いわゆるケルティックのユニットの アルバムを聴いていたときと、 マリのバンドの音源を聴いていたときのことだ。 前者のときは スピーカーに向かって座り、 最初から最後まで じっと聴き入る。 他のアーティストの音源では 途中で飽きて どこかへ行ってしまったり、ということが たいていだったので、 様子を見ていて ちょっと意外だった。 後者は、特定の曲の ギターの音に反応する、というものだった。 その曲の、ギターのフレーズが 何か動物の鳴き声のように聴こえたのだろうか、 そのパートになると スピーカーに向かって鳴く、ということがあった。 確かに、コール&レスポンスが 特徴的なバンドではあったけれど…。 ムッキにとっての音楽とは、 どのようなものだったのだろう。 そして、どんな音楽であれば 心地よかったのだろうか。 晩年のある日、わたしが マザーグースの「オレンジとレモン」を ICレコーダーに口ずさんで記録していたら、 さながら一緒に歌うかのように鳴きはじめ、 喉をムルムルと鳴らしていたことがあったが、 今思えば あれは唯一のセッション、 音楽の共有だったのかもしれない。 番組のジングルとしても使用している この時の音源は、 かたちのない、そして かけがえのない宝物のひとつになっている。
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普段から わたしたちの周りには さまざまな音が あふれているわけだけれど、 わたしたちの聴覚でもって どれだけ認識しているものだろうか。 静かだと言っても 意外と 遠くを走る車の音や 人の話し声、 風の音から虫の鳴く声、 部屋の中においても 何かしら電動のものから発せられる ささやかな音まで、 意外にいろいろとあるものだ。 わたしの場合は 仕事柄、 ほぼ無音の場を経験することもあるので ���ういった いわゆる環境音が「ある」ことは 認識している。 静か、と言えるレベルかどうか、は その時々のシチュエーションや 自身の状態で異なる。 環境音があることで 安心することもあるし、 逆に 一定の音が気になってしまう、という場合もあり 一概に言えるわけではないけれど、 聴覚は一般的な人と 大きくは変わらないのではないかと思う。 これが 猫の聴覚なら、どうなのだろうか。 人より敏感な猫の耳には わたしたちが静かだと認識する音環境でも、 相当にやかましかったのではないだろうか、と 想像するのだ。 ムッキには はっきりと嫌がる音が いくつかあった。 それは 人にとっても 幾分耳障りだろうと思うものもあれば、 「これが?」というものも。 ひとつは 泡立て器の音。 ステンレスのボウルと 泡立て器が 卵白やクリームを混ぜる際に出る あのカチャカチャした音。 台所であの音が発生すると、 ムッキは耳を少しぺたんこにして 不機嫌そうに台所から ゆっくり出て行くのだった。 それに気がついてからは 事前に 「カチャカチャ、しますよ」と 一声かけるようになった。 他には 掃除機の音。 これは相当に嫌いだったようで、 スイッチを入れない状態でも 掃除機を見ただけで 猛ダッシュで二階に避難。 ときには 置いてある掃除機に 猫パンチをするほどに苦手だった。 こういったものは 人の耳においても 静か、とは言えない部類の音だろうし、 それでも まあ、仕方ない、という部分もあるかと思う。 猛ダッシュ、とまではいかないけれど ムッキがそっと後ずさりして 二階に逃げた ちょっと意外な音は、 アコーディオンの蛇腹の音。 わたしの手元にあるアコーディオンは どちらかというと小ぶりではあるのだが、 古くて多少空気が漏れるとはいえ それなりの音量は出る。 その音自体も ムッキにとっては大きくて 嫌だったのだろうけれど、 それ以前に 蛇腹に空気が入る際の シューッ、という音をとても嫌がった。 猫が威嚇するときに「シャーッ!」という あれに似ていたのだろうか。 おそらく 猫それぞれに 音の好みなどもあるのかもしれないし、 耳のかたちなどによって 何かしら聴き取るものの 違いもあるのかもしれない。 いつかわたしが 自分の時間を終えて 向こう岸に渡り、 ムッキと再会��きて 猫のことばが分かるようであれば、 蛇腹の音の謎について ムッキにたずねてみたいと思う。
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