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ゲームのリアリティ
あいかわらず、ここ最近は鉄道模型についてインターネットで調べたり、実際にいくつかの部品や車両を買ってみたりしている。いろいろと鉄道模型のファンの人たちのブログなどを読んでいると、鉄道模型の世界は、人それぞれのコンセプトというか、楽しみ方の方向性があることがわかってくる。たんに現実の風景をリアルに再現するというだけではなく、なるべく小型の車両と配線で極小のレイアウトを組むことに苦心したり、製作者が子供だったころの昭和の風景を再現したりなど。また、実車にとらわれずにオリジナルの設定の車両を制作している人もいる。このあたりは、作品を作ることとも似ていて、陸上競技のように、ひとつの尺度で結果が評価されることのない多様性があることに遊びというか、救いがある。いろいろと調べていくと、「鉄道模型シミュレーター」というパソコン用のソフトウェアを見つけた。これは、ゲームのようにコンピューター内で自由にレイアウトを作成し、その上に3DCGで精密にモデリングされた列車を走らせることができるシミュレーターだ。「鉄道模型シミュレーター」というだけあって、実際の鉄道模型のようにモジュール化されたレールなどを配���してレイアウトを制作していくようなのだ。しかし、結局コンピューター上で3DCGによって再現されているのだから、もはや「鉄道模型シミュレーター」ではなく、「鉄道シミュレーター」でよいのではという気にもなるが、そうした一種の倒錯や遠回りが楽しいのだ。
鉄道を運転することのリアルさを、そうした倒錯や遠回りとは逆のアプローチで表現したゲームに「Train Simulator(のちにRailfanと改名)」がある。これは、先ほどの「鉄道模型シミュレーター」のようにリアルタイムにレンダリングされる3DCGではなく、実際の鉄道車両の運転席からの実写映像を使用したゲームとなっている。ゲーム自体は、目的駅まで時刻表通り正確に運転し、各駅に停車させていくという内容だ。映像は、運転席に設置したカメラで撮影されているが、実際に営業中の車両ではなく、それぞれの停車駅を通過する回送列車で撮影が行なわれているようだ。プレーヤーは、コントローラーを操作し、まさにリアルな運転席からの映像を見ながら運転を楽しむことができる。しかし、それがリアルタイムの3DCGではなく、過去に撮影された実写映像だからこそ生まれてしまう興味深い問題がある。それは、駅に停車する時に映像が静止してしまうということだ。
停車駅を通過する回送列車で撮影しているので、駅に停車するためにプレーヤーが減速操作をすると、その映像自体のフレームレートも低下してくことになる。駅のホームを歩いている旅客や、線路の脇の道路を走行している自動車なども徐々に減速してスローモーションになっていく。そして、駅に停車した瞬間、その世界のすべてが静止してしまうのだ。そう、運転中の没入感やリアリティが、駅に停車した瞬間、どこかへ行ってしまうのだ。(しかし、再び駅を発車して速度を上げていくと、元の没入感やリアリティはまた回復してくる。)
このゲームは、あらかじめ運転席から撮影された映像を用いているが、プレーヤーがコントローラーを操作して、車両の速度の調整をするということは、実際にはこの映像の再生速度を調整する操作となっている。つまり、システムとしては、「目的駅まで時刻表通り正確に各駅に停車していく」ゲームではなく、「目的の位置まで正確に映像を再生、停止させる」ゲームなのだということに気づかされる。
この、駅に停車した瞬間の、「リアリティの裂け目」ともいえる現象は、実写映像という映像記録メディアと、ゲームというリアルタイムでインタラクティブなメディアの折り合いのつかなさによって引き起こされたものだが、同時にそれは互いのメディアの特性を明らかにする奇跡的な事例の一つだと思う。
実際に僕はこの「Train Simulator」での現象の問題を参考にして「Jump from」という作品を作ったことがあるが、いまでも時々、この駅に停車した瞬間の問題を反芻して考え直している。
※下記の動画で、33:30ごろ、神田駅に到着した瞬間、隣のホームに停車している電車の車掌や乗客が静止してしまう。
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2017.2.9
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模型と縮尺
この年末年始に、ふと鉄道模型に手を出してしまった。とはいっても、線路と電気機関車を1両買っただけで、まだ走らせるために必要なものがそろっていない。なのでただ眺めて楽しんでいる。やはり、鉄道模型の醍醐味は、線路の上をゆったりと走る姿をうっとりと眺めることなので、はやく線路の上を走らせてみたいのだけれども、このあたりは懐とも相談しなければならない。とはいえ、いろいろと構成を悩みながら少しずつ部品を買い集めていくのも、やはり楽しい。
子供の頃にみた、メルクリンというドイツの鉄道模型メーカーの広告の事をよく覚えている(※)。Zゲージと呼ばれる1/220の極小の規格の模型が、紙面の真中に実物大の写真で載っていた。ちいさな3両ほどの貨物列車だった。その精巧さと、日本では見かけないようなカラフルで可愛らしい車両に強く惹かれ、母にねだった事を覚えている。子供のおもちゃにしてはだいぶ高価だったので、結局そのメルクリンのZゲージを手に入れることは叶わなかった。
でも、その時のことをずっと覚えていて、いつか鉄道模型を始めようと思っていたわけではない。ただただふと興味が湧いて車両と線路を買ってしまったのだ。でも、いざ始めてみると、こうした昔の出来事を思い出してしまう。結局、メルクリンのZゲージは今も昔も高価なので、僕が買い始めたのは、日本製のNゲージだった。
どの車両を最初に購入すべきかを、だいぶ長い時間をかけ、いろいろとネットの動画やレビューを参考に選んでいたのだけれど、実際に手元に届いた小さな車両を目の前にすると、その精巧さと、華奢さに驚かされた。Nゲージは、1/150の縮尺なので、とうぜん実際の車両の細部を完全には再現できない。それでもなんとか実物に近づけようと、極薄のパーツでパンタグラフや手すりなどが表現されている。実物の鉄道車両、特に僕が買ったような電気機関車を、駅などで間近で見ると、まるで襲いかかってくるように重厚で無骨な存在感を強烈に押し付けてくる。けれど、その車両の造形を忠実に1/150で再現した結果、本来の重厚さと同時に、それがミニチュアであるがゆえの繊細さ、華奢さの感触が立ち上がってきている。
つまり、ここには何か素材性のようなものがあるのではないか。本物の鉄道車両と模型では、存在を構成する要素としての「素材」(金属とプラスチック)が違うという意味での素材性ではなく、縮尺の違いという概念的で、目に見えない違い(それは���体をともなって初めて目に見える)が、素材性を生み出しているということだ。例えば、絵の具で描かれたリンゴの絵の中には、赤い絵の具の集合しか存在しないにもかかわらず、そこにリンゴの像を見ることができる。このような素材とイメージの2重の知覚がイリュージョンだとして、そのイリュージョンの基底となるものが素材性だ。そして、このイリュージョンが、この鉄道模型においても同様に起きている。しかし、それは素材の違いよりもむしろ、単なる縮尺の違いがまず前提となっているのではないか。
いや、むしろ、縮尺の違いによってそうした素材性の違いが生み出されるのは、結局のところそれを見る「わたし」の身体の存在と、その相対的な大きさというものがマテリアルとして逆に明らかにされているのではとも思う。縮尺を変えることができるオブジェクトと、縮尺を変えることができない「わたし」の身体との差が、そうした素材性を生み出しているのだ。��とするならば、忠実に再現された1/150の電気機関車を見て、そこに本来の車両が持つの重厚さと、極小の模型が持つ華奢さの2重の質感を感じ取るとき、それを見る「わたし」は1/1の身体を持ちながら、1/150のまなざしを持つ、2重の縮尺を生きる存在として捉えることもできる。つまり、縮尺を媒介として、見る主体を2重化する構造が、こうした模型やミニチュアの持つ素材性にはあるように思える。
※メルクリン製品は日本では個人輸入でしか手に入らないので、おそらくメルクリンの専門店の広告だったのだと思う。
2017.1.26
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ゲームの中の風景
ここ1年ほど、Unityという3Dゲームの制作環境を用いて作品を作っていたので、その表現の参考にするために、最近発売されたビデオゲームをいくつかプレイしていた。特に、グラフィックが綺麗で、広大な3D空間を自由に歩きまわれるオープンワールドと呼ばれるシステムのゲームを選んでプレイした。はじめにプレイしたのは、「Fallout 4」だ。核戦争後の崩壊した世界を冒険し、生き別れた息子を探すというストーリーだ。未来的なガジェットと、1960年代のアメリカ風のレトロな雰囲気が入り混じる、どこかレトロフューチャー的な世界になっている。細かい内容はともかく、まずは広大なマップの全てを、自由に散策できることに素直に感動した。それに、雨が降ったり、靄がかかってぼんやりとして見える遠くの街並みなど、刻一刻と変化していく風景にも驚かされた。また、受動的にその映像を見ているのではなく、実際にコントローラーを握って、その世界を散策しているのだから、その風景の中に実際に自分がいるのだと錯覚できてしまう。ある時、山の斜面の、鬱蒼とした林の中を通りぬけ、山の頂上に到着したところであたりの風景を見渡していると、妻が「この風景をみながら俳句の一つでも詠めそうだね」と言った。確かに、そんな風に作られた俳句があってもいいのだろうと思えた。実際にこのゲームを購入する前から、その映像自体はYoutubeで何度か見ていたのだけれど、自分の手でコントローラーを握って経験することがなければ、俳句を読んでも良いだろうと自然に思えるような、確からしさは得られなかっただろうと思う。
その次にプレイしたのは、「龍が如く 極」だ。歌舞伎町をモデルにした「神室町」という街を舞台に、ヤクザの抗争などを描いたゲームだ。「Fallout 4」に比べると、舞台が日本のせいもあってか、よりゲームの中に登場する日常の些細な風景��親近感を持つことができた。主な舞台となる「神室町」という街は、実際の歌舞伎町に道の構造や、建物がかなり似ていて、歩き回っていると、架空の街にの中にいるというよりは、ほとんど歌舞伎町の中にいるような感覚になる。というのも、ゲームを始めたばかりのころに神室町の中を歩いていたとき、実際の歌舞伎町を訪れた時の記憶を元に歩いていたからだ。だから、いつも神室町一番街の入り口を出て右方向を見ると、数年前に僕がなんども通っていた西武新宿駅の事を思い出す。逆に、ゲームをプレイしていたころに歌舞伎町の一角を通ったときには、「あ、この辺りは龍が如くで歩いたな」とデジャブ(?)を感じたことすらあった。
特に最近、この年末年始は「龍が如く」シリーズの最新作にあたる「龍が如く 6」をプレイしていた。基本的には「龍が如く 極」からより精細な映像になっていて、神室町の表現も、細部の情報量がぐっと増していた。けれど、一番驚いたのは、ゲームの中盤頃、神室町から広島へ行くことになって、「尾道仁涯町」という街の中を歩いた時だ。結局のところ、神室町を歩いていても、モデルとなった歌舞伎町がそうであるように、そこはどこか日常の生活から切り離されたテーマパークのように感じる部分があった。けれど、尾道市をモデルにした尾道仁涯町は、寂れた田舎の街並みを再現していて、アーケードのある商店街や、瓦屋根の家、地元の常連しかいかないような小さなスナックなど、どれもそこに実際に人が住んでいて、生活しているのだと感じさせる密度を持っていて、最初にこの風景をモニターの中で見た時、一瞬、目眩に近いものを感じた。この尾道仁涯町は、僕が住んでいる場所とは、物理的にはかなり隔たったところにあるのだけれども、その一瞬の間、自分が住むこの場所と尾道仁涯町が、ほとんど地続きのように感じられたのだ。
「龍が如く 6」では、主人公が持っているスマートフォンで写真を撮ることができる機能が新たに追加されている。これは、ゲーム本編のストーリーの中で使われる必須の機能ではなくて、SNSなどでゲームの画面を共有するための機能なのだが、それが単なるスクリーンショットではなくて、主人公が持っているスマートフォンのカメラ機能としているところがうまい演出だなと感じる。だから当然、主人公の「自撮り」もできるようになっている。「Fallout 4」の風景を見て、俳句を詠むことが出来ると思えるのだから、当然「龍が如く 6」の中で「写真」を撮ることもごく自然なことのように思えた。なので、最近はゲームの中の世界を散歩しながら、写真を撮ることを始めてみた。いざやってみると、実際にカメラを手に持って撮影するよりも制限があつが、気分にまかせて、気の向いた時に少しずつ撮ってはtumblrにアップしてみている。
ところで、「龍が如く 6」では、ごく単純なAIで自動的に動いている街の通行人やモブのキャラクター達もスマートフォンを持っていて、ときどきそれを取り出して風景を撮影している姿を見かける。もちろん、それは実際に写真を撮っているわけではなくて、写真を撮るという動作を、アルゴリズムに基づいて実行して見せているだけだ。しかし、もし彼らが本当に写真を撮影していて、その撮った写真を見ることができたとして、そこに何が映っているのだろうか、というのが少し気になってきている。(妻が最近プレイしているファイナルファンタジーXVでは、旅を共にするキャラクターが自動で定期的に写真を撮影していて、それをプレイヤーが選別してアルバムに保存していく機能がある。それを後から見れば、確かに旅の思い出を思い返すことのできる立派な写真集になっているのだ。そういうものに近いのかもしれない。)
2017.1.6
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3Dスキャンの質感 時制について
初めて3Dスキャンを使ったのは、「日々の記録」という作品だ。日常の中の、些細でどうでもいいような風景を日々3Dスキャンで記録していった。それ以降、度々3Dスキャンを作品の中で使うようになった。この2016年も「私のようなもの/見ることについて」という作品で、僕自身の姿を3Dスキャンして作った、3Dのアヴァターをゲームのような空間の中で歩きまわらせていた。3Dスキャンは、被写体を立体のデータとして記録する、一種の記録メディアだ。しかし、イメージを記録するメディアである写真や映像といった他の手法と比べると、3Dスキャンにはもっと独特で妙な質感を感じている。たぶんそれが、ここ数年ずっと3Dスキャンを使っている理由の一つなのだと思う。
3Dスキャンの質感について考える時、まずそれが記録メディアであるという前提がとても重要に思える。3Dスキャンに限らず、記録メディアに記録されたものは、過去の出来事に基づくものであり、それを再生/表示する時、見えているものの中には"過去に誰かが記録したものしか存在しえない"という特徴がある。ごく当たり前のことではあるが、現実の世界がそのように存在していないことと比べれば、これを基本的な特徴として挙げることができる。
また、記録メディアが(再生時から見て)過去の出来事を記録するとき、どのように時間を切り取っているかという"時制"の問題も、それぞれの記録手法の違いから捉えることが出来る。写真は、ごく短い時間の範囲の出来事を記録し、静止した画像として再生/表示する。映像は一定の速度で流れる時間を記録し、基本的にはそれを等速で再生/表示することになる。3Dスキャンは、被写体をさまざまな角度から撮影した複数の画像やデータをもとに���3Dモデルを生成して記録する。そして、3Dソフト���操作画面などで3Dモデルを見る時、まるで3Dデータを実際に手で持って眺めているかのように、移動や回転などの操作をしながら鑑賞することになる。この時、3Dモデルは操作に応じてリアルタイムにレンダリングされる。つまり、3Dスキャンでは、被写体を撮影した複数のデータの時間的な連続や前後関係は意味を持たず、離散的になっていて、それが再生/表示時に逐次必要に応じて並び変え、構成され、目の前にレンダリング(現前)される。
「リアルタイム」とは、コンピューターの処理の結果が即時に出力されたり、その結果が逐次出力されることで、現実の時間の流れと同期することだが、 3Dスキャンされたデータを見る時に生まれる独特の質感は、この時制の問題に関係している。過去に撮影されたデータに基づいていて、過去に誰かが記録したものしか存在しないにもかかわらず、それがリアルタイムに逐次構成され、まるで今、私が現実の空間で物をながめるかのようにふるまう、妙な時制の感覚。それは、映像や写真のように時間の流れが絶対的な前提としてあって、その中にオブジェクトが存在しているのではなく、離散的な過去の時間やまなざしが、オブジェクトの形態にそって変形し、張り付いているようなモデルなのだと思う。
2016.12.29
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