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砕けた
バスに乗る瞬間にはじめて定期券を家に忘れてきたことに気づいた。すぐに整理券を抜きとったつもりだったが、そのわずかな数秒が煩わしかったのか、後ろに並んでいた女の人は俺を押しのけて前方の座席に座った。
俺は一番後ろの席の端に座る。普段ならそこには、座らない。定期券を忘れたことへの妙な頼りなさのようなものがそうさせるのかもしれない。バスは発車する。バス停を一つ、二つと通過していく。誰も乗ってこない。車内は暖房で異様にあたたかく、静かで、時間の流れがまるでなかった。身体がすこし、だるい。プールで泳いだあとのときのような。
前の方の席に座っていた女の人がどうや���降りるようで、降車ボタンを押した。車内の降車ボタンがすべて点灯し、へんに明るく、アナウンスがゆがんで響いた。女の人は走行中にもかかわらず慎重に立ち上がる。せっかちなのだろうか。だから俺にも苛立ったのかもしれない。女の人はこちらを一瞥した。けれど彼女の顔は靄がかかったようにぼやけ、表情が読みとることができなかった。それでも俺のことを責め立てているように感じとれる。「どうして乗っているの」。身体はあいかわらずだるく、酔っぱらったような感覚で、それでも頭のなかでぼやけた街に街灯がつくように、ひとつひとつ何かがおかしい、ということを知らせてしていく。「どうして乗っているの」。張りつめた緊張感のなか手のひらでふやけていたはずの整理券は、気づけば砕けた骨になっていた。
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偶然
あまり行ったことのない街、でも一回くらいは行ったことのある街、その街にしかないちいさな映画館に行って、その街にしかない古びた雑居ビルに入っている喫茶店に行って、行かなければ行かないで日常に支障のないようなできごとをいくつかこなして、帰りの電車に乗るために待っているプラットホームで、すごく寒いその場で、人もまばらで。俺は立ちつくしている。ずっと止まっている。プラットホームから見える七階建てほどのマンション。午後四時。俺はこれから何を得て何を失っていくんだろう。都会にはずいぶん行っていない。都会にいたときの気持ちをもう思い出せない。チャニョルの髪はすごく短くなっていた。それを俺はSNSで知った。よく似合っていて、知り合ったころのようで、だからあまりにもまぶしすぎた。SNSのアカウントは昨日、消してしまった。電車がホームに入ってくる。春になったら、俺は遠くに引っ越しをする。新しいその部��からは海が見える。
ディオとチャニョル
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こはく色
--いらっしゃいませ〜
「あ、きた」
「お疲れ〜、もう先に、ちょこちょこ、頼んでる」
「お疲れ、あれ?ギョンスは?」
「なんか今日用事できたから、来られなくなったって」
「そうなんだ」
「用事って彼女だろ?そう言えばいいのに、用事とかわざわざにごして言うようなところが逆にやらしいんだよ、あいつは」
「言ったら言ったでお前がごちゃごちゃ聞くからだろ」
「俺のせいかよ」
「だって聞くだろ?」
「聞く」
「ああ!バント下手すぎるだろ!なんでバント下手なのにやらせんの!?ベンチは素人か!?」
「おっ、何?テレビ中継やってんの?ジョンデ監督ぅ〜、今どんな感じですか?」
「負けてる」
「やっぱりか」
「まだ大丈夫だから、今年は後半戦から輝き出す予定だから」
「輝き出すの遅いだろ」
「なんでもいいけどお前なんか頼めば」
「あ、うん。…すんませーん!えっと、生ひとつと、広東麺と」
「っだぁ!おっまえ、ばっか!」
「え、うるさ、何」
「チャニョルありがとうございまーす、あ、すいません注文追加で生もうひとつ」
「チャニョルが最初に何頼むかでビール一杯賭けてたの〜。お前いつもまず焼飯だろ!」
「もうすでに展開されてる机の上のラインナップ的に麺頼んだ俺の優しさだから!」
小籠包、酢豚、春巻き、甘酢海老、焼飯、広東麺、上海蟹、と長い夜--
「ジョンデ今日この後どうすんの」
「ベクんち泊まる」
「じゃあ俺もー」
「お前が来るとせまいわ」
「あれじゃん、ベク、ストレンジャー・シングスの新シーズン配信始まってんよ」
「まじか〜」
「俺はアニメが見たーい」
「泊まるやつの希望は聞きませーん」
「どさくさに紛れて俺の生一杯忘れたふりするなよ〜」
「お会計お願いしまーす」
--ありがとうございました〜
「あぁっ、さむっ」
「お前んち行く前にコンビニ寄っていこ〜」
「あ、ちょ、待って俺チャリ」
「チャニョルお前チャリかよ」
「ほっそいフレームのチャリはやく持ってこいよ」
「待ってて!」
「なー、ギョンスんちの方角ってどっちだっけ?あっちだよな」
「ん?なんで?」
「あっちの方からギョンスのため息が聞こえた気がした」
琥珀色の街、上海蟹の朝/くるり
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春風
傘、どこに忘れたっけな。
会社かなバスの中かな。あの子の家かあいつんちかな、もしかしたらあの人の家かな。
でもいいや。
ちょっとくらい濡れるのも。俺は嫌いじゃないよ。
いつもパジャマのまんまでもとからデフォルトのボサボサの俺の頭をさらにぐしゃぐしゃに撫でて「ボサボサだ」と笑っていたあなたの顔を、もう忘れそうなんです。俺は忘れっぽいので。
びっくりするかもしれないけど、俺はもうスーツなんかを着ていたりします。あんまり好きじゃないんだけどね。でも、あなたに見せて、また、頭をぐしゃぐしゃに撫でて「似合ってる」と言ってほしいな。
春のかすんだ空気の中に、どこかへ向かう新幹線を見つけた。びゅんとどこかに向かう新幹線のはしる線路の先の先の先のずっと遠くにあなたはいる。
春風/くるり
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まあるい涙
「起きた?」
「…うん…。ん?」
「はは、起きてないね」
「ごめん」
「いーよ、今日休み?」
「うん」
「今日たぶんはやく帰ってこれるから」
「うん」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
結婚するのかなぁと思う。それで、思って、そのあとあまりにも自分の考えが他人事なので、どうしたもんかなと途方に暮れる。どうしたもんかなぁ。
朝の地下鉄を待つ人はみんなひとつの線みたい。みんなおんなじに見える。構内に吹き抜ける生ぬるい風じゃ、誰も起こしてあげることはできない。
「あれ、ギョンス?」
「えっチャニョル…」
なんでもないみたいに話しかけてるけど全然なんでもないことなんてなくて、線の中のひとつの点に俺はたやすく気づいてしまう。久しぶりに会ったギョンスは俺の知ってるギョンスとなんにも変わってないように見えてなにもかもちがう。たとえば左指のそれとか。
「久しぶりじゃん」
「そうだね」
「会社、この���?」
「いや、違うんだけど、最近この辺に引っ越してきて」
「そうなんだ」
「チャニョル、この辺だったんだ」
「や、会社はここから結構遠いんだけど、彼女がこの辺に住んでて。あ、一緒に住んでるんだけど」
「へぇ」
聞かれてもないことを、べらべら喋ってしまうのは、俺だけがお前のちがいに気づいているのはフェアじゃないと思ったから。知ってほしいと思った。知ったうえでおんなじ気持ちになってほしいと思った。これは俺とお前とお前の知らない誰かと俺の知らない誰か、知っている土地と知らない部屋で起こっている話なんだ。地下鉄は走ってく。
「じゃあ俺ここで降りるから」
「うん」
「また飯行こ」
「うん、じゃあな」
俺がむかし泣いていたときお前はあんまりにも俺の涙がまあるい涙してるからって、漫画みたいって笑ったよな。それ、この前彼女にも言われた。そんなにまんまるの涙とぼとぼ流して泣く人はじめて見たって笑われた。彼女、すげぇいい奴なんだわ。だから、また、は、きっともうないな。それでいいんだ。
言葉はさんかく こころは四角/くるり
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踊るための砂
やけにこの箱は動くなぁと思ったらどうやら俺たちは電車の中に乗っているようででも乗客がひとりもいなければ車掌もいないようだったから、まぁ、恥ずかしくないかなってこういうときしかできないし。柄にもなく手なんか繋いじゃって。「隣に座ってもいい?」「調子に乗るな」だそうなので、正面に座って我慢します。窓の外は全部夜でいわゆる満天の星のなかで一筋また一筋と星が落ちて、あぁこれって流れ星か。「うまれる瞬間」とギョンスが言ってまばたきをする度に星がひょろりひょろりと垂れてぱちぱちと続けてすると一斉に流星群みたいになるから、ギョンスお前、いつからそんなにすごい力もらえたんだよ。だから「忘れるなよ」なんて言う言葉なんかぜってぇ聞こえないふりしてやるし俺はギョンスの手のひらを爪が食い込むくらい強く握りしめた。
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灯火
これはまぁ夢だから日課って言うのはおかしいだろうけど、でも眠ったらとにかく眠りの先で橋に行かなくちゃいけないことになっていて、ギョンスが音楽を聴きたがるから、俺は自分の持っているCDから��つもカセットテープに録音を施して小型のラジカセにセットして���元に置いて寝るようには、一応してる。
そうすると俺は気づけば橋の片端に立っていて、だいたいいつもモスグリーンのダッフルコートを着ている。ギョンスはいつもぶあついラクダ色のタートルネックのセーターを着ている。
橋はだいたい百メートルくらいで取り立てて変わったところなんてないしありきたりな橋だけど、あえて言うならいつも暗くてとにかく暗くて深夜だからというのもそりゃあるけど俺もギョンスも闇のなかからするりと橋へ出てくるかたち。橋の片側つまり俺が渡ってくる方はマンションとかコンビニエンスストアとかガソリンスタンドとかがあって街の中にあたりまえのように溶け込んでいる橋なのに、ギョンスがやって来る片側の橋の入り口の向こうは橋の上よりももっと真っ暗で、ただぽつりぽつりと等間隔で電灯が立ち並んでいるくらいで建物なんて全然見えないというのに、ギョンスは大きな釣り竿を抱えてやってくる。どこから来るのと尋ねてみたのは出会って確かさん回目くらいのときで、それでもそのとき「お前のところとは違うところ」といった具合の返事しか返ってこなかったのでもうそれ以降その質問はしなかった。
釣り竿は本当に長くてこれそもそも魚を釣るものじゃないよなぁっていうのは一目瞭然だし、強いて言うなら五メートルくらいはありそうなその竿をよいしょよいしょと持ち上げて橋の上から下に向かって糸を投げる。ふつう橋の下って川だけどあまりにもここは暗いからたぶん川じゃないし俺らって一体なんのためになにを釣り上げようとしてるのか全然わかんなくて、でもまぁギョンスが言うなら。俺はやるけど。
「何かかけてよ」
と、この日もギョンスが言うので俺はあらかじめ録音してきたニックドレイクの『ピンク・ムーン』を流した。静かな橋の上でニックドレイクの憂いげな歌声が浮かび漂った。
「いい音楽だね」
「CD、貸そうか」
「いいよ別に。借りておいても返せる保証がどこにもないから」
「別に返さなくてもいいけど」
「ありがとう、でもあまりそういうの好きじゃないんだ俺は」
俺たちはそれから黙って橋の下のまっくらやみの中を見つめ続けながら虫もいなければ人もいない夜の闇の空気を肺にいっぱい取り込んで吸って吐いてそうしているうちに喉が渇いたから、ギョンスが持ってきたポットに入ったコーヒーを飲んで、俺の持ってきた煙草を2人で吸ったりした。寂しくなかった、ちっとも。むしろどんどん研ぎ澄まされていて俺は夜に光ってそしていつか消える。この夢も俺もギョンスも。
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安堵
「邪魔だからどいて」
やけに声がくぐもっているなと思えば振り返るとマスクをして立っていてそれから、あぁ邪魔かぁと思ってヨイショと立ち上がった。2段くらい上にいるギョンスと必然的に目があって、俺らの間の階段2段ぶんってすごく近くてでもたぶんすごく遠い。
「何しに来たの」
「わかんないからさぁ、ここでぼんやりしてたんじゃん」
「わからないことないくせに」
「そうかもしれない」
「こんなこと最初からわかっていたはずだよな、お前とあいつは一緒にいると良くないんだと思うよ俺はそう思う」
早口にまくし立てるとギョンスは階段をこつんこつんと降りていく。マスクしているからか感情が全然乗っかってないように思えたけど、ギョンスの場合激情型でもないしわかりにくいけどもしかしてこれってちょっと怒ってたりすんのかなぁ。
「でも俺お前から奪った子だから簡単に別れないよ」
無知で無垢なふりしてお前に触れようと触れたいと思うことに対して許してほしいけど、お前はどんどん歩いて行って背中はどんどん小さくなってそうやって振り返ってもくれないんだな。
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言わぬ波
「俺もう今日は帰るわ、金曜ロードショー見てぇから」
「何やるの」
「なんだったっけな」
「なんだそれ」
俺はうすくてまっずいコーヒーを一気に飲み干すと席を立ったわけだけれど向かいに座るギョンスはあいかわらず窓の外をじっとりと見続けている。答えをくれないんだな。答えなんかくれなくていい。明日の予報は雨で、俺たちはきっと途方に暮れる。洗濯物は行き場をなくしバスは遅れてそうして遅れた人々はしめった鞄を大事そうに抱えるのだ。暮れた先にあるものは。
週末なので店内は混み合っていて、それでみんな当たり前のように明日があることを知っている。子どもはじゅうじゅうと音を立てて運ばれてくる熱々のチーズインハンバーグに手を叩き、男は浮かれてビールを飲んで女子学生はドリンクバーに利口に並ぶ。明日はくる。そんなのみんな知っている。
ファミレスを出て見上げた夜の空に星なんてものは一つも見えなくて、まぁ明日が雨っていうのもあるけどここは都会で見上げて見えるものなんて煌々と光るファミレスの看板くらいだから。
先ほどまで自分が座っていた窓際のテーブル席に目をやるとギョンスはいなくなっていて、それどころかもうすでに若い高��生のカップルが席に着くところだった。スマートフォンの画面を見やる。やっぱり今日は木曜日である。
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鵜呑み
「おい」
「あい」
「なに泣いてんの」
「いや」
チャニョルは俺の隣でまぁ一体どこで泣いてんだかさっぱりわからないけど、大粒の涙を流していて、俺の差し出したハンカチで目元をごしごしとふくと、それでそのまま思いっきり鼻をかんだ。きったねぇ。
「ここ出たら」
「うん」
「ラーメンでも行くか」
「いいねぇ」
「奢ってやるからよ」
本当は俺は肺が詰まって腐りそうだ。下らないことなので放っておいて欲しいけど、詰め寄って問いただしても欲しい。まだ、俺には引きずり出してほしいものがずっと残ってる。チャニョルは席を立つとスマートフォンのマナーモードの設定をすぐさま解除して、それから明るすぎるくらいの天井を見上げて大きな伸びを一つした。
「なんかでも、結局よくわかんねえ映画だったな」
たとえば俺そういう一言で傷ついたりするんだ。勝手だけど。
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プラットホーム
客のいなくなった電車の中を、ひとつひとつ、座席や荷物の上を確認しながら歩いていく。四両目に差し掛かったところで、同じように向こう側からやってくる相手が見えた。そのまま車両の真ん中までは、くまなく確認していく。ここまでは自分の範囲なのだ。
「忘れ物あった?」
「無かったー!あ、でも、二両目の窓が一個割れてた」
「そうか…修理に出さないといけないな」
お互いに報告をしあって、そうして並んで電車から降りる。まだ微かに暖かさを残していた車内にさよならをした瞬間に夜風を感じた。少し寒かった。運転手に合図を送ると、すべてのドアが閉まって電車が動きだし、加速を始める。やがてホームをすべり出ていく電車を、見えなくなるまで、ふたりは並んで見詰めていた。電車がいってしまって、がらんどうになったホームを、そしてふたりも去っていく。今はただ、真っ暗な夜が駅を支配していた。
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虫がいる
羽音
あれは虫なのかそれともシミなのかわからないまま、ぼうっとベッドに横たわって天井に近い壁にあるただ一つの黒点を、じっと見続けている。
動いていないと言われれば動いていないし、動いていると言われれば動いている。わかんなくなってきたし正直どっちでもいい。
喉が渇いた気がする。
今一体何時なんだろう。
中途半端にかぶった毛布から飛びだした足先はとても冷たくて、でも動きたくなくて一ミリも動きたくなくて、どんどんどんどん足先は冷えていく。
カーテンの隙間から白んだ空が見える。わからない。朝なのか夜なのかなんだろうこのあいまいな時間って。どっちなんだろう心臓がぐちゃぐちゃしてくるし、はぁ、喉が渇いた。時間を確かめるつもりで手にした時計をとっさに抱えているぐちゃぐちゃと一緒にぶつけたくてもうどうしようもなくて壁にむかって投げつける。
ガシャンッ
大きな音を立てて時計が、床に落ちて、蓋が外れて電池が転がって時計本体の文字盤は下向きになっていて結局時間は確かめれない。あーあ。
ふと、顔を上げると壁にあるシミがなくなっていることに気づく。あ、やっぱり生きてたのかぁ虫だったのか。
そろそろほんとうに喉も渇いて渇いてどういうわけか渇いてしょうがないのでベッドから起き上がると、壊れた時計が転がっている向こうに冷蔵庫で半分くらい隠れてしまっているけど人が、倒れている。女の人。白い女の足が見える。
俺は時計を拾い上げる、よく見たら欠けた部品のようなものも転がっていて、そっかぁ壊れちゃった?壊れたものはだいたい捨てる。部屋が静かであんまりにも静かだから、羽音が聞こえる、気がしてくる。羽音が。さっきの。
ところで一体今何時なのだろう。
/
からだだけの蜂
蜘蛛の糸におおきな蜂がひっかかっている。頭はなくなっていて、からだの部分だけ。
蜘蛛は、いない。
まわりは全部ビルばっかりで、この公園は取り残されてしまったくぼんだどうしようもない空間で
ベンチでずっと眠っている生きてるのだか死んでるのだかわからないホームレスと、平日の昼間なのになんでいるのかわからない小学生くらいの姉妹が砂場で遊んでいて、俺は
今すぐにでも隕石が落ちてきて、このどうしようもない公園以外すべてのビルがぶっ壊れて、これっぽちも知りもしないホームレスと姉妹と俺だけ残って生きていけたらいいのにと、ほんとうにほんの一瞬だけ、考える。
巣にかかったからだだけの蜂が、風で揺れている。
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蟻
さっき落として靴のうらで踏み潰した飴玉に群がる蟻を、煙草を吸いながら見る。
俺は「愛してる」とだけ打ってそのまんまにしていたメッセージ���ことを思いだして、画面をあかるくして送信をすばやく押す。
もう一度蟻に目をやるとせわしなく黒いかたまりとなって飴に覆いかぶさるそいつらに「愛してる」と告げて、俺はまた煙草を吸った。
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路頭には
「ギョンスくんおはよう」
「あ、おはよう」
「これ借りてたDVD返すね、長い間借りちゃっててごめんね」
「別にいいよ」
「私レポートが全然終わってなくてね自業自得なんだけど。ほんとはもっとはやくDVD見たかったのに後回しになっちゃって」
「大変だったね、それでこの映画はどうだった?」
「うん、おもしろかったよ。ギョンスくんが好きそうだなぁって思った」
「そっか…
いやそっかなわけあるか。
それはつまりギョンスくんが好きそうだなぁって思った、イコールやっぱり私が思ってた通りギョンスくんってちょっと流行とはちがうディープな映画を知ってるしかっこいい、この人と一緒に映画行ってみたいしもしよければ別のDVDも貸して欲しいなむしろぜひ私ギョンスくんの家に行ってもいいかな一緒に映画鑑賞しない?というポジティブな意味なのかそれとも、ギョンスくんが好きそうだなぁって思ったよというのは遠回しにまぁ私は好きじゃなかったんだけどね、この映画暗いしおすすめの映画のDVD貸してって言ってこんなマニアックなもの貸してくるとか正直どう反応したらいいかわかんないけど、おんなじ場所でバイトしている以上気まずくなりたくないからとりあえず傷つけないように無難な言葉選んで気づかれない程度の否定しとくか、というネガティブな意味なの?ちょっとどっちつかずすぎて困る」
「今日も忙しそうだけど頑張ろうね」
「そうだね」
なんてまぁ言えるわけないんだけど、そもそも会話作りにDVD貸そうと決めてから三週間かかってんだぞこっちはなのに今の会話ものの三十秒とか。
群像
シウミンは夜にすべり台をすべると、3日前の記憶が抜け落ちたり15日先に起こることがぽつぽつ浮かんできたりするので気をつけているのにどうしてもすべりたくなってしまうから、夜は公園の前をいきおいよく走り抜ける。今日は公園の前にひんやりした尻尾を持った猫がいた気がしたけどなにせ走り抜けるのでもしかしたら気のせいかもしれない。
遠��え
今俺は車に乗って高速道路を走っているよもう少しで夜が明ける。お前は今どの角度から夜を見ているだろうか俺にはわからないけれど眠っていると嬉しい。さっきまで車の中で音楽を流していたんだけど今はとめてる。静かなハイウェイ。反対側で上り方面のすれ違う車は一定の間隔をきざんでなにかの譜面。さようなら。俺は軽くなる。どこかの家のベランダにある愛らしい観葉植物と今夜はシチューにしようかな。俺はまだお前の部屋の鍵を持っている。
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来世
たいていのものというのは少ないに越したことはないのでものが多いと部屋があふれて流されてしまわないか不安になる。
だからすぐに手放してしまう手放すことはとても簡単だ。物干し竿とかだいだい色のスウェット、電気毛布、ティーカップ、コンバースのスニーカー。そういうものはなくても困らないものばかりだから実際なくて困ってはいないのだけど、こうして日曜日の昼間に歩いているときとかに物干し竿とかコンバースとか電気毛布とかのことを思い出して無性に恋しくなる。俺は歩くのが好きだ。
だからチャニョルの部屋に着いたときにチャニョルがだいだい色のスウェットを着ていたりするのでおかしくって俺たちはキャラメルの箱くらいの大きさの世界で生きてる。
「それどうしたの」「どれ?」「着てるやつ」「メルカリで買った」
チャニョルの部屋は用心深く入らないと部屋が流されそうなのでものすごく丁寧に靴を脱がなければならないし、俺の履き潰したコンバースは水星人あたりが今頃履いているかもしれない。
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獣
夜の道を歩いていたら坂道を下ったしたのところに白くて大きな犬がいるのでこんな時間に犬がいるのかと思って近くまで行ってみると獣だった。さらさらの真っ白い毛がびっしりと生えた獣がうずくまっているので何をしているのですかと声をかけると「恋人の指輪を落としてしまいました」と言うのでかわいそうになって一緒に探してやることにした。獣は「目がひとつなので助かります」と言ってアスファルトを這いつくばった。俺も一緒に這いつくばった。夜は獣にも人間にもみんな等しい。
給水塔
「火曜日の美術館と水曜日の図書館だったら正しいのはどっち?」とセフンが尋ねた。「水曜日の図書館」ジョンインが答えた。「先にきえてしまうのはテニスコートと給水塔、どっち?」セフンは尋ねた。「テニスコート」とジョンインはまた答えた。「内側と外側だったら明日行くべきなのは?」「内側」「西で生まれる犬と星からおっこちてきた赤ちゃんだったらどちらを引き取るべき?」「犬」「三月のビルと遠くの国のけむりで切ないのは?」「けむり」
もうすっかり自分たち以外の人間がこの世界にいなくなってしまったので彼らはベンチに座ってこころゆくまで夜の遠足をあじわった。
波
夜の二時がやってきたとき俺は風呂からあがってビールのプルタブをあけたところで、二時はいつもどかどか足音大きく部屋に入ってくるので俺はぎょっとしてしまう。「部屋が魚くさい、魚でも食ったか」「どうしてビールを一本しか冷やしていないんだ、親からどういう教育を受けてきたんだ」などと二時らしい悪態を散々ついていたけどいつものことなので俺はそれを無視してよく冷えたビールをじっくり時間をかけて飲んだ。
本を三十ページほど読んだ頃に夜の三時がそろりとやってきて「あの、この前映画館でみるのを逃した映画が、今テレビでやっていますよ」ともじもじ教えてくれた。俺はありがとうと伝えテレビをつけてみるとそれは確かに見逃した映画だったけれど、別に見れないなら見れないでなんの支障もない映画だったしすでに話が半分終わっていたので、なにがなんだかさっぱりわからなかった。ただ三時の面子を保つために俺たちはならんでその映画を最後まで見た。
半分朝の四時が部屋に来たとき俺は何もしていなかった。四時も特に何もしないし何も言わない。ふたりで時計の秒針を聞きながら目をつむっていたら泥が押し寄せそうになって寸でのところで四時が助けてくれた。四時は俺の手をとってふとんに連れていくと眠るようにと告げた。だからこの日は五時には会えずじまいで終わる。
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