Tumgik
mmmnv · 6 years
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黄木あじみの愛と狂気・前篇
プリパラの黄木あじみというキャラは、芸術に因んだ語尾を使いまくる特異な言語使用と、発達障害を過激にしたような異様な振る舞いで狂気に定評があるのですが、その内面についてはあまり顧みられることないと思います。実はそこにこそ狂気が潜んでいるのですが、これまで私が考えてきたことをざっとまとめようと思います。
※以下プリパラ二期及び三期のネタバレを含みます。なおあじみの語尾にまみれたセリフは独特で読解困難性が高まるので、引用に際しては普通の日本語に変更します。
この人物は、突発的で奇矯な行動で周囲をかき乱す一方で、本人には全く悪意はなく(少なくとも作中を見る限りでは)純粋な善意の持ち主であり、主人公たちの味方でもあるというトリックスター的なポジションです。
黄木あじみの行動のうち、物語上で一番重要なのは、紫京院ひびきという年下の少女に対するストーカー行為です。
あじみはひびきのことを「くるくるちゃん」と勝手に付けたあだ名で呼び、人間嫌いであじみのことは恐れてすらいる彼女に対して一方的に、それこそ出合うたびに、「お友達になりましょう!」といって友情を迫り、逃げる相手を全力で追いかけまわします。
その様は幾分かコミカルに描かれるのですが、あじみの全力の好意に対してひびきが見せる態度は徹底的な拒絶であり、「デレ」の欠片もありません。冷静に考えてみればあじみの行為は狂気の沙汰としか言いようがなく、異常な熱意です。この病的な執着はどこから来ているのか?
プリパラ83話「ペルサイユのくるくるちゃんダヴィンチ!」では、10年前の出来事としてあじみとひびきの過去が語られます。
ひびきは富裕な家の生まれであり、あじみはその立派な庭に忍び込んでは無断でフルーツを拝借するという生活を送っていました。ひびきは幼い頃は友人も多い活発な性格だったのですが、ある出来事を機に周囲の人々に手酷く裏切られて何も信じられなくなり引きこもってしまう。
これがひびきの人間不信の始まりですが、その一部始終を覗き見していた目撃していたあじみは涙を流してある決意をします。曰く「このままじゃこの子はダメになる。これはもう私がくるくるちゃんの友達になるしかない。そう思った」。
そう、実はあじみがひびきと友達になりたいから友達になろうと言っているのではない。
ひびきのために、彼女を「ダメに」しないための方法が、自分が「くるくるちゃんの友達になるしかない」であるのだとあじみははっきり述べています。そしておどけながら登場して(なんとひびきにとってはこの時が初対面)相手を元気づけ、仲良くなろうと試みるのですが、特異な言語使用のせいで真意は伝わらず追い出されるだけに終わります。
しかしあじみの思いは非常に強固であり、謎の語尾と共に執拗に迫ってくるあじみに対してひびきは恐怖を覚えて逃げ出すのですが、いくら拒絶されてもあじみは諦めることなく完全なるストーカーと化します。ひびきはそれが元で語尾恐怖症になってしまいます。
結局あじみは逃げるくるくるちゃんを追いかけて各地を巡るも、途中で見失ってしまい長らく再会することはありませんでした。
そして10年後に出会った紫京院ひびきがかつての"くるくるちゃん"であり、彼女は人間不信を抱えたまま成長したということを知るや、電話をかけて「いろいろ大変だったみたいだったけど、力になるよ!」と言って彼女を再び"くるくるちゃん"と呼び、同じようにストーカー行為を再開し、それは物語の最後まで変わりません。
「ダメに」させない、力になりたい、相手を救いたい――これが黄木あじみが紫京院ひびきと友達になろうとする動機です。
黄木あじみは「自分が友達になることが相手を救うことになる」という信念に基づいて行動しているのです。本当にそう信じているからこそ、10年越しでも徹底的に拒絶されても決して態度を変えることがないのだと思われます。迷惑がられようと何だろうとすべては「相手のため」なのです。
さらに、物語の上でひびきを絶望から救って「友達」になれたのは一方的に愛を押し付けようとするあじみではなく、ひびきに裏切られながらも相手の心に寄り添うことを諦めなかった緑風ふわりというキャラクターでした。
ひびきとふわりは当初から「プリンスとプリンセス」として疑似的に恋人同士のようにも描かれ、最後には「お幸せに」と祝福される仲にまでなります。これに対してあじみはどう反応したのかというと、本当に何も描かれないのです。
二人の関係にあじみが言及することはなく、「友達ができて良かったね!」の一言もなければ、もうひびきの孤独は癒されたのだから自分が友達になる必要はないと思うこともなく、従来と同じようにどれほど拒絶されようとも迫り続ける。うすら寒いものすら感じますが、これも本人の言葉をそのまま受け取れば説明が付きます。 「これはもう"私が”くるくるちゃんの友達になる"しか"ない」。あじみの中では、あたかもひびきは自分にしか救えず他の手段はないと決まっているかのようです。
病的ともいえる考え方ですが、これに近い心理状態の人を指す言葉も実際にあります。俗にいうメサイアコンプレックスと呼ばれるものです。最後の段落の「自己満足であり、相手に必ずしも良い印象を与えず、結果が思い通りにならないと異常にそれにこだわる」という点は、まさに当てはまっているように見えます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
メサコンの人が他者を助けることにこだわるのは、隠れた自己肯定感の欠落を埋め合わせる手段として「他人を助けられる自分」という像を作り出そうとするからです。アニメ本編では彼女の内面が直接描写される機会は少なく、本当に黄木あじみがそのような傷ついた自尊心ゆえに行動しているのかはわかりません。
ただ83話の過去の描写では、あじみはひびきの屋敷にフルーツを盗みに入るというような生活をしており、その後もひびきを追いかけてかなり広範な範囲を移動していることから浮浪児のような不幸な存在だった疑惑はあります。しかしこれは疑惑でしかありません。
ですが彼女は他の場面でも率先して他人のために尽くそうとするキャラクターである描写は繰り返しなされます。彼女の職業である教師という立場も教導的な奉仕精神が要求されるものですし、場の空気を読むことに鈍感な割には困っている人に敏感で、いつも助けになろうとします。
※たとえば122話 「姉妹でかしこまっ!」では、妹との関係に悩む主人公に対して積極的にアドバイスをします。102話やアイパラ49話でも、いきなり登場して猪突猛進に危機に立ち向かう彼女の姿が見れます。
そして決定的なのはやはり紫京院ひびきが絡んだ87話「語尾の果て」回です。プリパラシステム上の異空間に落ち込んで存在自体が抹消されようとするという、このアニメが表現できる中で限りなく「死」と接近する場面の一つです。
ここでは命綱一本でひびきがあじみを含む二人の人間を支えますが、あじみはそれに対して迷わず「自分は大丈夫だから、みんなが落ちる前に私を離して」と要求します。まさにメシアのように自己犠牲的な振る舞いを、黄木あじみは躊躇うことなくしてみせるのです。
真に根底にあるのは何にせよ、すべては他人のためで、自分はいくらでも犠牲になるという態度がそこにはあります。
思えばあじみにも他人に「もういいよ」と拒絶されて一瞬悲しげな表情をする描写があり(64話「ハムとあじみ」)、あれほど好意を示しているひびきに全力で拒否されたら内心傷ついていても不再議ではないのですが、たとえそうだとしても「ひびきのために」と友達になろうとしているのなら決して引き下がれない。
ひびきという人間を「ダメに」したくないという想い、狂気だとしても他者に対する愛が、黄木あじみの原動力なのです。
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