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座談会 だれが真の名提督か VOL.4 司会 ほかに司令長官として、第4艦隊の井上成美(37)、これは珊瑚海の指揮官です。あとで海軍次官になられた。それから第11航空艦隊司令長官の草鹿任一。 小島 井上さんはぼくが海軍大学のときの教官でね、アメリカにはかなわないと、初めから正確に見ていた。だから日本の島を航空母艦に、と考えてアメリカ艦隊を近海に引っ張ってきて叩けという、軍令部の方針そのものだった。慎重なもんだよ。 松田 あのころは、海軍省と軍令部とさかんに喧嘩しよったが、井上成美という人は頭が良くて押しが強くて、口が上手くてね(笑)。 小島 井上さんにはぼくも叱られたんだよ、「お前、ドイツに行って親ナチになっちゃいかんぞ」って。(笑) 野元 井上さんは、うるさいから南方に島流しになったんだろうね。 黛 井上さんは、私が学生のとき奥さんが病気で、一番暇な配置の大学校に回されたらしいんだが、今まで駐在武官なんかやっていて(注 スイス、フランス、イタリア等)図上演習はしていないはずなのに、ずば抜けて教官ぶりは良かったね。さっき例に出した近藤さんなんてのは、ずば抜けておかしかった。井上さんは第4艦隊の長官のとき、ポート・モレスビーに行かずに引き揚げた。三ヶ月たって「秋津洲」の艦長でラバウルへ行ったんだが、モレスビーなど取っても、すぐ交通が遮断される趨勢だったから井上さんはそれを見越して進まなかったんじゃないかとその時思った。艦隊の長官ともなればGF長官が進めって言っても進むことはないんですよ。井上さんは先が見えてやらなかったんじゃないかと思うんです。 横山 はじめての海軍省副官時代、井上さんが軍務局長で、次の海軍省副官のときは次官だった。だから井上さんを非常によく知っている。頭が鋭くて、考える人だったね。海軍では、直感で判断する人を非常に尊重し、ものを考える人を、あいつは遅い、という癖があったが、井上さんは早く適切に考える人だった。これは非常に非凡なことだと思うんですけど、最近の研究によると彼は人に知られぬクリスチャンだったというんだよね。 司会 聖書なんかを見てましたね。 横山 どうも仙台あたりで青年時代に洗礼を受けたことがあるようだ。哲学も宗教も必要じゃないという海軍にあって、彼はそういう素養を身に付けておった。今にして思えば、これは非常に卓越したことだった。アメリカ海軍がなぜ強かったかということで大前研一さんは、キリスト教にそのカギがあるという結論を出してるんです。アメリカでは海軍でも陸軍でも兵隊は一冊ずつ聖書を持っている。困難な場合に遭ったらここを読め、こういう場合ならここを読め、ということをちゃんと指示したページがあるんだ。日本の海軍は精神教育をやり、精神棒で殴ったかもしらんけど、兵隊にこうやればよろしい、という指導を一つもしていない。オフィサー自身は宗教も哲学も何も持っていないままで人の上にたった。これは大変なちがいです。 (注 横山氏もクリスチャンである。) 小島 ドイツの前海軍大臣だったティルピッツも第一次大戦のあと、寺本武治少将(33)に、「ドイツの海軍士官に哲学的教育が不十��であった」と言っています。 司会 草鹿任一中将(37)については・・・ 横山 草鹿さんは、ぼくは戦後しかしらないんだ。戦争裁判で南東方面艦隊の事件を担当したアメリカのモンローという検事が非常に草鹿さんに心服して、「オールド、ジェントルマン」と言って彼のうちに何べんも出かけた。オールド、ジェントルマンのために事件を取り下げようと思うから資料を出せとぼくに言う。それで証拠を書いて出したら、Case is dismissed と言って取り下げた。これは草鹿さんの人徳のいたすところだと思うのです。 小島 人格者だったね。 司会 主要な指揮官では、ほかに宇垣纏(40)さんがいます。開戦時のGF参謀長、ついで第1戦隊司令官、第5航空艦隊司令長官で終戦のときに特攻機に乗り、沖縄に突っ込まれたという方です。 黛 私は昭和8年、9年に砲術学校の戦術科長だった。そのころは大正11年資料の命中率で海軍大学の兵棋演習が行われていた。私はそれを実際の命中率に直した改正案を作って軍令部に出した。当時、宇垣さんは海軍大学校の戦術科教官で、ぼくに砲術学校の戦術は戦術ではなく、算術にすぎないと言ったんです。私はへんなことを言う人だなと思っておった。宇垣さんは戦術をごく大雑把に考える人なんだろうと思う。残された日記の『戦藻禄』なんか見ると、勇ましく書いてあるが、数字的な基礎にもとづいての勇ましさじゃない。 司会 司令長官レベルで主だった人はお話にだいたい出ました。ここで第2水雷戦隊司令官の田中頼三中将(41)に話を移します。この方はルンガ沖夜戦で巡洋艦撃沈1、大破3という戦果を挙げました。陸軍部隊に糧食、弾薬を輸送する途中に起こった海戦ですけど、アメリカ側のモリソン戦史その他には、田中中将は非常に優秀な指揮官として出ています。 黛 私は、第11航空艦隊、第8艦隊、第8方面軍の兼務参謀としてガダルカナルに派遣された。そのとき話を聞いたんですが田中司令官は勇敢ではないと部下が言うんです。その一例として、ジャワ方面の作戦中、駆逐艦4隻を旗艦「神通」の直衛にして、輸送船には直衛をつけないということを部下が憶えている。永年水雷戦隊にいるから、その統率とか、訓練戦闘は上手だったろうと思いますよ。褒められるのは戦の結果で、部下の評判なんかは問題にされませんからね。アメリカ軍はその結果を見て、非常に勇敢な名将のように言うが、部下だった人はだれも名将とは思ってないんだ。部下から勇敢だと思われるぐらいの指揮官じゃないと、いかんのじゃないですかねえ。 小島 成功すれば褒められるのさ。 司会 今日ご出席の方の中で、松田さんが第4航空戦隊司令官をしていらっしゃる。シンガポールで航空戦艦「伊勢」「日向」に燃料を積み、ガソリンのない内地へ持ち帰るのに成功された。 松田 「北号作戦」という名前をつけたが、これは戦じゃない。油であれば何でもいいから、持てるだけ持って来いっていうんだよ。「伊勢」「日向」には格納庫の大きいのがある。そこにいっぱいドラム缶を積んだ。敵をやっつけるのが戦の価値だが、こんどは敵にやっつけられないことが戦の価値だと考えたね。向こうは「伊勢」「日向」その他が、何しに出てきたか分からなかったらしい。きっと突入してくるだろうと考えたようだ。私はその気持ちが良く分かるから、突入作戦をやるように進み、敵を欺いてついに無疵で呉に入った。 軍令部から喜ばれましたよ。富岡君(軍令部第1部長 45)がわざわざ呉に来てね、おかげさまで助かります、と言った。呉に入って「大和」の伊藤第2艦隊長官に挨拶に行ったら、油は全部おれのところへくれ、と言われた。そこであるだけ全部を「大和」に移した。「大和」はそれで沖縄特攻に出て行ってしまった。だから建艦を立案して「大和」を産み落としたんもおれだし、「大和」に末期の水をくれてやったのもおれだ、と私は言うんです。 小島 松田が主張して「大和」が生まれたんだな。 司会 「北号作戦」でお持ち帰りになった油は、今まで航空ガソリンだと思っていました。 松田 いや、航空ガソリンもありましたが、重油もある。終戦後、アメリカの第7艦隊の少佐参謀が「大和」のことを根掘り葉掘り訊きました。そのときこちらから「北号作戦」はどうだって訊いた。いや、あれはすっかりやられた、と言う。だから私は、この作戦は消極的な手柄だと思って自慢してるんですよ。 司会 最後に、太平洋戦争中に最も優れた海軍の指揮官はどなたであったか、1名挙げていただきたいと思います。 小島 ぼくは小沢さんの下だけにおったが、この人が早くGF長官になればしあわせだと思ったぐらいだった。 野元 私も小島君と同じ意見です。小沢さんは作戦の計画実施ともによかったし、人の統率という方面もよかった。小沢さんはマリアナ沖海戦は予期した戦果をあげ得なかった。しかしそれは小沢さんの罪ではない。技術および哲学、両方ともに日本はアメリカに比べ劣っていた。小沢さんの力量を発揮できなかったことは、非常にお気の毒であったと思うんです。 松田 指揮官については特に意見はないが、艦長については一つある。私が司令官のとき部下であった「伊勢」艦長の中瀬。 司会 中瀬泝少将(45)ですね。 松田 比島沖海戦で、小沢さんの旗艦の正規空母1隻、それから特設空母3隻、これがみんなやられた。敵は飛行機の余勢をかって全部「伊勢」攻撃に来た。112機とか記録にある。魚雷攻撃、急降下爆撃をしてくるが、中瀬艦長はうまい具合に避け、一発も当っていない。人格も統率���よし、戦も上手だし、操艦もうまい。その当時は爆撃回避なんていうことは卑怯だと思ってあまり考えてなかったんだな。 黛 そんなことないですよ。あなたの研究した本で、ぼくなんか一所懸命だった。 松田 私は標的艦「摂津」艦長を3ヶ月ばかりやった時戦争になった。そこで、今まで代々の艦長が残した記録に自分の考えを加えて『爆撃回避法』という本を書いて、教育局長に参考に提出したんだ。 黛 あなたが研究したのが、日本海軍唯一の本ですよ。 松田 あの本で、僕は爆撃回避の上手下手によって海戦の勝敗が決まるというようなことまで書いた。それから比島沖海戦まで3年たってるでしょう。皆がみなじゃなかったらしいけど、爆撃回避についての考えが非常に疎くなっている。敵機が爆撃に来たら、これはもうどうにもしようがないと思うようになった。それが比島沖海戦で栗田さんが逃げた原因なんだ。爆撃に来たら避けてしまえ、という自信があったら、どんどん進んで行きますよ。僕と同じ思��で中瀬艦長は奮戦した。 黛 レイテに行く前ですが、リンガ泊地における兵術研究会の論議を聞いて、「利根」の士官に、私は一等司令官として、宇垣纏中将、白石万隆中将(42)、早川幹夫少将の3人をあげたことがある。しかし海軍全体としていうと、第8艦隊司令長官の三川軍一中将ですね。その参謀長の大西新蔵少将(42)もえらかった。この二人とも水雷戦隊で潮をかぶって鍛え上げた人ではないが、にもかかわらず寄せ集めの艦隊(第8艦隊)を率いて、あれだけの戦果をあげたのです。しかも空船を沈めるとか、そういう欲張りをしないで、適当な時に引き揚げ、敵の航空母艦の翌朝の空襲を避けるように逃げた。これなんか本当に立派な指揮官だと私は思うんです。付け加えたいには、三川長官、大西参謀長ばかりでなくて、日本海軍の錬度が高かったことですね。 横山 ぼくが推奨するのは山口多聞(少将 40)。この人は偉かったと思うな。ミッドウェー海戦も彼の言うとおりやっとったら負けなかった。第二次攻撃隊を速やかに発進しておけば、急降下爆撃がいくら当ったって火災を起こさなかった。 小島 惜しい人を殺したんだよ。 横山 艦とともに艦長は殉ずる、という各級指揮官の考え方が悪いと思うんだ。艦長作り、司令官作りはたいへんな日時と金が要るんですよ。それを艦が沈没したらいっしょに死ぬなんて、そんな馬鹿なことはないと思うんだ。強靭性がなかったことが日本海軍の欠陥でした。
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座談会 だれが真の名提督か VOL.3 司会 次は栗田健男中将。(38) 小島 栗田さんはもういいよ。(笑) あの人は開戦時に第7戦隊司令官だったが、第一段作戦ですでに前に出ないんだよ。危険な局面を避けてばかりおる。そのときにもう評判が悪かった。 司会 バタビヤ沖海戦でしょう。 小島 そうです。敵と反対の方向へ航路をとっている。第7戦隊がどこに行ったのか、輸送船の護衛隊にも分からない。所在がわかるとずーっと後ろだ。全然関係ないところに居る。僕はあとで、第7戦隊の先任参謀に、いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部から、第7戦隊を大事にして下さいと言われたという。大事にして下さいと言われて後ろにいるやつがあるものか。ミッドウェー海戦でも重巡「最上」と「三隈」が衝突し、「最上」が微速前進が可能となると「三隈」に護衛を命じて、自分は健在な2艦を率いてさっさと敵空襲圏外に脱出している。そのあと「最上」「三隈」は空襲を受け悪戦苦闘する。僕のクラスの者が「最上」艦長をしていた(注 曽爾章大佐 44)。あのとき「最上」は沈まなかったけども「三隈」は沈んだ。栗田司令官は早く逃げ出しちゃって、どこへ行ったか行方をくらまし、聯合艦隊でも所在がつかめなかった。 野元 栗田さんについてはだいたい小島君の意見と同じだ。昭和13年 私が第3戦隊の先任参謀しておったとき、栗田さんが戦艦「金剛」艦長だった。その時の研究会で言われることが、生意気なようだが頼りない。いろいろ栗田さんを批判するのは気の毒なんだけども、海軍が実戦部隊の経験ばかり尊重するから、彼も教育する機会もなかったのがいけないのだな。 黛 私もまったく同感ですね。 野元 水雷戦隊で突っ走っているのを見て、頼りになるやつだと中央では考えたんだろう。それまで大した事故も起こさず無事に過ごしたからね。要するにね、海上経験豊富でわりに頭がしっかりした古村啓蔵(45 少将)みたいな男を、もう5、6年育てていったら最適任だったろう。栗田さんだって、ただ水雷戦隊で突っ走っているだけじゃ頭は出来やしないよ。レイテのときのことは、人聞きだから当ってるかどうか知らんけど、皆さんの意見を聞くと長官としての自主性がないんだよね。小沢さんとまったくちがう点だ。レイテ出撃の際のブルネイでの作戦会議では-話を読んだだけだから当ってるかどうか解らんが-他の司令官から、レイテの殴りこみだなんて海軍の堕落だとさかんに悪口言われている。そんなのをパッと抑える能力が栗田さんにはないんだよね。 黛 多少消極的だったことはあるでしょうが、「捷号作戦」の頃までは兵力を温存したいという気持ちが我々みんなにあった。山本大将は決戦は起こらないと考えちがいし、兵力を惜しまず無益な作戦をした。それでどんどん海上兵力が消耗した。一方、大艦隊の決戦はなくとも小部隊の決戦は起こる。その時のことを考えて兵力を温存するというのが我々の共通した信念だった。だからそれまでの作戦が消極的だったと責めるのは少し可哀想だと思う。栗田さんは第3戦隊司令官として、昭和17年10月、ルンガ飛行場を三式弾で砲撃した。あれは計画どおりで事故もなかった。レイテに出撃する時我々は、ブルネイで作戦命令をもらっています。当時の第2艦隊はGF主力なのに第2艦隊としての上申を全然やっていない。全部GFの命令どおりで、今思うと栗田長官、(小柳富次 42)参謀長以下みんな良くないと思うんです。しかし野元さんが言われたように、艦隊司令長官として中央に発言するという自信を与えるような教育を栗田さんは受けていない。長官になる人は佐官時代には、海大甲種学生と同程度の兵学教育をしておかないといけない。 司会 栗田さんは海軍大学校を出ていない、珍しい人ですね。 黛 海大を出てなくとも中央勤務をしておれば、自然とそういうことは分かると思うんですけどね。それからレイテ反転には批判がありますがあの時は長官ばかりじゃなく、参謀長も、我々下っぱも、マッカーサーの部隊は全部引き揚げており、結局行ってもいるのは空船くらいだろう。そんなところに2艦隊を犠牲にして突入しても意味はない、と思っていた。だからみんな士気は揚がっていないのです。作戦の価値を認めていなかった。それから日本海海戦でネボガトフ提督が主力艦を率いて降伏した。若い頃はなんて腑抜けだろうと思ったけども今思えば、部下を生かして海軍再建に使おうとネボガトフは考えたのではないか。栗田長官は、我々艦長クラスと違ってネボガトフのような心境が少しあったんじゃないかと思うのです。 野元 ひとつ栗田さんの若干の弁護を言わせていただきたい。平時のことだが、恒例検閲をやると、栗田艦長は朝から晩まで何日もかけて艦内点検をやる。非常に真面目な人だった。これは余談だが、戦後、栗田さんがある会社の顧問になった。そうするとね、朝から晩まで顧問室にいてじーっとしておる。ぼくのクラスの者が同じ顧問で行っていて、他社の顧問もしているものだから時間がくるとそわそわしてくるが、栗田さんが��るもんだから帰れない(笑)。そういう真面目な面がある。 小島 兵学校校長としては評判良かったらしいがね。 野元 だから兵学校長あたりがよかったかも知れません。 司会 松田さんは栗田さんをよくご存知ですよね。 松田 栗田さんが軽巡「阿武隈」艦長のとき、私は副長を3-4ヶ月ばかりやって、あの人のいい面も悪い面もよく知っています。あの人には非常にがむしゃらであって、どっか弱いところがあった。問題になった比島沖海戦は最後の決戦なんです。いくら自分の艦がやられても、とにかく全力を挙げてやるべきだった、あのときの兵力比較をやってみたんだが、決戦が成り立たないことはない。敵は輸送部隊という重荷を持っている。運動が不自由なんだ。それを日本が上手い具合に叩けば、決戦の機会なきにしもあらずだった。その見地から、最後の決戦で逃げるという法があるかって私は言うんだ。 司会 栗田さんは、逃げるんじゃなくて、北の方の機動部隊に行くということでした。 松田 情報を誤認したとか言うけど、結局消極的なんだ。ご覧の通り見かけは非常にがむしゃらで向こう気の強い人のようですが案外マイナスの点があったのだね。 司会 比島沖海戦の小沢治三郎、栗田健男の二人の司令長官が出ましたが、もう一人、志摩清英(39)第5艦隊司令長官がおられます。 横山 ぼくはあの人を良く知っている。志摩さんが司令官でぼくが艦長だった。巡洋艦戦隊というのは先任参謀しかないから、艦長の意見を良く聞きたがるんです。ぼくが意見を言うとすぐ採用しちゃう。あとで先任参謀が追っかけてきてね、私には言わない、と怒って来たことがある。非常に人の意見を入れる人です。それでいて自分にも着想がある。あの人はぼくの仕えた限りでは見敵必戦という信念の人です。それから彼の考え方で一つ覚えたことがある。接敵する場合、真直ぐこちらを敵の艦艇に向けると、艦の幅だけしか敵に見えず敵に発見されにくい一方で、こちらは大きな眼鏡でみることができる。第16戦隊で私の「球磨」と敵味方に分かれて夜間演習をやったが、直角に接敵すると、とうとう見つからず有効的だった。 司会 横山さんが艦長を代わられて、すぐ「球磨」は敵にやられて沈みました。さて、比島沖海戦では長官に準じる方として西村祥治(39)第2戦隊司令官がいます。 野元 候補生だった時の指導官付で、やかましい反面、根性のある人だった。大佐くらいのとき出張して西村さんに会ったことがある。人間は成長するものとしないものがあるが、あの人は成長して偉くなったなあ、と感心した。あの方あたりが栗田さんの位置におったらもっと歴史を飾ったと思うね。 小島 本当に立派な人ですね。 司会 比島沖海戦の作戦計画では大西滝次郎中将(40)の第1航空艦隊長官、福留繁中将(40)の第2航空艦隊長官の上に、三川軍一中将(38)がいます。三川さんは第一次ソロモン海戦で、少し早めに引き揚げたんじゃないか、というふうに言われてますね。 小島 三川さんは、あの時は運がよかったな。 野元 運が良かった。「鳥海」艦長の早川(幹夫 同期)など、もっと先へ行こうと言ったけど、艦長のいうことなど司令部じゃ聞かない。あれは行っていたら面白かったと思うんですよ。しかし、参謀の神重徳(48)など、ほっとしたんじゃないか。神というのは強そうなこと言ってるけど、逃げたんだと思うな。つぎに福留さんだがあの人とはいろいろ関係があった。利口な人だと思うよ。利口な人、その一言だ。もう何も言わないや(笑)。人間としては大西さんの方を福留さんより買うな。 司会 第二艦隊司令長官を長くやられて、そのあと支那方面艦隊司令長官となった近藤信竹大将(35)がおります。 小島 近藤さんについてはいろんな批評があるけど、まあ真面目な人なんだ。 司会 この方は経歴から言えばGF長官になってもおかしくないんですけど、名前がいっこうに上がってこないですね。 小島 大正15年���GFの先任参謀だった。ちょうど僕も聯合艦隊参謀だったが、その時も高橋三吉参謀長(29)が引きずり回して、近藤さんはどっちかというとおとなしかった。 横山 近藤さんは、非常に消極的な人だった。 黛 私が海軍大学校の学生のときの戦術の先任教官で、何回か兵棋演習を教わったんですが、近藤さんはあまり研究していなかったんじゃないかなあ。 小島 海上経験の少ない方で、積極性はなかったように見える。 黛 兵棋演習では赤軍と青軍が、こっちに行ったり、あっちに行ったりする。相撲だって銃剣術だって、行事や審判は良く見える所に動く。それをね、そういうことをした(審判役の)学生に対して、統監は腰掛けて動いちゃいかんと言うんだ。馴れ合いの天覧試合ならそれでいいけど、普通の演習でこんなことを言う戦術教官はダメだって私は思った。 小島 加藤寛治GF長官(18)が、近藤先任参謀はどうも侍従武官だから、と言っていた。侍従武官から来られたから艦隊の実際のことはよく分からない人であるという意味です。 野元 戦術教官で戦術を教わったが、なんだ、大学校の戦術ってこんなものかって、僕はおおいに不満を感じたね。 松田 近藤さんは、僕が軍令部1課部員の時の課長だった。下の者は非常にやりやすい。それが嶋田繁太郎(32)部長のところに行くとひっかかる。あの人は非常に温厚なんだよ。ただ戦に強いかどうか分からん。 小島 実戦部隊に適しているとは必ずしも言えない。 松田 戦に強い弱いは、ちょっと見たところでも分からんし、頭の良し悪しだけでも分からんですね。 黛 だいたい狡い人は、やることをたくさん知ってますが律儀にやらないんで、戦争に行ったら弱いでしょう。 司会 第二艦隊長官は、開戦時近藤信竹、次いで栗田健男、最後が伊藤整一(39)、伊藤整一中将のときに「大和」特攻をしました。伊藤さんは、一般には非常に誠実な人であると言われています。 小島 伊藤さんは部下にはよかったろうね。軍令部次長としてもアメリカを知っておられただけに非常に慎重でした。僕が前線から帰ったときだったが、ガダルカナルで日本がちょっと成功して楽観しておる時に、伊藤さんは、そうじゃない、アメリカがいっぺん来たからにはそんな簡単なものじゃない、って言って注意されたよ。 野元 伊藤次長が開戦の時、本当のハラはどうであったか。 司会 私が調べた範囲では、開戦の時にもっとも慎重ないし反対だったのは、海軍省の沢本頼雄次官(36)、軍令部の伊藤整一次長、ただ、上の大臣(嶋田繁太郎大将)、総長(永野修身元帥)が賛成ですからね。 小島 総長は早くから賛成なんだ。 司会 トップが賛成で補佐が反対。ナンバー・ツーはみんな非常に慎重なんです。 横山 僕は17年の8月にアメリカから帰ってきて、伊藤さんから特別問題をもらった。どうやったら終戦になるか書いて出せと言う。日本は負ける、と書いて出したら、一応見て「はい、ありがとうございました」って受け取った。 小島 伊藤さんはそういう人だよ。僕は横山君がアメリカから帰るときにちょうど軍令部にいた。横山君が帰ってくるのだから机上の仮想米艦隊を作って、そこに横山君を(指揮官として)置いてその意見を聞きながらやれ、って言ったんだよ。ところがいっぺんだけ横山君を指揮官として図上演習をやっただけで、艦長として前線にだしちゃった。 横山 軍令部の第一部長が、自分の兵力を俎上にさらすのはいやだっていうのだからしようがない。(注 福留繁のこと)
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座談会 だれが真の名提督か VOL.2 司会 次のGF長官には、古賀峯一大将で山本大将が18年4月に戦死されたあとをついでいます。山本さんも次の長官として推薦しておりました。私が嶋田さんにお聞きしたところ、やはり次は古賀か豊田副武かであったが、古賀の方が人柄が上なので古賀を押した、といわれました。古賀さんの方が豊田さんより1クラス下になります。 野元 ぼくは、豊田さんよりは古賀さんを取るな。豊田さんは統率のほうはやかましいだけで上手くないんだ。 横山 ぼくは1/2くらいの確率で古賀さんの作戦参謀に行く予定だったんだ。(注 実際は作戦参謀ではなく首席参謀 柳沢蔵之助大佐 46が着任) ぼくが行ったら『乙事件』というのは起こさんと思うんだ。有力な「武蔵」にのっているのに、それを捨てて飛行艇で飛ぶなんて、そんな危なっかしい芸当はできないですよ。ぼくだったら旗艦に乗って撤退する。そして一応奄美大島に行く、ダバオはいけない。あの辺りはスパイがいっぱいおるから。そんなところへ聯合艦隊司令部をもっていくことはないんだ。 小島 それはそうだね。 横山 あれだけ通信能力を持った旗艦を捨てて、通信施設を作ったにしてもダバオで指揮するという考えが間違いなんだ。それくらいなら飛行場をつくって奄美大島でやる。そんなことがあったが、ぼくは古賀さんは長官として適任者だったと思っています。 小島 古賀さんは人柄がいい。部下の言うことを聞くほうだろうと思うね。 司会 次に三代目、豊田副武大将です。古賀さんが19年3月に殉職されたあとを襲われる。マリアナ沖海戦・比島沖海戦を指揮された方です。 横山 ぼくが局員のときに豊田さんは軍務局長になった。案を持ていくと適切に直した人で��。その前は吉田善吾(大将 32)さんが局長だったが、これはこてんこてんに直して、にっちもさっちも行かなかった。豊田さんは非常にものわかりの良い人で、彼は適任でしょう。 司会 あの方は19年9月に慶応大学の日吉校舎に聯合艦隊司令部を移しました。その評価はいかがですか? 横山 指揮官先頭ということは航空機がいくら発達しても行うべきだと思うんだ。最高指揮官の思う通り働いていないので負けた戦がいくらでもあるんだから。たとえばハワイもそうだ。山本長官は機動部隊といっしょに行って航空母艦を探せと命令すればよかった。無線封止で何の指揮もできなかった。 松田 少なくとも長官は第一線にでなきゃいかんね。これは原則ですよ。たしかに比島沖海戦で負けたあとは、もうどうしようもないのだから陸上でも同じだ。しかし比島沖海戦では、栗田(健男)さんの乗っている「大和」でも「武蔵」でもいいから、乗ってくりゃあよかったじゃないか。 横山 乗ってくりゃレイテに殴りこみができたわけだ。 小島 ぼくはね、豊田さんの代わりに小沢さんを聯合艦隊長官にすべきだったと思うんだ。あのくらい戦の上手い人はいなかった。 野元 第4艦隊長官で豊田さんがおられたすぐあとに、ぼくは先任参謀で行った 司会 支那事変のころですね。 野元 いろんな方から話を聞くと、豊田さんはGF長官ではなくて、2F長官ぐらいが適任の方だと思う。全体の指揮をとるより敵陣を突破して行くような人だな。 黛 野元さんは豊田さんを第二艦隊長官くらいの器と見てるけど、私はそうは思わないですね。一例を挙げると昭和11年軍令部の編成が変わったとき、豊田軍務局長のところに近藤信竹軍令部第1部長が予算を持ってきた。私が軍務局長に報告に行ったら待っとれ、と云われたら近藤第1部長が来た。近藤さんは30分くらい説明していたがその後で豊田さんは近藤さんに「貴様、若い者(黛)の言うととおりのままで、めくら判を押して持ってきてはダメだ。こんなことをしていたら予算を超える。ダメだ。やりなおせ。」と叱った。「はい」と言って近藤さんは帰っていった。豊田さんにはそういう毅然としたところがある。しっかりしている。統率は長官の位置につけばちゃんとできる。しかしそれもミッドウェーくらいまでで、大戦略を誤ったあとはどんな長官が出てきても上手く行きっこなんだ。豊田さんが初めからGF司令長官をやったら極めて合理的にいったんじゃないかと思う。 横山 確かに、誰がやっても上手くいかん。なぜならこの戦争は海軍主体という決定をしなかったからだ。だから一番悪かったのは開戦当時の当局者です。御前会議で開戦を決したとき、よろしい、この日米戦争は海軍の戦である、だから戦争用機材は海軍優先に配分する、と決めて、陸軍から一礼とってやればよかった。それをやらないことがずーっと尾をひいた。もう一つ僕が気に入らぬのは「大東亜戦争」という名称だ。あの戦争は「太平洋戦争」ですよ。主目標をはっきりしなかったところに非常な欠陥がある。主目標がはっきりしなくては、GF長官がいくら才能があってもこれはダメだね。 司会 数々の作戦指揮官であり、最後のGF長官となった小沢治三郎中将に話をうつします。 黛 「あ号作戦」のとき感じたのです���、小沢さんは水雷戦のオーソリティだったが航空作戦のほうは良く研究できていなかったと思う。 小島 そうじゃないよ。シンガポール攻略作戦でも航空部隊を活用したのは小沢さんなんだよ。 黛 水雷戦隊の戦術が立派だったことに比べての話です。普通の凡将と比べてるんじゃないんですよ。 小島 シンガポールの時、あの口の悪い辻(政信 当時第25軍参謀)が、戦の神様だって小沢さんを本当に尊敬したくらいだ。軍令部と参謀本部の間で決まらないことを山下奉文(大将)と直接話してパッと決めてね。あのやり方は実に見事なものですよ。非常に慎重で大胆なんだ、あの人は。部下に対してもよかったよ。 松田 あの人は立派でした。栗田艦隊が出撃するというので小沢さんはぼくに艦隊の半分をくれましてね。お前突撃しろという。ところが明くる朝、栗田さんが反転したという情報が入った。松田部隊だけやってもしょうがないというんで私は戻ったのです。 小島 立派な戦術家だった。 松田 海軍大学の戦術教官もやって、学生の評判も良かったらしい。 黛 水雷戦術のオーソリティという点については敬意を表するが、海大の学生に「海戦要務令」など読むな、もっと良いこと考えろ、といったのはいただけない。何も知らない大尉の学生には「海戦要務令」をよく読め、そしてそれを一歩超えたところで新戦法を編み出せというべきなんだ。着想は良いんだが具体的にやるかということまではぜんぜんやってないんだ。第3戦隊司令官になっても教官としてもやっていない。小沢水雷戦の神様、辻政信陸軍作戦の神様なんて偶像ができて、その偶像の真価っていうものが本当には評価されていないと私は思う。小沢さんは、私も尊敬はしているけど、その人がなぜもっと砲戦の研究をやってくれなかったのか、というのが私の意見です。 野元 むかし、水雷戦隊の力を発揮するために、高橋寿太郎(10)という砲術学校長を一水戦司令官にした。そのとき私は旗艦の航海長、先任参謀が小沢治三郎。小沢さんもやりにくいだろうなと思ったら、すべて上手くやるんだ。よく指導して頂き、こちらも尊敬しておった。 横山 僕は小沢さんをあまり知らないんだ。だけど体力的に無理じゃないかと思った。というのも軍令部次長のころ海軍大臣からお酒を注がれるとき手が震えるんだ。 黛 「あ号作戦」の作戦命令を読むときに我々指揮官の面前で、手が震えていた。非常に心配だった。 小島 手の震えは、かなり若いときからだねえ。 野元 若いときからお酒が過ぎたんだよ。話が飛ぶが遠藤格(10)という途中で海軍を辞めた偉い人がおった。海大教官や軍令部一課長をした人なんだ。その人が、小沢っていうのは海軍大学ではどんけつだったけど偉かったって言うんですよ。発表したりするんは下手だけど詳しく良く考えてます。 小島 細心だよ。 野元 やかましいけども人をおだてるのも上手い。俺もおだてに乗ったほうだがね(笑)、一水戦以来ずっと仲良くしていた。僕が「瑞鶴」艦長時代、南雲さんのあとに来られたが、司令部の参謀どもが煙たくてしょうがないらしいんだよね。僕が小沢さんとツーツーなことを良く知ってるものだから、「艦長、また今日���長官を連れて行ってくださいよ」と言う。それでトラック島のジャングルの中を歩きながらいろんな話をした。 司会 ハワイ・ミッドウェー作戦の主役であった第1航空艦隊司令長官であった南雲忠一中将の評価を伺いましょう。 野元 南雲さんは水雷屋としては鼻っ柱が強くても、航空に来てからはちょっと遠慮し過ぎたんじゃないか。そこに源田(實 52 航空参謀)なんていう鼻っ柱の強いのがおってさ(笑)。 航空部隊の長官としては水雷屋の押しの強いところを活用しようと思って、上層部は南雲さんを選んだんじゃないかと僕は思うんですがね。しかし私の艦長の経験からいっても航空っていうのは使いにくいですわ。 司会 第二次ソロモン海戦のとき南雲さんが長官でしょう。 野元 あのときでもあまり長官の意見は出ないで、草鹿龍之介(中将 41)参謀長の一本調子だったな。 司会 南雲艦隊には源田艦隊というアダ名もあったようですね。(笑) 黛 私は昭和15年に重巡「古鷹」の副長でしたが、南雲さんはその時の第3戦隊の司令官です。そして第1艦隊長官は山本大将がGF長官を兼務していた。第1艦隊の戦術研究はたいてい南雲さんが主宰してやった。そのやり方をよく見ていたんですが非常に熱心でね、立派だと思ってましたね。それから昭和19年の正月に「利根」副長ではじめてトラック島に行った。その時も「長門」におられて、私が内地から来たから、幕僚を集められて、内地の様子とか戦訓研究などを幕僚を前に説明させられた。自分でも聴かれたし、 作戦用兵については熱心な人だと敬意を表しているんです。 司会 南雲さんと山本さんは、あまりうまくいかなかったようですね。 野元 そんな話を聞きますね。聞くだけで、私は実際に体験したわけじゃないけれども・・・
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座談会 だれが真の名提督か 大東亜戦争中、巡洋艦以上の艦長を経験した5人の元将官たちによる座談会。 かつての上官に対し、高級士官の立場から心中の感慨を赤裸々にする貴重な発言を転載する。 座談会の主題は、「太平洋戦争中の日本海軍の指揮官を歴史的に評価する」 歴史と人物/昭和56年5月号より 小島秀雄 44期 元少将 開戦時、南遣艦隊旗艦の巡洋艦「香椎」艦長として南方作戦従事。軍令部に戻り 日独共同作戦を担当。 昭和18年12月に潜水艦で遣独、ドイツ駐在海軍武官。 松田千秋 44期 元少将 戦艦「日向」のち「大和」艦長。その後、第4航空戦隊司令官として比島沖海戦では 小沢艦隊の中で最前線に進出して作戦参加。 終戦時横須賀航空隊司令官 野元為輝 44期 元少将 航空母艦「瑞鶴」艦長として第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加。 のち「瑞鶴」は小沢治三郎中将座乗の旗艦となる。 終戦時第903航空隊司令官 横山一郎 47期 元少将 開戦時、アメリカ駐在海軍武官、昭和17年に日米交換船で帰国。 のち巡洋艦「球磨」艦長。 昭和18年海軍省首席副官 黛 治夫 47期 元大佐 飛行艇母艦「秋津洲」艦長でソロモン方面の作戦に従事、のち巡洋艦「利根」艦長 としてマリアナ沖海戦、比島沖海戦に参加。 海軍内の砲術の権威として著名 司会 野村 實 71期 元大尉 軍令部第1部1課等 対談当時 防衛研修所第2戦史研究室 のちに防衛大学校教授 名古屋工業大学教授 軍事史学会会長 座談会 1 山本五十六 について 座談会 2 古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎、南雲忠一 について 座談会 3 栗田健男、志摩清英、西村祥治、三川軍一、近藤信竹、伊藤整一 について 座談会 4 井上成美、草鹿任一、宇垣纏、田中頼三 について 他 司会 まず聯合艦隊司令長官ですが、この戦争中、山本五十六、古賀峯一、豊田副武、小沢治三郎の4人がおりました。一番最初が山本五十六大将ですけれども、松田さんは「大和」が聯合艦隊旗艦のとき、少なくとも軍艦旗掲げ下ろしなど1日2回ぐらいは山本大将と顔を合わされたと思います。 松田 時々 おい松田君、いっしょにめし食わんか、と呼ばれて話をしました。山本長官は非常に情誼に厚い立派な方です。ただ戦のやり方についてはちょっと問題がある。やるには練りに練って、これは間違いないという計画でしなければいけないが山本さんと黒島(亀人大佐 44同期)で、参謀長の宇垣(纏中将 40)さん抜きでやった作戦はどうだったか?手を広げてあれも取るこれも取る。計画は壮大だがこれで実際戦って勝てるかどうかは疑わしい。黒島は僕の同期であり非常に良いアイデアを出す人であったが、もともと軍令部の対米戦略は東郷元帥の日本海海戦の思想をもとに永年にわたって練られていたものがあった。それは決して手を拡ろげることが戦に勝つことじゃないんだ。日本の海軍は攻勢防御の思想を伝統としていた。戦略的には守勢であるが戦術的には攻勢だ。ところが山本さんは手を拡げていった。手を広げる以上守らなねばいかん。陸軍の一個師団置いたって守れるはずはないんだ。片っ端から敵は食い潰してくる。そうもその辺が、どういう目的であんなに手を広げたか分からないんだ。 野元 私は新見(政一中将 36)さんあたりと同意見なんだが、軍令部は当時いったい何をやっていたのか。聯合艦隊に引きづられて軍令部は根本的な大戦略を立てていなかったのではないか。 松田 軍令部作戦課に私は3年余いたが、それまでの対米作戦計画は攻勢防御の思想で練りに練ったものだった。あとの人がどういうふうに計画をたてたか知らんが、おそらくそんなに大きい���化はなかったと思う。 司会 野元さんは開戦劈頭のハワイ作戦についていかがですか? 野元 奇襲的効果は認めるが、反面、米国民を一致させたということにおいてマイナスであったと私は感じるんです。 小島 私もあの作戦は運よくいったから良かったものの、ハワイ作戦というものは、あまり適当じゃなかったのではないかと考えているほうの一人です。 黛 「聯合艦隊始末記」で、著者の千早(正隆 58)元中佐が、山本長官のハワイ作戦を非常に褒めている。あれだけの航空母艦を集結して奇襲したという作戦自体は戦術的にいいでしょう。ところで目標は戦艦と航空母艦だったが、空母は結果的には存在しなかった。山本大将は以前から戦艦の実用的価値はないと云っていたが、危険を冒して航空母艦を集結して攻撃し、それだけで攻撃部隊が帰って来たのはちょっと話が合わない。また、訓練での消耗を補給できる程度の航空機生産力にも拘わらず、将来のことを考えずにああいう作戦をしたのは大間違いです。山本大将は飛行機を育てた人と言われているのに、開戦前の図上演習ではこちらの航空戦力は過半数やられるという考えだった。自分の培養した部下の実力を十分に考えなかった指揮官だったと私は思う。それから山本長官は、将来は海上決戦は起こらないということを言ったらしいが、松田さんが言ったように、日本の海軍は伝統的に敵が来るのを待って決戦で撃滅することをずっと研究していた。ところが山本長官は決戦は起こらない、としてどうやって起こすかを考えない。ただ漠然とあっちをやり、こっちをやり、その皮切りが真珠湾だったと思うんです。 松田 アメリカで聞いた話だけど、山本さんが大使館付武官のころ、若い連中に「おい、きょうはトランプをやろう」と言って、トランプ博打をやるんだ。当時の金で50セントとか1ドルとか賭けて。あの人は非常に博才に長じていた。そして賭けた金でご馳走していたという話が残っていたよ。 横山 ぼくはね、山本さんとトランプをやったんですよ。しかし山本さんが博才に富んでいるとは思わないんだ。というのは博打というのは確率を考え、ある程度根拠をもって打つものでしょう。ところが山本さんはブラフ(はったり)なんだ、全部。こっちは確実にやっていくと必ず勝てる。あのブラフのやり方を見て、普通の人はそれば博才と思ってしまった。ブラフは当るときはすごいがだいたい当らない。僕の合理的なやり方と、彼のブラフとやったら合理的なほうが勝った。それなのに合理的なアメリカに対して山本さんはブラフをやった。 これが非常な間違いだと思うんだ。 司会 横山さんは真珠湾攻撃のときワシントンにおられたのですね。 横山 真珠湾をやるという考えは、当時作戦の構想を練ってみたけども僕の考えにはないんです。なぜなら真珠湾は浅いから沈めたことにならないんです。実際、ほとんど引き揚げられて、すぐ半年あとで使った。沈めるならやはり深海に敵を誘い出して沈めるという邀撃作戦じゃなければダメだということになります。僕は全体の対米戦略で意見がある。それはなぜフィリピンをとったかということです。比島を残しておいて、所在の水上兵力と航空兵力を撃滅する。グアムをとれば向こうから航空兵力の増強なはい。そうすればフィリピンを助けろといってアメリカ国民が騒ぎ出す。となるとアメリカの艦隊が西太平洋にやってくる。それを迎撃する。この火種をなくしたのは極めてまずかった。 松田 当時の僕らの考えでは、アメリカはハワイあたりで示威運動をやってるけれど本当の戦いの準備はできていないだろう。だからフィリピンに手を出せば、必ず向こうは戦備不十分のまま出てくるに違いない。それを叩くのだ。だからとにかくフィリピンを取ろうじゃないかということだ。もちろんその当時はインドとかインドネシアとか、あの辺を取ろうなんていうことは考えていません。それが今度の戦では世界を取ろうとしたんだから、ひどいもんだよ(笑) 司会 真珠湾で成功したあと山本さんは神様になったところがあるでしょう。 野元 開戦前から早川幹夫(少将 44同期)なんか山本さんを神様のように言っていた。聯合艦隊自体では崇敬の的になっておったね。それは陣頭に立って、直接細かいところまで指揮をする、というところにだいぶ人気があったらしいな。 司会 次に山本長官の指導した、もう一つの大きな作戦としてミッドウェー作戦についてお話いただきましょう。 黛 (中略)日本陸軍が、国民に国土の防衛をやかましく教育しておったから、(東京初空襲のように)1回や2回空襲されてもたいしたことはないのが実情だった。それなのにミッドウェーを取って敵空母の奇襲を避けようとしたのだな。ところがこれを取ったって迂回してくれば何のことはないんで、まったくあれは被害妄想のようなことじゃないかと思うが。 松田 僕は当時「日向」艦長だったが、図上演習があり、米国通というので赤軍(敵軍)の総指揮官をさせられた。図演では米軍は相当足の長い飛行機(陸上機)で索敵する。日本軍は艦上機だけ。米軍は日本軍の行動が手に取るようにわかるので、やりたいだけやれる。ところが僕が図演で日本軍をやっつけたところをそのまま審判すれば士気に影響するというので、その損害は極めて軽微として作戦成功と審判された。 小島 何のためにミッドウェーに行ったか、まったく分からない。 横山 僕に言わせれば、海軍大学校の図演だったら零点だ。(笑) 松田 図演の結果のように、さんざん負けるところを負けないようにして出撃したわけで、この思いつき作戦が失敗したのは当然です。 小島 ぼくの長官だった小沢(治三郎中将 37)さんは、ミッドウェーには何のために行くのだろうって初めから反対しておった。山本さんは勝ち戦を一つやったから、もういっぺんブラフが利くという頭なんだね。 松田 あれはだれが考え出したか?やっぱり山本さんでしょうね。 司会 山本さんですね。ミッドウェーに行けばハワイで撃ちもらした空母が出てくる。それを叩ける。そうすれば航空母艦で健在なのは日本側だけだという着想のようですね。 松田 アメリカではパールハーバーの不意打ちを全国民が非常に怒って、さっそく総力戦態勢で国家総動員をした。日本はミッドウェーの敗戦の真相を公表せず、まだ日本は勝っているような気分��のんびりしていた。横山さんはアメリカから帰ってどう感じましたか。 横山 ぼくは、ミッドウェーで負けたあとの17年夏に(交換船で米国から)帰ってきましたが、不思議だったのは軍令部が泊り込みをせず、出勤退庁してくることでした。これじゃ戦に勝てんと思った。軍令部は作戦をやってるんじゃないか、作戦に昼も夜もないんで、交替で休むのは結構だがそれを出勤退庁とは何事か、と言ったんだが効き目はなかった。 小島 それは君の言うとおりだよ。日露戦争中でも軍令部は泊り込みだった。毎日弁当をうちから運んでくる。あの当時でもそんくらいやってるのにね。 司会 山本大将の評価が非常に低いのには驚きました。それでは開戦時にどういう人事が良かったのでしょうか。 横山 幕僚が悪かった。 黛 幕僚はほんとうに悪かった。 横山 参謀長以下悪いでしょう。 野元 黒島でなくて、先任参謀には島本久五郎(少将 44同期)を人事局では考えておったらしいな。 司会 黒島さんが昭和14年 聯合艦隊の先任参謀に行かれましたが、人事局の原案では島本久五郎、人事局第1課長になった人ですけどその人が聯合艦隊の先任参謀に行く予定でした。 横山 長官はアメリカを知っとったけれども、参謀長以下アメリカを知っていなかった。 黛 私はね、そこにいる松田さんが一番先任参謀に適任だと思ってるんだ。 松田 それには時期が遅いんだ。僕が軍令部を去って3、4年経ってるからね。あの当時の1課長は中沢(祐中将 43)さんだろう。中沢さんは大佐じゃちょっと気の毒だが、先任参謀になるのがよかったと思うんだ。 横山 中沢さんみたいなアメリカにおった人を使えばよかった。 小島 島本もアメリカ駐在なんだよ。(注 大正13年~大正15年) しかし長官が気に入らなかった。 司会 山本さん自身は残っている手紙を見ると、自分は聯合艦隊司令長官(以下GF長官)として適任とは思っていない。すでに15年の終わりあたりには次の後任を考えている。俺の後任は米内光政大将(29)が最適任だ。それがダメなら嶋田繁太郎(32)か古賀峯一(34)。それから候補にあがり得る人として、豊田副武(33)、豊田貞次郎(33)。これだけ山本さんは言っております。果たして誰が一番良かったか? 横山 その前にね、軍縮会議でクビ切った人に適任者がおるんです。 小島 堀悌吉(32 S9年中将で予備役)さんか。 松田 嶋田さんという案は相当ある。あの人は、人の立てた案を見て、自分が気に入らなきゃ採用しない。私は嶋田部長の下で軍令部部員をやっているとき、私の立案に対し、「おい松田、これはダメだよ」と突っ返してくる。何ヶ月もかかて考えたことだから間違いないつもりで1ヶ月ばかり放って置いて、「あれからずいぶん研究しましたが、この他には手がありません」とまた出すと「宜しい」と言ってめくら印を押してくれた、そういう性質でね。イタリア武官はやってるけどアメリカのことは知らんですよ。 野元 私は前に片桐英吉さん(中将 34)の参謀をやったことがあるが、片桐さんあたりは、米内さんが長官としては一番良いという意見だったな。 松田 長官としては、作戦的な頭のほうもあるだろうが、統率力がなくちゃダメなんだな。その点米内さんなんかい��んだね。山本さんは海軍大臣がよかったよ。 小島 日本じゃ難しいんだけど、シンガポール作戦のあとで小沢さんあたりにすぐバトンタッチすれば一番いいと思った。パールハーバーが済んで、今度は少し慎重な人ということで小沢さんが行ったら良かった。ところが日本じゃ順序からいってダメなんだね。アメリカやイギリスならやるよ。 黛 私はね、米内大将なんていうのは絶対ダメだと思うなあ。少佐の時にジュトランド沖海戦などを研究していろんな先例を絵にして各鎮守府艦隊を廻った。聯合艦隊の末次(信正 大将 27)長官、2艦隊の高橋(三吉 大将 29)長官、呉の中村(良三 中将 27)長官は朝から夕方まで6時間ずーっと聴いておった。ところが佐世保鎮守府の米内長官は顔も出さない。要するに日米戦争になればどうせ負けるんだという考えだから将来戦、ことに決戦なんかを研究する具体的なことなぞ関心がなかった。 私は経験からいえば、嶋田大将が一番宜しい。そうでなければ豊田副武大将がいい。豊田さんは私が「日向」副砲長のときの艦長、軍務局に居たときの軍務局長。この人は非常に合理的であるし、意志が強い、やかましいから人気はなかったらしいが、統率力がある。 横山 ぼくは山本さんを非常に買います。それから米内さんも良いと思う。他に皆さんの考えなかった人として少し古いけど中村良三(27)、この人を推したいんです。あの人は海軍大学校長で非常に頭を訓練してるんですよ。艦政本部長なんかに置いとかず前線にだすと非常に働いた人だと思うんです。 黛 いや、私は反対だね。中村さんは昭和4年の小演習のとき赤軍の長官になった。そのとき作戦計画を自分で作って戦隊の司令官とか艦長には、おまえ達にはどうせ分からんから、おれの書いた通りやれ、という統率ぶり。それから昭和6年2艦隊の長官のときも非常にまずい作戦がある。自分は良いことを考えても部下が動くように訓練ができない。自分だけ偉いと思って部下に教えずに、おれの言うとおりやれという統率ですから、あの人は聯合艦隊の長官には最不適任と私は思った。 横山 しかし、非常に頭のいい人だ。 小島 頭はたしかにいいね。
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大学生の女子。何をしていてもあのことばかりを思い出してしまいます。 あの日、私は祖母と一緒に逃げました。でも祖母は��道の途中で、「これ以上走れない」と言って座り込みました。私は祖母を背負おうとしましたが、祖母は頑として私の背中に乗ろうとせず、怒りながら私に「行け、行け」と言いました。私は祖母に謝りながら一人で逃げました。 祖母は3日後、別れた場所からずっと離れたところで、遺体で発見されました。気品があって優しい祖母は私の憧れでした。でもその最期は、体育館で魚市場の魚のように転がされ、人間としての尊厳などどこにもない姿だったのです。 助けられたはずの祖母を見殺しにし、自分だけ逃げてしまった。そんな自分を一生呪って生きていくしかないのでしょうか。どうすれば償えますか。毎日とても苦しくて涙が出ます。助けて下さい。(A子) ◇ お手紙を読みながら涙が止まらなくなりました。こんなに重い苦しみの中でどんなにつらい毎日かと思うとたまりません。ただあなたは祖母を見殺しにしたと思っていらっしゃいますが、私にはそうとは思えません。 おばあさまはご自分の意志であなたを一人で行かせたのです。一緒に逃げたら2人とも助からないかもしれない、でもあなた一人なら絶対に助かる。そう判断したからこそ、あなたの背中に乗ることを頑として拒否したのでしょう。 おばあさまは瞬時の判断力をお持ちでした。その判断力は正しくあなたは生き抜いた。おばあさまの意志の反映です。人はどんな姿になろうとも外見で尊厳が損なわれることは決してありません。たとえ体育館で転がされるように横たわっていても、おばあさまは凛(りん)とした誇りを持って生を全うされたと思います。 おばあさまの素晴らしさはあなたの中に受け継がれていることを忘れないで下さい。 おばあさまが生きていたらかけたい言葉、してあげたいことを、周りに居る人たちにかけたり、してあげたりして下さい。そのようにして生き抜くことが憧れだったおばあさまの心を生かす道に思えます。 (海原 純子・心療内科医) (2011年5月23日 読売新聞)
祖母置き逃げた自分呪う : 心身 : 人生案内 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) (via clione)
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Mibancoの債券クーポンは2003年の実績で5.75%。意外に低金利。
http://www.living-in-peace.org/_common/img/pdf/LIP_Report_No1.pdf
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MFの貸倒率は2.06%。日本の都市銀行の貸倒率は1.32%、消費者金融は10.46%。
http://www.daiwatv.jp/kouen/seminer/091027/download/01249-001_2.pdf
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マイクロファイナンス(ドル建てインデックス)のトータルリターンは4.49%。ボラティリティは0.36%。2004-2008平均。
http://www.slideboom.com/presentations/41746/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%9C%B0%E5%B9%B3-FINAL
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上記のグラミン銀行の説明によれば、政府系金融(SHG)の「年利11%」とは「flat rate」であり、GBの「年利20%」は「declining balance、もしくはeffective APR ベース」の利子率で、それをflat rateに換算すると年利10%となる。実はflat rate ベースでは政府系金融の年利よりも低い、ということになる。
http://bopstrategy.blogspot.jp/2010/02/blog-post.html
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最近の研究により、グループ貸付制度の有効性に対して、疑問符がつけられるようになってきました。フィリピンでは、無作為に選んだ既存のグループ貸付センターを、個人貸付に移行させる、という実験が行われました。その結果、個人貸付に移行しても、返済率は変わりませんでした。しかも、個人貸付の方が、新規顧客が多かったのです。
http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Theme/Eco/Microfinance/index.html
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ミュージックセキュリティーズ ベトナムONE ・取扱手数料:出資金の5.5%(税込) ・運営手数料:出資金の2.0%/年(税込)
http://www.musicsecurities.com/communityfund/details.php?st=i&fid=254
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MFIs にとっては、銀行借入よりは、多くの投資家を対象とする債券発行により国内市場で現地通貨建ての資金調達をする方が好条件で調達できる可能性が高い。
http://www.living-in-peace.org/_common/img/pdf/LIP_Report_No1.pdf
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