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mckvcandy · 2 years ago
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Travis JapanというサイコーのPARTY
Travis Japanの現場に初めて行った。
最近推し活といえば稲場愛香激単推し生活で、それはそれでホント楽しいのだが、今日コンサート行ってみてTravisJapanはやっぱチームとして楽しいな!!!!!と感じたのでそれを書いとく。覚えてる&印象に残ったことだけ順番で。
・登場
お子様プレートの皿みたいな(?)四角い白いオープンカーにメンバー乗って天空から登場。マフィアみたいな黒い羽?ファー?のついたコートを着ていかつい。方向転換でちゃかちゃんがハンドルを切っていてかわいい。車は360°回転しながら地上に降りてくる。
地上に降りたらメンバー、コートを脱いで黒タキシードに。個���的にTravisJapanが一番カッコよく見える格好。最高…
・赤
冒頭らへんの曲で赤いジャケットにチェンジ。セット(背景映像)も赤い緞帳みたいに。赤。エンターテイナーの色、帝王の色。アメリカに行って帰ってきた7人はこの誇り高い色がすごく似合っていた。赤い空間に赤い男7人。頭上に輝くTravis Japanの文字。圧倒的支配空間。痺れた……すごく楽しいエンターテインメントが、SHOWが始まったんだって思った。赤衣裳かタキシードか忘れちゃったけど、フォーマルな格好でステッキを持っての夢のハリウッド、アステアファンの私からしたら本当にたまらなかった。クラシックなエンターテインメントの匂いがすると心から嬉しくなってしまう。
・Swing My Way
ちょっとダーティな曲調のスウィングジャズだったんだけど、衣裳が赤ハット黒シャツ赤ズボンなので、Juice=Juiceの「イジワルしないで抱きしめてよ」すぎてわらってしまった。
・FIRE!!!
Wカイト厨じゃないので特に沸かず、宮近さん双眼鏡ロックオンでのダンスの良さを堪能できた。
・白衣裳の和コーナー
ちゃかちゃんの衣裳がミニチュア袴でかわいい。和VOLCANOカッコよかった。
かなり意外なんだけど曲単体で言ったら今日一番感動したののえげんの「君だけに」かもしれん。羽の使い方が美しく、躍動する身体は人間離れして、しかも二人の歌声もものすごく素晴らしくて、曲の世界に深く深く入り込んでしまった。真っ青な夜の海に浮かぶ白い月……
・スタジャン
LET'S MUSICがとにかくめちゃくちゃいい曲で、ぴあアリーナがでっかいピンクとオレンジのダンスフロアになってて楽しかった。しめまちゅのパフォーマンスもすごい楽しそうで、もうぴあアリ全体がDANCEってかんじだった。
そのあと新曲、Turn up the vibe。屋良くん振り付けのゴリゴリのヒップホップ曲で宮近くんが本当に水を得た魚に。どのダンスのジャンルもできるけど、やっぱり宮近くんはヒップホップの人だなと思った。
・WOD本選のダンス
これ本当に今日のハイライト。一番気持ちが盛り上がった。あの世界レベルのパフォーマンスを間近で観られてめちゃくちゃ高まった。センステでやってくれたのが本当によかった。あと、衣裳がダンスを映えさせる形だったのでそれもよかった(ダンスを殺して���まう衣裳というのも存在する)。あれが7人のアメリカでの集大成…めちゃくちゃ素晴らしい。Travis Japanの、統制が取れてるのにグルーヴィーで楽しい感じがもう極みに達してた。宮近くんだけを双眼鏡で見るのをやめて、目まぐるしいフォーメーションチェンジをしながら躍動する7人を見ていた。素晴らしかった。踊っている7人がやっぱり大好きだと思った。歌もものすごく上手くなったしファンサもあれば嬉しいとは思うけど、やっぱり踊ってる7人を見るのが一番好きだ。あとね、ダンスの大会とか発表会とかレッスンでSLAYってる人に対してお客さんとか周りのひとが「エーーーーーイ😆👏👏👏👏」って声援するやつあるじゃん。あれをトラジャに向けてできたのが本当に楽しかった。7人でSLAYってた。
・Drivin' Me Crazy最高すぎ事件
Drivin' Me Crazy、かなりFUNKで最高でした。DANCEが止められない。ほんと双眼鏡持ってるのがバカらしくなってくる。PARTYだよこれは。踊るしかない。
本当に、いつも双眼鏡推しロック派のわたしが、時には双眼鏡を手放してセットとか曲とか演出とかを含めて全身で楽しんできたコンサートでした。ファンサもしょうみいらん。パフォーマンスを見せ続けてくれ。ウチらを踊らせてくれ。Travis JapanはとにかくPARTYすぎる。これからもPARTYを続けよう。踊り続けよう。
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mckvcandy · 3 years ago
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男性器を封印した男性の表象はとっても官能的。それに気づいたのは新宿眼科画廊(多分)で拝見したカネオヤサチコさんの個展で、男性器の行使を禁じられたおにいさんたちは額縁という檻の中に閉じ込められ悩ましいほど匂い立っていた。男性器はたしかにそこにある、ストライプのボクサーパンツの中に必ずある。私たちはそのことを知っている。彼もそのことを知っている。だけど彼はそれを行使することができない!!その存在感の生々しさと、そしてそれがどうしても外に出てくることはかなわないという事実に震えるほど興奮した。男性器を確実に持ちながら男性器が無効化された男性!!!!!!最高!!!!!!それからというもの概念去勢、男性器隠匿、を発見するとめちゃくちゃ興奮してしまうようになったのでした。だから宮近海斗さんが大好き。
間違ってますか?
でも、彼のほど抑制された男性器、ありますか?フレッドアステアにはもしかしたら男性器なかったかもしれない。だけど彼は、宮近さんはそれを持ってる。確実に持ってるのに、外に出てこない。つまり男性器というのは暴力の可能性を常��内包したバッドで逃れられない魅力的で忌み嫌うべきもののことだとしたら。宮近海斗さんはそれを持ってるかもしれない。でも外には出てこない。抑制。統制のとれた身体。彼の脳の命令通りにきびきびと動く身体。彼の意図した通りに動き、女の子を熱狂させる身体。汚濁の痕をつゆ残さない、美しい清潔な身体!!彼の脳が清潔だから、身体もその通り、逸脱することなく、隙なく動く。なんてうっとりするような生き物だろう。本当に、画面の向こうで生きてくれていてありがとうね。あなたの健康がわたしたちの希望だよ。サンキュー
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mckvcandy · 4 years ago
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わがままロマンサー
お風呂場で本を読むのがデフォルトになっている。お風呂を出るとスマホを触ったりしてしまうので、お風呂の中が一番濃密な読書空間。じわじわ汗かきながらぬるくなっていくお湯の中で本を読む時間が大好き。お風呂に入るまでは死ぬほどおっくうですが。きょうは、彼氏が寒い思いして新宿で買って来てくれた文學界12月号の冒頭に載っていた鴻池留衣「わがままロマンサー」を一気に読んだ。面白くって声を出して笑っちゃったんだけど、その声がお風呂場に響いて、自分の耳に入ってきて、ものすごく怖く聞こえた。自分の残酷さを突きつけられた感じ。そのヒリヒリする感じがものすごく痛快で、傑作だと思った。いっつもそう、人間の汚いとこを、肥溜めの中に手突っ込んでおもしろのラメめっちゃまぶして出されたものに弱い。大好き。松尾スズキも市原佐都子も大好き。十分露悪的だけど、露悪だけが目的じゃないのがわかるから。あくまでも、おもしろラメが死ぬほどまぶされているうんちが大好き。わがままロマンサーも、(うんこ)ちんこまんこの話なんだけど、それでいうと、欲情と愛情を縦割ることをあっさり正当化していて面白かった。わたしもその価値観をわりに罪悪感なく自分の中に認める。最近お気に入りのぽっちゃり30代芸人が文學界最新号と焼きたてのクロワッサンを両手に携えて走ってやってきてくれるところを思ったりする。あるいは実在の人物同士の架空の関係を思って萌えている。そのことと、愛している男と寄り添い合って暮らすことがわたしのなかでどうしても矛盾しない。わたしはわたしの愛情と同じように欲情を許すことに決めた。それのなにがわるいんだろう? わたしはわたしの愛する男を傷つけるようなことはしないと決めている。そのことが乱暴で傲慢なことだとはわかっているけど。
ただ、たとえばそのお気に入りのぽっちゃり30代芸人がちんこを剥き出してるとコラ!と思ってしまう。コラ!っていうか、別に当人が何をして��うとかまわないけど、萌えはしなくなる。ウインク、ウラピース、ファンを抱いた話、そういうの。立派なちんこをもってて、それをつかわない、あるいはつかえない、というときにわたしは欲情する。たとえば、カネオヤサチコさんのおにいさんの絵。たとえば、岩松了の戯曲に登場する煩悶する青年たち。ちんこを持ってて、暴れ出しそうなのに、できなくて、ぶどうを口いっぱいに頬張ったりしてしまう。そういうのが一番好き。ちんこが有効性を持った瞬間、わたしのなかでは無効になってしまう。自分が欲望されることを、わたしが欲望してない。あんまこっちを見ないで。
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mckvcandy · 4 years ago
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スケートボードを始めることにした。
スケートキッチンがとにかくかっこよくて、ちぐはぐな、野ざらしな感じのする女の子たちがゆるく繋がりながら、髪をなびかせて好きなように疾走しているのが忘れられなかった。
しばらくしてスケッチーという漫画を読んだ。わたしみたいに、何もかもが完璧じゃない女の子たちが、スケートの中にきらめく瞬間をみんな見つけていた。やるせないことばっかりの中で、スケートの時だけに訪れる特別な光。何かに夢中になるってべらぼうに楽しい。
同じ漫画を読んだ旧友がスケートを始めるというのでわたしも手を挙げた。今月は手を挙げたもの勝ちらしいというのはきいてたし。とにかく何かに夢中になって、無心になってやってみたかった。
同期が古いボードを譲ると言ってくれた。うれしい!
ぶざまにずっこけたり、全然知らないことをゼロからはじめる恥ずかしさ、傷だらけになる痛さをみんなで楽しむということがわたしにとってなにかヒントになるんじゃないかと思っている。素直に教えを乞う。たくさんたくさん失敗してちょっとずつできるようになる。
すごいたのしみ。趣味があることは大人を生きやすくしてくれる。
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mckvcandy · 4 years ago
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さみしい獅子、寄り添う群青のつるつるにどうしようもない欲望を隠して身体はそのまま疲れている。地雷を踏んだり、待ったり、静かに離れていくのを薄目で見ているしかない、わたしには愛の才能がなく、心の奥底がつるっとしていて感性どけち。見放されてもしょうがないけど、週に一度はちゃんとしっかりめに感動したりするよ。口にするのはうまくない、ずっと、人にたいくつさせて平気でいるんだから。これも才能の話じゃなくて努力と経験と意思の話だとわかってる、わかってるわかってるよ……でもわたしは好きですよずっと!好きでいることにだけ自信があるから、書き言葉でちょっとずつ補いながら世界に提出する台車になりたいな。つるつるならつるつるなりにいかつい車輪ふたつほしい。ほいで猛烈に走り回る。わたしなんかいない。わたしの愛が台車に乗って世界中に炸裂するだけだ。個が消え去る。でもみんながわたしの台車を見ている。みんながわたしの疾走する台車から目を逸らすことができない。楽しいから。それでいい。
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mckvcandy · 5 years ago
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NTLive フランケンシュタイン
https://youtu.be/dI88grIRAnY
人が神になろうとしたとき、  何が待ち受けているか。
神がアダムを創造したように人(=man)は人(=creature)を作った。科学の力によって。生命、体、知能、心、魂、権利、愛。かれが与えたものは実際のところなんだったのか。与えられなかったものは何だったのか。愛が何か知らない、力に取りつかれた科学者はいったい何を作ったのか。
かれ(=man)は科学の力による自分の成功に打ち震えた。かれは全知全能の神になったように思った。しかしかれの花嫁は言う。「あなたは科学ではなくて誇りの話をしてるのよ」。
かれ(=creature)は自分が何者かを知らなかった。かれは太陽に、雨に、音楽に喜んだ。生命を祝福した。しかし人々は醜い彼を忌み嫌い、傷つけ、遠ざけた。愛されることを知らなければ愛することもできない。憎しみは憎しみ��して跳ね返る。かれは自分にされたことを人に返すことしかできない。愛のほうが先だったら、と思わずにいられない。
愛を知らないかれはしかし、愛を渇望する心を持っていた。
かれ(=man)は相手を作品だと思った。かれ(=creature)は相手を親だと思った。「人間を作りたいのならどうして私に子供を与えてくれないの?」花嫁の言葉が突き刺さる。
かれ(=creature)は愛する相手を望んだ。自分を忌み嫌う人間のではなく、自分を愛してくれる、自分と同類で違う性のパートナー(=creature)を。かれ(=man)は女性を創ることを約束し、そして反故にした。花嫁はかれ(=creature)を受け入れた。かれ(=creature)はかれ(=man)にされたことをそのまま仕返す。すなわち花嫁を殺す。
かれ(=man)は力と誇りを求め、かれ(=creature)は愛と慈しみを求めた。お互いが手にしたものは逆だった。
創造主と被造物の話ではない。かれらは背中合わせだ。だから2人の俳優が役を入れ替えて演じることに大きな意味がある。
なぜ人は生まれてくるのか。HOWとWHYがずっと背中合わせにある。
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mckvcandy · 5 years ago
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小泉明郎「縛られたプロメテウス」
これは人生の物語。
第一部、訳もわからぬままに機械を取り付けられた私たちは現象の海に放り込まれる。機械的な音声の抽象的なモノローグが聴こえ続ける中、現象としか言いようのないことが視界で繰り広げられる。私たちは浮遊物(抽象的な形をしたそれらは不思議と、愛する人や、いのちや、魂や、絶望、に見える)に取り囲まれる。それをただ観ている。やがてそれらは大きくなり、近づいてくる。幻だとわかっているのに手で触れてみずにはいられない。私たちは宇宙空間のようにも、胎内のようにも見える場所に取り残される。私たちに向かって光の矢が降り注ぐ。何万本も。まるでそれは過去や未来や、意志や記憶や、隣人や家族のようにも見える。心臓は早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。少ない時間では処理しきれない現象が怒涛のように起こり、私たちは泣いてしまいそうになる。するとその現象は終わる。機械を取り外す。ここまでが第一部。
第二部、隣の空間に案内される。発光する白い液晶画面。文字列の書かれた紙を渡され、液晶から放たれる白い光を頼りに読む。
Tumblr media
ヘッドホンをつける。人間の呼吸のように聞こえる音、その他何かはわからないが人間の生命活動に関係すると思われる音、が聞こえてくる。第一部で聞いたモノローグを、「本物の」声で聴く。かれの姿が見えている。絞り出すような声。ままならぬ身体。だんだん動かなくなっていく身体。モノローグが切実さを伴って立体的に立ち現れる。第一部ではBGMだったものが、ひとつの肉体を通してその場を支配する声となる。先ほどまでの私たち、機械をつけて現象に放り込まれるしかなかった私たちの写し鏡のような、観客たちが窓から見える。彼らは起こることを自らの身体で確かめようと手を伸ばしたり、歩くことを試みたりしている。亡者のようにも、波に揺れる海藻のようにも見える。まるで決められた振り付けを踊っているようにも見える。それはまさに「演劇的」だ。彼らは生きて肉体を持っている。周囲の影響を受けて動かされたり、自らの意思で動かす身体を。
画面の中でかれは話す。自らの全てを、訥々と、無駄のない言葉で。かれの人生が見える。かれの妻が、子供が見える。かれは言う。私たちは有限の時間に生きている。目を覚ませ。己を解放しろ。生きろ、と。かれの肉体を通して伝えられる言葉は私たちを鼓舞する。駆り立てる。終幕の間際、かれは「歩き出す」。そのあまりのエネルギーに私たちは脱力状態になる。そして決意する。この有限の時間の中を、なんとしても生き尽くさ��ばならないと。
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mckvcandy · 5 years ago
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脳や節足のような気色悪い物体が鍵だという。どちらも受け取りたくないといったら笑われた。図書館の受付をしてくれるあの人は現実とは違って優しかった。受付ながらわたしの勉強不足をなじるので、あわてて関係ある本を選ぶ。あまりいいものがなくて、手塚治虫の漫画集に関連する話が入っているので手に取る。そのほか、ナチスのことなど史実を元にした漫画を集めたものらしい。
図書館というよりブックカフェのような場所で、落ち着いた過ごしやすい雰囲気なのにときどきグロテスクで悪趣味な小物があったりする。あの人もいる。久しく会わないあの人のカメラロールにわたしの動画や写真が収められていて、あああの人の中にもわたしはいるのか、と思う。
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mckvcandy · 5 years ago
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黄砂
視界が霞んで自分自身が埋もれていく。自分自身の姿が見えない。わたしはここにいるけれどだれからも見えていない、居場所のありかも足をどこにつけていいのかもわからなくてただ俯いてうずくまっている。わたしはどこにいるの?わたしはどこに行くの?わたしはだれと共に在る?どこかに連れ出してくれるだれかを待っている。その誰かとは自分自身に他ならず、ただ、旅の始まりを待っている。
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mckvcandy · 5 years ago
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2X世紀の女の子たちへ
‪ この映画に最後に登場する女の子は、映画を「みるこ」、つまりわたしだ。わたしたちすべてだ。この映画を観終わった後は、必ずわたしはわたし自身に立ち返る。わたしの身体の真ん中にいる女の子が大きな声をあげてわたしをノックする。
「わたしも21世紀の女の子の一人として子の、子の子の、そのまたずっと子孫の子供たちのいる地平をまっすぐ見つめてものづくりをしていきたい!」、わたしの中の女の子はそう叫んでいる。21世紀の女の子に関わったすべての人が歩いているその後ろを、いろんな女の子を巻き込みながら同じ地平を見つめて一歩一歩歩く。
前を歩く人の背中は頼もしく、しっかり握り合わされている手や逆風になびいているスカートのシルエットが見える。光はもっと向こう側にあって、でもこちらにずっと降り注いでいてわたしたちの身体を等しくひたし、わたしたちの目に大きな輝きを落とす。その地は必ずある、見えている。
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mckvcandy · 6 years ago
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Can we just talk?
あなたを好きで、あなたに触ってみたいから、あなたにもし会えたら、あなたとおしゃべりだけがしたい。どうしておしゃべりだけをしてくれないの?どうしてわたしが話をしているときにあくびをしたの?どうして二人きりになれるところに早く行こうとしたの?
女の子だけのわたしなんてもう今更いらない。10代の時にそうなれないことを、ノイズのない記号として消費さえしてもらえないことを知ってから早々に捨ててしまったのに、今更女として身体だけ使えと言われてももうできない。差し出してくれないならぼくは背を向けます、のあとの人間扱いはとても嬉しかったけれど、わたしの意思表示の直後のあなたの失望が、あなたの根底なのだと思う。どうしてあなたを自由に欲望してはいけないの?どうしてあなたの欲望に応えることでしかつながれないの?わたしはノイズでありたい、汚くありたい、並んで歩きたい、あなたたちと。だから見つめ合わずに、おしゃべりだけがしたいのだ。あなたを傷つけて少しあなたを知ったけど、わたしは傷つかずにわたしを知らせたい。傷つかないあなたの愉快なおしゃべりが聞きたい。消費するだけのミラーリングをあなたにすると悪いから、また会えたらお茶を飲みながらおしゃべりをして笑って別れてくれたらすごくすごくすごく嬉しい。
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mckvcandy · 6 years ago
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ホットギミック ガールミーツボーイ
わたしたちはお互いをわかった。わたしがあなたを見つけたとき、あなたはもう、もっと奥から、もっと深くからもっと前から、わたしを見つけていた。美醜で取捨選択する男の子たちより、点数で選別する大人たちより、もっと鮮烈に狂おしく、あなたがたったひとりのわたしを見つけた。くらやみのなかでわたしたちは迷わず手を取り合った。はじめから、あなたの手がスクリーンから、こちらに向かって伸びていたから。わたしは今よりもっと若くてがむしゃらで、出会いたかったあなたに出会って狂喜乱舞した。わたしもまた、未来で、過去のわたしのようなあなた、まだ見ぬあなたに出会いたい。そのためにずっと手を伸ばしていたい。
「ホットギミック ガールミーツボーイ」は、女の子が男の子に、世界に、自分自身に出会う物語だ。主語はガール、映画を撮る女の子山戸結希であり、スクリーンの真ん中に立つ女の子堀未央奈であり、物語の起点である成田初であり、映画を「みるこ」のすべてのあなた、あの子、彼女たち、わたし、わたしたち。
出会ってしまうという受動性、世界に放り込まれたときの大きな衝撃音、わたしたちはみんな、それに打たれてうずくまってしまったことがある。そして知る、自分にどんなまなざしが降り注ぐのか、自分自身の中にどんな欲求が希求が眠っていたか、そして自分自身のまなざしはどこへ向かうのか。
まなざすこと、まなざされること、手を取り合うこと、結ばれることを望む、望んでしまう、望まざるを得ない身体。そのままならなさ。本当はこうじゃないのに、こうしたくないのに、こうすべきでないのにこうしてしまう、その甘く苦しい呪い。傷ついてなお甘受する、天災のような恋。わたしたちはこれを知っている、知らなかったことを覚えている、知ったときを思い出す。過去を発見し未来を回想する。10代、20代、30代、40代のわたしたち。
大きな安心、もともと知っている世界、幻のように確かな犠牲と庇護。いつまでも身を委ねていたい切実な愛情。だけどその前で扉は閉まってしまった。なぜ?
女の子は走り出す。どうしようもなく出会ってしまった世界に向かって言葉を、感情を、身体を、自分自身を投げつけるため。男の子も、世界も、自分自身もわからない。でも、わからないからしちゃいけないんじゃない。わからないからしないではおれないのだ。いくつもの出会いによってそのことを発見し、こうして女の子は起点になる、世界に向かってハロー!ハロー!と大声で叫ぶ。それをしていいんだ、もしくはそれをせずにはいられない、と確信し、覚醒し、拡張しはじめる女の子の個の存在。もう一度、誰に所有されるでもない自分自身のはじまりに出会いなおす、そんな、あらゆるガールたちにとって大切な作品になった。なっていき続けるのだろう。
あなたに、わたしに、また何度でも出会いたい。そのことだけが、女の子の世紀をきっと形づくる。
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mckvcandy · 6 years ago
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ドレミファソラシド素知らぬ顔で阻止
愛を余裕でやっていたら恋に急に殴られてしまってこの2ヶ月というもの頭と気持ちがかなり忙しかった。そして愛の方が大事にきまってるので恋を必死で抑えつけるために文章を書いていたら1万字をパキッと超えてしまって、それはつぎの「くちぶえ」に載せる予定なんだけど「くちぶえ」に載せていいのかな。載せていいと思う?「愛号」からス��ートしてそれは余裕で愛をたぷたぷにやっていたころに書いたやつだから、それが変質してしまう���は怖いし、死ぬまでふたりはキキララでありたいし、それはもう固い決意として揺らぐことがないので、猛スピードで迫ってくる恋の方に飛び出して轢かれないように文章を書くしかなかったとこういうわけなのですよ。まあいいか、たらこも載せていいって言ってたし。大人は怖いね、お酒があればなんでもできてしまう。できるという可能性が出てきてしまう。それはだまっていれば流されてしまうような強い力をもってわたしの人生にはじめて迫ってきたし、抑えつける力が必ず必要なものなので、まず自分からはいけないし、向こうも多分遠慮してるのか、もうわたしのことなんてこんなにちかくで忘れてしまっているのか、飲みに誘ってくれることもなく、サクッと終了した、さきほど。「もちぇさん、また」なんつって手を振って、終了したこの2ヶ月が。だからもうこの瞬間から過去になった、過去にできる、もう会わなくて済む、あーおっかなかった、あー毎日気が気じゃなかった、昨日というか今日の朝5時に眠れないでいて、目を閉じたらたくさんのその人の顔が出てきて驚いたしキモかった、頭に浮かべてないのに、何にも思ってないのに、気持ちを発してないのに、顔だけがたくさん、目の裏に出てきた。たくさんの瞬間のたくさんの顔、いろんなことを本当にすぐ忘れてしまうのに顔だけが目の裏にいた。
そういうわけでもうちょっとだけ、この気持ちを精算したら、書けば無になるはずだから、無になれるはずだからそうしてきれいになったらその排出したものが読んでいただけるというわけ。こないだ読み返していたらはじめのころはノーテンキすぎて笑えた。とにかく時間が経つうちにどんどんどんどん疲弊していって頭がすり減って行ってる感じがして、まだ回復してないからきっと冷静になれてないし、気持ちも引きずられていたんだと思う。そのベタベタしたものをベタベタしたまま書いてみた。ばっちい。
恋が大きく速く強いからといって愛が縮むかといえばそんなことはなく、愛の深さと揺るぎなさを改めて確認したのであった。もう愛は、わたしの身体の一部になっていて、わたしの身体の底にふかふかと、横たわっている。竜巻のようなあらあらしさで感情を蝕むこの恋とはなんの関係もない場所でそれは、驚くべきほどの確かさで、鎮座しているのであった。わたしの還るべき場所はここにしかなく、当然恋は、全力をかけて無視しなければならないものなのだった。そのことを書いたし書きます。読んでね。
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mckvcandy · 6 years ago
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2019.1.29 21世紀の女の子のものづくりと未来を語りあう
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2019.1.29
21世紀の女の子のものづくりと未来を語りあう
講師:山戸結希(映画監督)、東佳苗(デザイナー・映画監督)、飯田エリカ(少女写真家)、松丸千枝(雑誌「装苑」編集者)
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こちらのイベントに参加してきたので、自分が書き留められた範囲のメモを公開します。正確ではないかも知れませんがお許しください。間違いや、書いてはまずいことなどがあればご指摘をいただけると嬉しいです。
山戸:今日ここにお集まりの皆さんは選ばれし皆さんですね。忘れられない夜に。
Q:「21世紀の女の子」はどのような過去と未来を夢見て始まったプロジェクトか
山戸:ずっと「映画の女子校」を作りたかった���死に一番近い芸術は映画(=走馬灯)。いい死のイメージはどのようなものですか? 一番素晴らしい芸術は一番素晴らしい世界と等価。ものづくりにおいて評価を気にするのは二流芸術家、贋作家のすること。これからの、未来の人たちがもっと世界をよくしてくれるというイメージに確信が持てたらいい。ここ20年でメジャー映画をとった女性の監督はわずか3%。(作るのは男の仕事、というような)慣習的なものがそのまま若い世代に引き継がれていく構造のどこかに関与できないかとして、始まった。
東:(山戸監督にオファーをもらって)私ですか? と思った。短編映像は山戸さんも見てくれていた。
山戸:シブカル祭の縷縷夢兎のファッションショーが素晴らしかった。2010年代の女の子の多様性をまさに見たように思った。東さんを尊敬している。
飯田:オーディションの知らせを見て、「21世紀の女の子」の企画を知った。これに何としても関わらなければと思い、呟いたら、山戸監督にメッセージをもらった。
山戸:夢の中ではオファーしていたんですが…。飯田さんは純度の高い本物の芸術家。強情で、折れずに踏ん張っている。松丸さんには、高嶺の花にプロポーズするような気持ちでオファーをかけた。
松丸:「女の子が女の子を愛するということ」(「装苑」2018年4月・5月合併号)の企画がきっかけ。色々なクリエイターが表現したいことを表現する、という企画。山戸さんの作品を本当に尊敬している。
山戸:松丸さんのおかげで第一線のファッションブランドが映画に力を貸してくれた。最初は無理だと思っていたことがすごいスピードで実現していった。ありえないくらいのパワーが結集した。目に飛び込んでくる力、ビジュアライズの力になっていった。
3人(東、飯田、松丸)とも、絶対に死の間際までものづくりをするんだという意志を感じ���。その意味でとても信頼している。
東:学生時代に就職したいところが一つしかなくて、そこで働いてみてもなんか違うなと思ってやめてしまった。クリエイター事務所を作りたいという気持ちがあって、服だけでなく映像や美術やスタイリングなど。多種多様な人たちと関わる中で、クリエイターの子たちを育てたいというのがあった。その意味で、次の世代に、という意識が映画とも共鳴したかもしれない。
飯田:クリエイターは孤独。特に写真は一人で完結することができる。でも私は誰かと一緒に愛情をもって作らないとだめ。映画はチームの芸術だから、山戸さんとの出会いをきっかけにチーム感のある創作ができた。天才は一人で駆け上がっていくイメージだったけど、比べ合って勝ち負けがどうこうではなく、それぞれがそれぞれにいいものを作っていく、自分だけが作り上げればいいという感覚ではなかった。
Q:「セクシャリティ、ジェンダーの揺らぎ」というテーマの由来について
山戸:世界を一番変えるテーマを選びたかった。セクシャリティ、ジェンダーというテーマをきちんと意識の俎上に載せるということ。「(女性は)無意識に描いている」と言われてきたし内面化されていた部分もあった。それを共通の言語、ビジュアルで共有して、向き合うべきものとして表に出すということがしたかった。(この作品で描いていることが)それぞれのあるペルソナに過ぎない、ということが各人の若さにおいて意味があることだと思った。
Q:東さんの作品「out of fashion」はどのような女の子をすくい上げるのか
東:他の人より女子が多いところ、ファッションの現場にいた時は感じなかったが、短編映画の現場で映像を撮ってみてカルチャーショックだった。(監督である)自分の意見がびっくりするぐらい通らない。
山戸:あるあるだよね。映画を撮る人はみんな感じるカルチャーショック。
東:色々な事情があるのだと思うがこれが映画界なんだ、と面食らった。映画好きを公言していて、邦画をボロクソに言っていた。ものづくりを志す人を感化するような映画が邦画には本当に少ない。なんでこの服、とかなんでこのビジュアル、とか本当にイライラしていた。
山戸:東さんが実名でやっているFilmarks、本当にすごいんです。映画を愛している。縷縷夢兎のあみあみとか、映画もそうだけど、東さんの作るものには内面がキラキラと溢れ出している。(ビジュアルのフラストレーションの話を受けて)映像はエリカさんじゃないといやだ!ということになった(「out of fashion」の撮影は飯田エリカ)。
飯田:東さんのフラストレーションを見ていたから、自分は(東さんの理想を)理解して臨みたい、と思った。
東:テーマなんでしたっけ。「out of fashion」か。
山戸:東さんはテーマの芯を捉える真面目さがありますよね。
東:数年前に付き合っていた九州男児気質の人に自分のやっていることを「結婚するまで頑張ったら? 結婚したら家庭��優先するのが普通だよね」というようなことを言われ、それを内面化しかけた時期があった。じゃあ自分が今やっていることはどこに行き着くんだろう? と思ってしまうことがあった。女の自己実現、夢の具現化は二の次とされてきていた。いわゆる普通の女の子、就職して結婚して子供を産む以外の最短ルートがあるんではないかと思った。創作に時間をかけている割には見合った対価をもらえない、正直コスパが悪いけれども、それをやらざるを得ない。その感じがアウトオブファッション。
山戸:別れて正解ですね。でもその言葉を真に捉えてしっかりと作品で昇華している。その人に対する、(「あなたが時代遅れだよ」、という)アンサーになったのではないでしょうか。トリプルミーニングですね。松丸さんと東さんは母校(文化服装学院)が同じですよね。
東:主役のモトーラ世理奈ちゃんは装苑モデルで文化出身。オーディションで選んだ男の子もたまたま服飾学生だった。有名でかっこいいとかよりも、キャスティングにはリアリティが欲しかった。
松丸:ファッションを描いた映画は成立しにくい。でも「out of fashion」はファッション学生が見ても胸がぐっとなる映画になっているからぜひ見て欲しい。
東:キラキラ感あると思われてるかもしれないけど全然違う。
山戸:映画版矢沢あい、みたいな、ご近所物語とかパラダイスキスの、実際文化の学生が作ったバージョンが登場した感じ。文化の校歌みたいに…
松丸:入学の時に全員8分間見る、みたいなのいいかもしれないですね笑
東:まあでも学校のPRにはならないかな。現実を描いているから。
山戸:ファッションの外側にいる人々ですよね。
Q:山戸監督の作品「離れ離れの花々へ」について
山戸:偶発的に作った映画。瞬間瞬間が詰まっている。
東:衝撃波みたいな映画ですよね。
山戸:今まで言われた言葉の中で一番嬉しい。
東:考える暇を与えない。
飯田:精神に直接語りかけてくる。気づいたら涙ボロボロ出ている。
東:山戸さんの映画だけ神目線。
山戸:撮った映画(子供)はもう他者。別々の人間になっている。唐田さん、「寝ても覚めても」を見る前に出会ったが尋常じゃない天才だと感じた。女優を志す人にとって「この作品があれば一生演じ続けられる!」というような作品にしたくて、新しい人と撮った。この作品も、過去撮ってきた映画も、違う場所で、違う俳優でまた撮りたいと思う。でもだからこそ、目の前のキャスト・スタッフで最高の掛け算を生み出さないと、と思う。
Q:飯田さんのスチール撮影について
飯田:映画のスチールは本編撮影中に邪魔にならないように、でもいい写真が撮れるように、ギリギリのバランスで撮影する。(少女写真家として)こんなに女性の監督とキャストをたくさん集めて…という機会はもう今後ないだろうなと思った。どうしても本編撮影にいけないものをのぞいて11作品のスチールを本編撮影中に撮った。写真は、すぐに過去になってしまうとはいえ今を見つめるものだから、その場にあるものに呼応して撮る、その作品の空気や美しさをきちんと捉えて残さないと、と思った。
山戸:飯田さんはすごい集中力と体力。この純度でこの量を撮れるのは世界中で飯田さんだけ。「できません」「やれません」も絶対言わない。肯定力、包容力が信仰のレベル。
東:クリエイターって作るものよりも、人格が大切だとつくづく思います。次もこの人と仕事したいって思われるかどうかだから。
飯田:あんまりノーと思わないです。
Q:装苑との関わりについて
松丸:ファッションのページは編集部全員が担当で、プラスで映画・美術・音楽・文芸、と担当が分かれている。2015年から映画担当になり、映画衣装にフォーカスすることが多かったけれども、ある種の閉塞感もあった。ファッションデザイナーには映画愛の強い人が多い(ファセッタズムの落合さんやキワンダキワンダの知恵子さん)。でも映画の衣裳に関わる人はごくごく一部。同じ人に何度もインタビューしたりした。デザイナーが蚊帳の外だと感じることが多かった。ファッションが物語の邪魔をするのは絶対に嫌だった。物語の中で生きるファッションを考えたいと思った。映画が好きなデザイナーの、女の子を輝かせてくれる服が実際にスクリーン上に登場できたので山戸さんにも感謝している。素晴らしい機会になった。
山戸:映画を撮る女の子は、もっとファッションと強い関係が持ちたいと望んでいたはず。隠されていた相思相愛関係です。
Q:21世紀の女の子のものづくりについて。主体的な語り手ではなかった女の子のものづくりの、現在地と未来について
東:(女の子に関わるものづくりをしている理由)漫画家とかシンガーソングライターとか夢はたくさんあったけど、共通していたのは内面にあるものをアウトプットしたいということ。でも服に全てを集約するのは難しい。それで映像なども撮るように。学校で習ったわけではなく、色々な人に求められてきたことに応えた結果こうなった。表現するものを一部だけで満足したくなかった。自分と同じような気持ちの人もいっぱいいるはずで、でもその姿が見えていないから、そういう人のためにやっている。サブカルというくくりにされることがあるけど自分としては興味があることをなんでもやっているだけ。
松丸:芸術家も古来なんでもやっていましたからね。デザインとか、商業的な仕事とか、純粋芸術とか。分業はここ最近の話では。
山戸:(東さんは)21世紀のレオナルド・ダヴィンチですね。縷縷夢兎は服ではなくて思想なんだと、ムービーを見て思った。東さんの表現は映画が突き当たりですか? ARで、つけたらみんな縷縷夢兎きているように見えるとか?笑 でも映画は第七芸術、最後の芸術と言いますから、結局映画に集約されていくんでしょうか。
司会:思想から自然に表象が分岐していくんですね。面白いですよね。
東:120%の力で、ずっと職人気質で…というのに憧れるけど、自分はできないから、80%ぐらいの力でできることをたくさんやりたい。
Q:飯田さんの「���女写真家」という肩書きについての思い
飯田:写真を始めたきっかけが、好きな女の子がいて、その子を撮らずにはいられなかったから。撮る対象として愛情を持って接さないと、写真に正直に出てしまう。「女の子を撮ってます」というと「アイドル好きなんだ」、って軽く見られる。私はめちゃめちゃ本気なのに! 本当に女の子を撮りたいという気持ちしかなかったから、師匠の青山裕企さんに華道家とか書道家とか「○○家」と名乗る人はそれを極める人だけ、と言われた時に、「写真家」と名乗ることに違和感を覚えた。古典的な少女、理想化された偶像としての少女というのはもう今は破壊されてなくなったと思う。私は偶像じゃなくて実像を残したい。女の子が「生きている」というのを撮りたい。守られた存在としての、お人形みたいな女の子はもういない。新たに生まれている少女像を、むしろ定義するような気持ちで、自由に、とらわれずに今を生きているそれぞれの、一人一人の少女像を撮りたい。
Q:語られていないことを語る、ということについての課題
山戸:今日の4人の職業の中でも、映画監督になるのが一番簡単。この作品を観た人は「自分でも撮れるな」、と思ってくれると思う。
東:人を動かすということ、全ては演出じゃないですか。そういう力は映画を撮っていけば身についていくものなんでしょうか。
山戸:みんな監督になってほしい。一番簡単だから。実際の困難を前にしても、やるという選択肢しかない。ここにいるお三方も、二分された道の中で光の方を選び続けてきたからこそ闇が見えているんだと思う。お三方は自分のやっていることを、一度でも辞めたいと思ったことはありますか。
飯田:こういう仕事をしていると、夢を叶えている、と見られがちだが、自分ができそうなことを追いかけて行ったらこうなった。お金のことだったり、困難はいっぱいあるが、生み出すものに対しての対価が釣り合ってこないことが続いて、見失いかけたことはある。
東:尊敬しているデザイナーに、「女の子とはうまくやれている」と思われていて、おじさんにもその媚びを使えればもっといい思いできるのに、と言われて衝撃を受けた。そこからそのデザイナーが嫌いになってしまって。でも服は着るんですけど。笑
飯田:本人とクリエイションは別だからね笑
東:世渡りが上手い人はいっぱいいる。嫌なことを言われてもへこたれないで、上手に愛想よく受け流せる。
松丸:私が気楽なのは、雑誌だから次が約束されているということ。後悔することがあって落胆しても、次の号があることが大きな希望になっている。ただ、声なき声、自分の中の引っかかりやしこりは絶対に忘れちゃいけない。
山戸:そういう時にうなずいたり、張り付いた笑顔を作ったりしたら、そんな人とは二度と会いません。せっかく神さまからいただいた純度があるのに。嫌なことを言われたら帰ってます。締め切りが…とか言って。笑
Q:ものづくりを志す人へのメッセージ
松丸:なんでもできる、と思ってほしい。表現、芸術だけじゃなくて生活に関わることだったり全てが「作る」ということ。ここにいるお三方を含めてどんなクリエイターを見てもそう感じる。あとは嫌だったことを絶対忘れないこと!
飯田:私はまさに「忘れない」という職業。「忘れる」と「許す」は似ているところがあるから…。脱線しましたが。やるべきこと、向いていることは多種多様。憧れている一つの職業に壁を感じたら違う方向に目を向けてもいいんじゃないかと思う。ものづくりに関わる仕事はめちゃめちゃ多いし。
東:目指しているものになれなきゃ死ぬ!という人もいるが、挫折が続いた末に天職が見つかる人もいる。向いていなくてもやらなきゃいけないこともあるし。
飯田:お金をもらえる仕事と、純粋なクリエイティブの繋がりが難しいですよね。
東:そこそこ仕事をやりつつ、趣味程度にクリエイションするというやり方でもいいと思う。
飯田:とにかく作っておくということも大事。本人が望んでいないタイミングで評価されることもあるし。
山戸:ここにいるお三方は魂が純潔。「うまくやりたい」と思う子は芸術家ではない。そういう子は「誰かの女」になって言ってしまう。折れたり、辞めたり、媚びたりしない。おじさまが仕切っている組織は甘い香りがするかもしれないけど、女の子は新しいものを、命を、生み出す天才だから、生み出すべき。魂は守ったもの勝ち。こっちで旗を振っているから来てほしい。
Q:心に残っている映画
東:「ユモレスク 逆さまの蝶」。猪俣ユキ監督という、もともと女優をやっていた人が撮った映画。「ひなぎく」のオマージュになっている。美波と太田莉菜が出ていて、マカロニックのデザイナーが衣装を作っている。邦画で、全てにおいて気鋭のものを集結させたもので、影響を受けたもの。こういう映画はもっと撮られるべきだと思った。
飯田:古く心に残っている映画は「誰も知らない」。小学生ぐらいの時の映画で、ちょうどまさにこういう友達がいた。あとは山戸監督の映画。
松丸:「ポリマグ お前は誰だ」。授業で見た。視覚のかっこよさと、物語の筋道で映画は進んでいかないといけないという思いこみをガン!とやられた。
山戸:こういう時に、後になって「石井隆監督の話をすればよかった!」と後から思うんですけどね。映画を観るときは一緒に撮りながら、なんでそこにカメラ置いたのとか考えながら観る。シネコンもミニシアターもすごくたくさん行くから、たくさん撮っているような感覚。心の栄養失調。自分にとっての崇高な思いを奪われることは辛い。でも奪われていることで与えられているのがありがたい。奪われたらすぐ帰る。
東:奪われることで与えられている、というのはすごくわかる。傷つくことで見えるものがあるし、自分のエネルギーになっていく。
Q:自分自身が綺麗で可愛くいることに対して執着はあるか
山戸:執着ありつつ諦念。
松丸:執着もたなきゃいけない、持ちたい、という思いはすごくある。前に出ることもあるから。
飯田:前は気にすることもあったけど、自意識よりも他人に向ける視線で忙しくなってしまって、それ以降は好きな服や好きなメイクを自由に気楽に楽しむようにしています。
東:やりたい格好をして生きて来た。それこそニーハイにツインテールとか。可愛く見られたいとかいうよりも、自分が着たい��を着ようということだけ。着たい服着るから受け入れろよ、というスタンス。
山戸:「21世紀の女の子」公開までに10kg痩せようと思います。俳優さんだって痩せたりするじゃないですか。
Q:ものづくりをし続ける気持ち、覚悟、そのことで得るものについて
飯田:いろんな人を撮るから、その出会い自体が得るもの。
山戸:映画を撮りたいなら本当に撮った方がいい。iPhoneでもいい。iPhoneよりも画質が悪いので撮ったりしてたし。とにかく「やる一択」。ものを作ってやっと人間になった、ということもある。抑圧が解ける。ものを作っているとずっとそれをやり続けるから社会的な空気に合わせて発言することもない。何も奪われていない、むしろ得るものしかないと思う。被虐的な立ち位置には自分を置いていない。
東:失われるものはありますけどね。パクられるのが一番イライラする。学生とか若い子ならどうでもいい。真似はクリエイティブの最初の一歩だし。それより自分よりデカイ何かに踏襲されるのがムカつく。統計的にいいものを搾取されるのが。こっちは命削って作ってるんだから…。でもこれをやるしかないからやっている。
山戸:イメージが共有されて、似た映画が増えることは世界規模ですごくいいことだと思う。これを踏み台にしてもっといいものをむしろ作ってほしい。
飯田:師匠の青山裕企さんを限界まで真似してみたことがある。顔を撮らなかったりと女の子を抽象化して撮る手法なんだけど、それは自分には合わないと思った。そこで、実像・肖像にこだわる! ということを発見した。
Q:良い暮らし、とは
山戸:衣食住は肉体の充実。それより精神の充実、心の衣食住を満たしていきたい。具体が何もないのは肉体のテクニックの問題ではなくて精神の問題。ただやる一択。自分の心だけが問われる。少女の時から人間だった。願ってはいけないことはなかった。ただやるということ、それ以外の解決法はない。
Q:最後に
松丸:大きな円環になりうる一作になった。
飯田:この時代にこの映画があって、これを観る人が居るということ自体がすごいこと。
東:ここにいる、抽選して来場した人たちは、私と同じくらの純度の魂を持った人たち。「21世紀の女の子」の中の全ての作品に共感できるのは0人ぐらいだと思う。同じものがない、というのが良さ。自分の中でどの1本がよかったか、素直な感想が聞きたいと思う。
山戸:みんなが違う、ということが救いになる。女の子のポジションの取り合い、それが幼少期に刷り込まれてきた。でも女の子は一人一人が人間で、全て異なっているから、誰も憎んだり、嫉妬しなくていい。生まれた瞬間から、自分の物語は始まっている。女の子は命を生む天才、ものづくりの天才。本当に待っているから、一緒に作りたい。
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mckvcandy · 6 years ago
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P・オースター「幻影の書」
人間の生の営みが失われてしまうこと、その悲しみと痛み、胸の底をつくような大きな、大きすぎて狂気に手が届くほどの悲しみと痛み。それを癒そうとしてか、もしくは悲しみを味わい尽くそうとしてか、人間は薬や酒を欲したり、笑いを求めたり、または机に向かってそれをつぶさに書き留めたりしようとする。あらゆる細部への執心が、そこに至るきっかけとなった書き手の苦しみを思い起こさせて痛々しい。だけどそれが不思議と精神の安寧へと繋がっていくのだ。書く、という、痛みと向き合い、痛みを癒していく行為。この作品で描かれる喪失はあまりに痛々しく、悲しみはあまりに深い。しかし喪失を描くことで愛や希望を裏返しにしてたしかに描いている。希望を描いた作品だ、とは軽々しく言いたくないが、オースターの作品には孤独と向き合うだけの勇気をそっと持たせてくれるような精緻さがある。
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mckvcandy · 6 years ago
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田舎娘
胃腸が動いてくれるのをじっと待つ時間がある。最近特によく動いてくれなくて、苦しい思いをすることがある。 いろんなことが麻痺してきているように思う。たいせつな気持ちとか、愛とか、それが無感動な執着になってしまうときが一番悲しい。ちょっと不健全なんではなかろうか。ちょっとバランス崩してきてるのではないだろうか。感受性がバカになってきたような気がする。 ある対象を愛しているはずなのに、その対象を前にしてもなんの感慨も湧いてこないのに、それ以外の、外部から差し込まれてきた無関係ななにかにいたく感動して涙したりするということ。薬は飲みすぎると耐性がついてしまうという。それと同じようなことが起こってしまっているのかな。そのくせ全てを摂取したくて心に余裕を持てなくなったり、偏執的にお金を使ってしまったり。なんとも不健全だ。 とはいえ今日とても楽しかったから一人でごはんを食べるのがとてもさみしくて、帰宅してから、孤独な人の小説を読んでいたら、その本と孤独を共有しているような感じがして、安堵感を覚えた。時間が密度を持つような感じ。一人で読書をするってとてもいい時間だな。 とても幸せなはずなのになんで幸せと感じられないんだろう?思いの総量の問題なのか。普段からもっとそういうふうに考えていれば幸せを十全に感じられたりするのだろうか。
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mckvcandy · 6 years ago
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稲場愛香が美しくなかった
今日の稲場愛香は美しくなかった。 なぜか? 彼女が全身全霊で演じていたからだ。とても複雑な過去を持ち、とても複雑な状況に置かれ、とても複雑な心情を抱く役を。彼女は舞台の上で、今までそんな彼女を誰も見たことのないような複雑な顔をしていた。いつもの完璧につくられた美しい顔とは違う。ねじまがったり、膨れたり、垂れ下がったりする顔の筋肉。それらは複雑で、ぶかっこうで、真剣そのものだった。生きているという感じがした。彼女が難しい、入り組んだ役を猛烈に懸命に生きているという感じ。彼女の生命の内側から滲み出てくる感じ。彼女は今日も舞台の世界を全身全霊で生きた。明日からも生きていく。それを今日、見届けることができた。なんて嬉しい幸運なことだろう。何度でも何度でも繰り返す一回きりの尊い生を目撃したということは。 物語の構造的に彼女に背負わされているものが多すぎて(ヒールでありヒロイン、主人公であり黒幕、探偵であり犯人、物語をドライブする役目でありながら、物語のラストで悲劇を一挙に引き受ける焦点であり消失点)、いくら器用な彼女でも、今まで手に入れてきた武器だけでは戦えなかったのだろう、それでも立ち向かおうとした、その悪戦苦闘の記録が今日の彼女の顔をはじめとして一挙一動にあらわれていた。ノンフィクションであるライブでは苦労の跡を見せない彼女が、フィクションである舞台でこれだけもがいているなんて。そして彼女は「こなす」のでなく、今の彼女の精一杯をやりきった。 最後の嘘のない涙。フィクションのメカニズムの中の完璧な涙ではなくて、現実とフィクションが、体と心がごっちゃになって混ざり合った、なんの涙か説明のつかない涙。あぁ、彼女の感情がそこにあり、彼女が生きているということが強烈で美しかった! その熱量を、その涙を引き出した宮本佳林という強力なエネルギーに嫉妬した。カーテンコールの最後なのに、客ではなく宮本佳林に向けられる視線。あなたたちは向こう側にいて、そのまま手の届かないところでずっと手を取り合っていてね。この嫉妬は快感すぎる。 さてと、次は稲場愛香ちゃんがカロリー少ない軽〜い役柄でハッピーエンドでわちゃわちゃ幸せそうにふざけてるのが見れますように〜!!!!!
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