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kyuaoi · 3 days ago
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2025年2月2日(日)
 家でクッキーをつくれるように、先日食材や調理器具を買い揃えていて、今日は雨だし特にやることもなかったのでクッキーをつくった。つくり始めてみると、数個つくるくらいなら思っていたより時間はかからず、お菓子づくりが大変そうだという自分の記憶はどこからきているのだろうかと気になった。オーブンで焼かれたクッキーを冷ましてから一口食べてみるともちもちしていて美味しかったのでそのように伝えると、その後同じように一口食べたあぴちゃんが「まだ焼けていないね」と言い、もちもちは完成形としてはあまり好ましいものではなく、未完成である故のもちもちだった。なので追加でもう少しだけ焼き、どうやら家で使っている無印良品のオーブントースターは温度が低いということが知られた。
 あぴちゃんから三木那由他さんの本がわかりや��くて面白かったと薦められていたので『言葉の道具箱』を読んでみる。確かにわかりやすいエッセイが多く、専門的な単語や昔の哲学者の思想などが三木さんの語りの前提として登場するとき、それらを自明なものとせず、しっかりと言葉を尽くして説明してくれていた。書かれている内容の手前にある「むずい」の段差で躓きまくると挫折してしまいがちだからとても助かる。一人称権威に関するエッセイが特によかった。『エスノグラフィ入門』を読んでいたときから次はこれを読もうと決めていた『水平線』と併読。『水平線』は第一章の序盤は物語に入り込めず、むむむ、と思っていたものの、
 このとき、まだ海外旅行の経験もなかった私は、時間的にも距離的にも遠くにあるこの島を、自分がふだん過ごす毎日と接続しない、結構な非現実感を伴う景色として眺めていた。その特別さを、自分のなかのどこに落ち着ければいいのか、そんな場面が自分のなかにあるのか、よくわからない。しかしそこで陳腐で典型的な感傷や激情を吐いてしまうダサさや安直さをダサいとか安直だと思う分別だけは当時の私にもあって、というかあったのはそれだけかもしれなくて、自分の先祖が死んだ土地を訪れ、その景色を見て浮かぶ人間の心情なんて陳腐な定型をなぞるほかない。飲み屋の便所で目にする詩のような言葉が浮かびかけては、それをひとつひとつ、つぶしてつぶしてつぶす。それでもなにを見ても特別な、旅先特有の過敏さでいろいろの感情がわいてきて、けれどもそれに形を与えようとすると、とたんに便所の詩になる。便所の詩にしかならない。窓の外を見続けながら、この日差しの強さ、色の濃さ、風の生暖かさに、無人の時間の長さを重ねることを試みる。重ねたところで、なんの言葉も出てこない。無人の時間というドラマチックな言い方がすでに嘘で、実際には戦中戦後には米軍の、返還後から現在に至るまでは自衛隊のひとびとが、在島し続けている現実がある。 滝口悠生『水平線』(新潮社)p60,61
 とあり、この描写に到達したとき、「滝口悠生だ、滝口悠生が始まる!」と昂った。
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kyuaoi · 4 days ago
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2025年2月1日(土)
 あぴちゃんは妹と中央線沿いで遊ぶそうで、日中から夜までの時間を一人だけで過ごす。あぴちゃんが家を出る前、靴下についた毛玉をクリーナーで取り除いていて、クリーナーに溜まった毛玉をゴミ箱に捨てるときに「ぬいぐるみつくれそう」と言っていたことがなぜかずっと頭に残っていた。
 お昼にあぴちゃんが家を出ると、それからひたすら読書。『読書の日記 予言 箱根 お味噌汁』が残り150ページくらいで、集中さえすれば、おそらく今日中に読み終えることができそうだったので、集中することにした。
 山口くんが昨日書いてくれた「今日も読書」のテキストを今日あらためて読んでみるとせきしろの『1990年、何もないと思っていた私にハガキがあった』で「山口です。ラジオネームは「ファイヤーダンス失敗」です。2013年秋から2016年秋までの三年間、少しおかしな量のメールをラジオ番組に送っていました。その当時のことを書くと自己陶酔の空気が多めにフェードインしてきて吐きそうになるので書くのが難しいんですが、あれからたくさんの時間が経った今、あの頃の無我夢中さを取り戻したいな〜と思うことが増えました。好きな芸人さんに名前を呼んでほしいというただそれだけが生活の全てで、でもそれって正しい欲求のあり方なのか?とも思います。欲求に正しいも正しくないもないのかもしれないけど、人から好かれたくてメールを送っていたから、友達や恋人ができて満たされてしまいました。あれ、俺は芸人さんが好きなんじゃなくて自分のことが好きでメールを送っていたんだな、と悲しくなりました。それは言い訳する出口が全く無い、あまりにもそれでしかないことでした。ただ、それでもどんな理由だろうと、無我夢中で、無人島で火を起こすような必死さで、あんなにもたくさんの文字を書いて、孤独から自力で匍匐前進で這い出したこと、俺だけは���めてあげよう。自信過剰にならない程度に。頑張ったな。  この表紙の写真は、今までのハガキ職人全員が見てきた、ラジオを聴き終わったあとの朝焼けです。それはせきしろさんも絶対に見ただろうし、僕も見ました。午前五時の相模大野のアパートで。」と書かれていて泣くかと思った。 阿久津隆『読書の日記 予言 箱根 お味噌汁』(NUMABOOKS)p594,595
 と書かれていて泣くかと思った。
 それでそれから久しぶりにイ・ランのエッセイを読んでいてやはりずっとよかった。このあけっぴろげさというか、真似できない感じの書かれ方だなと思って真似をしたいわけではないがそれは刺さるそういうものだった。けっきょく人は自分の書ける範囲でしか書けないというか書かなくて植本一子が「赤裸々」とよく言われるけれどそんなことはない、書けることを書いているだけだ、みたいなことを書いていたことがけっこうずっと残っていてそうだよなと思って僕の書く文章も「なんでも書くね」と人に言われることがあるけれどとんでもなくて穏当なことしか書いていない、書いている当人が赤裸々と思うことなんてきっとない。イ・ランもそんなふうには思っていなくて書けることが自然に書かれているというそれを僕はあけっぴろげと感じるのはつまり、人にはそれぞれ自分はここまでは抵抗なく書けるという範囲があってその範囲内で人は書いて、他人が書いたそれが自分の範囲と重ならない自分の範囲から外れたところにあるのを見るとき「すごいなよく書けるな」と感じるというそういうことだった。 阿久津隆『読書の日記 予言 箱根 お味噌汁』(NUMABOOKS)p619,620
 読了。阿久津さんの日記を読んでいると、読書の時間が読書の時間としてただそのままあるだけで、感想や評の表明みたいな読中や読後に考えてしまいかねない、読書そのものではないにもかかわらず読書の一部として勘違いしやすい、されやすいそういったものから���一抜けぴ〜」という飄々とした気持ちで読書に没頭することができる。
 窓の外に目をやるとすっかり暗くなっており、確かにお腹も空いていたので白菜と玉葱としめじを適当に炒めて納豆ご飯と一緒に食べた。一人だとどうしても蔑ろというか、質素な食事で自分を満足させてしまう。シャワーを浴び、まだあぴちゃんは帰ってこなかったので、もう一冊何か読もうかと『エスノグラフィ入門』。こちらも残り1章だけだった。そして「おわりに」読み終えたちょうどそのタイミングであぴちゃん帰宅。ワインをたくさん飲んだそうで、ごきげんなように思われた。
 それでふたりでごきげんなダンスを踊っていると、ふとダンスを鑑賞したくなり、幼きあぴちゃんがダンススタジオに通っていた頃の発表会のDVDを引っ張り出して鑑賞会。おそらく15年ほど昔のものだ��うで、使われている音楽や踊り方の流行り、衣装の傾向みたいなものは現在のそれとは随分と違っていたけど、それでもダンスを鑑賞することは楽しく、人の身体はおもしろいなとつくづく思いながら飽きずに見続けた。
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kyuaoi · 5 days ago
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2025年1月31日(金)
 朝、あぴちゃんが林檎を焼いてくれて、食パンにのせてシナモンを塗して食べた。今日はPLANT PLANETでお昼ご飯を食べる予定で、食後にあぴちゃんがお店に電話をしたところ予約がとれたため、支度をして12時半頃に家を出た。
 学芸大学駅前は平日だからかそれほど人気はなく、東口の商店街を通り抜け、15分ほど歩く。PLANT PLANETへ。ヴィーガン料理専門店で、ランチメニューはカレーかシチューを選べるそう。ふたりともシチューセットを注文した。僕たちの後にもう一人お客さんが入ってきて、その人はキャロットケーキを注文していた。このお店はキャロットケーキが有名らしく、店員さんもメニューをテーブルに置く際に、今日はキャロットケーキをお出しできますと言ってくださったが、結局キャロットケーキは注文されなかった。それでシチューが運ばれてきて、なんだかよくわからないけど、とにかく美味しいという、そういう類の美味しさ。2・3種類のスパイスが塗されていたが、どれもどのようなものか説明し難いものだった。素揚げのブロッコリーが特に美味しく、もちろんその味を再現できるとは思わないが、野菜を素揚げするという手法くらいなら自分にも真似できそうだったので、今度挑戦してみようと思う。
 お店を出て、また少し歩き、necomaへ。建物に入って3階まで登る階段の途中、なんだか以前にも見たことがあるような雰囲気が感じられ、2階の扉の前にあったレンタルスタジオの立て看板を見たときに、以前働いていた会社で一度だけとある広告制作案件のために借りたところだということに気がつく。その案件にはあまりいい思い出がなく、いい思い出のなさがその案件に取り組んでいる最中にだけとどまり続ければよかったものの、記憶というものは厄介で、その会社を辞めた今にも、ぼくが社会のつまらなさというか、会社のつまらなさを抱かせるものへとしっかりと伝播した。特に発注する側からされる側へのコミュニケーションのケア的視点が圧倒的に欠落していて、フェアネスや親切心なんてものはどこを探しても見当たらず、一方で金銭的な報酬は仕事を発注する側からされる側へと支払われるわけで、だから、だからというのも本当におかしいし狂ってるんだけど、だからその欠落に関しては沈黙が貫かれていた。仕事が発注される側で働いていた僕は、その案件が始まって数ヶ月くらいしてから身体にストレス性の蕁麻疹が出たところで「流石に無理です〜」と上司に報告した。
 necomaの店員さんからお店の説明を聞いている途中、すでに一匹の茶トラの猫が股の間をするすると通り抜けたり、スリッパで爪を研いだりしてきてかわいい。説明が終わり、今度はこちらからその茶トラの猫にちょっかいをかけてみたのだが、猫には猫の都合があり、構ってくれない。猫じゃらしにもあまり興味を示さず。ちょっかいをやめて、ほかにもいた猫たちをぼーっと眺めながら座っていると眺めていない方にいた猫が近寄ってきて、「おい、構え!」とパンツの裾を引っ掻いたりしてきてびっくりする、みたいなことが何度かあった。立ち回り方がわからないまま、あっという間に1時間が経ってしまい、お店を出る。おそらく猫アレルギーはなさそうだったので、引越したら猫と暮らせそう。
 帰路の途中の乗り換えの駅で、明日の朝食用にベーグルを買う。ブルーベリーでもチーズでもなく、ごまを選ぶことができ、大人になった。
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kyuaoi · 6 days ago
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2025年1月30日(金)
 ヴィーガンカレーのレシピを調べる。今日は市販のカレー粉は使わず、スパイスを一通り揃えてつくろうと思案していた。それでひよこ豆のカレーに決めて、レシピにあった食材を買いにスーパーへ。それが17時くらいで、家とスーパーのおよそ真ん中にある大通りの交差点から見える西の空がオレンジと青のグラデーションのまままだそこにあり、日が落ち始めるのが少し遅くなったようだった。
 クミンとターメリックとガラムマサラを選び、ガラムマサラはパウダー状になっていない粒というか実というかのまま瓶に入っていて、これで大丈夫なのかと心配になったが、すぐに大丈夫だろうと思われた。ひよこ豆とココナッツミルクがなかなか見当たらず、代用のものでなんとかしようと諦めて蒸し大豆を手に取ったそのとき、両手に一つずつ缶詰を持ったあぴちゃんが現れた。店員さんに聞いて見つけてくれたとのこと。よかった。
 家に帰って少し休んだ後にカレーづくり。玉葱を切り、ひよこ豆の缶詰を開けようとしたところで缶切りがないことが発覚した。ネットで調べてみたところ、岩に缶を投げれば開きますとか、ナイ��やスプーンでも開きますとかの情報が出てきて、前者はともかく、後者を試してみても全く歯が立たなかったので、潔くもう一度外に出て缶切りを買いに行くことにした。自分でもなかなかのものだと感じる意思決定の瞬発力で、英断だった。大股でCan★Doへ。滞在時間1分ほどで缶切りを購入。こういう遠回りをしているときにイライラすることが昔より減った気がしていて、それは往々にしてイライラの矛先がどこにもないことを知ったからだった。これも楽しさへの助走で、だから最初にスーパーへ食材を買いに行ったその時間と同じで、いつか振り返ってみたときにも「楽しかった時間」という全体におよそ含まれることになる。二度目の帰宅後、無事にカレーをつくる。缶切りさえあればかなり簡単につくれることが知られ、いくつかバリエーションを覚えておきたいと思った。
 寝る前に『エスノグラフィ入門』を読もうとしたところ、日記をダラダラ読みたい気持ちだったので『百年の一日』。noteで山口さんの日記も読む。Xというかイーロン・マスクというか、そのどちらもが最悪の様相を呈してきており、流石にアカウントを消してしまったため、これからはInstagramのストーリーから山口さんの日記の投稿を知ることになりそう。
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kyuaoi · 7 days ago
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2025年1月29日(水)
 12時に起床。昨日の鍋の残りを食べる。先日、京都のサンガインセンスで買った9種類のお香のアソートメントパックから、ミルラという樹脂香のものを試しに焚いてみたところ、かなり香りが強くて途中で焚くのをやめる。
 今日も『エスノグラフィ入門』をぐんぐん読んだ。第3章で、エスノグラフィは生活を書く営みであるということが主題になり始めたあたりから、なんとなく滝口さんの『水平線』が思い出されていた。
 夕方の日が落ちてしまう前に、昨日買い忘れたシナモンを買うためにスーパーへ。あぴちゃんに頼まれていたバニラアイスは、そこではバリエーションが少なく感じられたため、道路を挟んで向かいにあるコンビニで買って帰った。
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kyuaoi · 8 days ago
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2025年1月28日(火)
 先日主催したマーケットイベント〈Essay〉で集まった寄付金を集計して、運営経費を除いた金額を、パレスチナ支援を行っている4つの寄付先へ送金した。Instagram��の寄付の報告はあぴちゃんにお任せして、その時間は鍋をつくった。人参は一袋に3本くらい入っているものをよく買っているけど、腐りかけてしまうことが度々あったから、これからは1本ずつ買うことにする。あぴちゃんはがんもの成分表に怯えていた。
 鍋を食べ終えてから、『エスノグラフィ入門』を読み始める。とても読みやすく、改めて新書のすごみというか、なるべく平易に記述しようとすることは、記述されるものの核心やその周縁にある内容の複雑さを必ずしも損なわせるものではないということを改めて実感した。昔、新書はどこの出版社でも比較的読みやすいものが多いと誰かから聞いたことがあって、その後『「利他」とは何か』を読んで「確かに!」と感じたことがあった。
 だからこそ、新書の表紙のデザインの堅苦しさ、どこか手に取りにくい感じがもう少し刷新されないかな、とも感じる。外側が堅くて内側がやわらかいのはもったいないというか、損なんじゃないかというか、伝達しづらいんじゃないかと思う。内側がやわらかく(読みやすく)なっているなら、外側もやわらかく(手に取りやすく)した方がいい気がする。2023年にハヤカワ新書のレーベルロゴやカバーデザインが公開されたとき、佐々木俊さんがつくったそれらを見て「かっこいい」と思った。そのかっこよさは「普段本を読まない人でも手に取りやすそう」という意味で、手に取りやすそうなデザインの本が実際に手に取られ、読まれ、知りたかったことや気になっていたことに対して「へえ〜」みたいな発見や学びがするっと起こってしまったとき、その一連の過程の補助線を引くことはやさしいと思うからだった。
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