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kyuaoi · 25 days ago
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2025年2月25日(火)
 昼過ぎに起き、しばらく日記を書いてから、『聞くこと、話すこと。』を読む。
 普段から客観という語を多用するわりには、それについてずいぶんと誤解し、誤用している。主観を省けば客観的になれると思ってしまうのもそのひとつだ。でも、その発想はすぐに壁に行き当たる。なぜなら主観抜きの客観など存在しないからだ。考えるまでもなく、私の存在を抜きにして私は事物を観ることができないし、話を聞くこともできない。
 主観というものを独善で狭小なもの��考えてしまうのは、私たちの自信のなさの現れだろう。そうまでして自分のものの見方を放棄して何を得ようとしているのだろう。誰ともわからない外部の視点でものを見ることを客観的で正しいと思っているとすれば、とても奇妙なことなのだが、あまりそのことを疑わない。
 私たちが信頼を寄せている客観視はもしかしたら、この世に存在しない幽霊のような視点を取ろうという試みに近いのかもしれない。では現実に足をつけて世界を捉えるには何が必要だろう。「いかに客観的になれるか」ではなく主観の徹底に手がかりがある。そのためには自分の主観を徹底して観なくてはならない。主観で観るのではなくして。
 つまり、自分のものの見方は、どこに立って、どの角度から、どのように見ているから成り立っているのか。私の見方について省みる。これに徹した結果が客観性になり得るのかもしれない。
 自分の視点を検討するとは、自分が見ている景色は実はカメラのレンズ越しだと知るところから始まる。枠の外にも景色は広がっているにもかかわらず、私たちはある範囲を捉えることしかできない。それを狭い見方と言うこともできるけれど、ほかならない自分の目で見るとは、限界を生きることであり、それが私たちの原点であり、主体性の始まりだ。
 問題は、見たものが世界のすべてだと思い込んでしまうことだ。その錯覚に気づくには、カメラをどの位置と高さと角度で構えているからその景色が見えてくるのか、を知るかにかかっている。自分にとってあまりに当たり前すぎることを改めて捉え直すのは難しい。だからこそ、自分の行なっているジャッジのあり方を知らなくてはいけない。いわば撮った写真から「何をどのようにどこから撮っているか」の観点を探るわけだ。 尹雄大『聞くこと、話すこと。』(大和書房)p.231,232
 読み終わり、コーヒーがなくなっていたのでスーパーに行った。帰りに用事が済んだあぴちゃんと合流して、帰ってきてからたい焼きとキャロットケーキを食べた。
 最近、あぴちゃんはクッキーやケーキを自作していて、一度つくっただけではあぴちゃんの頭の中に思い描かれている理想形にはなかなか到達しないようで、分量の細かな調整や、材料の追加や削減を試みながら繰り返しつくっている。僕も何度も味見をさせてもらっていて、いつも美味しい。それで今日食べたキャロットケーキは、2日前くらいにつくったものをその後冷蔵庫で寝かせてい���もので、食べてみたら味の染み込み具合というか、調和みたいなものから引き出された新たな美味しさがしっかりと認識できるくらい加わっていて、それは完成した直後に食べたときの美味しさにはないものだった。そのとき、手間暇の暇の部分と言えばいいのか、手間暇を手間と暇にわけたときの暇の方、それはあぴちゃんが実際には手を動かしたりはしていない、つまり何もしていないように見える時間にも、ほかの、ほかのというのは人間ではない、材料や環境のようなものが何かしらの仕事をしていて、その仕事の結果が味を変化させている、味が変わるという体験はつまりそういうことなのではないかみたいなことを思い、暇は偉大なんだなということが知られた。と、今こうして日記に書いてみると当たり前というか、美味しさに限らず、腐るとかも結局はそういうことだからそりゃそうかとも思ってしまうけれども、それでも料理には、人間が動いていない時間にもほかの何かが動いているみたいなことを考えさせられる瞬間が結構あるような気がしていて、そういう時間を自覚することはやっぱり楽しいことだった。手間暇ではなく、手間と暇。
 寝る前、『仕事文脈vol.25』に掲載されている近藤銀河の文章を読み、ぬいぐるみと戯れ、寝た。
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kyuaoi · 26 days ago
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2025年2月24日(月)
 Huluで『FENCE』を観た。1話を観て、これは、となったので、そのまま夕方まで観続けた。上間陽子、打越正行の本を読んでみたくなった。
 4話まで観たところで、夜は沖縄料理が食べたいという気分になり、近所にある沖縄料理の居酒屋へ行った。駅から離れたところにある地元の人しか来ないであろう店。路地裏の地下。地上には店名が書かれた看板が掲げられ、そこには「こっちさ〜」という文字が地下へと誘導する矢印とともに書かれている。さ〜。30年以上続いているらしい。らしいさ〜。座敷の方に座らせてもらい、紅芋��子、ぐるくんの唐揚げ、フーチャンプルを頼み、食べ、飲み。頼む前、フーとは、となり調べてみると、麩で、ふ、フー、ふっフ〜。美味しい。美味しいさ〜。
 看板やメニュー表など、店内に掲示されているいろいろな紙に書かれている言葉を眺めていると、不思議と声に出してみたくなる。口ずさんでみると、後に何かが続いていく予感や期待のようなものが長音符から感じられ、それが民謡というか歌みたいだと感じたのは「あちこーこー」という品名を見ていたときで、あちこーこーは意味を調べただけで頼まなかった。「〜」は長音符が波状になったもの、と思っていいのか、こちらは少し調べてみたものの正確なことはよくわからなかった。波にのせる、のせたい、のせさせたい、のせて、遠くまで届けたり、近くまで引き寄せたりさせたい、水平よりも波の方にそれを期待できる、みたいな気持ちはちょっとあるかも。何を? 声を。
 チーズ焼きと明太そばゲティーも追加で頼み、満腹で満足になって帰宅した。
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kyuaoi · 27 days ago
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2025年2月23日(日)
 今日も今日とて、トテ、トテトテ、『読書の日記』と『聞くこと、話すこと。』。『聞くこと、話すこと。』は、うん、うん、みたいな感じで読み進めながらも、難しくて今の自分にはちょっと追いつけない部分もあり、それでも、その難しさに対してすぐに白旗を挙げちゃいけない、もうちょっと辛抱強くあろう、聞こう、読もう、という気持ちで、読み、今日は上間陽子、本田美和子、イヴ・ジネスト、坂口恭平との対話があった。
 私とあなたは違うし、異なる経験をしてきたのだから、どれだけ話そうが言葉を尽くそうが理解はできない。でも、「わからない」という事実を表す言葉にだけ注目すると、それでも「どうすればわかることができるか」とにじり寄りはしても、「決してわかりはしない」の諦めに辿り着いて、そのあいだを行き来しては煩悶するしかなくなる。
 そんなときこそ「祝い」に注目したい。「願う・予期する・そうなるように期待する」には現状がどうあろうとも、そうではない別の次元があるという、この先への視線の向け方がある。
 わからない。それは立ちはだかる壁に見えるけれど、わかろうとする試みがその壁の向こうの景色を束の間見させるのではないか。だから私たちは誰かと話すことを諦めないのではないか。それどころか話してもわかりはしないのに、話すことを楽しんでいる。死にたくなっているのに電話をかけてくる。それは言葉を口にすること自体に備わる「ことほぎ」の力ではないか。ことほぎは寿ぎとも��言とも書く。 尹雄大『聞くこと、話すこと。』(大和書房)p.197,198
 『水平線』が思い出された。
 もう通話は切れてるようだけれど、この機械に呼びかければ俺の声はどこかの誰かに届く。どこかで誰かが聞いている。おーい。革で覆われた箱型の無線機の蓋を開け、重ルはそこから線のつながったマイクに呼びかけた。箱の上部に並ぶダイヤルを右に左に回す。なんの応答もない。なんの音もしない。
 それで誰かが応答すると本気で信じているわけではなかった。でも、声を出すことってそういうことだ、と重ルは思った。どこにも届かないなら、呼びかけることも、こうして頭に浮かんだことを声に出すこともできない。声を出して誰かに呼びかけるってことは、馬鹿げているとわかっていながらもそれが届くかもしれないってちょっと信じてしまうことだ。 滝口悠生『水平線』(新潮社)p.317
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kyuaoi · 28 days ago
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2025年2月22日(土)
 空は曇っていて、今日はいつにも増して寒く、これから雨も降るそうで、それであぴちゃんがつくった豆腐フムスと食パンを食べながら、ふと窓の外に目をやると雪が降っていて、風に煽られる雪を眺めていると過ぎていく時間がいくらかスローモーションに感じられた。それはほんの一瞬の出来事で、数分後には霧雨に変わってしまい、しばらくするとその雨も止んだ。
 昨日から『読書の日記』と並行して『聞くこと、話すこと。』を読み進めていて、今日もそれらを交互に読んでいた。『聞くこと、話すこと。』は、たしか13番館のおふたりのどちらかの日記に尹雄大の名前があり、それで未読のまま本棚に放置されていたそれに手が伸びたということだった。
 最近の読書のときに流す音楽は決まっていて、Omni Gardensの『Golden Pear』、Loris S. Saridの『Music for Tomato Plants』、Ullaの『Foam』の3つのアルバムの中から気分で選ぶ。ただ、この3つのどれもしっくりこない日というのもたまにあり、今日がその日で、いつもはそのしっくりこなさを適当に放っておいてしまうんだけど、今日は気が向いたのかやる気になったのか、新しいアルバムを探してみることにして、いくつか検討した後にM. Sageの『Wants a Diamond Pivot Bright』がよかったのでそれを流していた。
 夜、人参、玉葱、白菜、しめじ、厚揚げを味噌で炒めて、これでもかとごまをまぶす。たくさんつくった。大根と白菜の味噌汁もつくる。美味しく食べ、『読書の日記』に戻る。あぴちゃんはかれこれ12時間くらいTシャツのデザインに夢中になっていた。
 『別れ』はきっとなにも面白くなく読んだのだと思うけれど、今だったら面白く読むかもしれない、という気がやってきた。そのとき、そのときにしか響かない響きというものは絶対にある、それはもう絶対だった。19歳で読んで響いたものを33歳で読んで響かなかったからといって19歳が間違っているわけではなくて19歳も33歳も正しくて、同じように19歳で響かなかったものが33歳で響いたとして19歳も33歳も正しい、昨日響かなかった自分と今日響いた自分とどちらも正しい、だから可能性を残すことだ。可能性を自分の中に残すことだ。「あのときまるで面白くなかったもの」はいつかどこかでそうじゃないものになるかもしれない、というその認識をちゃんと掴んでおくこと。可能性というか、謙虚であることでもあるだろう。作品が面白くなかったのではなくて自分が「面白がれなかった」のであり、出会いが悪かった、出会う時を間違えていた、そういうことは多々ある。 阿久津隆『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』(NUMABOOKS)p.295,296
 気がつくと0時を過ぎていて、日記を書き、寝た。
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kyuaoi · 29 days ago
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2025年2月21日(金)
 夕方頃、あぴちゃんと一緒にスーパーへ。スーパーまでの道を歩きながら、今年はついに雪が降らなかったね、と話していた。
 タコスに使う大豆ミートがなかなか見当たらず、店員さんに尋ねてみると「ご案内します」とのことで、ということは「ある」一択で、期待を抱えながらその人の後をついていくと豆腐がずらっと並んでいる大豆コーナーみたいなところに着き、案内されたのは大豆ミート食品が陳列されている場所だった。それで大豆ミートを使って調理されているものではなく、大豆ミートそのものを探している旨を伝え、「ちょっと探してきます」とのことだったのでしばらく待っていると、先ほどの店員さんが小袋を2つ持って急ぎ足で戻ってこられた。手に持っている小袋のパッケージにはミンチタイプとスライスタイプと書かれていて、それらは見たことがある、まさに探し求めていた大豆ミートで、感謝の意を伝えてミンチタイプの方をいただき、どこに置かれていたのかもついでに教わり、お別れした。その後もうろうろしながら食料をたっぷり買い込む。お肉が入っていない冷凍餃子をついに発見して喜んだ。
 帰宅し、即タコパの準備。取り立てて祝うべきことなんて何もない、そんな日にこそパーティーを催すことを推奨していきたい。昨日��ポテサラをつまみながら、もうお酒飲んじゃおうか、となり、ほうじ茶割りとビールで乾杯する。大豆ミートを炒め、アボカド、トマト、チーズ、サーモンを切り、ワンプレートに盛ると、この日もワンプレートに��する盛り上がりと感心があり、多幸だった。タコスをもりもり食べた。
 寝る前、隣でYouTubeを観ていたあぴちゃんが「やるか…!」と決意めいた一言を放ち、一体何を心に決めたのかわからなかったけど、しばらくそっと様子を観察していたところ、SEVENTEENのメンバー全員を覚えようということで、13人の顔と名前の一致に努め始めた。それに加わり、『舞い落ちる花びら』のMVやダンプラとメンバー紹介の動画を往復して、僕にはどうしても見分けの難しいメンバーが4人いて、ジョンハン、ジョシュア、ミンギュ、ドギョムだった。ジョ、ジョ、ギュ、ギョ。ウジばかりに目が留まってしまい、かっこいいな〜と思っていた。メンバーは、ボーカル、パフォーマンス、ヒップホップの3つのユニットに分けられているようだったけど、それらにかかわらず、とにかく全員ダンスがものすごく上手で、観ていると、すごい、すごい、すごい、とずっとすごいから逆にそれで疲れちゃうな、と随分と贅沢なことを感じてしまうくらい上手だった。疲れには眠気も確かにあり、むしろ眠気の方が優勢だったため、寝た。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月20日(木)
 朝、昨日の鍋の残りをうどんにして食べた。掃除機をかけて、薬局へ。リンスとシャンプーを買い、もう一軒別の薬局へ行き、豆乳、ピーマン、たけのこを買う。帰宅。日記を書き、『読書の日記』。
 それでなのか、それでもなにもないが、nensow君のつくってくれた音楽をiPodに入れて店でも流そうということで、それでCDだからリッピングの作業が必要だった、リッピングなんて、いつ以来だろうか、と思いながら、それをした。早い時間に誰もいなくなって、片付けや、氷を割ったり、氷をつくったりといった作業をしながら、リッピングをし、それからiPodに同期させた。どういう勤勉さなのか、エアコンのフィルターの掃除をした。些細なことだ。ビットコイン解約、リッピング、しようしようと思ってやっていなかったお箸の購入、エアコンフィルター清掃。どれも些細なことだ。しかしなにか、それらがなにか、なにかを整えてくれるような気がして、なにか、この、明かりのないトンネルみたいな場所から抜け出していく小さな小さな一歩目になったような気がして、���しだけ、前を向けた気がした。 阿久津隆『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』(NUMABOOKS)p.151,152
 それからコーチングの本というか吉井コーチに教わったことで、目的、目標、課題、それを設定してさ、やるんだってさ、という話をして、なので今日は目的、目標、課題、そういうのを考えてみて、ちょっとなにを考えたらいいか俺わかんないから、考えてもらって、それをたたき台にしてまたなんか考えてみよう、ということを伝えた。懸念も伝えた。君は文章を書く人でフヅクエに骨を埋める人ではないそういう人にとって店でアルバイトとして働くその中で目的というのは持ちうるんだろうか、例えば僕が会社員だったときに何か目標とかを決めてと言われて決めてもそんなのは全部ウソにしかならなかった、なんせそこでしたいことなんてなにひとつなかったんだから。だから、目的とか、考えるときも、かっこいいことを言わなくていいから、自分に矛盾しないようにしてもらいたい、そういうことをいった。そのやり取りの中で山口くんは「でも、でもというか、フヅクエで働くことは、文章を書くことと、なにか距離が近い、混じり合っている感じがある、これまでのただ生活費を稼ぐだけのバイトとは感覚が違う」ということを言っていて、じーんとした。 同前 p.155,156
 18時を過ぎ、大葉とチーズのポテサラをつくり、大量のビーフンを焼く。ビーフンを新しい楕円のお皿に盛る。かっこいい。
 今日は久しぶりに湯船に浸かろうかということで、クナイプのイチジクの入浴剤を使った。寝る前、日プ。ポジ評の『RUN RUN』が始まる前、暗転したステージで全員が構成につき、深愛が右手を高く挙げる。それを見たホンギが「花ですかね…」と言い、隣のテルマが「手です。」と真顔で訂正し、ホンギが「それは知ってます」と言い返したところでふたりが爆笑する、そのやり取りがとても微笑ましく、仲睦まじい。THE GIRLSのトレーナー陣が本当に好き。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月19日(水)
 悪夢の後にもう一つ夢があって、それはHANAのメンバーと湘南台の駅地下で話すというシーンだった。MAHINAがめちゃくちゃ話しかけてきてくれたのに、その内容を思い出せない。起き、冷凍のフライドポテトをあたためて、パンとグラノーラとクリームチーズでワンプレート。
 13時半に家を出て、今日も強風。駅まで歩く。電車の中で『このゆるい歯茎は私のせいじゃない』を読み終える。町田駅で降り、サカエ陶器店へ。平日の昼間にもかかわらず人が多くて驚く。うろちょろしながらものすごい量の食器を眺め、触り、持ち上げ、戻しを繰り返す。大皿やどんぶりよりも小鉢や豆皿に心を魅かれやすい傾向があった。色々なものをちまちま食べたい。今は主菜と副菜をつくるだけで精一杯だけど、本当は一日とかそれに近いくらいみっちり時間をかけて何品か作り置きを用意して、それらを毎日少しずつちまっとした食器に装いたい。よそうは装うで問題ないそうで、「飯や汁物を食器にもる」というときに装うと書くらしい。てっきり装うはよそおうと読む、何か衣服とかファッションとか、「装」にはそういうイメージがついていたけど、飾るみたいな動詞で考えるとどちらもしっくりきた。深めの小皿、楕円の大皿、急須を買った。満足。安かった。富澤商店でこしあん、ナツメグ、オートミール、ビーフンを買い、強風に耐えきれず帰宅。
 日記を書き、生姜鍋をつくる。夜、IVEをYouTubeで流しまくる。最初に『ATTITUDE』のダンプラを観ていたら、踊り方がかなり特徴的な、好感を持つことができる、その好感というのは脱力の加減というか、いい意味での抑揚のなさ、心地のいい抜け感で踊る、そういう子が一人いて、あぴちゃんにその旨を伝えるとその子はレイという名前だということが知られた。レイはラッパーで、IVEにはガウルというラッパーがもう一人いる。それでガウルはどの子か教えてもらい、『ATTITUDE』、『I AM』、『After LIKE』、『LOVE DIVE』と適当な動画を流しながら、まずはふたりをしっかり認識していく。ラッパーはラップをするからわかりやすく、およそ判別がつくようになり、じゃあ残りの4人も覚えようということで『REVEL HEART』を流すと、この曲がかなりよく、あぴちゃんとふたりで「いいねぇ…!」と盛り上がった。イソはIS:SUEのリンちゃんに似ていると言われていたので、イソは意外とすぐにわかったものの、リズ、ユジン、ウォニョンの判別が難しく、「リズ!」「違う、ウォニョン!」「ユジン!」「違う、リズ!」みたいなラリーが続き、挙げ句の果てには「この子がガウルだよね?」「違う、この子がウォニョン!」と、すでに認識されていたガウルまでもが曖昧さの方へ吸い込まれていき、そういう時間がしばらくあって、ようやく6人全員の顔と名前が一致したところで2時になり、寝た。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月18日(火)
 『読書の日記』。なぜか無性にコロッケが食べたくなり、近所のコンビニに冷凍コロッケを買いに行く。
 夜、口内炎が治らないことをあぴちゃんに伝え、ハレナースをもらう。ずっとビタミン剤を飲んでいたけどなかなか治らず、考えてみたらそもそも口内炎ができたのはビタミン不足ではなく口の中を噛んだことによる外傷で、それなのに毎晩ビタミン剤を飲み続けていた。寝る前、炎症しているところに貼るシールみたいなやつも。喋りづらい。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月17日(月)
 起きたら13時で愕然とした。昨日あぴちゃんにレモンケーキをリクエストしてみたところ、それはいいアイデアだということになり、材料を買いに行く。強風。今年は強風の日が多い。いつも行くスーパーに粉糖がなく、もう一つの別の、いつも行くスーパーより大きなスーパーまで足を伸ばし、あった。
 昨日読んだ阿久津さんの日記の体育の話を歩きながら思い出し、自分の高校で2年生か3年生のときに体育の担任だったまもる先生のことを思い出す。まもる先生はマンモスのように大きな身体だったことから、生徒たちからはマモルスと呼ばれていて、普段は温厚だが怒らせたら誰よりも怖いという、つまり怖さの中でもその怖さが際立ちやすい、そういう先生だった。でも実際は温厚なときにも「この人を怒らせたら」みたいなことを生徒の脳裏にちらつかせ続けるわけだから、結局怖さは際立っていなくて、マモルスにはずっと怖さを感じていたのかもしれない。その辺りのグラデーションはもう思い出せない。体育の授業は2クラス合同で行われ、体育教師は2人ついた。だからマモルスのほかにもう一人いたんだけど、その先生の名前は思い出せない。サッカー部の顧問で、その人も怖かった。ある日、名前を思い出せないその先生が何かの説明をしている最中によそ見をしていた生徒のことをめちゃくちゃに怒鳴りつけたことがあった。しばらくして叱責の峠を越えたかと思ったところ、先生はまだ怒り続けたかったそうで、「人が話してんだからこっちを見るのが普通だろ! まもる先生もそう思いますよね?」と、突然マモルスに話を振って加勢を促した。そしたらマモルスもその説教の一部始終を全然聞いていなくて、校庭で行われていた違うクラスのサッカーの様子をずーっと見ていた。そういうことがあった。
 帰宅。あぴちゃんがレモンケーキをつくる。夕食は鮭、玉葱、じゃがいも、しめじ、レモンを切り、耐熱皿に乗せてオーブン焼きにした。あぴちゃんがキャロットラペもつくってくれた。特にそういうつもりはなかったのに豪華な食卓になってよかった。夜、日プステージのプレイバック。あぴちゃんも僕も、Season2のポジ評で披露された『舞い落ちる花びら』が特に気に入っていて、それはこれまでにも繰り返し何度も観ていたから、それ以外のステージで気に入っているものを中心に見返した。『舞い落ちる花びら』を除くとふたりの好みは結構バラバラで、そのバラバラ感を楽しんだ。『TOXIC』『RUN RUN』『Goosebumps』と僕の好きなステージを思いつく限り教えると、あぴちゃんが「『Goosebumps』はお祭りだよね」と言っていて面白かった。お祭り。そこから俊司のチッケムも観た。あぴちゃんは俊司の呪縛からかれこれ4年ほど抜け出せていない模様。
 寝る前、『このゆるい歯茎は私のせいじゃない』。13番館のおふたりはこの日記が書かれていた時期に同居していたそうで、同じ空間で過ごすこともあれば過ごさないこともあり、どこかへ一緒に行くこともあれば別々に過ごすこともあった。その同じ方というか、一緒に過ごしたんだと読み取ることができる日でも、同日のそれぞれの日記を読んでみるとその日の記述のされ方、執筆の対象になる話題や視点は全く違くて、そうであれば、先ほど読者として「同じ」とか「一緒」とか感じてしまったことはいくらか粗くも思われ、では何なのかと考えると「重なり」で、日々が重なっているみたいなことで、一人ひとりの存在が際立つことの豊かさがあった。環世界。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月16日(日)
 12時に起きる。寝過ぎ。あたたかいけど曇っていた。日記を書き、洗濯物を干す。『水平線』を読み終え、次に読む本を決めるために本棚を眺める。おそらく、きっと、ちょっと短めというか厚さの薄い本がいいなと思っていた。それにもかかわらず手にとられたのは650ページ以上ある『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』で、さすがに意に反する、心理と行動が一致していない、そういうことが起こった。読む。
 家を出て外に一歩足を踏み出したその瞬間に、かつて、小学生とか中学生とかのとき、それまで降っていたそしてすでにやんだ雨の影響でグラウンドがどうなっているかが気になるそういう朝が何度もきっとあったんだろうなということをふと思って道路は少し濡れていた。そのときのグラウンドのコンディション次第で明暗が分かれるようなそういう心地があった。ということは思い出せるというか想像がつくがどれが嫌だったのだろうか。どうなったら嫌だったのだろうか。この競技はしたくない、というようなものがきっとあったのだろう。体育の話だ。でもどれが嫌だったのだろうか。あ、走る系だろうか。納得。今だったら喜んで走りだす。勝ったり負けたりではない、優れている劣っているではない、そういう運動が存在することを体育はなぜ頑なに教えようとしなかったのか。なにか不都合でもあったのか。 阿久津隆『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』(NUMABOOKS)p.36
 冷凍ごはんが一つしか残っておらず、今日は米を炊かなければならないのかと思ったけど、直後に焼きそばという代案が思い浮かんだ。それをあぴちゃんに伝えてみたところ焼きそば一択になり、17時頃にスーパーへ向かう。玄関まで行ったときにエコバックを忘れたことに気がつきリビングに戻る。家を出て、家とスーパーの中間地点くらいのと��ろまで歩いたところで財布を忘れたことに気がつく。家まで戻る。出る。という往復を繰り返しながらスーパーへ。冷蔵庫にあった野菜だけでつくる予定だったし、今月の後半は食費を節約しようと考えていたので麺だけを買うつもりだったけど、ほたてが割引されていたので一緒に買った。帰宅。焼きそばと中華スープとお豆腐を食べる。日記の続きを書く。口内炎が治らない。
 夜、寝室へ向かう前、今日から『読書の日記』だけにかかりっきりになってしまうのは、明日以降の自分にとっていくらかタフな選択なのではと思い直され、併読候補を探す。それで13番館のおふたりの日記本が目に留まり、それじゃあということで、きらさんとほにさんのどちらの日記から読もうか悩んだ末に『ころがるいきもの』を持って寝室へ。グッドはな丸くんを画像検索してみたり食用のサメのことを調べたりしながら読み進めていたところ、あまりの読みやすさからか寝る前に読み終わる。明日からは『このゆるい歯茎は私のせいじゃない』。愛知県とイスラエルの事業連携中止を求めるオンライン署名に賛同して、寝た。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月15日(土)
 朝、昨日のカレーにほうれん草を入れて食べる。あぴちゃんは妹とお出かけに行くとのことで、お昼頃に家を出ていった。それで『水平線』を最後までぐんぐん読む。
 簡単なもんじゃないけど、いったん通じてしまえば過去も未来も、生きるも死ぬも、人間てのは案外一緒くたにできちゃうんだ。死んだひとから電話も来るし、メールも届く。海を見てればあの世にもこの世にも漂う。過去にも未来にも行ける。でも、電波やら海の波やらを介するからいいんであって、さっきみたいにまるで学校の友達みたいに死者と生者があんまり簡単に同じ場所で過ごすのは、融通を通り越して危ないんじゃないか。さっき落っこちた彼みたいに、と勉さんは甲板に腰を下ろしタオルを体に巻き付けている秋山くんを示した。人間死ぬときは簡単だ。簡単な死なんてないなんてのは、死ななかった奴が死んだ奴をあとから思い出すときに思うことで、死ぬときは簡単に死ぬ。簡単さの極まったところにあるのが死だ。一瞬でころっと死ぬ。一瞬前まで笑ってた奴が、次の瞬間には死んでいる。あるいは何年苦悩した末に死んだとして、その複雑さは生の複雑さだ。死は絶対に簡単だ。人間は複雑に死ぬことなんかできない。だから危ない。簡単さを見くびっちゃいけない。 滝口悠生『水平線』(新潮社)p.450,451
 読み終わった。読み終わっタ。寂しい。寂しさがあル。大感動。大信頼。
 夜もカレー。23時、あぴちゃんを迎えに駅まで歩く。改札の前で合流して、帰り道の途中にあるコンビニで缶ビールと玉こんにゃくを買う。缶ビールを開け、また夜道を歩き始めた。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月14日(金)
 『水平線』があと100ページくらいで終わってしまう。昨日シャワーを浴びている間にあぴちゃんがキャロットケーキを焼いてくれて、今日も夕方に焼いていた。数ある人参の消費の仕方の中でもキャロットケーキはかなりおしゃれだと思う。
 日プ。第3回順位発表式の直前で突然画面が真っ暗になり「国民プロデューサーの皆さまへご報告」の文字。あぴちゃんが映像を一時停止して、その瞬間にSeason2の古瀬くんの記憶が蘇ってきた。蘇りはそれが始まってしまったら自分の意思で止めたり動かしたり自由にコントロールできるものではなく、ひたすらに蘇り続けて鮮明さを増し、「もしかして」という、この後訪れる未来の予測へとつながり、もう一度再生ボタンが押されるとヨンフンとユンドンの番組辞退が告げられた。本編にはヒチョンの姿もなく、HALOの3人全員が辞退したことが知られた。その後あぴちゃんから聞いたところによると、ヒチョンは韓国でFuture Passportという会社の社長になり、そこでヨンフンとユンドンと一緒に活動し始めたとのこと。
 アーティストに限らず、必死になりすぎているとつい忘れがちになっちゃうことだと思うんだけど、幸せを希求するときは基本的に全部自分で決めていい。しんどくても一度始めたことは最後までやり遂げるべきとか、そんなことはない。途中で辞めてもいい。途中で辞めることを自分で決めていい。そうやって生き方を一つだけに収束させてしまう類の「べき」には縛られちゃいけない。何かしんどいことがあったときにそれを乗り越えた本人を礼賛する風潮にも危うさがあると、ここ数年くらいずっと感じている。誰かが困難などを乗り越えようとするとき、人間が強いという前提で、乗り越えようとする本人ではない外部が、その様子に対して期待したり感動したりするシーンがあると思うんだけど、前提が間違っている気がする。そんなことを思いながら、そのまま最終回まで観た。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月13日(木)
 朝、昨日の鍋の残りをうどんに。シャワーを浴び、掛け布団の引き渡しの準備。14時過ぎに家を出て待ち合わせ場所へ。強風。無事にお渡し。スーパーに寄って帰宅。あぴちゃんと橋本ロマンスさんのDonation Dance Class For Palestineに申し込む。
 夜、日プ。ついにコン評。ユンドン、潤くん、奨くんのスリーピックに固まる。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月12日(水)
 カルディで買ったロスティを焼き、朝ごはん。無印良品から掛け布団とカバーが届いていたからそれらを開け、つけた。四隅と長辺両端の中央に布団とカバーがずれないように固定できる紐がついたものが欲しくて、今まで使っていたものにはそれがなく、起床後にずれてしまっている布団とカバーの位置を、四隅をつかみながら整える毎朝の日課があり、それが大変苦労するものだったから買い替えた。それで古い方の掛け布団をジモティーに出してみると、1時間も経たないうちに連絡があり、受け渡しの日時と場所まですぐに決まった。平日の昼間にこんな速度で取引が行われるのかと驚いた。その後『水平線』。
 日プの続きを観る。��チョンの腕の可動域の小ささが気になっていて、もう少し肘が肩より上にあがるといいんじゃないかと思っていたところ、それは過去に韓国で活動していた際に周りのメンバーが自分よりも体格が小さく、ヒチョンが普通に踊っているとほかが目立たないから小さく踊れという外部からの指摘で生じてしまった癖であることが知られる。
 日プ無印ではラップのトレーナーとしてBoseとサイプレス上野が参加していて、歌やダンスのトレーナーとして参加していたほかの方々に比べると、おふたりの指導はかなり温和というか、言葉やコミュニケーションに棘がない。外発的に練習生たちの技術を変えようとする様子があまり感じられず、どちらかといえば内発を誘導するみたいな見守り方だった。Season2とTHE GIRLSのときにラップのトレーナーだったKEN THE 390も似たような感じで、歌やダンスとラップでは、教えたり教わったりする環境の中にある関係性の構築の仕方に文化的な違いがありそうとあぴちゃんが言って、それはものすごい発見に思われた。歌やダンスのトレーナーには「やる気がないなら帰れ」とか「言われた通りに真似しろ」とか、そういう高圧的な物言いで練習生の技術や意識を矯正しようとする方が何人かいらっしゃり、それはおそらくそのトレーナー自身も過去にそう指導されてきたり、あるいはそういう指導でこれまでにも有名なアーティストを何人も輩出してきたりしたんだろう。でもラップってそのやる気のなさや誰かに言われた通りにはできない自分という存在もそれが本当の姿であるなら、無理に迎合しなくたって言葉の伝達の工夫次第では魅力に変わる。その人がその人のままでいることがまず何よりも大切で、他人が持ち出してくるセオリーを完璧になぞることに対するメリットがあまりない気がする。THE GIRLSのとき、璃���がポジ評の『美人』でたくさんの人を魅了できたのもそういうことなんじゃないかと考えていた。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月11日(火)
 起きてからいつものようにJ-WAVEをつけるとSTEP ONEが流れてこなくて、祝日の特番らしきものが流れていた。それで今日は祝日であることが知られ、そうか、と思った。朝ごはんをワンプレートで盛ってみたところ、それだけでテンションが上がったのでワンプレートはすごい。シャワーを浴びた。
 夜、過去の日プを観る。過去と言っても日プは過去だけにしかなくて、それはまだ観たことがなかったSeason1で、Season1とは正確には言わないんだけど、Season2のその前、最初の日プ。ファンの方々は無印と呼ぶらしい。ポジ評のチーム分けまで一気に観る。キム・ジミンロスに。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月10日(月)
 朝、アップルシナモントースト。美味しい。『水平線』。
 軍から学校にお達しがあったのだろうか、先生が今日は勤労奉仕だと言う日があって、そうするとその日は授業がなくなって、児童はみんなで荷車を押して飛行場の方へ向かった。石やら土やら工具やらを運んで作業の手伝いをするのだった。後に本物の軍属になった経験から遡って考えたら、あんなものはほとんど遊びみたいなもので、人手が必要だったというよりは、子どものうちから国や軍に身を捧げる精神を植え付けるためのものだったのではないかとも思いたくなるが、それでも島の子どもは小さい頃から畑や工場の仕事を手伝わされていたから子どもにしては能率がよく、案外役に立っていたのかもしれない。いずれにしろ勤労奉仕と言ったって結果的には自分たちが自分たちの暮らしている場所から追いやられる事態に至る手助けをしていたみたいなもので、もちろんそのときはそんなことは思いもしなかったし、友達たちと一緒にえっさほいさ体を動かしているうちに、俺たちはどんどん真剣になった。草を刈る、掘り出された土や石を運ぶ、そのひとつひとつの作業が、どんなにささやかでも必ずこの国の力になると信じていた。自分が、この国全体をかけた大きな機構の末端細部のひとつであると感じ、そのことについての自負と誇りが心中にわきあがった。小さな力だが、その小さな力が集まって、この国をたしかな勝利へと着実に導く。そこにはたしかに、よろこびもあった。俺たちはよろこんでいたんだ、と三森忍さん��言った。でもそんなのは作業に没頭している束の間の幻想だ。真剣さは毒だ。真剣になっているうちに、自分じゃなく誰かべつの者のよろこびが自分のよろこびであるかのように思ってしまう。他人のよろこびを俺がよろこぶのは俺の自由だが、他人から、そいつのよろこびが自分のよろこびであるかのように惑わされて騙くらかされるのは御免だ。だから俺はあれからずっと自分の真剣さを疑っている。なるべくふざけていたい。大事な話や、大事なものについて考えるときほど、真剣さに呑み込まれてしまわないように。 滝口悠生『水平線』(新潮社)p.307,308
 夕方になり、外へ。先日映画館へ行く途中に自転車で転倒してしまった子どもと、同じ場所で偶然また出会う。向こうはこちらに気づいていないようで、立ち漕ぎですぐにどこかへ行ってしまった。八百屋、薬局、スーパーをまわりながら色々買う。八百屋で玉葱と人参を買ったとき、いつもいらっしゃる店員さんに「ごぼうもあるよ」と言われ、「あ〜、家にあるんですよね」と返事をした。そしたら「ああ、そう」みたいな感じで会話はすぐに終わったんだけど、家にはごぼうはないから嘘だった。「今日は玉葱と人参だけを買いにきたんでごぼうはまた今度にします」と本当のことを言って断ればよかった。咄嗟の小嘘やめたい。帰宅して日記を書き、クラムチャウダーをつくる。餃子の皮が少しだけ残っていたから大葉とはんぺんとチーズをそれで巻いて食べた。
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kyuaoi · 1 month ago
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2025年2月9日(日)
 朝、おかわりフムス。今日は白味噌とねりごまを3杯ずつに減らしてみた。この前初めてつくったときに1人前では2杯ずつだったものを、2人前だからと倍の4杯ずつ入れて食べてみたところ、味が濃すぎたための3杯ずつだった。1人前で記されているレシピを2人前つくるとき、記されている全ての分量を倍にすればいいと思っていたが、どうやらそんな単純なことではないそうだった。『ユリイカ』の3月号の特集が自炊のようで、少しだけ気になっている。
 ふと、福尾匠さんが高校国語の教員情報誌という、東京書籍が発行している冊子に昨年エッセイを寄稿されていたことを思い出し、なぜか久しぶりにそれを読み返したくなったので読んだ。
 僕は日記を書くうえで、ひとつだけルールを決めていた。それは「今日は何もなかった」とは絶対に書かないということだ。毎日生きていれば特段書くべきことがない日のほうが多いのは当たり前だ。しかしその「書くべきこと」のなさだけが、「書くはずのなかったこと」への通路になる。そうして自分が思い込んでいた「べき」のありかたすら、不埒に変転していき、その軌跡が自分の意識の外で記録されてい��。なぜか。今日の日記は昨日の日記の続きを書くわけではないし、今日書いたことを頭に置きながら明日を生きるほど、人間の頭は­——少なくとも僕の頭は——よくできていないからだ。 福尾匠「長続きしないことについて」 『「国語」vol.42(2024年秋号)』所収(東京書籍)p.13
 「書くべきこと」のなさだけが、「書くはずのなかったこと」への通路になる。そこからそう言えばみたいな感じで、未読だった『文藝 2025年春季号』の滝口さんの論考「日付を書けばいい」も読む。面白い。その後、『水平線』。面白い。あぴちゃんと何か映画を観ようとなり、Netflixで『メタモルフォーゼの縁側』を鑑賞。面白い。メタモルフォーゼってなんだろうとずっと考えていて、その意味は作中では一切語られなかった。あらすじでは、BL漫画を通して女子高生と老婦人が関係性を育んでいくような様子が描かれていたから、メタモルフォーゼというのはてっきり漫画のタイトルか何かなのかなと予想していたがそうではなく、映画が終わって調べてみると「変化、変身」とあり、なるほど、となった。古川琴音を久しぶりに見た。
 冷蔵庫にはひじきとチヂミの残りがあり、あとは主菜と汁物を一品ずつ用意すれば今日はなんとかなりそうで、葱と人参としめじと厚揚げを取り出して味噌炒めにした。あぴちゃんが味噌汁をつくってくれた。
 22時、HANAの新曲のMVを観る。赤い衣装の謎は回収されなかった。MOMOKAとMAHINAのふたりのラッパーのバランス感がいい。MOMOKAは、おそらく普段から聴いているのであろうHIPHOPの中でもこういうラップが自分は好きですという、そういう生活感みたいなものの下敷きが歌声やふとした仕草からなんとなく伝わってくる。MAHINAは、オーディションのときにちゃんみなからラップの才能に期待されていて、それまではラップを自分のアイデンティティとは認識していなかったはずなんだけど、だからこそ発露できるフレッシュな貫通力をちゃんみながプロデュースできている感じがする。
 ここ最近、K-POPの新曲ではサビに入ると何かしらの単語が繰り返される傾向があるということをあぴちゃんから聞き、おそらくマーケティングの一種というか、InstagramやTikTokでファンダムの人たちとかがそこを歌いやすく、真似しやすくしようという意志が働いていて、確かに最近よく耳にする「アーパツアパツ」がそうだった。そこまでしっかりと言葉を紡いで積み重ねられてきたメッセージの情報量がサビで一気に消えてしまう、消えてしまうことはなくとも、単純さや単調さみたいな脇道を通るのはちょっと誠実じゃないと思ってしまう。その単純さや単調さによってそれまでのメッセージに強度が与えられるならまだしも、「一旦マーケ入りま〜す」みたいな打算的な資本���義が入っちゃうと途端に気が滅入る。
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