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私達は私達の行動を全て自分の意思で決めている、と思っていたからでしょう。 とするならば、無意識に詰め込まえれているインプット情報がとても重要だと思います インプットは結局、出口さんの言葉を借りれば本・人・旅(経験)の3つしかないので 量と質を向上させた方がいい行動ができる確率がUPするのかなと思いました
社会心理学講義-<閉ざされた社会>と<開かれた社会>(著者:小坂井敏晶)」読みました。(2020年16冊目) - 1434-193 https://zashii.hatenablog.com/entry/2020/02/23/152829
;これは、二人称の理屈の浮遊性ありきなので、世論の潮流に誘導されていることになる
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本当の自分は二人称は、前にやったしイタイだけだし
本当にそうではないし、空中的、それ自体がパラダイムに依存しすぎ
悼みこそがリアル
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カントが、その当時に黎明期に入っていた、近代科学を
安全なもの にするために、さまざまにめぐらした「テクニカルな隠蔽工作」を見事なまでに意識せずにいられている、という意味において、
現代の私たちが科学の「隠蔽」を意識せずにすんでいるのは、カントが後世の人たちが、科学に対して「自明」性を高めることで余計な「煩悶」に陥ることを免れるようにするために、この構造を「シンプル」に擬制したから まあ、もっと直截に言ってしまえば、カントによって現代人は騙されているから、科学を「シンプル」に扱えている、と言いたいわけである。 しかし、いったんそのカントの「隠蔽」が完成してしまうと、今度は、人々は科学を「真実」と同一視するようになり、科学を「神の代わり」となりうる存在として、一つの形而上学を夢想するようになる。
科学は神である。その科学が「遺伝子」という「情報」を「真実」としてもたらしたわけであり、ということはつまり、この「真実」における、人間の優劣の差異は
神が、人間をそのように<差別>的に扱え と命令している、ということを意味する。神は人間に、「遺伝子」の「情報」にもとづいて、人間を差別的に扱え、と求めているのであり、だから、「遺伝子」の「情報」という「真実」を科学は発見したのだ、というカラクリになる。
人間の優劣の差異は
神が、人間をそのように<差別>的に扱え と命令している、ということを意味する。神は人間に、「遺伝子」の「情報」にもとづいて、人間を差別的に扱え、と求めているのであり、だから、「遺伝子」の「情報」という「真実」を科学は発見したのだ、というカラクリになる。
<私>はどこにもない。不断の自己同一化によっれ今ここに生み出される現象、これが私の正体だ。比喩的にこう言えるだろう。プロジェクタが像をスクリーンに投影する。プロジェクタは脳だ。脳が像を投影する場所は、自らの身体や集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する。ひいきの野球チームを応援したり、オリンピックで日本選手が活躍する姿に心踊らせる。あるいは勤務する会社のために睡眠時間を削り、努力する。我が子の幸せのために、喜んで親が自己を犠牲にする。これら対象にそのつど投影が起こり、そこに私が現れる。私は脳でもなければ、像が投影される場所でもない。私はどこにもいない。私とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に繰り返す虚構生成プロセスである。 三人称の死は他人事であり、一人称の死は疑似問題にすぎない。だが、愛する人や家族の死は違う。これが二人称の死であり、人間にとって死の本質がそこにある。
常に、「<あなた>」と呼びかける関係において起きているのであって、実際に
遺伝子 がどうのこうのはまったく
関係ない のだ! それは「科学主義」とか「物質主義」とか「物理主義」とか「自然主義」と呼ばれるものであるわけだが、結局のところ、こういった「形而上学」は、あくまでも、カントが敷いたレールの上で仮構された
科学主義 が導いているにすぎない、一つの物語なわけである。
「花咲くいろは」は、明らかに「子ども向け」ではない。ここには、基本的に
人間ドラマ を描こう、という作成者側の意図が窺える。なぜその旅館で働くのか、なぜそう生きるのか。大人とは常に、そういった命題に葛藤しながら日々を生きている���在なのであって、そういった問題は、絶対に上記で示唆したような
二人称 の関係の中からしか生まれない。ようするに、一人称と三人称は
科学 が生み出した「客観」とか「普遍」という「擬制」なのであって、人間の本質はあくまでも「二人称」という日々の「実践」にしかない、と言いたいわけである...。
小坂井敏晶『神の亡霊』 - martingale & Brownian motion https://martbm.hatenablog.com/entry/20180902/1535889966
;二人称はジブンアゲのバイアスを掛けやすい。社会的に保障されたグループでそれをやると成功しやすい。思���期はこれを自己完結しがち。
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人間は自らの意思で行動していると普通考えられているが、外的環境によって、容易に、無意識に、その意思が左右されることが心理学の様々な実験により明らかにされている。物事の原因を人間の意思に求めることを内的帰属といい、外部環境に求めることを外的帰属というが、人は内的帰属を重視し、外的帰属を軽視する傾向がある。(根本的帰属誤謬)
行為や判断の理由説明は所属社会に流布する世界観の投影を意味する。我々は個人で判断するのではない。集団的に生み出される枠組みやカテゴリーを通して世界の出来事を理解する。世界には普遍的な真理はない。我々の目に映る真理は、人間の相互作用が生み出す世界観である。真理だから同意するのではない。同意に至るから真理に映るのである。
人が外界の影響から逃れることが出来ないこと。また無意識下にある思考を意識上において認識することが出来ないこと。
【72冊目】社会心理学講義<閉ざされた社会>と<開かれた社会> 小坂井敏晶 - 蟻の社会科学 https://ari-no-socialscience.hatenablog.com/entry/2019/05/02/141751
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伝統なんて大概が後付け ちゃんと調べてみると、意外と歴史が浅かったりする。 例えば現在のような形式の初詣って明治中期頃に始まった、という話もある。 古来からの伝統なんかではない。 太古から続く伝統などというものは、たいていが後の時代になって脚色された虚構です。 実際に生じた変化、そして共存する多様性が忘却されるおかげで、民族同一性の連続が錯覚されるのです。 民族同一性の連続を錯覚させるための後付けの虚構だったりするわけだよね。 これも、伝統という原因なんじゃなくて、結果として伝統という認知処理が生まれてきている感じ。 人は自由なんじゃなくて、自由だと思い込んでいるだけ。 小坂井敏晶/社会心理学講義 - ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア https://digima.hatenablog.jp/entry/2017/01/19/081924
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人間が自由だから、そして人間の意志が決定論(すべては運命に定められている)に縛られないから(つまり、祝福されなくても幸福になれる)責任が発生するのではない。 人間は責任を負う必要があるから、(ルネサンス以降の商人の原理)その結果、自分を自由だと思い込むのだ。
人は自由なんじゃなくて、自由だと思い込んでいるだけ。 小坂井敏晶/社会心理学講義 - ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア https://digima.hatenablog.jp/entry/2017/01/19/081924
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かつてニーチェが高らかに宣言したように、近代になって「神は死んだ」。 それまではなんでも神の御業、仕業であったのが、なんでも合理的に考えるようになったというわけだ。 そして、自由、平等、人権、正義、普遍、合理性、真理といったおなじめの概念が、あたかも確実な根拠をもったこの世の原理であるかのように語られてきた。 そこに科学を加えてもいいだろう。 ところが、よくよく突き詰めてみると、これらの原理に確実な根拠などない。 著者はフランスの裁判制度を例に挙げて、正しさの根拠などないといいきる。 たしかに、人間のいうただしさは、あくまでその共同体における正しさにすぎない。 したがって、絶対的根拠などないのだ。 システムを閉じるために虚構が必要になると主張する。 つまり、根拠のないものについて、永遠に論争を繰り返すのを避けるため、「これが正しい」と決めてかかる仕組みが必要だというのだ。 そうすれば、もう誰もそれ以上根拠を問うことはない。 ただ、それはまさに近代になって死んだはずの神を蘇らせることにほかならない。 だから神の亡霊なのだ。 なぜなら虚構なしに人間は生きられないから。
神の亡霊: 近代という物語 - #取手通信・医科歯科通信山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ) https://blog.goo.ne.jp/toride727/e/e79138a608f1ac32afeb6edb99a0f288
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因果律そのものの是非や妥当性は関係なくて「因果律が成り立つかどうか」だけが心の安定を生むというのです。そして実際にそのように意志決定するのが人間。
社会は変化するしくみも備えています。 基本的に人間は、自分の価値観と違っていたとしても属する共同体の虚構に合わせて自分の価値観を形成します。そして自分が明らかに事実とは違っているとしても多数がそうだと思っていれば、多数の意見に合わせます。つまりそれだけ同調圧力が強いのが社会という存在。
モスコビッシによれば、多数派よりも「少数派の強くて一貫性のある意見によって社会は変化する」といいます。少数であっても複数の人間が同じ意見をひつこく強く主張し続ければ大衆は大きく影響されるというのです。 そして少数派はただ現状を批判するだけではダメで、現状に取って代わる強力な信念を積極的に主張するのがポイントですが、何がきっかけで変化が受容されるかどうかは、マルクス主義や社会ダーウィニズムなどの原理を紹介しつつ、最終的には根拠なく偶然に変容していくという結論。 *具体的事例として、イエス・キリストなどをリーダーとする宗教集団。マーティン・ルーサー・キングやマハトマ・ガンジーなどを中心とする社会活動家集団などを挙げています。 以上同一性と変化のしくみによって、社会は無根拠に無限に諸行無常に変化していく存在だと結論付けています
「社会システムが辿った具体的な成立経緯は検証できるかも知れません。しかし、そこに法則を見つけることは原理的に不可能です。世界の秩序には何ら内在的根拠がないからです。無根拠から出発しながらも、こうして社会秩序が誕生する(第14講 時間と社会)」。
「犯罪は、共同体の新陳代謝で必然的に生ずる廃棄物を意味します。社会が維持される上で規範が成立し、そこから逸脱つまり多様性が生まれる。そして規範からの逸脱のうち肯定的評価を受ける要素は創造的価値として受け入れる一方で、否定的烙印を押された要素は悪として排除する」
「社会心理学講義」小坂井敏晶著 読了 ー社会編ー | 52歳で実践アーリーリタイア https://ameblo.jp/acdcrush/entry-12595093083.html
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小坂井敏晶まとめ
小坂井敏晶『神の亡霊』 - martingale & Brownian motion https://martbm.hatenablog.com/entry/20180902/1535889966
【72冊目】社会心理学講義<閉ざされた社会>と<開かれた社会> 小坂井敏晶 - 蟻の社会科学 https://ari-no-socialscience.hatenablog.com/entry/2019/05/02/141751
人は自由なんじゃなくて、自由だと思い込んでいるだけ。 小坂井敏晶/社会心理学講義 - ビジネス書大好きMBAホルダーが教える私の学びシェア https://digima.hatenablog.jp/entry/2017/01/19/081924
神の亡霊: 近代という物語 - #取手通信・医科歯科通信山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ) https://blog.goo.ne.jp/toride727/e/e79138a608f1ac32afeb6edb99a0f288
「社会心理学講義」小坂井敏晶著 読了 ー社会編ー | 52歳で実践アーリーリタイア https://ameblo.jp/acdcrush/entry-12595093083.html
社会心理学講義-<閉ざされた社会>と<開かれた社会>(著者:小坂井敏晶)」読みました。(2020年16冊目) - 1434-193 https://zashii.hatenablog.com/entry/2020/02/23/152829
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2019下半期10冊
『生き延びるための思想』上野 千鶴子 2012
『実存と構造』三田 誠広 2011
『アレゴリーの織物』川村 二郎 2012
『芸術の至高性―アドルノとデリダによる美的経験』クリストフ メンケ 2010
『転移の心理学』カール・グスタフ・ユング 2016
『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口 顯 2013
『ヴァルター・ベンヤミン: 闇を歩く批評』柿木 伸之 2019
『錬金術の復活』曽根 興三 1992
『自然魔術師たちの饗宴: ルネサンス・人文主義・宗教改革の諸相』澤井 繁男 2018
『心の解剖学―錬金術的セラピー原論』E.F. エディンガー 2004
社会学構造主義→錬金術ニグレド→ベンヤミンアレゴリー
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きっと知らない人から笑いものにされるだろう。 きっと今より悲しい気分に落ちてしまうだろう。 そうしたことの全てが積み重ねられたとき僕が僕で君が君であるか問われるだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=8XLZw8z4CJw
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清潔感というか、ナメられたら負け、ってメンタリティ(それに由来する演技性)がヤンキーっぽくて無理
洗練と都会的な合理主義ではなくて、うすら寒い個人主義でしょうに
10年前は、清潔感ではなく、コミュ力でした
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ボーダーライン上にいながら、大丈夫であることを願っている層の人間が最も階級意識にあふれ、自分より上の何者かになりきろうとしているため厄介だ
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