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文を綴ることについて––––『みみずくは黄昏に飛び立つ』
これは、私が学生だった数ヶ月前の修士論文提出日、まだ空気が冷え込んでいた寒空の下大量の研究史料を返却するため向かった図書館で出会った作品である。小難しい史料を読み耽っていた時間から翻って、なんかさらっと軽い本・・・とふと棚へ手を伸ばして見つけた。
この本は小説家(川上未映子)による小説家(村上春樹)へのインタビュー集であり、新作『騎士団長』を中心に話が繋がっていく。
おそらくよくあることだが、少し前まで私は村上の小説を(なんとなく)好んでいなかった。しかし知人に半ば強制的に貸された『象の消滅』の短編を読んで以来、ハルキストとまでは呼べないものの、長編に手を伸ばすほど彼の作品を面白がれるようになった。ただ、最も魅了されたのは物語の構造やストーリーではなく、小説自体がもつなんとも言語化しがたい“雰囲気”であった。
そして、その日寒空の下図書館から持ち帰ったこの本によって、その"雰囲気"なるものが明らかになったわけである。 それは、〈文体〉であった。
彼は、自身の小説の構造やポリティカルな立ち位置についてあまり多くを語らずにきた小説家の一人だが、この対談では川上の用意周到かつ秀悦かつ熱烈なインタビューによって1枚も2枚もそのベールが剥がされている。 そのやりとりの中徹底して議論されているのが、小説における〈文体〉についてであり、村上は 「何より大事なのは、語り口、文体です。」 「文体は命綱。40年近い作家生活の中で、自分が何をやってきたかというと、文体を作ること。ほとんどそれだけ。」 と明言するほどに、小説執筆と文体模索を近似したものにみていた。 これまで村上の小説批評においては、生権力的な社会システムが度々のテーマと見られてきたが、それを一蹴するかのように「文体が全て」と言い切る様に深く驚嘆しつつ潔さを感じる。 村上が大切にする〈文体〉とは例えば、「私にとって眠れない夜は珍しい」ではなく「私にとって眠れない夜は、太った郵便局員くらい珍しい」とすることであるらしく、陳腐に言えば粋な���のだと言えようか。
また本書では、普段自らについて多くを語らない先輩小説家が、必死に喰らいつく後輩小説家が投げるクリティカルな問いによって、自身の無意識の層を次第に顕在化させ吐露していくわけだが、文体について語り合う場面からトランプ大統領・男女の本質的性差・オウム真理教など、現代社会の幅広いテーマへと話が派生していく。小説のことだけにとどまらず多くのチャンネルへ滑らかに接続できる川上のインタビュー力にも脱帽するばかりである。
そして。村上がSNSを引き合いに語った 「物語はたぶん四万年も五万年も続いているんだもの。蓄積が全然違います。恐ることは何もない。物語はそう簡単にはくたばらない。」 というフレーズの「物語」を「本」と勝手に置き換え、なんだか村上さんに励まされたような気持ちになって清々しい気持ちで読み終えたのであった。
ちなみに、なぜ私がこれほどまで文体なるものに反応するかというと、特にここ2年間ほどその手強さを痛感しずっと苦手としてきたからである。だから私の尺度ではあるが、文章がうまいと思う人は羨ましいし、下心や不足や余剰のない削ぎ落とされたミニマムな文や、村上の言うような相手に反応を起こさせる(例えばカキフライを揚げる過程を文章にして読み手がカキフライを食べずにいられなくなるような)文など、書くことの引き出しを多く持ちたいと常々思っている。(これがとってもむずかしい。) それはきっと、彼のように規則正しい日々の生活のなかで、はたまた宮崎駿のようにたとえ雨が降ったとしても井の頭公園で毎日他人をスケッチするような、したたかなまでの日常化が肝なんだと思う。
なお、同じく村上の「4月のある晴れた朝に100 パーセントの女の子に出会うことについて」という超がつくほどの短編は、内容もさながら無駄がなく創造的な表現に感動する一作ですので、ぜひともご一読ください。
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情報と戦う──『読んでいない本について堂々と語る方法』
タイトルから感じるような薄っぺらいノウハウ本だと侮るなかれ、実は読書論からはじまり教育論や思考術、さらには哲学へまで広がるような深〜い根を持つ本である。
ピエール・バイヤール著/大浦康介訳 『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房、2008)
著者は、「本を読む」とは一体どう定義できるのか、という問題提起から物語を始める。 つまり、この本は読んだ/こっちの本は読んでいない、という線引きは、なにを基準としているのか。そもそも本当に「読んだ」本など存在するのか、と著者は問う。 本を読んだ、ということは定義しきれないアンビバレンスなもので、本を読む人々はいつも「読んだ」と「読んでない」の間に漂っている。 それは中学生の頃手に取ったあの本が、今読み返すとひっくり返ったように違う読み方になる、という体験からもわかるだろう。本は読み手によって、その時々の価値だけでなく内容すらも変えられてしまうのである。
誰しも思考や偏見や自らの尺度を持たず��て、本は読めない。普段本を読む人々は、むしろ読書という行為をうまく利用して、切れぎれに存在する各々の思考や偏見や尺度をオーバードライブさせたり、調整したり、さらにはより頑強なものにしたりする。 そうやってある意味で一回開き直ってみれば、なんだか堅苦しく神聖化されているような読書という行為が、幽霊のようなものへと溶けていく。 そうしてもう一度フラットな実体として本と向き合えば、なにも恐ることはなく、しかし誠実に対話ができるはずの存在なのである。 さらに言えば、神聖化された読書という行為と同じように、社会すらもたくさんの「適当」の総体で成り立っている。そうやって目を凝らしてみると、社会にはいわゆる常識というような偽の正義がいかに染みついているかがだんだんと見えてくる。
また本に限らずなにかを堂々と語るには、自分の立ち位置をじっくり理解できているか、ということも肝心で、そんな話はソクラテス哲学の「無知の知」へと派生するかもしれない。 そして世界や物事に対する態度、という見方ならば國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』とかティムインゴルドの『メイキング』なんかへ展開しうるが、それについてはまたの機会に。(あわ〜い期待)
と、結局、いつも通りこの本もとりとめもなく断片的に読んだ感覚があるが、それも一興と思うことにしつつ、この本の凄いところは本を映画や漫画や、あとはネットにも置き換えられるところだろう。 特に日々情報で膨張し続けるネットにおいては、手当たり次第記事を読んでいくなんてことは気の遠くなるようなことで、どうやってある情報・ない情報を料理するかという技量が試される。 でもなんとなく、「旅」だけは置き換えられないような気もして、実際にその地で空気を吸い、ご飯を食べ、人と会話することの代替のなさをぼんやり思うのであった。
ちなみに、本書の原語はフランス語でさっぱりわからないのだが、大浦さんの翻訳する文章が質素ながらもそのなかに品があって、とても好感をもった。 今回は長くなるので実際の「読んでない方法について堂々と語る方法」については詳細を書かないが、本書を精読するのが億劫な場合は、巻末に付された翻訳者・大浦さんによる15ページほどの「訳者あとがき」がこの本の魅力をたんまりと語っているので、おすすめしたい。
と、ピエールが言うように「読む」こと自体不可能であるにも関わらず、案の定この本すらも身を構えて大真面目に読んでしまったことに少し恥ずかしさを覚えるのであった。
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都市で生きるとは? ──『ひとり空間の都市論』
建築家・伊東豊雄が、1989年に雑誌「新建築」に寄稿した論考「消費の海に浸らずして新しい建築はない」。この時私は生まれてすらいないが、どうやら当時の建築家社会+その界隈に、強烈なインパクトを与えた論考らしい。 たしかに、毎月コンスタントに発刊される雑誌の冒頭たった数ページの論考が、今もなおあらゆる局面で引用されるというのは、情報が横溢するこの時代には少し驚きを覚える。
伊東は「凄まじい勢いで建築が建てられ」と語り始め、高度経済成長期のピークを経て社会が成熟し始めた当時の建築界の状況を読解し、「消費の海を前にしてわれわれはその中に浸り、その中を泳いで対岸に何かを発見するしか方法はないのだ」と、その行く先を提示した。 また吉本ばななの小説に描かれるような、ノマド的に巧みに都市生活を享受する少女たちを「遊牧民」と例え、彼女たちに相応する建築を提案している(「東京遊牧少女の包(パオ)」)。
さて、伊東が建築の行く先を案じ警鐘を鳴らした89年、それから30年近くが経ち、今年こんな本が出された。
南後由和『ひとり空間の都市論』(2018、筑摩書房)
著者・南後は、ひとり空間=「個室であるか否かにかかわらず、何らかの仕切りによって、〈ひとり〉である状態が確保された空間」と定義する。そして〈ひとり〉には、人間の数え方や単位としての〈一人〉と、他人から独立し他者に束縛されない存在としての〈独り〉という2つの意味合いがある。
〈ひとり空間〉を生み出す何らかの仕切りには、壁や扉のような仕切りも、ウォークマン、携帯電話やスマートフォンなどのモバイルメディアの使用によって立ち上げられる「見えない仕切り」も含まれる。つまり、都市の「ひとり空間」は、物理空間のみならず、メディアを介して形づくられ、経験される。 本書では、「住まい」「飲食店」「宿泊施設」「モバイルメディア」に関する〈ひとり空間〉に焦点をあて、それらの事例(木賃アパート/牛丼屋/カプセルホテル/ウォークマンなど)を交えながら都市論を展開している。たしかに現代の都市社会には、多くの〈ひとり空間〉が存在する。交通機関や宿泊施設、娯楽施設など、それらは一人を単位として空間が商品化され、まさに建築は消費されていると言えよう。
冒頭の伊東の論考と、南後のこの都市論はパラレルに存在する。 つまり80年代から現代まで共通して、都市における〈ひとり空間〉が都市生活者たちの住機能を担ってきた。それは特に単身者に顕著なライフスタイルで、大衆食堂に始まり、銭湯、コインランドリー、喫茶店・・・などなど、就寝以外の住機能が都市空間に散りばめられている。 ならば、〈ひとり空間〉と住空間の外部化について、二人の論の違いはどこにあるのだろうか。
二人の違いは、それぞれの時代性に直結する。 80年代と現代を比較すると、〈ひとり空間〉という存在は、移動手段の更新と、都市社会における「まなざし」の存在によって意味合いが変わってきた。 移動手段の更新と��、杉浦康平『時間のヒダ、空間のシワ 時間地図の試み』(2014、鹿島出版会)に描かれたような、インフラの整備によって移動のハードルが下がり、移動の容易さに応じて空間的な歪みをもたらした状況を指す。 そして見田宗介が『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(2008、河出新書房)で述べたように、都市社会には他者による「まなざし」が存在する。しかし見田が論じた60年代の「まなざし」は、「他者のまなざしがない=見られない」ことが苦痛であったのに対し、現代の都市社会は他者のまなざしが不在である。今の都市の姿を担保しているのは、それぞれの匿名性である。そして、この匿名性は炎上的キッカケで、瞬時に裏返されることもある。 今月の「建築雑誌」の特集で、建築家・内藤廣が「渋谷はビルに入ったら何も見えない場所である」と言っていた。たしかに渋谷のような、人々の匿名性が高い場所では、〈ひとり空間〉や〈身内空間〉が集積し都市が成立しているようにも見える。
移動とまなざしの変化により、住宅の選択も、それに付随する〈ひとり空間〉の性格も変わってきた。かつて木賃アパートという狭隘な住環境は、住み手にとって積極的な選択ではなく、あくまでも辛抱の場所だったが、けれども今では、都内でわずか3畳の部屋を好んで選ぶ者がいる。 彼ら彼女らは、移動性により住機能が担保され、自分の部屋とまではいかないものの、ほとんど他人を推し量ることが必要とされない都市環境に身を置き、まなざしをシャットダウンしている。 このように都市生活者は、「ひとり」を謳歌する。 しかし一方で、身内的な「コミュニティ」や「みんな」を使いこなし、それぞれ個人の内部に二極化した分人を抱えているのだろう。そして、おそらくその二極化は加速しつつあり、見て見ぬふりをするのが得意な、都市の居心地の悪さを体現しているのかもしれない。
しかし南後があとがきで綴ったように、〈ひとり〉は本来人の初源的状態であり、なにも特異なことではない。ならば、〈ひとり〉という状況に意識的であることが肝ではないか。
かつて、自ら進んで消費の海へダイブしていった伊東。伊東が今再び筆をとれば、〈ひとり空間〉が溢れる都市を嘆くことに意味はない、と言うのかもしれない。
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