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現在の政治的状況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあるといえよう。 東大安田城攻防戦は、大勢の観客を集め、人々はテレビドラマに飽きた目をブラウン管に向けて、時の移るのを忘れた。あるイギリス人の言葉によれば、それは巨大なシアターであった。そこに登場する俳優は遺書を書き、「かっこよく散るぞ」という落書きをして、あたかも死のポーズを見せたが、ひとりとして死ぬものはなく、手を上げて全員逮捕された。そしてその一幕は終わってしまい、人々はまたその芝居を忘れて、日常の生活へ帰っていった。 しばらくして、二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、位工事場の影で焼身自殺をした。そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があった。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のような政治行為であって、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇っていることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」というものに、夢あるいは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。
三島由紀夫『終わり方の美学』徳間文庫:58.59
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二〇世紀のドイツの服装史を概観したM・グローブは、一九六七年を西ドイツの若者たちのファッションが決定的に変化した転換点だとみなしている。若者たちの間では「日常生活の衣服」「よそ行きの衣装」といったこれまでの服装の秩序を規定してきた区別がなくなり、同時に「職業生活にふさわしい服装」という概念もまた不スライで行った 1960年代末の「対抗的公共圏」は一九七〇年代後半の「新しい社会運動」の時期とは異なり、既存のマスメディアに変わる明確な代替案やあるべき規範についてのコンセンサスは未だ存在していなかった。そのためAPO期の対抗メディアの試みでは、フランクフルト学派のメディア観における直接性の重視と、個人の心理的時限での変革の重視という要素は、多様な文化的・政治的な集団に寄って流用される余地が大きく、政治運動と青少年の対抗文化との共存と融合を可能にしたとかんがえられる。
田中晶子「第四章 サブカルチャーが文化を変える」、西田慎/梅崎透編著『グローバル・ヒストリーとしての「1968年」』ミネルヴァ書房:117
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現在では、家庭料理とレストランの料理は対立するもののように思われていますよね。家庭料理は古くからあり、レストランの料理のほうが新しい、というような気がしますが、これは違います。貴族の館の料理人が、革命で貴族が没落したため街に出て、中産階級相手にレストランを開店することを思いつきました。そしてそこに食事にやってきたブルジョワジーが、「そうか、料理とはこういうものなのか」と、レストランの料理の方式を簡素化して過程に持ち込んで、家庭料理ができたのだといいます。
落合恵美子『21世紀家族へ』有斐閣選書:41
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こうして、生徒とともに観察から観察へと進む方法においても、最初に呼び授業で子どもが自らの「魂の働き」を認識してしまえば、学習速度が加速すると考えられているのである。そして、「子どもに自分の霊の脳力を最初に認識させ、それを使う欲求を感じさせる」ならば、「人間が何世紀もかけて学んだことを数年で学ぶことが出来るだろう」とコンディヤックは述べている。そして、観察については、観察を行う水準にあるならば観察させるだけで十分だ、自分で観察できないならば観察の歴史を与えるだけで十分だ、と説明している。「原理を長々と述べる代わりに、諸学問を観察、経験、発見の歴史に帰着させる」ことが必要だということである。このような教育方法の最大の利点は、「記憶しか養わないような教育」が生み出す奇才に価値が無いことを認め、「あいまいな言葉や概念に専念するような虚しい学問」を追放することができるということである。
上原秀一「第二章 コンディヤック」『言語と教育をめぐる思想史』勁草書房:111.112
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私達の記憶は、吹き抜ける風のようなものなので、多くの事柄を受け入れても、それを筆記という囲い垣によってささえてやらなければ、それを直ちにやり過ごして失うことになる。
コメニウス
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読んだものを選択することによって、自分のものによすることこそ、読むことの唯一の成果なのである。
コメニウス
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自由とはだから、出産のようなものだといえよう。痛みをともなう出産である。この出産によって新しい人間が生み出される。抑圧する者とされる者の間の矛盾を乗り越え、そのどちらの側にも自由をもたらして、生き生きと生きるような新しい人間。 矛盾を乗り越えることは、もはや抑圧する者でも抑圧される者でもない、本来の意味で自由な新しい人間を世界に送り出す、という出産と同じ行為なのだ。 純粋な理想主義だけでは、これらの矛盾を乗り越えていくことはできない。抑圧された者が自らの自由のために戦うのに不可欠なことは、抑圧の現状を直視することである。
パウロ・フレイエ著、三砂ちずる訳『被抑圧者の教育学』亜紀書���:32
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なんとか抑圧者のようになろう、そうなりたい、そうなるんだ、という二重性のうちに生きている間は、自らを解放することは出来ない。被抑圧者の教育学は、抑圧している側から作り上げられていくものではない。被抑圧者の側が、自らも抑圧者も、共に非人間的な状況にあることを批判的に発見していくことから作り上げられる。
パウロ・フレイエ、三砂ちずる訳『被抑圧者の教育学』亜紀書房:26
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世界の形成は、誕生と再生という二つの時、二つの段階においてある。第二のものは、第一のものと同じくらい必要かつ本質的である。(中略)第二の瞬間は、他の諸瞬間がみずからの循環を完成させた時にやってくる第一の瞬間の再出現なのだ。だから第二の起源は、第一の起源より本質的である。なぜなら、第二の起源は、私達に系列の法則を与え、反復の法則を与えるからである。第一の起源はただ反復の諸瞬間を与えるにすぎない。(中略)卵は、第二の起源であるから、それは人に託され、神々には託されない。
G.ドゥルーズ「無人島の原因と理由」前田英樹訳、『ドゥルーズ・コレクションⅠ』収録.2015:p16-17
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資本主義を超克する運動は、国家とネーションを解消するどころか、それらを比類なく強化することに帰結したのである。 この経験は、マルクス主義者にとって大きな教訓となった。そのため、彼らは上部構造の「相対的自立性」を重視するいにたった。たとえば、フランクフルト学派に代表されるマルクス主義者は、ウェーバー社会学やフロイト精神分析などを導入した。もちろん、それによって経済的下部構造による規定という概念を捨てたわけではない。だが、実際には、経済的な下部構造を吟味すること無く、たんに棚上げしようとしてきkたのである。また、そのような傾向は、文学・哲学その他の自律性の主張、テクスト解釈の「決定不能性」という主張と繋がり、ポストモダニズムの一つの源泉となった。しかし、このように「上部構造の相対的自立性をいうことは、実際のところ、たとえば、国家やネーションを歴史的に形成されてきた表象の産物であり、啓蒙によって解消できるという考えに帰結しただけである。それは、国家やネーションがある種の下部構造に根ざしていること���それゆえにこそ能動的主体性をもつのだということを見ないのである。
柄谷行人『世界史の構造』岩波書店:6
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サザエさんはパジャマを着て寝ます。ネグリジェを着て練ることはありません。夫のマスオは、婿養子なのでその生計の何割かをサザエさんの両親に依存しているための配慮から、進んでサザエさんの体を求めることが出来ないのか、それとも住宅事情のせいで我慢しているのか、そのへんはあきらかにされていません。ただ、確かなことはこの夫婦が休日を利用して連れ込みホテルへ「ご休憩」に行くような余裕が経済的にも、精神的にもない、ということです。「サザエさん」の漫画は一種の大河漫画ですが、その夫婦生活のカリカチュアの中でも、性に関するものはほどんど無く、二人がふとんを並べて寝ている描写などは、全五十六巻までの中でも稀有のものです。その上、「サザエさん」の中にはきわめて理解し難い倫理観があって、電車の中で妻以外の女に関心を持ったりすると必ず失態をやらかして「ああ、オレはバカだケイソツだ」と後悔するようになっているのです。
寺山修司『家出のすすめ』角川文庫:24.25
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だから、例えば鳩山内閣のような無能力な内閣が続くことは、その反動として国民を専制化へ追いやる危険性がある。
吉田茂『大磯随想・世界と日本』中央公論新社:16
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ところが、私達のこの時代はなんともじつに不思議な時代である。礼節など何処にもないのに、赤裸々な侮辱もまた常に回避される仕組みになっている時代だ。つまり、現代は名誉心が致命的に傷付けられることなど決して起こらないような心理的保障がヒューマニズムの名において張り巡らされている時代だと行っていい。ヒューマニズムとは怒りを知らないことなのだ、と言ったのはたしか三木清であったが、現代はいわば情報機関の総力を挙げて、あらゆる人間に存在することが無意味だとは決して気取らせない幻想のヴェールを十重二十重に巻きつけて、人間を安心させて生かしている時代だと言って良いのかもしれない。
西尾幹二『人生について』新潮出版:15
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文化は「潜在的に批判的なもの」としてのみ、真である。このことを忘れた精神は、自分が培養した批評家たちにおいて、それ自体として復習される。批判は、それ自身が矛盾に満ちた文化の不可欠の要素であって、いかにそれが偽りであろうと、文化が偽りであるのに比例して、それは真である。批判は、解消して無に帰す限り-おそらく、それが批判に出来る最善のことだろうが-、不正をなさない。だが不服従によって服従する限り、批判は不正をなす。
アドルノ『プリズメン』渡辺裕邦・三原弟平訳、筑摩書房:15
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パウロは、信仰と律法とをラディカルに対立させているにもかかわらず、それらが律法に内在した形で連関しあっているという点に拘泥している。アガンベンはこのことを様々な観点で解明している。とくに目立っているのは、「カタルゲイン」という言葉との連関のあり方である。これは、(古き)律法が妥当性を失うことを表している。アガンベンはこのギリシア語の言葉を「中断する」とか「不活性にする」とか訳している。ルター訳聖書では、これは「アウフヘーベン」という言葉で置き換えられている。これは、ヘーゲル的弁証法がその解釈可能性を後に展開することになる言葉である。ヘーゲルにとっては、弁証法的な意味でのアウフヘーベンは三つの契機をもっている。一つは破壊や否定という意味で無効にすることである。一つは、保持するという意味での保存である。そしてさらに今一つは、より高いレベルへと高めることである。「カタルゲイン」が「アウフヘーベン」として描かれるとき、不活性化と保存はもはや対立をなしていない。そして、パウロが告げた「律法なき義」とは、つまるところ律法の否定ではなく、それを高めることであり、「その実現であり成就-プレーローマ-なのだ」(『残りの時』173頁)この箇所においてアガンベンは、彼の特徴である大げさだが、同時にうまくまとめるやり方で、二十世紀の人間科学を概観している。パウロにおいて、律法、つまり法律を不活性ないし止揚することによって、中断と完成の連関として可視化するものは、この伝統の中で常に分化し、分離してしまっているというのである。したがって、法と宗教、始めと終わり、基礎づけと完成の間には相互に連関がなく、絶望的なありさまで裂け目が口を開いている。ディテールを吟味するところから引っ張っていって最後には非常に抽象的で大きなテーゼを繰り出すというアガンベンのこうした戦略は、頻繁に用いられるものである。
エファ・ゴレイン『アガンベン入門』岩崎稔・大澤俊郎訳 岩波書店:110.111
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我々の問題意識に即して、簡略に言い換えよう。この対談の題名にもなった〈人間性〉(nature humanie)とは、〈人間の自然〉ということでもある。確かに〈人間性〉という場合、人間の生物的次元そのものを注視するというよりは、誰もが普通に感じる感情的な発露、喜怒哀楽の普通のあり方などにつながる用いられ方をすることが多い。あるいは正義、愛、名誉、善など、まさにチョムスキーが政治的行為の究極的準拠としようとした価値を支えてくれる根拠のように使われる。「どの時代でもどの地域でも、同じ人間であるかぎり、**であるはずだ」という命題に見合う使われ方だ。これは司法、道徳、あるいは認知的内容に直接関係する科学などの妥当性の根拠にもなりうる。 そして、確かにこの対談が行われた七〇年代初頭ではまだそれほどではなかったとはいえ、例えば脳科学や神経生理学など、脳を含めた人体についての客観的知識が成熟していくとき、「〈脳の存在様態〉が**なので、まさにそのゆえにわれわれ人間はあれこれという状況下で**のような行動を取る」という認識の根拠にもなっていく。要するに、〈人間性〉の客観的・普遍的存在様態を認めるということは、社会的にも科学的にも極めて大きな意味をもちうる。そして、その究極的根拠が「人間は人間だ」という命題に収斂可能な場合、その命題の根拠は社会性ではなく、生物性・自然的存在としての人間という意味に収斂していくのである。〈人間性〉の自然主義的な根拠付けである。 フーコーが疑問に付しているというより、明確に否定しているのは、そのような意味での〈人間性〉なのだ。フーコーは人間性の根拠を〈自然〉の中には求めない。
金森修『〈生政治〉の哲学』ミネルヴァ書房:56.57
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アリストテレスが『ニコマコス倫理学』第三巻〔第九章1117a30〕のなかで述べているように、勇気は、大胆を和らげるよりも、むしろ、怖れを抑制することに関わる。なぜなら、大胆を和らげるよりも怖れを抑制することのほうがより困難だからである。なぜならば、大胆とおそれの対象である危険そのものが、それ自体、大胆の和らげへと向けて何かを与えつつ、おそれの増大に向けてはたらきかかるからである。
トマス・アクィナス『神学大全』(Ⅱ-Ⅱ,q.123,a.6)
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