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報道による暴力
京アニの放火事件でどんなに自粛、取材拒否を申し入れても、マスコミが被害者や友人関係者のもとに押し掛け取材をすることついては、まあ無視するであろうことは想像していたけども、このような未曽有の事件に際しても報道が態度を改めない辺りは、マスメディアに根付いた文化の闇深さを痛感させられる。 報道は昔は警察や公的機関に怒られたり拘束されるような取材をすると逆に褒められる(タダ褒めるわけではない)というものがある。報道機関には、「記者が“公”に叩かれるのは勲章」、「批判される取材は良い取材」という文化がそういった土台の上に根付いている。反権力を掲げて使命に燃えてるように自分たちでは思い描いているようだが、実際にはこのような形で築かれた風土文化を土台に、どれだけヤバい取材をするかを競うというのがあり、そこに彼ら特有の野次馬根性が伴い、事件の被害者だろうが自粛を求められようが、執拗に追い詰めて「取材」をする。 報道各社も新聞、雑誌の部数、テレビの視聴率を稼ぎたいから、他の取り上げてない、撮れてない映像や写真、��事を書きたがる。そのために現場に指示し、現場の記者たちも���の欲求を満たすためにも忠実に行動する。その結果がこれなのだ。
海外の拘束事件被害の犠牲者、被害者遺族について氏名の開示と取材の自粛を求めても積極的に開示し被害者宅を取り囲んで追い込む(報道各社)。
上記、散々「取材」し尽くして荒らし尽くした後になりようやく「取材自粛の申し合わせ」をして、翌日にはその申し合わせすら破る(報道各社)※1。
海外テロ被害者の病室に押し掛け、取材を拒否する権利はないと大声で騒いで脅す(朝日新聞)※2。
取材を拒否している避難所に押し掛けてカメラを回し、某活動団体のインタビュー取材をする(TBS)※3。
最近はこんなのがあった。ほんの一例だが。
彼らは過熱取材、メディアスクラム、被害者・遺族感情を踏みにじる取材への批判の声に、「報道の自由」「報道の使命」という言葉を口にする。しかしそれは彼らの自己暗示、自己弁護の類であり、実態としては「嘘」と言った方が良い。 とあるライターは、被害者の実名報道をしないと事件が風化する。忘れ去られないためにも必要と主張する。しかし実名報道と風化の関連性は無く、実名報道されたものでも風化してるものは山ほどあり、手前勝手に理屈をこねているだけで根拠が全く無い。 そのような事は単なる言い逃れで、報道機関独特の常識の中、そこで育った彼ら自身の持つ部数増加・視聴率増加への功名心、野次馬根性、承認欲求、暴露欲求、弱者をいたぶるサディスト心理、お涙頂戴をやりたい感動ポルノの欲求など、己の自己満足のための行動でしかない。 彼らのやっていることは、事件事故現場の写真を救護もそっちのけで写真に撮ってSNSにアップしてRTを稼ぎに勤しむような輩と、行動原理も心理もまるで同じなのだ。 現状、どんなに言い訳をしようとそれを否定できるだけのものが、彼らの姿勢、態度には無い。自分たちで寄せられる批判に向き合って糺そうとしないのだから、仕方がない。
報道の自由は権力の監視のために本来用いるものであるが、現状の彼らは報道の自由というお題目を凶器にして、一般人、しかも被害に遭った弱者を攻撃している。 池袋で自動車を暴走させ親子2名を殺し多数負傷者を出したにも拘らず、事件から数か月たっても起��もされず娑婆にいる勲章付き元官僚には報道の自由を行使しないという所で、彼らの態度、行動には説明できない矛盾がある。報道は死傷者を出しても起訴もされないでいる状況を追及もせず黙って見ている(風化させることに加担しているようにも見える)。
報道機関には一般社会とはズレた常識があるが、今は特にイデオロギーに支配されており、物事をそのまま適切に伝えるということは放棄している。そのような中で良識や善意を求めるのは無理と理解している。 ようやく最近ではネットでそういった報道姿勢を批判、また報道関係の悪事がそのまま公開され、そういった報道姿勢を攻撃する機運が出来上がった。そういった動きにも報道機関は報道の自由や知る権利を制限させることになると言う。しかしそれは関係が無い話で、単純にメディア被害から一般人を守れという話に過ぎない。権力や政治にまでそれを適用しろとは誰も言っていないし、そもそも別次元の話だ。 報道が報道のやり方で批判を招き、取材が委縮するとしたなら、それは報道機関が自ら招いた自滅なのだ。
※1 リンク
※2 リンク
※3 リンク
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帰ってきたヒトラーを見た
某レンタル配信で「帰ってきたヒトラー」を見た。コメディの要素はあるが、保守、排他、リベラルを安易に振り分けて批判ないし叩く風潮に対して問いかけるものであり、むしろそちらが主題の内容だった。
過去の人物が現代に転移、或いは蘇るというエピソードは幾らもあって、往々にして現代��のカルチャー、ジェネレーションのギャップに苦しんだり、それをコミカルに描くなどして笑いや涙を誘うというものが多いだろう。本作もそういう要素かと思っていたが、レビューなどを見る限りそういったものだけでないというのがあり、気になっていた。 劇場に行こうかとも思ったが、どうしても映画館に足を運び、チケットを買って、観るという作業に至るまでの面倒さを感じてしまう人間なので、結局映画館には行かずじまいだった。
ストーリーは、第二次大戦のドイツ戦末期の地下壕から現代に転移したヒトラーが、現代のコメディ番組を通じて世間の人気を集め、やがてカリスマ性を得ていくというもの。ストーリーの部分だけで言えば、個人的にはそれほど面白いとは言えない。オチの付け方も無理矢理に感じた。 だが、伝えるべき内容には目が行ったし、合間合間に挟まれる"ヒトラーによる民衆への取材”と言うものが、作中のドイツ、ヨーロッパの問題を(監督の目線ではあるだろうが)見せつけてくれた。
帰ってきたヒトラーは、現代ドイツの民衆に話を聞いて回る。 労働者は賃金への不満、政治が民衆の意見を反映していないことへの不満、そして、難民や移民の流入による不満を口にする。それを間接的な表現で特定の民族への不満を表したり、直接的に述べたりする人もいる。 これらは一部を除いては実際のアドリブによる取材だと言う。彼らの声からくる不安、そして何より、“声を発する事”自体が許されにくくなっている現状を示していた。 このような内容を上映できる分、また、彼らが(一部を除いて)顔を出しながら答えることができる分、まだマシかもしれない。日本だったらそれすら許されないと思う。何しろ報道、メディア媒体自体がそれを許さない現状だから。
途中、テレビのスタッフたちが“センシティブなジョーク”というものについて語り合ってる場面がある。これもテーマに基づいての会議を模したアドリブのような感じで、スタッフたちが各々考えた“センシティブなジョーク”を披露しあってる。彼らはそれに笑う一方、萎縮もしている。
そういった内容を見ていく中、“弱者”とは何かを考えた。文字通り弱い立場の者たちということだが、この作品で見ていく中、弱者はどちらなのかと問われると、単純に答えることはできなかった。
単純に、読み解かずに見れば、難民、移民への批判をする行為は排他的で、慈悲が無く、冷酷で、果てはヘイトだと言うだろう。だが彼らからすれば、自分たちの居場所が塗り替えられ、価値観を押し付けられ、そして中には仕事も奪われると���う事態にもなるのだ。そして上記の通り排他的で慈悲の無い冷酷なヘイトとレッテルを貼られる。暴力的な行動をするものは論外であるが(ここまで読んで私も排他的で慈悲の無い冷酷な人間と思う人もいるだろうが、そもそもそんな話ではない)、自分たちが置かれる、置かれつつある状況への不満すら口にすることが許されなくなれば、それはどちらが弱者と呼ばれる者になるのかは、単純には言い切れない。 こういう事になると、不満を述べる側を批判する方が、“絶対的な正義を掲げて”いるから尚更だ。 よくある事だが、弱者の立場の側に立って代弁する人は、時にそれを盾にするどころか武器にして殴りかかってくる。今はどちらかと言えば、そういう状況なのだろうと、作中の“声”を聞いて感じた。
最近日本でもあった事だが、日本が好きだという音楽だけで謝罪をさせられたりした例もある。それはもはや盾で殴るをを通り越して来てる状況だろう。「日本死ね」は報道やメディアですら称賛してるとこもあると言うのに。 彼らの行動は、必ずしもそれのためにはならず、それに触れると碌な事が無いから関わらないでおこう、とむしろ無関心にならざるを得ない状況を生み出しかねないし、逆にそれに対する反発を強める人たちも生みかねないのだ。 そうなると、構図は対立の部分が強く浮き彫りになっているように見えていく。この構図はやがて大きくもなっていく、その恐れがあるだろう。 今の有様では、どちらにとっても誰にとっても解決にはならないのだ。
作中のヒトラーは一度は失脚するが立場を立て直し、足場を固めていく。 誰だって居場所を奪われたり、浸食されたり、否定をされれば、今は黙っていてもそのうち破裂する日が来るだろう。そういった状況ではヒトラーではなくとも、そういった思考が力を持つ日は遠くなくやって来るのだろう。そういう予告、警告を描いた作品だった。
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