Text
20200920
人は「電話をかけよう」と思ってから実際に発信するまでに、どのくらい時間がかかるものだろうか。
「そんなの、番号を確認してプッシュするだけだから、せいぜい数秒でしょ」という人がいれば、私はあなたを羨ましいと思う。
「石橋を叩いて渡るところがあって…」
これは、父が私について説明した実際のせりふである。説明された相手は私の婚約者で、彼の返答も同意を示すものであった。
さて、聞いていた当人はといえば、「この方たちはさすがに私のことをよく知っているな」と感心していた。
思い立ってから行動に移すまでに、昔からとにかく時間がかかる。
人と会う約束などはいち早く取り付けるので、周りにはあまり気づかれないのが幸いかもしれない。自分のこととなるとどうも上手くいかないのだ。
たとえば、毎年冬が終るころに「今年こそ春物のすてきなコートが欲しいわ」と思う。しかし重い腰を上げてルミネに向かう頃には、季節はすでに汗ばむ初夏を迎えている。当然売り場にコートはない。
電話もその例の一つなのだ。私のような人間は、相手の電話番号が分かってもすぐに発信というわけにいかない。話す内容を書き起こし、読み返して、2、3言発声練習をする。入力番号を何度も確認し、数分かけてようやく発信に至るのである。
準備に時間がかかりすぎ、期日までに橋を渡れずに終わることも往々にしてある。
そういう意味では、先の父の説明は半分正解、半分不正解であると言える。あえてことわざを用いるなら、文字って「石橋を叩いて『割る』」が近いかもしれない。
この性格とどうにか付き合って生きてきた。これまで後悔や反省こそすれ、大変に困るということは無かったのだが、今はすこし困ったことになっている。
婚約以降、そうそう準備に時間をかけていられなくなったのだ。
婚約状態とはすなわち、入籍までのフローを着実に進んでいかなければならない準備期間でもある。互いの家族への挨拶にはじまり、結納、挙式、指輪、新居、各種手続き…決めなければならないことは山のようにある。私の場合、そこへ転職も加わるため、尚のこと厄介だ。
一つひとつに今まで通りの向き合い方をしていたのでは、当然準備は進まない。橋はほどほどに叩いたら力強く渡ってしまって、また次の橋へと向かっていかなければならないというわけだ。
先日、婚約者に入籍日はいつにしようかと相談したところ、「ずっと結婚する気は変わらないから、ゆっくり決めていいよ」という答えが返��てきた。
ともすればロマンチックな響きに聞こえなくもないが、これはおそらく、その直前まで新居のカーテンについてウジウジ悩んでいる私の姿を見ていたために発せられた言葉である。
窓はもう3ヶ月もカーテンをかけてもらっていない。彼の気が長くなるのも当然である。(というか、防犯上よくないのでカーテンは一日でも早くかけるべきである。)
ところで、「石橋を叩いて渡るところがあって…」といった父の説明は、そのあとこのように続いた。「だから結婚なんてできないんじゃないかと思っていたんですよ。」
確かに、婚約者だって、人生の伴侶の選択だったわけだが、この橋については特に叩き確かめることなくすんなりと渡ってしまった。自分のことながら不思議だと思う。
それが悪癖のせいでまた橋を割ってしまうというオチでは困る。今日も未来に向かって一歩一歩進んでいくほかない。
0 notes
Text
20200531
衣替えをしていると、ここ3年ほど季節ごとの購入ルーチンができていることに気づく。暖かくなってきたら無印良品でVネックの白いTシャツを買う。肌寒くなってきたらジョンスメドレーで上等なニットを買う。
今の時期にワンピースを1着買うのも、すっかり決まりになっている。
始めは黒いワンピースだった。ノースリーブで、長い丈の裾がきれいに揺れた。学生時代に男の子のような格好ばかりしていた私が、社会人になって勇気を出して買った一着である。
男の子のような格好ばかりしていたころの話はまた別の機会にするとして、とにかく普通���人なら最も自信を持って素敵な服を着ていたはずの学生時代にこれを避けてきた事実は、フェミニンな格好をするようになってしばらく経っても私にワンピースを選ばせなかった。自意識と折り合いをつけながら、髪を伸ばし、まつ毛をカールし、スカートを履いても、ワンピースだけはなぜか鬼門だった。
ウィンドウショッピングをすれば、世の中にワンピースはたくさんある。中にはとても気に入ったデザインだってあった。ところが、試着して鏡の中の自分と対峙すると、どうも気恥ずかしい。変じゃないかしらと自問し続けたのち、わたしにはあまり似合わなかったです、残念、ウフフ、などと言っては逃げるように返してきてしまうのだった。
その私が急にワンピースを買ったのはごく簡単な理由からだった。学生時代に密かに好きだった先輩とご飯を食べに行く約束ができたのである。
学生時代は相当仲が良かったし、先輩が卒業した後も複数人で遊ぶことはよくあったが、その日はわけが違って気合が入る状況だった。初めて「2人きり」で会うことになっていた。
注意書きしておくと、どう自分を慰めてみ���も、先輩にまるっきり他意がなかったのは分かる。当時職場が近かったので、メッセージのやり取りのなかで「退勤後に会って飲もうか」という話になり、急な日程だったので別の人を誘うこともなかった、とか、そのような経緯だった気がする。
私だって、社会人にもなって少女のようにずっと好きでいたわけではない。ただあわよくば、少年のような格好ばかりしていた学生のころより綺麗になったなと、少しでも思ってもらいたかったのは事実だ。
今だ!と思った。憧れのワンピース、今買わなくてどうする。約束の日は迫るのに当時の職業では買いに行く暇が無かったので、マルイの通販サイトを血眼でスクロールして吟味した。それがくだんの黒いワンピースというわけだ。
当日は退勤後に会うことになっていたので、職場にもそれを着て行った。勤務中はカーディガンを着ていたが、退勤するときにお手洗いで脱いでしまった。街を歩きながら、私はいつもワンピースを着ていますよ、これもほんとうにごく自然に着ていてなんてこと無い普段着なんです、という風を装った。実際は全然そんなことはなく、大変興奮した気持ちだった。なにせ初めて買った、好きだった人に会いに行くためのワンピースなのだ。
待ち合わせ場所に着くと、「かわいいね、似合ってるよ」と甘い声で褒めてもらえた、などというわけは勿論なく、その先輩というのはおもしろい人だったので「袖、それ、切っちゃったの?」と言われたくらいだった。でも服について言及されるくらいには普段の私らしくない格好だと思ってもらえた���だ、たぶん。
結論から言うと、中華を食べてビールを飲んで普通に喋って普通に帰った。とても楽しい食事だった。確かあれからもう一、二回くらい2人で食事に行ってくれたけど、今も変わらず仲のいい先輩のままだ。ただしクローゼットでハンガーにかかった黒いワンピースは、あの日の私の特別な気持ちをいまだに湛えているように見える。
今年は白いワンピースを買った。白いワンピースというのに漠然と憧れながら、きっと似合わないし…などと言いながらぐずぐずここまで来ていたのを、この自粛期間に買い物ができないストレスの発散よろしく(また)マルイの通販でえいやと買ってしまった。
今年の夏は、間違いなく普段と違う夏である。それはもう世界的な話で、混乱が落ち着く兆しは今も見えないままだ。ワンピースを着て、何か特別な気持ちになれる機会はあるだろうか。楽しみと不安が混じった気持ちで、配達日を待っている。
0 notes
Text
透明人間
我が身に降りかかって分かったことだが、透明人間というのは案外やることがない。
浮腫んで上手く開かない目蓋でゆっくりと瞬きをしながら、カレンダーに視線をやった。パジャマのボタンを一つ外す、今日は24日、月曜日である。二つ目のボタンに手をかける。昨日は友人たちと日比谷公園へ出かけて、楽しい休日だった。三つ目のボタン、今日からまた一週間、会社に行くだけの変わらない毎日だ。さて四つ目、と、視線をカレンダーから手元へ移した時だ。
そこに私の手は無かった。
正確には、ボタンを外せたのだし、手がそこに「ある」という感覚はきちんとしていた。ただパジャマの袖から生えて目に映るはずの、肌色の、父親似の薄くて平たい、冬の乾燥で少しささくれた、あの慣れ親しんだ手が、全く透明になっていたのだった。
心許なげに空中を漂うパジャマの袖口が、私の腕の形に沿ってぽっかりと空いているのを、どこかひと事のように長い時間眺めていた。
試しに姿見の前に立ってみれば、顔や足も同じ具合だった。部屋の中におかしなところは他になく、この世界で私だけが異様だった。
事態を把握してからの私は、非常にてきぱきと動いた。会社に「熱が出たので休みます。」と連絡を入れた。洋服と鞄が一人でに歩いて世間様を驚かせる訳にはいかないと、外の世界に気を使う余裕があった。幸い、私は誰にでもできるような仕事しか任せられていなかった。
身体は透明でもどうやら空腹は覚えるようなので、いつも通りパンを焼いて朝食を済ませた。自分の身体が見えないことでどんなに不自由かと思ったが、変わらぬ毎日の繰り返しで動作の染み付いた腕は寸分の狂いなくガラスのコップに牛乳を入れることができたし、開けた戸棚を足で閉めることだって簡単だった。
(編集中)
0 notes
Text
20200423
どうして今まで忘れていたのに急にこれを思い出すんだろう、ということがたまに起きる。
トリガーになる出来事があった場合はむべなるかなという感じもするが、前触れなく記憶の引き出しがするりと開くとき、あれはどういう仕掛けなのだろう。人間の記憶のシステムは不思議である。
そんな風にして今まさに思い出したのが、中学のときの国語のK先生と理科のS先生の攻防なのだ。
K先生は太宰を愛する、禿頭の、いわゆるおじいちゃん先生だった。中学教師というよりは大学教授のような雰囲気で、授業中使われる言葉がやたらと小難しかったので、生徒からの人気はそこそこだった。
一方のS先生は30代半ばくらいで、ほかの理系教員たちと違って白衣に清潔感があった上、関西出身らしく授業スタイルは軽妙、生徒から慕われるタイプだった。
(編集中)
0 notes
Text
「北陸三県言える?」と仲のいい後輩が聞いてきた。私が地理分野に弱いことを彼女はとても面白がる。何かにつけ、こうして抜き打ちテストをしてくださるのである。
ちなみに私の地理知識レベルがどの程度かと言えば、先の質問が分からないほど酷かった。
学生のうちは、別にこのままでいいと思っていた。
地理分野に限らず、勉強は好きじゃないし。そもそも方向音痴で自宅周辺の地理すらままならないのだし。知らなくたって日常で困ることもないのだから、いつか覚えられたらいいや、とのん気に構えていた。
気が付けば20代も半ばに差し掛かって、ふと自問する。「いつか」はそろそろ来ないとおかしいんじゃないか。
もし、はいどうぞと白地図を渡されたら、47都道府県のうち、30くらいしか埋められないような気がする。県庁所在地になるとさらにデタラメな覚え方をしているので、まるでだめである。これは小学3年生くらいの知識量なんじゃないか。テレビなどで「〇〇島」と聞けばなぜか全て「九州にあるのかしら」と思ってしまうあたり、ちょっと賢い小学2年生くらいかも。ようやく焦るようになった。
毎日日本地図とにらめっこして、ようやく47都道府県とその県庁所在地を覚えた。松山、松江などは難関だったがもう間違わない。浜松は県庁所在地じゃないらしい。
自信をつけて例の後輩と食事に行き、いくつかクイズに正解し小さな拍手をもらった。あやされる子どものように得意になっていると、「じゃあさ、本初子午線はどこにある?」と聞かれる。
「明石市。」いたって大真面目に答えたが、出題者が可笑しいのと呆れるのとを行ったり来たりしている様子から不正解を悟った。明石市は「日本の」「標準時」子午線であって、「本初」子午線は英国はグリニッジ天文台にあるらしい。それまでは国内の問題ばかりだったのでひっかけ問題じゃないかと主張したが、ひっかける意図は無いしそもそも常識ある大人ならひっかからないと言われて、押し黙るほかなかった。
これを受け、今度は主要国の首都を覚えている最中である。自分の学の無さに情けなくなるほど知らなかったことばかりだ。オーストラリアの首都がシドニーではないなんて(キャンベラ)。カナダはバンクーバーじゃないし(オタワ)、ニュージーランドもクライストチャーチじゃない(ウェリントン)。手に負えない。衝撃の大きさが浜松の比ではない。
進捗はと言えば、前述の3国を筆頭に苦戦が続き、なかなか覚えられていない。なぜか長ったらしいブルネイの首都だけは一発で覚えてしまった自分の脳の天邪鬼さに嫌になりながらも(バンダルスリブガワン)、飽きるまではのんびり取り組むつもりだ。
0 notes
Text
200206
仕事の都合で、本日のお昼ごはんは外食となった。世の中には毎日「ランチ」のため出かける会社員も多いのだろうが、わたしはもっぱら社員食堂を利用するので、これは珍しいことである。
商業施設のレストランフロアで、エスニック料理屋を選んで入店した。「1名様、ドウゾ〜」可愛らしい女性店員に、キッチン近くの席に通してもらう。4、5種類のランチメニューの中から、ガパオライスを注文した。
時刻はすでにお昼のピークを過ぎる14時ごろで、私と入れ替わるように席を立つ客が何人かいた。
その食器を片付けるべく現れた青年店員が、帰宅した今も忘れられないのだ。
どうも、彼は歌っているのではないか。最初は聞き間違いか、あるいはご機嫌な調子の独りごとかと思われたが、キッチン近くに座る私の横を何度も往復するので、確信に変わった。彼は小さな声で何やら歌っている。
日本ではあまり聞かれない音階で構成されたしらべが、彼と一緒にこちらへやって来てはまた消えていく。エスニック料理屋にしては内装に特徴のない無機質な店内が、気づけば異国情緒に溢れていた。
彼の故郷では有名なポップソングなのだろうか。人気歌手が恋の情念や別れの辛さを歌い上げたり、人々がそれに共感したりするのは、きっと万国共通だろう。あるいは「懐メロ」かもしれない。父母の影響で聞くかつての流行歌だ。彼のささやかな歌声しか情報が無いので、色々な想像ができた。
青年はやがて私にガパオライスを運んでくれ、はじめに席を案内してくれた女性店員と二、三言言葉を交わしたりもしたが、とうとう私が店を出るまで��っと小さく歌うのをやめなかった。これが日本で言うところの「ああ、川の流れのように」なのか、「グッバイ、君の運命の人は僕じゃない」なのか、私には全く分からないのが可笑しいのだった。
0 notes
Text
着付けと人
一度だけ、浴衣売り場で働いたことがある。入社したばかりの百貨店でのことだ。
当時の売り場は、私を含めた新社員と、派遣のおばさま方、合わせて10人くらいで回していた。毎日浴衣を着用しなければならなかったが、当然、20才そこそこの新社員たちの中に自分の着付けができる者は居なかった。そこで新社員の着付けはおばさま方に委ねられたのだが、これが人によってぜんぜん異なるので、面白いのである。
恰幅の良い身体に渋色の浴衣がよく似合っていたOさんは、いつも豪快で、しかしその豪快さが心地よいと感じさせた。彼女の着付けの仕上げは、どこからか拾ってきた厚紙を帯板の代わりに入れてくれることだった。「帯板なんか要らないんだから。見た目が綺麗なら大丈夫!」と大きな声で笑うOさんの帯からは、「私も今日はコレよ」とダンボールを破いたのがが出てきた。
Kさんは、小柄な身体と綺麗なグレーのまとめ髪が可愛らしく、いつもニコニコと笑っていた。私のヘンテコな浴衣(大きな格子模様に、何故か蝶とウサギとツバメが描いてある)をよく褒めてくれ、ご自身もモダンな柄の浴衣を着ていた。帯の結び方や帯締めのアレンジが大変上手で、Kさんが着せてくれると今風の洒落た着こなしになった。
私が一番好きだったのはTさんという人の着付けである。薄い顔立ちにしなやかな佇まいで、植物のような美しさを持つ人だった。口数は少なかったが、ボソッと言う一言にユーモアがあった。Tさんの着付けはいつもあっという間で、気づくと終わっていた。どこも苦しくないのに夜までずっと崩れない着付けは、魔法のようだった。
Sさんという人もいた。痩せ型で、神経質そうな顔立ちをしていた。記憶の中のSさんは商品を何度も何度もハンガーに掛け直している。そのくらい、厳しく几帳面な人だった。なぜか私はそのSさんにとても可愛がっていただいた。掃除や整理整頓が好きなところに共通点を見出して、好ましく思ってくれたのかもしれない。仲良くなると、Sさんは意外にもお喋りであると分かった。エピソードの端々から、男性から人気がある娘時代を過ごしたらしいということも伺えた。そう言われてみれば、所作にやたらと色気があった。
Sさんの着付けの特徴は、思い切り大きく抜かれた襟だった。多分、当時の私の年齢にしては抜かれ過ぎだったのだと思う。別の人が私の襟をまじまじと見て「今日Sさんが着付けてくれた?」と聞いてきては、「ここを引っ張ると襟の抜きが収まるよ…」と小声で教えてくれることが多々あった。
私はひっそりと、いつか和服の知識をもう少し身につけたいと思っている。自分で浴衣やお着物が着られたら素敵だし、将来娘が生まれたときには、可愛らしく浴衣を着付けて、夏の思い出づくりに送り出してあげたい。きっとその着付けには、あの浴衣売り場で出会った皆さんのように、私の人柄があらわれるのだろう。
0 notes
Text
Mさんについて
インスタグラムをやっている。(自分で写真を投稿をしたことがないので、厳密には『やっている』とはとても言えない使い方だが、)友人たちの投稿を見るのは日々の楽しみだ。
先日高校の同級生が投稿した写真に、懐かしい顔があった。彼女も同級生で、Mさんという。
卒業以来ほぼ会っておらず、大変失礼な話だが、その写真を見るまで彼女のことはすっかり失念していた。写真に写るMさんは20代の女性らしく美しくなっていたが、当時の面影がしっかり残っていて、彼女についての記憶が一気に呼び起こされた。
私たちの母校はダンスの強豪校だった。よくあるヒップホップやチアではなく、コンテンポラリーのような独特なジャンルで、全国大会ではかなりの頻度で優勝していた。私の在学中、(中高一貫校なので6年間もあったが)他の部が特別優秀な成績を収めていた記憶は無いので、ダンス部一強の学校だったのだと思う。
ダンス部の朝昼晩の熱心な練習の様子は、他の生徒たちも知るところだった。先生たちも、早弁やチャイムぎりぎりの入室に対し、「ダンス部員ならしょうがない」と目を瞑っている様子だった。
入学したばかりの頃、冷やかしで部活見学に行ってみたことがある。憧れのダンス部を目の前に瞳を輝かせる同級生たちと、先輩方の厳しい雰囲気に圧倒され、場違いな私はそそくさと途中で退室した。背中で聞いた「あれ?さっきより人減った?」という部長の声に、心臓が破裂するかと思った。その日は後ろから部長に追いかけられている気がして、走って帰った。
そんな厳しく���誇り高き我が校のダンス部において、私の学年ではじめに頭角を現したのが、Mさんだった。
詳しいところは知らないけどMさんが凄いらしい、という無邪気な噂は学年中で囁かれ、文化系の部活でのんびり活動していた私も、彼女にとても興味があった(当時はクラスが違ったので、話したことがなかった)。実力主義の世界で、中学一年生にしてセンターに近いポジションを任されていると聞けば、興味と羨望が入り混じって、彼女を見かける度に目で追う始末だった。廊下を歩くときも姿勢良く、上履きを履く所作の一つも素敵に見えた。きっと踊る姿はもっと素敵なんだろうと、勝手に想像を膨らませていた。私にとって彼女は特別な女の子だった。
そして11月、初めての文化祭で、ようやく彼女の踊りを目にすることになる。結論から言うと、初めて同い年の女の子に対して鳥肌が立つという経験をした。もちろん私はダンスの知識などまるで無い人間だが、彼女は大勢の中に混じっても圧倒的に素晴らしく見えた。技術なのか、心なのか。きっとその両方だ。月並みな表現だが、指先や髪の一本一本まで、いきいきと踊っているようだった。
翌年以降の文化祭は自分の部活動で忙しく過ごし、次にMさんの踊りをきちんと見ることができたのは、五年後、高校の卒業間近になった冬である。
「三年生を送る会」と称するイベントで、下級生と三年生が出し物を披露し合った。コント、のど自慢、バンド演奏など大いに盛り上がり、Mさんたちの番が来た。三年生はすでに部活は引退していたので、確かダンス部OGチーム、といった集まりだったと思う。さらに言えば、Mさんはその実力を持っていながら受験勉強のため周りよりもずっと早く引退をしていたので、久しぶりの舞台出演だったそうだ。
本番、Mさんは五年前に見たあの時と変わらず素晴らしい踊りを披露してくれた。力強いのに、しなやかで、ブランクなどまるで感じさせない踊りだった。隣で一緒に見ていた友人の「Mは特別だなぁ」という呟きが、歓声の中でとてもはっきりと聴こえた。
実はそのとき、私とMさんの関係は五年前の文化祭から大きく変わっていた。何度も同じクラスになる機会があり、その年の高校最後のクラスも同じだったのだ。特段親しかったわけではないが、他の友人と同じように、挨拶をして冗談を言い合う仲になっていた。
その日も他のクラスメイトに混ざって「格好よかったよM!」と声をかけると、彼女はものすごく照れていた。
中学一年生のときの私は知らなかったが、踊っていないときのMさんは、とても普通の女の子だった。
0 notes
Text
はじまり
「何でもいいから文章を書きたい。」思い立ったは良いが、何を書こう。これまで私は何を書いてきただろう。
小学校で出された作文のお題は何だったか。高校の小論文は、大学のレポートは。文章を書くという行為をそれなりの回数こなしてきたはずだが、内容はろくに思い出せない。今日まで、文章を書くのに熱を上げた経験というのは無かった。
お題の内容こそ忘れてしまったが、高校の小論文の授業に苦戦したことは覚えている。ほかの子と同じように時間内に書ききることができず、宿題として持ち帰るのが常だった。ここだけの話、その宿題にも行き詰まって、出版社に勤める父に手伝ってもらっていた。
文章を書くのは苦手であると認めざるを得ない。
とにかく、書くことに頓着してこなかった私が、初めて自発的に文章を書いている。これからは、私のことや誰かのこと、世界のことについて、考えて、表現してみたい。自分も知らなかった自分の言葉との出会いに、期待している。
追記
「書き手自身に見当のつくこと、理解できることを書くのが作家ではない。何が何だかよく分からないことにぶち当たり、もがき苦しむ様を書く」
私は作家ではないが、その真似事をするにあたり、大好きな作家のエッセイに見つけた文章に答えの一片が見つかった。
0 notes