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(非公開にしたメモ書き以外)ひさびさに更新したけど、自分の過去の文章見てると気が重くなりますね!まあ大体鬱の時に書いてるんだから仕方ないね!パソコンからホーム見ると文字に連れて行かれそうになります。よくない。そのうちテンプレ変えるか。
今は(���で弱っているのを除けば)以前と比べ物にならないほど元気いっぱいです。よく寝込むのは仕様なので仕方ない。
短期間でこの変わりようですよ、やっぱり私は世界一運が良い!!!!!!!!!!!!!!!!!!
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男の子だって、お姫さまになれる
「男の子だって、お姫さまになれる!」
今になって知って大泣きした。 「女の子もヒーローになれる」よりもすっごくすごく染み入る。よかった。ありがとうプリキュア……観られてないけど 時代が変わったからというのもあるのかもだけど、自分の意思で自由に選択できる大人よりも、子どもの頃の方が余程男の子扱い、女の子扱いというのは嫌になるほど顕著にされる。本当に言い出したらきりがないほどにすべて男女で仕切られている。男の子らしさ、女の子らしさ(謎の概念すぎる)を求められる。自分が女としてカテゴライズされることが最初から意味がわからなくて本当に本当に本当に本当に本当に嫌だったから必死に荒っぽく振る舞って男の子の真似し続けて、それでも結局全然だめだったんだけど、最近になってようやっと、もう縛られる必要もないかなと思えてきて、自分の本当に好きなものに向き合った結果すごい女児回帰(この言い方もよくないね、これで最後)してるわけなんですが、「男の子だってお姫さまになれる」はあの頃苦しみ続けた自分が浄化されるようで、当時も今の自分も許されたようで本当に…………泣いた。
別に今だって男の子をやってるわけでも女の子をやってるわけでもないけれど、自分のやりたいことにごく当たり前に手を伸ばすことができる世界、もっともっと当たり前にここにあるようになるといいよね。 あと教育現場は小学��の段階で整列する際に男女別に分かれることすら生理的嫌悪を抱く子がいることは認識しとくれ〜(無茶言うな)(言い出したらきりがないシリーズ)
でも時代が変わってランドセルの色が自由に選べるようになったのは最高ですね!まあ小学校入学前に選んだ色を12歳までブレずに好み続けるかは微妙なところだしそもそもどれくらいの子が自分の好きな色を買ってもらえるのかって話になるんですけど!
ド田舎は入学から卒業まで制服にランドセルが当たり前だけど、都会の方は高学年になったらランドセルとか使わないと聞くしそれならあんまり気にするとこじゃないんだろうか。まあいいや。
どうでもいいけど私のランドセルはポケモン仕様でした。入学前から卒業まで、卒業しても今でもずっとずっと大好きなままです!
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Twitterまとめ
起き上がれないときに一人でぐだぐだ言ってたものです。下に行くほど古い(10月まで遡ります)
我ながらめんどくせえなとおもいました
将来を考えるべきだと論じる人は、一度も死んだことがなく大切なものが手の内にある、しあわせな人だけなのだから。今を精一杯駆け抜けろ。
正しく人間として生きようと努力せよ
当の自分は「受験生と言っても人生に受験は何度かあるし……年齢バレるわけではない……」と本気で思っていたのに普通にバレててわけがわからなかったけど同い年だとなんとなくわかるのはわかるし今思えばどう足掻いてもバレバレなんだけど当時はマジでわからないと思っていた。若いうちは未知の未来について知らないことが多すぎるから今の情報だけで判断してしまう。例えば大学受験だと高校受験とはまず時期とか仕組みそのものが違うから実際に体験した後なら言動で判断できる。テスト週間とか冬休みとかいう言い方も中学生だよね。若さゆえの過ちかよ。でも実際に体感を得なければわからないものだよ……。思い返すとたいへんはずかしいんだけどこの仕組みすごく面白いと思います。当時は本気でわからないと思えたのだから。 年上の知り合いとか兄弟がいれば誤魔化しがきかないのは何となく察したりできたのかもしれないけれどそんな存在なかったからそれ���大きいかもしれない。すべてが前例のない未開の地だった。第一子同士の第一子だからナ……苦労したナ……選択肢すら知り得ることがなかったものな…… 年上(だけど自分と同じ世代)の頼れるおにーさんorおねーさんは宝だぞ その存在があるかないかで人生変わってしまう。選択肢もぐっと増える。見えているものも持つものと持たざるものとでは全く違う。痛いほどに味わいました。友達のおにーさんと���おねーさんがいたらいいと思うじゃん??小学校の区内におそらく同時期くらいに山を開拓して団地が幾つか作られて、その直後くらいに引っ越してきたから周りも同じく第一子ばかりでそういうわけなのでとことん悪条件でした。残念! だからゲームや漫画の存在も誰も持っていないしそもそも知らないから小学生になるまで知らなかったし、数少ないおにーさんがいる友達にゲーム貸してもらって、すごい!!こんなものあるんだほしい!!となったりした。そういう世界も確かにあった。情報の伝達や内容が明らかに一般的なそれとは違う空間。そういう……神聖なる、触れることの憚られる……だけど同時に恐ろしいものでもあるものは、確かに存在した。そのなかで生きた。外を知る術のないものは自分の目で見えている中だけを絶対的な正しい世界と認識して自分の世界を構成する。それはとても清らかで、かつ強く、破壊的である。
どうして自分がこんな苦しい目に遭わなければならないんだ、これ以上世界は私に何を求めると言うのか、奪うというのか、どうしていつも理不尽に苦しみ続けねばならないのか、ずっと昔から、不幸のどん底を這い回って、こんな世界など大嫌いだと、恨む事ができるのならば楽になれるのかもしれないし、逆効果で余計に苦しいだけかもしれない。どちらにしてもそれはとても稚拙なことだと思うのだ、それ以前に、やっぱり自分はいま生きていられるというだけで、数々の奇跡を超えて現在地点に辿り着けたことをとても運が良いと思えるし、自分は幸せ者だと思うし、やっぱりこの世界はとてもとても美しいものだから、大好きなものを恨むことはできない。失ったものは二度とは戻らないからこそ美しい。今この刹那にも世界は魅力を増している。いた。そんな美しい流動の中で活動できる、感じられるというだけで私は幸せなのです。最早どうしようもなく狂ってしまっているのだとしても、世界はそれすら受け入れやがて時の流れが美しいものに転化させる。うんとかわいくて切ないお伽噺を作ってよね。正気なんて保っていては、一般的な身体活動域では忍び込めない領域ってあるのだから。異文化へようこそ。
正直自分でも自分の状態なんてよくわかりません。でもこういった人、世の中にたくさんいる��しょ? 普通に生活しているふりをしても、実は多くいるんでしょう? 知ってる。「普通じゃない」の枠を何度も何回転もしてしまってすっかり枠そのものの存在を感知できなくなってしまった人。
自分という小さな入れ物の中だけでは到底処理できない理不尽を、自らを透明にすることにより世界と同化し、理不尽を世界に組み込んで、時間を回す、すると美しいものに変わりゆく。それを飲み込む。そうでもしないと、もしかして息をすることすら叶わないのかもしれない。
①空と海の境界で水色に溶け込んで死ぬ ②限界までかわいいもので埋め尽くされたぱすてる空間で蜂蜜が頭上からとめどなく流れ出し窒息して死ぬ ③誰も見向きもしないような廃業した駄菓子屋さんの朽ち行く廃屋の中、唯一の陽が差す位置で美しく微笑んだまま死ぬ ④瞳に宇宙を宿したと思ったら何かに攫われたように動かなくなり毎日そっと名も知らぬ人ならざる人が傍に花を供えてくれるなか、ある日突然無限を彷徨う宇宙から世界に還ることを許され、自身を囲む花に目を奪われた刹那、生命の交換条件として花に囲まれて死ぬことを赦される
どうやって死にたいか考えると、結局自分自身の原初にして最後に辿り着く有り様を考えることになるので、自分の世界観というか趣味が丸出しになる気がするんだけど、案を出し続けて行くとどんどんファンタジーになってしまうのが問題なところ(楽しい) 理想としてはこうだけど実際問題命懸けでの人助けをして臓器提供して死にたいじゃろ
自分の当たり前は誰かにとって拷問だったりするのだ
普通になりたいと願って相当の努力をし続けてようやく思考能力として普通の皮を被ることができた末の諦め、開き直りだから、普通になりたいと願い続けることはやっぱり大切なことだし、それを忘れてはいけないと思う。多くの人が考えることに寄り添って手を差し伸ばせる人であるべきだと思う。きっと誰しもが「何かしらの普通から外れた部分」を背負って生きているのだから、まあ、結局普通なんてものは存在しないのだし、自分が枠から外れているという自覚と受け入れられる器があることですべての存在を可能性や事実として受け入れられること、それが大切なことなのだと思います。自ら枠に縛られに行ったアウトローだからその点に強い気がする。囚われることのない本来の感覚、縛られる側としての生真面目な意志、その中間で拮抗することによるストレス。誰しもがそれと戦いながら生きている。がんばれ。普遍を生きようとする人々よ。しかしアウトローも怖くはない。生きよ。
清く正しく美しく生きてきた人ほど自分がそこから外れてしまうことによって自分で勝手に死んでいくもの��よ
とことんアウトローを極めてもどうにかして生きてはいけるもんだぜ 逃げるべき時は逃げるんだぜ わしは抱き止めてあげるぜ こわくなんかないんだぜ 当たり前のことができなくなることをこわがらなくてもいいんだぜ そのときはじめて、君の知らないあたらしいせかいがみえてくるんだぜ ハローニューワールド!! 人類へ
宇宙の裏側に滑り落ちてしまって、いつか帰って来られなくなる。繋ぎ止めてくれる人はあらず、繋ぎ止める手段もあらず、只々宇宙は無限の青でもって私を飲み干す。この目には、宇宙ですらもきれいな青に映るから、みずいろになって消えたいという願いは存外叶えられたのかもしれない。白は私だから。
生まれてこの方、こどもが欲しいとか幸せな家庭を築きたいだとか一度も考えたことはないし、そもそもそういった感覚すら持ち得ないので、完全に生物学的なアレから生まれつき乖離しているとみた。少しでも多くの感情を知りたいしそれに寄り添って、同化はできなくとも理論的に理解したいのだけど、 こどもが欲しいという感覚は本当に難しくて、まだ当分寄り添うに難しそうだし現状ではまず理解の可能性すら見えない。子孫繁栄とか……難しい。非常に難しい。もっと本をいっぱい読まねばならない。自分の中には掴むものさえ存在しない。 度々考えてはみるけれど、そも子孫を残したいと願う人々は、自身がその役目をきちんと担えると考えて行動を起こしているのだろうか。こどもが欲しいという欲(?なのかな?)、責任を天秤に掛けて、それでもなお、と思えるのだろうか。私は思えない。こんな親に育てられたらこどもは破滅してしまう。親がこんな人間だなんて! 地獄でしかない。自覚した瞬間からすぐにでも死んでしまいたいだろう。 と理論的に考えてそう思うので、こどもが欲しいという感覚を生まれつき持ち合わせてなくて本当に良かったのだろうなと思う。もし欲しようものならあまりにも苦しむことになっただろう。むしろ最初からすべて仕組まれてこうなったのかもしれない。いや、そりゃそうだなあ。 でも、欲と責任を天秤に掛けて、例え自信がなかったとしても、それでも人生を捧げた人との愛を繋ぎ止めるためのもの……愛の行方、これから生涯を捧げるもの……が欲しい、と願える人こそが「普通の人」なんだろうな、と思う。そこまでは理論としては解る。もっと見地を広めていきたい。
そういえば今日ふと気付いたけど、結局正義の味方にはなれなかったけれど、世界から理不尽に苦しむ人がいなくなりますようにと毎日お祈りをしたり学校でいじめを報告する以外にも、お店で陳列が乱れていたら直したりトイレットペーパーの端三角に折ったり倒れている自転車を起こしたり捨てられたゴミを 拾って捨てたりなんかそんな小さくて本当に小さいヒーローごっこみたいな、なんだけれど、世界がそうなってくれればいいなっていう願いからの行動、世界平和に��程遠いけれど、昔からしてたから巡���巡っていまとんでもなく強運なのかもしれない。最近やってない。やらないと
たぶん私の中では「遊ぶ」という大きな感覚がなくて、例えば「友人と会って会話する」だったり「遠出して都会の空気を吸引して世界とリンクする」だったり、たぶんそういうのをみんなひとまとめにして「遊ぶ」って表現するのだろうな……ということはなんとなく想像はできる、けど私は遊んではいない。「遊ぶ」は楽しいことをするときの表現であって、しかし私は基本的に何をしていても楽しい(体がきついのは仕方ないとして精神的に)からそもそも遊ぶという感覚が必要ないのだろうなという結論。言い換えれば息をしている間常に遊んでいる。楽しい!!
人間50周くらいやってから出直して来な!という最高にcoolな言い回しを思い付いたのでフリー素材にします。どんな事象であれ自分の起こした行動にはその後があるんだ。後処理をする人がいるんだ。自分は世界を動かしていて、誰もが世界を動かしている。早くも遅くも、物事は流れ行く。自分が流したものは、どんな経過を辿って行くのだろう。自分へと辿り着いたものは、これまでどんな道を歩んで来たのだろう。そんなことを考えていると、世界って浪漫の塊だし、浪漫そのものな気もするし、そういった風に考えられる人が増えれば、世界はもっとすてきになるはずだと思います。
頭痛に魘されつつ(珍しく薬飲まずとも良くなった)自分の好みについて考えていたのだけど、近年いわゆるゆめかわいい、という言葉が出てきて、世界観も確立されたけど、その言葉が出てきたとき、いやこれじゃない……これはちょっと違うんだな……ってなったのでこれではない。可愛さと恐ろしさが紙一重なのはそれはその通り。だけど恐ろしさを一切感じさせない、底抜けの愛らしさも必要で。えふごコラボで気付いたけど、うんと小さいころ好きだったサンリオ系統に近いというかほぼそんな感じ。その中に、気分が悪くなるタイプの恐ろしさではなく懐かしさ、哀愁、ほんの少しの、可愛さだけで完結しているわけではないけれど、むしろそれがあるからこそ可愛さを一層際立たせるようなスパイスとしての恐ろしさ、噛み損ねると口を傷付けてしまう金平糖の硬さ。底抜けの可愛さを求めることの狂おしさ。退廃的で空虚で。淡くからふるな、ふわふわゆめのせかい。ぼくときみだけの。
みたいなのがこう、まだ言語化はされていないしそも好みをカテゴライズする必要もないんですけどゆめかわみたいに新しく言語化されると享受しやすいという大きな利点はあるんですけど!!無理やりなんとか組み合わせるなら退廃的お耽美甘々メルヘンかな
この歳になるまで気付かなかったの恥ずかしすぎるんですけど、自分に悪意が無いから他人の悪意を認識できない事実。だから自分が関わった人は良い人��かいないと思えるのかもしれないけど本当にそうだし或いは悪意を持たぬ人に対し悪意は向けられることがないのかもしれない、私はそう思う。自分が認識できないことはどう頑張っても「そういうものが存在する」ということは理解できても自分の中に取り込むことはできないから、使いこなすことはできない……言葉での説明からイメージして似せたものを錬成することはできたとしても。
ていうか人間誰しもそうやって生きてる節あるのでは? 私は散々研究して「多くの人はこの状況ではこういった感情を持ち言動はこう。その仕組みや抱く感情についてそういうものであることは理解できる。けど私個人の感情としては理解し難い、けどとりあえず自分の許す限り周りに不快感を与えない精一杯の努力をしてぎりぎりの均衡点を目指す」でみんな生きてるんじゃないの? ぎりぎりでいつも生きているんじゃないの? たぶん。ちがうかも。わしだけかも。
※自分のこともあるけどま〜ろまの無限の可能性について言及している節も78%くらいあります
人間、自分にはどう足掻いても手に入らないと解っているものって眼中になくなりません? 全てのものに対してそうなってしまっては無欲にもなるというもの。いや私だけなのかもしれない。わからない。でも向上心すらなくなって危うい気がする。物質ではなく目標として欲しいものは持ち続けねばならない。
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誰しもがふつうではない特別ななにかを持っていて、だけどみんな、周りのみんなが持っているものと同じものしか外に出さない。見せてくれないから 結果的にそれがみんなの、世界の「ふつう」になってしまう。 だけど、それだけのことで、本当は誰もがみんな きっと特別なものを持っているんだと思う。見せてくれないけど、かくしてしまっているけど。それがわたしは、少しさみしい。
18.01.23
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時間がないから、お金がないからできないなどと言っている人は実際にその足りないものが得られたとしてもやらない、などという精神論をよく目にするけれど、そういったことを声高々に言えるような人こそ割と甘ったるい人生を送ってきたのではないか……と思ってしまう。追い詰められた環境では物事に興味関心を傾けることすら難しくなってしまうし、思考力が根底から削がれるのだからまあ、そういうことを言える人からすればその厳しい環境から抜け出すための努力をしない人=できない人 なのかもしれないけれど、それにしたってその部分をいちばん強調するのは随分と甘い考えだなと思う。そこよりももっと大事な部分があるように思う。
だとしても、いつも一生懸命に努力ができる人はとてもすてきなんだ。どんな環境にあっても。いまを精一杯がんばって生きている人は、みんなとってもすてき。
18.01.20
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脳を騙すことなど容易いことで、本当に死にたいのであれば、死ぬべきであれば「死」の信号を脳に送れば その次の間にはもう世界を認識できなくなっているだろう。 それなのに人間というものはそう簡単に死ぬことは叶わない。意識的にであれ無意識的にであれ、どこかで生に対する執着を捨て切れないでいる。生きることを望んでいる。生物が持つ当たり前の本能として。 人間の社会は複雑になりすぎてしまったけれど、本来の人間なんて、勝手に生きられるものなのだ。簡単なことだったんだ、きっと。
などというのは現代においてのみ通じる単なる気休めでしかなく、生物がどんな環境でもまず生きようとしてしまうのは、昔からそれだけ過酷な環境に晒されてきたということであり、今は精神的な、内部に毒を盛るタイプの殺し合いだけれど、昔はもう物理的に殺し合いで、どちらにせよ簡単に生きることができないから、生きることに特化した構造が出来上がったということでしかない。 そう考えると、複雑になりすぎてしまった世界は、消えたいものにとってはあまりにも残酷なものかもしれない。内部構造は変わらないのに。
18.01.04
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生ク��ィムのシャボンの中で眠りたい
はやくTwitterの整理して持って来たいけど手描き制作に全力なのでそれどころではない。我が魂喰らいて奔れ、力不足の右腕!という感じ。がんばります。2ヶ月強全力疾走して半分くらいできました。
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生きるためになんとか動けるだけ仕事をしていて、それで頭も体も限界でまともに文章も書けなくて、前は毎日日記を書くことがなんの苦もなくできていたのに、仕事をしているとなかなか書けません。手帳の空白は増えて、わたしの生きた時間はお金としてだけ存在して、過ごしたはずの時間は消えていく。昨日着ていた服、食べたもの、考えていたこと、なにも思い出せない。書き記さなければ存在しなかったも同然、すべて消えゆく。だからわたしは書き続けねばならない。存在を繋ぎ止めるために。
起き上がれず手帳が開けないので、寝転がったままTwitterにだくだく流したものをそのうち修正して纏めたいです。今まで何度もやってるけど。本当はまいにち日記を書きたいです。万年筆とインクはたからもの、慈しみ色を選ぶたのしみを、余裕を取り戻すことが叶えばそれはとっても、すばらしいことだと思います。いつかきっと戻ってきます。
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にたものろせん
結局自分はどの路線が好きなのだろうかと考えていて、先日出先でふわっと思い付きメモしたものをちょっと修正したものです。
あくまでも個人的なイメージ。きらりちゃんは原宿系だと思うけど、杏ちゃんは(アイドルとして)ゆめかわ要素も取り入れつつ原宿で押されてる感じ、あんきらは原宿なので、そういった意味では親和性は高いと思います。
しかし個人的には合成塗料たっぷりのぎらっぎらした、グロテスク要素のある原宿は苦手だったりします。色素薄めの落ち着いた、かつ現実感のないふわふわした感じが好きです。色がかわいい���性癖。お耽美をくれ。
・原宿系
明度:中 彩度:高 ぎらぎらとした様々なビビットカラーを隙無く敷き詰める感じ。小さなたからものを持ち寄って、だいすきなゆめでいっぱいにする。自らの輝度彩度が高すぎて回りが薄暗く、基本的に目の前しか見えない。 サイケ手前。 グロテスクなモチーフが用いられることも少なくない。酸素濃度は薄く息がしづらい。 わたしのたからもの、あなたにも分けてあげる!だけどそれは毒入りかもしれないし、暴力かもしれない!でもわたしはこれがだいすきなの!
・ゆめかわ
明度:高 彩度:中~低 基本的に色素からGを抜く感じ。本来人間にとっていちばん身近であり遺伝子に焼き付いた、自然としての緑色。その地の生の色を抜くことによって非現実感を出す。パステルカラー:ピンク - パープル - みずいろ 「ここにいれば安心、外部からの物理的なダメージを受けて死ぬことはない」というやわらかくしあわせな避難場所かもしれない。しかし空気そのものが少なく、呼吸ができず溺れ死んでしまうかもしれない。 外部から身を守るため築いたふわふわの膜のなかで、内部の見えないなにかに囚われて、だれも、自分自身ですらも気付かぬままに、堕ちていく。
・自分が夢を見ているところ
明度:高~中 彩度:中~低 空白とメルヘンのあいだ。白と水色の過去に根差した透明な、既に存在し得ないノスタルジックの中に、決して存在し得ない作りもののおとぎ話パステルをブレンドした感じ。水分と空気過多で人間としての身体機能を失う。正しい生物としてはそこに存在できない。 記憶の中にある色は、もっともっと、透明だった。
でも、カテゴライズは自分の好きなものを手に取りやすくするためには大変便利なものだけど、あまり縛られたり意識しすぎたりするのもかえって主体性が失われてしまうので、良くはないなと思います。自分の考える好きなものをすきに取り入れて生み出せばそれでいいのだと思います。あくまでも検索性、取捨選択のスピード感みたいなものだからね。
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良くも悪くも、人間というものは変わってゆく。 自分の一部を失って、持ち得なかったものを獲得して、それを繰り返しながら生きてゆく。 次の瞬間には、もう先程までの自分ではないのかもしれない。気付いてしまったら、変わってしまったということ。取り返しがつかない。もう手遅れなのである。 今この時にしか、自分という意思は存在を許されない。 人間は刹那に一生を生きる。
12歳の頃から体に変化がないので、高校生くらいの頃に、小学生の頃着ていた服を着ることがあった(小学生当時から真っ黒な無地のものだとか徹底的に地味なものを好んだのでデザインに支障はない)のですが、着てみてぞっとしたのを覚えています。確かに自分が着ていたものであるはずなのに、この服は一体誰が着ていたものなのだろう。数年前の自分は自分自身ではない。それは一体誰だったのか。既に世界のどこにも存在していないそれは、証明のしようがない。あの時、誰者かの服を着てぞっとした人間も、最早海の終着点まで探し回ろうが、どこにも存在していない。人間と時間という単位は、同一のものであると思ったりする。
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元々ノスタルジックなものに心惹かれてはいたのだけど、完璧な性癖として決定的にしたのは大学2年になったばかりの頃に、数十年前からほんの数年前まで使われていた旧キャンパスに実習で行ったとき。
そこは人里離れたうんと山の中、山の上で、一切外部の人が接触できないような世界が広がっていて、寮があって、朽ちた小さな箱のような、硝子窓に蔦の絡まったプレハブ小屋、今も人が務めていてきちんと機能しているコンクリートの丈夫な建物に銀メッキのアルミサッシが嵌まった現代風の建物、そのすぐ奥に広がる大きな農場、すぐ目の前に迫る、石造りのアーチの下に放たれた小さな馬、近くて遠いような、木霊する動物の鳴き声、なによりいちばん胸に迫ったのは、おそらく講義が行われていたであろうメインの建物で、ガラス張りの掲示板には数年前の日付が記された保健便りが貼り出され、他にも試験範囲の掲示物、学生の指名呼び出し、そこには自分の全く知る由もない名前が並んでいて、確かにそこで人の営みが繰り返された痕跡がある中に、薄暗くて静かなそこに、確かに周りに友人は共にいたのだけれど、一人すこしずれた世界に迷い込んだような遠い気分になって、私はそこからまだ完全には帰ってきていないような気がする。そういった場所に迷い込んでしまうたび、少しばかり自分を忘れてきてしまうような。
朽ちて一部壊れかけてもいて、足を掛けるともしかしたら壊れてしまうかもしれないような、緑の芝がひたすらに広がる中にある木製の橋のような、建物の入り口に繋がる足場を、私はこの夢の記憶を繋ぎ止めるかのようにふわふわ歩いた。何度も。長年雨に打たれ続けてきたであろう木々が軋む、哀愁を誘う音は耳に響いたものの、壊れることはなかった。
ほんのわずか数年前まで、多くの人々がこの場所を歩いて、毎日のように繰り返し歩き続けて生きていたのだ、何を考えて、何を思いながら。そう考えるともう色々なものが自分の中に雪崩込んできて、その場に崩れ落ちてしまうような。永遠に帰って来られなくなってしまう、これからもきっと、色々な場所から。
先日Twitterでぼけーっと打ったものをちょっと手直ししました。そういえば写真もたくさん撮っていたはず……と漁ってみたら思った以上に撮っていた。当時まだカメラを持っていなかったのでデジカメだけど。でもカメラはどのレンズが良いか考えて装着して蓋外して、諸々設定をして、構えて、設定して、構えて、撮る!くらいの手間があるので、目の前の光景にうわ~!となっているとタイミングを逃して結局撮れなかったり、その手順が煩わしくてここは良いか……とスルーしてしまったりすることが多いけれど、デジカメだとここだ!と思った瞬間にすぐ撮れるので、その点に関して言えばどんなに高いカメラよりも優秀なのではないかな、と個人的には思っています……。ここまで書いていて私デジカメの方が向いてるかもしれないと思いました。動作が遅いからカメラ本当大変なんだ。
以下厳選した無補正の写真です。見る人が見ればどこだか分かってしまう可能性が数億分の1にでも無きにしもあらず!そっとしておいてください!
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短文をささーっと綴ることのできる能力が欲しいと常々思います。頭のなかにふわっと風景が浮かんで、風が吹いて、急いで常に持ち歩いているメモ帳にその断片を書き留めるのだけど、後にその断片を見て、あぁ、こういうものを綴りたかったのだ、それと同時にまたあの景色の中に立っていて、風は吹いている。だけど、それは私の心象風景であって、外部とは繋がっていない。エクスポートとはなんと難易度の高いものか。外に向かう気力を、勇気を、もっと蓄えねばと思わされます。
現状で書き留めた断片が37本、コピーが25本あるのですが、見返しているとむしろそれぞれが短文の枠に収まらない気がします。そう考えると余計に難易度が上がってしまう。文章を書くのは好きなのだけど。単純に書く、と綴る、では意味合いが違ってくる、後者は頭を使わなくてはならない。のでエネルギーが要るのだろうな。そんなあまりにも当たり前のことを考えつつ、今こうして打っているのは全く頭を使っていないのですごく早く打てるのですが、この勢いで文章を綴ることのできる日が来ることを願うばかりです。精進します。
以前に上げたものと重複しているものもありますが、気に入っているコピーを一部上げてみます。こういった景色と風を見た、のでそのまま絵にしたいです。するつもりです。できることならば。
・無いものねだりのノスタルジー ・だがしやは、きらきらのゆめ ・キュービィロップは都会的なネオンのひかり ・あの人は、きたないものさえ「美しい」と言った ・夕暮れ都会の焦燥感 ・コンプレックス・コンポーザー ・喉が渇いて仕様がない。この身体に、溺れたいほどに。 ・見惚れるほどの、青を持ちたい。 ・あの頃は 誰もがみんな 夏の化身 ・ロマンティックをきみに ・興味ないってつぶやいた。私は嘘なんてつかない。
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それは確かに、きれいなもので
今でもたまに、あの、今思えば「きたない」溝に手を突っ込んで、そこに溜まった太陽に反射する雨水の、きれいな光を思い出す。 きっと、きれいな心は、きたないものですら、きれいに浄化してしまう。 大人の目の届かない、低木の寄せ植えの根本に潜り込んで、その小さな空間を「ひみつきち」と定義した。 そのすぐ隣に見える、雨水の溜まった溝、そこには毎年蛙の卵が産み落とされて、おたまじゃくしやアメンボの住み処となる。 生活科の授業のとき 虫かご型の小さな水槽を持って、私はおたまじゃくしを捕まえるため、溝の中に手を差し入れる。何度かチャレンジをして手の中に収めたおたまじゃくしの感���は、くすぐったいような、きもちいいような、ふしぎなものだった。 そこに少しの水を入れ、大切に家に持ち帰り、パンくずをあげて育てる。尾が退化していき、手足が現れ、いつの間にか 水槽からはぱたんぱたんというような 跳ね回る音が聞こえてくる。そうなると、蛙を庭へと放してやる。毎年、それを繰り返す。 今では、ひみつきちを作ったあの場所も、おたまじゃくしを捕まえた溝も、コンクリートに埋め立てられ 駐車場となってしまった。 昨今、あの小学校に通う子どもたちは、知らないのであろうか。 大人たちの立ち入れない、木々の隙間を潜り抜けて辿り着く、木漏れ日の中のひみつきち。 何とも言葉にし難い、手に収めたおたまじゃくしの感触。 そして、透き通るようにきれいな雨水が、太陽の光に反射してきらめくさまを。
以前、試験の時に書いたレポートの内容を思い出しつつ、頭に浮かんできたものを書き出してみました。 ちょうどその試験が行なわれたのと同じ教室での講義中、吹き込んできた風に、おたまじゃくしを捕まえていた季節もちょうど今頃だったなと……。 その時書いたレポートの内容は、 「自分が小さかった頃はまだまだ自然に触れることのできる場所があったけれど、かつては自然の中にあった小学校も今や安全性と利便性からコンクリートに囲まれ、周囲の空き地や林も住宅地として開拓され、子どもたちは普段から自然に触れられる機会が 昔と比べると、うんと少なくなっているのではないだろうか。これまでに幾つかの、全国での事例を見てきたように、もし叶うのならば、あの小学校に自然を取り戻したい」 という、自分の見知った場所にビオトープを作るなら、みたいな課題のものでした。 その後家族に話して、結構本気で考えてみたりもしたのですが まあ夢物語に近いですよね。 事例には「地域住民による協力」が不可欠であるものがほとんどだったので、地域性って大事だなと。 実家や小学校の周りは住宅街で、夏休みのラジオ体操ですら苦情が出て中止になる程の協調性の無さと地域交流の無さ……(全く人のことは言えない)。 それでも私はやるとなれば信じたいのですが、現実的に考えて厳しいと母は言います。まあ、技術や経験、指導力、人脈、交渉力まで何を取っても現段階では夢物語に過ぎないのですが、でも勿体無いなあと思うんです。とても。 いくらお金を出しても買えない、光り輝く宝石よりも よほどきれいな光景が、確かにそこにあったのに。
16.05.13
昔のブログから発掘しました。今では本当に夢の中の話のようです。たった1年半前のことだというのに。
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太陽の光というものは温かいものだ、
それは誰もに平等に降り注ぐものであって、その尊い光を自ら進んで浴びに出向くのか、内側に籠って権利を棒に振るのかは、それはそれで個人の自由と選択の権利でもある。
言わずもがな、前者でありたい。
17.9.23
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少しでも自分から目を離すことを許せば足を滑らせて死んでしまえそう
生への執着が一切無いのも困りもので。あとやっぱりある程度の責任を背負っておくのは世界と自分とを繋ぎ止めておく意味で大切だなあ。責任もなく世界から断絶された場所で生への頓着なく生きているとふらっと次の瞬間もういないかもしれない
17. 7.29-30
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インターネットも通販もまだ無い時代。日差しが眩しい窓辺で、昼下がりに何気なく読んでいた雑誌の中に、とあるカメラを見た。 僕はすっかりそれに一目惚れをしてしまって、雑誌を放って直ぐに家を飛び出した。暖かな午後の日差しに希望を乗せて、何か新しい世界が始まるような、そんな希望を感じて。 だけど、どれだけ探せどカメラは見つからなかった。雑誌をよく読み込んでみると、それは海外製のもので、日本で取り扱っている店舗はごく稀らしい。行きつけのお店は全て回った。この数日間で未だ訪れたことのない場所も調べ上げ、様々な場所へと赴いた。だけど、その存在を知る人すらなかった。 僕の世界は小さい。世界そのものは大きくても、どれだけ世界について勉強しようとも、子供の僕は小さなこの街から出ることすらかなわないのだから。 別段都会というわけでもないこの街では、これ以上は探す手立てなどないと、解っていながらも諦めきれない僕は、きっと恋に落ちていたのだろう。今日も君を探して、この狭い街を歩き続ける。
去年の冬に書いていたっぽいものが下書きから発掘されたので。続きもちょっとあるんですがどうも気に入らないのでお蔵入り。気が向いたら書くやもしれぬ。
パーフリの CAMERA! CAMERA! CAMERA!【https://www.youtube.com/watch?v=mMHbMMqWiVw】をイメージして書きました。
アルバム版よりシングル版の方が個人的に好きです。
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