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詳説日本史研究
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history2019 · 7 years ago
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蒙古襲来と幕府の衰退
§東アジアと日本  10世紀ころから、中国大陸北方の遊牧狩猟民族の活動がにわかに活発になった。東部内蒙古に契丹(916~1125)がおこって遼を建て、ついで北満州の女真が金(1115~1234)を建て、さらにモンゴル帝国が出現する。彼らの急激な興隆の主要因の一つは、新たな製鉄技術の獲得であるといわれる。鉄の生産力の増大は、優秀な武器や蹄鉄を彼らにもたらした。遊牧民族の騎兵たちは圧倒的なスピードをもってユーラシア大陸を疾駆し、勢力を拡大していった。  1125年に遼を滅ぼした金は、続いて1127年、南下して宋の都開封を占領した。宋王室の一人高宗(在位1127~62)は江南に逃れて南京で即位し、王朝を再建した。これが平清盛が交易を行った南宋(1127~1276)である。日宋間に正式な国交は開かれなかったが、私貿易は平安時代末期から鎌倉時代にかけて盛んであった。取引品のうち、日本からの輸出品は金・水銀・硫黄・木材��米・刀剣・漆器・扇などで、唐物と呼ばれて珍重された輸入品は陶磁器・絹織物・香料・薬品・書籍(『太平御覧』や「一切経」)・銭などであった。このうち香料・薬品は東南アジア原産の品が南宋を経由して流入していたのであり、日本は南宋を中心とする通商圏に組み込まれていた。また宋の銭貨は南宋側がその流出を防ごうとしたほどに大量に日本にもたらされ、日本国内各地に急速に貨幣経済が浸透していった。  文化面での興隆も著しかった。とくに注目すべきは禅僧の動向で、栄西(1141~1215)・道元(1200~1253)をはじめ80数名が入宋し、蘭渓道隆(1213~78)ら20数名の僧が来日した。彼らは宗教ばかりでなく、大陸のさまざまな文化を日本に紹介した。封建社会の基本思想となった朱子学(宋学)も、喫茶の風習も、禅僧によって伝えられた。入宋僧を自称する重源(1121~1206)や宋人の陳和卿(生没年不詳)によって東大寺大仏が再建されたのもこの時代である。 §蒙古襲来  モンゴル民族はオノン・ケルレンの二つの河の上流にいた遊牧狩猟民族であった。一部族の長の子として生まれたテムジン(鉄木真、鉄を作る人という意味)は諸部族を統一し、1206年にオノン川のほとりで帝位についてチンギス=ハーン(成吉思汗,在位1206~27)を称した。彼の指揮のもと、モンゴル部族は急速に勢力を拡大し、中央アジアから北西インド・南ロシアにまたがる広大なモンゴル帝国が現出した。チンギス=ハーンを継いだ太宗(オゴタイ,在位1229~41)はカラコルムを都とし、東方では1234年に金を滅ぼし、高麗に出兵し、西方ではポーランド・ドイツの連合軍を打ち破った。チンギス=ハーンの孫にあたる5代目のフビライ(忽必烈,在位1260~94)は都を大都(北京)に遷し、1271年、国号を中華の伝統にならって元と称した。彼は中国大陸の支配に強い意欲を示し、南宋の討滅を推し進めていった。同時に南宋と朝貢・通商関係をもつ地域(カンボジア・ビルマなど)につぎつぎと支配下におき、東は高麗をおさえ、ついで日本の征服を計画するにいたった。  1268(文永5)年、フビライは高麗を仲介として国書を日本に送り、朝貢を求めてきた。幕府は返書を送らぬことに決し(外交権は朝廷ではなく幕府がもっていた)、西国の守護たちに「蒙古の凶心への用心」を指令した。北条本家の時宗(1251~84)が北条政村(1205~73)ら一門の長老たちに支えられて18歳の若さで執権の座につき、元への対応を指揮することになった。フビライは翌1269(文永6)年、再び国書を届けた。朝廷は元の要求は拒否するにせよ返書を送ることを提案し、草案まで作成したが時宗は断固としてこれを拒絶した。1271(文永8)年、元の使者趙良弼(1217~86)が吸収に到来し、入貢を強く迫った。時宗はまたも元の国書を黙殺するとともに、九州地方に所領をもつ東国御家人に、九州に赴いて「異国の防御」にあたることを指令し、筑前・肥前の防衛を厳重にした。  1274年(文永8)年10月、元は忻都(生没年不詳)・洪茶丘(1244~91)を将とし、元兵2万と高麗兵1万を兵船900隻に乗せ、朝鮮南端の合浦(馬山浦)を出発させた。元軍は対馬に上陸して守護代の宗資国(?~1274)を敗死させ、壱岐・松浦を襲い、博多湾に侵入した。幕府は筑前守護の少弐資能(1198~1281)・経資(1229~92)父子を大将とし、九州の御家人たちを動員してこれを迎え撃った。元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれた火器の前に、一騎討ち戦法を主とする日本軍は非常に苦戦し、太宰府近くの水城まで退却した。元軍は日没とともに船に引き返したが、その夜暴風雨もあって、多くの兵船が沈没した。大損害をこうむった元軍は合浦へ退却していった。この事件を文永の役と呼ぶ。  フビライは日本征服の望みを捨てず、1275(建治元)年には使者杜世忠(1242~75)を長門へ送った。時宗は使者一行5人を鎌倉で切り捨てて抗戦の意志を内外に示すとともに、博多沿岸など九州北部の要地を御家人に警護させる異国警固番役を設け、博多湾沿いには石造の防塁を構築して元の襲来に備えた。長門・周防・安芸の御家人には長門警固番役を課し、長門国守護には北条氏一門を任じて、これを指揮させた。長門国守護は一般に長門探題と称された。また山陽・山陰・南海3道諸国に対して、御家人・非御家人の区別なく、守護の指揮のもとに異国防御にあたることが指令された。従来、貴族や寺社などの荘園に住む「本所一円地の住人」は幕府の命令の及ばない存在であった。しかし、強大な外敵との戦いという緊急事態を迎え、彼らは守護の指揮下に配置され、本所に上納されるべき年貢は兵糧米として徴集された。幕府の力は「本所一円地」にも強く働くようになった。これは幕府が全国の統治権者へと成長していくうえで、大きな画期の一つであった。  1276(建治2)年に南宋を滅ぼしたフビライは、1281(弘安4)年に2度目の日本遠征軍を送った。忻都・洪茶丘の率いる東路軍は元・高麗・江北の兵4万、宋の降将范文虎(生没年不詳)率いる江南軍は降伏した南宋の水軍を中心とする江南地方の兵で、10万と称していた。5月に朝鮮の合浦を船出した東路軍は、対馬・壱岐を侵し、6月に博多湾に攻め込んだ。十分に準備をしていた日本の武士たちは奮戦して敵の上陸を阻止し、東路軍はいったん肥前の鷹島に退いて江南軍の到着を待った。寧波を出発した江南郡は7月に日本近海に姿を現し、東路軍と合流して総攻撃の態勢を整えた。ところがまさにそのとき、大型の暴風雨が元の大船団を襲った。元船4000隻の大半が沈み、兵たちは溺死した。日本軍は台風がおさまるのを待って鷹島を攻撃し、多くの捕虜を得た。元軍は4分の3を失い、無事に帰った者は3万人に足りなかったといわれる。この事件を弘安の役といい、文永の役と合わせて、再度の元の襲来を蒙古襲来(のちに元寇と呼ばれる)と呼んでいる。  参考 神風 襲来に際しての暴風雨は古くから神風とされ、とくに太平洋戦争前は日本=神国という歴史観の根拠にすらなっていた。それゆえに暴風雨の正体を確かめる作業は重要な意味をもっている。現在、弘安の役のときは、大型の台風であったとの認識でほぼ一致している。問題なのは文永の役で、暴風雨はなかったとする説も提起されており、まだ決着をみていない。 【蒙古襲来の国際的背景】蒙古襲来は鎌倉武士の勇敢な戦闘と暴風雨によって退けられたが、モンゴルが日本征服を断念した背景には、高麗をはじめとするアジア諸国の抵抗があったことを忘れてはならない。モンゴルは1231年から58年まで、6回にわたって高麗に侵攻し、激しい抵抗を排除して、ついに高麗を服属させた。この時点で、モンゴルは日本への遠征に本格的に着手した。しかし1269年、高麗の内部で反モンゴルはのクーデタがおこり、高麗軍の一部である三別抄が南朝鮮の農民と連携して3年にわたって抵抗を続けた。このためモンゴルの征日計画は大幅に遅れ、1273年の三別抄の乱の終結を待って、文永の役が始まった。また、続く弘安の役は1276年の南宋の滅亡をふまえて実施された。  日本に来襲したモンゴル軍のなかには、モンゴルに降伏した高麗人、南宋の江南の人々が多く含まれていた。彼らの士気は当然高くなく、人種の異なる指揮官たちの間では内部抗争が絶えなかった。このことが戦闘に大きな影響を与えた。フビライは第3回の遠征を構想していたが、モンゴルの支配に対する江南地方での中国民衆の反乱、またコーチ(現、ベトナム)の反抗があって、計画は実現しなかった。蒙古襲来は、このようにアジアの動向のなかで理解すべき事件だったのである。 §蒙古襲来後の政治  2度にわたる元軍の来攻を退けたものの、いつ3回目の攻撃が実行されるか、まったく予測できなかった。幕府は異国警固番役を続けて御家人に課し、沿岸の警備にあたらせた。また当時すでに機能しなくなっていた鎮西奉行にかわり、鎮西探題を博多において、北条氏一門をこれに任じた。鎮西探題は六波羅探題に準じたもので、九州の御家人の統括と訴訟の裁許を管掌した。九州の政治的中心は、これを機に太宰府から博多に移行した。  幕府内部では北条氏の力がますます大きくなっていった。すでに北条時頼の執権時に、評定衆による合議にはからず、私邸で一門の秘密会議を開いて重要事項を決定することがあった。この傾向は彼の子時宗の代にはいっそう顕著になり、対モンゴルの方策にしても、時宗は評定衆や有力御家人に相談することなく、私的に一門や近臣の意見を聞いて独断的に決めていった。こうして北条氏の本家、すなわち得宗を中心とする専制体制が姿を現してくる。評定衆や引付衆の要職には、北条氏一門の者が多く就任した。諸国の守護職も、有力御家人はさまざまな口実で任を解かれ、かわりに名越・極楽寺・金沢・大仏らの北条氏一門の各氏が任命された。蒙古襲来に際しては防衛力の整備を理由として、九州・山陽・山陰地方にかけて、そうした守護交替が頻りであった。北条氏は幕府滅亡時までに、30カ国以上の守護職を手中にしている。北条氏の躍進とともに北条氏の家臣の地位も向上し、とくに得宗の家臣は御内人と呼ばれ、有力な御内人は幕府政治に関与するようになった。  時宗の執権時、幕府には彼のほかに2人の実力者がいた。有力御家人の安達泰盛(1231~85)と、御内人首座(内管領という)の平頼綱(?~1293)である。両者は勢力争いを続けていたが、調停役をつとめていた時宗が1284(弘安7)年に33歳の若さで死去すると、対立はにわかに激化し、翌1285(弘安8)年11月、頼綱は兵を集めて泰盛一族を滅ぼした。この事件を、発生した月にちなんで霜月騒動という。時宗の子の貞時(1271~1311)は父の手法を継承し、得宗家に権力を集中させていった。御家人の代表者が政治に関与する機会はますます減少し、得宗と得宗を支える一門・御内人による得宗専制政治が確立した���である。 【霜月騒動】通説は泰盛を御家人の代表、頼綱を御内人の代表とする。得宗の力の増大は御内人の発言力の増大であり、幕府運営の主導権をかけて、御内人は鋭く御家人と対決するまでに成長した。それが頼綱と泰盛の抗争の本質である。泰盛が多くの御家人とともに敗死したことは御家人勢力の敗北を意味すると説く。この通説に対する見解もある。泰盛の娘(本当は妹で養女)は時宗の正室で、貞時は泰盛の孫であった。泰盛は外戚として時宗や貞時の勢力拡大につとめたのであり、彼を御家人勢力の代弁者とはみなし難い。泰盛の説によれば、すでに時宗の時期には御家人勢力は代弁者を見出だせぬほど弱まっていたことになり、それだけ得宗の力を大きくみている。ともあれ両説とも、貞時の時期を得宗専制期とすることについては異論がない。  御家人社会の内部では、きわめえて深刻な破綻が生じつつあった。来襲した元軍に勝利したとはいえ、幕府は領土・金銭を得たわけではなく、御家人たちに恩賞を給与する余力はほとんどなかった。命をかけて戦った多くの武士が、何らの恩賞にも与れない結果となった。奉公に対する恩賞という、封建社会第一の原則は守られなかったのである。戦闘への参加、異国警固番役、西国への移住と、多大な負担を強いられながら報われなかった御家人は、経済的困窮にさいなまれながら、幕府への不信をつのらせていった。  もともと鎌倉時代中期以降、御家人の生活は窮乏しつつあった。戦いがなくなって所領の増加がないところに、分割相続が代を重ね、所領が細分化されて収入は激減した。兄弟の共倒れを防ぐため、やがて1人の相続者、すなわち惣領が家督の地位に加えて全所領を相続する単独相続がなされるようになった。女性に土地が与えられる場合でも、本人一代限りで、死後は惣領に返す約束つきの相続(一期分)が一般化した。けれども、この単独相続が広まるまでに、多くの零細な貧しい御家人が生まれていた。  もう一つ、長い間、在地の生産物に経済的な基盤をおいてきた御家人たちは、各地域に急速に浸透していった。(13世紀半ば、という説が有力)貨幣経済には対処し切れなかった。加速する経済の流れに、ついていけなくなったのである。その結果として大きな損失をこうむり、窮乏する者が多く現れた。彼らは何よりも大事な所領を質に入れたり、売却して生活の糧を得ようとした。こうした情勢のもとに元軍の来襲があり、御家人たちは決定的な痛手をこうむった。  1240(仁治元)年、幕府は御家人の所領を保護するため、御家人領の売却を禁じた。1267(文永4)年には所領の質流れを禁じ、すでに売却したり質流れになった分の所領については、代金代償のうえで取りもどさせた。だがこうした方策は効果を現さず、所領を失う御家人は増える一方であった。そこで幕府は1297(永仁5)年、いわゆる永仁の徳���令を発した。これは所領の売却・質入れを禁止するとともに、地頭・御家人に売却した土地で売却後20年未満のものと非御家人・庶民に売却した土地のすべてを、無償で売り手である御家人のもとに返却させた法令である。徳政令が適用されるの御家人の所領に限定されており、その目的はいうまでもなく、御家人の窮乏を救い、所領の喪失を防ぐことにあった。しかし、このような思い切った施策も、御家人の没落の歯止めにはならなかった。所領の処分を望む者、窮状を訴えて善処を求める者はあとを絶たず、早くも幕府は翌1298(永仁6)年、土地の売却・質入れの禁止と越訴(再審)の禁止を撤回したほどであった。困窮する御家人は、日に日に不満をつのらせ、得宗が主導する幕府はそれをおさえるために、さらに専制的・高圧的になっていく。 【永仁の徳政令】この法令は御家人のみの救済を意図しており、非御家人や一般庶民は甚大な損害を被った。北条時頼が執権であったころ、幕府は「撫民」を政治目標としていた。それに比べると、幕府の施政方針は明らかに変化している。  この法令には、①越訴(再審請求)を禁じる。②領地の質入れ・売買を禁止し、売却地の取りもどしを命じる。③金銭訴訟は受理しない。以上、三つの施行細則がついていた。つまり、御家人は土地を取りもどせる反面、重要な裁判の機会の放棄を命じられていたのであり、このことへの彼らの反発は激しかった。そのために、翌年には、土地の無償取りもどし条項のみを残し、ほかの法令は廃止されている。
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