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宮台真司『実録 愛と希望を語る90分 こども性教育』
ここからはとても重要な問題について話します。今日は女性の参加者が多いですが、「カレシ」ができたとして、相手が別の人と映画に行ったら、怒るでしょうか? 男性にはもっと酷な質問をしましょう。「カノジョ」がほかの��とごはんを食べ、映画を見て、そのあとセックスをしたとすると、怒りますか? ぼくを含めて年長者の多くも、高校生や大学生のときにそういう経験をしています。みなさんの多くも、いずれはそうした場面に直面することになるでしょう。 なぜ怒りを感じるのか? 理由はわかりますね? 「自分にとっては相手が一番なのに、相手にとって自分は一番じゃないのか」と、裏切られた気持ちがするからです。 でも、考えてほしい。好きな相手が、自分にとって「同じ世界」で「一つになる」ことができる「唯一の人」だと、どうしてわかるのでしょう? 散歩でもドライブでもセックスでもいいけれど、最も「同じ世界」で「一つになれる」相手とはいったい誰なのかを、どうやって知ればいいのでしょう? 恋愛小説や恋愛映画には、「この人に出会ってはじめて、私は知らなかった世界を知った」という定番のせりふがあります。そうです。「比較」しかありません。 残酷ですが、「比較」は大切です。いままでの人よりも「同じ世界」で「一つになれた」。こんな経験をするとは思わなかった。いままでの相手はなんだったのか……。 そういう気づきが大事です。「比較」によってはじめて「比較」できない「絶対」がわかります。「比較」を避けても、いずれは必ず「比較」するようになります。
「処女厨」といって、相手の女性が処女かどうかを気にする男性が昔からいます。女性のみなさんは「処女厨」はいやだなと思うよね。なぜいやだと思うのかな? 「ほかの男に抱かれたことがある女なんか、いやだ」というのは、女性を「新車か、中古車か」というふうに所有物としてとらえている感じがするからですね。 ただし新車をほしがるのとはちがって、「処女厨」には自分が「比較」されるのをいやがるという自信のなさもあります。それも「処女厨」がおぞましい理由です。 「ほかの男と食事するな」と縛る男性には、「比較」されるのをいやがる自信のなさがあります。それを感じた女性は「もっと自信をもってよ」と思うでしょう。 「相手にとって自分は一番じゃないのか」と怒るのであれば、「比較したうえで自分を一番だと思ってほしい」と考えるべきではありませんか? ということは、「相手にとって自分は一番じゃないのか」というのは、怒りの粉飾決算で、真の怒りは、自分が「比較」で相対化されるところにあるでしょう。 「相手にされていやだと思うことは、自分もしない」という理屈で、ほかの相手と出かけようとしない人もいますよね。 その場合も、真の動機は、「比較」をいやがる自信のなさを、おたがいに擁護しあうところにあるのではありませんか? これらの話は、男女を入れ替えても同性愛でも成り立ちます。「比較」をいやがるのは、本当の唯一性を求めるという「愛の規範」から言って、ダメです。 厳しいかもしれないけど、若いみなさんには、「比較」されるのをおそれずに、相手にとって「究極の相手」だと思われる人になってほしいです。 相手が「究極の相手」なのかは「比較」しないとわからないし、相手にとって自分が「究極の相手」なのかも「比較」してくれないとわかりません。 「���極の相手」とは、かわいさやイケメンぶりを比べる属性主義ではなく、誰よりも「同じ世界」で「一つになり」、「委ね」や「明け渡し」ができることです。 過去の男性や過去の女性との「比較」でも構いませんが、この過去の男性との「比較」をいやがるのが、先ほど話した「処女厨」です。 ぼくが若いころの経験ですが、自分がつきあうようになった大好きな女の子の恋愛経験がすごく少なかったから不安になりました。 たまたま最初にぼくと出会って、ぼくに固執しているだけじゃないかなと。だったら、ほかの男性とごはんを食べたり、映画に行ったりしてほしいと告げました。 実際、そのようにしてくれて、正直ほっとしたし、やっぱりぼくのことが一番だと言ってくれて、とてもいとおしくなりました。 みなさんには、「相手は自分の持ち物だから、自由にするのは許さない」という人は、ダメなんだ、という価値観を身につけてほしいです。 みなさんは、誰かの所有物ではありませんし、誰が「究極の相手」なのかは、相手と一緒にいるときの自分の経験を「比較」してみてつかむ必要があるからです。
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谷川雁「庶民・吉本隆明」
かつて私は鮎川信夫への手紙に、「荒地」の詩はすべて生活の倫理なき倫理であり、吉本隆明の詩だけは生活なき生活の倫理であると書いたことがある。いま吉本の評論集『芸術的抵抗と挫折』を読み終って、数年前に思いついたそのキャッチ・フレエズが今度またうかびあがり、たちまち黒い砂の流れのようなもので消され、どこか遠い町の下宿屋の一角が照らし出される気がした。どっちみち私など馬小屋みたいなところで息絶えるのにまこと似つかわしい人間だから、へたに同情するつもりはさらにないが、彼も��た「封建性の異常に強大な諸要素と独占資本主義のいちじるしく進んだ発展」にはさみうちされて、せいぜい都営アパートの一角ででも朽ちはてることができたら上の部といわねばなるまい。蝶ネクタイなぞ逆立ちしてもうまくない貧乏性の世代があるものだ。その貧乏な世代の貧乏神が吉本だ。なんとかして馬小屋のかたすみで絢爛たる交響楽でも聞いてみようと苦心しているのに、妙に節くれだったやつが門口にあらわれて、棟つづきの隣家のことをわめいたり、おまえらのやっていることは幻想だぜとぶつくさいったりする。分っているよ、計算ずみなんだ、あっちへいっておくれ、ぶちこわしじゃないか、接吻を一つするから……というようなことをいってみても根が生えて動きはしない。よく見たら兵隊友達なので、「なんだ、おまえか」と肩を一つぶんなぐってみたりする——。 そういう隠微な、私的な交渉というものを拒絶しなければこの書物にはいりこむことにならないわけだけれども、だが彼の文章たるや陰気で皮くさくて骨っぽくてとぐちをならべているうちに、それじゃおまえはどうだという声がしてくる気もするので、まず同時代人としてのあいさつだけはしておくことにする。およそ彼ほど気質だの傾向だのがきらいな種類の人間はすくない。心理という言葉を使うときなどまるで蝶ネクタイをしめているみたいだ。彼のペンは笑わない。大隊長のように堂々たるかっぷくで「内部世界」とか「不定意識部分」とかの言葉が登場する。だが「分配カルテル」なんてやつを使う彼になると、ろくににぎりめしの一つも分配してもらえない二等兵の顔がうかんでくるしまつだ。二等兵にしてかつ大隊長たる吉本、本質的なあまりに本質的な馬鹿野郎……それを私はちょっぴりわが身につまされて好きである。いや、どうにも好きになれないものを何とかしたくなってくるとでもいおうか。
だがそのあたりのところは彼もまた計算ずみであるらしいことが分って、やや寒気がしたのは、この本に収められている十篇あまりの評論のうち書かれた時期がとびぬけてはやいという「マチウ書試論」であった。イエスが新約作者の創作にかかる架空の人物であり、ユダヤ教と近親憎悪の関係をもつ原始キリスト教が、被虐心理の眼鏡を通して旧約の思想を転回させたものだという見解がべつだん珍しいわけではない。それがどの程度に新説であろうとなかろうと、私の知ったことじゃない。ニイチエやランボオが人間精力の最大の盗人としてイエスを攻撃しているのもそれと遠いことがらではあるまい。私が「おや」と思ったのは次のような箇所であった。 ——原始キリスト教が、いわば観念の絶対性をもってユダヤ教の意思方式を攻撃するとき、その攻撃自体の観念性と、自らの現実的な相対性との、二重の偽善意識にさらされなければならない。 ——秩序に対する反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。 ——原始キリスト教の苛烈な攻撃的パトスと、陰惨なまでの心理的憎悪感を、正当化しうるものがあったとしたら、それはただ、関係の絶対性という視点が加担するよりほかに術がないのである。 もし法律学者やパリサイ派を戦前のコミュニストにおきかえるなら、このばあいの原始キリスト教はたちまち吉本隆明その人と化してしまうのではないか。彼がこの五、六年間に加えた前世代への攻撃をひやかして、私はそういうのではない。「マチウ書試論」において彼が原始キリスト教の擁護などひとかけらもしていないことは明らかである。彼はその後の彼の文章にもはや見られなくなったなめらかな舌でたたみこむように、いわば水泳のクロールにみられる腕の使い方で、古くなった秩序と新しく登場する秩序とのせめぎあいをかきわけていく。彼は秩序に対する人間の反応型を涙もろき良心派のルッター型、権力と離れることのないトマス・アキナス型、積極的な疎外者たるフランシスコ型に分けてしまう。「人間の実存を意味づけるために、ぼくたちが秩序にたいしてとりうる型はこの三つの型のうちのどれかである。」だがその型は要するに類型にすぎず、そのいずれも歴史の刻み目と特別に関りあうものではない。したがってそのような型にかかずらわった「思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしない。」ここで彼は突然、マチウ書(マタイ伝)の作者に同調する。いや、みずからとび移ってマチウ書の操縦棹を横あいから握ってしまうのだ。 ——マチウの作者は、その発想を秩序からの重圧と、血で血をあらったユダヤ教徒の相剋からつかんできたにちがいない。原始キリスト教はそれがどのような発想であれ、ユダヤ教派をたおせばよかったのだ……律法学者やパリサイ派にたいするマチウの作者の、蛇よ、まむしの血族よ、という憎悪の表現は…… かくて関係の絶対性という概念にたどりつくのだが、それはフォイエルバッハがヘーゲルにたいして加えた修正とどんなにちがうのであろうか。関係の絶対性は必然に意識にたいする存在の優位に達するはずだ。しかし彼はそのような認識の冷静さに頼ってはいない。彼は唯物論の第一命題にすわりこもうとはしない。拳闘家のように腰をうかせて相手の鼻をねらうの��。彼にとって、関係の絶対性とは眼の前にあるものをたおすということだ。ただそれだけに自己を限定することだ。だが彼が初期の評論において、その後の彼の道を暗示しているのはあたりまえの話にすぎない。私の寒気というのは、彼がそのなかで意識しようとしまいと原始キリスト教に仮託された自分自身をまず断罪し、断罪することによって正当化しておかねばならなかったという事実である。「原始キリスト教の苛烈な攻撃的パトスと、陰惨なまでの心理的憎悪を、正当化しうるものがあったとしたら……」という設問に彼は答えねばならなかった。それは青春のきわめてはやい時期に、太宰治風にいえば一種の「晩年」に到達せしめずにはおかなかった時代の強圧にたいして、復讐の姿勢をとる敏感な青年の心をかならず通りすぎる疑問にちがいない。この答はむずかしい。なぜなら彼をして一挙に晩年を味わせたものも時間であれば、彼をしてなおおぼつかない青年にとどめている力もまた時間であるから。そして彼がこの矛盾に復讐しようとするとき、彼はまさにこの世の最後にして最高の強敵、時間を二重に向うにまわしているのだ。そのゆえに敗北はすでに必至である。戦えば戦うほど、彼は子供になりながら衰えてゆく自分を発見するにちがいない。円熟という理想は放棄されざるをえない。そのとき「なんじら幼な子のごとくならずば」という福音が耳にとどいたとしても、彼はそれを受け手として聞くことはできない。むしろ彼は語り手としてのイエスがまた一挙に晩年に到達せしめられたよるべない青年にすぎないことを見ぬく。とすれば山上の聴衆にとってはどうでもあれ、彼イエスにとっては「われ幼な子のごとくなりゆかざるをえぬ者ならば」であったはずである。そのとき人生は一つの仮象になる。成熟ということが時間のなめらかな、直線的な進行によって測られなくなった人間にとって、彼の自画像は論理的には岩のように不動であり、倫理的には何物にも責任を負っていない虚無の二重相をもつ。生成の過程からいえばもはや動かしがたい座標にしばりつけられており、そのゆえに倫理的にはすべてが許されるという非人間的な存在として自分が見えてくる。だがその瞬間に、イエスのように幼な子になってゆくよりほか道のなかった者が自分の必然を他人の自由選択にすりかえて「幼な子のごとくあれ」とよびかけ、自分の運命を他人に塗りつけるという詐術、あるいは至極のエゴティズムが許されるだろうか。もしそれを認めるならば、まだ成熟しないうちにむりやりに生命の終りをのぞかせられた人間がその強制力をかえってやすやすと許すことになるのではないか——戦後の青年に立ちふさがっていた問題はまさにそのようなものであった。
時間との、敗北を見越した戦いをこのような性質としてとらえねばならなかった人間たち……それが私たちの世代なのだ。おそらく太宰治をとらえた命題もこの敗北せざるをえない時間の逆説との闘争にちがいなかったのだが、彼にとってこの不意にあらわれた逆説の原因が���命の誤謬によるのか、体制の暴力によるのか、彼の存在の特殊性によるのか、その紛乱の糸をたぐり通すことができずに渦のなかに立ちつくしたままたおれた。ところが私たちの世代にたいして、このつむじ風はもはやそのような分析の欲望をもつことがばかばかしいほどにないあわされた一撃として作用した。そのとき無数のイエスがうまれた。裁くことが生きることであった。もし裁くことをやめるなら、彼はみずからをユダとして規定しなければならなかった。初年兵として一等兵からほほをなぐられているユダ。もし裁きつづけるとすれば、彼はみずからのなかのイエスをも裁かねばならなかった。残飯をすすり、なかまの選択物を盗んでいるイエス——はじめて選択の可能性がひらかれた。そしてどの道を選ぶかを倫理的に規定する過去はなかった。 関係の絶対性とは、このような時点におかれた青年の必需品であって、それ自身選びとられたものではない。人生が仮象としてしか見えなくなるまで追いつめられたイエスを発見した人間が、自己の内部システムである「子供」と社会的な効用の指針である「幼な子のごとく」のスローガンとを混同するイエスの不純に思いいたったとき、彼はイエスを新約作者のフィクションの側からつきつめ、かえって思想の抽象性を純粋化してゆく。そしてその純粋化の極にユダヤ教にたいする近親憎悪という存在証明をおくのだ。イエスはひとりの無名の思想家ではなく、無名の思想家の記録から、おそらくは無数の狂信者の記録から作りあげられたものだ、と彼はいう。 たぶん、ここは目立たないが重要な分岐点であろう。吉本、すなわち私たちの世代の青春のことであるが、あまりにも強い外界の規則は内部の自由律と結びあう媒介項をもたないので、関係とよびうる相互規定性を発見させない。したがってはじめての関係をもとうとするとき、いったい何とどのような関係をもつべきか白紙のままで悩まざるをえない。このような処女性をつき破るのが、眼の前にある問題の意識的側面であるか、存在としての側面であるかはその後の人間をながく支配するものと考えられる。選択の自由をもたず、その意味で外界との接触をもたない、形なき牢獄の囚人が牢獄を意識すること、それが関係の絶対性という言葉にほかならず、またそれは観念の相対性と同義語にすぎないが、にもかかわらずこの状況を関係の絶対性とよぶか、観念の相対性と表現するかには微妙なちがいがあるのだ。 それは紙一重というよりもさらに薄い皮膜の裏表であろうけれども、形式論理が弁証法へ、観念論が唯物論へと回転してゆく過程のもっとも内密な移行の段階がかくされている。観念の相対性というばあい、それは唯物論へ移行しきった直後の完了した視角があるのにたいして、関係の絶対性とよぶかぎりにおいてなお関係それ自身の物神化という主観性がぬぐうい去られていない前唯物論的な匂いを漂わせているからだ。このちがいは、彼がイエスを狂信者の記録から、そしてマチウ書の作者の意識からたどってゆき、その作為と虚偽を粉砕しようとする情熱のあり方に��応する。フォイエルバッハとちが��て、彼は敵が与えた条件以外のものに敵をたおす武器をみつけようとはしない。あくまで眼前の敵の手中にある敵の武器を奪おうとする。もし彼がすこし大またに歩こうと決意しさえすれば、この小さな溝はたやすく越えられたにちがいない。だが彼は唯物論的に膚接する観念論の壁に沿って動きつづけ、記録と意識にたどりつき、群集と存在の側へはがんこに移ろうとしない。 この用心深さ、このしんきくささこそかえって彼の存在を照らしだす微かなともしびである。いわば彼にとってはじめて訪れた自由選択は関係の絶対性か、観念の相対性かであった。そして彼は関係の絶対性へと賭けたのである。囚人の手足から鎖が外されたとき、彼の最初の二者択一は動くか、動かないかという形であらわれる。吉本の自由意志はこのとき「動かない」と宣言したのである。 なぜ彼はそうしたのか——この衝動を理解しない者はついにいわゆる「戦中派」の内容を開く鍵をもたないにひとしい。それは弁証法の螺旋運動における二つの主要なコース……外部への「のりこえ」の論理と内部への「もぐりこみ」の論理のうち、なかんずく後者に身をもたせかけた姿勢である。外部への飛躍がほとんど不可能であった時代に異常なまでに名もなき青年たちの心奧に発達しつづけたこの弁証法の半身は、ある意味で青年たちを無敵の思想家に仕立て上げようとしていた。だが時代の創作の未完のうちに、青年をふくむ社会は敗北した。社会は敗北し、青年もまた敗北したが、半身だけは敗北しなかったのである。それがミロのヴィナスよりもさんたんたる美しさでなかったと断言するいわれはない。彼はそれが半身にすぎぬことをみずから断罪し、その美を正当化する。戦中派が戦後の波を迎えたとき、この二面性をとらえる手続きを省略しまいとする素朴さにおいて吉本の右に出る者はない。いや、はたしてそうであろうか。
「もぐりこみ」の論理は、当然に彼をして詩人たらしめるであろう。それは詩の同一の原理、凝縮の論理と共鳴するからである。けれども関係の絶対性という立場にとどまるかぎり彼の詩は、成立はしても運動することはない。彼の詩のどこか、その数行には交響楽の譜面に移された砲音と金属のかがやき——管楽器の音色がひびきわたる。だがそれはたちまち低いうめきのなかに埋められる。現在は連続しない。未来はくだかれている。そして過去だけが飛行雲のように尾を引き、飛行雲だけになり、やがて雲もちりはて、空そのものに帰っていく。髪をつかんでうしろに引きもどす、この凄じさ。しかしそのとき彼の手に残るものは何か。 証拠だけである。事故の被害者として、彼は自分を轢いて遠ざかりゆく自動車のバックナンバーに固執する。イエスの記録、狂信者の記録、それだけが存在であって、そこからしか犯罪の手がかりはつかめないと主張する。���そらくは彼自身いちはやく決議だの宣言だの論文だのをかきまわすことのむなしさを感じているにちがいない。にもかかわらず彼はそのなかにもぐりこむ。検事さんのやり口だ。刑事としてはいかにもまずい。証明する者ではあっても捜索する者ではない。 ——問題は、日本における「封建性の異常に強大な要素」と「独占資本主義のいちじるしく進んだ発展」との結合という意味を、たんなる結合と解するか、楯の両面のように不可分の単一系と解するかを、具体的な芸術思想として、��た、政治的思想として見出すことにかかっている。三二テーゼは、多分に、この結合をたんなる結合と理解した傾向があり、また反対に絶対主義権力は、この結合の両面を、巧みに使い分けた。芸術的抵抗としてのプロレタリア芸術(詩)の挫折の事実が、今日もなお暗示しているたいせつな問題点は、本質的なところでうけとめようとすればここに帰着するとおもわれる。 権力の巧みさといっても、戦前の反体制運動に比較しての相対的なものでしかないけれども、その通りだ。まさにその通りだ。だが問題をここにとどめているだけならば、それは「社会の構造の総体のヴィジョン」の骨骼をうみだすかもしれないが、つまるところヴィジョンの骨組みに終るであろう。これしきの認識を持たずにプロレタリア芸術でございなどといっていた当時のあほらしさは私なども不思議というほかはなく、いまだに狐につままれたような気がしないではないが、私はもはやそんなところにかかずらわっていないでさっさと読みとばすことにしている。読むにたえないものをしんぼうして読み、さてそれを審判する惨忍さと、眉も動かさず踏みつぶして進む非情さとはどちらが普遍性を持っているのかよく分らないが、倦怠の処理法として見るときはおのずから優劣があるだろう。 たしかに往年の弁証法は蛙みたいにやたらに外界へとびだそうとするばかりで、内部へのめりこむ力で相手を打つというビックリ箱の原理すらものにすることができなかった。この点でわずかに水準をぬいた者とては中野重治と花田清輝の二人しかいないし、それもたかだかビックリ箱ていどであってみれば、吉本が過去を矮小化しようとする気持は分らないではないが、さりとて私は吉本のいうように中野がその芸術論のなかへ「予定調和のように階級的視点を密輸入している」とか、花田が戦時中、資本制社会の枠内における単純再生産の基礎確立を唱えて「生産力理論に転落した」といった読み方にどうも賛成できない。中野にしろ宮本百合子にしろ、私が文句をつけたいのは、たとえば恋愛と革命というようなくだりになると、あっさり政治上のプログラムと芸術上のプログラムを使い分けてしまって、いっこうに予定調和もしなければ密輸入もせず、しごくきまじめに段階を踏んでゆくことだ。むしろ彼等に欠けているのはさらに徹底した一元論、政治と芸術が男と女のように抱きあっている��れ場ではないか。——花田のばあい、「現代の課題は、資本制生産の枠内において、まづ、いかにしてこの単純再生産の基礎を確立するかにあるのだ。」と書いてあるので、何もユートピア社会表式を資本制社会の枠内で実現するつもりはなさそうである。いってみれば改良主義的要求を一定の計画のもとで戦う組織を作れということと変りはなかろう。労働組合を作れとでもいえば簡単に分るかわりに、すぐ捕まえられてしまう世の中でこんなまわりくどい表現を弄してみたところがしょせん労働者の耳に届くはずもなかろう。だからこそユートピア論にふさわしいといえるけれども、私は花田がいちはやく修道僧のように隠遁して、人生の深読みと「危険ごっこ」に熱中しているのをいくらか悲惨に思っている。彼もまた時間に見棄てられているのだ。 私などはまず平凡に、中野には北国のいっこくな百姓の、花田には八丁堀の浪人のイメージをあてがっておき、気の向いたときだけそのまわりを捜索することにしているのだが、いったい吉本はいつまでこのくそ面白くもない無機的な過去を掘りかえそうとするのか。戦前派の理論の誤りなどは彼等の存在のあやふやさにくらべればものの数でもなく、そのあやふやな存在様式の反映にすぎぬ彼等の理論は指一本あげるほどの大事をも起さなかったのだ——という一面を彼はどう考えているのであろうか。
吉本が「マチウ書試論」において、その後の吉本自身と見まがうばかりの「原始キリスト教」の存在理由を追及しなければならなかったのは、決して未来にそなえるための地固めというがごときポリティックではなく、まさに彼自身に内封せられた復讐不能の領域をあばきだすことではなかったか。それをするために彼は束縛からの自由、賭けの開始を告げられた瞬間に「関係の絶対性」という地点で佇立したのである。だが見よ、彼は静かに動きだした。彼は庶民のなかの所有意識、支配意識を縦横無尽に打つ第一義の攻撃目標をずらして、「前衛」のなかの庶民意識をあばきだす二義的な目標に集中した。そこに私たちの世代の問題にたいするすりかえがある。それが無用だとはいわない。だが容易なことだ。あまりにも容易なことだ。「前衛」を下から、後の世代からつきあげる勝負はまける方がどうかしている。「いや、つきあげることではねかえる力を利用したかったのだ」と彼のために弁明するのは嘘であろう。なぜなら彼のいう関係の絶対性は二つの当事者がかならず同一平面に立つことを前提にしているのだから、もしはねかえる力の行くさきである庶民と同一平面を保とうとすれば、「高村光太郎論」や「前世代の詩人たち」に見られたような庶民意識の単純な全面否定はありえない。 戦争中の向う三軒両隣りはおそすぎる医者たちと同じく、私たちに大気・安静・栄養療法それのみを指示した。彼等は路傍に立って手をふるだけで私たちを死地に送りこんだ。その消極性にひそむ小所有者意識、それだけが庶民のすべてであると規定するならば、私たちは庶民を祝福するか呪詛するかの道しかない。それは純粋な侮蔑の形式であり、それによって私たちは自分の存在の証拠をいん滅し、庶民との関係を断つよりほかはない。「マチウ書試論」にはこのような方向への企図はみじんもみられない。にもかかわらず彼はどうしてその後の攻撃を一段階軽いところにあてたのであろうか。『芸術的抵抗と挫折』の一篇ではその辺のところはかなり大きく修正されているけれども、彼が提起した戦後責任という問題は庶民そのものの断層に爪をうちこまなかった点で軽々としたものになり、戦後意識の「早激的」終末をまねき、奇しくも彼に一つの戦後責任を負わせることになったのである。
(…) なぜか。その理由を吉本の意識のオートマティズムからというよりも、存在の反映から照らしだす箇所が一つある。 汝と住むべくは下町の 水どろは青き溝づたい 汝が洗場の往き来には 昼もなきつる蚊を聞かむ という芥川竜之介の「澄江堂遺珠」の一篇を引いて彼はいう。 ——この詩には、芥川のあらゆるチョッキを脱ぎすてた本音がある。芥川が、どんなにこの本卦がえりの願望をかくしていたか、を理解することができる。下町に住んだことのあるものは、この詩の「溝づたい」からどんな匂いがのぼってくるかも、「汝と住むべくは」とかかれた家が、格子窓にかけた竹すだれをとおしてみえる家の中に、下着一つになった芥川の処女作「老人」や「ひょっとこ」の主人公のような、じいさんか何かがごろっと横になっている家であることを直覚せずにはおられないはずである。 ここにくると、私は中野重治や宮本百合子や佐多稲子や花田清輝や吉本隆明が一室にたむろして、おもいおもいの姿勢で西瓜でもたべている光景がうかんできて、さてはわがゆくてもしょせん借家住まいの「中産下層階級」であろうかとあごをなでざるをえない。それほどこの文章の私小説的タッチは正確であり、私の知っている楽寝のじいさんと吉本のそれとをくらべたくなってくるのだ。おそらくそのちがいは私のじいさんの足の裏がすすけてひびわれているのにたいして、吉本の方のはやや白々としているくらいにすぎまい。けれどもこのちがいは吉本がまだ日本の不可触賎民というものにつきあたっていない環境の不幸をまざまざと語っているように思われてくる。 吉本は、芥川が本卦がえりの願望を抑圧しつつ、出身階層への自己嫌悪の上に立って造型的努力を持続させようとし、それに失敗したことを吐きすてるような筆致で書いている。ここにも彼の近親憎悪の念が支配しているのであろう。 ——彼がはっきりと自己の造型的努力に疲労を自覚したとき、自己の安定した社会意識圏にまで、いいかえれば処女作「老人」、「ひょっとこ」の世界にまで回帰することができたならば、徳田秋声がそうであるように、谷崎潤一��がそうであるように、永井荷風がそうであるように、室生犀星や佐藤春夫がそうであるように、生きながらええたはずだ。そのとき芥川は、「汝と住むべくは下町の」世界に、円熟した晩年の作品形成を行ったであろうことは疑いを容れない。 これが日頃あれほど観念的なまでに理想主義的である彼の、芥川にたいする処方箋であろうか。それは単調な死刑宣告と変りはない。芥川の大知識人ぶりはこっけいだが、吉本がかつて不可触賎民のそれもふくめて一蹴した庶民意識への回帰をすすめるよりほかないまでに芥川の運命が絶望的であるならば、では三十年後の東京小市民の運命はいかにして切開可能であるか。小市民が革命的インテリゲンチャへ転化する道は資本主義のいついかなる時点においても存在するはずだ。芥川にたいする吉本のあまりに気軽な宣告は、彼が庶民との断絶を強行せしめられた「戦中派」の優位をすこし早まって信じ、未来の世代と自分の直線的な接続を楽観しすぎているからであろう。 正直者ほど大きな賭けをする。彼が現実との断熱膨張を意図する気持は分らないではないが、庶民に回帰しまいとする者こそかえって彼のいう意味における庶民の刻印である。彼ははたしてどぶの匂いと格子窓の竹すだれを卒業してしまったのか。彼がなお充分に庶民であったときの「マチウ書試論」はほとんど貴族的といってよい文体の光りをみせ、彼が「関係の絶対性」に沿って上昇し、前世代の「前衛」たちと対決するときは奇妙に私小説の味気なさをともなって散文化する。この循環をやぶるためには、自分のなかの庶民的な形をとった所有意識へ否定的回帰をくりかえし、そのなかにもぐりこんで柵の外へぬける、芥川的知性では卑怯としかいえぬ脱出路を精密に探求しなければなるまい。牢やぶりに紳士の体面などはくそくらえである。吉本は期せずして、記録を残して肉体をほろぼす方法で自分の住民登録を消そうとしているかにみえる。むろん吉本に系図を買う根性はない。しかしそれはやはり自分にたいする証拠いん滅の姿勢である。この方法で住民登録は消せても肉体は残る。肉体の戸籍をのりこえるのは町や村の不可触賎民をなぐりつける署名のない思想だけだ。その方へあゆむことが私たちの世代の存在証明なのだ。それこそ無敵にして暗黒な領域を存在の側から裏づけ、それを照らし、それへむかって復讐しがたいとおもわれた私たちの復讐をはたす道なのだ。吉本の道はその決意にはじまりながら、いつのまにか断たれようとしている。
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谷川雁「観測者と工作者」
いうまでもなく私は日本の知識人の裏がえし、ある意味では単純���、機械的な反対物なのです。中学二年坊主のとき、私はすべての学習をやめてしまおうと考えたことがあります。数学も英語も国文学も、教室で講ぜられているものはすべて容易だ。その彼方に難関があるとしても、このたやすい道の果てにあるもの、そういう種類の難しさが自分にとって何であろう。私が求めているものは、はじめからしまいまで困難にみちみちている結晶よりほかにない。たとえば砂漠の吹きだまりにふとみられる紋様の意味を解こうとして生涯たちつくしておられたら……完成とはそういうものではないか、直達しようとする者だけが感じるあの抵抗ではないか——こういう願望を実現する手だても分らないままに、博物館の小僧にでもなれたらと空想していたのです。この計画は口に出したとたんに浅薄になるところがあって、たちまち私は放棄してしまいましたけれども、この汎神論の匂いのする偏向をどのように転がしてゆくかが、その後の私の戦いとなったのです。
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『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』より
祕密もちてこもれるわれの邊に睡り初夏耳の孔紅き猫 鮑(あわび)削ぎつつ黄の夕光(ゆふかげ)に目つむれり 胃は人閒のうちなる沼 寒卵(かんたまご)うち點燈(とも)りつつ累なれりわれにも宥さるる睡りと死 夕闇に鶴たつたつた今われの耳のうしろに火のかをりして
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ヴォーヴナルグ
ある思想が、単純な言葉で表現できないほど薄弱であるならば、それはその思想をしりぞけてよいことを示す。——ヴォーヴナルグ
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坪内祐三×福田和也『革命的飲酒主義宣言』その③
坪内 そうそう。ねえ、福田さんは、なんでオカルトっぽいものまったくだめなの? 福田 なんでって……わはは、いつも言ってるとおり、根っからの俗物だからだよ。信じるのはゼニと女と酒、ビバ・バルザックな人生。まあ、バルザックはけっこうオカルトだけどね。骨相学に凝ってて。脳の器である頭蓋の大きさと形で人間が決まるという学説。 坪内 19世紀には、それが論理的な学問だったんだよ。オカルトと、オカルトじゃないものの線引きって、けっこう難しいね。
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坪内祐三×福田和也『革命的飲酒主義宣言』その②
坪内 そういえば、開会式で、カナダの"国民的詩人"が朗読したの。それがさ……詩人・田村隆一の言葉で「詩人というのは太っていてはいけない」というのがあるけど、その真逆でさぁ、メタボの倍ぐらいある、ウエスト150cmぐらいの詩人で。
福田 でもまぁ、アポリネールっていう人がいるからね。アポリネールは肥満だけど、どう考えても田村隆一より、いい詩人だからね。あと、ヴィクトル・ユーゴーも太ってる。あと、プーシキンも太ってる。
坪内 でもアポリネールは、顔もすごかったじゃない? カナダの"国民的詩人"は、顔は凡庸なんだよ。
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坪内祐三×福田和也『革命的飲酒主義宣言』①
福田 村上春樹先生の新作『1Q84』も、新興宗教の話だね——書評で書くからあんまりここでコメントできないけど。
坪内 そう。オレもこれから読もうと思ってる。ヨガ道場「オウムの会」(オウム真理教の前身)って、1984年にできて、'89年に宗教法人になるわけでしょう。そういう意味では、村上春樹が地下鉄サリン被害者を取材して書いたノンフィクション『アンダーグラウンド』('97年)と、対になる作品なんじゃないかな。
福田 あと、『神の子どもたちはみな踊る』('00年)も、すごく宗教の匂いしてますよね。「ものみの塔」(エホバの証人)っぽい宗教団体が出てくるし。今回の『1Q84』にも、「エホバの証人」や「ヤマギシズム」を思わせる宗教団体が出てくる。——でも『1Q84』は、けっこう厳しいところもある。前作の長編『海辺のカフカ』('02年)よりちょっと……。
坪内 え!��『海辺のカフカ』も、作品としては厳しかったじゃない。
福田 そうかな。『1Q84』は、作品の中では否定してるんだけど、パラレルワールドっぽい仕掛けをしてる。
坪内 へえ。すでに上下合わせて六十何万部も売れてるんだってね(その後、あっという間に100万部を突破)。
福田 ワタクシの場合、職業的な批評と、本当に面白がって読んでることの区別がつかないから。この商売をやってるとね。ただ、書評は頑張って書きやすい。
坪内 1983年くらいに、コピーライターの糸井重里さんが、『話せばわかるか』って対談集を出したんだよ。最近それを、三軒茶屋の小さな古本屋で100円で見つけて、村上春樹との対談部分を読んだら面白かったよ。面白いというか——村上春樹って、その手の対談を自分で本にしないでしょう。で、「'68、'69年に、自分は、学生運動してたヤツに裏切られた」と言ってるんだよ。「スト決行」と言っていたのに、急に「ストをやめる」と言われた、と。
福田 その話は、書いてるよね、いろんなところで書いてる。
坪内 「なんでストをやめるのか?」と質問したら、「……だって母親が」とか言い訳して、みんな試験受けに学校に行った、と。その連中の"言葉"に裏切られた、と言ってるわけ。その後、言葉で何か表現するということに対して抵抗があって、それが消えるまで10年くらいかかったと。
福田 ふむ。
坪内 原点に"政治の言葉"に騙された経験があって、そのあと、今度はオウム事件が起きて、大勢の信者が教祖の"宗教的な言葉"に騙されたのを目の当たりにして……。そういうことに対して、村上春樹は言葉で"対決"していこうという気持ちがあるんじゃないのかね? でね、オレは村上春樹の小説って読めないんだよ。
福田 というと?
坪内 『海辺のカフカ』は、新聞記者に「読んで感想を書いて」と言われたから読んだけど——わかりやすすぎるんだよね。言葉がクリアすぎる。ダブルミーニング的な部分とか、読み取れない部分がない。それは確信犯的にやってるんだろうけど、オレはやっぱりね、言葉がクリアすぎる小説ってダメなんだよ。
福田 なるほど。
坪内 もちろん、オレだって言葉を信じてるよ。だけど、その上で、……"わざと複雑に書く"ということではないんだけど、言葉には、自分でもわからない"決定不可能"な部分がやっぱりあって。で、両方の意味に取れるようにあえて書いたり、自分でもわからないままにするんだよ。村上春樹って、そういうことをしないで、全部を明確に、クリアにするでしょう。それはむしろ、危険な言葉の使い方のような気がするけどね、オレは。極端なことを言うと、村上春樹の作品は、ある程度の知能を持った人なら、全部作者の意図通りに読めちゃうわけだよ。でも、作者の意図を超えたところで読まれる可能性がある——それが、作品の面白さでしょ。
福田 『ねじまき鳥クロニクル』('94年)以降の村上春樹は、あまり闘ってないですよ、正直ね。��じまき鳥は、ほとんど訳が分からない。本人も何がやりたいのかわからないで書いてたんだよ。一番スリリングだね。
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千葉雅也『センスの哲学』
これはひとつのライフハックで、何かをやるときには、実力がまだ足りないという足りなさに注目するのでなく、「とりあえずの手持ちの技術と、自分から湧いてくる偶然性で何ができるか?」と考える。規範に従って、よりレベルの高いものをと努力することも大事ですが、それに執着していたら人生が終わってしまいます。人生は有限です。いつかの時点で、「これで行くんだ」と決める、というか諦めるしかない。
・人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性とが合わさって生じるものを、自分にできるものとして信じる。(p183)
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橋本治「'89 上」
台風って「加害者」でしょ。人間だって「台風」だよ。そのシチュエーションの最たるものは「恋愛」でしょ。
恋愛は、もちろん、他人を傷つける行為でもあるよね。だから十分、恋をすることは「加害者になる」ことだよね。「恋する自分」になるってことは、「責任を持って自分の恋愛を遂行する」ってことでしょ? こういうと恋愛ってすごく大変なことのように思うかもしれないけど、恋愛だけを特別に大変扱いするのってやっぱりおかしいと思う。みんな「恋する」ってことを狭く考えすぎてると思うんだけど、人間関係って、大なり小なりお互いの恋愛感情で出来上がってるんだよね。そこに気がつかないから、恋愛だけ特別にしちゃって、「極端な恋愛」にしちゃう。「極端な恋愛」っていうのはすごく疲れるもんですよ。(橋本治「'89 上」 p26)
人間てやっぱり、男だったら女だけ、女だったら男だけ、同性愛者でも「愛」ったら一人だけって、相手を一種類に決めちゃうもんだからさ、恋愛っていうのが狭くなる。恋愛という他人との関わりによって決められる「自分」というものも狭くなる。「すべての人間関係はなんらかの形で恋愛感情を含んでいる」っていうのはそこなんだけど、他人を見てさ、自分にないものを持っていてそれが自分にとっては必要なものであるってことが分かったら、そこに恋愛感情が生まれるのは当然でしょ。そうい��意味で、人間とはもっと高度に複雑化したゾウリムシであってしかるべきもんだと思うんだけど、���代自我って、それを切っちゃったんだよね。「複雑すぎて分かんない」って。「とても自分の頭じゃ処理出来ない」って。だから、つまんなくなっちゃったんだよ。他人との関わり方が、すごく限定されちゃってね。
自分と他人との境界を接触させて、お互いに「核」なるものを交換すればいいんだ。それが人間を生き延びさせる「恋愛」という核交換なんだもの。俺、ボーダーレス社会っていうのはゾウリムシになることだと思うよ。ゾウリムシにだって、それぞれ「個なるゾウリムシ」を形作る輪郭ってあるんだから。
境界を隔てたところにあるのは「異文化」でしょ。異文化は別に外国にあるもんだけとは限らない。その人間にとっての最大の異文化は「他人」なんだから。でも今みんな、自分というものをきちんと見ていないから、「他人」というものが最大の異文化であるってことが分からないのね。
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小林秀雄「ランボオⅠ」
宿命というものは、石ころのように往来にころがっているものではない。人間がそれに対して挑戦するものでもなければ、それが人間に対して支配権をもつものでもない。吾々の灰白色の脳細胞が壊滅し再生すると共に我々の脳髄中に壊滅し再生するあるものの様である。 あらゆる天才の作品に於けると同様ランボオの作品を、その豊富性より見る時は、我々は唯眩暈するより他能がないが、その独創の本質を構成するものは、決して此処にないのである。例えば、「悪の華」を不朽にするものは、それが包含する近代人の理智、情熱の多様性ではない。其処に聞えるボオドレエルの純粋単一な宿命の主調低音だ。 創造というものが、常に批評の尖頂に据っているという理由から、芸術家は、最初に虚無を所有する必要がある。そこで、あらゆる天才は恐ろしい柔軟性をもって、世のあらゆる範型の理智を、情熱を、その生命の理論の中にたたき込む。勿論、彼の錬金の坩堝に中世錬金術士の詐術はない。彼は正銘の金を得る。ところが、彼は、自身の坩堝から取出した黄金に、何物か未知の陰影を読む。この陰影こそ彼の宿命の表象なのだ。この時、彼の眼は、痴呆の如く、夢遊病者の如く見開かれていなければならない。或は、この時彼の眼は祈禱者の眼でなければならない。何故なら、自分の宿命の顔を確認しようとする時、彼の美神は逃走して了うから。芸術家の脳中に、宿命が侵入するのは必ず頭蓋骨の背後よりだ。宿命の尖端が生命の理論と交錯するのは、必ず無意識��於いてだ。この無意識を唯一の契点として、彼は「絶対」に参与するのである。見給え、あらゆる大芸術家が、「絶対」を遇するに如何に慇懃であったか。「絶対」に譲歩するに如何に巧妙であったか。
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竹田青嗣『恋愛論』
両親、周りの大人たち、遊び仲間、といった現実世界の他者たちは、子供の自己中心性にとって絶えざる「挫折」をもたらす源泉である。子供は「挫折」にぶつかり、自己中心性を生き延びさせようとしてロマン的世界を作り上げ、そこに逃げ込む。(竹田青嗣『恋愛論』九六頁)
なぜなら、このことで人は、ある目標を立ててそれに"憧れ"つつ、同時にそういう自己の像に"憧れて"生きることができるからだ。この"憧れつつ生きること"は人間が生を味わう力の根源にほかならない。人間がまったく何ものにも憧れないなら、生はただ、生存を維持するための必要に還元されるだろう。(前掲書、一〇一頁)
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入沢康夫「夜」
夜
彼女の住所は 四十番の一だつた 所で僕は四十番の二へ出かけていつたのだ 四十番の二には 片輪の猿がすんでいた チューヴから押し出された絵具 そのままに まつ黒に光る七つの河にそつて 僕は歩いた 星が降つて 星が降つて 足許で はじけた
所で僕がかかえていたのは 新聞紙につつんだ干物のにしんだつた 干物のにしんだつた にしんだつた
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古井由吉「書く、読む、生きる」②
よくよく知っているはずのことを俄に失念するということは、知ったつもりの大人たちのやりとりの間で、子供がつぶらな眼をふっとあげて、自明なはずのことをたずねるのに似ている。そこで腹を立てずに、面倒でも、初心に寄り添って物をたずねてみるのが、���典をひく醍醐味である。そこで新しい知識に出会えれば、あるいは古い知識に一段と深い、懐かしい相において再会できれば、この上もない幸せとしなくてはならない。半端なまま頭に引っ掛けて暮らすのは、いらだたしいものである。
しかしその出会いのあとでは、また忘れるものなら、忘れるままにまかす、というほどの度量をもっていたほうがよろしい、と私は考える者だ。いったん得た知識をすこしの間も忘れまいとするのは、直接の必要に迫られているならいざ知らず、燻製や干物やカンヅメにして保存するようで、私は好きでない。それでは、知識は育たない。知識はふたたび忘失の海へ放流して回游させるにかぎる。手もとに引き寄せたくなったら、海へ舟を漕ぎ出して、網を打てばよいのだ。縁があるものなら、むこうから網にかかってくる。さしあたり縁がないようなら、またの機会を待つよりほかにない。
辞典に添って言うならば、辞典とは同じところを幾度でもひくものなのだ。われわれはしばしば辞典にたいして腹を立てる。やれ、分厚すぎるとか。やれ、字がこまかすぎるとか。やれ、説明が詳細すぎて、今の自分に必要もないことばかり、ゴチャゴチャ書いてあるとか。辞典を壁へ投げつけたことのある人も少なくないだろう。しかし辞典に関してわれわれがもっとも逆上するのは、以前苦労してひいて、読み取ったその箇所を、また苦労してひいていることに気がつく時だ。荒涼たる反復感に苦しめられる。しかし、それはまるきりの反復ではないのだ。以前とは、たずねる心も、たずねる深みも、おのずと異なると考えるべきなのだ。人生に二度、同じあり来たりの単語を同じように、わざわざ辞典にあたって見たとする。その二度の機縁をそれぞれその時の心境とその前後の経緯もふくめて、ささやかな事ながらつぶさに、こまやかに思い出して、淡泊に書き留めたなら、すぐれた短篇小説が出来るというぐらいのものだ。(p189)
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古井由吉「書く、読む、生きる」①
ひとくちに言葉といっても、いろいろな単語が存在します。加えて、それらの単語の意味の範囲や、さらには意味合いといった複雑な問題がつねに横たわっている。どういう言葉とどういう言葉とが結びつきやすくて、どういう言葉とどういう言葉とが反発するのか。そういう大切なことを、おいおい心得ていかなければならない。
言葉と言葉づかい。それをどこで磨くかというと、以前は親から子に教えられるものだったんです。大人から若い者に教えられるものだった。ところが今の時代はそれが非常に難しい。「いまどき��若いもん」なんてよく言うけど、同時に若い人からすれば「いまどきの年寄りは」とも言いたくなるところですよね。この歳だから告白しますが、私たちは年をとってもなかなか成熟できない。私も「年寄りの言う事はアテにならねえな」って思うこともあるんですよ。でも、そういう依怙地な点は今回は多少勘弁してやってください(笑)。
親から子へ、あるいは年寄りから若い人へ、そういう受け渡しがなかなか難しい時代だとしたら、いったい何に頼ればいいのでしょう?——古めかしい技法だけれど、それはやっぱり、本を読む事ではないでしょうか。
本を読むときに、その主意や、「これは何を追求しているか」なんていうことを考えるのも大事ですが、読書の効能はそれだけじゃあないんです。もちろん、本を読む目的はそれでいいかもしれないけど、まずは、いろいろな時代のいろいろな人の口調に触れることが大事です。たとえば、皆さんが夏目漱石の本を読むとする。正直なところ、読んでいる間はもうちんぷんかんぷんだと思う(笑)。使われる熟語の違いだけでなく、語り口調だって、今の時代とはおよそ遠い口調ですよね。でも、読んでいるうちに「あ、こういう口調で話してたんだな」「こんな言葉の使い方をしていたんだな」と感じることはたくさん出てくるはず。そういう感じ方の積み重ねから、いわゆる言語感覚というものが磨かれていくんです。(p116-117)
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宮台真司
八年前(八九年)にB・ベルトルッチ監督の『シェルタリング・スカイ』が公開されたとき、今は亡き淀川長治さんが《ヨーロッパの男やったら全員分かるけど、日本の男で分かる人は十人もいないやろうね》と述懐しました。淀川さんがおっしゃるのも同じようなことです。 現実は砂を噛むような殺伐としたもの。コミュニケーションを通じて現実を付加価値化・虚構化しないと生きていけない。だから分かり合えない人間が分かり合ったふりをする。愛が可能であるかのように振る舞う。でもそこまでして生きることに、意味があるのか。 そう、意味はない。でも「意味ね—よ」とは言わない。みんな分かってるんですよ。意味はないけどそれしかない。それでもちょっとした喜びはある……。そういう感覚は、女はともかく日本の男には高級すぎて分からないだろうと、八年前の淀川さんはおっしゃった。 でもどうでしょう。ここ最近、若い男の子の中にも、私の周囲を見る限り、そういう感覚をライブで生きる子も増えてきています。そうやって、断念とともに立ち現れる、現実のようでもあり、虚構のようでもある「あわい」を生きるように��っています。
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内田樹 いちばん小さな集団は「私」
それがわかったところで、視点を変えてみます。
「ルール」とはその社会集団が生き延びるために作られたものである。
これが第一命題です。すべての話はここから始まります。
では、次の質問。
世界でいちばん小さな集団とは何でしょう?
家族でしょうか?
夫婦二人とか、母子家庭・父子家庭だと構成員二人です。ふつうはこれがミニマムサイズの集団だと思いますね。
でも、僕は違うと思います。
いちばん小さな集団は「私」です。「私」というのはプラスチックの家具のような一体形成的なものではないからです。複素的な構成物です。
現に、僕自身の内側を覗き込んでみても、その中にはさまざまな人格要素が共生しています。
勤勉な人、怠惰な人、プライドの高い人、卑猥な人、鷹揚な人、猜疑心の強い人、寛容な人、攻撃的な人、清潔好きの人、ゴミ屋敷でも平気な人、おじさん、おばさん、おじいさん、子ども……いろいろな人格要素が、ケースバイケースで、僕の中では強くなったり弱くなったりします。状況によって、対面している相手によって、出てくる人格要素が変わる。
多重人格者じゃないので、完全な入れ替わりはしませんが、「下世話な事情に詳しくて、細かいことは面倒だからどうでもいいよ的にルーズ」な僕が前面に出てくることもあるし、「意地っぱりで、物わかりが悪くて、かたくなに理想主義的」な僕が前面に出てくることもあります。僕はそういうのを全部「半分自分であって、半分自分ではないアルターエゴたち」というふうにみなしています。
そういう人たちと一軒の下宿を借りて、個室だけは別だけど、トイレと台所とリビングを共有して生活している……というふうに僕は自分の「自我」をイメージしています。
だから、当然、その「アルターエゴたちとの共同生活」にもルールがある。集団として生き延びるためのルールです。
そのルールは集団のルールと一緒です。「構成員の全員(態度の悪いのも、弱いのも含めて)を誰ひとり見捨てない」ということです。「おまえはみんなから嫌われているんだから、家から出て、外で寝ろ、トイレ使うな、メシ食うな」というようなことは自分の中の誰に対しても言わない。
これが僕の「自我という集団」についてのルールです。生き延びるためのルールです。
当然、僕のアルターエゴたちの中にも仲の悪いのはいます。「きれい好き」と「なまけもの」は相性が悪いし、「ナマイキな理想主義者」と「ふて腐れリアリスト」は会っても挨拶もしない。でも、それぞれについて「まあ、あいつも悪いやつじゃないからさ。仲間にしておいてやろうよ」と取りなす人がいる。そういう人たちが緩衝材になって、アパート暮らしは続いている。
そういう感じです。
メンバーの中の弱いものも、卑しいものも、貧しいものも、厭なやつも、なんとか自尊感情を維持することができる。「フルメンバー」として認知されている。そういうのが「自我共同体」の基本ルールだろうと僕は思います。 同じルールは、それよりサイズの大きな集団についても適用できるはずです。適用されなければならない。
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