hazakura-ki
暗記帳
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hazakura-ki · 7 days ago
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稲葉 僕が『モダンのクールダウン』で書いたのは、世の中の圧倒的多数はバカというか普通のひとである。ただ、たまに賢いひと、あるいはそういうことにこだわってしまうちょっといびつなひとが出てくる。あるいは普通のひとであっても時と場合によってはそういう役回りを演じざるを得なくなる。多くの人間には一生そういう出番は来ないけれども、そこそこの人間にはたまに来る。自覚的にシステムの構築や設計に関わるようなことを担う少数者はいるし、あるいは市井のひとでも、あるめぐりあわせで「公務」に応じなければいけないこともある。
じゃあそういう人間はどういうときに公務を担わなければいけなくなるのか、あるいはどういうときに公務を担いたいなどと思ってしまう人間が出現するのか。社会はどうやってそういう、いわゆるエリートと言われる連中を必要なときにうまく選び出して、システムの構築や設計やメンテナンスを担わせるのか、ということを考えられないかと思っているんです。 ただ、だれが必要なときに必要なことをやらなきゃいけないかはそのときにならないとわからない。だから潜在的には万人がそういう公の任務を担える主体でなければならないと想定する古典的な近代主義にも一理ある。でも全員がそれをやる必要はないし、できない。そして、そういう人間がどうやって選出され訓練されていくのかということはよくわからない。
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hazakura-ki · 7 days ago
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斎藤環書評 『椎名林檎vsJポップ』 阿部嘉昭 河出書房新社 二〇〇四年
精神科医・中井久夫によれば、人間には「金星人」と「火星人」の二種類があるらしい。
いきなり何の話かと思われただろうか。これは人間の知性のあり方に関する分類である。いまだ人間が宇宙へ進出していな��時代、金星は熱帯雨林が生い茂る灼熱の世界であり、火星は荒涼たる大地に幾何学的な運河が刻まれた寒冷世界と想像されていた。ここからの連想で、金星人は、具体的対象に惑溺しがちな博物学的知性、火星人は、明晰かつ抽象的な対象のみを思考する数学的知性を指す。ここに精神分析家マイクル・バリントの「オクノフィル」(対象に密着し、しがみつこうとする人)と「フィロバット」(対象から離れるスリルを楽しむ人)という分類を重ねることもできるだろう。
阿部嘉昭はいずれか。答えは明らかだ。彼は金星から来たオクノフィルだ。その対象への愛は半端なものではない。彼に見込まれた対象は、ほとんどストーカーもかくやという強い視線の圧力のもと、骨までしゃぶりつくされる。この種の知的系譜には、たとえば映画なら淀川長治、読書なら目黒孝二、博物学なら荒俣宏、ほか批評家では高山宏や平岡正明らがいる。
一般に批評家は、作品を分析することで我有化してしまいたいという欲望に、なかなか抵抗できないものだ。しかし金星人たちは、そのような傲慢さから限りなく遠い。作品に密着し、その膨大なデータベースと強力な連想エンジンの赴くままに、作品の細部から別の作品群を召喚し、あるいはジャンルを越えた参照項へとジャンプし、作品の背景を想像=創造してみせる。しばしば火星人たちの批評が、正しくはあっても還元論的な貧しさの方向に作品を回収しがちであるのに比べ、金星人たちの批評は、作品をよりいっそう複雑な輝きと陰影のもとで「解放」する可能性に満ちている。
だから阿部が批評のフィールドにサブカルチャーを選ぶのは、まったく正しい。この領域は、あらゆるジャンルに精通することが事実上不可能であり、誰もが思わぬところで半可通ぶりを晒す可能性を持っている。それゆえ、批評の正当性を決定づけるのは、感性と文脈をふまえた対象への「愛」にほかならない。阿部の緻密かつ明晰な分析の合間に、「落涙」「ウルウル来る」「眼の潤みを誘う」などの、いくぶん精度の低い評言が紛れ込むのも、この「愛」ゆえであろう。
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hazakura-ki · 12 days ago
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ロラン・バルト『表徴の帝国』
バルトに言わせると、すき焼きをはじめとする鍋料理も「空虚な中心」を持った食べ物である。なぜならそれは、調理された時と食べ始める時を分ける明確な瞬間を持たないから。つまり、すき焼きは、「とだえることのないテキストのよう」な食べ物である。
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hazakura-ki · 17 days ago
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斎藤環『ビブリオパイカ』
成雄サーガの画期性はまず、ミステリという形式で「自分探し」がなされている点にある。通常はトラウマやら心理学用語やらをちりばめて展開されるはずのアイデンティティの探求は一切なされない。そもそも舞城の手法の新しさは、一人称の独白でありながら内面性がまったく生じないという語り口の発明にあった。
『獣の樹』の登場人物たちもまた、常に誰もが語りあうか行動するか、そのいずれかだ。たたみかけるというよりは、まるでせき立てるかのような会話と行動の反復。内面的葛藤の描写を徹底して削り、ひたすら会話と行動のリズムのみを描くことで、あの高速かつ高圧の文体は成立している。
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hazakura-ki · 22 days ago
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谷川雁「花田清輝——『鳥獣戯話』」
そのすれちがいは、埴谷が「吉本隆明の書物を読んで私が不覚にもはじめて知ったのは、花田清輝をも含めて私達の世代の全的敗北という現事態についてであった。抵抗と協力という二つの主調音を如何に巧みにフーガふうにつないで前進的な意味をあたえても、死の国から帰ってきた吉本隆明の世代をついに克服し得ないという思想的な���換期についてであった」と書くときにもっとも明確な輪廓をもってみえてくる。
真に敗北した者は代々木のように、中野重治のように、決して「負けた」とはいうことのできないものである。そして吉本が相手に求めている敗北は、吉本の勝利をかくも手あつく理解してくれる種類の降参ではなく、真二つに断ちきれた勝敗のうちの降伏なき敗北であることを知りつくしながら、こうやられてみると、吉本はまたしても首つり縄の環のなかをすりぬけていく風を感ぜざるをえないのではなかろうか。
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hazakura-ki · 25 days ago
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谷川雁「断言肯定命題」
ところで、ある特別な命題があり、その命題への反応いかんで一定の世界観の酸性、アルカリ性がきまってしまうような、そんな命題はありうるか。イデオロギーのもっとも素朴な分岐点は楽観論か悲観論かという点にあり、その陰影の細かさは、たとえば共産主義は楽観論でカトリシズムは悲観論だという風に単純には決まらないものだが、ある意味ではこのどこまでも表裏をなす色感のどちらの面が最初に、また最後に出てくるかによって、われわれの思想世界の相貌はするどく規定されるといわなければならない。いわばそれはある思想の感性的規定の第一条件なのである。しかめっ面をした善良さもあれば、陽気な絶望もあり、いずれ底ぬけの明るさや暗さはむしろ反対側のトンネルをくぐりぬけた出口のところにしかないものであってみれば、画家たちがいうように色はその人固有のものと割りきってしまってよいのかもしれない。しかし、一つの思想がわれわれの鼻をうつときの肯定形または否定形は、論理的意味とひとしいほどの強さでわれわれに影響する。それはわれわれの最初のエコールを区分する。
さて、一篇の詩はついにかならず「できる!」と断言するか、「できない!」と断言するかによって終る——と断言することができる。なぜなら、詩は断言からはじまるからである。断言によってはじまったものは断言にたどりつかなければ終ることができない。すなわち詩の出発点はうたがいもなく一つの偏見、思想一般のある色彩への説明なき加担であり、その終点もまたこの偏見の理由を説明することなくして加担の意味を説得しつつ、さらにつけ加えられたより大きな断言にほかならない。詩に本質的なアクチュアリティがあるとす��ば、かかる加担の宿命的な必���性という以外のものではない。
詩は加担を前提とする文学であるといったが、この加担は果して正当であるか。この問は前にあげた設問と相重なるであろう。つまり楽観論と悲観論のわかれ道がそこから始まり、そこに帰ってくる二つの円の接点は存在するか。そのためには楽観論と悲観論に定義を与えておかねばならない。楽観的楽観論や悲観的悲観論などありえない。存在するのはノウからはじまってイエスに終るイデアルティプスとしての楽観論であり、イエスからはじまってノウに終る悲観論である。だが、そうであるとしても、この問はあらかじめ答を拘束している。もし「ありうる」と答えれば、それはすでにみずからを楽観論(できる!)の領域に所属させたことになるし、逆の答は同じ理由で一個の根源的な悲観論(できない!)への帰属を決定する。このことは右の問が純粋論理的には、答を期待することのできない問であることを物語っている。
では、詩とは本来、論理的に選択不能の加担を強いるものであるがゆえに、その断言はついに断言以外の何物でもないのであろうか。詩に関する通念はことごとくそういっている。そしていまわれわれはたしかに断言が気楽さ、またはギャグでしかない時代に生きている。何か一つ巨視的な断言を試みてみたまえ、資本主義は滅亡するとか、あらゆる革命は官僚の手によって酸敗するとか、その唾がまだ乾かないうちに、それはもう何万回もくりかえされた他人の言葉でしかないという苦がさがひろがってしまう。かろうじて微視的な、そして否定的な断言だけが嘲笑からまぬがれ得ている。しかし微視的、否定的な断言が詩にあたえられた領土なのだろうか。何のために人類は論理の外での断言癖という痼疾をもつのか。
今日のような時代、いわば世界的に詩のもつ効用性がある種の寛容をもって迎えられ、その反対に詩の本質的な破壊力がほとんど消滅しているような時代、日常生活と身体の危険と外的風景とを同時に貫徹している濃密な政治の論理はもはやアフリカの軸心にしかなく、文明が詩を食道や性器と癒着せしめてしまっている時代——そういう時代に、あらためて詩とは何かではなく、詩の価値とは何かと考えてみることはむだではないであろう。
価値。この言葉がつまずきの石なのだ。われわれは百年も前から知っている。価値は交換価値と使用価値に分裂しているのだ。ところである者はいう。その分裂とは商品に関する図式なのだ。詩は商品ではない。またある者はいう。詩が生産物の一種であるかぎり、それもまた商品性を帯びざるをえない。詩壇という名の市場に流通する価値観には、資本の価値法則の反映がある。さらに他の者がいう。詩の市場は成立していない。市場をつ��りだす努力が必要である、と。だが経済学における価値論を詩に適用することは、詩の経済学を意味しはしない。むしろ経済学的価値論の基底にある詩的認識こそ重要なのである。
「富とは……人間の内的本性の完全な創出以外の何物であろうか」とマルクスがいったとき、彼は価値の一元的規定を行ったのである。いうまでもなく内的とはまだ創出されつくさないもの、創出されつくすことのないものである。そのゆえに富とはある意味で絶対的な抽象である。このような絶対的抽象への連続的接近による対象化——そこにマルクスの価値観の量的ではなく質的な規定性がある。すなわち、本来即自的に対象化することのできない富の総体を単に数量的マッスとしてとらえるだけでは、彼の提起するすべての価値概念を誤解するよりほかないのだ。彼によれば、生産とはすべて自己疎外による対象化、自分であって自分でない自分を自分がつくりだすことであり、その過程はすでに本来交換できないものを交換しようとする人間の矛盾した衝動をふくんでいるのだが、そのゆえにすべての生産物は交換不能であり、かつ交換可能な契機をはらむ。この交換性と非交換性を止揚していくところに、彼は価値の次元を設定した。すなわち価値観の固定した受容、あるいは固定した拒絶のいずれにも、彼の価値意識は存在しなかったのだ。
資本主義に対する彼の糾弾を価値論の立場から見るとき、資本主義が価値——富に対する意識の方法——のなかにふくまれる本来的な矛盾を、歴史的には必然の分裂径路をたどりながら、いかにも俗流的に固定して解決していることに攻撃が向けられていると見なければならない。彼にとって、価値を止揚する能力こそが唯一の価値なのであって、原理的にはそれ以外の価値をまったく認めていないのだ。交換価値もそれと分裂した使用価値も、真の価値ではないといっているのだ。価値を消滅させ、それによって人間の内的本性の完全創出という絶対的抽象の方へ迫っていく運動過程のみが認められる。価値論に関するかぎり、マルクスはあきらかにすべての理想主義の極北をはるかに越えている。 精神的、肉体的労働によって世界の一部としての自己を対象化し、そこに得られた新しい世界としての自己を外的世界の範疇いっぱいに重ねあわせようとする欲望——それをマルクスは内的本性と呼んだのであって、その創出過程の中間駅で設定される価値基準はあたかも交換価値や使用価値のように擬制的な基準でしかない。一篇の詩、一人の詩人、一つの時代の芸術というようなものはことごとくこの擬制的な基準による価値以上の価値をもちえない。しかしながらこの基準は単に移りゆく時代との相関においてみいだされるだけでなく、つねに内的本性の完全創出という絶対的抽象との相関を問うことによって得られるのである。前者は相対的関係であり、後者は絶対的関係である。芸術の価値の、価値としての特殊性はまさにこの不断に進歩する擬制的基準のなかにふくまれる相対性と絶対性の結合という点にある。
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hazakura-ki · 25 days ago
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谷川雁「サラリーマン流浪のすすめ」
アウトサイダーであろうとしても、それを心がけるほどに体制と図らずもしっくり合っていくという矛盾。こういう矛盾の範例を、私たちはたとえば川崎長太郎とかきだみのるとか上野英信とかいう作家たちのうえにつぶさに見ることができる。
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hazakura-ki · 1 month ago
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柄谷行人[編] 『近代日本の批評Ⅱ 昭和篇[下]』
浅田 いや、天沢退二郎も同じで、宮川淳ほどシャープじゃないだけでしょう。入沢康夫はそれとはまったく違って、いまでもちゃんと読める。
浅田 とにかく、山口昌男をそこに置いたのは、彼をできるだけ輝かせたかったからです。いまの人は『へるめす』の老人ホーム的な雰囲気しか知らないかもしれないけれども、かつての山口昌男は実にブリリアントだった(笑)。
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hazakura-ki · 1 month ago
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ニーチェ自身の言葉ではない。和辻哲郎の「ニイチェ研究」の一節である。ちなみに、同書には、次のような箇所もある。
元来世界の進行は人の解するごとき直線的な時間の上をたどって来たのではない。すべての過去は現在の内に融け合って沸騰している。現在と離れた過去の世界はただ人の意識の内に仮構せられ得るのみである。しかもこの意識的事実としての過去の世界は、現在の力の活動なのである。
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hazakura-ki · 1 month ago
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谷川雁「転向論の倒錯」
1 力学的に
安保闘争の「高揚」のさなかに、私は日本共産党から離脱した。その理由については何度か書いたのでくりかえさないが、私がいわば積極的離党というスタイルで非転向の力学を追求しなければならなくなったのはいうまでもない。そこで、あらためて転向とはなにかという問題を自分流に考える習慣が、離党の前後からうまれた。それについてのべてみたい。
なにがいったい転向なのか。他人はさておき、自分自身に起りうる転向とはどのような現象であろうか。およそ思想というものに一定の力学的意味を認める人ならば、だれしもこの疑問につきあわないわけにはいかない。しかし、考えてみると転向といわれるものはなにか単一の思想現象ではなく、いくつかの思想現象の異なる系が複合したものではないかという疑問がうまれるし、さらに思想現象だけでなく、それと行為の複合でもあることがあきらかである。したがって短い命題に凝縮した転向の定義をいそいで求めることなく、まず問題を思想の転向にかぎり、それを力学的な比喩によって——その人間に固有な思考運動の持続的な回転軸が重大な変化をすること、とでもしておく。
この仮設には、ある種の前提がある。つまり思想を思考運動の総体としてとらえるということ、この運動をある程度整序されうる回転運動として考えるということなどである。いわば、それは私の思考の範型でもある。このばあい、むろん道義的な意味での価値観は排除されている。また思考運動の回転がモデルに近いかどうかという調和の美学も拒否されている。もっと別な形で、思考運動固有の価値がみいだされることが当然に予想されている。
このような規定は、従来の転向論議とはすでに異なる出発点に立っているであろう。それは鶴見俊輔らの転向研究グループがとった、転向に関する力学的な態度をさらにはっきりさせようとしているからにほかならない。でなければ、転向問題に関する普遍的、包括的認識は得られるべくもない。だが、このグループの態度は、出発点においてそうでありながら、まだいかにも倫理的、美学的な情念から切断されておらず、そのためにいつのまにか従来の転向論にみられる性急な価値観の導入、概念の不純さにひきもどされてしまっている。そこをいくらかでもはっきりさせておきたいというのが、この文章の目的である。
2 いくつかのおとしあな
転向論にはいくつかのおとしあながある。まず第一に、戦前の権力が持っていた転向の概念を受けいれるかどうかということがある。一九四三年三月の「司法��護資料」によれば、共産主義者だけをとってみても、総数、二、四四〇名のうち転向が一、二四六名、準転向一、一五七名非転向三七名となっている。非転向が三七名も! そして準転向つまり準非転向が一、〇〇〇名以上も! この数字は私が非転向ということについて抱くイメージと戦後の運動から得た実感とを重ねあわせるとき、あまりにも大きすぎる。戦前の運動は大敗北で、そのため転向者が続出したというのが、近ごろの党史的常識のようだが、私はまったく別な感じをもつ。運動というものはまともに敗北すればするほど多くの非転向者をうむものだし、敗北によって転向するというような人間は一般的にいってはじめから何者でもなかったということでしかない。拷問によってというなら、話はおのずから別であるが。——いずれにせよ、私は権力のあげている数字は過大であると思うのだが、それは両者の転向に関する定義がそもそもくいちがっているからである。
第二に考えねばならないことは、権力の転向概念は思想的分類ではなく、行為的分類であるということである。転向声明書に署名したかどうか、ハンコをついたかどうかという即物的な見方が権力の認識の中心になるのは、思想を思想外的に弾圧しようとする者がとらざるをえない方法である。危険なのは、そのような権力にとっては自然な認識法が被圧迫者の側に逆輸入されることである。ハンコをつかなければ非転向であり、非転向は稀少価値であり、一切を聖化するといった浅薄な実用主義と物神崇拝の野合が、日本共産党内でどのように機能しているかということを考えるならば、この区分は大切である。ただし行為的転向はかならずしも思想的転向でないという、偽装転向の意義を評価する一面の強調よりも、むしろ行為的非転向かならずしも思想的非転向でないということの強調の方がより重要である。なぜなら前者の立場では、権力よりもわれわれの方が行為的転向について寛容であるということになるが、権力の基準よりもわれわれのそれの方がきびしいのが当然だからである。
第三に、転向問題の階級・階層的基盤をあいまいにするわけにはいかぬ。転向者があのように権力から厚遇されたのはなぜだったか。最低水準にある庶民の眼からすれば、あれくらいの弾圧は弾圧ではないともいえる。拷問というが、けつわり(逃亡)をする坑夫だって発見されれば、それ以上の私刑を受けたのである。しかも転向すれば「思想善導」運動で、かかる庶民の思いも及ばぬ職に就くことができる。もしこの事実を彼らが知っていたなら、争ってマルクス主義の洗礼を受けたであろうに、日本型阿Qのお株を西尾末広や松岡駒吉など、ひとにぎりの中途半端な連中に奪われてしまったのは惜しいことをしたものである。最下層プロレタリアートに阿Qの大群を作りだせば、すべての様相は変ったのだ。
それができないということと、権力の厚遇とは密接なかかわりがある。つまり下層���眼をもってすれば、それは弾圧という名の保護であり、抵抗という名の被保護でしかないのだ。ある水準から上の、歴史的にいくらかの支配技術を身につけた階層でなければ知ることのない、ほのかな打算の領域——支配することによって屈服し、屈服することによって支配する中間支配者の位置——それをぬきにして日本の転向問題は考えられない。鶴見も書いている。「思想犯のとりしらべにあたった官吏たちは、とりしらべられている人々とおなじく帝大出身の秀才であり、同じ根に育ったものとして、被告の教養をも感受性をも深く理解した」だが、このエリート意識はもはや、自分が社会上層の第一級的存在とかたく結びついているというような明治の学士ほどの確信もなかった。一方には天皇、他方にはコミンテルンという最高存在がある。属している階級は同じであり、心情的なれあいの要素に不自由はしない。歯をむきだした凄惨な抹殺の姿勢はより低い出身階級を持つ権力下層がとることはあっても、権力の中層はそれを抑える。このようなばあいの対決は、上からと下からの互いにコミュニケートしあわない、全存在を賭けた対立と同じように機能することは決してないという定理を忘れてはならない。
第四に、いわゆる「転向」とはかかる権力中層と同位の転向者が合作してこしらえあげた心理的な発明品であるということである。もちろんそれは、支配技術としては古代にまでさかのぼる伝統的様式の一種であって、「転びキリシタン」の昔から愛用された常套手段である。強烈な力で外面から抑えつけるのではなく、やわらかに内面から隷従させ、一人一人を相手とするよりも、人間的な系列全体をねらうという方法が発展して、ここまでたどりついたのである。そこではっきりしている新しい特色といえば、次の二点である。すなわち単純な屈服ではなく、屈服の内発性を強調していって屈服そのものを思想の転向とみせかけること。みせかけの作為がみずから判別できなくなるまで、この擬似的な内発性は繰り返し倒錯して強調されねばならない。つぎに、権力の一方的な考案に被圧迫者がとびつくという従来の方法ではなくて、方法そのものを被圧迫者自身があれこれ思案せざるをえないようにしむけること。つまり「ねずみが作ったねずみ捕り」であること。
おそらく権力の上層は、思想が中間層の渋好みに気に入る上品な迷彩でしかないことを本能的に知っている。彼らには、思想の毒などはどうでもよい。その機能としての行為こそ問題なのだ。だが権力中層は、強い擬似意識によってしかみずからを支えることはできない。そこではみずからその擬似性に侵されながら、思想を擬似意識としてではなく、擬似意識を思想として尊重する態度がある。したがって転向という名の、思想的スタイルをとった思想外的な強制のからくりはある程度無意識の作為であるといえる。そこに、転向問題がほとんど思想問題��見えるほどの、独特の効果があがった理由がある。いわば「転向」とは、あたうかぎりの低姿勢をもって反対者の内側に思想外的に接近し、そこに自己を浸透させえた者が勝利するという、わが国独特の闘争方法からうみだされた改宗戦術であり、その記念碑的な結晶なのである。
3 「永久転向」としての非転向
これらの諸点について、日本共産党が今日にいたるまで、なんらの方法的視点を持ちえないでいるのはいうまでもない。それは戦後共産党のいわゆる非転向部分が、おのれの非転向が思考のはげしい回転運動そのものによって支えられたのではなかったことを認める省察力を持たないことを示している。その理由は、彼らが権力中層と同位の擬似意識から一歩も出られないことにあるわけだが、それはしばらく保留しよう。
この欠陥を意識しながら、包括的かつ実証的な転向論を展開した鶴見グループの基本的見解もまた、私にいわせればすこぶる甘いというほかはない。彼はグループの共通認識として、転向を「権力によって強制されたためにおこる思想の変化」と定義する。(転向の共同研究について——『転向』上巻)それによると、権力とは国家権力のことであり、強制とは直接間接に服従を要求されるすべての方法をふくむ。思想変化の一方の極に自発性を、他方の極に被強制性を置き、被強制性の極から自発性の極にまで波動がつたわり、思想体系の中心部を占める方位決定的部分が変化するとき、これを転向の確定化とみなす。このばあい、権力の指示方向に反撥することによって起る変化は逆転向とよび、転向への未完の過程は転向の潜伏段階と規定する。
これはいわゆる転向を思想のダイナミズムとしてとらえ、転向現象の生産性をすら示唆した最初の問題提起である。それは次のような倫理的、あるいは論理的前提に立っている。(一)転向というのは必ずしもそのままでは悪いことではないということ、(二)ただ転向の道すじをはっきりさせる手続きをとることが、本人にとっても公共にたいしても有用であるということ、(三)転向を研究し、批判するわれわれにとって観点の自由な交流を計ってゆく集団的努力が必要だということ、(四)転向の事実を明らかに認め、その道すじをも明らかに認めるとき、転向は私たちにとってある程度まで操作可能になり、転向体験を今までよりも自由に設計し操作する道が今後ひらかれるようになるだろうということ。
(…)だが、ここでは、転向の概念がなお多義的にすぎるのではあるまいか。それはまず行為的世界における転向と思想領域におけるそれとが混淆しており、つぎに権力に対する方位と、思考の軸における符号の一般的な転換とが「さしかえ」られている。
最初の点についていえば、この規定はあまりにも最初から思想内的に提起されているといえるだろう。わが国の転向問題はなによりもまず権力の思想外的な攻撃方法として、またそれへの思想外的な反応形式として考えられるが、それがとにもかくにも思想のスタイルをとりえたのは、権力の当事者や転向者の内外に���ろく擬似意識または二重意識が存在し、思想の偽装性がなかば無意識的に浮かびあがったからである。そもそも外からの強制が思想そのものに直接の影響をあたえることはできない。思想はあくまで思想の内側から自分自身を選びとる。強制が意味をもちうるのは、鶴見のいう「信念と態度の複合」としての思想に一定の函数関係をもつ行為が、思想を裏切るときだけである。行為が思想を裏切るのはわれわれが日常経験するところであり、それは思想の顕在部分と潜在部分の背反からうまれるといえるだろう。資本主義の滅亡をいぜんとして信じながら転向声明書に署名してしまうといった事態はざらにあることである。このばあい「思想体系の中心部分を占める方位決定的部分」はなお変化していないとしても、それはあきらかにひとつの事実の完結というばかりではない。客観的に見れば、なるほどそれは思想の潜在部分が顕在部分に対してはっきりと優位を占めたことを意味し、変ったと称する部分がより規定力の強い不変部分の直接的な表現として生地をむきだしたということでしかないかもしれない。しかし主体の立場から見るとき、それは自分のうちに滲透した権力の思想が反権力思想を白日の下でうち負かしたというのでないかぎり、自覚的な思想活動をみずから放棄したということでしかない。つまり光のなかで敗北したか、闇のなかで敗北したかが問題である。そのいずれにも徹底しえない薄明のなかの敗北——自覚的であるか、無自覚的であるかも定めがたいゆえにますます敗北的であるところの敗北——それが転向者の絶対多数であったにちがいない。これはもはや二重に思想領域から遮断されている転向であって、鶴見らのいうように転向そのものは悪ではないとか、その道すじをはっきりさせろとかいっても、なんらその主体と関わりあえるはずもない。日本権力の発明品である「転向」のからくりの痛烈さは、陽気な偽装意識の持主でないかぎり、人間から「考える行為」を追放するという点にある。裏返せば、倫理的に「考える」資格がなく、論理的に「考える」意味をもたない人間が、なおも考えざるをえないところに転向の刑罰がある。このような種類の転向は、明証しうる形での思想問題ではない。いわば前思想なり原思想の領域であるが、それを取り扱うにあたっては「思想は権力から強制されえない」という自明の命題をはっきりさせないかぎり、その主体に侵入することは不可能なのである。権力による思想の強制に屈服することと、権力の思想と戦って敗北するということとはおのずから別である。鶴見の規定は、たやすくすべてを思想内的にとりいれてしまう嫌いがあり、楽観的にすぎる。思想の変化として考えられない転向がある。そもそも思想の領域でない転向がある。それこそが固有日本的な転向であり、すべての転向のなかにその要素はふくまれている。同時にこの不変の、非思想的な質は当然非転向にもふくまれている。したがってこの非思想的領域をそれと認めることによって思想の対象としないかぎり、われわれはあの薄明のなかの非転向を撃つことはできないのだ。
第二点になるが、転向=弁証法、非転向=形式論理と範型的にとらえられている鶴見の規定はどのような限定条件をもたねばならないか。つまり権力に対する思想の方位的変化と、思想軸の一般的な変化とが混同されているという点である。もとより何の変化もしない思想などありうるはずもなく、そのような思想を想定すること自体ばかげている。しかし、思考運動の持続的な回転のなかから内発的に��みだされる軸的変化が起っても、権力に対する思想方位はかならずしも逆転しないということが十分にありうる。もしそれがなければ、鶴見のいうように「純粋かつ十全」な非転向とはあきらかに「形式論理学の支配する領域」でしかない。だが、たとえば芸術上の流派を考えてみるがいい。特定の世界観の芸術的表現がかならず特定の流派と結合しなければならない理由がないように、権力に対する方位を基本的な思想軸として考えれば、その軸はさらに多くの軸に分解されうる補助的な、あるいは単元的な軸の集合として理解される。この単元軸のどれかが符号を変える、つまり認識の価値方向を逆転することがあったとしても、それは直ちに世界観の基本軸における符号の逆転ではない。定着か流浪かといった二律背反的命題に接すると、人々はすぐさま定着=ナショナル、流浪=インターナショナルといった常識にしがみつきやすいものであるが、定着的流浪か流浪的定着かというふうに概念が交叉しはじめると、こんな定式はもろくも崩れさっていく。まして非転向というばあい、それが拒絶している対象は形式論理なのである。鶴見がいおうとしているのは、形式論理を形式的に排除しようとする者はかえって形式論理を裏口からひきいれることになるという一面であるかもしれない。それかといって、転向=弁証法、非転向=形式論理という範型はそれ自身あまりに形式論理的であることをまぬかれない。
むしろそれは次のようにいうべきである。——単元的な軸における転向をするどく、早く繰り返さないような基本軸の非転向は思想的に無意味であり、したがって十全の意味における非転向ではない、と。つまり私は、形式論理的にいうなら、転向=形式論理、非転向=弁証法と規定すべきだというのである。そこには世界観の基本軸はどのようにして確定化するのかという、それ自身世界観に関わりあう原世界観的な問題がある。鶴見はそこを「非転向の世界においては、はじめに十全な形でとらえられた正しい信念が思考過程の終までつらぬきとおす」と、いかにも形式論理的に卑小化している。このように卑小化された非転向などは、私にいわせればきわめて安直明白な転向の一形態にほかならない。一九四三年春に三十七人の非転向共産主義者がいたという官庁統計を私が信じないゆえんである。唯物弁証法に関して非転向であるというのは、そういうことであろうか。世界観の基本軸は単元的な思想軸の集合であると前に書いた。だが、もとよりそれは算術的な集合ではない。思想の軸とは、相互に緊張しあい排斥しあう二つの極を結んで得られるものであり、一本の思想軸に対してさらにこれと対立する他の思想軸が存在するとき、これらの軸と軸を結ぶ高次の軸が成立する。この軸を流れるエネルギーの方向が認識の価値方向となるわけだが、そのエネルギー自身はなんら価値認識をふくんでいるものではない。それはただ思考のエネルギーの内在律にしたがって、流出し氾濫する場を求めていくにすぎない。あたるをさいわい疑いをつきつけ、すべての障害物をつきやぶり、浸透し、のりこえようとするその力にとって、方向というものがあるとすれば、それはみずから承認した普遍妥当性ということのほかには何物もありえようがない。いわば否定の力が拡がりを求めるということのなかにしか方向性は存在しない。どのように高次の思想軸が成立しようとも、思考のエネルギーを��源的に構成する「否定的に拡がっていくこと」という方向性は失われることを論理的に許されない。したがって、この命題に関して「非転向」であるということが、この命題の形式論理的な墨守でないことはあまりにも当然である。
否定的に拡がる世界が実現されていく過程は、それよりほかにありえようのないものであって、外部からつけ加えられた価値基準にしたがうものではない。そこでは、人間はいわば転向不能である。この不能の一点を強く保持するということは、無数の単元軸における不断のめまぐるしい転向を保証する。またかかる「永久転向」の集合によってのみ、基本軸の不動性は保たれる。それは回転している独楽の運動に似ている。もし単元軸のどれかが固定されれば、独楽の回転は狂ってくる。もちろん、このような運動は範型としてしか考えることはできないが、範型の想定を形式論理とよぶことはあるまい。そして範型的にいえば、転向こそ固定すべからざるものの固定にほかならない。
4 前衛概念の円環化へ
鶴見グループの転向規定について、概念の組変え、または再分類を要求するような反対論をのべてきたが、それは彼らの見解が転向一般と思想の生産性とを直接結びつけてこれまでの転向論の不毛をうち破った興味ある作業だと思うからである。ただ私は、彼らがなお思想の転向一般と思想基本軸の転向と思想領域と主体的に結びつかない行為的転向とを混同しているために、しばしば権力と共産党の俗流転向論をひきいれてしまっていることを警告したにすぎない。日本共産党が最も俗物化しているのは、この転向に関する公式的沈黙とその周囲においてであるから、どうしてもそこに範型的な基準をみいだそうとする努力を重ねなければならない。 思想の基本軸の出発点は、思考のエネルギーに固有内在する力によって否定的にひろがる世界の普遍性という極であることをいった。これを認めない者は、権力であろうと権力打倒をかかげる党であろうと、思想の敵である。つまり、それは不断の回転こそが軸であるということにほかならない。この地点において見るならば、非転向の内包は永久転向であり、永久転向の外延が非転向である。このことを認めたくないという衝動は、広く日本人の習性のなかに分布している。軸と回転をきりはなして、回転しない軸または軸をうまない回転のどちらかに偏倚することが、日本社会の歴史的な二重構造を反映する二重意識を偽装的に整理するのに都合がよいからである。社会構成的にいって、日本の上層部分と下層部分の接合のしかたはきわめて不安定である。それは下層部分の構成が均質でなく、いくつもの異なる系の集合であって、独立したマッスとマッスの間に複雑な断層が走っているためである。したがって、上層部分は下層部分をつねに一種のボナパルティズムによって支配せざるをえない。上層と下層の力関係が浮動しているばかりでなく、その力を測定することも容易でない。そこで軸をうまない回転——無責任と無論理がかえって状況に適応する可能性をもつことがあるし、同じ理由で上層と下層との間に仮設された主観的な約束を不動のものに転化して考えたいという心理的操作——回転しない軸がうまれる。後者がいわゆる「スジを通す」ということである。つまり思考の基底に思考の停止という原思考様式がはた���いている点では、状況追随もスジを通すことも変りがない。にもかかわらず状況追随の無論理は、被支配者の倫理として顕在化され、支配者は隠れた支配技術としてこれを利用しながら、それを秘匿する。これに対して、スジを通す方は上層部分の倫理としてさまざまに美化され顕揚される。包括的論理を認めようとする日本人は、そこでまずおのれの二重性を統一するカギとして、スジを通そうと試み、それが障害にぶっつかると状況からの再出発をはかる。この転換の間に思想次元の根本的変化はない。なしくずしの転向、ずるずるべったりの転向が発生するのはここからである。その社会的根源は二重構造の接合関係に対する、自覚されない意識部分にある。転向がこの接合部に近い中間的な階層において、もっとも顕著で微妙な様相を呈するのは自然である。日本の転向の独特な様相を規定している社会経済的な基盤はここにある。
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hazakura-ki · 1 month ago
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谷川雁「知識人と私のちがい」
だが抑制はいつも破れて、そこからガスがふきだした。親たちの小市民的な変質のしかたに、自分を形づくった歴史の不正を見ていたので、そこから遡行してより原理的な士族と地主の二つのサイクルを無縁なまま所有した私は、無媒介的な動揺のゆえに、親たちよりも一歩深くブルジョア・イデオロギーのなかに潜入したのである。そこから不可知論風の神秘主義を通りながら、自分を自然が作った断層のようにとらえようと熱中した。そのために有効な答だけを私は知識と呼んでいた。私の知識観を言葉にしてみればつぎのようなものであった。——知識人という存在は、特定の階級をもたないにもかかわらず一定の独自の機能をもつという風に規定してはならない。むしろ機能していないところに意味がなければならない。だがそれは機能の固定的限界の内側が外側へマイナスの形ではたらきかけているというのではない。知識の機能が一定の方法で限界に達するとき、その瞬間に限界の内側と外側は逆転する。だから、知識の運動を連続的にみれば、つねにその機能の限界の外側のみが知識それ自身の対象範囲である。この詭弁は、その後の私の行為と思考のすべてを基礎づけている。
ある方向へ跳躍することによって、逆の方角へ飛行する、桂馬とびとも蛙の宙返りともつかぬ運動過程しかもたない者にどうしてなったのか、われながら自分の存在の逆説をまだきわめつくしたわけではないが、とにかく私の出発はそんなぐあいなのであって、そのほとんど完全な自覚は十二歳くらいのときからある。たとえば書斎に逃避するといった言葉をはじめて聞いたとき、私は仰天したものだ。密室ほどなまぐさい現実の場があろうか。自分のなかの抽象性を肥えふとらせようとすれば、広い空間と具体的な労働がいちばんではないかと考えたからである。確実に計算された、緩慢な自殺は書斎とは逆の、生活の方にはみだすことしかあるまい。大げさにいえば、これは私のなかにおける最高のブルジョア・イデオロギーであり、その後の私はほとんどそこを越えていない。 やや長ずるに及んで、知識人の卵たちと接触を多くもつようになったとき、私はふたたびおどろかされた。かれらは自分の存在の根拠を全然疑っていないばかりか、私がすこしでも遠く離れようとしている始点をめがけて、蟻のようにせっせと上ってくるのだった。知識人という存在をぱくつこうとするかれらは、にぎりめしをほおばる土方よりも、すなわち一つの悲惨をうれいげもなくのみおろさざるをえない人間よりも、はるかに無神経で動物的であった。私はかれらの汗の匂いに脱帽した。その健康さ、平俗さにうたれた。かすかなブルジョア的発展の余地がのこっているかぎり、かれらは蜜にむかう蜜蜂であることをやめなかった。「出世なんかあきらめているさ」といいながら、きりぎりすのように歌っていた。田舎医者の小せがれが自分を貴族のごとく感じなければならないとは、なんたる世界に生まれたのであろうと、にが笑いするよりほかはなかった。それにくらべれば、かれらは労働者のように正しいとでもいわねばなるまい。
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hazakura-ki · 1 month ago
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谷川雁「私のなかのグァムの兵士」
たどりついた任意のそこに、自己の世界を建設する能力が万人で一様であるわけはない。だが勝敗の観念を棄てさえすれば、すなわち自分をくつがえす力を逆支配しようとしなければ、だれのてのひらにも他人の侵すことのできない一滴の禁漁区がのこる。この極小の禁漁区を守る方法は二つある。一つはかつての偽装転向を純粋化した形で考える際の降伏無限大、敗北ゼロという道であり、一つはグァムの兵士のように敗北無限大、降伏ゼロという道である。
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hazakura-ki · 1 month ago
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蓮實重彦『魂の唯物論的な擁護のために』
蓮實 いや、待つということを除いて、政治性はないと思う。より正確に言うと、何か例外的な体験を作家たち��ら提供されたいと願っているのではない。待っていたわけではない記号と遭遇したときに、初めて「待つ」ということの意味が開示されるような瞬間を信じていると言ったらいいでしょうか。それは、期待という名で誰もが知っている「観念論」的な姿勢を無効にする記号です。ゴダールの新作がそのつど教えてくれたのは、待つことの「唯物論」であり、それが世間一般の「観念論」的な期待を揺るがせる。そのような記号との出会いを、僕は「魂の唯物論的な擁護」という言葉で語っています。待つことの「観念論」はイメージの問題に過ぎません。作家のイメージ、作品のイメージ、それをめぐるイメージ……。イメージには記号の魂を欠いているのです。その魂を「唯物論」的に露呈させること。これからは、その政治性の実践に向けて精神と肉体を鍛えておきたいと思います。
浅田 消費社会の本流に近いところでは、建築でも美術でも音楽でも大変な量の作品がつくられているわけだけれども、それにしたって、突出したものは少ない。そもそも、日本の建築にしろ美術にしろ音楽にしろ、批評がないわけですよ。批評がなかったら、アーティストなんてだいたいバカなんだから、疑似家元制度あるいは御座敷芸的なスノビスムに陥るか、「芸術は爆発だ」というテーゼに代表されるような幼児的な欲望の噴出に陥るか、そのどちらかになってしまうのが関の山です。まあ、きちんとした批評が必要だなんていうのは今さら言うまでもないような矮小なことなので、あまり言いたくはないですけれども。
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hazakura-ki · 1 month ago
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宮台真司『実録 愛と希望を語る90分 こども性教育』
ここからはとても重要な問題について話します。今日は女性の参加者が多いですが、「カレシ」ができたとして、相手が別の人と映画に行ったら、怒るでしょうか? 男性にはもっと酷な質問をしましょう。「カノジョ」がほかの男とごはんを食べ、映画を見て、そのあとセックスをしたとすると、怒りますか? ぼくを含めて年長者の多くも、高校生や大学生のときにそういう経験をしています。みなさんの多くも、いずれはそうした場面に直面することになるでしょう。 なぜ怒りを感じるのか? 理由は���かりますね? 「自分にとっては相手が一番なのに、相手にとって自分は一番じゃないのか」と、裏切られた気持ちがするからです。 でも、考えてほしい。好きな相手が、自分にとって「同じ世界」で「一つになる」ことができる「唯一の人」だと、どうしてわかるのでしょう? 散歩でもドライブでもセックスでもいいけれど、最も「同じ世界」で「一つになれる」相手とはいったい誰なのかを、どうやって知ればいいのでしょう? 恋愛小説や恋愛映画には、「この人に出会ってはじめて、私は知らなかった世界を知った」という定番のせりふがあります。そうです。「比較」しかありません。 残酷ですが、「比較」は大切です。いままでの人よりも「同じ世界」で「一つになれた」。こんな経験をするとは思わなかった。いままでの相手はなんだったのか……。 そういう気づきが大事です。「比較」によってはじめて「比較」できない「絶対」がわかります。「比較」を避けても、いずれは必ず「比較」するようになります。
「処女厨」といって、相手の女性が処女かどうかを気にする男性が昔からいます。女性のみなさんは「処女厨」はいやだなと思うよね。なぜいやだと思うのかな? 「ほかの男に抱かれたことがある女なんか、いやだ」というのは、女性を「新車か、中古車か」というふうに所有物としてとらえている感じがするからですね。 ただし新車をほしがるのとはちがって、「処女厨」には自分が「比較」されるのをいやがるという自信のなさもあります。それも「処女厨」がおぞましい理由です。 「ほかの男と食事するな」と縛る男性には、「比較」されるのをいやがる自信のなさがあります。それを感じた女性は「もっと自信をもってよ」と思うでしょう。 「相手にとって自分は一番じゃないのか」と怒るのであれば、「比較したうえで自分を一番だと思ってほしい」と考えるべきではありませんか? ということは、「相手にとって自分は一番じゃないのか」というのは、怒りの粉飾決算で、真の怒りは、自分が「比較」で相対化されるところにあるでしょう。 「相手にされていやだと思うことは、自分もしない」という理屈で、ほかの相手と出かけようとしない人もいますよね。 その場合も、真の動機は、「比較」をいやがる自信のなさを、おたがいに擁護しあうところにあるのではありませんか? これらの話は、男女を入れ替えても同性愛でも成り立ちます。「比較」をいやがるのは、本当の唯一性を求めるという「愛の規範」から言って、ダメです。 厳しいかもしれないけど、若いみなさんには、「比較」されるのをおそれずに、相手にとって「究極の相手」だと思われる人になってほしいです。 相手が「究極の相手」なのかは「比較」しないとわからないし、相手にとって自分が「究極の相手」なのかも「比較」してくれないとわかりません。 「究極の相手」とは、かわいさやイケメンぶりを比べる属性主義ではなく、誰よりも「同じ世界」で「一つになり」、「委ね」や「明け渡し」ができることです。 過去の男性や過去の女性との「比較」でも構いませんが、この過去の男性との「比較」をいやがるのが、先ほど話した「処女厨」です。 ぼくが若いころの経験ですが、自分がつきあうようになった大好きな女の子の恋愛経験がすごく少なかったから不安になりました。 たまたま最初にぼくと出会って、ぼくに固執しているだけじゃないかなと。だったら、ほかの男性とごはんを食べたり、映画に行ったりしてほしいと告げました。 実��、そのようにしてくれて、正直ほっとしたし、やっぱりぼくのことが一番だと言ってくれて、とてもいとおしくなりました。 みなさんには、「相手は自分の持ち物だから、自由にするのは許さない」という人は、ダメなんだ、という価値観を身につけてほしいです。 みなさんは、誰かの所有物ではありませんし、誰が「究極の相手」なのかは、相手と一緒にいるときの自分の経験を「比較」してみてつかむ必要があるからです。
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hazakura-ki · 2 months ago
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谷川雁「観測者と工作者」
いうまでもなく私は日本の知識人の裏がえし、ある意味では単純な、機械的な反対物なのです。中学二年坊主のとき、私はすべての学習をやめてしまおうと考えたことがあります。数学も英語も国文学も、教室で講ぜられているものはすべて容易だ。その彼方に難関があるとしても、このたやすい道の果てにあるもの、そういう種類の難しさが自分にとって何であろう。私が求めているものは、はじめからしまいまで困難にみちみちている結晶よりほかにない。たとえば砂漠の吹きだまりにふとみられる紋様の意味を解こうとして生涯たちつくしておられたら……完成とはそういうものではないか、直達しようとする者だけが感じるあの抵抗ではないか——こういう願望を実現する手だても分らないままに、博物館の小僧にでもなれたらと空想していたのです。この計画は口に出したとたんに浅薄になるところがあって、たちまち私は放棄してしまいましたけれども、この汎神論の匂いのする偏向をどのように転がしてゆくかが、その後の私の戦いとなったのです。
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hazakura-ki · 2 months ago
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『現代歌人文庫 塚本邦雄歌集』より
祕密もちてこもれるわれの邊に睡り初夏耳の孔紅き猫 鮑(あわび)削ぎつつ黄の夕光(ゆふかげ)に目つむれり 胃は人閒のうちなる沼 寒卵(かんたまご)うち點燈(とも)りつつ累なれりわれにも宥さるる睡りと死 夕闇に鶴たつたつた今われの耳のうしろに火のかをりして
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hazakura-ki · 2 months ago
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ヴォーヴナルグ
ある思想が、単純な言葉で表現できないほど薄弱であるならば、それはその思想をしりぞけてよいことを示す。——ヴォーヴナルグ
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