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宮台真司『聖と俗』
宮台 さて、模試の成績で有頂天になっていたところに衝撃が襲います。浪人中の夏休み、東大志望にとっては定番のZ会通信添削「国語Ⅰ科」を受講し始めました。今と違って、当時は東大志望者だけがターゲットでした。ところが成績は恥ずべきレベル。驚いたことに、添削子が「駿台では一番でも、Z会では通用しない」と書いてきて、これが僕の人生を変えました。
近田 駿台とZ会はそんなに違うの?
宮台 添削子が言います。「君は出題文に書��れたことしか理解していない。それでも東大には受かる。だがZ会Ⅰ科はそんな小さなことを目標にしない。君が世界を理解する能力の向上を目標にする。出題文の筆者がどんな人生を送り、なぜ文章を書いたのか。時間的にも空間的にもテキストの外を感じ取る能力を問題にするのだ」と。
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小林秀雄「モオツァルト」
ヴァレリイはうまい事を言った。自分の作品を眺めている作者とは、或る時は家鴨を孵した白鳥、或る時は、白鳥を孵した家鴨。間違いない事だろう。
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吉本隆明「贋アヴアンギヤルド」
きみの冷酷は 少年のときの玩具のなかに仕掛けてある きみは発条をこわしてから悪んでいる少年にあたえ 世界を指図する 少年は憤怒にあおざめてきみに反抗する きみの寂しさはそれに似ている きみは土足で 少女たちの遊びの輪を蹴ちらしてあるき ある日 とつぜん一人の少女が好きになる きみが負つている悔恨はそれに似ている
きみが首長になると世界は暗くなる きみが喋言ると少年は壁のなかにとじこもり 少女たちは厳粛になる きみが革命というと 世界は全部玩具になる
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『近代日本の批評Ⅲ 明治・大正篇』
ただし昭和初期の小林には、ある種のすがすがしさがあって、読んだ連中はわからなかったらしい。彼が「朝日」に文芸批評を書き始めた最初のころ、「てめえの書くものは全然わからない」と作家たちから言われたらしい。そこでまた、「たしかにお前さんたちが書くものよりもむずかしいかもしれないけれども、しかしバルザックのものにくらべれば私の書くものは百分の一ぐらいやさしい」とか言いますね。
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谷川雁 無の造型
なぜなら知っているとは、意識として所有することだから。だが意識は時間であり空間であるとともに、無時間、非空間である。
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「青年が若さだけに依存して老年と闘争しながら時間とともに当の対象へと化して行く自然過程こそ、明治期以後の近代文学が反復強迫してきた最悪の遺産だからだ」
「僕は運動自体が資本制であれ国家内国家であれ、戦っているつもりの当の対象そのものに化してしまわない条件を考えてるんです」
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斎藤環
とはいえ、人々が「ひきこもり」について抱くイメージにはかなりの幅があるので、はじめに簡単に解説をしておこう。私は通常「社会的ひきこもり」という言葉を使う。彼らは必ずしも家から一歩も出られないわけではない。もしそうなら「物理的ひきこもり」だ。そうではなくて、かなりの長期間にわたり、あらゆる親密な対人関係から隔絶して生活していることが問題なのだ。就学・就労しないことは必ずしも精神的な問題に直結しないが、長期に及ぶ対人関係の欠如は、ほとんどの場合、なんらかの問題につながりやすい。これは主義主張の問題ではなく、ほぼ臨床的な問題である。
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佐々木敦 石川淳
たとえば『紫苑物語』の冒頭「国の守は狩を好んだ。」とか、『鷹』の「ここにきりひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう。」とか、『荒魂』の「佐太がうまれたときはすなわち殺されたときであった。」とか、『至福千年』の「まず水。」なんかは何十年も読み返してないのに今もそらで言える���だが音で記憶していて字面がわからないので確認した)。『至福千年』は「そりゃ言えるだろ」と思うかもしれないが、その続きの「その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。」も憶えている。
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吉本隆明『背景の記憶』より
詩は近代詩から現代詩への経路をかんがえると、長い年月のあいだ詩の表現をつづけることは、すべての現実にたいする不適性と不利得と自己破滅へと書く者を追いこんでゆくようにつくられてきた。またそうでない詩法は興味をひかないし、ほとんどすべての詩は中途の妥協から成りたっているとおもえる。
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太宰治『富嶽百景』
人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他愛なくゆるんで、之はおかしな言いかたであるが、帯紐といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と逢って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢って、君の完全のたのもしさを、全身に浴びているのだ。
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大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』
大女ジンが死んだ以上、ますます下降してきている谷間の人間の経済生活への認識を軸に、ともかく谷間のすべてがうまくゆかなくなっていることへの村民の不安の総量をひとり担ってくれる贖罪羊の役割が、こんどはぼくに廻ってきた模様だ、ということを思いめぐらしていたんだよ。そして、もっとも率直にいえばぼくはひそかに昂奮していた。すなわち夜明け方にすでにぼくをみまっていた新しい微笑の意味あいを事後承認していた、というわけだね。谷間と「在」の人間すべてにおそいかかっている心理的なペストの病原菌を一身にひきうけてまことに惨めに生き延びるべき贖罪羊は、誰の眼にもあきらかに谷間じゅうでもっとも憐れきわまる脱落者がその候補でなければならない。しかし隠遁者ギーはすでに不適格だ。なぜならかれはともかく谷間を出て森に暮すことを選んだ男だからね。しかもかれ自身は自分が谷間で最大の不運の塊りに押しつぶされている犠牲者だなどとは思ってみもしない、意気軒昂たる独立者なんだから、かれを谷間の共同体のゴミ棄て穴の役割に擬することなどできはしない。そこで結局ぼくが選ばれたわけなのだ。ぼくこそが病的に肥満しながらつねに激甚な不毛の餓えにかられていた大食病の女の王位継承者ということなんだ。
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稲葉 僕が『モダンのクールダウン』で書いたのは、世の中の圧倒的多数はバカというか普通のひとである。ただ、たまに賢いひと、あるいはそういうことにこだわってしまうちょっといびつなひとが出てくる。あるいは普通のひとであっても時と場合によってはそういう役回りを演じざるを得なくなる。多くの人間には一生そういう出番は来ないけれども、そこそこの人間にはたまに来る。自覚的にシステムの構築や設計に関わるようなことを担う少数者はいるし、あるいは市井のひとでも、あるめぐりあわせで「公務」に応じなければいけないこともある。
じゃあそういう人間はどういうときに公務を担わなければいけなくなるのか、あるいはどういうときに公務を担いたいなどと思ってしまう人間が出現するのか。社会はどうやってそういう、いわゆるエリートと言われる連中を必要なときにうまく選び出して、システムの構築や設計やメンテナンスを担わせるのか、ということを考えられないかと思っているんです。 ただ、だれが必要なときに必要なことをやらなきゃいけないかはそのときにならないとわからない。だから潜在的には万人がそういう公の任務を担える主体でなければならないと想定する古典的な近代主義にも一理ある。でも全員がそれをやる必要はないし、できない。そして、そういう人間がどうやって選出され訓練されていくのかということはよくわからない。
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斎藤環書評 『椎名林檎vsJポップ』 阿部嘉昭 河出書房新社 二〇〇四年
精神科医・中井久夫によれば、人間には「金星人」と「火星人」の二種類があるらしい。
いきなり何の話かと思われただろうか。これは人間の知性のあり方に関する分類である。いまだ人間が宇宙へ進出していない時代、金星は熱帯雨林が生い茂る灼熱の世界であり、火星は荒涼たる大地に幾何学的な運河が刻まれた寒冷世界と想像されていた。ここからの連想で、金星人は、具体的対象に惑溺しがちな博物学的知性、火星人は、明晰かつ抽象的な対象のみを思考する数学的知性を指す。ここに精神分析家マイクル・バリントの「オクノフィル」(対象に密着し、しがみつこうとする人)と「フィロバット」(対象から離れるスリルを楽しむ人)という分類を重ねることもできるだろう。
阿部嘉昭はいずれか。答えは明らかだ。彼は金星から来たオクノフィルだ。その対象への愛は半端なものではない。彼に見込まれた対象は、ほとんどストーカーもかくやという強い視線の圧力のもと、骨までしゃぶりつくされる。この種の知的系譜には、たとえば映画なら淀川長治、読書なら目黒孝二、博物学なら荒俣宏、ほか批評家では高山宏や平岡正明らがいる。
一般に批評家は、作品を分析することで我有化してしまいたいという欲望に、なかなか抵抗できないものだ。しかし金星人たちは、そのような傲慢さから限りなく遠い。作品に密着し、その膨大なデータベー��と強力な連想エンジンの赴くままに、作品の細部から別の作品群を召喚し、あるいはジャンルを越えた参照項へとジャンプし、作品の背景を想像=創造してみせる。しばしば火星人たちの批評が、正しくはあっても還元論的な貧しさの方向に作品を回収しがちであるのに比べ、金星人たちの批評は、作品をよりいっそう複雑な輝きと陰影のもとで「解放」する可能性に満ちている。
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ロラン・バルト『表徴の帝国』
バルトに言わせると、すき焼きをはじめとする鍋料理も「空虚な中心」を持った食べ物である。なぜならそれは、調理された時と食べ始める時を分ける明確な瞬間を持たないから。つまり、すき焼きは、「とだえることのないテキストのよう」な食べ物である。
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