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『羊頭狗肉』 浅田彰×福田和也
浅田 子供であることに居直るオタク文化が、クール・ジャパンと称して国策で輸出されるという、異様な時代ですからね。メジャーな大衆文化を見ててもそうですよ。たとえば、去年大流行した『あまちゃん』。たしかに宮藤官九郎は腕のいい職人だと思いますよ。TVで『池袋ウエストゲートパーク』をちょっと観たあと、書店で石田衣良の原作をぱらぱら読んで驚嘆したことがある——あまりにもひどくて。トラウマがどうのこうのという、救い難い原作を、みんなが笑って見られる軽いコメディに仕立てた宮藤官九郎の手腕は大したものだと思いました。ただ、彼は「女優再生工場」なんて言われているらしいけれど、あれはむしろ女性性の否定じゃないか。能年玲奈はただただ可愛い存在で、エロスを感じさせない。エロスを担っているのは橋本愛だけど、あくまで能年玲奈を際立たせるための影でしかない。他方、小泉今日子や薬師丸ひろ子のような「かつてのアイドル」は、女であることを諦めて"面白いおばさん"になることで、国民に愛されるわけです。逆に言えば、女であり続けようとする女優の居場所がない。これは日本映画界の大問題でしょう。
浅田 例えばフランス映画界をみれば、ジャンヌ・モローでもカトリーヌ・ドヌーヴでも、年をとっても女であり続けるし、現にカッコいい。ジャンヌ・モローなんて、プッシー・ライオット(ロシアの反体制女性パンクバンド)が去年投獄されたとき、支援のために彼女たちの詩を朗読していたけれど、プッシー・ライオット自体よりカッコいい。
浅田 宮沢りえなんかがカッコいい女優になってくれるといいんですけどね。宮藤官九郎の『池袋ウエストゲートパーク』は、長瀬智也が加藤あいを相手に「めんどくせえ」っていう台詞がキーワードだった。めんどくさい女と付き合わなきゃいけない話だったんです。それが『木更津キャッツアイ』になると男の子たちの共同体の話になって、女はそれを優しく見守ってくれる存在になる。その延長で『あまちゃん』になる、と。
福田 浅田さん、ドラマを観るんですね。 浅田 いや、偉そうに言ってるけど、2、3回、10分ほど観てるだけですよ。
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⑪『映画千夜一夜』
⑪『映画千夜一夜』 初:中央公論社、一九八八年 「偉そう」という非難に対して、私は「偉そう」なのではなく、「たんに偉い」のだと返したという伝説を持つ蓮實であるが(入江の情報提供によれば、この伝説の起源は『早稲田文学』二〇〇四年七月号における渡部直己との対談「わたくしは生まれてから「ひとの悪口はいうまい」と思って育っている人間なのですけれども……」である。このタイトルセンスもすごいが……)、それはつまり、権威として機能する「偉そう」という印象ではなく、リアルな実質として「偉い」かどうかをシビアに問題とする批評家としての態度表明でもあり、だから、自分より「偉い」者がもしいるならばごく率直にそれを認めて最大限の敬意を表すということは当然ながらありうる。たとえば淀川長治に対してのように。 敬愛する年長の対話者との共著のもっとも際立った成果が、原田雄春との『小津安二郎物語』(一九八九)および本書であるだろう。後者は、ほぼ同世代の盟友・山田宏一とのコンビで、サイレント初期からの膨大な映画的記憶を持つ淀川を迎え撃つ格好を取る。不世出の語り部である淀川の話の面白さ、貴重さはまさに圧倒的で、この老評論家のポテンシャルを引き出した二人の手腕がすばらしい。あれも知っているのか……ではこれも知っているか、という具合に、固有名が固有名を、細部が細部を呼びよせ、芋づる式に映画史の迷宮へと読者を連れてゆく鼎談のめくるめく悦楽は、以後、このジャンルの映画書籍の一つのモデルとなった。だが、この本家本元が超えられることは今後、決してないだろう。もはや映画の黎明時代からリアルタイムで生きてきた評論家はほぼ完全にいなくなってしまったからだ。 もっとも笑えるのは、若き日の蓮實独特の佇まいをどうやらいたく気に入ってしまった淀川が「ニセ伯爵」などつぎつぎに絶妙な異名をつけては愛情たっぷりにイジり倒すくだりだろう。イジられてまんざらでなかった蓮實は、後年、小説『伯爵夫人』のタイトルの由来を聞かれて、淀川とのこの会話の記憶がそれであると答えている。
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蓮實重彦 嫉妬と軽蔑の力学
��山 誰かモデルがいたのかなとは思いますね。そういえば、たしかに江川卓のことを書いた文章だったと思うのですが、蓮實先生が「嫉妬と軽蔑の力学」ということを言っていて、それが先生のスタンスともまさにフィットする気がしたんです。つまり嫉妬の対象であることはすごくつらいけれど我慢して、そのうえで軽蔑の対象には絶対にならないと。そういう姿勢を貫くというのが大学教員として蓮實さんが自らアイデンティファイするところだったのか、それはわかりませんが、大学を辞められてからはそれまでよりも打ち解けた話ができるようになった印象があるので。
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埴谷雄高プロフィール
《食事》 1日2食。昼(1時頃)はコーヒーとビスケット。夜(10時頃)はインスタントのおかゆ。おかずは親戚づきあいをしている向かいの人からの差し入れ。野菜を多くとるように気をつけている。その他、カンヅメ類(コンビーフ、紅ザケ、アスパラガス、牛肉の大和煮)を随時。
《好物》 トカイ(ハンガリー産のワイン)、水。武蔵野市の水道はよい。
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内田樹×中沢新一『日本の文脈』より
中沢 能はどういう芸能なのかと言えば、中世の身体技法であると同時に、もっと古代の死生観、古代人が死者をどうやって現出させるかという形式化ともかかわっています。それは一つの明確なかたちを持っていて、女性なんですよ。しかも女性は、この世界の中で完結できない存在でしょう。ラカンがよく言うことですが、女性はこの世界では完結した存在になることができない。それは「女性には穴が開いているからだ」という言い方をします。その穴というのはどこかというと、他界であり、生と死が生まれてくる場所で、そこに穴が開いているものだから、この世界の中の言葉や論理で女性というものを表現し尽くすことなど不可能であると。だからラカンは「女は存在しない」という言い方までする。存在するとは、両足ですっくと立って歩くことで、自分の中に他界のものが入り込んできたり、生命が他界へ浸み出していく穴なんかないものでないと「存在」とは言えない。しかし、女性は他界へ向かっての通路に、それ自体がなっている。何かの思想や哲学を表現するときはこの構造に立つから、言語というのは男のもの。ところが、日本のいちばん深い思考方法は「男でおばさん」で、それを形式に仕立てたのが能じゃないのかなっていうふうに思ってます。
中沢 生命の誕生についてのいまの物理学の考え方というのは、まさに収縮ですよね。現実の世界をつくっているのは三次元空間+時間の四次元ですが、原初の宇宙は十一次元の構造をしていて、それが瞬間的に次元を減らす収縮をして、この宇宙ができたと、いまの物理学では考えられていますからね。キュッと収縮したときに物質が生まれるという理論は、ユダヤ教の考え方だなと思います。
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宮台真司『聖と俗』
宮台 さて、模試の成績で有頂天になっていたところに衝撃が襲います。浪人中の夏休み、東大志望にとっては定番のZ会通信添削「国語Ⅰ科」を受講し始めました。今と違って、当時は東大志望者だけがターゲットでした。ところが成績は恥ずべきレベル。驚いたことに、添削子が「駿台では一番でも、Z会では通用しない」と書いてきて、これが僕の人生を変えました。
近田 駿台とZ会はそんなに違うの��
宮台 添削子が言います。「君は出題文に書かれたことしか理解してい��い。それでも東大には受かる。だがZ会Ⅰ科はそんな小さなことを目標にしない。君が世界を理解する能力の向上を目標にする。出題文の筆者がどんな人生を送り、なぜ文章を書いたのか。時間的にも空間的にもテキストの外を感じ取る能力を問題にするのだ」と。
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小林秀雄「モオツァルト」
ヴァレリイはうまい事を言った。自分の作品を眺めている作者とは、或る時は家鴨を孵した白鳥、或る時は、白鳥を孵した家鴨。間違いない事だろう。
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吉本隆明「恋唄」
かんがえてもみたまえ わたしはすこしは非難に鍛えられてきたので いま世界とたたかうこともできるのである
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吉本隆明「贋アヴアンギヤルド」
きみの冷酷は 少年のときの玩具のなかに仕掛けてある きみは発条をこわしてから悪んでいる少年にあたえ 世界を指図する 少年は憤怒にあおざめてきみに反抗する きみの寂しさはそれに似ている きみは土足で 少女たちの遊びの輪を蹴ちらしてあるき ある日 とつぜん一人の少女が好きになる きみが負つている悔恨はそれに似ている
きみが首長になると世界は暗くなる きみが喋言ると少年は壁のなかにとじこもり 少女たちは厳粛になる きみが革命というと 世界は全部玩具になる
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「青年が若さだけに依存して老年と闘争しながら時間とともに当の対象へと化して行く自然過程こそ、明治期以後の近代文学が反復強迫してきた最悪の遺産だからだ」
「僕は運動自体が資本制であれ国家内国家であれ、戦っているつもりの当の対象そのものに化してしまわない条件を考えてるんです」
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斎藤環
とはいえ、人々が「ひきこもり」について抱くイメージにはかなりの幅があるので、はじめに簡単に解説をしておこう。私は通常「社会的ひきこもり」という言葉を使う。彼らは必ずしも家から一歩も出られないわけではない。もしそうなら「物理的ひきこもり」だ。そうではなくて、かなりの長期間にわたり、あらゆる親密な対人関係から隔絶して生活していることが問題なのだ。就学・就労しないことは必ずしも精神的な問題に直結しないが、長期に及ぶ対人関係の欠如は、ほとんどの場合、なんらかの問題につながりやすい。これは主義主張の問題ではなく、ほぼ臨床的な問題である。
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佐々木敦 石川淳
たとえば『紫苑物語』の冒頭「国の守は狩を好んだ。」とか、『鷹』の「ここにきりひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう。」とか、『荒魂』の「佐太がうまれたときはすなわち殺されたときであった。」とか、『至福千年』の「まず水。」なんかは何十年も読み返してないのに今もそらで言える(だが音で記憶していて字面がわからないので確認した)。『至福千年』は「そりゃ言えるだろ」と思うかもしれないが、その続きの「その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。」も憶えている。
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吉本隆明『背景の記憶』より
詩は近代詩から現代詩への経路をかんがえると、長い年月のあいだ詩の表現をつづけることは、すべての現実にたいする不適性と不利得と自己破滅へと書く者を追いこんでゆくようにつくられてきた。またそうでない詩法は興味をひかないし、ほとんどすべての詩は中途の妥協から成りたっているとおもえる。
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大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』
大女ジンが死んだ以上、ますます下降してきている谷間の人間の経済生活への認識を軸に、ともかく谷間のすべてがうまくゆかなくなっていることへの村民の不安の総量をひとり担ってくれる贖罪羊の役割が、こんどはぼくに廻ってきた模様だ、ということを思いめぐらしていたんだよ。そして、もっとも率直にいえばぼくはひそかに昂奮していた。すなわち夜明け方にすでにぼくをみまっていた新しい微笑の意味あいを事後承認していた、というわけだね。谷間と「在」の人間すべてにおそいかかっている心理的なペストの病原菌を一身にひきうけてまことに惨���に生き延びるべき贖罪羊は、誰の眼にもあきらかに谷間じゅうでもっとも憐れきわまる脱落者がその候補でなければならない。しかし隠遁者ギーはすでに不適格だ。なぜならかれはともかく谷間を出て森に暮すことを選んだ男だからね。しかもかれ自身は自分が谷間で最大の不運の塊りに押しつぶされている犠牲者だなどとは思ってみもしない、意気軒昂たる独立者なんだから、かれを谷間の共同体のゴミ棄て穴の役割に擬することなどできはしない。そこで結局ぼくが選ばれたわけなのだ。ぼくこそが病的に肥満しながらつねに激甚な不毛の餓えにかられていた大食病の女の王位継承者ということなんだ。
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稲葉 僕が『モダンのクールダウン』で書いたのは、世の中の圧倒的多数はバカというか普通のひとである。ただ、たまに賢いひと、あるいはそういうことにこだわってしまうちょっといびつなひとが出てくる。あるいは普通のひとであっても時と場合によってはそういう役回りを演じざるを得なくなる。多くの人間には一生そういう出番は来ないけれども、そこそこの人間にはたまに来る。自覚的にシステムの構築や設計に関わるようなことを担う少数者はいるし、あるいは市井のひとでも、あるめぐりあわせで「公務」に応じなければいけないこともある。
じゃあそういう人間はどういうときに公務を担わなければいけなくなるのか、あるいはどういうときに公務を担いたいなどと思ってしまう人間が出現するのか。社会はどうやってそういう、いわゆるエリートと言われる連中を必要なときにうまく選び出して、システムの構築や設計やメンテナンスを担わせるのか、ということを考えられないかと思っているんです。 ただ、だれが必要なときに必要なことをやらなきゃいけないかはそのときにならないとわからない。だから潜在的には万人がそういう公の任務を担える主体でなければならないと想定する古典的な近代主義にも一理ある。でも全員がそれをやる必要はない��、できない。そして、そういう人間がどうやって選出され訓練されていくのかということはよくわからない。
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