hazakura-ki
暗記帳
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hazakura-ki · 2 days ago
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谷川雁 無の造型
なぜなら知っているとは、意識として所有することだから。だが意識は時間であり空間であるとともに、無時間、非空間である。
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hazakura-ki · 10 days ago
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谷川雁 宮沢賢治
ふしぎなものはふしぎすぎはしない。細かいからくりが気の遠くなるほどつづいているだけだ。
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hazakura-ki · 10 days ago
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「青年が若さだけに依存して老年と闘争しながら時間とともに当の対象へと化して行く自然過程こそ、明治期以後の近代文学が反復強迫してきた最悪の遺産だからだ」
「僕は運動自体が資本制であれ国家内国家であれ、戦っているつもりの当の対象そのものに化してしまわない条件を考えてるんです」
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hazakura-ki · 10 days ago
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斎藤環
前章にも述べたように、私は「ひきこもり」を専門とする精神科臨床医だ。精神科医である以上、ひきこもり青年の治療を生業とする。そうした「治療」が正当なものであるか否かを疑いつつも、私は治療を続けている。何のために? 「自由の回復」のためだ。人間はしばしば、自ら望んだかのような形で、不自由を引き受けてしまうことがある。自由からの逃走? それもあるが、そればかりではない。逃走という行為に宿る最小限の主体性すらもあらかじめ奪われた状態、それが「ひきこもり」なのだ。 とはいえ、人々が「ひきこもり」について抱くイメージにはかなりの幅があるので、はじめに簡単に解説を���ておこう。私は通常「社会的ひきこもり」という言葉を使う。彼らは必ずしも家から一歩も出られないわけではない。もしそうなら「物理的ひきこもり」だ。そうではなく���、かなりの長期間にわたり、あらゆる親密な対人関係から隔絶して生活していることが問題なのだ。就学・就労しないことは必ずしも精神的な問題に直結しないが、長期に及ぶ対人関係の欠如は、ほとんどの場合、なんらかの問題につながりやすい。これは主義主張の問題ではなく、ほぼ臨床的な問題である。
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hazakura-ki · 14 days ago
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佐々木敦 石川淳
美しいかどうかはともかくとして、私が一〇代の頃に「かっこいいなあ!」とよく思っていたのは石川淳の小説の、特に書き出しだった。ある頃からこの作家は、どこか時代がかった存在になってしまった感は拭えないし、どうもやたら礼賛するひとと変に莫迦にするひとに二極化しているようなきらいもあるが、少なくとも少年時代の私にとっては、読み出した途端に興奮の坩堝に引き込まれる作家のひとりだったし、今でも幾つもの冒頭を憶えているのだから、相当なインパクトだったということだろう。
たとえば『紫苑物語』の冒頭「国の守は狩を好んだ。」とか、『鷹』の「ここにきりひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう。」とか、『荒魂』の「佐太がうまれたときはすなわち殺されたときであった。」とか、『至福千年』の「まず水。」なんかは何十年も読み返してないのに今もそらで言える(だが音で記憶していて字面がわからないので確認した)。『至福千年』は「そりゃ言えるだろ」と思うかもしれないが、その続きの「その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。」も憶えている。
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hazakura-ki · 19 days ago
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『埴谷雄高全集 第四巻』③
��頼できる誠実な男のコンクールがあれば、必ず三位以内に入賞するのがこの本多秋五である。彼が解らんといえば十二分に検討したあげく納得できぬものがわずかでも残つていることであり、ダメだといえばどう口説いてもだめであり、それは知つているといえば徹底的に知つていることである。あまり生真面目なのでホントウのことだけを話すという誓いでも立てて生まれてきたのではないかしらんと、時にしげしげと顔を見ることがある。「近代文学」の会合で一週間に一度は必ず彼に会つていて、もはや慣れているはずだのに、いまだに彼の堅実無比ぶりにしばしば驚いている。このような堅い人物はあるいは銀行家などに見出せるかもしれないが、文学の方にはまつたくない。見事な稀少価値をもつているのが本多秋五である。
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hazakura-ki · 25 days ago
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『埴谷雄高全集 第四巻』②
それより時間的にかなりさき、東大で開催した「近代文学」の講演会の満員ぶりに気をよくした私達が、その夜さつそく同人の拡大案をたてて、椎名、梅崎、武田などとともに、三島由紀夫にも加わつてもらうべく決めたのが、矩形の卓の上に料理や酒も腹を押しあうように並べてあるその狭い二階の特別室だつたのだから、この「ランボオ」の側からいえば、三島由紀夫はなんら無縁ではなかつた。けれども、三島由紀夫の側からいえば、擾乱を好むひとびとが横倒しになつて走りゆくそのメエルストロームの渦など無縁であることが、最初の「序曲」の会合から明らかになつたのである。
その会合には、病気で欠席の寺田透と船山馨、それに、当時まだ神戸にいた島尾敏雄を除く、椎名麟三、武田泰淳、梅崎春生、野間宏、中村真一郎などがビール瓶の並んだ矩形の卓を囲んで腰をおろしたが、そのときちようど私の正面に腰かけた三島由紀夫に認められる魅力的といつてよいほどの目立つた第一印象は、数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話しぶりにあつた。もし通常の規準をマッハ数一とすれば、三島由紀夫の廻転速度は一・八ぐらいの指数をもつていると測定せねばならぬほど��あつた。私は彼と向いあわせているので、ただに会話の音調を聞いているばかりでなく、会話に附随するさまざまな動作のかたちを正面から眺める位置にあつたが、間髪をいれず左右をふりむいてする素早い応答の壺にはまつた適切さを眺めていると、いりみだれて閃く会話の火花のなかで酷しく訓練されたもの、例えば、宴席にあるひとりのヴィヴィッドな芸者の快感といつた構図がそこから聯想されるのであつた。ところで、矩形の卓の両側に窮屈そうに腰かけている他のひとびとに目をやると、中村真一郎はその頃絶えずクリーナーで掃除していたパイプを口にくわえたまま聞き手に廻つており、梅崎春生は酒席にあるとき何時もそうであるように理論の空しさを知りぬいたふうに背をかがめたまま黙々とのんでおり、椎名麟三は、いや、それは違うんだ、しかし、違うと説明しても相手は恐らくそれを解りはしないと口をはさみかけては自身を抑えつづけているような苛だつた衝動に身を揺すつていて、自然、三島由紀夫に向つても最も多く応答しているのは、偶然左隣りに腰かけている野間宏ということになるのであつたが、困つたことに、野間宏の思考の廻転速度はマッハ数〇・四ぐらいなのであつた。私がこちらから見ていると、この二人の対話は、スクリーンの片面が緩速度カメラ、他の片面が高速度カメラで撮られたフィルムをつなぎあわせた謂わばバイヴィジョン装置の幅広い奇妙な画面を眺めているようで、片方から放たれた凄まじいスピードをもつた矢が境界のそちら側にはいると不意に子供でも手でつかめるほどゆつくりした動きに切り換わつてゆくさまがまざまざと解つた。この二人の思考廻転の速度の差は、いや、こうではないですか、と前置きしたあとでゆつくり述べはじめる野間宏の論旨がまだ第一歩を踏みださない前に、三島由紀夫が四度ぐらい頷いて、思わずつぎの論の断定を下してしまうといつた具合なのであつた。私の観測によると、このなかで最も思考廻転の速いのは武田泰淳で、私の大ざつぱな測定価はマッハ数二・〇ぐらいなところに達していたから、もし彼が卓上のコップへ寄せた伏目をあげてこの座の文学問答に加われば、優に三島由紀夫と歯車が噛みあつてもあまりある筈であつたけれども、その頃、苦痛の痕跡をもつた恋愛の最深部にうちこんでいた彼には文学問答用のエネルギイの余裕など一滴ものこつていなかつた。
三島由紀夫がメエルストロームの渦へ近づいて、まだ口を開いている漏斗状の渦のかたちを遠望し、その旋回速度の見かけ上の鈍さと泡立つ���近の擾乱を眺めただけで立ち去つたのは、この「ランボオ」の狭い二階で行われた会合のとき��あつたといえる。その会合後、私は、平野謙に、三島由紀夫はどうかね、と訊かれたことがある。うん、かれはどうも俺達をみな馬鹿だと思つてるよ、と私が答えると、吾意を得たりというふうに平野謙は肉づきのいい咽喉をのけぞらせながら激しく哄笑して暫く笑いやまなかつた。この平野謙の哄笑のなかには、マルクス主義を境界線とする互いに理解しがたい二つの断層についての複雑な感慨が含まれている。
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hazakura-ki · 25 days ago
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『埴谷雄高全集 第四巻』①
もし武田泰淳の坐像をロダンのように彫刻しようと思つて彼の特質の一瞬をつかもうとしたなら、私の前に浮ぶのは《うつむいている人》の像である。武田泰淳の印象は対坐者に向つて眼を伏せて下を向いている姿勢である。例えば、彼と一時間話し合つている時間を分割してみると、五十九分五十五秒位うつむいていて五秒ぐらいこちらを向いている計算になる。彼はときたま、ほんの一瞬、ちらつとこちらを見るだけである。しかし、そのとき私が驚くことには、彼はその一瞬ですべてを見てしまう。さながら一枚の超感光度をもつたフィルムのように一瞬にしてすべての情景の隅々まで精密に記憶してしまい、その記憶を作品のなかに再現するとき、普通気づかれぬ思いがけぬ隅の部分をも彼は三原色を駆使してあざやかなほどの濃密な色彩をもつて微細に描き出している。この記憶の素晴らしさと一瞬にすべてを見てしまう本質把握の能力は彼にあつてすさまじいほどである。殆ど全時間うつむいている武田泰淳の本質把握能力の鋭さを思うにつけて、私には彼が《面をあげざる覗見者》の王のように思われてくる。そして、このように眼をふせた武田泰淳の姿勢から私はゴーゴリの『ヴィヰ』を想いだすことが屢々あつた。
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hazakura-ki · 1 month ago
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吉本隆明『背景の記憶』より
詩は近代詩から現代詩への経路をかんがえると、長い年月のあいだ詩の表現をつづけることは、すべての現実にたいする不適性と不利得と自己破滅へと書く���を追いこんでゆくようにつくられてきた。またそうでない詩法は興味をひかないし、ほとんどすべての詩は中途の妥協から成りたっているとおもえる。
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hazakura-ki · 1 month ago
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太宰治『富嶽百景』
人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他愛なくゆるんで、之はおかしな言いかたであるが、帯紐といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と逢って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢って、君の完全のたのもしさを、全身に浴びているのだ。
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hazakura-ki · 1 month ago
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大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』
大女ジンが死んだ以上、ますます下降してきている谷間の人間の経済生活への認識を軸に、ともかく谷間のすべてがうまくゆかなくなっていることへの村民の不安の総量をひとり担ってくれる贖罪羊の役割が、こんどはぼくに廻ってきた模様だ、ということを思いめぐらしていたんだよ。そして、もっとも率直にいえばぼくはひそかに昂奮していた。すなわち夜明け方にすでにぼくをみまっていた新しい微笑の意味あいを事後承認していた、と��うわけだね。谷間と「在」の人間すべてにおそいかかっている心理的なペストの病原菌を一身にひきうけてまことに惨めに生き延びるべき贖罪羊は、誰の眼にもあきらかに谷間じゅうでもっとも憐れきわまる脱落者がその候補でなければならない。しかし隠遁者ギーはすでに不適格だ。なぜならかれはともかく谷間を出て森に暮すことを選んだ男だからね。しかもかれ自身は自分が谷間で最大の不運の塊りに押しつぶされている犠牲者だなどとは思ってみもしない、意気軒昂たる独立者なんだから、かれを谷間の共同体のゴミ棄て穴の役割に擬すること��どできはしない。そこで結局ぼくが選ばれたわけなのだ。ぼくこそが病的に肥満しながらつねに激甚な不毛の餓えにかられていた大食病の女の王位継承者ということなんだ。
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hazakura-ki · 1 month ago
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稲葉 僕が『モダンのクールダウン』で書いたのは、世の中の圧倒的多数はバカというか普通のひとである。ただ、たまに賢いひと、あるいはそういうことにこだわってしまうちょっといびつなひとが出てくる。あるいは普通のひとであっても時と場合によってはそういう役回りを演じざるを得なくなる。多くの人間には一生そういう出番は来ないけれども、そこそこの人間にはたまに来る。自覚的にシステムの構築や設計に関わるようなことを担う少数者はいるし、あるいは市井のひとでも、あるめぐりあわせで「公務」に応じなければいけないこともある。
じゃあそういう人間はどういうときに公務を担わなければいけなくなるのか、あるいはどういうときに公務を担いたいなどと思ってしまう人間が出現するのか。社会はどうやってそういう、いわゆるエリートと言われる連中を必要なときにうまく選び出して、システムの構築や設計やメンテナンスを担わせるのか、ということを考えられないかと思っているんです。 ただ、だれが必要なときに必要なことをやらなきゃいけないかはそのときにならないとわからない。だから潜在的には万人がそういう公の任務を担える主体でなければならないと想定する古典的な近代主義にも一理ある。でも全員がそれをやる必要はないし、できない。そして、そういう人間がどうやって選出され訓練されていくのかということはよくわからない。
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hazakura-ki · 1 month ago
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斎藤環書評 『椎名林檎vsJポップ』 阿部嘉昭 河出書房新社 二〇〇四年
精神科医・中井久夫によれば、人間には「金星人」と「火星人」の二種類があるらしい。
いきなり何の話かと思われただろうか。これは人間の知性のあり方に関する分類である。いまだ人間が宇宙へ進出していない時代、金星は熱帯雨林が生い茂る灼熱の世界であり、火星は荒涼たる大地に幾何学的な運河が刻まれた寒冷世界と想像されていた。ここからの連想で、金星人は、具体的対象に惑溺しがちな博物学的知性、火星人は、明晰かつ抽象的な対象のみを思考する数学的知性を指す。ここに精神分析家マイクル・バリントの「オクノフィル」(対象に密着し、しがみつこうとする人)と「フィロバット」(対象から離れるスリルを楽しむ人)という分類を重ねることもできるだろう。
阿部嘉昭はいずれか。答えは明らかだ。彼は金星から来たオクノフィルだ。その対象への愛は半端なものではない。彼に見込まれた対象は、ほとんどストーカーもかくやという強い視線の圧力のもと、骨までしゃぶりつくされる。この種の知的系譜には、たとえば映画なら淀川長治、読書なら目黒孝二、博物学なら荒俣宏、ほか批評家では高山宏や平岡正明らがいる。
一般に批評家は、作品を分析することで我有化してしまいたいという欲望に、なかなか抵抗できないものだ。しかし金星人たちは、そのような傲慢さから限りなく遠い。作品に密着し、その膨大なデータベースと強力な連想エンジンの赴くままに、作品の細部から別の作品群を召喚し、あるいはジャンルを越えた参照項へとジャンプし、作品の背景を想像=創造してみせる。しばしば火星人たちの批評が、正しくはあっても還元論的な貧しさの方向に作品を回収しがちであるのに比べ、金星人たちの批評は、作品をよりいっそう複雑な輝きと陰影のもとで「解放」する可能性に満ちている。
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hazakura-ki · 1 month ago
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ロラン・バルト『表徴の帝国』
バルトに言わせると、すき焼きをはじめとする鍋料理も「空虚な中心」を持った食べ物である。なぜならそれは、調理された時と食べ始める時を分ける明確な瞬間を持たないから。つまり、すき焼きは、「とだえることのないテキストのよう」な食べ物である。
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hazakura-ki · 2 months ago
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斎藤環『ビブリオパイカ』
成雄サーガの画期性はまず、ミステリという形式で「自分探し」がなされている点にある。通常はトラウマやら心理学用語やらをちりばめて展開されるはずのアイデンティティの探求は一切なされない。そもそも舞城の手法の新しさは、一人称の独白でありながら内面性がまったく生じないという語り口の発明にあった。
『獣の樹』の登場人物たちもまた、常に誰もが語りあうか行動するか、そのいずれかだ。たたみかけるというよりは、まるでせき立てるかのような会話と行動の反復。内面的葛藤の描写を徹底して削り、ひたすら会話と行動のリズムのみを描くことで、あの高速かつ高圧の文体は成立している。
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hazakura-ki · 2 months ago
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谷川雁「花田清輝——『鳥獣戯話』」
そのすれちがいは、埴谷が「吉本隆明の書物を読んで私が不覚にもはじめて知ったのは、花田清輝をも含めて私達の世代の全的敗北という現事態についてであった。抵抗と協力という二つの主調音を如何に巧みにフーガふうにつないで前進的な意味をあたえても、死の国から帰ってきた吉本隆明の世代をついに克服し得ないという思想的な転換期についてであった」と書くときにもっとも明確な輪廓をもってみえてくる。
真に敗北した者は代々木のように、中野重治のように、決して「負けた」とはいうことのできないものである。そして吉本が相手に求めている敗北は、吉本の勝利をかくも手あつく理解してくれる種類の降参ではなく、真二つに断ちきれた勝敗のうちの降伏なき敗北であることを知りつくしながら、こうやられてみると、吉本はまたしても首つり縄の環のなかをすりぬけていく風を感ぜざるをえないのではなかろうか。
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hazakura-ki · 2 months ago
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谷川雁「断言肯定命題」
さて、一篇の詩はついにかならず「できる!」と断言するか、「できない!」と断言するかによって終る——と断言することができる。なぜなら、詩は断言からはじまるからである。断言によってはじまったものは断言にたどりつかなければ終ることができない。すなわち詩の出発点はうたがいもなく一つの偏見、思想一般のある色彩への説明なき加担であり、その終点もまたこの偏見の理由を説明することなくして加担の意味を説得しつつ、さらにつけ加えられたより大きな断言にほかならない。詩に本質的なアクチュアリティがあるとすれば、かかる加担の宿命的な必然性という以外のものではない。
詩は加担を前提とする文学であるといったが、この加担は果して正当であるか。この問は前にあげた設問と相重なるであろう。つまり楽観論と悲観論のわかれ道がそこから始まり、そこに帰ってくる二つの円の接点は存在するか。そのためには楽観論と悲観論に定義を与えておかねばならない。楽観的楽観論や悲観的悲観論などありえない。存在するのはノウからはじまってイエスに終るイデアルティプスとしての楽観論であり、イエスからはじまってノウに終る悲観論である。だが、そうであるとしても、この問はあらかじめ答を拘束している。もし「ありうる」と答えれば、それはすでにみずからを楽観論(できる!)の領域に所属させたことになるし、逆の答は同じ理由で一個の根源的な悲観論(できない!)への帰属を決定する。このことは右の問が純粋論理的には、答を期待することのできない問であることを物語っている。
(…)
価値。この言葉がつまずきの石なのだ。われわれは百年も前から知っている。価値は交換価値と使用価値に分裂しているのだ。ところである者はいう。その分裂とは商品に関する図式なのだ。詩は商品ではない。またある者はいう。詩が生産物の一種であるかぎり、それもまた商品性を帯びざるをえない。詩壇という名の市場に流通する価値観には、資本の価値法則の反映がある。さらに他の者がいう。詩の市場は成立していない。市場をつくりだす努力が必要である、と。だが経済学における価値論を詩に適用することは、詩の経済学を意味しはしない。むしろ経済学的価値論の基底にある詩的認識こそ重要なのである。
「富とは……人間の内的本性の完全な創出以外の何物であろうか」とマルクスがいった��き、彼は価値の一元的規定を行ったのである。いうまでもなく内的とはまだ創出されつくさないもの、創出されつくすことのないものである。そのゆえに富とはある意味で絶対的な抽象である。このような絶対的抽象への連続的接近による対象化——そこにマルクスの価値観の量的ではなく質的な規定性がある。すなわち、本来即自的に対象化することのできない富の総体を単に数量的マッスとしてとらえるだけでは、彼の提起するすべての価値概念を誤解するよりほかないのだ。彼によれば、生産とはすべて自己疎外による対象化、自分であって自分でない自分を自分がつくりだすことであり、その過程はすでに本来交換できないものを交換しようとする人間の矛盾した衝動をふくんでいるのだが、そのゆえにすべての生産物は交換不能であり、かつ交換可能な契機をはらむ。この交換性と非交換性を止揚していくところに、彼は価値の次元を設定した。すなわち価値観の固定した受容、あるいは固定した拒絶のいずれにも、彼の価値意識は存在しなかったのだ。
資本主義に対する彼の糾弾を価値論の立場から見るとき、資本主義が価値——富に対する意識の方法——のなかにふくまれる本来的な矛盾を、歴史的には必然の分裂径路をたどりながら、いかにも俗流的に固定して解決していることに攻撃が向けられていると見なければならない。彼にとって、価値を止揚する能力こそが唯一の価値なのであって、原理的にはそれ以外の価値をまったく認めていないのだ。交換価値もそれと分裂した使用価値も、真の価値ではないといっているのだ。価値を消滅させ、それによって人間の内的本性の完全創出という絶対的抽象の方へ迫っていく運動過程のみが認められる。価値論に関するかぎり、マルクスはあきらかにすべての理想主義の極北をはるかに越えている。 精神的、肉体的労働によって世界の一部としての自己を対象化し、そこに得られた新しい世界としての自己を外的世界の範疇いっぱいに重ねあわせようとする欲望——それをマルクスは内的本性と呼んだのであって、その創出過程の中間駅で設定される価値基準はあたかも交換価値や使用価値のように擬制的な基準でしかない。一篇の詩、一人の詩人、一つの時代の芸術というようなものはことごとくこの擬制的な基準による価値以上の価値をもちえない。しかしながらこの基準は単に移りゆく時代との相関においてみい��されるだけでなく、つねに内的本性の完全創出という絶対的抽象との相関を問うことによって得られるのである。前者は相対的関係であり、後者は絶対的関係である。芸術の価値の、価値としての特殊性はまさにこの不断に進歩する擬制的基準のなかにふくまれる相対性と絶対性の結合という点にある。
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