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君に会ってからというもの、俺の言葉がずっしりと重みを得たような感覚がある。口から出る言葉がただの音じゃなく、貴方に向けた意味なんだと理解しながら、言葉を選んでいる、毎日、毎晩。
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執着、依存心、承認欲求、自己顕示欲、大人になるとなくなるものじゃなくてコントロールの仕方を学んだり露呈する事は醜いことだと覚えて、段々と表に出す頻度が少なくなるだけ。自分の心にそれらが存在しているせいで自己否定に陥ったり、自分はまだ子供なんだと落ち込む事があるけど、それが存在すること自体は間違いじゃないし、少し子どもに戻れたと思ってみてもいいんじゃないかとここ最近思う。
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遠い昔からいつでもそこにあって、でも果てしなくて、触れるだけじゃ到底その先まで到達できないような厳格な海にずっと憧れて、膝の下まで浸けたつもりがすっと引き込まれて海底に足をついていた。曇った空の色を映した鈍色の海面をしていたのに、その中は薄暗い中に光とクラゲが共存している。此方が居ることにも気を止めない無機物のような性質でいながら確かに俺を人間味のある言葉で包み込んだ君、ひんやり冷たい肌が海水に手を浸したときと酷似していた。
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君の内側を愛したいのに内側は見えない、頑なに見せてくれない、だけど人の内側は文字に、言葉に全て溢れ出る事に早いうちから気がついていた。俺は、君の活字に、心の内に、気持ちに惚れて、憂鬱なくらいグレーな色紙に色っぽく綴られた細く癖のある文字が愛おしくて、でも綴られた恋文は頑なに油性で修正液で表面を覆っても紙を破いてもそれは消えない事は分かっていた。俺が惚れたのは、確かに、俺じゃない誰かに宛てた言葉達を綴っていた君と誰かの道筋だった。
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俺が詩集が好きな理由は、分かったつもりになってそれなりに頭に残るキャッチーなフレーズが多いから、だと思う。自分を蔑むわけじゃないけど、参考書とか問題集とか、答えがあると、必然的に理解の仕方や回答を間違うことが必ず出てくる。どの物書きも書くのが、受け取り方は読み手しだいだとかいう甘やかしで、それに生きてこの方甘え続けて、詩集のぼんやりした、その場の情景とか味とか、温度の描写に間違いをすることがなく浸れる、キャッチーなものに縋るんだろうな、と。俺の今年の目標は、お堅い学術書を何が何でも完読すること。哲学なんて、本格的に手を出そうとしたら序章で挫折したからな。
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この本は、この歌は、この映画は、この人は、なんだか子どもっぽくて中身がすっからかんだな。いつも俺の創作を邪魔する言葉。例えばそういう見栄が、こどもごころを削り続けて、事実としての心の描写じゃないような、機械的な文字がぼろぼろと錆のように落ちてくる。でも大丈夫、こどもは大人に急になれないけれど、大人はこどもだった頃を覚えていれば、いつでも子供になれるよ。拙くてもそれが自分自身の感性だと認めたなら、読んだ誰かを救ったり落ち込ませたり、はたまた読んだ人間が自分の愛と照らし合わせて溜息をつきたくな���たりするのに、大人の部分がこうも邪魔をするな、と鬱陶しくなったときには、もう遅いのか。と落ち込むけれど、こどもへの帰り道を知っている人間は誰であれ詩人で、歌をのんびり歌えて、僻んだりする自分と遠く離れて、地面と近い視線をもう一度取り戻して、流行りの歌だとかを弄れずに、でもはちゃめちゃな音程と歌詞で口から出してみることがあったり。床屋のぐるぐるを永遠と見たら夕暮れになっていたり、近所の野良猫をどうにか懐かせられないかと台所から盗んだパン切れを持ち出したり、帰ってみたらカレーの匂いがして、家に駆け込んで靴を揃えることを忘れたり、そういう日々の匂いが思い出せるうちに、溢れるほど文字を書きたい。誰かに見せるためじゃなくて、こどもの日の匂いを記憶し続けるために。
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本当なら、俺の気持ちを残しているこの場所も、掠れたアイボリーとミルク色の、がたついた小さな凹凸に黒鉛を押し付けた圧力でさえ残したくて、そりゃあフリックした機械的な文字もある意味で雑多なイメージを振り払ってくれるんだろうけど、君達にはそこまで覗いてほしい。俺の、自分の溢れ出る気持ちに緊張してブレた字も、情緒の揺らぎで別人のように変わる筆跡も、「いやこれは違うなあ」と、消したあとも、漢字の情けないような間違いすらも、紙の質感の好みも、写真に移る電灯の加減も、重なる影たちも。その代わり、いつか絵でも載せられたらいい。絵はフリックじゃ描けないから、文字もそういうことであるはずなのに、難しい時代。
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祖母の木造建築の塞がれた扉の裏、その部屋にオルゴールや宝石が散らばっていて、薄暗い空間が広がっている夢を見て以来子供の頃はそれがあるものだと信じていた。まだ現代の風の吹かない、むかしが滞った空気が香って、生前の匂いに出会うことで、幼いながらも懐かしむような気持ちに胸が痛くなり、その痛みは癖になるような不思議な鼓動を俺に与えたから、埃を被ったドアノブを捻ることは、大人になった今でも一度もない。
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雨の日。人工物では無い水蒸気が密集して集まるグレーがいつもの街の空にペースト状に広がった状態で、だけど、雲とかいうものは人間の排出した汚染された微塵な埃とかそういうのも含まれているなら、実際人工物なのかな、とか、空気を汚染する前の雲のグレーは違ったのかな。だとか途方もないことを考える事を許してくれる日、言わば雨の降って雲のかかった地帯だけは世界が雲で密閉されて、隔離させられてしまう日。図書館のあの、一人しか入れない作業スペースのような。仕切られたせいで、自分の呼吸音だとか筆記音が反響するみたいに、雲が覆う街は音すら反響して聞こえるようで、途方もなく広い音楽堂みたいだ。気圧に弱くて、すぐに体調を崩す性質もあってか、雨の日は感情的になりながら改めて足元を見つめる日になりがちになる。俺の中で雨の日は、水族館、自習室、書庫、カフェの隅っこの席、布団を頭まで被った薄暗い世界。その、水浅葱の個々の空間が広がる、特別な世界。雨、嫌いなんて言ってみたこともあるけど、好きだよ。
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旅を好きな人間が、世界各地の世界遺産や、観光名所を書籍やインターネットで調べて物知りになっていくように、はたまたお試しトリップのような感覚に苛まれるように、俺自身も「行きたい場所」について調べ、常に思いを馳せている人間であると思う。旅行の話。敢えて、完成していないサグラダファミリアを見に行きたい君は不完全を愛す事の出来る人間だから、網羅して知り尽くす事よりも、途中経過だとか人の手の加わるさなかを見守る事が完成品よりも貴重でいることを、君の言葉で思い出すことがちゃんとどの瞬間も出来る。全く同じ視力で目の悪い俺達だけど、互いの視線は裸眼で捉えあっていようよ、そこに傷ついた眼球のせいでぼやけた、焦れったい景色があったとしても、君と俺がブルーライトで焼き付けた文字達の存在を忘れ去ることなんてしたくないから。今だってほら、俺の文字をじっと焼き付ける君の姿がそこにあって、確実に心の奥底と眼球の表面を、ブルーライトが焼いている。
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君が物書きや作家じゃなくて本当に良かった。色褪せたり煌めいたりする言葉が、俺の手元だけにあることが今の生きる意味で、この世と俺を繋ぎ止める何かで有り続けてる。
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因みに、血縁者や恋人にこのような考え方は基本しません。いや、しないというか他人の初期値が「100」だとすれば、彼らは初期値が限りなく高くて、縁を切るにほぼ至らないという事かもしれない。若しくは、0になったとしても俺が貯金を切り崩して、その上に立て替えているだとか。
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俺は「他人」に対して優しくする事が正しいと思っているけど、ただ無条件に尽くすのは正しくない。だから、ある程度の「優しさの貯金」というのがあって、この人にはこれだけ優しくしよう、という数字が100だとすれば、20優しくした場合、相手が50返してくれれば、プラス30でこれからもっと優しく出来る数値が増える。だけれど、20与えて優しさの応答がなかったり、仇で返されたりすれば100からどんどん減少していく。0になった途端、あげられるものは無いよーと、関わり自体を断つか、気をかけないようにする。優しさを数値化して考えるなんてサイコパスかよ?と思われるかもしれないが、大概無意識で皆これをしてると思う。だから、相手から見たら「昨日まで優しかったのに、急になんだよ!」となる。もしかしたら、俺と同じ考え方の人居るかも。貴方の大切な人の優しさの貯金、減らしてませんか?
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