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何かを描きたいと思いながら
その手は何も生み出さない
誰かに愛されたいと望みながら
その手は誰をも抱きしめない
It’s the one who won’t be taken
Who cannot seem to give
何かを言い明らかにできないのは
果たしてただ弱さだろうか
あなたのことを許せないのに
見放すこともできないのは
果たしてただ後悔ゆえなのだろうか
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朗らかに生きる覚悟
誰かの口で語られる「わたし」なんて、どんどん裏切っていこう
勝手に肩に乗せられた期待なんて、その辺に捨ててしまおう
いつの間にか心に巣食っている不安なんて、お日様の下で乾かしてしまおう
どんなに恥ずかしい過去も
誰にも選ばれない寂しさも
朗らかばかりでいられない弱い心も
それらすべてが今のわたしだと受け入れるのには
ずいぶん時間がかかるものだ
容易い言葉なんかでは自分を説得することはできないとしても
何度も何度も言い聞かせたい
健やかに生きていくこと
朗らかな日々を信じていくこと
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言葉の中で生きる私たちは~『ルポ 誰が国語力を殺すのか』を読んで~
いつからだろう、こんなに「言葉」のことが気になるようになったのは。
得意/不得意や上手/下手の文脈ではなく、自分の気持ちや思いを表現したいと思うと��、写真でも絵でもなく、言葉を使うことが私にはしっくりくる。
椎名林檎は「本能」の中で
どうして歴史の上に言葉が生まれたのか
太陽 酸素 海 風
もう十分だった筈でしょう
と歌っている。
他の生き物のように、意思疎通であれば鳴き声や身振りで事足りるだろうに、我々はどうしてあらゆるものに名前をつけ、それらを結び、思考を複雑に入り込ませ、迷宮のようになった世界の中で生きているのだろうか。
ここ数年、ZINEを作成することもきっかけとなり、自分の気持ちを文章にする機会が多くなった。そんな時に思う。これほど膨大の言葉に囲まれておきながら、自分の気持ちにぴったり合う言葉を見つけることがこんなにも難しいとは。言葉を知っていても、”適切”に使えないのだ。
大学も文学部を卒業したし、読書も好きだから、きっと文章も書けるだろうだなんて浅はかにも思っていたが、全くそんなことはなかった。
何とか脳みそにある言葉の引き出しから適当だと思われるものを引っ張り出して繋ぎ合わせてみても、それは一見して文章の体を成しているが、読んでいて心地いいものにはならない。
なんかちぐはぐな文章、借り物の言葉たち、そんな印象を抱かせる。
自分の書いた文章なんて読んでいてむず痒いが、書かないことには上手くならないと言い聞かせ、こうやって人様の目に触れる前提の場所で書いている。
あこがれのあの人たちのように、言葉をうまく使うことができたら・・・
スピッツのような、夢の湖に浮かぶような不思議さと心地よさと青臭さのある言葉
江國香織のような、愛するものへのもどかしくも切実な愛おしさを表現する言葉
川上未映子のような、この世界への批判と讃歌、自身を肯定するための毛皮のような言葉
そしてこのZINEを一緒に作っている、二人の親友のなんとユーモアのある、血の通った、読んでいてワクワクするような言葉たち
その人のことを考える時に、外見や肩書きだけでなく、どのように言葉を使うかで、自分にとって好ましいかそうでないか考えてしまうことがある。便利な言葉を便利なままぶつ切りで使う人もいるが、そういう言葉ばかりを使っていると、他人と何かを深くまで共有したり、真面目な喧嘩をしたりすることが難しいんじゃないかなと思ってしまうし、だんだんそうなりつつ自分に戒めを感じたりする。
例え��、夏の阿蘇。草原の匂いや、濃い霧、遠くに見え���馬の群れについて、ありとあらゆる言葉をたっぷり使って、その素晴らしさについて語りたいのに、一緒にいる人が「エモい」とか「ヤバイ」とかしか言わなかったら切ないと思ってしまう。そんな簡単でぶつ切りの言葉じゃ、この眼前に広がる雄大な自然を、どのように感じ、何を思い、誰に見せたいと思ったのか、何も分からないじゃないか。もっとあなたのことを知りたいのに。
そんなことを、ここ数年漠然と考えていた。
さて、表題にある『ルポ 誰が国語力を殺すのか』は、さまざまな子どもたちの事例を挙げながら、現代日本に生きる子どもたちの国語力の著しい低下について書かれたルポルタージュである。言葉を獲得できなかった彼/彼女らのエピソードは決して知らない家族の、知らない学校の、知らない社会の話ではなかった。あまりに身近に感じられるし、「私もそうだ」と感じたのだ。
そしてその一方で、言葉を獲得できなかったものたちの、文字通り「言葉にできない」叫び、彼らが生きなければならないあまりに厳しい現実、そして最後に、子どもたちの国語力再生に心と手を尽くす人たちの取り組みが取材されていた。
何を言われても「ウゼェ」としか返さない息子と、親自身もコミュニケーションが苦手なため、ますます親子の分断が進んでしまう家庭。
学校に行けず、自分の気持ちを言葉にできず、自己紹介すらできない子どもや、何を聞いても「さぁ」とか、「分からない」としか答えられない不登校の子どもたち。
著者は、これらを「国語力が殺されている」と表現した。
学校から帰った後も心の休まらない環境を作る、生活の奥深くまで根を張っているSNS
終わりの無い刺激によって子どもたちの心と身体を蝕む「クリア」の無いゲーム
親の経済力やコミュニケーション能力の格差によって言葉を獲得できない環境にある家庭
あらゆる要因によって、言葉/国語力が失われているという。
しかしこれは、子どもたちだけの問題ではない。
私自身も、自分の気持ちを言葉にするのに、とても時間がかかる方だと思っている。
特に最近は、YouTubeや Instagramを観るばっかりで、情報を与えられ続けた私の脳みそは、言葉を使う能力を司る部分が凝り固まっている。
YouTubeで色んな動画を見るのは楽しい、 Instagramで綺麗な写真を見るのも好き。
だけど、自分の気持ちをきちんと言葉にしないために、なんとなく「面白い」や「楽しい」という解像度の低い感想だけがそこに残っている。
だからこうやって自分の考えたことや感じたことを文章にするのは、ある種リハビリのようなものだ。
どうして文章を書くのか、もっと言えば、どうして言葉を使いたいのか、それは、自分に嘘をつかないためかもしれない。誰かの言葉の受け売りではいけない。自分の心からの言葉によってのみ、私は私を突き動かせると信じている。
だから、言葉は力だと思う。
私が本を電子書籍ではなく紙の本で揃えるのは、その方が子どもに遺せるからだ。言葉の天才たちが書いた本には、私たちの世界にもっと彩りを与えてくれる言葉や、体験できない人生の、その痛みや喜びがある。私が死んでも本は遺る。
まだ見ぬ、会えるかも分からぬ私の子どもたちが、絶望の淵にいても言葉が彼らを救ってくれるように。
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帰る場所を無くしたものの生き方について
2022年5月8日、わたしは実家といえるものをなくした。
父方の実家に移り住むことが決定したからだ。もともと「実家」とわたしが呼んでいた家も、父の社宅に準んずるところだったため、いつか出ていかなければならない場所だということは、わたしも母も、もちろん弟たちも認識はしていたはずの場所だった。
この話を、わたしは至るところで、出会った人たちに散々してきている。
ではなぜ、改めてこんな文章にして書き連ねているのか。こんな一個人の家の話など、誰も興味がないというのに。
その「実家」に、物心ついた時からわたしたち家族は住んでいた。
父はほとんど単身赴任でいなかったから、母とわたしと弟ふたりと、四人で過ごすことがほとんどだった。ダイニングと、居間と、われわれ三兄弟の勉強机が押し込められるように並べられた(通称)勉強部屋、あとはトイレとお風呂場。シンプルな間取りだ。
わたしたちはそんなこじんまりとした場所で実に20年以上の歴史を積み重ねていた。
20年、一体どれだけ喧嘩をし、涙を流し、悔しい思いも、嬉しい思いも、思い出せば歯痒くなるくらいの家族の時間を、その家に染みのように遺してきた。
ただ、その家は、どうしたって「仮の住まい」以上のものにはなりきれない運命を持っていた。
当時、わたしはすでに実家を出て一人暮らしをしていたので、実家が移転することに、それほどまで大きな抵抗を持ったわけでは正直なかった。むしろ、これから実家に戻ることなんてないのだから、わたしには関係ないとも思っていたのだ。実家の移転は決まってから早かった。母��らその決定を告げられてから数ヶ月の間で、荷物の整理、部屋の引き渡しが行われた。
・・・
実家の移転。そもそも実家を出て自分の生活を営みたがっていたわたしには、それほど大きな影響を及ぼすものではないと思っていたのに、1年も経った今、あの家での暮らしが日々思い出されて仕方がない。
ベランダから差し込んだ光が色のあせ、乾燥した畳に差しこむ様。そこに寝っ転がって、逆さまに空を眺めたこと。
どれほど喧嘩をし、たくさんの誕生日をお祝いし、なんでもない食卓を囲んだあの大きなテーブルのこと。そのテーブルについて、テレビを観ながら母の作ったご飯を食べたこと。
弟たちと喧嘩をし、お互いの溢れるほどの荷物をなんとか収納した勉強部屋のこと。
小さな湯船の中で、九九を暗唱したり、おもちゃで遊んだり、また喧嘩したりしたこと。
なぜこんなに思い出されるのか。あんなに狭くて窮屈だった家から解放されたいと思っていたのは他ならぬわたしなのに。
人は失って初めてその大事さに気づくだなんて、擦り切れるほど効いたセリフに自分の感情を委ねたくなんてないが、わたしのこの気持ちは、どう表現すればいいのだろう。何かを手に入れるのではなく、手放し続けるのが人生だとしたら。
もうわたしの育った「実家」はない。
その事実を受け止められるその時まで、こうやって未練がましく言葉を綴ち続けることを許してほしい。
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何かが胸につっかえている感覚が
ここんところずっと続いている
何もないのになんとなくの悲しさがあり
何もしてないのになんとなくの罪悪感がある
いっそ涙でぜんぶ流れるのではないかと
理由をつけて泣いてみるものの
つっかえたものが取れるわけでもない
たまたま見た占いの結果が悪かっただけだろうと
むりやり納得させつつ
明日の私がきっと大丈夫になっていることを祈る
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ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね
漫画家 岡崎京子の作品に、こんなタイトルの作品がある。
『pink』『ヘルタースケルター』等、著名な作品の中で、これはエッセイのような詩のような手記のような-そんな形式のものだ。
特に今回はその内容に触れるわけではないが、どうして突然このタイトルが思い浮かんだのかというと、先日久しぶりに高校の同級生と電話で話したことがきっかけだった。
彼女とは高校3年生の頃に同じクラスだった。特にいつも一緒にいるような関係性ではなかったが、話すことがあれば楽しくおしゃべりするような、お互いに好感は持ち合っているような関係だった。
卒業後は違う大学に進み、その後も特に連絡を取り合うこともなく、彼女は東京で、私は福岡でそれぞれ就職した。
確かあれはInstagramのDMがきっかけだったかと思うが、ストーリーの投稿にどちらかがリアクションをして、色々近況を報告し合ううちに、東京の彼女の家に遊びにいくことになった。やり取りをしたのは感染症が流行る前で、日程は2月の連休だった。
福岡に比べ東京は幾分か寒かったが、とても天気の良い日で、池袋かどこかの公園に連れて行ってもらい、軽食をテイクアウトして二人で色々な話をした。
陽だまりがとても気持ちよかったこと
陽の光が彼女の少し色素の薄く、さらさらの髪の毛をキラキラさせていたこと
着ていた淡い色のワンピースがとても彼女に似合っていたこと
公園にいるあらゆる人がそれぞれの時間を満ち足りたものに感じているような気がしていたこと
そんなことを思いながら、驚くほどたくさんの話をお互いにしたことを覚えている。
仕事のことや恋愛のこと、過去の辛かったことなど、高校生の私が見たらちょっとびっくりするぐらい、普通の友達がある程度の期間で共有するような話を、その数時間で消化していた。
その日は観光も兼ねつつ彼女おすすめのタワーから東京の街を見下ろしたり、素敵なレストランでお酒を飲みながら色々話したり、彼女の家でまたまた色々話したりした。
そんな楽しかった東京旅行ももう2年前のことだ。
そして冒頭に戻るのだが、彼女と久しぶりに電話で話した。話題は仕事のことで、��互い似たような悩みを抱えていたこと��分かり、お互いの状況を話しながら「分かる~!」と共感し合いながら、日頃あまり人に言えない思いを言い合った。
そんな話をしつつ、話題は高校時代の思い出へと移っていく。
まだ偶然残っていたクラスの同窓会LINEのメンバーを見ながら「この人はいつも先生のモノマネをしてみんなを笑わせていた」だの、「この子は体育祭の時にリーダーをしていた」だの、記憶の隅にかろうじて残っていた微かな残り香を手繰り寄せながら、思い出話をした。
でも、彼女と話しながら私はあることを痛感した。
彼女と比べ、記憶に抜け落ちているところが多いことだ。
クラスメイトの顔も名前も思い出せない人がいたり、音楽室や美術室の場所や部屋の様子、クラスの打ち上げの時の話ー
そこそこ楽しかった高校時代である。こんなにも忘れてしまっているのかと思いつつ、彼女に記憶の補完をしてもらいながら、そういえば、と思った。
高校時代を振り返ることは今までも何度かあったが、引き出しから出す記憶に嫌な思い出が多かったことだ。
それは友達から何気なく言われた悪意の無いからかいの言葉であったり、上手くできなかった軽音部での演奏会のことだったり、2カ月で振られた失恋のことであったりー
思い出しては、その悔しい気持ちをバネに色んなことに挑戦したり、その時の自分と比べて、ここまで頑張ってきたんだなぁと、よくある感傷に浸ったりしていたのだ。
そして、そんな思い出ばかりをよく引っ張り出すものだから、その他の何気ない楽しい思い出が、不要なものとして、記憶の図書館の奥深くに仕舞い込まれてしまったのだ。
私は割と反骨精神とか、劣等感を原動力にすることが多いのだが、こんなところでその代償に気付いてしまった。ネガティブなものは引力が強いから。
たぶん、高校時代も、もちろんそれ以前もそれ以降も、楽しいことはちゃんとたくさんあったのだと思う。
ただ、それにしても忘れすぎだと自戒した。実家に帰った時は久しぶりに卒業アルバムを見返してみようかな。それに、懐かしい友人にも連絡を取ろうと思う。そして私が忘れてしまっている思い出、逆に彼女たちが忘れてしまっている面白いエピソードを教えてあげよう。
過去の悔しい思い出、辛い思い出は、原動力になるけど、もう許してあげよう。
あの頃の私を救うために、今の私がいるのだから。
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iPhoneのメモを遡っていたらこんなメモがあった。
日付は2017年10月11日だから、おそらく大学生の時に教授が話してくれたんだと思う。
ーーーーーーーーーー
あー、これは今の藤原さんにも大事な話。
〇〇さんは2年の時は本当に良かったのだけれど、1年間僕が休んで、4年生で会ってみたら、ずいぶん変わってたんよ。
何というか、学問が雑になってたんよ。
理由は分からんけど、就活が始まった途端に、雑になる人がいて、多分あれかこれか、って発想になって、学問か仕事か、って選択肢になると、選ばれなかったものに、途端にエネルギーと時間が割かれなくなる人がいるんよ。
で、大事なのは、人生を生きる上では、あれかこれかという発想をなるべく避ける事。
例えば仕事の中にも学問の主題はどこかにあるし、学問の中にも仕事につながる部分はあるので、両者を分裂させないのが、自分の人生を充実させるコツだから、覚えておいて。
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来年の春、実家がなくなるらしい。
祖母の見舞いに行く道中の車の中で、母にそう告げられた。祖母は稲刈りの後、田んぼに残った藁を燃やそうとして、その火が燃え移って火傷を負い、幸い命に別条はないものの、しばらく入院が必要となっていた。
大分までバスで。そこからは母にバス停まで迎えに来てもらい、病院まで向かっていたその最中であった。
じきに来るだろうと思っていたその時が意外にも早く訪れた事に、私は驚きを隠せないでいた。
私が生まれ育った太宰府の家は賃貸で、父がずっと単身赴任だったため、「仮の住まい」としての実家だった。しかし、私が物心ついた時から社会人で一人暮らしをするまで育った家である。仮でもなんでもなく、私がもしも何もかもが嫌になった時に逃げ帰ることができる家だった。
なぜ急に実家がなくなることになったのか。
父はずっと単身赴任をしていたが、昨年急に仕事をやめ、彼の地元である大分の会社に転職し、祖母の面倒を見ることにした。祖母はここ数年一人で暮らしていた。
「生活と/夏」にも書いたが、祖父は私が中学生の頃に亡くなり、それ以降祖母は犬や猫、生簀の鯉と一緒に暮らしていた。しかし、冒頭のやけどの件もあるが、転んで骨折寸前まで腕を痛めたこともあり、祖母はこのところ怪我をすることが多くなった。父も一緒に住んでいるとはいえ、仕事に行きながら、家事もこなしつつ家業である農作業をする生活は想像以上に大変なようだ。だんだん余裕がなくなってきたところ、太宰府でパートをしていた母も一緒に大分で住む結論に至った。大分と太宰府の二重生活は思ったよりも負担が大きかったようだ。
来年の3月には太宰府の実家はまた空き部屋に戻る。
もう20年以上、私たち家族の日々を、営みを、衝突を、喜びを、幸せの日々を見守ってくれたあの家は、私たちのつけた傷もろとも綺麗にされ、また違う人々の生活を内包していくのだろう。
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誰かを好きになると、自分らしくいられなくなる気がする。
髪型も服装も自分が好きなもの、その時着たいものを身につけるのが正義であり自分のモットーであるはずなのに、頭の中では「それウケ悪いかも」とか「後頭部刈り上げてて背も高い女より、髪の毛ふわふわで背も小さくて華奢な女の子の方が魅力的だろうな」とか。
そんなに気にしてしまうぐらい好きなんだね、とか、試着室で思い出したらそれは恋らしいよ、とか、片思いを全肯定する言葉を思い浮かべるけど、なんとなくモヤモヤしてしまう。賛同できるけど、それで片付くわけじゃない。
本当はだれになにを言われようとも自分の好きなモノ、コトに突っ走っていきたいのに、自分の頭の中で思い描いているだけの「好きになってもらうためのレール」を歩いていこうとしてしまう。
らしくない。
らしくないけど…
わたしは自分のことが大好きだし大事だし、自分のことをまず自分が愛することも大事だと思っているけど、やっぱり他人にも愛してもらいたいのだろう。
一緒にいるときに、思ったことをそっくりそのまま口に出したい、もっと自分の考えていることとか感じていることを伝えたいと思っていても、言えない、もっとウケの良い返事をしたいなどと。。。
やはりこれは恋ではなく欲なのだろうか、執着なのだろうか。
自分のことすら分からない大人になんてなりたくないと思っていたのにこの有様。
(本当に分かっていない?答えは出ているのに見ようとしていない?)
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#おしまイムズ . だいすきなイムズが終わってしまった . まだわたしがイムズをよく知る前、その印象は「ほんとうに素敵なものを知っている人が行くところ」だった だからなんとなく行きたくても行けない憧れのような場所で、それまではかわいくて最先端のものがたくさんあるPARCOや、古着屋さんのあるVIVRE、GUや SPINNSのあるコアに行くことが多かった . イムズに行くようになったのは、アルティアムという8Fにある現代アートなどの展��会をよく開催していたギャラリーに行くためだった。 たぶん初めて観た展覧会は「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」だった この時はたぶん大学2年生 美術の勉強をしている友だちに連れて行ってもらったのだと思う . その体験がすごく刺激的だったこと、400円で同展覧会なら何回でも行っていいこと、ミュージアムショップで作品の思い出たちを持って帰れること . たくさんたくさん足を運んだ 友達と行ったり恋人と行ったりしたけど、圧倒的にひとりで観ることの方が多かった . これは個人的な感想なんだけど、作品を観るとき(鑑賞するとき、相対するとき、体験するとき...)それはただ唯一の孤独な「わたし」だけがそこにいると思っている . 悲しみ、嬉しみ、痛み、苦しみ、 切なさ、やるせなさ、あいまいさ、 驚き、気づき、怒りや嫉み、 . かけがえのないわたしだけの感情によって、自分の現在地を知ることを続けてきたのだろう . イムズはおわる。 イムズはつづく。 . 新しいイムズが生まれるとき、わたしはここにいるのかな . だいすきなアルティアム、紀伊国屋書店、Raffine、つみきや、野の葡萄、しらすくじら、田頭茶舗、九州庵、P2... . いろんな人とのいろんな思い出がある . 年齢を重ねるにつれ、抱きしめて生きていく思い出の数が増えていく これはきっとしあわせなのだろうね https://www.instagram.com/p/CTcW2Z8Jow1/?utm_medium=tumblr
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. #長野県立美術館 . 水の音がきこえる . 目の前の庭園には小さな噴水があり、子どもたちが水浴びに夢中だった . 「つながる美術館」 . 設計を担当した建築家の宮崎浩(実は福岡出身の建築家)は、周囲の風景や地域とのつながりをその建築に落としこんだそう。 近くには無宗派の寺院として有名な善光寺を望み、自然と信仰と暮らしの中で存在していた。 ガラスの面で囲まれた美術館は、それ自身の光を外に放出し、なおかつ外の世界の光も取り込むような、決して、その存在を威圧感のもとに晒すのではなく、どこまでも調和とつながりを意識して作られたのだろうと思う https://www.instagram.com/p/CTFR34cpB4Y/?utm_medium=tumblr
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松本市美の大規模改修に伴い、松本市のPARCOで展覧会が開かれていた 草間弥生の代表作であるpumpkinの他にも、天国への梯子など多数が展示されていた . 「前衛の女王」はまだ生きている。 . この間岩田屋で彼女の小さな作品が市場に出回った関係で数点出品されていた。 赤い帽子やレモネードがモチーフのものもあれば、水玉模様や網目模様の抽象画まで。 . 作品を個人で「所有」するとはどういう感覚だろう。 美術館や博物館でしか見たことないアーティストの作品を自分の身の回りに置いておくこと。 . まだわたしは、そういうものを、ある種特別なものとして見ていて、とてつもないエネルギーを持っているもの(それは美しさであったり激しさであったり悲しみであったりするのだが)を、自身のそばに置いておくことを怖いと思う。 . 作品に向き合うだけでも胸がどきどきして、足がすくんで、自分が惨めに思えて、愛する人に会いたくなって、上も舌も右も左も分からなくなるその瞬間が、いつでも自分のそばにあること。 . #草間弥生 #松本市美術館 #パルコde美術館 https://www.instagram.com/p/CS9Rp9kJOC0/?utm_medium=tumblr
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いつか見た言葉と服の記憶 . 思いもよらない出会いと、自分にとってのただ唯一の煌めきと、言葉以上のものによって信じられるもの . 服はアートでもありプロダクトでもありコンテクストでもあること . ある人にとってそれは戦闘服でもあり、ある人にとってそれはラブレターでもあり、防護服でもあるのだろう . わたしは、 わたしの愛する人たちが、 好きな服を、 自分の思うままに、 誰に何と言われようと、 自身の信仰に基づいて、 堂々と身に纏っていてほしい と常々思っているよ #anrealage #artium https://www.instagram.com/p/CS9PbGDph1A/?utm_medium=tumblr
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#久留米市美術館 雨降りの前の、晴れと曇りの間には、たまにこういう不思議な空を見ることがある。 空にはもちろん奥行きがあって、その青さの向こうには真っ暗な空間と瞬く星がいくつもあることは知っている。 だけどいつも、空は「一面の青」で、雲は「同じ高さ」にみんな一列に並んでいるのだと想像してしまう。 遠近のある空を久しぶりに見ることができた。嬉しい。 https://www.instagram.com/p/CNOsUOrHqLK/?igshid=1e5lrh0fzeuy2
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#柏崎栄助 1枚目:『白磁水指』 フォルムの美しさと白磁の艶かしさは言うまでもないが、握りやすいように持ち手の部分に指のかたちの窪みがあって、私にはそれが、形のシンプルさということに終わらせず、その機能について彼が追究した痕跡のように見えてすっかり心を掴まれてしまった。 . 2枚目:『色漆手箱』 漆って赤や黒だけじゃないのだと知った作品。 漆器といえば赤や黒を基調とし、それに蒔絵などが施されたものをイメージしがちだが、彼はそれを琉球漆器の発色でもってモダンにした。1930〜40年代の作品だが、色褪せない魅力がある。 . 3枚目:淡いブルーのガラス鉢『ゆれる器』 ガラス鉢なのに底が丸い不安定さ、そして流動体としての水の不確かさが器としてデザインされている。泣きそうだ。 https://www.instagram.com/p/CNOq1LLHNKE/?igshid=gfebxldys094
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福岡県立美術館『生きることからー柏崎栄助とデザイン』 . . 工芸や民藝について、じっくりたっぷり鑑賞した初めての展覧会だった。 新しく見るもの知ること感じることが多く、今まで見てきた展覧会の中では、それほど展示数は多くなかったのに対し、感じること胸を打つことドキドキすることがいっぱいで、家に帰っても熱に冒されたようにぼーっとしてしまった。 . 漆塗の品には赤や黒だけでなく、きいろやみどり、むらさき��で沢山の品があることも初めて知ったし、今は跡形も無い福ビルにはむかし、まだ日本が元気だったころ、NICという総合インテリアショップがあったことも初めて知った。(ちなみにNは西日本鉄道、Iは岩田屋、Cはカンパニーの略である。分かりやすくて好きだ) . . 彼のデザインは基本的にシンプルだ。洗練されている、と言った方が正しいかもしれない。 たまに、どうしてここまで削ぎ落とせるのだろうと感じるものに出会う。わたしはどうしても、あらゆるものに対して色々と付け加えてしまう。文章がつい長くなるのもそのせいだろう。自戒。 だから、詩や歌を作れる人のことを心からすごいと思う。伝えたいことを相手にきちんと伝えることのために表現を極限まで削ぎ落とすことのできる人。それが工芸や生活雑貨のデザインにおいては機能を果たし得るための極限を掴み取ることなのだろうか。 . . . 「すべての創造活動は、生きるという基本から始まる。」 「私はデザイナーという技術家としての突込みに走っているが、人間が生きることからデザイナーの仕事は始まるのだ。」
『沖縄日記 柏崎栄助遺稿集』(1989年) . . ただ、私はまだ民藝や工芸について全然知識がないので詳しい友達に色々と教えてもらおうと思っている。もっと知りたい、作品だけではなくて、彼自身のことについても。 #福岡県立美術館#柏崎栄助#紅房 https://www.instagram.com/p/CNOopqvnv52/?igshid=h3qgttwvoqml
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#北九州市立美術館 何かがを見たとき、それがトリガーになって昔の記憶やその時の感情を思い出すことはよくあること。 小さい頃によく父が外国の映画をよくレンタルして家で観ていた。 エイリアンとかモンスターとかと戦うものが多く、その影響からか巨大な蜘蛛が街を襲う夢を見たことがある。夢の中では、私は今は亡き祖父に抱えられて必死に逃げていたな。なぜか舞台はアメリカっぽい外国だったけど。 https://www.instagram.com/p/CNOkIBXHXHr/?igshid=x5p0063fczgv
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