Group exhibition "Hanazono" by Fumio Kajitani & Ayaka Endo
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はな【花/華】 1 種子植物の有性生殖を行う器官。葉から変形した萼 (がく) ・花びら・雄しべ・雌しべおよび花軸からなる。この要素の有無により完全花と不完全花に、雄しべ・雌しべの有無により両性花と単性花に分けられる。受精して実を結び、種子を生じる。 2 花をもつ植物。また、美の代表としてこれをいう語。 3 桜の花。すべての花を代表する意で、平安時代後期に定着した言い方。 4 花をもつ植物のうち、神仏に供えるもの。枝葉だけの場合もある。 5 生け花。また、華道。 6 花が咲くこと。また、その時期。多く、桜についていう。 7 花の特徴になぞらえていう語。華やかできらびやかなもの。中でも特に代表的で華やかなもの。誉れ。最もよい時期。また、盛んな事柄や、その時節。実質を伴わず、体裁ばかりよいこと。また、そのもの。 8 世阿弥の能楽論で、演技・演奏が観客の感動を呼び起こす状態。また、その魅力。 9 和歌・連歌・俳諧で、表現技巧や詞の華麗さ。内容の意の実 (じつ) に対していう。 引用 : https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%AF%E3%81%AA/
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私たちの生活には花がある。 花は死生観、豊かさ、感性など、様々な点で私たちに影響を与えてくれる。人々は花を見て美しいと思い、昔から愛してきた。ことあるごとに花を贈り合い、部屋に飾り、花柄を身に纏い、そして死者には花を添えて送り出す。人々は何故、生きる為に必要の無い花をこれほどまで長く愛し、花に希望と祈りを託してきたのだろう。考えだすと疑問は絶えないが、人々は生活に花を欠かさない。それはこれからも変わることはないだろう。
2020年1月。神奈川県の海沿いに住む山本さんとは数年前に友人の紹介で知り合い、新しく住む古民家をリフォームする際に、ここで展示をしてみないかというお誘いを頂いた。
新型コロナウイルスの広がりによってこの話は一度中止になりかけたが、4月中旬、山本さんとテレビ電話をした際に見せてもらった庭の植物たちと歴史ある家の雰囲気に強く魅かれ、何とか展示できないかと検討した結果、無人の山本宅で非公開の展示を行うこと��なった。
今回の展示の「花園」というテーマは、梶谷文雄と遠藤文香の作品、山本さんの所有する庭それぞれが持つ、花の世界を表している。花に対するそれぞれの関わり方や解釈の違いを、この一つの敷地を通して表現した。
東京から車で二時間ほど走らせると大きな岩のある海岸が見えた。神奈川県真鶴市。海と山に囲まれた漁業の町だ。港には船が何艘か泊まっていて、海の近くには小洒落たピザ屋もあったりした。
坂を登っていくと、特徴的な和洋折衷の家が見える。今回の展示場所となる山本夫妻がこれから住む古民家だ。町で2番目に古いらしいこの家には大きな庭があり、二階の窓からは庭の全容が見える。そこには台風で倒れたみかんの木が立派に花を咲かせ、ふきたちが地面の全てを覆うように自生していた。
縁側から広がるまだ手入れされきっていないその庭には、長い間その土地で根付いてきた植物たちが静かに、そして生命力豊かに生い茂っている。高い木は5mほどあり、ヤシ科の植物から極楽鳥花、見たとのない不思議な植物まであらゆる植物が植えられていた。山本さんが新たに野菜を育てる小さな畑もできかけていた。この庭は山本夫妻の「花園」そのものだ。
庭から���の中に入ると、ガラス窓に囲まれたサンルームがあり、さらに奥には洋風の部屋がある。ここには梶谷文雄の植物群を展示した。窓や網戸に作品を飾ることで庭の植物たちと重なり、連動する。多くの花は持ち帰られた家で短い一生を過ごし、そこで死を迎える。同じ空間で関わりながらも、私たち人間が捉えきれない花の生命の時間を布に縫った作品だ。
さらに奥に進むと、障子から柔らかい光が差し込み、少し重たい印象をうける八畳間の和室がある。ここには遠藤文香の作品を展示した。大小さまざまな布に印刷された花の写真たちは、ホツレや皺などの歪みが強調され、派手に空間を支配している。古くから女性らしさの象徴として捉えられてきた花という記号を歪ませることで、価値観の変容や揺らぎを表現した作品だ。個性豊かな花たちに、無意識に女性性を投影している自分に気付かされる。
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ここで梶谷文雄と遠藤文香のそれぞれが、「花」について思うことや抱くイメージについて少し話したいと思う。
「花」または「植物」について / 梶谷文雄
私は花について、というか植物のことを弱い人間が求める存在だと思っている。ここで言う弱いとは別に心を病んでいるとか社会的立場が低いとかの話ではなく、自分自身が完全体でない、自分の力だけで生きることはできないことを自覚した人(もしくは最初から理解している人)のことを差す。そういう人が植物を愛しているんじゃないかなと思う。みんな無自覚で植物とは関わっていて、なんだったら呼吸できるのも植物のおかげな訳だから、当たり前に植物が必要なことはほとんどの人が分かっているんだけど、その中でも私って何でもできる!最強!と思えた若い頃の無敵の時期を終えた人が、植物を通じて「共生」とか「この世の壮大さ」みたいな感覚を得ているんじゃないかなと思う。その感覚をわかりやすく身近に表しているのが植物のような気がする。
私の存在がちっぽけというか、例えば死ぬこととかこの世では抗えないことがたくさんあるんだなと自覚するようになってきて、そんなとき植物がそんなの当たり前じゃないですか?と呆れ顔で言ってくれているような気がして安心する。全てを受け入れている達観の先輩みたい。もし植物が死を恐れていたり、人間みたいに争っていたらそれはそれで親近感が湧いて一緒に怖いよねって話もしたい。芍薬を買ったとき薄ピンクの花で期待した色じゃなかったからブスって何度か呼んだ。そしたら5割くらい開花した後、蕾のままボトッと落ちて私の発言によって死を選んだんじゃないかと怖くなった。それくらい人間を見ていて、感じ取っている。けれど私から植物の気持ちを感じ取れる���とは、ほとんどなく、元気とか萎れちゃっているくらいしかわからない。でもその少ない情報の会話だからこそ私は植物に恐ろしさも含んだ神秘性を感じ取っているのだなと思う。
親密な「花」 について / 遠藤 文香
私にとって花は、美しさの象徴であり、そして同時に親密さや共感を感じさせる不思議な存在だ。花の中でも、特に人間の手によって飾られる花に特別な感情移入を起こすような気がする。(前提として花は植物の仲間だが、私の中で花と花以外の植物ははっきりと区別されている。)
私が初めて猛烈に花の魔力、というか魅力に打たれたのは高校生の時、神保町のとある古本屋で荒木経惟の「花曲」という写真集を見た時だ。(私が一番好きな写真集なので、見かけた際は是非一度手にとってみてほしい。) その時のことは今でもはっきりと覚えている。エロティックで官能的に接写された花々があまりに衝撃的で言葉にならず、ただただ、花って・・やばすぎる・・・とその場に立ち尽くしてしまった。なんて妖艶で甘美。性器をおもむろに突き出してと言ってはアレだが、文字通りそのままだ。私たちが衣服の下に隠している性器を、花は潔く恥ずかしげもなく天へと突き出している。それからというもの私は誘惑されるがままに花を、愚かにも性的な目で眼差す人間になってしまった。荒木の撮る花を通して、花は徐々に私の中で興味深い存在へとなっていった。
ところでなぜ、私は花に「共感」してしまうのだろうか。花について考えていくうちに、ある時今までなんとなく感じていた「親密さ」や��共感」の正体が、花に対して無意識のうちに「女性性」というものを投影しているからだ、ということになんとなく気がついた。もともと「花」という言葉は「大和撫子」に代表されるように、昔から美しい女性の比喩として使われてきたことは周知の事実だが、でも果たして私が花に感じる「親密さ」は、そんなステレオタイプな古い刷り込みによるものなのだろうか・・・?力強く暴力的なまでに美しさを放っているかと思えば、時に哀しさや寂しさを漂わせ、怪しげな色気まで醸し出す。時にかなりグロテスクでエロティックに見える様は、先程も触れたように私を虜にする大きな理由の一つだろう。気まぐれに変化する花は、そのまま自分の気分を投影しているみたいだ。そして誰に媚びるわけでもなく、笑顔を振りまくわけでもなく、凛としてそっと佇む姿は他者に何も求めていないように見える。が、自然界でも圧倒的に目を引く派手な色彩、造形、香りからは「私を見て!」と言わんばかりの自己主張を感じたりもする。そしてそれは、女性たちが化粧をしたり鮮やかなドレスで着飾ることに似ている気がしなくもない。花は、受粉のためにミツバチや鳥に見つけてもらわないと困る、だからこそ目立たないといけないわけだが(花によって異なるが、目立つ花は大体昆虫や鳥を必要としている)、着飾る女もまた誰か、他者に見つけてもらわないと生きてはいけない存在なのだろうか。自分で言っておきながら反論したくなるが、それを置いといてもどうしても生物的な面(ジェンダーではなくセックス)において、女性は主体ではなく客体であることは確かだ。他者に客体にされるという花と女の共通点が、私の中で無意識のうちに「共感」や「親密さ」へと繋がっていたのかもしれない。私はきっと、自分や、世の女性たちの女性性、その記号に抱く好意や嫌悪を、そのまま花に投影していたのだと思う。そのことから考えれば、花はどうしようもなく愛おしい反面、実は目を背けたくなるような存在でもあり、花はそうゆうありとあらゆる相反するものが同時に共存できる豊かさで満ちているのだと思う。その豊かさこそが、私を惹きつけて止まない花の魅力の一つである。
展示を通して
上の文章でもそれぞれの視点の違いについて話したが、やっぱり全くと言っていいくらい捉え方が違い、お互いに感心し、そして少し嫉妬し合った。梶谷は俯瞰して見るように自分と花との距離を意識している。それは植物に対してそこに”いる”という感覚を持っていて、花も同じように人間をなんか”いる”な、と捉えているのではないだろうか。一方で遠藤は、植物という大きな括りからさらに一歩踏み込み、一点を集中的に見るようにしてその花の魅力を見つける姿勢を持っている。花を対象にするとき、見る/見られるというような自分と花個人の関係を重視している。そうゆうそれぞれの花に対する態度は、花だけに対するものではなく普段の人間関係など、あらゆるものを見る目線ともかなり共通していると思った。
それから私たち人間は当たり前に野菜などの植物からエネルギーをもらって生きているが、改めて山本さんが庭で採れたみかんを絞りジュースにしたり発酵させたコンブ茶を飲んだりしているのを見て、面食らってしまった。というのは、私たちは家に花を飾ったり植物を置いてそれを見ることで普段エネルギーを得ているが、山本さんご夫婦は見ることに加え、自分たちの手でのびのび育てた植物たちを日々食べることでもエネルギーを得ていたからだ。スーパで売られている野菜たちも同じ植物だが、自分たちで育ててもなければ、育った場所も知らない。パッケージされたそれらに対して植物、という意識はどうしても薄れてしまいがちだ。みかんジュースやコンブ茶を飲ませてもらったとき、食を通して植物からエネルギーをもらっているという事実を改めて実感した。
私たちがよく愛でている観葉植物や、道に植えられた植物たちは、あるべき場所にあったものを自分たちの空間に持ってきて育てるという、支配関係みたいなものが存在している。森や山などの植物たちが自生する場所においては、逆に人間が彼らの場所に居させて頂く、というような感覚になる。普段あまり触れることがなかった山本家の大きな庭を体験してみて、庭はその二つの行為の中間点というバランスのいい感じがした。庭は、人間と植物が1番いい距離感で共生していける可能性に満ちた場所だった。
この場所で展示させてもらったことは、私たち人間と花や植物たちとの関係性や、共生というものについて考えていくいいきっかけを与えてくれた。そして、花に対する個人的な捉え方の違い、「花」という存在についても、考え続けていきたいと思わせてくれた。私たちだけではなく���他の人たちが感じている「花」についての話も聞きたいと思ったので、機会があれば是非私たちに聞かせて貰えると嬉しいです。
最後に。展示場所の提供をしてくださった山本ご夫妻に心より感謝申し上げます。
最後まで読んでくださった方も、どうもありがとうございました。
2020.8.31. 遠藤文香 梶谷文雄
●写真撮影 : 遠藤文香
● 作品の一部を以下のサイトで販売しています。(展示作品の詳細、アップ写真が見られます。)
https://fumio.theshop.jp/
●プロフィール Artist Profile
< 梶谷文雄 / Fumio Kajitani >
1993年生まれ。東京藝術大学美術学部デザイン科 卒業。
Instagram : @ffffumio / Mail : [email protected]
< 遠藤文香 / Ayaka Endo >
1994年生まれ。東京藝術大学美術学部デザイン科 在籍。
Instagram : @e__n__d__ / Mail : [email protected]
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