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米軍基地「引き取り」論に対する違和感
先日、「引き取り」論に関するメモを書いたが、今日も引き続き、高橋哲哉『沖縄の米軍基地−「県外移設」を考える』集英社新書、2015年を読んでいる。
なんとなくあった違和感が何なのか、少しずつ見えてきた気がする。
本文の中で、知念ウシ氏の議論がたびたび���介される。高橋哲哉氏の本の中に引用されている、知念ウシ氏の本から共感できるところを僕もここで紹介したい。
「私たちはいつまで、抗議を続ければいいんですか。沖縄人は基地に反対するために生まれてきたわけではありません。」
知念ウシ『シランフーナー(知らんふり)の暴力: 知念ウシ政治発言集』未来社、2013年、223頁。
この意見にはすごく共感する。別に沖縄の人たちは、好きで沖縄に生まれてきたわけでもなければ、好きで米軍反対の運動をしているわけでもない。自分達の生活を脅かす存在に対して、仕方なく向き合っている(向き合わざるを得ない)状況においやられていて、それは本土の人たちの「無関心」である、という気持ちはすごくよくわかる。
知念ウシ氏はこのようにも書いている。
「(本土の人間=ヤマトゥンチュが)沖縄の運動に入ってきて、頼んでもいない「助言」を始めたり、いつのまにかリーダーシップとろうとしてたり、そうして、普通のウチナーンチュ(沖縄の人たち)は 「ヤマトゥンチュがいるところはちょっと居心地悪い」 と退いていく。
知念ウシ『シランフーナー(知らんふり)の暴力: 知念ウシ政治発言集』未来社、2013年、26〜27頁。
僕も、高江の運動に関わる中で、実際に本土の人間が沖縄の人たちの反基地運動に「連帯」するといいながら、沖縄の人たちからドン引きされていき、最終的には自分自身(本土の人間自身)もまわりとの「距離感」(体温、かな)を感じて去って行く、こんな姿を幾度となくみてきたし、平和研究の研究者の中にも、メディアから「識者」と祭り上げられて、それこそ「頼まれてもいないのに」こうあるべきだ、などと偉そぶった意見を述べる姿もみてきた。「違うだろ、それは」と思った。
だから、本土の人間の「無関心」を批判したい気持ちはよくわかる。だからといって、それがなぜ、
「反戦平和運動が今日でもそうした目標を掲げ続けることで、沖縄からの県外移設要求に向き合うことができずにいる」
高橋哲哉『沖縄の米軍基地−「県外移設」を考える』集英社新書、2015年、98〜99頁
と、県外移設要求と結びつけて考える必要があるという主張になるかがよくわからないのである。じゃあ、いまや、「敵基地攻撃能力」までほしいというレベルにまで達した自衛隊の基地ならいいの? これまた、今日読んでいた、防衛大学校教授の武田康裕『日米同盟のコスト−自主防衛と自律の追求』亜紀書房、2019年のなかには、「在日米軍の沖縄集中��単に軽減するのであれば、米軍施設・区域の返還または自衛隊と米軍の共同使用が考えられる」、「現行の安全保障水準を維持することを絶対条件とするならば、抑止力を損なうような返還や県外・国外への移設は現実的選択肢にはなりえない」(224頁)とまで書かれているのに?
もういまや、「基地問題」というよりは、日本の「安全保障問題」は、沖縄だけの問題ではない。本土でも、山間地では米戦闘機の「低空飛行訓練」ルートが設定され、オスプレイも沖縄のだけで飛んでいるわけではない。まして、自衛隊もオスプレイを持とうとしている今、本土も沖縄と同じように「安全保障問題」を抱えているのだ。
(つづく・・・たぶん)
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「新しい提案」
「引き取り」論につづいて、「新しい提案」。これである。
新しい提案実行委員会編『沖縄発 新しい提案:辺野古新基地を止める民主主義の実践』ボーダーインク、2018年。
「新しい提案」は、Twitterもしている。こちら。
「引き取り」論が、本土からの申し出であるとすれば、「新しい提案」は沖縄からの「提案」。(読む順序が逆だったかもしれないが)いずれも、本土の人たちの(意識的/無意識的)植民者主義の告発、「構造的差別」を生み出しているという認識。このこと自体には共感する。
「新しい提案」には、「沖縄に要らないものは本土にも要らない」という主義主張を封印しろと言うことではない、という配慮も見られる。でも、やはり、僕自身が納得できないのは、
「なぜ辺野古の問題にはこれほどまでにこだわるのに、南西諸島への自衛隊配備の問題には言及しないのか」である。
この理���には、ひょっとしたら、普天間飛行場の全面返還のためには「代替」施設が必要(事実上は「新基地」とも呼べるぐらいの機能拡張ではあるが)というところに議論の発端があるのではないか。
たしかに、1996年から97年当時はそうだったかもしれない。しかし、今、米軍は、「辺野古の施設は滑走路が短い。普天間飛行場と同等の施設というならば、爆撃機が離発着できるように、那覇空港、そして本土の、築城基地(福岡)、新田原基地(宮崎)(いずれも航空自衛隊基地)の滑走路を使わせろ、という要求もしており、日本全土を米軍の思うがままに(中曽根総理の時代に出た、まさに「不沈空母」のように)使わせろ、というのが米軍のスタンス。辺野古も那覇空港も、本土も、である。そのために、自衛隊の新基地建設は、米軍も使えるのでうれしい、が本音であろう。仮に本土に辺野古を引き取ったりしたからといって、米軍はそれでは納得しない。
「新しい提案」の主眼点は、むしろ、「当事者意識」をもった「国民的議論」をしろ、であり、今まで、日本の安全保障という、国全体が考えるべきことを沖縄の人たちに背負わせすぎた、という反省はしないといけない。この点で、「新しい提案」の提案には納得する。だけど、今や、アメリカは中国とさまざまな分野で覇権争いをしており、米中の覇権争いのなかに、日本は(自覚しているかはともかく)組み込まれている。少なくとも、米中双方に対して、等方位外交を展開するなり、しなければならないだろう。
(僕の、オルタナティブな防衛構想については、つづく。今、構想中(大分固まってきた)。)
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米軍基地「引き取り」論
先日の講義にゲストスピーカーをお呼びして、その方と帰りのバスで話をしていて、ちょっとだけ話題に上った米軍基地の「(本土)引き取り論」
最近、引き取り論に関する本もでたので、平和運動の界隈でも再び脚光を浴びている(のかな?)
琉球新報の記事はこちら。
今年出たばかりの本(パンフレットを分厚くした、感じかな)にも論考を載せておられ、この運動に取り組んでいる、東京大学教授の高橋哲哉先生の本をいまさらながらに読み始める(『沖縄の米軍基地−「県外移設」を考える』集英社新書)。
沖縄に「連帯」します、という人たちでさえ、本土に持ち帰って��しいという議論には消極的になる、といった議論も紹介しながら、沖縄の「基地問題」を自分のことのように感じるためには、「引き取り」論しかないし、かつて(1990年代に辺野古の問題が議論に上った当初)なら、沖縄の人たちも、「自分たちの苦い体験を本土の人たちに押しつけたくない」と思っていたのだろうが、政権交代がおきて、民主党政権になった鳩山由紀夫首相でさえ、官僚たちに阻まれて、県外移設をあきらめたのをみて、また、日米安保体制そのものに対する支持率から見て、安保体制の「恩恵」を受け取っているのであれば、本土も平等に負担してほしい、と主張するようになった、という。
ぼくもこうした考え方には納得できるものの、それでも米軍基地「引き取り」論ではなく、軍事基地の撤去を追い求めていくべきだと思っている。
理由はいくつかあるが、一番大きな問題は、「米軍」はだめでも、じゃあ、「自衛隊」基地ならいいのか、という問題がある。これは、南西諸島への自衛隊配備の問題をどのように考えるのか、という問題にも結びつくと思う。
かつてであれば、日本の防衛のため、専守防衛を掲げる自衛隊ならば、あるいは、災害救助のための自衛隊ならば、という理屈も通用しただろう。だが、第2次安倍政権になり、日本の安全と結びつくならば、と限定的ではあれ、集団的自衛権が行使できるようになったことは、単に、日本の自衛を「越える」領域に踏み出すことになったわけで、そもそもの軍事の役割を考え直さなければいけない段階になった。
日米一体化が進む中で、これまでの米軍の果たす役割、とりわけ、日本防衛を「越える」アジア太平洋地域、さらには中東地域にまで、あるいはグローバルな展開が行える米軍と「ともに」戦う自衛隊基地は、米軍も自衛隊基地を使えるようになっている。(逆もしかり。自衛隊も米軍基地を使えるようになっている。)そもそも紛争の解決手段として軍事力は使わないという現行憲法の原点に立ち返る必要があるのではないか。(逆にいえば、現行憲法を変えさせないことが求められているのではないか)。
ただいま、原稿執筆中。。。
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2019年4月20日 鹿児島での講演記録
講演テーマ:「自衛隊南西諸島配備と馬毛島」
主催:「憲法壊すな・戦争法廃止!かごしまの会」
<講演要旨>
1)政府(国家権力)は、いざとなれば超法規的な行動にでる 例)高江の強行工事(2016年7月22日)、機動隊自らが道路交通法に違反し、それを防衛大臣が認めた 2)政権交代をしたからといって、政府の防衛政策が変わるわけではない 例1)高江のSLAPP裁判は、民主党政権になっても継続された。 例2)民主党政権下で出された「動的防衛力」。 例3)与那国の陸自配備にむけて(町の自衛隊誘致の要望を受けて)視察を行った北澤防衛大臣 3)日米安保体制そのものを批判しない限り、南西諸島の陸自配備を射程に入れた平和運動は成立しない 例)「オール沖縄」のもとで無視された、宮古島、石垣の陸自配備、デニー県知事の態度、県紙(琉球新報・沖縄タイムス)の報道姿勢 4)奄美大島、与那国の陸自には公然と「情報保全隊」が配備されているように、政府の国民監視はすでにはじまっている *宮古島にも配備されているのでは?という観測 *特定機密保護法にもとづく、自衛官の機密情報保全が目的だが、実際は、島民の反基地運動の監視を行っている (イベント会場に私服で現れる自衛官がいるという証言)
<取材を通してお話ししたこと> (毎日新聞、南日本新聞の取材) 1)安倍首相の「積極的平和主義」(国際協調主義にもとづく、自衛隊の海外派遣)が、実際は、自衛官の不足などから、ナショナリズムを駆り立てないと成立しないという矛盾(「美しい日本」をなぜうたわないといけないのか) 2)災害復興は民生部門の仕事であり、海外の災害救助も軍事部門である自衛隊が行く必要はどこにあるのか? (自衛隊の「民生部門」の役割の特化を追求することによって、相対的に軍事力の占める割合をいかに減らしていくのかが課題) 3)日本の安全保障を高めていくためには? *周辺諸国との信頼醸成に励むべき。軍事力は決して紛争解決の手段にはなりえない
<参加者からの質問(メールでのやりとり)>
1)アメリカの「エアシー・バトル構想」と南西諸島シフトとの関連 ご存じの通り、中国は今、東シナ海、南シナ海において、自国(中国)に優位となる行動をとっており(尖閣諸島や南沙諸島における人口島建設など)、その動きをアメリカは阻止しようとしています。「航行の自由」作戦など��その例です。 アメリカは、米軍を、中国からの攻撃をかわすために後方に退かせる一方で、自衛隊を前方に展開させる2段構えをとろうとしており、南西諸島はまさに、アメリカの「盾」になる役割を果たすことがアメリカによって期待されています。このため、当然、南西諸島の自衛隊は中国の攻撃対象となることをアメリカによって仕組まれているわけです。宮古島や石垣島にミサイルを配備するのはそれに対する「備え」でもあり、敵基地攻撃能力を有することによって、場合によってはこちら側から(日本側から)攻撃をしかけることも当然考えられます。 奄美大島にも同じようにミサイルが配備されており、馬毛島は、その兵器を集積する場所として位置づけられるわけです。米軍の訓練場所としても、また、自衛隊のミサイルなどに装填する弾薬などを格納しておく場所としても重要視されていると言うことになります。
エアシーバトル構想については、アーロン・フリードバーグ『アメリカの対中軍事戦略−エアシー・バトルの先にあるもの』芙蓉書房出版、2016年が便利だと思います 2)RMAとは何ですか? RMAは、「軍事における革命(Revolution in Military affairs)」です。 湾岸戦争のとき、デジタル情報革命とともに、米側は赤外線暗視装置を使って夜にイラクを攻撃したり、コンピュータ制御でミサイルをとばしたりして、かつての戦争(ベトナム戦争のように、大量に米兵が死んだという時代の戦争)とは異なり、いかに米兵を危険にさらすことなく戦争を行えるか、ということが追求されました。 そして、今、第4の革命(第1が第1次世界大戦や第2次世界大戦のように大量破壊兵器が使われた時代、第2がベトナム戦争、第3が湾岸戦争)がおきているのでは?ということです。情報技術が1990頃と比べてさらに第1歩上を行くようになったという意味です。 具体的には、昨年末に防衛計画の大綱に書かれたように、海洋、サイバー、宇宙という新たな戦争の時代を迎え、陸上、海上、航空といった区別をすることなく、統合された軍事力が必要だという時代に入ったと言うことです。
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それよりも、ついに2回目がでましたね。最後にショパンの「別れの曲」。自民党政治ともおさらばしたいという意味だな。
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夏休み。
採点は今からだけれども、とりあえず、夏休み。(今頃かよ、と思うかもしれないが、大学は、追試の採点とかが金曜日まであったので、ようやくなのである。)
今年は、敗戦70年なのに、長崎市の平和宣言でも、
「現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるの ではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。」
という、自治体だから控えめな表現ではあるけれども、今の安保法制の議論を懸念する声を平和宣言でうたわなければならないという、とんでもない年である。
個別的自衛権の行使のためにどうするか、の議論ならともかく、集団的自衛権という、冷戦時代の産物を今更ながらのように言う、しかも、安全保障環境の変化というなら、よほど、冷戦時代の方が核戦争につながるリスクも高かったのに、アメリカ単独で、世界の軍事支出の約半分(以上かな、今、正確な数字がないけど)のシェアを誇る国家の自衛を日本が担うという、とんでもない法案で紛糾している。
国際社会の貢献というけれども、それなら、1980年代、日本が高度経済成長を遂げて、十分な経済大国になったときから、アメリカの要請を受けて、「思いやり予算」などの予算を割いてきたではないか。おまけに、軍事基地まで提供して。
日本に攻めてきたからといって、攻めてくる国は、応戦されて失う損失��上回る利得があるから攻めてくるんだけれども、資源もない島国に攻めてくる国はあるのか。もちろん、尖閣諸島のように、海底に眠る資源を確保したいとか、漁業資源が、とか言われればそうかもしれない。だが、ゼロサムゲームで安全保障を考える限り、解決策はない。
それよりも、現実的に国家だけでなく、テロ集団に攻撃されるとすれば、米軍基地ぐらいなもんだろうに。米軍と同盟関係を結んだことにより、原発などが狙われるかもしれない(原発を狙ったら、国際法違反なんだけれども、戦争するときにはそんなことは関係ない)。原発を再稼働させるリスクの方が、(軍事的に見れば)よほど高い。
だが、今の安倍政権の手法は強引すぎて、憲法改正の道のりはおそらく遠のいたとみてよいだろう。高校生までが声をあげるなんて、しかも、デモを繰り出して、自発的に(集団ではなく)というのは、来年の選挙が楽しみになったりする。問題は、今、目覚めた人たちが、結局は、入れるところがなくて、あきらめてしまうことだろう。今のうちに、政策論争もきちんとしておいた方がいい。1つの意見にまとめるなんて全体主義的なことはやめて、一人一人の声が反映されるしくみをつくること、かな。そのためには、小選挙区制もそのうちに見直した方がいい。漁夫の利で自民党が約3割ほどの得票数で勝ったのが、僕の地元の選挙区。で、「おかしい」と声を上げたら、「自己中」と批判する。自分の方がよっぽど自己中だというのも、元・滋賀県知事の発言をみて確信した。
ここまで、今の政権を倒そうと声をあげるのも、珍しいんじゃないかな、少なくとも、冷戦構造の崩壊後、はじめてかもしれない。でも、世界でも同じように声をあげる国・地域はでてきた。日本も、政権のいう「戦後レジーム」ではなく、冷戦時代からつづく、一党優位体制からリセットをはかった方がいい。
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久しぶりに何か書くか。
試験監督も残り2日(5コマ)。試験の答案はすべてに目は通していないが、今学期取り扱ったテーマは、沖縄(「新基地建設」、自治体外交)、安保法制。あとは、必要に応じて、NGOの話ししたり、南北問題の話ししたり。でも、あまり重点を置くことができなかった。
先日の、「朝まで生テレビ」で、私も属している、集団的自衛権問題研究会代表の川崎哲さんが、保守的論���に徹底攻撃され、それに対する十分な反論もできなかったことから、それに対する反論を、ご自身のブログで書かれているので、ぜひ、そちらも見ていただいて、今日は、同じく、集団的自衛権問題研究会のニュースレターに、参議院での議論の様子が載っているので、それにあわせていくつかの論点を。。。
1)立憲主義に関して
「野党は「戦争法案」「徴兵制につながる」などと情緒的な議論に終始した。これこそが国民に理解が広がらない原因だ。」と自民党議員が主張したらしいが、そもそも、憲法学者がそろって「違憲だ」と言っているのにもかかわらず、それを押し通そうとする手続きの方がよほど問題だと思う。改憲論者の憲法学者までが「違憲だ」というということは、やはり、法学者としての見識なのだろう。それを、「日米同盟の抑止力」という言葉に置き換えて、手続き的な議論を抜きにしてしまったら、それこそ、権力の濫用を未然に防ぐことに、ヨーロッパ近代の歴史は費やされてきたわけで、何百年かかって培われてきた考え方を根底から否定してしまう。それは、果たして、「国際社会」が望んでいることなのか。
2)「抑止力」について
「邦人輸送中の米艦が武力攻撃を受ける明白な危険がある場合は、総合的に判断して存立危機事態を認定する。米艦への攻撃は「存立危機武力攻撃」に該当し得る。存立危機事態は武力攻撃事態にも該当する場合がある。具体的には状況に即して客観的合理的に判断する」
安倍首相の発言要旨である。沖縄戦の例をみれば、沖縄の本土決戦に備えて、対馬丸はアメリカの潜水艦によって沈没した。そもそも、日本人を「守り」たければ、外交努力によって行うべきであり、本当に「邦人輸送」が必要な段階まで、日本人を海外においておくことの方が問題。まして、他国の軍艦に守られなければならない状態まで、日本政府は海外にいる日本人を放置しておく気か?
また、「抑止力」は、相手側が、こちら側の意図を正しく認識していなければ効力を発揮しないものであって、テロリストのように、敵対する相手に「恐怖」を受け付けることを目的とする集団には通用しない。
3)「集団的自衛権」について
「集団的自衛権」とは、集団安全保障とは違って、仮想敵国を想定した概念。どこの国かを議論しないで成り立つものでもないし、多くの国が賛成していて、「当たり前」のように行使できるというが、そもそもが、冷戦時代の産物である概念に、今さらのようにこだわる理由が知りたい。
もちろん、国家として、あらゆる事態を想定しておくことは大切。だが、自らが「脅威」を周辺諸国に与えてまで、自国の安全保障が成り立つわけではなく、それこそ、「安全保障のジレンマ」に陥る。自国の行動が相手国の不信をつのらせ、相手国の軍拡に正当化理由を与えてしまう。それよりも、今、島嶼防衛の必要性が叫ばれている中、本当に、南西諸島が脅威にさらされているなら、それこそ、住民を避難させる計画を真剣に考えるべきで、自衛隊が海外で生まれる「リスク」とともに、日本が攻撃される「リスク」を自ら高めてしまう政策をとりうるのはいかがなものか。
*****
いずれにせよ、多様な議論が成立しうるだけに、安部内閣に入って、唐突にでてきた法案に「国民の理解」を求めようと思えば、それこそ、人々の意見に耳を傾けるべきで、今、このことの議論をすることの「正統性」を得たければ、国民の「信」を問うたらどうだ。そのときには、野党も対案をださざるを得なくなる。今の段階では、野党は、対案を出す前に、一度、振り出しに戻って廃案を求めるのは、当たり前の気がするのだが。
「愛国心」というなら、アメリカに「守って」もらわなければならない状態から抜け出す覚悟を示したらいいと思うのに。。。「戦後レジーム」って、アメリカを中心とする国際システムのことで、そこから脱却するというならば、それはどのような状態を意味するのかがよくわからない。
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見張る権力、見張られる行動。
政治学の授業では、当然ながら、最初の頃に、権力とは何かを説明する。
そして、パノプティコンの話しをして、選挙に行かないと言うことは、国家権力に進んで、Yesという意思表示を示すことと同じなんだよ、とも、説明する。
オリンピックが開催されると、だいたい、監視カメラの数が3倍に増えると言われている。テロ対策、不審者対策なのだろうが、自分が1日、街中の監視カメラに写らずに生活できるか、考えてみて欲しい。コンビニ、駅、ATMはもちろん、商店街のなかにもあるかもしれない。自分の日常生活が国家権力によって監視されている。もうまもなく、国民総背番号制もはじまり、10月には番号が通知されて、過去の病歴、年金の支払い状況、納税をしたか、などがすべて国家権力によって監視される。中国には移動の自由もないから、新幹線の切符を買うとき、実名販売をするために���国家から渡された身分証明書が必要(外国人はパスポートが必要)だが、日本だって、それに近い状況になりつつある。
昨年の政治学の授業で、超監視社会が訪れる中で、国家権力が人々の行動を監視するようになるんだよ、と説明した上で、コメントカードに自分の考えを自由に書いてもらった。
普通なら、自分の行動が常に誰かに監視される=プライバシーのない状況というのはいやだ、と答えると思っていた。(僕の勝手な意見)
だが、学生の約7割が、犯罪抑止のためであれば、それは仕方がない、と肯定的に権力を捉えていた。びっくり。
ということは、抑止力を肯定するわけね。
ヒエラルキーの権力構造の中でも抑止力を肯定するのであれば、アナーキーな国際関係であれば、当然、抑止力を肯定することになる。他国からの侵略を防ぐためには、自国が強くなければならない。軍事力を増強し、憲法を改正し、いざとなれば、お国のために自らの命も犠牲にする。
でも、なんとなく、今の若者は、それも仕方がないと思っているのかもしれない。中国が攻めてくると、何の根拠もなく信じ込み(もちろん、不審船は尖閣に訪れているが)、米軍基地がなくなれば、今の日本はどうするのか。
この論理を突破できなければ、来年の参院選では、間違いなく、改憲勢力が勝利し、憲法改正に向けて突き進むことになる。
権力に抗うためには、こちらは相当勉強しなければならないが、権力に順応するのなら、何も考える必要はないから、すごく楽。現実主義って、結局は、権力順応主義。今こそ、平和学の真価が問われている。(と思う。)
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軍事要塞の島
もう、すでにそうなりかけてしまっている。そう、島嶼防衛が叫ばれるようになり、自衛隊基地の誘致が行われた与那国島。
僕自身、不勉強で、レーダー基地となろうとしているのは知っていたが、あの、町有地の買収と土地開発の仕方は、半端ない。京都で問題になっているXバンドレーダーとは異なり、360度、365日回転する、全方位レーダー。おそらく、2000人規模になるのではと推測される駐屯地の建設が、もうまもなく行われる。来年4月には運用開始らしいから、それまでに、兵舎が完成し、グラウンドが整備されるだろう。すでに、土地開発が行われているところから、先日の大雨で赤土が流出し、ダイビングスポットは赤土で汚染された。
これは、海に面した絶景スポット。もともとは南牧場。放牧地であった。
3ヶ所で、レーダー、兵舎、本部機能、ケーブルの敷設などが進んでいて、写真を複数枚載せたかったが、tumblrの仕様上、無理みたい。
国際関係論の視点からすれば、国境警備のため、沿岸警備隊をおき、不法入国者の取り締まりをどうするのかが問題になる。当然、石垣島より台湾の方が近い与那国島は、中台危機のときの備えとして、いずれ、米軍が運用を開始することになろう。2007年にケビン・メアが視察に訪れ、2000メートル級の滑走路を備え、すぐ横には港もある。対中戦争のときには、まさに前線基地となる。
辺野古は、米軍の運用上、おそらく、佐世保から強襲揚陸艦が停泊できる施設を兼ね備え、その上には弾薬庫もあり、V字型滑走路の建設が予定されているし、北部訓練場や伊江島と結んで、オスプレイと陸上部隊とが一体となった、海兵隊の訓練基地として、また、中東やインド洋にむけてアメリカが出撃できるための兵站の役割を担わされるであろうが、ここは、まさに、ミサイル防衛の要となるレーダーが置かれ、対中にらみの前線基地となる。おそらく、迎撃ミサイルも配備され、いざとなれば、敵国(テロ集団の場合もあるだろうが)からまっ先に狙われる軍事要塞となるだろう。
しかし、すでに、有事法制の時に、自治体の策定の求められた国民保護法にもとづく国民保護計画を町は策定もしていないし、議論もされていない。おそらく、有事の時には、避難なんてできず、住民は見殺しにされる。石垣島よりも台湾の方が近く、台湾の携帯の電波がそのまま入るのだから、逃げるとなれば、台湾に逃げるしかない。中国と台湾との関係も微妙であるが、おそらく、中台危機のときのアメリカの軍事戦略に与那国がどのように位置づけられるのかが問題となるだろうが、おそらく、公表はされないだろう。特定軍事秘密だから。
住民投票の結果では、僅差で、誘致派が勝利したが、自衛隊基地に反対する議員は、4割5分の住民が反対している以上、また、カネで買収された住民もいることから、町を二分した、五分五分の勝負であったが、これから自衛隊員が移住してきたら、まさに、住民の自治権は奪われ、軍事優先のまちづくりが行われるだろうと危惧している。
台湾との交易をさかんにして、街おこしをしようという計画もあった町が、このような姿に変貌してしまったことに、かなりのショックを受けている。沖縄県のなかでも、本島から300キロもはなれた日本最西端の島。自衛隊の存在の議論の前に、国際情勢に左右される最前線の島となることだけは間違いなく、隣国との緊張関係を煽ることにならないことを祈るばかりである。
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HPの更新。
今までの自分のHP(www.yikeo.com)が、すでに20年近く経過し、その間の技術の進歩もめざましく、HPをスマホやタブレットでみるのに、対応していないことから、急に思いついてWordPressの本を買い込み、新しくHPを立ち上げました。新しいサイトはこちら。http://yaikeo.com
今までのサーバを、有料サービスから無料サービスのものに切り替えたら、独自ドメインが使えなくなったため、以前のHPは残してありますけれども、アドレスが変わりました。
新しく立ち上げたサイトの更新にかまけて、原稿が全然進まないんですけれども。。。
話は変わって、拙著『自治体の平和力』(岩波ブックレット)が、昨年の、都留文科大学の公募制推薦入試の問題になりました。試験の講評はこちら。
3ヶ所、引用されています。どこから引用されたでしょうか。わかりますかね。(検索かければ、入試問題もみることができるでしょうが。)
最近、安保法制の整備(これを、ある議員は「戦争法案」と呼ぶ)が国会内で議論されていますが、話しが早すぎて、私自身も追いついていません。国民的議論にもならないのも問題です。こちらについても、ぼちぼちと書いていこうと思っていますが、なにせ、4月26日から、安倍総理が訪米するときの手土産にされそうなので、なんとかせねば、です。4月には統一地方選もあります。これとも絡ませて、自分たちの生活と直結するんだということをどうやって知ってもらうか。課題は山積です。。。
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この間のいろいろ。
前回の書き込みからかなり経過してしまった。
個人的には、ポリープの手術をしたりしたのだが(良性だったので全く問題ない)、その間に、スウェーデンで開かれた、北欧日本研究学会や、今日の明治学院大学国際平和研究所主催の、領土問題に関する国際シンポジウムで司会をしたりした。今日は、そこで感じたことを書いてみようと思う。
北欧の方では、行く前に辺野古によって、一夜をテントで過ごした。
みんなが集まり出すより前に、機動隊がやってきて、そうこうするうちに、海上保安官等をつんだワゴン車が到着。当然、一悶着ある。その日は、そろそろボーリング調査をするのではないか(結果的に、12日に行われてしまったが)という時期で、現場は緊迫していた。
これは、ちょうど、ワゴン車が来たところを詰め寄る運動家たちと警察官。
県知事はすでに、埋めたての許認可を取り消すとまでいっているのに(防衛省が提出した書類に改竄があったりしたから)、警察や海上保安庁、加えて、内閣府沖縄総合事務局まで駆り出して、市民を排除しようとする。そこまでして、「何を」守ろうというのだろうか。
こうした状況を報告したのだが、北欧に研究会だったが、ドイツ、ポーランド、スロベニアの研究者から有益なコメントをもらった。海外の研究者たちの方が、沖縄の状況は詳しい。もちろん、ここまで詳細なことはわからないにしても、すでに少女暴行事件から20年も経っているから、沖縄をめぐる、沖縄と「本土」、政府と市民の対立の構図はよくわかっている。そのうえで、noteに書いたが、運動家の視点に偏りすぎているのではないか、中立的、分析的な議論にできないのか、というコメントだった。ここが、自分の悩んでいるところでもあり、痛いところを突かれた感じだった。
翻って、今日の領土問題をめぐるシンポ。最後のセッションで司会だった。
冷戦時代ではあり得ない組み合わせだが、アメリカン大学で教鞭を執られている中国人の研究者と、ロシアから来られた研究者。いずれも国際関係論の研究者だったので、領土問題には、複雑に「歴史問題」が絡むのだが、そこはあえて次回(あるのかな?)にまわして、安全保障の問題を議論しましょう、と司会の権限で議論を限定した。でないと、議論が拡散してしまうから。
そのうえで、お二方の報告に対して、私からの質問は、
1)中国の台頭を国際関係論で議論するときに、「覇権交代論(Power Transition Theory)」を持ち出すことが多い。これは、1960年代にすでに議論されていたもので、覇権国に挑戦する国が覇権国を追い抜こうとするときに、戦争の可能性が高まるという議論である。実際、今、中国を中心として、上海協力機構(SCO)が生まれ、ユーラシア大陸のほとんどの国がこれに参加している。インドとパキスタンも今年、正式加盟を表明している。こうしたなかで、アジアのプレゼンスを高めようとするアメリカはどうみているのか。アメリカで教鞭をとられているから、アメリカの事情にも詳しく、かつ、中国の視点からどうみえるのかを答えて欲しい。
2)ロシアの研究者には、冷戦構造崩壊後、ソ連が解体され、ロシアは、単なる地域大国になってしまった。しかし、今、ふたたび、ロシアはグローバル大国になろうとしている。旧ソ連の国々との間に多くの領土問題を抱えている。このようななかで、米中の覇権争いをどのように見るのか。
回答は、中国は、たしかにGDPの上ではアメリカを追い抜いたかもしれない。しかし、1人あたりに直せば、まだまだ発展途上にあり、中国は、アメリカと覇権争いをしようと思っているわけではない。すでにアメリカからは10万人の留学生を中国に派遣しようとしていたり、相互依存関係は緊密で、戦争は得策ではない。
ロシアの研究者からは、上海協力機構は、あくまでも経済協力に重点があるのであり、アメリカに対抗する意思をもつものではない。また、北方領土の問題よりも、旧ソ連の国々との領土問題の方が深刻であり、北方領土の問題に関しては、それらのうちの1つの問題に過ぎず、実際に、日本が北方領土で経済開発をすれば、さらに産業化は進むかもしれないが、すでに人も住んでおり、工業もさかんである。解決策は、共同開発の道を探ることである、とのことだ。
個人的に感じたことは、日本人は、あくまでも自分を中心にして、係争地との関係を感情的に考える。しかし、中国もロシアも(そしてアメリカも)地理的に見ればかなりの面積をほこる「大国」である。だから、日本がむきになったとしても、それを受け止める側は、「そうですか」ぐらいなもんだ、ということである。
安全保障の問題は、たぶんに、相手の意図とは関係なく、こちら側が相手をどのように「認識」し、「脅威」と感じているかが重要な鍵をにぎる。そのため、日本政府が、「脅威」を煽り立て、ナショナリズムを駆り立てれば、当然、相手側もそれに反応する。このような悪循環に陥らないためには、理性をもって、思考することの重要性である。研究者だけでなく、良識ある人たちも巻き込んで、いかに議論を深めていくかが課題だと思わされた。
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バカなことはやめようよ。
あまり、人のことを国籍で区別することは、好きではないが…。 バカなことはやめようよ。 なんで、同じ沖縄の人たちが、いや、警備会社の人は本土から来てるかもしれないが、僕も本土からだから、同じ本土の人間が、お互いに警戒しながら座ってるんだろう? しかも、相手は税金、こちらも自前で、しかも消費税を国に納めて、その一部は、警備会社の給料に回るのかもしれないが、あまり、生産的でないお金に使われて。 誰を守るの?
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日米関係のノイズ
一国単位で安全保障を考えると、どうしても軍事力の存在が重要になってしまう。「同盟」という考え方もあるが、そこにはつねに2つのジレンマを抱える。
1つは、同盟関係を結ぶことによって、同盟相手の行う軍事行動に「巻き込まれて」しまう不安。もう1つは、いざ、自国が有事になった際に、本当に同盟国は、その国も交戦することになってしまうのに、そのリスクを冒してまで、自国のことを守ってくれるのか。「見捨てられる」のではないか、という不安。
こうした不安を解消するためには、やはり、自国の防衛力を蓄積しなければならない。
日本の場合は、とりわけ、戦後、日米関係はつねに「片務的」、要するに非対称な関係であったから、これを対称的な関係にするためには、日本がもっと「普通の国」として、軍事力を蓄積しなければならない。これが、戦後長らく、政府・自民党の考える安全保障政策であった。今の憲法はアメリカに押しつけられたものだ、だから、「憲法改正」をしなければならない。しかし、憲法改正は、アメリカとの対等な関係を保ち、アメリカの行う軍事作戦に協力する、という論理矛盾。このことを疑問視することなく、これまで、政府の言うことは「正しい」、昔ながらの「封建的な」考えが、人々を支配してきた。いわゆる「お上」意識というやつだ。
だけど、考えてみて欲しい。オルタナティブを模索することはいけないことなのだろうか。できることなら軍事力に依存することなく、他国との関係を構築したい。安全保障の「脅威」とは「つくられた」ものだから、「つくられた」脅威の呪縛から解き放たれたい、と思うのも、ある意味で当たり前の考え方なのではないか。
しかし、こうした考え方は「政治的」だとして批判されてきた。人間関係自体、「権力」関係であり、「権力」からは解き放たれることはできないにもかかわらず。
だから、「権力」とうまくつきあい、うまく距離をとりながらつきあう、ということも必要だし、そのために、オルタナティブを模索することは当然のことなのだ。「批判するだけでオルタナティブがない」といわれてきた「平和学」は、ある意味で、オルタナティブを構想する力に欠けてきたから、「お花畑」理論として、ネトウヨの攻撃にさらされてきたのではないか。
その意味で、政策論争をする「場」が必要だ。私も、講義に時々来ていただく、New Diplomacy Initiative(新外交イニシアティブ)は、これまで、日本があまりに、一部のアメリカに政策決定者によって決定されたアメリカの対日「政策」が、さも、アメリカ全体の意見であるかのように取り扱われることに異議を唱える政策立案集団として結成された。だが、これを、日本(政府)側だけでなく、アメリカ側からも批判にさらされることになった。
沖縄タイムス 2015年2月13日��
琉球新報 2015年2月17日。
Japan Timesに投稿した、ロバート・エルドリッジ在沖海兵隊政務外交部次長の発言である。
1つの考え方に凝り固まるのは、民主主義の考え方とは相容れない。「政治」とは、さまざまな意見をとりこみながら、全体の意思として物事を決定していくプロセスであり、最終的に、多数決によって「民意」とみなす。だからといって、最初から1つの考え方に凝り固まるのはよくないし、「多数者の暴政」になってはいけないのだ。建設的な批判のなかには、耳を傾けるものもあるだろうし、生活者の視点をぬきにした学問はありえない。
前回も書いたかもしれないが、「軍事をなくせ」というのは、運動の論理としては成り立つかもしれないが、学問の論理として、あるいは政治の論理としてはなりたたない。しかし、できるだけ軍事力の発動にいたる前に紛争解決を図った方が、結果的に、紛争解決のコストは安くつく。これが、「平和学」の考え方である。
すでに長くなってしまった。この続きは、また次回にしよう。
辺野古の工事用ゲート前。地元の理解なくして、安全保障政策は成り立たない。
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やんばるの森はだれが守るのか?
『琉球新報』2月13日付1面に、北部訓練場司令官(カオ司令官)の発言が記載されている。2月はじめに高江に行ったとき、私の友人(ストックホルム大学日本学科准教授)の教え子で、私のところに研究相談にやってきた、修士課程の院生が、「今度、米兵と話す約束をとりつけた」と話していたから、「へぇ〜」と思っていたのだが、そのときの司令官の発言である。
そこには、「反対運動をしている人々は共産党からお金をもらっている」「米軍は基地を返還したいのに住民が妨げている」と述べたと書かれている。同日、QAB(琉球朝日放送)のニュースでは、「やんばるの森を守っているのは自分たち。基地を返還しても開発されてしまうだろう」とも話したそうだ。
http://www.qab.co.jp/news/2015021363015.html
以下の写真は、昨年10月、16年ぶりに北部訓練場の基地開放デーのなかで撮った写真。
ではなぜ、北部訓練場の「過半」の返還をするといいながら、新たなヘリパッドを建設するのだろうか。
そこには、2月3日に、辺野古沖(高江沖?)にやってきた強襲揚陸艦ボノム・リシャールから高江にオスプレイが飛んできて、軍用トラックなどが県道70号線から、まだ提供されていない、新たなヘリパッドに向けてやってきて、そこから、ペイントをした米兵が重装備で降りてきたのでしょう。また、2月8日には、野営訓練も行っている(2月11日深夜にトラックが帰って行ったらしい)。森林を伐採し、赤土をさらけ出し、貴重な生態系を破壊しているのは米兵なのではないか。
この訓練が、日本防衛でないことは明らかだ。「集団的自衛権」の名の下に、米軍と日本の自衛隊の一体運用が叫ばれ、そこに、オーストラリア軍の防護までが加えられようとしている。私の「研究ノート」のなかに、軍事力をなくせという主張は、運動の論理としてはなり得ても、国際関係論の研究者として、軍事力を完全否定することは難しい、と書いた。だが、軍事力は、基本的には、自国防衛のための必要最小限にとどめるべきで、それも、住民の安全を犠牲にした安全保障政策は成り立たないから、そこは、沖縄にだけ負担を押しつけるのではなく、軍事力を必要としない外交力を蓄えつつ、国民的な議論をすべきであると考えている。明らかに、他国の軍隊が、我が物顔で軍事訓練をしている主権国家は、「普通の国」ではあり得ない。この点をどのように考えればいいのか。
少なくとも、ぼくにできることは、アメリカの世界戦略の一翼を担う、日本の安全保障政策には、異議を申し立てることだけだ。この点については、明日、また書こう。
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はじめます。
かつて、ブログをつけていたときに、当たり前のことを書いただけなのに、ネトウヨに攻撃されて、そのときは、心折れて、久しくブログをやめていました。
だけど、ここにきて、急速に社会も保守化が進み、何か意見をいうと、中立性だ、政治的だ、と、報道は自主規制され、権力は、法的手段を使って、都合の悪いことをひた隠しにするようになりました。
自分の立ち位置を自覚せぬまま、自分を基準にして、右だ、左だ、と決めつける。冷戦構造が崩壊し、いったんは、脱イデオロギーの時代だといわれながら、いつの間にか、何か意見を言うと、それはイデオロギーがかっていると決めつけられて批判されるようになりました。だからこそ、自分の意見を言い、何が報道のなかで隠されているのかを見抜く力が求められているのではないでしょうか。
私は研究者です。だけど、研究を進めるにあたって、何を問題としようとしているのかを明らかにすることなく、「お勉強」するのが研究だとは思いません。まして、平和研究の世界では、研究と教育、運動は、ときに緊張関係をはらみながらも、同時に進めていかねばなりません。
ここでは、自分の疑問点、運動の実践を綴って行くことにします。自分の意見とは異なりながらも、それを誹謗中傷することなく、対話を求める人に読んでもらいたいです。
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