Tumgik
goodfoodcooking · 4 years
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嬉しいことば。
世の中は大変なことになっている。
たくさんの人が外出できなくなっていて家にこもる日々。私自身もコスタリカから帰国してまだ一週間なので、自宅待機がまだしばらく残っている。
日本の美味しいご飯に舌鼓を打ちつつも、日本社会と交われない日々に悶々とするのである。
小寒い日本で丸くなっているこの今から一週間前には常夏の国にいたと思うとあの二年間はぷつっと切れた別世界のように感じてしまう。
コスタリカの写真を振り返ると、余計に本当にここに自分はいたのかな?と不思議になってしまうほどだ。
そんな自分に、私の一番弟子だったアドリアン君が嬉しい言葉を残してくれたのでここでシェアしたいと思う。
Yui gracias por todas las enseñanzas que me has dado en el transcurso de estos 2 años que has estado en Costa Rica, estas enseñanzas no solo son adentro de la pista también me enseñaste mucho de la vida y de la cultura japonesa de lo hermosa y admirable que es.
 Creo que estaría hablando por todos diciéndote que nos vas a hacer mucha falta ya que simplemente no solo te ganaste nuestro respeto y admiración como entrenadora sino que con tu amabilidad y dulzura que te caracteriza lograste ganarte el cariño de todas las personas a las cuales ibas conociendo.
Gracias por tanta dedicación, tanto esfuerzo, tantos regaños, tantas enseñanzas y tantos momentos bonitos.
 Y aquí en Costa Rica siempre vas a tener un lugar guardado donde se te tratara con ese mismo cariño que nos diste desde el primer día y espero que nos puedas visitar pronto o viceversa.
 Y simplemente solo te puedo decir ありがとうございました。
日本語訳・・・・・
コスタリカでの二年間にわたっての指導、ありがとうございました。
指導はピスト(フェンシングのコート)の中の指導だけではなく、人生における指導もしてくれました。
また、日本文化の素晴らしさについても教えてくれました。コーチとして僕たちの尊敬の念と賞賛を得ただけでなく、ひとりの人間としてのユイの優しさと暖かさがあったからこそコスタリカ人選手・関係者に受け入れられたのだと、だからみんながユイのことが恋しくなるだろう、と僕はみんなに言って回ることになるでしょう。
僕たちに貢献してくれてありがとう。僕たちを強くしてくれてありがとう。たくさん叱ってくれてありがとう。たくさんの教え、たくさんの素敵な思い出をありがとう。
そして、ユイがやってきたその日からずっと熱い思いを持って支援してきたこの国(コスタリカ)はその記憶を忘れずにいます。そして、いつかまたこの国を訪れてくれることを願っています。いつか日本を訪問したいです。そして、ただただ、ありがとう・グラシアス。
・・・・・・・訳していると泣けてくる。
最後はコロナの一件でドタバタ。2年間をさらわれた気分だったけど、実際そんなことはなく、私はこの国で2年間ちゃんと活動していたんだな。って思えた。そして、選手がこんなことを思ってくれていたなんて全く知らなくて、正直びっくりするとともに、なんだか恥ずかしくなってくる。
しかし、嬉しいものだ。
そして、日本に着く頃にコスタリカの選手たちからのビデオメッセージが送られてきていた。これがまた泣かせるのよ。
もちろん思うところはたくさんあるけれど、結果良ければすべてよし。
素敵な人たちに恵まれた、いい二年間だったなあ。
だから空白の二年間じゃなくて、この二年はちゃんと存在していたんだ、と再認識した今日でしたとさ。
積み上げたものは決してゼロにはならない。
自宅待機もあと一週間。今日はここまで。
2020.3.31
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goodfoodcooking · 5 years
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コスタリカ生活をざっと振り返る。
最近は写真投稿をすることが多いせいで、文章を書くってことが減ってきてしまっています。 でも、やっぱり文章を書くことは楽しい。 そりゃ写真の方がキャッチーかもしれないけれど、文章の方がもう少し自分の考えを深く知ってもらえる気がするんだ。読んでくれるかは別として。 この間、記者さんにインタビューを受ける機会があったのですが、 二年間、コスタリカはどうでしたか?っていきなり聞かれて、bien....(良い)しか言えなくて悔しかったので、 今ここで言いたいと思います。 二年間のコスタリカでの生活は、まとめて言えば...
良かった。(オイ!一緒かよッ!)
いやいや。どう良かったって。 ・人生観や物事の考え方が変わった。 ・いろんな人に出会えた。 この二つかなと思います。
いやほんとにこの国に来てよかった。お世辞でもなんでもなくて。 サラリーマンしてた時は、ただミスをすることが怖くて考え方も狭かったと思います。先輩社員に声をかけられる度に怯えていた。 コスタリカでは9歳児から70歳まで、いろんな人と出会いました。 今はもっと広い視点から物事を見ることができるようになったかなと思います。 これからまた日本でサラリーマンをやるんだろうけれど、ひとつ別の視点を持って働けるんじゃないかと自分に期待しています。 サンホセは首都なので、一般的にイメージされる途上国とは少し違うけれど私の住んでた街はそれでも断水・停電はわりと日常茶飯事だったので、コスタリカに来て、蛇口から水が当たり前のように出ること、電気が当たり前のように使えること、温かいお湯が出ることのありがたさを知らされたし、仕事でミスっても一日水が使えないことと比べたら全然大したことないや、ってきっと思えると思う。 常に遊び心を持って何事も取り組みたいなと思います。きっと日本社会に戻ればそんなこと忘れちゃうと思う。だから今ここで書き留めておこう。
いよいよ帰るのか。もうあの油ギトギトご飯を毎日食べる必要がない!もうワンプレートバナナ・ご飯・パスタ・パンの炭水化物盛も食べなくても良い!下痢もない!と思えば、、正直嬉しいけれど、 当たり前のように何度も往復した、あのデコボコ道も、頭が吹っ飛ぶくらいの荒い運転をするバスに乗ることも、コスタリカなまりのスペイン語を話すことはないのだ、と思うと突然寂しい気持ちになる。
中南米は遠い。そう簡単には戻ってこれない。 残りの1ヶ月、大切に過ごしたいと思ったのでした。
ああ、草餅食べたい。
2020.2.23
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goodfoodcooking · 5 years
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ohisashi buri
お久しぶりな投稿。これを読んでいる方はどのくらいいらっしゃるのでしょう。
一年以上空けていました。現状況を文章にするとどうしても感情的になって客観視して物事を書けないので、放置してました。
過去の文章を読むと…まぁイキッてること。
協力隊の活動もあと30日。なので…二年間の振り返りを込めて昔の日記を読みながら写真とともに振り返っていきたいと思います。
今日はここまで。
ああ、数の子食べたい。
2020.2.21
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goodfoodcooking · 5 years
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始めました。
自分の思ったことを発信できる時代だから、せっかくなら自分の考えや体験なんかを外に出していきたいと思っていました。
しかしながらそもそも私自身の考え自体がまとまらず、今に至りました。
日本の反対側にいるからこそ見えてくる日本のこと、自分と他人のこと。徒然なるままに書き記します。ごちゃごちゃしたことが好きな方、どうぞお付き合いください。
2018.10.3
以下随時更新します。
記事一覧:青年海外協力隊合格から派遣まで
       活動内容 活動における同僚
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goodfoodcooking · 6 years
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現在の活動に至るまで
以前こんな活動をしてますということを書きましたので、今回はここに至るまでの話を書きたいと思います。 最初は、一体どうなるのかと思いました。 JICA支所で着任に当たっての挨拶とプレゼン後、2週間ほど何の連絡も来ませんでした。 着任の際に日程まで決めてもらった次のミーティングは、無い。と言われました。え、話が違う・・・何から始めていいのか、私に何をして欲しいのか、何の話もなく約2週間放っておかれていました。笑 自分の考えも伝えられないし、相手のしてほしいこともわからない。 そんな状態が1ヶ月ほど続きました。
2週間連絡がなく危機感を感じた私は、連盟に鬱陶しいと思われるほど連絡をし始めました。今日のあなたの予定はなんですか?できれば同行できますか?などから始まりました。 そして会える時に自分の考えを頑張って伝えるようにしましたが、まだスペイン語ができない私とは会話がうまく成立せず、結局何も決まらないまま1ヶ月ほどが経ちそうになっていました。 これではいけない。と思い、とりあえずコスタリカにあるクラブを回ってコスタリカのフェンシングの状況を見てみたいと思い、コスタリカのクラブの練習日時、コーチの連絡先を教えてください。とお願いしました。 すると、返事をもらえず・・・笑
(今振り返ると、この時期が一番辛かったと思います。今はちゃんと活動場所が有り、選手もいます。が当時は、選手はいないし練習もどこでやっているのかわからない。コーチたちとも連絡が取れない状況でした。このまま何も行動しなければ、何もないまま二年間が過ぎてしまう、という恐怖を感じました。)
そして、連盟に頼らず何とかしてクラブのコーチたちの連絡先を入手し、二ヶ月目はクラブ訪問を始めました。 クラブによっては自分の生徒を快く指導させてくれるコーチもいれば、明らかに自分の生徒を触らせたくないというコーチもおり、訪問を続けるごとに少しずつ私と一緒に活動してくれそうなコーチが分かってきました。 なにより、週二回以上練習をしたいという選手探しに明け暮れました。これが一番大変でした。
三ヶ月目からはクラブ訪問をやめ、週3回以上練習したいという子供達と練習を始めました。 それから今に至ります。
時系列で簡単に書きましたが、ここに至るまでは色々なことがありました。 陰でいくつかのクラブのコーチに悪口を言われたこともあります。あいつは自分の選手を盗もうとしている、とか。。あんな日本人はフェンシングなんて教えられない、など。
--私が中学生の時に、国体に向けての選手の強化という目的でハンガリーからコーチが来たことがあります。私はその時のことを思い出していました。 彼のやり方に対して県の学校のコーチたちはとても批判的だったのを覚えています。彼はもともと2年以上いる予定だったのですが、コーチ陣との確執で約2年で日本を去りました。 自分は今、同じ経験をしていると思いました。そして、そのハンガリーのコーチがどれだけ大変だったのかを体感しました。 彼は今中国でコーチをやっており、自分の父と同い年でいまだに連絡を取り合う仲です。もう10年近く会っていません。元気にしているかな。‐‐
コスタリカの文化として、日本のように本音と建前があることをが分かった私はコスタリカの文化の中でうまく立ち回ることを優先させながら、少しずつ自分の立場を確立させていきました。 そこで色々なことを言われるのは仕方のないことです。
今は自分のやりたいことの10%くらいしか出来ていませんが、それでいいと思っています。少しずつ。
世の中はクリスマス。 コスタリカのクリスマスは、25日よりも24日の方が盛大です。そのこともまた書けたらと思います。 2018.12.24
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goodfoodcooking · 6 years
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配属先の同僚について
活動では必ずカウンターパートという、同僚のような、仕事のパートナーのような方が付きます。 しかしこのカウンターパート、要請内容と同様に非常にあてにならない場合が多いようです。 あてにならないというと言い方が悪いのですが、活動が始まってみたらカウンターパートがいない、もしくはいても居ないようなもの、ということもあります。 私の場合は、書面上では存在していたのですが実際に顔を合わせたことはこの半年で5回ほどしかありません。 なので、カウンターパートは居てもいないようなもので半年間は誰もなにも指示してくれませんでした。 自由に仕事ができるという点ではとても良かったのですが、私の配属先は私を完全野放し状態。 半年経つと、JICAとコスタリカスポーツレクリエーション庁、そしてフェンシング連盟と私の残り1年半の活動について会議が行われるのですが、その際にカウンターパートの変更を願い出ました。 なので、今は前よりかは同僚と仕事をするという感覚が少し有り以前よりも孤独さはなくなりました。
私の現在のカウンターパートはサンホセにあるクラブのコーチなのですが、エペという種目でナショナルチームのコーチを兼任で担当している人です。 なぜ私が彼ににカウンターパートになってもらったかというと、 先述したようにコスタリカにはサーブルとフルーレのナショナルチームがありません。彼はフルーレのナショナルチームを作りたいと思っている人で、また国外への試合は彼が引率することが多く、何より彼のクラブにはランキング上位のちびっこのフルーレの選手が多くおり、非常にオープンなのです。 非常にオープンというのは、こちらのクラブは自分の選手をほかのコーチに指導されることを好まないコーチが多く、クラブ訪問をしても非常にやりづらいところがありました。 しかし、このコーチはそんなことはなかったのです。そのため必然的に顔を合わせる機会もあり、フェンシング連盟とのやり取りも多い人であったため、カウンターパートに指名しました。 かなりいい加減な人で、theラテンアメリカ人という感じです。出したものはそのまま出しっ放し。道具箱が、恐ろしいほどに汚い。私が子供に注意しても、彼らのコーチがそれなので示しがつきません。 何かの予定も常にその日にならないと分からなかったり約束したのに来ないなどと、とても慣れるのに苦労しました。 今現在もキューバへの合宿のために私はビザを取らなければならないのですが、そのためのキューバの受け入れる人からの情報を欲しいと言っているのにかれこれ1ヶ月経っています。 そろそろまずい。まあ、行けなきゃいけないで縁がなかったのだ。と思って気長に待っています。 ここに来て半年。こう思えるようになりました。
活動は人それぞれ。同僚も人それぞれ。です。日本と違うなあと感じることは、日本の社会人は割と平均してある程度のラインの仕事は誰でもできるというイメージですが、こちらではそれが通用しないということです。でも、それは良いことじゃないかとも思います。機械のように働くなんてつまらないですから。 2018.10.30
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goodfoodcooking · 6 years
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現在の活動内容
私は現在12歳以下のフルーレの子供たちの指導を中心に行っています。 もともとサーブルの要請だったのですがこの職種、フェンシングの要請が出てから私が来るまで既に2年以上経過しており、主力で練習していた選手たちが2年前にほとんど引退してしまい、現在は数人しかまともに練習しておらずほとんど教えられていません。 ならば、サーブルの人口を増やす活動をするより、今いるフルーレの子供たちの指導に力を入れたいと思い練習しています。 せっかく派遣前の技術補完研修ではみっちりとサーブルをナショナルチームのコーチから教えていただいたのに。
主に週6回、練習をしていますが選手はある一定の子供たちが入れ替わり来ています。そのうち学校訪問のような形で週に一度学校へ行き、週に一度大学生の指導をしています。年齢は9歳~11歳。 一番よく練習している選手で学校がある時期は週3~4回、2時間~3時間という練習量です。 もう少し練習量を増やしたいのですがあまり(私が)張り切り過ぎると全く来なくなってしまう可能性があるのであまり強制することなく練習しています。 しかし、そもそもこの体制ができるようになるまで約半年かかりました。
コスタリカにはエペという種目にはナショナルチームが存在しますが、フルーレ・サーブルはナショナルチームがありません。 個人的にはナショナルチームを作ってみんなで一度に練習したいのですがクラブ間の確執などがありそう簡単にはうまくいきません。
ということで現在の普段の活動はこのような感じです。 また、約1ヶ月に1度リモン州のプエルトビエホというカリブ海側にある街にクラブがあるのでその訪問も行っています。 また、試合が2~3ヶ月に1度国内または国外であるのでその際のベンチコーチをしています。
以上活動内容でした。 ここに至るまでの話は次回。 201810.21
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goodfoodcooking · 6 years
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バックパッカーの聖地、Puerto viejo
コスタリカのカリブ海側のパナマの国境の近くにプエルトビエホという街があります。
国が違うのではないかと勘違いしてしまうほどにサンホセとは全く雰囲気が違います。
文化も非常にユニークで、黒人文化が色濃く残っています。ここはジャマイカなのか?と思うほど、ドレッドヘアのご老人、ジャマイの国旗を見かけ、レゲエの音楽が聞こえてきます。後で聞いたところ、ジャマイカの人たちもたくさん移住してきているそうです。そして、現地の人の基本的な移動方法は、自転車。海を横目に気持ちよく走ります。大抵、水着に裸足でサーフボードを抱えて走ってます。
カリブ料理といえば、ライスアンドビーンズ。ココナッツで煮込んだお米に豆、さらにココナッツで煮込���だ鶏肉とパタコンという、食用バナナをすりつぶしてトルティーヤのように平たく焼いたものを一緒に食べます。これが、とても美味しい。
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(写真:rice and beans con pollo)
人の特徴はサンホセよりもさらにおっとりしていて(もう日本人の感覚だとぶっ飛んでいる)、一度話し込むと時間を忘れて話しています。
私の滞在していた宿から練習場まで200メートルくらいの距離で、コーチは知り合い何人もに声をかけられ話し込み、練習場にいつまで経ってもたどり着けない。5時から練習だったのに10分前に宿を出て結局始まったのは5時半。
北米、中米、南米、ヨーロッパから多くのバックパッカーがこの地を訪れています。中には、ここが気に入りホテルで働きながら宿代を浮かせて長い期間生活している若者もたくさんいます。ヒッピーの聖地とも言えるでしょうか。この国ではマリファナは違法ですが、ホテルの中でもにおいがするほどみんなタバコのような感覚で吸っています。でも、それが悪いという感覚は全くないんですね。
プエルトビエホでは何もかもが自由でノールールです。
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(写真:ブランコに揺られ、海風を感じながらゆったりと過ごした時間を楽しむカップル。いいなぁ笑)
前置きが長くなりました。
そんな場所、プエルトビエホにフェンシングのクラブがあります。このクラブのコーチもサンホセからプエルトビエホに移住した人の1人で、現在は20人ほどの子供達の指導をしています。年齢層は6歳〜17歳。ほとんどの子供が毎日練習しています。年齢層が低く練習量も多いので私は以前からぜひプエルトビエホのクラブに教えに行きたいと思っていました。活動開始から半年が経ったタイミングでコスタリカフェンシング連盟、JICA、そしてスポーツレクリエーション庁が集まって私の今後の活動計画会議を行った際に、月に一回のペースでここのクラブへ出張する事になりました。
1人で行く初めての出張。早速pura vida※ 満載な旅が始まりました。
2018.10.13 ※pura vida プラビダ とは、スペイン語でピュアなライフという意味でコスタリカでは挨拶がわりによく使います。よう!元気?おう!元気だぜい!という感じでしょうか。普通の挨拶加え、どんなシチュエーションにも使えます。お金持ってなかった~!プラビダ!(何とかなるさ~)、彼女に振られた~、プラビダ!(しゃーねえ!まあいいやー!)とにかく、コスタリカ人の性格を象徴した挨拶です。
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goodfoodcooking · 6 years
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配属先について
そんなこんなで、コスタリカへやってきてかれこれ半年が経過しました。 半年経ってようやく自分の活動がつかめてきたところで。 まずは、私の配属先を紹介します。 私はコスタリカスポーツレクリエーション庁のコスタリカフェンシング連盟に配属されています。 スポーツレクリエーション庁とは日本で言うところの2015年にできたスポーツ省のような政府機関です。 そこには各競技連盟が所属しています。私はフェンシング連盟に配属されています。
現在コスタリカには私と同じような配属で卓球のボランティアが活動しています。。 過去には水泳、体操、柔道(近々新隊員がやってきます)など様々なスポーツの支援がされてきました。 現在は2020年の東京オリンピックに向けてスポーツ隊員の派遣が盛んのようです。(しかし、2年でオリンピックに行けるようにするってなかなかできることではない気が…) コスタリカにおけるフェンシングの人口は約100人と少なく、私が教えられる種目(サーブル・フルーレ)の競技人口はそのうちの2割です。 フェンシングについては別の機会に・・・ 日本の人口に対す日本のフェンシング人口の割合とコスタリカのそれと実は同じくらいなのです。
与えられた情報ですと、コスタリカフェンシング連盟は、フェンシングの技術レベル向上及び普及を目的に活動を行っている団体。 首都の連盟本部では、初心者からナショナルチームまでの選手が、レベルや年齢、性別ごとに分かれて練習を行っている。とのこと。 要請内容は 1.フェンシング指導者に対し、指導力の向上を目的とした助言や練習の改善指導を行う。 2.各選手への指導支援(国際大会参加経験者や中米大会メダル受賞者含む) 3.地方への普及活動(グアナカステ県リベリア市)
配属先同僚及び活動対象者は 同僚男性2名/20歳代 元サーブルの競技者
ということでした。
しかし、この情報、実際に活動が始まってみると全く違うことが判明。 ナショナルチームの指導、中米大会メダル受賞者への指導なんてできるのか…と不安だった私の活動は、その不安をある意味ひっくり返す形となり始動するのでした。
2018.10.8
活動内容についてはこちら。
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goodfoodcooking · 6 years
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なぜコスタリカへ? 前半
遡ること約4年前。大学時代の友人と横浜で会った日に、JICA横浜にふらっと入りました。大学四年の時に知り合いが何人か協力隊として海外で活動していたのもあって、こんな世界もあるのか。と改めて知りました。
青年海外協力隊のことは昔から知ってたのですが、いつか行きたいなと思ったのはこの時。全然本気じゃなく、憧れみたいな感じでした。いつかスポーツを通じて国際交流したいなあという夢が漠然と出来上がりました。
その時は就職も決まっていたし、何より特にこれといった資格や技術を持っていない私には無縁の話でした。
そのまま時が過ぎ、遡ること1年半前。
社会人3年目に入り、これからの人生どうしたいんだろうと立ち止まっていました。
仕事は大変でも会社の人たちは皆さんとても良い方々だし、休みの日は登山に行ったり��出したりして楽しいこともたくさん。
だけど、このままでいいのかなあという焦りがありました。
大学時代に一年間アメリカまで行ってスポーツマーケティングなんてのも学んだのに、そもそも英語も使わなければせっかく勉強したことも使わない日々に焦燥感を感じ始めていました。
そんななか、ふと横浜の記憶が蘇り協力隊について調べ始めたのでした。いろいろな職種がある事を知り、驚きました。
スポーツに関する何か、ないかなあ。と調べ続けるうちに・・なんとフェンシングなんて職種があるじゃないか。と。
心臓がバクバクしていた事を今でも覚えています。
要請内容は、サーブルの指導。(フェンシングには三種目あるのです。そのうちの一つ)競技経験が2年あれば応募が出来るというものでした。
一応、やっていました。フェンシング。13歳から大学の2年まで。
だけど、パソコンを閉じました。あかん、無理や。
なぜなら大した戦績もないし、高校2年の冬には受験勉強で競技をやめてしまいインターハイだって出たことない。大学時代だって留学したかったから途中でやめてしまった。そんな人が応募していいのか。
ましてや私の学校は6年間のうちフェンシング経験者の指導者がいた時期がトータルで2年くらいしかなかったので、まともに指導を受けたことがほとんど無くいつもほかの高校やクラブに行って教えてもらっていました。
つねによそ者な感じでそれが辛かったなあ。と、ほかにも中学時代のいやーな記憶がよみがえり、応募しないためのたくさんの言い訳を抱えせっかくの要請内容も見て見ぬふりをしました。
しかし、青年海外協力隊には応募期限というのがあり、記憶は定かではないのですが私の隊次の応募期限が4月末までだったのかとにかく期限ギリギリになっていました。
悩んだ結果、そもそも書類選考の時点で落ちるかもしれないんだし、受かったらその時考えようと軽い気持ちで応募しました。
で、通っちゃったんだよなあ。
その後、夏に東京���で面接しに行きました。面接の待合の会場では、スポーツ職種で応募している人たちがたくさんいて、世界選手権でなんとか~とか甲子園でどうとか聞こえてくる中、私は一人小さくなっていました。なんと場違いなところに来てしまったのだろう。と。(しかしこの半年後さらにさらに場違いなところに行くことになるとは知る由も無い)面接でもかなり技術的なことなど掘り下げたことを聞かれ(そりゃそうだ)、しどろもどろになって面接が終わりました。
あー落ちたな。と思いました。やっぱり、こんなレベルの人間が協力隊で競技を教えるなんてのは無理だったのだ。と、落ち込み、トボトボ地元まで帰りました。
でも、受かっちゃった。
後半へ続く
2018.10.5
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goodfoodcooking · 6 years
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なぜコスタリカへ? 後編
どうしよう。受かってしまった。この時は、嬉しさ3割何とも言えない不安7割でした。
また、同じタイミングで会社の異動辞令がありました。
どちらをを取るべきなのだろうか。とても悩みました。
そこで背中を押してくれたのは会社の先輩と母親でした。
約60年後、死に際のベッドで人生を振り返る時に、あれをしておけばよかったという後悔リストの中にこれが入っていることを想像したら嫌だと思いました。
せっかく与えられたチャンスなんだから。
と言い聞かせ、駒ヶ根訓練所に入所するための誓約書にサインをしました。
私の派遣国は中米の小さな国、コスタリカ共和国という人口486万人の国です。在留邦人数386人
さらに日本に住んでいるコスタリカ人はたったの160人。(外務省ホームページより)言語はスペイン語
カリブ海と太平洋の両方の海に接していて、ニカラグアとパナマに挟まれています。
国土の大半が熱帯雨林であり地球上の生物種の5%近くが生息していると言われ、エコツーリズムがとても盛んな自然豊かな国です。
私はこの国のコスタリカフェンシング連盟に配属され、選手の競技力向上と普及活動が活動内容とされていました。(まあなんともザックリ!これについては追々…)
スペイン語は留学した時にほんの少しかじったくらいでとてもじゃないけど喋れるレベルではありませんでした。
派遣前訓練では語学訓練、そして派遣にあたって必要な知識をつけるための訓練が70日間行われました。
1月から始まった訓練は3月中旬まで続きました。
この時期の駒ヶ根は、とにかく寒かった!みんなで見た千畳敷は雪景色で美しかった。
素晴らしい同期に出会えました。みんなに会いたい。みんなそれぞれ異国の地で元気にしてるかな。
そんなこんなで、退所後は手続きや県庁への表敬訪問などバタバタ。
訓練終了から2週間も経たないうちにコスタリカへ出国し、今に至ります。
2018.10.6
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