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gingiraudon · 1 year ago
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day2
朝起きてすぐにカロスギルへ。日本で言うとたぶん表参道みたいな感じの場所。NICE WEATHER MARKETで雑貨をいくつか買う。センスの良いセレクトショップなのだけど、全ブランド共通してエコフレンドリーなのも好きなポイントだった。その足で油井食堂というBTSメンバーが練習生の頃に毎日通っていたらしい食堂でビビンバを食べた。
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午後からは少し北に移動してギャラリーを巡る。アラリオは2度目の訪問。3年ぶりに再会した作品、初めて観る作品、どれもじっくりとかみしめる。名和晃平氏の映像作品は最初から最後まで観た。名和作品の上でダミアンジャレの振付でダンサーがパフォーマンスをする作品。ダンサーは森山未來のように観えたのだけど、どうなんだろう。60年代の韓国で寺山修司みたいなパフォーマンスをしていた女性アーティストも良かった。その作品を観ながら「韓国にはアングラという言葉がない(60年代にはこのようなパフォーマンスと対比してメインストリームとし���認識されるような演劇の概念がなかったから)」といった話を友達から聞いた。
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gingiraudon · 1 year ago
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3年ぶりの海外、2回目の韓国へ。
友人に同志社の留学生だった子を紹介してもらい、向こうで合流。気の知れた友人の紹介だからかすぐに仲良くなれて、仕事のこと(その子は韓国で演劇に携わっている子で、なんと泊まれる演劇のことも知っていた)、韓国の演劇業界のこと、京都での生活のこと、韓国と日本の学生生活の違い、好きな音楽のこと、映画のこと、政治のこと、など、2日しか一緒にいなかったんだっけ?というくらいいろんなことを話した気がする。
その子は兵役を既に終えている子で、1日目の夜にはポッサムを食べながら軍隊時代の話を聞いた。同い年で、大学では同じ勉強をしていて、同じような映画が好きで、私となにも違わない目の前のその子が、生まれた国が違うというだけでそんな経験をしなければいけなかった、ということに、ショックを受けた。��分がどういった感情を持ってその話を聞くのが正しいのかもわからなかった。
そのあとみんなでアックジョンロデオの街をぶらぶらする。24時を過ぎているのに人がたくさんいる。インセンネッコという韓国版のプリクラが楽しすぎて2回も課金をした。(ちなみに次の日にも撮った)
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gingiraudon · 2 years ago
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先日滑り込みでアンディウォーホル展に足を運んだ際、人の多さに嫌気がさして外の庭園で休んでいると、横でお弁当を食べていたおじさんに「市立芸大の卒展も観に行くべきやで」と話しかけられ、同じ京セラ美術館の建物内で展示されていた作品を観に行った。
高田マルさんの『祈りの言葉は今日も同じ形をしている』という作品が印象的だった。
「叶わなければ、 祈りは無意味だろうか」
そういえば、私のおばあちゃんは毎朝必ず仏壇の前でおじいちゃんにお祈りをしていたな、 と思い出した。おばあちゃんはお祈りの後に必ずおじいちゃんに話しかけるように、 最近あったことや私たち孫の様子を仏壇の前でしゃべっていた。 そんなおばあちゃんの祈りは、 おじいちゃんを想う気持ちとあわせて、くるしさや悲しみを開放するための一種のセルフケアのようだった。 誰かのための行為であっても、 祈りって結局は、自分のための行為でもあるのかもしれない。
作品は、繰り返し唱える祈りの言葉のように、描かれた絵が重なりあって、 増えたり消えたり広がったりしているように見えた。 大学の卒展、 実ははじめて足を運んだのだけど、せっかく京都に住んでるのでもっと色んな芸大の卒展に足を運びたいね。
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gingiraudon · 2 years ago
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フランシス・ハ
誰かと同じ空間にいて、特別な存在だと自分も相手もわかってる。でもそこはパーティー。お互い別の人と話してる。笑って楽しんで、ふと部屋の端と端で目が合う。嫉妬でも性的な引力のせいでもない、相手がこの人生での運命の人だから。不思議で切ない 人生は短いけど そこに二人だけの秘密の世界があるの。他の人達からは見えない、私たちの周りにはそんな次元がある。ただ気づいてないの。それが私が恋愛に求めるもの。人生に かな 愛にか、なんてね、ハイな人みたい、違うからね?
誰よりもあなたが私をわかっていて、私もあなたをわかっていて、 同じタイミングでお互いを見ているということ。 そこにある関係にどんな名前がつくかなんてどうだっていい。そんな瞬間を、私はきっと求めている。
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gingiraudon · 2 years ago
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2022.10.28
皮肉なことにひろゆきのおかげで「胃ろう」が話題になっているこのタイミングで、父に胃ろうでの延命治療を施すかどうかの選択を迫られることになってしまった。むずかしい問題すぎるのだが、ひとつだけ私のなかでわかったことがあるので忘れないうちにどこかにメモしておきたくてtumblerを開いている。
ここ数日ネットで議論が白熱している胃ろう問題、みんなが延命治療の問題を経済的な視点から議論していることがわたしはぜったいに違うと思うのだ。ひろゆきのいう「無駄」の理由が「日本では本人や家族が望まない延命治療が蔓延しているから」なのであれば、先ずするべきことは胃ろうを保険の適用から外すことではなく「本人や家族が望んでいない延命治療をちゃんとやめれる仕組み」作りなのではないのか。
胃ろうを保険の適用から外すということは、つまりある状況においてある人の命の価値が国によって定められてしまうということだ。「望まないからしない」ことと「最初から選択肢がないからできない」ことは全然ちがう。
私はこの歳になって、実際に自分が当事者になるまで胃ろうという言葉の存在も知らなかった。みんなそうだと思う。自分が家族の延命治療の選択をすることになるなんて想像もしない。ある日突然お��者さんに延命治療をするかどうかの選択を迫られて、なんの知識もないまま本人との意思疎通も図れずに、どうやって家族が納得のいく選択ができるというのだろう。
命について大切な人と話し合う機会の少なさや残される家族へのサポートの少なさ。医療技術の進歩に比べてその技術を使う側の教育、死生観観や倫理観が追いついていないのだ。
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gingiraudon · 3 years ago
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続・記録
2021年11月26日
何度かおばあちゃんのヘルパーさんと電話でやりとりを行った。ヘルパーさんからも、やっぱりおばあちゃんは一度お医者さんに診てもらうべきだと言われた。でも一方でそれはお父さんの意見を否定するようなことにもなり得るし、そのことでお父さんがどうなるかわからない心配があった。とりあえずヘルパーさんが一度実家に来てくださることになったので、私はできたらその日に、おばあちゃんを入院させたいという話をお父さんに持ちかけようと思った。ぺろみに電話で私の想いを伝えたところ、まずぺろみからお父さんに電話をしてくれることになった。「お父さんは電話越しに"おばあちゃんを私たちが説得するなら"と言った」とぺろみからラインがあった。
26日、家に入ってすぐにおばあちゃんの寝室へ向かった。ほとんど会話ができなくなってるおばあちゃんとしばらく簡単な話をした。そしてもう一度私からも、顔を合わせてお父さんに「おばあちゃんを一度お医者さんのところに連れて行きたい」と伝えた。お父さんが急に暴れ出したりしないか、すごく緊張した。お父さんはすごく悲しそうな顔をして「おばあちゃんが良いなら、」とだけ言った。緊張で頭が真っ白だったのであんまり覚えてないけど、わたしはたぶん「じゃあ今からおばあちゃんにちらっと聞いてみるね」みたいな感じで返事をしたと思う。そして、「お医者さんに身体を診てもらうのはどう?」と私からおばあちゃんに話を持ちかけた。おばあちゃんは案外あっさりとうんうんと頷いたあと、ぼそっと「そうやなぁ」と言った。すぐにおばあちゃんのかかりつけ医だった町の小さな内科のお医者さんに電話をした。電話番号はヘルパーさんが教えてくれた。おばあちゃんの「そうやなぁ」という声を聞いてからわたしはなにかスイッチが入ったかのように頭がしっかりしてきて、お医者さんに今までの事情を全部説明し、とりあえず往診に来てもらえないかと持ちかけた。お医者さんは今から診察があるからそれが終わり次第すぐに向かう、と言ってくださった。
一時間���らいして電話したお医者さんが家に来た。私も高校生まではこのお医者さんに何度かお世話になったことがあるはずなのだけど、あまり顔は覚えていなかった。悲惨な家の様子を見てお医者さんはどう思ってるのだろう、とか思いながら往診の様子を眺めていた。私の横ではヘルパーさんとおばさんが、こんなに早く事が進むなんて!と喜んでいて、なんだかすべてが現実のことじゃないみたいだった。往診が終わって、お医者さんがお父さんになにか話しかけていたけど、お父さんにうまく伝わらないのを察して私の方へ向かってきた。「簡単な診察だから推測にはなるけれど、黄疸が酷くて癌の可能性もある」とのことだった。今日にでも入院した方が良いと言われ、私も、そうしてくださいと返事をした。お医者さんはすぐに地元で一番大きな医療センターに電話をかけたあと、わたしに「医療センターに入院してもらいます。すぐ救急車が来るので待っててください。この往診代は後日で良いですよ。」とだけ言って帰っていった。アホみたいな感想だけどお医者さんってすごいなと思った。入院の荷物をまとめていたら数分ほどで救急車が来た。救急隊員さんが家の中に入ってきて、私に家族構成やおばあちゃんの様子、今までの経緯など全てを聞いてきた。全てのことが突然で細かなやりとりは覚えてないけど、「今後のキーパーソンはえりなさん、ということで良いですか?」という質問をされたことだけは記憶に残っている。おばあちゃんに「大丈夫やからね」とだけ声をかけて救急車を先に見送り、私はおばさんの車を運転して救急車を追いかける形で実家を出た。
わたしの拙い運転では当然救急車には置いてけぼりにされてしまい、医療センターに着いたらおばあちゃんはもう先に手術室に入っていた。なんだか大掛かりな検査をしているようで、救急の待合室で数時間待たされた。その間に会社携帯に目を通し、仕事の連絡が大量に入っているのを発見した。(そういえばこの日は平日で、上司にだけ事情を説明し仕事を抜けてきていた)うんざりしながらとりあえず全部の連絡に返事をしていたらあっという間に時間が経ち、お医者さんに呼ばれた。診断結果とおばあちゃんの治療を今後どうしていくかの話し合いの時間であると、はじめに言われた。やっぱりおばあちゃんは黄疸が進行していて、かつ膵臓に癌があると言われた。難しいことをたくさん言われて、いろんな写真や資料を見せられてもほとんど頭に入ってこなかったけど、とりあえずお医者さんは私に"カンワケア"というものを進めているようだった。"カンワケア"の"カンワ"は恐らく「緩和」なんだろう、つまり治療を辞めて死ぬのを待つということなんだろう、今のおばあちゃんは治療が難しいくらい体力が残っていないのだろう、そのくらいのことはわたしでもわかった。
お医者さんの話を終え、看護師さんからおばあちゃんと一緒に病室へあがるように指示をされた。ベッドで寝ているおばあちゃんの顔色は真っ黄色だった。何���かおばあちゃんに声をかけながら、入院病棟がある4階までエレベーターであがった。病棟に入ってすぐに看護師さんに声をかけられ、おばあちゃんとはここで別れて入院の案内のために別室に行くことになった。救急の待合室でおばさんをずっと待たせていることにやっと気付き、ラインを入れた。別室でまず看護師さんから家族構成や家の状況を聞かれた。母がいないこと、おばあちゃんが私を6歳からずっ���育ててくれていたこと、お父さんに精神疾患があること、そのほかに家族は妹2人しかいないこと、順番に話をして看護師さんのほうをみると、なんて言えばいいかわからないみたいな、唖然とした表情をしていて、その表情をみて急にぼろぼろ涙が出てきた。看護師さんが「今までよく頑張ったねえ、頑張ったねえ」とわたしの涙を拭きながら繰り返し言ってきて、さらにぼろぼろ泣いた。ぼろぼろ泣いたまま入院に際しての色んな説明を受け、何枚もの書類にサインをした。そのあと、看護師さんから「ソーシャルワーカー」という、入院患者の家族のケアをする役割の人がいることを聞いて、その人を紹介してもらうことになった。看護師さんがソーシャルワーカーさんを呼びにいっている間に、ずびずび泣きながら自分がサインした何枚もの書類を全部iPhoneで撮影し、こんなに泣いてても割と頭はしっかりしてるもんやな、とか思った。そうしているうちに待合室で待たせていたおばさんがわたしのラインを見て駆けつけてくれた。ソーシャルワーカーさんもやってきて、また家族構成や家の状況を聞かれた。さっき看護師さんにしたのと同じ話をひと通り説明して、さらにおばさんが補足で今日おばあちゃんが入院に至るまでなにがあったかなども話をしてくれた。わたしが今不安なのは入院や今後に関わる費用のこと、お父さんの病気のこと、ぐちゃぐちゃな家のこと、主にこの三つだと伝えた。今度はあんまり涙は出てこなかった。ソーシャルワーカーさんになにかしてもらえることがないか探してもらって、後日電話かなにかの形でお返事をもらえるという形で話は終わった。
気付いたらもう外は真っ暗だった。信じられないことにわたしは次の日会社のゴルフコンペで、さらには始球式をつとめる予定だった。ゴルフはアホみたいに朝が早いので、わたしの寝坊を危惧した先輩が、わたしを起こすために産まれたばかりの赤ちゃんがいるご自宅に泊めてくれる予定になっていたのだけど、医療センターから大阪までの帰り道、休みたすぎる気持ちとものすごく葛藤した。結局そのまま後輩と落ちあってその先輩の家に向かった。次の日、また何事もなかったかのような顔でゴルフコンペに参加し、始球式もなんとか失敗せずに終えることができた。このときには既に会社には転職を伝えていて、退職の交渉真っ只中だった。ゴルフの行き帰りの車中はすごく楽しくて、ありきたりな言葉だけどほんとうに昨日の出来事が夢のように思えた。辞めるわたしに先輩も上司もすごく優しくて、始球式まで任せてもらえて、そんな優しい上司たちと何かしら今後も関係が続けば良いなという気持ちでゴルフを始めたことを思い出した。
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gingiraudon · 3 years ago
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記録
2021年10月3日
久しぶりに実家に寄った。
お父さんがワクチン接種をしないと頑なに言い張っており、大阪に住んでいた私は実家に寄ることを控えていた。お盆も休み直前に会社で集団感染が起きてしまい、念のため実家には寄れずじまいだった。電話越しに声が弱くなるおばあちゃんのことを心配しながらも気付けば9月、たまたま、おばあちゃんの姪にあたる親戚の方(おばあちゃんの姪、私にとって何という関係性にあたるのかわからないので、とりあえず「おばさん」と今も呼んでいる)から連絡があった。大学へ進学したときにそのおばさんに引越しを手伝ってもらったのだけど、当時買った冷蔵庫の保証がおばさんの名義になっていたようで、そのことに関する連絡だった。幸い、冷蔵庫は既に壊れて新しいものに買い替えていたのでなにも問題はなかったのだけど、おばさんも私の実家の様子を気にかけてくれていたようで、一緒におばあちゃんの様子を見に行ってもらえることになった。大阪から車で帰れるなら電車よりも少し安心だと思ったし、ワクチン接種もようやく2回終えることができそうなタイミングだった。そんなこんなで10月に入り、久しぶりに実家に寄ることができた。
約半年ぶりの実家はすっかりゴミ屋敷のようになっていた。玄関にお父さんが出てきたとき、なぜだかファイトクラブでタイラーと主人公が自宅で石鹸作りをするシーンが頭に浮かんだ。おばあちゃんはほとんどの時間ベッドにいて、歩くのも一苦労な感じだった。声にも全然元気がなくて、私が知っているおばあちゃんの姿ではなかった。なんとかリビングまでおばあちゃんを連れ出して、お土産に阪急百貨店で買ってきたケーキをみんなで食べていたとき、何を思ったかお父さんがおもむろに自分の結婚式のビデオテープをセットし始めた。ビデオテープというか正式には多分VHSテープと呼ばれるもので、お父さんが巻き戻しを慣れた手つきでおこなっているのを見て、たぶん、ひとりで何度もこのテープを観ているんだろうなと思った。式に参列している色んな親戚の人の名前を、おばさんが言い聞かせるようにおばあちゃんに伝えてくれていた。わたしはそんな2人の会話を聞きながら、6歳のときに亡くなり顔も声もどんな人だったのかも記憶にない母親の顔をずっと眺めていた。ビデオの中では結婚式の最中なのにみんな席でたばこを吸っていて、今井美樹の音楽が流れていて、ときめきメモリアルみたいなフォントで私の母と父の名前が表示されていた。
一通りそのビデオを観終わったタイミングで、おばあちゃんをベッドに戻し、またすぐ来るね、と言って実家を出た。帰り道で、私の母が今井美樹の曲が好きだったことをおばさんから聞いた。おばさんは、おばあちゃんの体調と同時に私の父の様子についてもなにかを聞きた���うだったけど、言葉選びに悩んでいる様子だった。おばさんの優しさに何度も涙が出そうになったけど、平然を装ってなんとか堪えた。お父さんが数年前に統合失調症の診断をされていたこと、おばあちゃんはその病気を受け入れなかった(受け入れなかった、というよりは、統合失調症という名前が馴染みあるものになったのがそもそも最近なんだと思う)こと、そのままストレートにおばさんに伝えることができず、なんといってこれを伝えようか悩んでいるうちに大阪に帰ってきてしまった。
おばあちゃんは明らかに弱っているし、このぐちゃぐちゃな家も、お父さんのことも、なにもかもこのまま放っておくわけにはいかないと思った。けど何から始めれば良いのか・私がすべきことが何なのか全くわからなくて、頭の整理がつかなくて、ただただ不安を抱えたまま、でもそれを誰に言えば良いのかわからないまま次の日が来て、何事もなかったかのような顔で会社に行った。
2021年11月20日
それから、出来る限り週末はおばあちゃんの様子を見に行くようにしていた。実家には電車で帰ろうとするとなかなかの時間を要するので、おばさんが付き添ってくれたり、友達や先輩が車を出してくれることもあった。11月に入ってから、おばあちゃんは全く動けなくなって、実家のベットの横に簡易トイレを置いて、お父さんがおむつを交換したり、ご飯を食べさせたりしてくれていた。お父さんは「わしがいるから任せとき。心配ない。」とメールや電話でしきりに言ってくれていたけど、私が見に行く限りそれは完全なものではなかった。(お父さんの気持ちを全く無視するのであれば、それは到底、介護と言えるものではないと思った。けれどそれはお父さんなりの精一杯の介護で、実家に一緒にいない私が、週末しか帰ってこれない私が、お父さんにそんな感情を抱いてしまうことがほんとうに最低だとも思った。)
お父さんは「おばあちゃんは最後まで家にいたいと思う。病院には絶対行きたくないと思う。」と言うし、たしかに自分がおばあちゃんの立場になったときどう思うだろうか、とかも考えた。でもこのまま家で、きちんとした介護もなしに放っておいて良いのかという気持ちもあった。どうすれば良いのかわからなかった。
ある週末、おばさんに何度目かの付き添いをしてもらっている車中で、お父さんの病気のことをすべて打ち明けることができた。おばさんは信じられないくらい優しくて、「なんとなくそんな気がしてたよ。」と最後に言ってくれた。そして、そういえばと思い去年おばあちゃんが骨折でしばらく入院していたことを続けておばさんに話すと、「そんな高齢で入院していたら普通は退院後にヘルパーさんがつくと思う」ということを言われた。たしかに、ヘルパーさんが家に来ているというような話はお正月あたりに聞いたことがあった。自分の無知さにも、そしてなんでヘルパーさんが今実家に出入りしていないことに違和感を持てなかったのか、いろいろとがっかりした。自宅に帰って横浜に住んでいる妹(本名は違うけれど私はぺろみって呼んでいる。っていうとみんなにおどろかれる。)にも状況報告をしたところ、次の日にぺろみが地元の市役所に問い合わせをしてくれた。そこでおばあちゃんに要介護認定が降りていたこと、そしておばあちゃんについてくださってた���ルパーさんのお名前がわかった。そのあとすぐに私からそのヘルパーさんに電話をしたら、どうやらお父さんがそのヘルパーさんが家に来るのをどんどん拒否するようになり、市役所からも心配されていたことがわかった。
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gingiraudon · 4 years ago
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「しらないことの暴力」
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この前の休日、京都の京セラ美術館でやっている「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)」展を観に行った。帰りに平安神宮の蔦屋書店に寄り、ずっと気になっていた本、「キングコング・セオリー」を買った。
”特権とは、そのことを考えるか考えないかの選択肢を持っていること。私は、自分が女であることを忘れることはできないが、自分が白人であることを忘れることができる。それが白人であるということだ。”
この文章はそのキングコング・セオリーの訳者あとがきの中にあったもので、この本の著者であるヴィルジニー・デパントが、Black Lives Matter運動への賛同としてフランスのラジオへ寄稿した文章の中の一節として紹介されていた。平成美術展で「突然、目の前がひらけて」をみてから私がずっと抱えていたもやもやを、それってこういうことでしょ、と、言葉で示されたような気がした。このもやもやについて���メモを残しておきたいと思う。
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「突然、目の前がひらけて」は、武蔵野美術大学と朝鮮大学校の学生5人によるアートプロジェクトであり、2015年に展覧会として発表され、現在京都市京セラ美術館で開かれている「平成美術:うたかたと瓦礫」展で再現されている。東京にある武蔵野美術大学と朝鮮大学校の2校は塀一枚を隔てて並んで建っているらしく、このプロジェクトはその両校の敷地の境界にある一枚の壁に"橋"を架けるというものだ。
私が渡った"橋"は美術館の中に設置されたものだったけど、実際には、武蔵美側から渡るのと朝鮮大から渡るのでは、その体験は異なってくるのだろうと思う。(つまり直接的に言うと、「社会的強者側から渡るのと、弱者側から渡るのでは」ということである。)明確化された双方の立場、日本と韓国、日本と北朝鮮、日本人と在日朝鮮人。この橋はこうした"見えない壁"を乗り越えることへのメタファーのようなものなのだと思うのだけど、私は、このプロジェクトのメインは、この「見えない壁」ではなく、そこに至る「対話」そのものなのではないかと思っている。(そもそもこの橋は「対話」を表現するための前提として設置されている?)
この橋の付近にこのプロジェクトに関連する資料が並べられているエリアがあり、特に、このプロジェクトのメンバーたちが橋をかける際に行ったミーティングでの会話や心境などを付箋で記した年表は何分もかけてじっくり鑑賞した。
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”在日問題、歴史認識について聞く 他人事みたいですよねといわれ凹む”
”私の立場とは?”
”自分が日本人であることがマジョリティであることに無自覚だった。(知らないことの暴力)”
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私は日本人である。差別主義者ではないけれど、普段在留許可証を持たずに外出ができる。就職��転職の際に国籍を意識することもないし、日本人という自分の属性について日頃意識をしたことがない。そして、私は異性愛者である。誰かを好きになって恋人になり、堂々と手をつないで街を歩くことができる。その恋人を周囲の人になんの躊躇いもなく紹介ができる。さらにはその恋人との間でやがて結婚という選択をする日が来るかもしれない。
そう、”選択肢”だ。日本では同性婚が認められていないので、私が普段当然のように考えているこの”選択”ができない人が実際に同じ日本に存在している。私はなんの苦労もせずに好きな人と婚姻関係を結ぶことができるけれど、そのこと自体が誰かをがっかりさせたり、傷つけてしまっているのかもしれない。こういった「マジョリティ側の無自覚さ」が自分のなかにもあり、それは誰もが持ちうるもので、こういった一種の”居心地の悪さ”のようなものをこの展示で突きつけられた。私が鑑賞以降ずっと抱えていたもやもやの正体はこの”居心地の悪さ”なのだろう。
けど、冒頭で紹介したデパントの言葉を借りると、もう一方の面から考えることができるのかもしれない。
私は女である。私の勤めている会社は社員の多くが男性なので、例えば6階建てのビルのうち男子トイレは各フロアにあるのに、女子トイレは設置されていない階がある。私は3階で働いており、トイレへ行く時は毎回4階まで移動をしている。私はその度にだるいなぁと思っているけど、男性陣は私のこの移動に対しても、自分が3階でトイレを済ませられることにも、普段なんの疑問も抱かずにいる。
結局そう言うことなんだと思う。他者は他者なので、どこまでも相手の立場になることはできない。私が在日朝鮮人の方の気持ちをわかることなんて到底できないし、会社の男性陣もこの男社会のなかで営業をしている私の気持ちにはなることはできない。(在日問題と、私のトイレに行くための階段問題では当然問題種類も大きさも全く違うけれど)その溝は簡単に埋めれるものではない。むしろ、その溝は埋めない方が良いことだってある。だからと言って、私たちはお互いのことを知ることを諦めてしまっても良いのだろうか?無意識にマイノリティの方を傷つけたくない・自分も「居心地の悪さ」を感じたくないから、マジョリティとマイノリティは交流を持たなくても良いのか?
私はそうではないと思う。なぜなら、武蔵美の向こう側に朝鮮大があるように、私の会社には男性と女性が働いているように、私たちは他者とすでに共にいるのだから。”居心地の悪さ”を感じること、それは他者と共在することへの意志・自覚を持つこと、にもなるのかもしれない。他者と完全にわかりあうことはできないかもしれないけれど、わかりあうための努力ならできる。相手のことを想像することはできる。「突然、目の前がひらけて」はその一種の実験のようなものなのかもしれない。
色々考えた結果、私のもやもやはこんな風に落ち着いた。無自覚なマジョリティから、自覚を持ち始めたマジョリティになること。そこに至るには必ず”居心地の悪さ”は���けては通れないだろうけど、それを受け入れることは不可欠なのだ。私たちは他者と共存しているのだから。
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gingiraudon · 4 years ago
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『知る』と『手に入る』はイコールじゃないって、いつも忘れてしまう。欲しいもののすべてを知りたいと思ってしまうのは、知ればそれが手に入ったように錯覚してしまうからなのだろうか。
歳をとるということは、望んだ全てを手に入れられるわけではないと悟ることなのだろうな、
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gingiraudon · 4 years ago
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えなりの映画レビュー
最近はすっかり年末ムードで、人と会うたびに「2020年まじで一瞬やったな」という会話をしてる気がする。コロナ禍でインドア生活を余儀なくされたこともあり沢山映画を観たので、その中でも特に心に残っている映画のレビューを書こうと思います。
『The Half of It』
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Netflixオリジナル配信の映画。監督は中国系アメリカ人のアリス・ウー。彼女は自身がレズビアンであることをカミングアウトしている。
舞台はアメリカの保守的な白人が多い田舎町。頭の良いエリーは内向的で周りと馴染めず、同級生の宿題の代行をしてお小遣いを稼いでいた。ポールというアメフト部の男の子からとある女の子へのラブレターの代筆を頼まれるのだけど、その女の子はエリーが密かに恋していたアスターで…というのが簡単なストーリー。
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映画みたいな総合芸術の括りのものというのは、過去の作品の参照だったり、作り手がそれまでに培ってきた素養の上で成り立っていると思っている。なので私はそういう背景が見える映画に凄く惹かれるのだけど、この映画は作品全体に沢山の文学作品や映画の引用がなされていて、忘れないでおきたい”言葉”があまりにも多かった映画だった。(でもそういう引用を知らなくても十分に楽しめる映画なのもすごいと思った。)
主人公のエリーはすごく教養のある子で、様々な映画や小説、偉人たちの言葉を信じ、人生の指針としていた。「地獄とは他人である」というサルトルの言葉通り友人付き合いはいっさいしないし、「自分を欺いて始まり、他人を欺いて終わる。それが恋愛だ」というオスカー・ワイルドの言葉が恋愛の教義だと考えている。そんなエリーがポールやアスターと出会うことで、そのかたく閉ざされてた心の扉が開いていくのだけど、エリーが自分のボキャブラリーを総動員してどんどん自分の気持ちを言葉にしていく様子がものすごく良かった。
特に、聖書の「コリント人への手紙」第13章4-7節に対してエリーが「愛は厄介。おぞましくて利己的。それに大胆」と異論を唱えるシーンは大好きだった。愛っていうのは抽象的で観念的でおぼろげなもので、ひとつ��言葉にはできないもっと多義的なものなんよね。だからこそ、自分の気持ちは自分の言葉で語らないといけない。「自分を愛して初めて誰かを愛せる」ってよく聞く言葉だけど、この映画はまた別の形で、愛は自己理解からはじまるものだということを語っていたなと思う。相手への愛に気付くことで、その人に気持ちを押し付けるのではなく自分自身に矢印が向かっていく。相手の言葉を手繰り寄せながら、自分の言葉を獲得する。それって相手と向き合うことで自分自身と見つめ合えてるんよな。"自分の言葉で語る"ってことをテーマにしながら、言葉を発することだけに意味があるのではなく、愛は言葉を紡ぐプロセスに自覚的になり寄り添って努力をし続けることだって言う映画なのだと思った。
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ハーフオブイット以外だと最近観たシカゴ7裁判もかなりグッときたし(これもNetflixオリジナル。ネトフリすごい。)テネットは2回映画館に行った。新作じゃないもので家で観たやつだとレザボア・ドッグスとマグノリアも良かったのでまた余力あれば感想を書きたいと思います。
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gingiraudon · 6 years ago
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gingiraudon · 6 years ago
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gingiraudon · 6 years ago
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センチメンタルジャーニー
沖縄市コザ地区
米軍のために作られた人工の街。沖縄と聞いて想像する南国のイメージとは全然違う空気。錆びれた街並み、ずっと鳴り響いてる軍用機の飛行音。大通り沿いには色褪せたネオンの看板が並んでいて、(多分どれも水商売とか、売春宿とかのお店)戦後本土返還前の当時、栄えていた街の風景を想像して歩いてみる。コザの辺りは当時、米軍兵士による暴行事件や強姦事件が後を絶たなかったようで、こうして風俗街が作られたのは性の防波堤としての役割だったんだとか。結局性病の蔓延を止められずに衛生基準的にアウトをくらって街が廃れていったらしいんだけど、そういう歴史を知ると、今の錆びれた街の空気に独特な寂しさが相まって、、、まさしくセンチメンタルジャーニー。普段とは少し違った視点で、ディープな観光〜
2018.5.4
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gingiraudon · 7 years ago
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それって疑ってるんじゃなくて信じてるんでしょ
たしかに、誰かを疑うときって信じたいと思うときかもしれない。だから、疑うときの涙ってほんとうに苦しい どうせなら信じたい、裏切られたとしても、許せなかったとしても、愚かだったとしても
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