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毎日なにか考え事をして過ごしているから、毎日なにか書いておこうかと思う。やる気は、考え事をしている最中にしか生まれないで、発火して消えていく。頭がャーンとはじけても、まったく残り香を残さずに消えていく。いまでさえ今日なにを考えていたのか、あまり思い出せない。
『NHKにようこそ』の漫画版を読んだ。アニメは見ていた。ツイッターのインテリ(?)サブカル・メンヘラリティ・スカイ連中に、岬ちゃんが神宝のように扱われている理由が、さらにわからなくなった。岬ちゃんは救われないし、たぶん一生主人公と苦しむだろうと思う。それが何かしらの魅力を持った、ただれ、頽落とも思えないし。
ただしかし、まえに書いた「アンチ・恋愛」のようなものかもなあ、と思った。好きかどうかわからない、好意はあるようだけど、真剣(マジ)に恋愛しない、というような。嘘のチョコレートみたいなコーティング。
考えていたことを思い出した。
NHKにようこそのアニメは、正直もう古い。なにがって、ノリとか、人物の書き方とか、色合いとか。その、古さについて、おもいをはせていた。
この物語は、日常への前向きな復帰だと思う。つまり、ドラマもなにもない、平凡をみとめるような、そんな話。それさえも平凡だけど。
ふりかえって、そのころはやたら、日常としての日光やら、町風景やらが、あるいみ、リアルよりもリアルに描かれていたような気がする。なんというか、おもったより(おもったより?)町って灰色だな、とか、太陽ってまぶしいよね、とか、風ってわだちみたいだよね、みたいな、ささやかさに対する、普通のイメージ(ギャグマンガ式の誇張されたそれではない)が鮮烈にえがかれていたような。
学校を休んだ日の、だれもいない台所の、なぜだか柔らかい色合い。そういう、日常的なもの。
自分は、そういう思い出はサボり魔、仮病スターだったからいっぱいある。病院から帰ってきて、即フロイドの狂気を聞いた日のキッチンとか。この、日常が続いていくし、これまでも続いていたと、私は思いたくない。やっぱり、地道に生きていくなんて、どうしても考えたくない。生きなきゃとか、死んだほうがいいとかじゃない、もっと言葉にできない、陽光の香り とでも言いたい、その日常さが本当にうけいれられない。
なんでだろう。正直、こういう日常さはエモよりエモーショナルだと思う。どこか公園で流れている、小川のさざなみをずっと見るような。微風が肌を沿うように伝っていく、とか。この、ささやかな知覚へのアクションは、その時(それが起こった時)に感じたものを、言葉でもう一回手繰り寄せているもので、夜中・酒・煙草・セックスのエモエモとは、類が違う。分けるなら、思い出・陽光の香り・散歩・エモ、みたいな感じかな。
「なんでなんも期待せずに生きなきゃいけないんだ」って言わせてほしい。そんな、毎日が続いて、ただ「いい感じ」だと思ったことを「些細な幸せ」だなんて思いたくない。そんな人々は、隣人を大切にして赤毛のアンでも観ていたほうがいい。よかった探ししてて。
散歩がしたい。自分のからだの知覚で、なにもしなければ精神しか感じられない、このポンコツに、体という皮膚で、私をかたどってほしい。
日常はいやだ。毎日が戦争で、おれは太陽とバトル。どこかのサボり魔に、花瓶を送りたい。
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主治医から、買い物依存症としての治療をはじめていきましょう、と言われた。パーソナリティ障害や、発達知能の問題にするよりかは、両親の理解を得やすく、つまり都合がよく、便宜的にそうするという主治医自体も、どんずまりな気持ちで自分に伝える決意をしたのだろうと、そう思えた。
ヘロインを数滴たらした水と、ふつうの水を用意して、大小ふたつのケージのなかにねずみを入れる。すると、味もよくないのにねずみはヘロイン入りの水をよく飲むようになり、それは小さなケージのほうが、ヘロインに「ハマる」ねずみが多い。
主治医が話してくれた、「憶測の域を超えない」実験として、これをあげてくれたのは、私が「依存症というのは、器質的要因と環境的要因はどのように考えられているのか」と質問をしたからだ。
ケージが大きいと��のぶん、ストレス発散もできるが、小さいとそれができず、オレもやってる、オマエもやってる、というので、薬物仲間の縄張りができ、そうやって離れていったねずみたちは、孤独にたえられなくなり、「オレもやってる」と、ヘロイン入りの水を飲むようになる。すなわち、環境要因として「耐えられなくなり」手をだしているのではないか、というものだ。
「おもしろいですね」
と自分は言った。それがどれだけ無責任で、たくさんの人を傷つけているのか、自分はあとで思った。消極的に「領域を閉じて」決定されること。自分は、紙を切るはさみのように必要とされて生まれたのではないと、高校のときみたいに思った。
親は私の胎動がはじまった頃のことを、次のように話す。「わたしがほしい!いまだ! というときに妊娠した、おまえはわたしのところに、くるべくして来たんだよ」そういうが、内情は、父親に「離婚するか子供を作るかどっちかにしろ」と、せまったことらしい。
ながらく、じぶんは親に「おまえがいたからわたしは離婚しなかった」と言われてきて、じぶんは家庭の生命維持装置なんだと思い、親から同意をさそわれたことに対しては「はい」と回答してきた。自分は、じぶんで考えることを、本を読むよ���になり、本を手放したときに、ようやく気付いた。自分の意見として言ったはずのことが、ぜんぶ親の意向だったことに気づいた。じぶんは、進路を決めるときに父親にコネではいれないのか、と聞いた。
考えるのは好きだ。考えるのが大好きだから、誰かに汚されていることに気が付いて、本当に苦しかった。自分の思考は、この気持ちはだれのものなのだろう、と考えて、もう10年経ちそうだ。
俺は一体誰なんだ、と思うけど、その時に指さす相手が自分自身でないとは限らない。
自分が何者なのか分からないし、自分は特にすごくないと思う。自分は、すごくなりたくない。でも、少なくともアンタよりは天才的でありたい。そう思って、何かを作ってきたし、きっといまもそうなんだろう。主治医にも、
「じぶんが『苦しい』と思ったとき、無作為に抽出した出来事に対して、その都度おもう感情は違う、ということに最近気づいた」
「じぶんが『苦しい』と思うとき、苦しいから『苦しい』という言葉で現出したのか、『苦しい』という言葉から苦しさが現出したのか、わからない」
こんなことを話した。主治医は「どちらもある。原因をさぐるのに因果的に遡及しなくてもよい」ということを言っていた。こういう話をするたびに、主治医はあくまで医者なんだなと思う。べつに哲学的井戸端会議をしたいわけではないけど。
からだにいっぱい異常が現れている。緑内障の疑惑が出ているが、検査結果を見た感じ、ほぼ確定だと思う。足が一日中しびれているのは、もう何年もだけど病院にいっていない。さいきんは、もともとあった手の震えにプラスして、頭を固定するのが難しくなった。あたまがぶれて、視界もぶれる。
神経系が壊れているんだろうな、と思う。故人の名前を聞くたび、うらやましい気持ちになる。今日死んでしまったあなたの代わりに、私が死にたい、と毎晩祈っている。
「総毛立つ」という表現がまったく合っているように、全身に寒気のような電撃のようなしびれが走る。今日の朝なんてひどかった。
あるとき、ラーメン屋に行って幼児が描いた絵をみた。そこで自分は、年齢が上になればなるほど、人間のかたちは閉じた線で描かれるのではないかと思った。ペンを持てる年齢や、その人の巧拙はあるにしろ、顔をかくときには、まず「丸描いて」ちょんなのだ。
モノがそこにある、というのは、端的に、モノが自分から見える二次元平面状で輪郭があり、閉じているということだ。じぶんは絵を描けないけど、美術史をざっと通し見したら、この、モノの輪郭との闘いが美術なんじゃないのかと思った。
あるものがある。というのは、ほんとうに、どういうことなのかさっぱりわからない。年を重ねるごとにわからなくなる。
消極的に、つまり外部から因果的に求められて「在る」ようになるのか、それ自体が個物として生まれいでるのか、まったくわからない。
小泉構文として揶揄されるのは、自分は同一律だと考えている。「A=A」。自分はこの同一律が大好きだ。というか、一日のうち大体これについて考えている。同一律から派生して、きょうはシャワーをあびながら、こんなことを考えた。
恋愛は真剣(マジ)でないと成立しない。真剣(マジ)でない恋愛は成立しない。
どういうことか。
ひとに「あなたは真剣に人生と向き合ってますか」と質問したら、たいていの人は否定するだろうが、すくなくともあなたは「それを否定するのに」マジになったのだ。このメタ構造はどこまでも内包する。
論理学でおなじみ、質問をしたら真実に対して真逆の答えを言うひとがいるとする。これは紛れもなく、「真実に対して真逆の答えを言う」ことにマジである。
アンチ・恋愛をやってみたいのだけど、アンチ・恋愛とはなんなのか、さっぱりわからない。でも、このたとえの上に想定が付くのは、
「『あ』を描こうと思いながら『か』を描く」ようなものだ。
と、それは狂っていても、できないことだ。
ふりかえって、Δt秒前に考えていたことが誤りであったことに、気づくのではない。一生わからないのだ。このΔtは無限に分割できるし、その無限は2に収束しない。そのΔtが生命の時間、すなわち有限であること。そうして誤りにきづかないまま、死んでいくこと。
同一律は、こういうものではないとわかっていても、思考は加速する。それは端的に、じぶんの、自分自身への真実に迫りたい欲求なのかもしれない。
YouTubeのコメント欄をみていると��そんなんいわんでも誰でもわかるわ」な意見がみえる。けれど、人間と話したいなら他人がわかるように言わなきゃいけないんだ。ほんとう、自分はこのことを知らなかった。
数学や哲学にふれて、わからないものだらけで、わくわくした。自分がわからないもの、それが確かにあるだけで、安心できた。未来に希望を持てた。楽しい気持ちになった。うれしくなった。
でも、そんなの、調べればわかるんだ。勉強すればわかるし、調べればわかる。わからないものがわかっていく間は、たのしい。でも、おおざっぱにわかってしまうと、悲しい。もう自分は、現象学を辞書で引いて、意味不明な言葉に出くわすことはない。自分にとって、意味不明であることが、ずっと素晴らしいものだと、魅力に感じていた。
コメント欄では「知っている」文章しか流れてこない。ぜんぶわかる、なら読まなくていい。
これからさき、しらないものに出会わないなら、生きてる意味がまったくない。苦しいばかり。ただ「全て知っているもの」に対して、耐え、飽き飽きしていくしかない。そのなかで衝撃に出会って、Δt後には、わかるものになっている。こんなかなしいことって、ないよ。あんまりだ。
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写真を撮ることが根本的に下手だ。技術的な問題ではなくて、自分が世界に対してまったく愛情のないことが、まるっきり分かってしまう。
数日間、晴れの日が続いていた。なんとなく散歩をしたい気分にもなる。それでも自分は家を出なかった。お金もないし、会う人もいない。ならば、写真を取ればよかったのでは、そう思った。いま。
自分が撮りたい写真は、本当だったら、四葉のクローバーとか、田舎のみずみずしい風景とか、そういうものなのに、幽玄な夜の街灯の写真ばかり撮る。もちろん、自分が好きだから、良いと思ったから撮っているのだけれど、なんだか、カラフルな日常ではないなと思う。
街灯の写真ではないけど、この携帯で撮った写真の中では、これがいちばん好きだ。よく出来てる。その、よく出来てると思うところは、たぶんやっぱり、技術的な部分なのかなと思う。本当に好きなんだけどね、説明するとISOとか話し出してしまう。そういうことじゃない、日常への愛みたいなものが欠けている気がする。
かれこれもう何年も無職でいる。朝起きて煙草を吸って、いつの間にか日が暮れている。俺も途方に暮れている。日中、外に出ると、車がワンワンワ走っていたり、スーパーに行くと主婦が思案深そうに食材を眺めている。日が落ちた頃、外に出ると、車通りが増している。深夜には静まり返っていて、この夜の中でどのくらいの人が犯罪とセックスをしているのか、考える。
本当と嘘について、別に考えるほどのものではないけど、思いを巡らすと、日中と夜は地球にとって、どっちが本当で、どっちが嘘なのかと浮かんだりする。考えるまでのことではないけれど。
街灯の写真ではこれが良い。でもまったく、日常的なものを感じない。しかも感傷的ですらない。退廃的でもない。この写真が何を訴えかけているのか、私にはまったくわからない。そこが良いんだと思うけど、さっきの写真と同じ構図の通り、技術面の話でごまかして説明するしかできない。
こいつは派遣仕事の終わりで、なんの説明もなく残業がはじまって、やることが分からないし、現場の輩さんたちが怖くて、先輩方の目から逃げていたら見つけたネコさんです。
近づいたら逃げるんじゃないかと思って、珍しくズームした上に、フラッシュもよくないだろうから、画質はすこぶる悪い。これを撮ったあと、そーっとそーっと近づいても、このネコは逃げなかった。なんだコイツは。自分はネコに手を伸ばしたら、まず噛まれると思い込んでいるので、頭の上に手をやって、ジャンプしたら手を更に上に伸ばして、こいつのネコ・ジャンプを見て遊んでいた。自分が、小さい子と遊ぶときにいつもやるやつだ。
写真右手から先輩方がやってくる予感がして「ほら行くぞ」と、手をネコにやったけど、コイツは全く動かなかった。仕方ないから、サラバ!と手を振って、その場を離れた。ネコは動かなかった。
この写真は好きだ。写真というより、小さなカンバスの絵に近い。良いんじゃないかなと思う。
とはいえ、自分が撮りたい写真は、Amebaブログに上がってるような日常写真なのだ。家族用のコンデジを使って、わざわざ下手な写真をアップロードするような、日常への愛情。自分にはそういうのが本当にない。
自分が見る風景は、静的なものではなく動的なものだとして、なんとなく納得している。写真におさまるもんじゃないよ、と。また泥団子でも作って遊びたいんだけど、そんな写真はどこにもない。このネコも、どっか行った。街灯はずっとそこにいる。
人間が見られる景色には限りがある。その景色を無限に分割するとして、心的にはそれは限界がある。ふわっとした気持ちや、音楽や香り、手触りでその景色を記憶するとしても、囲い込んでいるだけで、脚色された景色���と思う。なんでシャッターを切るのか、ということは、本当には分からない。俺はさいきん、目覚めると寝る前と変わらず自分でいることに落胆する。俺の部屋にはシロツメクサも四葉のクローバーも無いし、向日葵もない。
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ネガティブなことは余り書きたくない。物好きなひとが、こういうのを見ることを知っているから。
4,5日か、一週間くらい、何故か体調が悪い。内容としては色々あるけど、深刻なのは音楽を楽しく聴けないこと。音楽いぜんに日々を楽しく過ごせていないというのはあるけど、音楽を楽しめないのは単純な苦痛に繋がる。苦しみとか、つらさとかが巡る、その思考から抜け出す手立てが消えている。音楽鑑賞は自分にとって、驚きとか発見を含めた、とってもスリリングな体験なんだと思う。
もちろん、その他の感情もある。でも自分が分かるのは、湧き上がってくるものが言葉として与えられてからになる。その他の感情というのは、湧き上がってきた言葉が取りこぼしたもの、それが最も重要なことは分かるのに、それが何か分からない状態を指す。
自分が分かっているものを、もう一度、分かってみるということは、同じ仕方でそれをする場合には、記憶の確認にしかならないと思う。ただし、分かっていることが、分かっていることを避ける理由にはならない。音楽は、心的状態と大いにリンクするのだから、本当だったら、いろんな状態・場所で聞いてみると、また面白い体験になるとは思える。
が、それが出来ていないし、それが面白く感じられないのが深刻。体調が悪くなるまで、音(楽)について考えなかった日は一度もなかったのに、横になって目を閉じては、どうでもいい苦しみに苛まれてる。音(楽)を考える上で、心的状態を考慮するのは当たり前だけれど、じぶんが心的状態の内側に潜ったら、音楽は、もう聞こえてこなくなってしまった。記憶の確認なんて、星を見るよりも面白くない。もっと、言葉が取りこぼすものが私を奮いたたせてくれるのに、言葉と言葉の連結をし続けて一日が終わるのは、やっぱり、むなしい。
日付変わって、今日、体調が良かったらいいなと思って眠ろうと思います。
このテキストから、いつか読み直したときに、言葉が取りこぼしたものを発見できたらいいなと思ってます。
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音楽を作り、続けている。その音楽については、口頭で狙いなどを話すことが多い。作ったものに関して、聴き返すと、どうやってこんなものを作ったのか・作れたのか、本当に覚えていない。それだから、聴きながら自分で再認する、というか再認以上のものをしている気がする。
去年の下半期からの制作は、案を出すことが専らだった。DAWを変えてから、作曲の方法が変化した。とある曲(完成はしているが、公開していない)を作っている間、それを痛感した。
つくりはじめは、ただ変なリズムを並べていただけなのに、これをどうにか活かしたい。遊んでいただけなのに、納得がいかなくなってきた。すると、どうなるか。できた部分、そのMIDIやらAudioの四角を全て、後ろの方に置いてから、その曲のデータで全く違う曲を作った。PCで曲を作れるようになってから、キーを意識したことは全くと言っていいほど無い。とにかく、音を鳴らす、作る。直列・並列と、ならべていく。ずらしてみる。音が、そこで鳴る。言葉に出来ない何かが、後ろにやったデータと繋がったりして、持ってくる。音は、その四角で鳴っていて、それだけで独立しているのに別の音を呼ぶ。全く不思議なことに。
俺は最近、騒音について考えている。不快な音(楽)について。ややこしいのだけれど、それは心的現象としての「今すぐ止めてくれ!」を促すものだと考えている。微分音や、黒板を爪でキーッとやる音については、あまり興味はない(微分音階は大好きだけど)。考えているのは、たぶん、雑踏に近い。雑踏となると、幾らでもスルーできるような印象があるような気がして、使いにくいなあと思っている。イヤーな音(楽)は、どうして耳を塞ぎたくなるのだろうか。これに、じぶんなりに応え続けたい。因みに音楽自体への情報、作者とかそういうのは考えからは外している。ドカーンとやってきた音楽がどうして不快なのか、であって、ドカーンとやってきた音楽が不快なのはどうしてなのかは、どうでもいい。
話は戻って、そうして作った曲があり、作曲の方法のようなものが変わった。まったく変わった。でもこれは失敗だった。なんてこった、いつまでも聴いていたくて、10分くらいになってしまった。完成品は4分半に、どうにか纏められた。
去年下半期の制作は、それと折り合いをつけるために、1分に満たなくても良いから、とにかく作ってみることを続けた。ということは、自分はそれまで、自覚的に案だしをしていなかったことになる。
曲ができた! ええやんええやん! 曲作ったんやからええやんええやん!というノリで、自分が聴いていた。公開するとかしないとか、正直、どうでもよくて。高校のときから、ずっとそうだった。自分の曲の最高のリスナーは自分だと、そういう感じで…… ポール・ブレイの初期録音を聴いていたら、CDの読み込みがおかしくなって、同じ地点を何度も繰り返すようになった。俺はもう、その出来事が堪らなく嬉しくて、iPhoneを取り出して、ただ録音した。ボイスメモではなくてGarageBandで。録音している最中、その繰り返しに変化をつけたくなったから、CDプレーヤーを叩いた。元通りに再生されたけど、それもつまらない。もう一度、バン! 今度は違うところで繰り返しが起きた。楽しい! 他にもある。家にある、とにかく音楽を鳴らせるデバイスを自室に掻き集めて、同時に曲を流す。俺は弾けないギターを持って、父親手作りのエフェクターでゥワンゥワン、ガチャガチャに弾いて、演劇チックにデタラメの演技をする…次には絶叫する。PCからはR18ゲームの音楽が流れていても、ええやんええやん!絶叫する。ただそれだけ。そういう音楽を高校のときに作っていた。もう、データはない。本当に残念なことに、変声期前の弟の声が入っている曲もあったのだけど…これだけは悔しい。「ママー ママー」と曲間に入っているものがあった。自分が何度も手軽に聴けるようにと、SoundCloudにあげていて、account数は3つもあった。SoundCloudを知る前はDropboxに上げていたし、本当に膨大な数の音楽を作っていた。
俺は、ずーっと、楽しくなりたいんだ。
また話が逸れた。案だしをしていく中で気にいるもの、案として完成したはずなのに、何か足りない、そういうものが出てきて、その曲の完成を目指す事もあった。
案だしというのは、面白いと思う。書いたように、自分は曲ができたらスマホで何度も何度も聴く。すると、当初の狙いから外れた発見がある。すると、これを発展させたいと思う。次の案出しは、それを踏まえたり、同じ地点から違うPerspectiveの音楽を作ってみる。完成を求めたものではない、というのも、当時失敗と思った、あの方法とは違う。過去の曲に触発されて、別のProcessで作るから。俺は途中で、ぱーすぺくてぶ なこととか忘れて、その時に鳴って欲しい音を出す。すると、影響元なんてものは、さきの曲からは外れて、何だか、比べて歪な曲ができる。
しかも、作り終えたら、触発された曲とは似ても似つかないものが出来る。
その時は。
時間が経って、分かってくる。自分が、いったい何をしたいのかが、やっと分かってくる。
さっきも書いたけど、俺は、ずーっと楽しくなりたい。音楽で。
Hallo Bee(現AVA)展示会での音楽は、そうした案出しを重ね、失敗だと思っていた方法を結合させて、ゼーハーゼーハー作った。
図書館でペラッと捲った本に「私は、そこにあるのではない。ピンで象られた姿が私になっているのだ。」みたいな、ペソアの断章に出会って、いたく感動した。当時の彼女と一緒に来ていたのだけど、この衝撃を持ち帰るために、帰って欲しかった! 安部公房が何か、インタビューだったかで「ぼくはね、人間のね、皮膚に興味がある。皮膚があるから(そのせいで)、そのカタチが人間となる。だから、他人があるんじゃないかな」みたいなことを言っていた。俺は安部公房の考えにもナルホドと思っていて、皮膚について強く考えていた時期もある、が、ペソアの文を読んで、ひっくり返った!
これらを通じて、結晶したのがHB展示会だった。そう、楽しくなりたいから音を出して、案。それがピンになり、出来た。展示会、空間についてキュレーターの上野くんとは、もちろん話し合った。しかし、ワタシハタイチョウガズタボロデ、上野くんに導かれ、あの空間になった。
会場に着いて、はじめてあの空間がやって来た!
ボクダッテ、空間で鳴る音という点で、音響面で工夫した。それに、それに!上野くんへのコウイウカンジヲメザシメマスゥ……と矢鱈、自分の思考で使う用語(切羽詰まりすぎて、その用語に注釈をほとんど入れなかった)で伝えたものが、大いに伝わりすぎていて、アアアッ! 悶絶。
灰街さんが私の空間について言及していた文を読んで、素直に嬉しかった。でもまだ、その空間に触れてなかった。分からない部分もあった。会場で、わかっちゃった!
ありがたいことに、駒澤さんの個展で私の曲を使っていただけたことがある。行きたかったな……
音が、音を呼ぶ。空間に、音。本当にそうなのか? ああいった展示会というのは、行ったことがなかった。思うのだ、あの、雑踏についての話になる。空間というのは、厳密に、あるのか? 俺にとって、空間というのは、便宜的なもののように感じる。騒音は、二人称的には耳の鳴りだけれど、三人称的には空間が必要になる。爆音で音楽が眼の前で鳴っていること、隣の部屋から「今すぐ止めてくれ!」が来ること。
ペソアと安部公房の話にプラスして、ケージの防音室の話を考える。音は、どこで鳴っているのだろう。心音、身体の震え、そして、私はペソアのことから、空間を合わせてこう思う、いつか、どこかで鳴るものだと。鳴っている音は、鳴った音なのだ。いつか、どこかで鳴るものは、予想できない。もちろん、対角線論法みたいに、そこで鳴っているのかもしれない。鳴り続けているのかもしれない。しかし、いつか、どこかで鳴るものは、まだ鳴っていない。空間という基底は、いつも一人称、二人称では起こり得ない。ならば、三人称的、音(楽)ではなく三人称の音楽には、空間が本当に必要��のか? 雑踏は、それに応えてくれそうなんだ。でも、雑踏を雑踏のままにするのではなく、DTMでの作曲に昇華したい。自分が、応える音楽が、いつか、どこかで鳴るものになるだろうし!
そんなことを考えてます
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腰痛が治る兆しが、まったくない。流石に退院直後よりは良いけれど、30分歩かずにも痛くなる。とはいえ全く歩けなくなるわけではない。痛いなーと思う、そのくらい。更に歩く。忘れた頃に痛みを感じて、座る椅子の形状・材質・高さをチェックしないと、腰を下ろすのも躊躇うほどになる。
このあいだ東京では、尋常じゃないほど歩いた。声に出してアッハハハッ!と笑ったら、腹筋を固めるわけで、腹から斜め下に力が入って、ピキッと、腰が響いた。その、ザンネンになっちゃった身体に、またひと笑い。
何回もブログみたいなものを作っては、消している。
たまにその断片のscreenshotがあったりする。読んでみると、いかめしい言葉使いばかりしていて、俺はこんなことを書いたのかと思う。
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