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死―甘―羊
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deadsugargoats · 6 years ago
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●あと、何日か前にYouTubeで、スリムクラブの沖縄ダークあるあるという動画を観て、なんというか、とてもモヤモヤした気持ちになった。これは、沖縄の人にしか分からない沖縄に親和的なネタでありつつ、しかし、全体のフレームとしては沖縄の人に向けられたネタではない---むしろ沖縄は異質な場所としていじられることで排除される(とはいえ、これは差異を提示することで行われるコミュニケーションともとれて、排除とまで言えるかどうかは微妙、しかし明らかにフレームとして中央集権的な構図ではある)---という複雑な構造をもつ、なんとも微妙な感じ。 沖縄県民だけ爆笑www スリムクラブ 沖縄ダークあるある 1/3~3/3(YouTube) https://www.youtube.com/watch?v=V2awRzC2tnk https://www.youtube.com/watch?v=W4dJ_BMLyEI https://www.youtube.com/watch?v=hWbzjR55pHY 何かをあらわにすると同時に隠蔽し、解放すると同時に抑圧し、親和性を示すと同時に排除の身振りでもあり、権力への抵抗であると同時に従属の身振りでもあるというような、「笑い」というものの複雑で多義的な組成に触れるようで、このなんともモヤモヤする感じについて
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20181110
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deadsugargoats · 7 years ago
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思考が停止したときは、停止してんのがどこなのかを探ると解決の糸口になりますよ、というわけで2007年に作った「自己解決したい時の思考停止チェッカー」を再掲。センターに問題を置き、村、金、我、壁の4地点で思考停止点を確認、解決可能なところから対処していきましょう
https://twitter.com/asakusan/status/1005512805372424192
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deadsugargoats · 7 years ago
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●ネットフリックスでポン・ジュノの『オクジャ/okja』。ネットフリックスオリジナルの映画。隅から隅までぎっしりポン・ジュノが詰まっている感じの映画で、とてもよかった。様々な要素がごった煮的に投入されていて、基本としては王道のエンターテイメントなのだけど、強い社会批判(というか、強い挑発性)があり、後味がすごく悪い。エンターテイメントなのに後味が悪いというのは矛盾しているようだけど、ポン・ジュノのやりたいのはまさに「それ」なのだろうと思った。 『スノーピアサー』がイマイチだったので、ポン・ジュノのアメリカ進出はあまり上手くいっていないというか、ハリウッドとポン・ジュノの相性はあまり良くないのではないかという感じがずっとあったのだけど、『オクジャ』は、アメリカ資本だからこその大きな規模の予算によってはじめて可能になった作品でありつつ、まさにポン・ジュノならではの作品になっていて、それを両立させたのがいわゆる「映画界」ではなくネットフリックスだったというところが面白���。 もしこれが娯楽作として映画館で上映されたとして、家族連れやカップルで観に行ったとしたら、帰り道は空気がどんよりしてみんな無口になってしまうだろうし、ましてや、この映画を観た後で「食事を楽しむ」というデートコースは不可能になってしまうだろう。だからきっと、ハリウッドではこの企画は通らない(資金がつかない)のではないだろうか。この企画はネットフリックスだからこそ通ったのだろうと思う。 主役の少女にとっては、一応ハッピーエンドといってもいい終わり方なのだけど、観客は、この少女の行為を百パーセントは肯定できないだろう。というか、観客は、少女も、ミランド社、ALF(Animal Liberation Front)も、百パーセント肯定できないし、百パーセント否定もできない。この映画は、観客を「挑発する」映画ではあっても、「正義を主張する」映画ではない。たまたま「オクジャ」だけを助けることができ、少女は元通りオクジャと暮らすことができるようにはなるが、しかしそのことは、この世界を何も変えていないし、何が正しいか、自分はどう行動すべきかが示されるわけでもない(たんに、悪が告発されるのではない)。世界はこのようにあり、少女はたまたま、そのような世界のなかで利己的に上手くいったということが示されるだけだから、ハッピーエンドなのに、観客はすっきりしないし、モヤモヤが残ったままだ。 ミランド社は食肉加工業者であり、安くて良質な肉を大量に生み出すことの出来る豚を(遺伝子組み換えによって)つくりだし、食肉として豚を育て、食肉として殺して、加工する(このことは、多くの人が飢餓で苦しむこの世界において一つの正義であろう)。しかし、少女にとって共に育った「オクジャ」だけはオクジャであって食肉用豚ではない。少女の目的は、ミランド社の告発でもなく、食肉用につくられた動物たちを開放することでもなく、ただ「オクジャ」を取り戻すことであり、「オクジャ」だけを救うことだ。 この物語で対立しているのは、ミランド社とALFであり、この二者は思想的に決して相容れない。しかし少女は、オクジャを救えればそれでいいので、二者の対立関係の外にいる。だから、最初は、あらゆる動物への残虐行為に反対するALFと共闘するが、結局はミランド社からオクジャ「だけ」を「買い戻す」ことで問題の解決とする。そのほかのたくさんの豚たちが殺され、食肉に加工されているのに背を向け、ただオクジャ(と、一頭の子豚)だけを連れて山へ帰ることになる。ミランド社による豚の大量殺戮は、少女にとっての「現実」の範疇をはるかに越える「大きさ」をもっているので、少女には、その出来事について何かしらのアクションを起こすことができないだけでなく、何かしらの判断を下すことさえ可能ではない。だからそこからただ立ち去るしかない。 また、ALFが少女やオクジャを助けるのは、自らの思想信条の宣伝や「運動」(ミランダ社の嘘の告発)のために少女やオクジャを利用するためであって、その意味では、ミランド社が自社のイメージ回復のために少女とオクジャの関係を利用しようとすることと、やっていることは変わらないとも言える(動物にも人間にも危害は加えないと主張するALFのリーダー格の人が、じつは衝動的な暴力をふるいがちな人である、という逆説もある)。 三者は三者とも、それぞれ自分たちの利害や目的に基づいて行動し、そのような複雑な状況のなかで、少女は自分の利己的目的を達成することに成功する。その点に関して、一定の祝福の感情を抱きつつ、どうしても、「ほんとにこれでいいのか?」という疑問を持たずにはいられない。「少女がオクジャを奪われ、少女が自らの行動によってオクジャを奪い返す」という一行で要約可能なエンターテイメント的でシンプルな物語があり、そこにシンプルに解決することの出来ない多様な問題をごった煮的に詰め込むことで、そこから「問題が解決された」というスッキリ感(カタルシス)を消してしまう。物語の進行を通じて、オクジャに関する様々な背景を知ってしまった以上、ただシンプルに「オクジャを取り戻す」だけでは納得できなくなっている。シンプルな物語とそれを支える背景としての世界像があるとして、シンプルな物語という前景に対して、背景の力が勝ってしまっていると言える。 この映画は、観客に対して「ヴィーガンになれ」と主張しているわけではない。そのような分かりやすい正しさはどこにもない(たとえば、少女は、オクジャは食べないし、ミランド社の加工肉も食べないだろうけど、家で飼っているニワトリの肉や卵は普通に食べているだろう)。この映画は分かりやすい「正しさ」の方向を示してはいない。だから、とりあえず、誰もが、自らの能力の範囲内で利己的に振る舞うしかない。しかしそのような状況は、「誰もが(自分の身の丈に合った範囲内で)利己的に振る舞うしかない」というシニカルな解決では決して納得できない何かがあるということを、モヤモヤ感によって逆に浮き彫りにする。観客は、すごく面白いエンターテイメント作品なのに、「スッキリ」を与えられることがなく、モヤモヤしたままで終わるということを通じて、その事実を突きつけられる。これがポン・ジュノの挑発なのだと思う。 ●この映画の主な舞台は、韓国の田舎の山の中と、ソウルと、ニューヨークなのだけど、特に、ソウルで撮られたアクションの場面がすばらしい。『グエムル』も素晴らしかったけど、それを上回る面白さで、そしてこのアクションは、ある程度以上大きな規模の予算によってはじめて可能になるものだと思われる。つまり、『グエムル』以上のことをやるにはある程度「お金」が必要であり、そのためにはアメリカ進出が必要であったのだろう。そして、『グエムル』から十年以上かかって、粘りに粘ってとうとうこれを実現させたということだろう。ポン・ジュノすげえと思った。 (アクション場面そのものはすばらしいのだけど、そのすばらしいアクションによって何か問題が解決されるわけではないという意味では、アクションは不能だとも言える。) ポン・ジュノは、韓国映画という枠のなかでは(興行的にも)十分以上に成功してきた人で、無理してアメリカへ進出する必要もないように思えたし、実際、『スノーピアサー』はあまり上手くいっていないように思われたのだけど、『オクジャ』のソウルでのアクション場面を観て、これを実現させるためにはアメリカ進出が必要だったのだなあと納得した。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20180531
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deadsugargoats · 7 years ago
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https://twitter.com/inuicpa/status/983638176534163456/photo/1
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deadsugargoats · 7 years ago
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https://newswitch.jp/p/12258
http://yuiga-k.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113000
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deadsugargoats · 8 years ago
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ちゃずけのきろく - 橋本治の言葉から。 橋本治が「最近は知性に倫理が伴っていない」と朝日新聞に書いたのを読んで、「倫理の伴わない知性」が存在するかと驚いた。 (中略) 某めがねアイドル女子を貶めるのに、 吉田豪という、ある意味、侵し難い存在を盾に、個人攻撃を浄化する、それをなにげにやってのけて、 これは女性にしか書けない、そのライターはさすが「サ○ゾーウーマン」で書いているだけある、と思った。 彼女に「知性」は確かにあるだろう、でもその「知性」に「倫理」はない。 橋本治の言葉を借りれば「知性なき倫理」も存在するだろう。 考えてみれば、最近の「倫理」に「知性」が伴っているのをみたことがない。 芸能人の不倫だとか、最近起こった醜聞への反応は「倫理観」が振りかざされても「知性」はない。 (中略) おそらく「倫理なき知性」には「心の貧しさ」が、「知性なき倫理」には物理的な「生活の貧しさ」があるだろう。 私は「社会の右傾化!」が叫ばれるたび、この二つの貧しさが激しくぶつかり合っているのだと最近思うようになった。
http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20170717
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deadsugargoats · 8 years ago
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The Red Diptych - 文学におけるポストメディウム概念の矮小化について――ロバート・クーヴァー『ようこそ、映画館へ』 ロザリンド・クラウス以降のポストメディウムをめぐる議論は、 芸術作品を構成するデータがデジタル処理に還元しうるという技術的状況を前提している。例えば映画であれば、コンピュータ上で処理すれば、言語記号に変換して処理することが可能である。  ……ということは、言い換えれば、芸術作品の言語記号への変換可能性がこの議論の前提となっている (中略) 文学作品にとってのメディウムとは、その作品を構成している言語の文法構造である。  日本語が用いられているなら日本語の、英語が用いられているなら英語の、それぞれの文法構造の限界を、文学作品は超えることはできない(文法構造を破壊するときですらそうである)。その意味で、単に個々の「言葉」が文学作品にとってのメディウムなのではなく、共時的にとらえられる言語体系そのもの(ラング)こそがメディウムだったのである。  そのように考えてみると、モダニズムとはメディウムの本質と結びつく自己純化の過程であるというグリーンバーグの議論は、文学にも当てはまることがわかる。その上で、それをモダニズムを前提としつつ批判的に乗り越えるためのポストメディウム的状況とは、文学にとってはなんなのかを考えることもできるだろう。  その作品が所属する固有の言語の文法構造に、作品の成り立ちは依存する。このような意味で純化された閉域の外部とは、異なる法則によって支配されている、異なる言語体系であろう。……つまり、文学作品にとってのポストメディウム的状況とは、複数の言語間での異種混淆性のことなのである。  以上のように考えてみれば、文学におけるポストメディウム状況とは実は目新しいものではなく、ヴァルター・ベンヤミンやジョージ・スタイナーなどによる既存の翻訳論をきちんと参照すればよいだけのことだったのである(ここでくれぐれも注意しておかなければならないのは、ここでの言語的異種混淆性とは、単なる翻訳可能性の問題ではなく、「翻訳不可能性を前提とした上での翻訳の問題」であることだ)。
http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-236.html
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deadsugargoats · 8 years ago
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水野しず 公式ブログ - 自己紹介に病気を使う奴全員クソバカ  - Powered by LINE 自己紹介で病気を言ってくる奴はマジで何にも考えてないクソバカ。 そんな安易な手法で他人の同情もしくは気をひけるとでも思ってるの? もしくは同類(違うし)と認識してもらえるとでも思ったか。マヌケもいいとこだ。マジレスだが「医者に言え」 国民皆保険を利用した上で金を払って医者に言え。三割負担だ馬鹿野郎。発達障害の薬に関しては自立支援制度を利用すれば自己負担割合をもっと少なくできるし保険入ってなかったら入れ。入る金もなかったら生活保護の相談を市役所の窓口でしてこい。基本的なシステムだから学校で習うだろ。もし知らなかったらすまんがそうだとしても病気で自己紹介はするな。やめておけ。 いい機会だからお前の病気(あるいは個人の特性から生じる社会との齟齬)は「置かれた状態から発生する現象」のことだという根本的な事実をよく頭に叩き込んでおけ。 つまり状況を分析して改善する考えもなしにそれを他人に発表するのは基本的には他人から見たら大マヌケにしかみえないんだよ。 もしかしたら現在発生している症状の特性で客観的に自分の状態を考える事が難しくなっているかもしれないからたとえ話をする。 毒の沼地にいる人間に「自分は一歩歩くごとに体力が減り体が紫色になっているという人です」って言われてる。「出ろ」と もしかしたらあなたにとっては全世界が毒の沼地かもしれない。だったら体が紫なのはエターナルピュア・ナチュラル・オーガニック・マクロビオティックだから安心しろよそれは病気ではないから風の谷のナウシカの漫画版でも読んでその曲げる事のできない圧倒的強靭なアティチュードをオリジナルのリリックで表現して欲しいし、病名くらいのことで説明がつくんだとしたら早いところ馴染む努力をして善良で一般的になってくれ 「うつです」て。 ど直かよ。感想の持ちようがないわ。なんか最近感想の持ちようがないことを他人に言うスタイル流行ってるの?だったら言わせてもらうけど自分は左足の親指が軽い巻き爪だけど特に��むほどではないから安心して欲しい そりゃあ多くの人に広く認識されてるような人が発表するんだったら別だけど。ガチャピンに「うつです」って言われたらガチャピンがうつになった経緯を詳しく聞きたくなるけど知らない人に言われたところで「虫歯です」「歯医者行けば?」と同じだし。むしろそれ以外なんかありますかね?あったら是非教えてください。 ワシかて医師から『障害者手帳3級いけます』とお墨付きをいただいているご身分だがなんぼのもんじゃい「おかわいそうで、結構」おかわいそう発表会をやりたかったらそういう自助会に参加するがいい。認めない。お前の社会から疎外される性質を切り取って名前をつけたものをお前だとは絶対に認識しない。そんな人間私の脳からは消してやる。
https://lineblog.me/mizunoshizu/archives/67135169.html
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deadsugargoats · 8 years ago
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水野しず 公式ブログ - ボケ、ツッコミなしで会話をするコツ - Powered by LINE (TwitterのDMで寄せられた悩みについてよく返信をしているのですが、この悩みは普遍性がありそうなのでブログで回答することにしました) 『意味のない会話が難しい』 友達と会話がうまくできません。対話や情報交換ならできるのですが、会話ができません。具体的には女子話や恋話、お互いのキャラクターをいじり合うことや軽いボディータッチ(ハグなど)ができないのです。僭越ながらしずさんも、対話や自己表現は卓越したものを持っていながらそれゆえに会話は 苦手なのかと思っていました。会話は対話と違ってその場の空気を読む作業なため、空気を自ら壊していくしずさんとは肌に合わないのだろうと思っていたのです。 しかしこの前の「ぱいぱいでか美さんの誕生日祭の夜のトーク部」で非常にリラックスされて会話に参加されており、もっと言えば会話に参加しなくてもリラックスした表情で会話を聞いており、自分が話せる箇所のみ話し笑いを取っており、ちゃんと自分のキャラクターを出していたので私もああいう風に会話に参加したいと思いました。いじることやボディータッチや空気を読むことはできなくても、いじられることで、自己表現することで承認される存在(あの時のしずさんのように)なりたいと思ったのです。 私が会話下手なのは、ボケとツッコミが苦手でお笑いのセンスがないという技術面の問題と、自分をさらけ出すことに常に「人からどう思われるか?自己愛の強い人間だと思われないか?」と躊躇してしまう精神面の問題があると思います。 技術面の問題と精神面の問題をどうカバーしていけばいいのかを考えているのですが、しずさんから見て 1 こんな私はどうすれば、しずさんのような形で会話に参加できると思いますか? 2 またしずさんは自分が会話に参加するためにどんなことを考えていますか? ○水野しずの考え あの場で会話できたのは「人に見せるという目的を共有している」という前提があったことが大きいのではないかと考えられます。トークショーとして見せるものと考えれば、自分がどう動くのが場の利益(見ている人の楽しさ)にとってプラスになるか非常に明快であるからです。私も平生はあまりそういったボディタッチのような会話には加わりません。そういった会話(いわゆる社会学者の言うところの毛づくろい的コミュニケーションということになるのでしょうか)のフリに対しては黙って考え込んだり、ある意味無粋なコミュニケートに対するゲームという捉え方で遊んでしまうことが多いです。 もももさんの悩みについて考えてみます。会話への参加を目的としてそのためにどのような修練を積めばよいかという考え方をしているようですが、それ以前の問題として会話のボケ、ツッコミって確認作業の反復みたいでつまらなくて根本的にそんなにやる気がわきませんよね。さほど興味も湧かないものを少々の義務感のような出自不明の感覚でなんとか頑張ろうと考えるのは無理があるのではないでしょうか。私は無理なのでやりません。それではどのように対応しているかというと「ボケ・ツッコミ」要するに「想定される受け答えからの一定の範疇に収まる範囲内でのブレの提示と訂正」という前提を別のものに置き換えてしまうことで会話というゲームを自分にとって楽しめるものにカスタマイズしているのです。 具体的に例を挙げてみると、例えばインド人っぽい顔というキャラクター認知をされている人が「お昼ご飯を食べに行ってきます」といった際に「カレーですか?」と返すボケがあるとします。これは会話として非常に成立したやり取りです。なぜなら周囲のキャラクター認知をしている人間にとって極めて想像しやすく正しくゾーニングされたポイントにブレを提示しているからです。このやり取りにより「インド人」というキャラクター認知がより強固なものになり、コミュニケーションは円滑なものとなるでしょう。しかしながら強固になると同時に「会話がキャラクター像の確認作業になってしまい予め想像のつくやり取りに終始する」というデメリットが発生します。このデメリットを避けるためには集団をつぶさに観察すれば良いのです。必ず「ブレの提示と訂正」へのバイアスが発生してきますので、バイアスの発生を見逃さないようにします。そしてバイアスが発生した瞬間(確認作業の共有)に「場の人間の共有するイメージを裏切る」という別のゲームへと転化をするのです。この際の裏切りはゾーニングの境界線上を��うく転がるようなものであれば比較的わかりやすい笑い(空気の崩壊)が発生しますし、ゾーニングから遠いところであれば次のゲームへのルールーを探るための豊かで興味深い感覚の共有(愉快な混乱)が発生します。これは会話やお笑いのテクニックというよりも、どちらかというとアートが社会的に担う役割に近い所業なのではないかと私は考えています。もちろん、どのような種類であれ混乱を嫌うような脳構造のホモサピエンスも存在するのでこのやり方は合わないという場も存在するでしょうが、「存在するなあ」というくらいで特段害はありません。誰かが怒っているとしてもそれは自身の許容の小ささをわざわざ露呈しているだけのことで構うことはありません。 もっと言えば最強の手段は黙っていることではないのかと思っています。私は最近もっぱら「存在する」ということについて考えているのですが、それは要するに影響を及ぼし合うということであり必ずしも言語を必要としないという現時点におけるひとまずの結論にたどり着いたので大人数の飲み会などでは口数を減らして存在することにトライしております。こちらもエキサイティングな試みで非常に楽しいのでオススメです。どちらにせよ要点は「会話の構造は他者と共有しつつそれらを成立させるルールはインディペンデントである」という心がけを持つことです。空気を読むことが重要視されるというこは要するに、多数派のルールや傾向、トレンドを察知して早乗りした順にその場のヒエラルキーが確定するということですが、トレンドの発生源はその場にいる人間の感性に端を発する心の動きだと思うので。(心は動きます)
http://lineblog.me/mizunoshizu/archives/67134466.html
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deadsugargoats · 8 years ago
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高橋由一や、あるいはクールベのリアリズムは、視覚的な再現性だけでなく、油絵具の物質感が、描かれる物の実在感の隠喩となっているから、そこに過剰な(明治初期の画家の場合などはいささか度を越した、エモすぎる)迫真性が生まれるのだけど、現代の作家の細密描写は、視覚的な解像度が上がり過ぎているために、視覚性に特化され、迫真性が幻想性に転化している。物��そこにあるというより、脳に視覚像を直接送り込んでいる感じ。それは、良し悪しではなく、現在においては必然的というか、まあ、当然そうなるよね、と。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20170519
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deadsugargoats · 8 years ago
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勉強で一番難しいことって何か、ってご存知ですか? 当たり前みたいですけれど、それは、「分からない」に対応することなんです。 「分からない」に突き当たった時、どう対処するか。対処出来るリソースをどうやって探すか。そもそも、「分からない」を明確に意識すること、言語化することが出来るか。人に頼ることが出来るか、教えてくれる人を見つけることが出来るか、見つけられないとしたら自分で調べることが出来るか、理解出来る参考書を探すことが出来るか。 これ、当たり前のようだけど、当たり前に出来ることじゃないんですよ。「分からない」に突き当たった時、そもそも「分からない」を言語化することも意識することも出来ず、勿論人に聞くことも出来ず、なんとなく分からないまま通り過ぎちゃう子、山ほどいます。ものすごーーーくたくさんいます。多くの場合、それは取返しが付かないくらい「分からない」が積み上がった後、やっと発見され、対処が可能かどうか(主に大人によって)検討されることになります。周囲の環境も含めて、正直運次第って部分もないではないです。 「分からない」を解決する為にはどうすればいいか、っていうノウハウはたくさんあります。けれどこれも、経験しないままだとずっと身につかない。小学校、中学校でずっと「分からない」を経験しないまま通り過ぎて、高校になって初めて「分からない」にぶち当たって、どうすればいいか分からず落ちこぼれちゃう子、とかも全然珍しくありません。 「分からない」を認識してそれに立ち向かうことって、それだけで、ある種の訓練というか、慣れを必要とすることなんですよね。「分からない」にある程度慣れていないと、そもそも自分が分からないことが分からない。分からないことを見過ごしてしまうんです。「分からない」を直視するのって、精神的にも結構大変なことです。
http://mubou.seesaa.net/article/449533091.html
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deadsugargoats · 8 years ago
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糖質制限と一口に言っても、医師によって意見が分かれていて、大きく分けて 『ケトン体消費を起こさないリスク無しの粗食・糖尿病患者食系(100~130g+低GI食推奨/バーンスタイン式)』 『ケトン体消費を起こして短期間に痩せる・ボディビル系(0~20g+高タンパク推奨/ライザップ式)』 『間を取ってケトン体消費が起きるギリギリを狙う(40~60gくらい/アトキンス式)』の、3つの派閥があるようです。 ここでは、便宜上ライザップ式とアトキンス式を『スーパー糖質制限』と呼びます。 (常人の糖質摂取量1日200~300g、ご飯1杯50g、食パン1枚25g) バーンスタイン式とスーパー糖質制限は、考え方が正反対であるにも関わらず、 ひとくくりに『糖質制限』と呼ばれていて、『糖質制限は安全』と言う人はバーンスタイン式、 『糖質制限は危険』と言う人はスーパー糖質制限を想定しているようです。 本書はこの二つの違いを説明しておらず『バーンスタイン式が安全という論文があるから、 スーパー糖質制限も安全』という論調なので、鵜呑みにすると痛い目に遭いそうです。 なおバーンスタイン博士は、スーパー糖質制限を批判する発言をしています。(URLをコメ欄に張ります) 『低インシュリン=ケトン体消費=糖新生』は、体に飢餓状態だと錯覚させ、普段使われない栄養を 切り崩して短期間で痩せる、いわばバグ技です。 すでに標準体型の人が、家族や友人がやっているからと、なんとなくつきあいでやったり、 長期間制限し続けると、内臓に負荷がかかって体を壊します。(特に、肉の食べ過ぎで腎臓) 必ず、身長ごとの理想体重を調べて、目標を立ててから行って下さい。 (マッスル北村というボディビルダーが、"ライザップ式"で糖新生で得られるエネルギーと筋肉の収支計算を誤り、 低血糖を起こして心不全で亡くなっています。体重100kg超えで実質餓死。 ライザップ式は早く痩せる代償に、それくらいきっついリスクがあります) 現在、女子高校生の平均身長は160cmで理想体重は55kgくらい、BMIでは50~63kgが標準。 身長165cmなら60kgくらいが理想体重、BMIでは52~68kgが標準です。 しかし、日本の服の規格は身長162cm以上を想定しておらず、 身長が平均を超えている女性は、BMIで肥満判定になるより前に3Lサイズになってしまいます。 間違っても『ファストファッションブランドで一番大きいLサイズが入らなかったから太っている』 『女性の体重は40kg台でなければならない』という思い込みを持ったままダイエットしないようにしましょう。 (2015年10月放送のクローズアップ現代にて、15年前のマネキンに今売られているスキ��ージーンズを着せると ホックが閉まらない、という実験が行われていました。 15年前のマネキンでも十分モデル体型なのに、現在のマネキンはそれを下回る人間離れした激ヤセ体型。 平均身長は上がっているのに、服のサイズ表記はそのまま、ワンサイズ小さくなっていたということです。 今までLLサイズが入っていた人が3Lサイズに追いやられたのだから、最初にLLサイズから売り切れ、 逆にSサイズが売れ残るのも納得です) 『糖質さえ制限すれば脂質やタンパク質はいくらでも食べていい』というのは、 あくまでケトン体消費モードをアテにした『スーパー糖質制限』の考え方です。 アトキンス式では、ケトン体消費モードに切り替える為に、最初の二週間は糖質20gに制限する事になっていますし、 ケトン体消費が起きているか確認する為に、専用の試験紙を尿にひたして、検査をしている人もいます。 本書を斜め読みして『始めたばかり、もしくは1日1~2食の置き換えしかしていないのに、肉と脂質を大量摂取』 といった事をやらかすと、逆に太ってしまいかねません。 肉はともかく、脂質を大量に食べたいなら、ご飯やパンは��全に諦めること! 一方、仕事上の付き合い等の理由で、どうしても通常の食事が避けられない場合、 ご飯1杯で本書の推奨する数値をオーバーしてしまいますが、バーンスタイン式で成人病対策ついでに 微妙に痩せる程度の効果は狙えるので、諦めずに残り2食の主食を置き換えてみて下さい。 むしろ、ライザップ式で限りなくゼロを目指して、毎食、焼き肉とブロッコリーと味噌汁程度の食事をしていた人が、 ダイエット期間が終わった途端に我慢していた炭水化物をドカ食いして、 飢餓状態で栄養を吸収しやすくなっている為、一瞬でリバウンドするケースが多いようです。 『50gにするつもりがつい間食しちゃったわー100超えちゃったわー』くらいの雑さでちょうどいいです。 (ライザップ式をやめる時は、1日の摂取量を0→20→50→100と段階的に増やしていかないと いけないはずだが、そこまで説明されないらしい) 【女性について】 「所さんの目がテン!」で、肉、卵、納豆、少量の葉物野菜だけを食べ続けるライザップ式の実験を二週間行ったところ、 内臓脂肪の多い男性は2週間で8kgくらい痩せられるが、皮下脂肪の多い女性は 内臓脂肪を消化しきった3kg減あたりで停滞してしまう、という結果が出ています。 バーンスタイン式でも1ヶ月2kgペースで痩せられるので、リスクを伴うスーパー糖質制限をやる必要は無いと思います。 (コメ欄にURLを張っておきます。この本を読んだだけじゃピンとこないけど、食べる量が視覚化されるとドン引きしますよ) 女性がケトン体を消費するほど切り詰めた場合や、体脂肪率20%を下回るほど痩せた場合、 生理が止まる事も考えられます。逆に、糖質過多が原因で生理が重くなっていた人もいるらしく、 ゆるい糖質制限をかけたら生理痛が無くなった、という報告をBlogやSNSで幾度か見かけました。 同じ日でも、便秘中かつ飲食した直後と、排便後かつ空腹の状態では、1kg程度の誤差が出ます。 また、生理前はホルモンバランスの影響で、便秘やむくみで体重が増え、 逆に、生理後は逆に体調が良くなり体重が減りやすくなります。 生理前と便秘が重なると急に3kgくらい増える事もありますが、数日後には元に戻るので、落ち込まないで下さい。 生理前に甘いものを食べたくなるので、先回りしてゼロカロリーゼリー、ブランやおからの入ったクッキー、 カロリーコントロールアイスなどを買い込んでおけば、被害を最小限にできます。 【調味料・乳製品について】 最も厳しいライザップ式では、牛乳に含まれる乳糖、豆腐・トマトケチャップ・みりんなどに含まれる糖、 揚げ物の衣、肉・魚肉加工食品のつなぎの小麦粉や片栗粉、餃子の皮まで外さなければならないけれど、 アトキンス式やバーンスタイン式であれば、これらは制限しなくてもかまいません。 食べられる食材の幅が狭まると、飽きるのも早くなって本末転倒です。 本書はアトキンス式推しなのに、乳製品・調味料の章だけライザップ式準拠なので、バランスが悪く感じます。 【メモ】 ★豆腐 バーンスタイン式とアトキンス式では推奨食材だが、限りなくゼロを目指すライザップ式ではNG食材。 充填式の絹ごし豆腐を40円くらいで買えば一食150円くらい。 電子レンジで2分ほどチンして、上に皿などのおもしを載せて数時間置いて水抜きすると 生のモッツァレラチーズみたいな食感になる。 タイカレー缶、パスタソース(少量)、レトルトの丼ものの具(半量)などをかけて、ごはんの代わりにしてもいいし、 バジルソースを塗ってチーズをかけてオーブントースターで焼いて、グラタンに見立ててもいいかも。 豆腐自体は糖質3g、タイカレーと豆腐1丁を合わせても糖質10gあるかどうかくらいで、パスタソースをかけた場合はさらに下がる。 1丁丸ごと食べるなら、白米ご飯よりおなかが膨れるし腹持ちも良い。 豆腐に限らず、たんぱく質だけを頻繁に食べると、あからさまにおならや便臭が悪化するので、 こんにゃく麺・ブランパン・ブロッコリーでローテーションを組むこと。 ★こんにゃく麺 常温で長期保管可能・100円で買える純粋なこんにゃく麺なら『月のうさぎ』 冷蔵保管で日持ち二週間150円だが、味を追求したいなら紀文のおから入り0カロリー麺が良い。 ローソンストア100とAmazon内で売られているかぶら食品製や、しらたきは、生臭さが抜けない。 『月のうさぎ』の場合、ザルで水をきり、電子レンジで2分ほどチンして、再度ザルにあけ、 出てきた生臭い水を捨てて水洗いすると、ほぼ臭みが無くなる。食感も他社製よりぷるぷるしていて良い。 (色付きの麺はカロリーがあるのでNG。そうめん風はからまりやすいのでうどん風を推奨) 付属のタレが低脂質高糖質なので、高脂肪低糖質が良ければパスタソースなどに差し替えるといい。 これ1食分ではおなかが膨れない。消化されないので、毎食こればかりを食べると便秘の原因になることがあるらしい。 ★ブランパン/ブランロールケーキ(ローソン) 惣菜パンもある。1袋あたり糖質6~15くらい。1個100~150円。 1個では満腹にならないので、同じくローソンで売られているサラダチキン少量と一緒に食べるといい。 (というより、ブランコッペパンにサラダチキンを挟んだ新商品が出た。そちらはサンドイッチコーナーにある) ブランパン・ブランブレッドはタンパク質が多く、ブランブレッド1袋で20g入っている。 なにげに1袋200キロカロリー(パンケーキは300)あるので、2個食べると食パン半斤並のカロリーになる。 その内訳がタンパク質に偏っているとはいえ、心臓に悪い。 パサパサして食べにくい場合は、袋に穴を開けて電子レンジでチンするとしっとりして食べやすくなる。 糖質制限中にどうしてもパンを食べたくなった人向けであって、毎日食べるべきではないかも。 食後の血糖値の急上昇・急低下による眠気を抑えたい人にも。 同じくローソンの『ナチュラルローソン』ブランドで、ダイエット用のお菓子シリーズも展開している。 全粒粉は普通の小麦粉で作ったパンが糖質30gになるところが、全粒粉なら25gになる程度で、 ブランパンほど糖質が低いわけではないが低GIではあるので、目標体重を達成したら いきなり白い食パンに戻すのではなく、全粒粉パン(次点でライ麦パン)に置き換えるといい。 ★オールブラン・グラノーラ 一食あたり20~30gの糖質が含まれるうえ、牛乳をかければ乳糖でさらに糖質が上がる。 ただし低GI値食品であり、食物繊維が多かったり、血糖値が上がりにくかったりする。 『糖質量100g+便秘にならないよう維持』のバーンスタイン式や、ダイエット後のリバウンド防止には視野に入る。 『クリーム玄米ブラン』はオールブランにクリームを挟んだもの 『一本満足』はグラノーラをチョコレートで固めたもの。 ★ブロッコリー ササミと並ぶボディビルダーの定番食材。まとめて茹でて冷凍しておく。 カレー・ハヤシなどのご飯の代用として使える。 野菜炒めの具にしたり、パスタソースをからめシュレッドチーズを載せてグラタンにしたり。 茶碗いっぱいも食べれば相当おなかが膨れるので、主食の置き換えにも。 ★ソイジョイ  ピーナツ味とアーモンド&チョコレート味が突出して糖質が低く6~7g程度。糖質制限中の間食に最適。 ★おからだから  糖質量はソイジョイのほぼ���だが、カントリーマアムそっくりな味なのでストレスの解消目的にたまに食べるには良い。 ★タイカレー缶 100均とスーパーで容量が違うので注意。スーパーのものはちょっと高いが2食に分けて食べられるかも。 イギリス・日本式のカレーと違って、インドやタイのカレーは根菜系の具が入っていないので若干糖質が低いし、 元が薬膳料理なので、整腸や利尿効果がありそう。 加えて、タイカレー缶にはココナッツミルクが含まれている。(ココナッツオイルとココナッツウォーターが流行った) このため、糖質制限BLOGの献立で頻出する。 ★エリスリトール ゼロカロリー甘味料で、嫌な後味が無い。(キシリトールに似たひんやり感はある) 低温で結晶化する、高温で甘さが無くなる、などの特徴があるので使える食品が限られる。 これが入っているゼロカロリー食品はあまりハズレが無い。 ゼリーやガムに使われる事が多く、飲物には使われない。 砂糖の7割の甘さしかないので、別種の激甘な甘味料を少量加えた状態で売られている。(ラカント等) ★ゼリー 蒟蒻畑は砂糖が含まれるのでNG。 マルハ ゼリーdeゼロはエリスリトールが糖類なので5gと表記されているが、 人間には消化できないし、インスリンも出ないらしいので0g扱いでOK。味も人工甘味料っぽさが無い。 Amazon内で売られているゼロカロリーわらびもちも、同じく蒟蒻とエリスリトールメインでおいしい。 四角い容器に入った寒天ゼリーは、寒天の生臭さや食感が邪魔をしてしまっておいしくない。 ★アイス  先述のゼリーを冷凍すると、市販のメロン型容器に入っているものと比べても遜色のないシャーベットになる。  乳製品系はもとからゼロカロリーアイスとして売られているものを当たるしかないが、  エリスリトールが使えない為、味に当たれハズレがある。 ★自分の場合、この条件+運動無しで月2kgペースで減っています。  『主食をブランパン、豆腐、蒟蒻麺か糖質0麺、クリーム玄米ブラン、ブロッコリーいずれかに置き換える』  『飲み物は基本水かお茶。ジュースはゼロカロリー甘味料以外禁止』  『おかずは極力そのまま。ポテトサラダ・コロッケ・餃子・揚げ物の皮などは厳密には糖質だが、   飽きて続かなくなり本末転倒だし、どのみち1日130g以下には収まるので、量は減らすが禁止はしない。   砂糖以外の調味料も禁止しない』  『主食を置き換えた分、1日の必須カロリーに届かなくなるのと、糖新生で筋肉が減る恐れがあるので、   プロテイン1杯かササミ1本を1日1~2食。特に朝食時-』  『外食が避けられない場合、蕎麦かスパゲティ(粗挽き粉の為GI値が低い)があればそれ。   無ければサラダ。おかずは気にせず完食』  『おやつは極力糖質オフのものか、糖質が主成分ではない、ビーフジャーキー、   コンビニのフライドチキン・つくねおでん、など。   通常のものは家族が食べている時に1口だけ分けて貰うに留める。果物も同様』  『意識が遠のく時は血糖値が下がりすぎているおそれがあるので、GI値が低くて糖質が含まれている   クリーム玄米ブラン、または少量の普通のお菓子で、最低限の血糖値は確保する』  『ハンバーガー+ポテト+ジュースという糖質三点セットの組み合わせになるハンバーガーはさすがに禁止。  仮につきあいで行くとしてもサイドメニューとお茶』 ★ほとんどが水の生野菜より、主食をこんにゃく麺など低GI食に置き換えた方がよほど食物繊維摂取量が増える。  ダイエットの副産物として、過敏性腸症候群(ストレス性の下痢)が改善する事もありえる。 ★防風通聖散(ナイシトール、和漢箋、コッコアポS) 本来は肥満体型の男性が、便秘と高血圧の治療の為に処方される下剤。 痩せるのは副作用にすぎないし、パッケージに書かれている分量は女性の体重には多すぎる。 最初は効きすぎるので、最初は1日1回だけ、家にいる時間帯に飲む。 効きが悪くなってきたら下痢にならない範囲で回数を増やす。 このことを理解したうえで、便秘の解消目的で飲むなら悪くない。 ★精製が進みすぎた主食は消化が良すぎて、血糖値が急上昇・急低下して糖尿病になりやすいし、  腹持ちが悪く間食が増えてしまう。(高GI食のうどんで有名な香川県は、糖尿病患者率TOP)  ダイエットとまでいかなくとも、主食を玄米やブランに置き換えて粗食にする程度の事は、万人が検討した方がいい。  たとえば、食パンはドン引きするくらいの高GI食品なので、低GIな全粒粉パン(次点でライ麦パン)に置き換えるだけで  相当腹持ちがよくなり、間食が減る。 ★買い物で成分表を見る際『バーコードバトラー/モンスターファームの強キャラ探し』と思った方が多分続く。 ★女子中高生の少食女子力アピールマウンティング合戦や、『自炊しない自分はダメ人間なんだ』という  プレッシャーから抜け出す口実ができるので、ダイエットとして効果的かはともかく、精神衛生面は改善する。 ★本書では扱われていないが、心療内科シリーズで『口唇欲求』を解説した回があり、  口に何かをくわえたり、かじったりするとストレス解消になるので、タバコをやめにくい、という話題だった。  間食もこれの一種と思われるので、歯固めやマウスピースを噛んで二重あご対策をしたり、  風船をふくらませて肺活量を鍛えたりといった、口を使うトレーニングに置き換えれば、  手持ち無沙汰で間食してしまう回数が減ると思う。 ★「糖質制限+肉大量」というダイエット法「MEC食」というものもある。
https://www.amazon.co.jp/review/R2LTXN55BS485H/ref=cm_cr_rdp_perm?ie=UTF8&ASIN=4785954833
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deadsugargoats · 8 years ago
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このような齟齬を、ジャンルの外からの視点で改めてとらえてみるならば――それは、ジャンル・フィクションとは、ジャンルとしての存在意義を失った時点だからこそ、ジャンルそのもののあり方が絶えず流動することもなくなり、結果として、ジャンルの内部にいる人間からすれば固定し自律性を獲得したかのように思うことのできるものである、ということなのではなかろうか。  よりあからさまに言ってしまえば……既に明確な存在意義を失ったもの、あってもなくてもよいもの、ただし、確固たる提携は確立しているために同工異曲の作品を量産することが容易な状態になっているもの……結果として、その分野の存在意義など考えずにすむものこそ、ジャンル・フィクションなのではなかろうか。  ジャンル・フィクションの成立・完成と見えるものは、より広い文化全体の文脈の内部でとらえ直してみるなら、むしろその存在意義の喪失である。
http://howardhoax.blog.fc2.com/blog-entry-231.html
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deadsugargoats · 8 years ago
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●逆に言えば「賞を受ける」ということは、授与側の権威を認めることを意味する。賞は受けるが権威は認めない、というのは理屈が通らない。賞を与えるという時、受賞者より授与者の方が「偉い」ことが前提になっている。ご褒美やお墨付きは位の高い者が低い者に対して与える。だから、例えばぼくが勝手に「古谷賞」をつくって誰かに与えるとしたら、それはかなり失礼なことだと言える。ぼくがある作品を「面白い」と思う時、それは少なくともぼく自身よりは「高いところ」にあるものだからで、上から目線で「評価する」ものではない(「作品を擁護する」という言い方も、ぼくには上から目線に感じられるので使えない)。これは基本的なことであり重要なことで、たとえぼくがなんとか賞の選考者だったとしても、そのことは変わらない。これは矛盾することなのか。でも、賞の権威は、選考委員にあるというより、運営団体や賞そのものにあると考えられる。選考委員は賞の権威のために奉仕する者でしかないと考えられる。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20170125
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deadsugargoats · 8 years ago
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それ、科学的に教えてもらえませんか?
石川善樹
考えが浮かばないのは、「問い」が悪いせい? 考えるための3つの方法論
https://cakes.mu/posts/14780
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deadsugargoats · 8 years ago
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評判を共有するのが評論か。 「評論」について思いだせる範囲で書くと、1981年1月に出た音楽ミニコミ『ミュニオン』掲載の「触発/ロック評論の腐敗」というインタビューで、高沢正樹氏がこう話していた。    ──評論の腐敗みたいなことに関して言えば、“こう感じた”ことに対する論理的解明をさほど望んではいないでむしろ“こう感じた”というフィーリングを信頼するファンとその上にノッかっちゃってる評論家の間の相関々係についてはどうお考えですか?    全くもって許しがたいですね。つまり音楽評論家というよりも音楽評判家なんであってさ。評判をお互いにどう共有していくか、ということでしかないんだよね。全然「評論」家じゃないんだから、評論をおとしめるから、まず評論家っていう肩書きをおろして欲しいっていうのはあるよね。評論は評論としてすごく重要なものだから。 「評判家」という表現が興味深い。この言葉から、共感を第一に置き、価値観を共有していない人間との対話をあらかじ��断絶した姿勢を感じないだろうか。これが既に1981年の時点で言われているのである。そういえば80年代後半に高木完氏が「音楽評判家」を自ら名乗っていた時期があったが、言葉が内包する皮肉な感覚をとらえていたのかもしれない。 もう一つインタビューを引用する。1983年8月の『よい子の歌謡曲』14号掲載の近田春夫氏へのインタビューに、音楽評論について触れている箇所がある。    それからもう一つは、評論というものは、役に立たないんだよと。評論家っていうのは何かっていうと、それが自動車の評論家ならそういう機械に対するデータであるとか、そういうことに対する認識がなければできないはずなのに、音楽評論だけは全部何の基準もなく語ることができると。(中略)ぼくなんか一時レコード評を書く際に一切レコード聞かずに書いたことがある(笑)実験として。どの雑誌かは言わないけど、そういう仕事をやってた時に、レコード評とか言われて毎月レコード何枚か来ると、何も聞かないで書いてた。それでも何もクレーム来なかったの。おかしいなと思って。そういうもんなんだってことを言いたかったんですよね。だからぼくは自分では評論というよりは、研究だと思うな、自分にとってはね。 自分の印象のみで対象を語れると思ってしまう評論家と名乗る人々の傲慢さについて語っているのだが、これは実際は音楽評論に限った話ではないだろう。しかしそれは評論家個人の問題というよりも、需要と供給という経済システムから生まれたものである、と思ったほうが良さそうである。 共感に重きを置くリスナーにとっては、共感できるか否かでその評論も判断されるべきで、例えばどんなに客観的に調査し考察された評論でも、自分の魂の震えに触れていなければ不要に見える、というわけだ。お金と時間をかけて調査した評論よりも、印象で書いた文章のほうが愛されるなら、合理的に判断すれば後者を選択するのは自然、である。評論という行為が決して合理的でない「作品の本質に近づこうとする行為」だとして、読者がそれを求めているのかは別ということである。いや、作品の本質はつねに受け手の中にある、ということかもしれないが。 数年前、周りの人達が急に「いま批評が大事!」と言い出したことがあり、ワタシはといえば「ではいま批評と呼べる行為は何か」を考えているうちに現在に到ってしまった。ウェブが広まり個人がいくらでも作品を論じることができる今、次々と生まれていく多様な「解釈」の海で我々はたゆたっている。批評が暗礁を照らす舵取りなら、ワタシは論じないことで批評的にあろうと思う。
http://www.jarchive.org/diary/2008/09/critique.html
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deadsugargoats · 8 years ago
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●『響け!ユーフォニアム2』、第11回。高坂の滝先生への感情についいての問題は、一応、今回をもって区切りがついたという感じなのだろう。田中先輩問題に比べるとずいぶんあっさりした感じだけど、 黄前の猫被りガードは完全にダダ漏れ状態で、もはや、内省がそのまま台詞になってしまっているレベルにまで緩んでいる(駅前の信号のところに、加藤、川島と三人でいる場面での高坂についての台詞)。そして、相変わらず人の心を深くまでえぐる、サディスティックな、言わなくてもいい一言を言う。高坂「滝先生、奥さんのこと大好きだよね…」。黄前「…だって、結婚するくらいだもん」。ここでダメ押し的に「結婚」を強調する必要などないはずなのに、これはあきらかに、怒って自分を無視していた、そして滝先生の奥さんについて「黄前から聞いた」と嘘をついて黄前の印象を悪くした、高坂への報復の一言だと思う。これより前の大吉山の場面で黄前は、「もう奥さん、いないんだよ」「わたし、応援してるよ」と、さも味方であるようなことを強調しておいて、ここでは「結婚するくらいだもん」と、「結婚」を強調して針で刺してくる意地悪さ。でも、この意地悪さのおかげで、この場面が、よくあるきれいな場面で終らない含みを得る。 一方、高坂の方も、大吉山に登ってゆく場面で、黄前には行き先を知らせないまま、自分だけはちゃっかり寒くないようなもこもこしたセーターを着てきて、行き先を知らない黄前が薄着で来て、寒い思いをしてざまあみろ、みたいな意地悪さがある(ここでの黄前の私服のダサさがとても黄前っぽくてすばらしい)。 こうして、「小さな意地悪」を交換することで、怒りやもやもやといった、自分ではコントロールできない感情を解消して、関係を修復する。この二人は、そういうことが可能な関係である、と。このような、とても繊細で絶妙な描写の積み重ねで、この作品はできている。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20161216
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