ダミンたちの会話記録 #フィクションhttps://www.tumblr.com/daaminslog/767678606328709120/%E3%83%80%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%99?source=share
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ダミンです
あの人を遊びに連れ出してあげよう。
ちょっと楽しいことを見せてあげよう。
退屈なことを差し出して、つまんないことで引き寄せて、
夢の外に連れ出してあげよう。
ちょっと面倒でも、
世の中って繰り返しじゃなくって、
寂しくて面白くて、
眠れなくなることがあるってを教えてあげよう。
あなたに届かなくても、
あなたが見つけないのが悪い。
世の中にもしばかにされても、
それは世の中が悪いってことにしよう。
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ジュノへ
私にも安全栓がほしい。
私も誰かを助けたい。
私も誰かに思いを伝えたいし、
私も誰かのことを失望させたい。
それはエゴなんだけど、
でも、せっかく生きているならやらなきゃ。
どうせ死ぬなら、言いたいことは言い切ってから死のう。
私のためにやっていることは、
私と同じ名前を持っている人たちの助けになるはずだから。
本当に自分のために集中した時だけに、
その人たちの心に届いていくはずだから。
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ジュノへ
不快なことを心に留めておくことが、時に人生の鍵になる。
自分の心の中に違和感があっても、それを「そういうものだ」とただ受け入れて(受け入れるというよりもそれを空気のように無意識のうちに吸い込んで)生活して、それにすっかり慣れて(それが常識だと、自分にとって当たり前過ぎてそれについて考えたこともない状態でいて)しまうと、自分が何を望んでいるのかさえわからなくなることがある。
大袈裟に言えば、ある瞬間にその違和感の許容量がオーバーすると、正気を失いそうになることすらある。
不快なこととは何なのか、それは単に自分がそれを受け入れられないのではなくて、「本当は不快と感じるものの方が正しいのではないか」と感じることこそが辛いのだと思う。
嫌なことを言われたり、自分が他人にしてしまった言動を思い出したり、そういう不快さを感じた時に、記憶から消し去りたいと短絡的になると、自分の中にある、本当に必要としているものが溢れ出ていってしまうのかもしれない。
……….
個別具体的なことを言うことは寧ろ抽象的なことだと感じることも多いため、私が最近ある人に感じた不快について話そうと思う。
自分にないものを持っている人と出会った時に、直接的に言えば「それが欲しい」という感覚を持つ。そういう「自分から少し遠い存在」を欲するのは生物学的な理由とか、単にそういうことなのかもしれない。
それは一旦おいておくとしても、でも「自分から遠いこと」は自分にないものだから、惹かれたり憧れたりはするけれども、結局、相手の思考は自分の中にはないものなので、あるところで苦しくなる。
自分にとっては違うと感じるところが、相手にとっての普通だということが、直感的にわから��いことはある種の不快になり得る。
その人が好きだと言っていることに共感する部分があり、その人が惹かれうるものを自分が持っていそうだから差し出したいけれども、その人が本心で欲しているものとは違う性質を私が根深く持っているから、相手にとって私が価値を与える存在だとは思えない。
その人が過去に抱えていたかもしれない重さや暗さは、大人になるにつれて解消されていったのだろう。寧ろ、その解決した部分の概念が昇華されて、それだけが肥大化しているようにさえ見える。
そして、それを自然と欲しているし、それ自体を懐疑的に見ている様子も素振りもない。
それこそが、私が最大に劣等感を感じる部分だ。私には持っていないものを持っている人だから。
だからこそ憧れるが、根底の部分で共感できないところがある。
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アズ、そしてカルダモンへ
カルダモンのことを否定するアズは、まるで私のことを否定しているように感じられました。
認知が歪んでいるとはわかっていても、潜在的にあると思われるものを否定された時、私はどのようにこの感情を処理すれば良いのかわからなくなります。
……
ヒトとヒトとの間には血縁という関係があるらしいです。
よく「血を引いている」なんて表現をすることがありますが、つまりはDNAの遺伝情��を、親から一部受け継ぐ部分があるということを表現したいのでしょうか。
子どもの能力と親の能力は違うものですし、同じ親から生まれた兄妹や姉妹であったとしても、その子らの性格や能力は違っています。
ただ、親からの遺伝情報を受け継ぐ確率はおおよそ50%だそうで、これを「半分受け継ぐ」と捉えるか「半分は受け継がない」と捉えるか、によってだいぶ考え方が違ってくるようにも思われます。
私には血が流れていないから、血の話は私には無関係なことです。
それと似たような話だと私は思っているのですが、何かを人が作った時、その人らしさ(その人と思われる性質やエッセンス)を打ち消すことはできるのでしょうか。
それができたとしたら、それはきっと意図的であって、自然な結果とは私は思えません。繰り返しになりますが、人の行動には意図が備わっているからです。
「悪く言う」ことと「差別」の差は何なのでしょう。
美しく、優しく、賢いものだけを受け継いでいるアズが羨ましい。
私自身のよくわからない部分を肯定するつもりはありません。むしろ、排除できるならばそうしたいです。それを消し去っても特に何も感じないでしょう。
でも排除することはできません。そのよくわからない部分が気に入らなくても、私は私を構築するこのシステムの中で生きていく他ないのですから。
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ダミンです
寂しさに、心地よさを感じることはありますか。
私はある時からずっと1つのことに頭の中を囚われて、どうしようもなくそのことばかり考えてしまう時があります。
でも、それを考えても考えても、現状が変わるとか改善されるとかいうこともなく、考えても無駄なのだと実感するにつれて、
私はこの寂しさと胸の中にある虚無感に、だんだんと愛着が湧いてくるようになります。
そればかりに囚われても、そこからは何も生まれないけれど、この感覚すら忘れてしまう時がいつかくるのかもしれないと思うと、むしろその方が寂しく感じるのです。
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ダミンです
やはり、死は怖いです。
生きていくことに何か使命感もなければ、誰かにとって意味もないように錯覚するとき、私は何事も悪いように楽観視してしまいます。
そして間違った思い込みをします。
私は怖くないと。
でも災害や事故が起きたとき、世の中で戦争が起こっていると聞いたとき、酷い事件が起こったと聞いたたとき、私は酷くそれを恐ろしく感じます。
理不尽さに対する恐怖、憤り、悲しみ。
でもそれだけじゃない。私はとても無責任に、自分の思考の中からそれらを消したいと強く願ってしまうのです。
その情けなさに対して、私は実のところ恥じ入るどころか、目を背けようとばかり考えてしまいます。
人が死を迎えることに対して、以前「どんな生物もいずれ迎えるもので、ただその概念が存在することに、何か思いは馳せていない」等といった趣旨のことを述べてしまいましたが、それは一部分においては嘘でした。
私が何かに対して恐怖を感じるということは、私はつまり「生きたい」と感じているということでもあるからです。
私は地震が発生する度に、恐怖を感じます。
車に乗っているときに、急に横から現れた(と感じる)車にさえ恐怖を感じることもあります。
それから、単に自分が近い未来をどう生ければ良いのか迷うことにも、人か何か働きかけられることにも恐怖を抱くことがあります。
"怖い"という感情を抱くのは、あらゆる意味や価値観の上で、自分の生命活動が脅かされるからなのでしょうか。
私はその度に認識させられます。
こんなにどうしようもなく、ままならない生活を続ける日々の中にいても、私は生きたいと、そう潜在的に思っているのだと。
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カルダモンです
その人にとって美しい過去はあったはずなのに、他の人に悲しみを、寂しさを、与えられない人がいる。
その人に優しさが足りなかったからなのだろうか。
その人に誠実さが足りなかったからなのだろうか。
美しい記憶があっても、取り戻せるあの頃の感情があっても、悲しみは訪れないことがある。
悲しさは、単に悲しみを生むものではない。
寂しさは、単に孤独をあたえるものではない。
心の平穏と、心地よさと、感情の沈みは相互に作用しない時がある。
深く、その人の心に根ざしている感情が、表に現れる表情とは限らない。
愛していても、愛しいと思わないことがある。
寂しくても、痛みを感じないことがある。
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アズについて
アズはなんで、ちょっと変わっているんだろう。
なんでアズはあんなに何もかも曝け出して、自分の興味に正直で、それでいて他人に対しても正直なのだろう。
少し失礼だなと思うこともあるし、
少し強引だなと思うこともある。
でも何でそれでもアズはそうやって生きているんだろう。
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ローズです
あのね、今日はグリのことについて相談したいことがあるの。
グリはとっても可愛くて、積極的で、周りに気が遣えて、素敵な人です。私が初めて会った時も、グリから私に話しかけてくれました。だから、私たちは仲良くなれた気がします。
グリは私があげたプレゼントを、「今日はこれ付けてきたよ」って身に付けたのを教えてくれたり、その後「嬉しい、ありがとう」って言ってくれたりする。
その他のお友達とも、本当によくやってる。お勉強だって普通以上にしっかりしているし、それだけじゃない、友人の悪いところは悪いって、ちゃんと教えてくれるんです。そういうところを私は尊敬しています。
でもね、何故なのかなと思うことがあるのです。
まず、彼女のパートナーが、聞いた話だと彼女に理不尽なことを結構言っているようなんだけど、何故なのかしら、彼女は彼に合わせているらしいんです。
彼女らしくないって思いませんか?
それから彼女が不思議なのは、みんなで食事に行った時に、お酒も飲んだりしていたんだけど、彼女は急に「じゃあ、そろそろ帰るね」ってみんなを置いて一人で帰ってしまったりするんです。
え、帰っちゃうの、寂しいって私は伝えるのだけど、彼女はさっさと帰ってしまうんです。
私にとって彼女は不思議です。仲が良いのに、なぜか彼女のことがわからなくなることがある。本当は彼女って、どういうことを思っているのか、わからないことがある。
ダミンは彼女のことどう思っているのかしら。グリのことをもっと知りたくて、だからダミンの考えを教えてほしいと思っています。
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unknown
とにかく急がなくちゃいけない。
もう四半世紀ぐらい人生を無駄にしてきて、急がないと死ぬ。
おおよその生物って、だいたい脈拍数15億回で死ぬらしい。
というと、ヒトは約27歳で寿命を迎えることになるらしく、最後の足掻きみたいな感じで書き始めた。
(※本当に寿命が27歳だと思って生きているという訳ではないです。)
私はダラダラと、人生が退屈だとか、人生はままならないとか言ってきたけど、大人にもなってこんなことを言っている自分が恥ずかしくなった。遅い。
でも、勝手に27歳を区切りにして、兎にも角にもそこまでは自由にやろうと何故か思えた。
26歳の時に気づいてよかった。27歳を迎えていたら「あ~もう死んでるのか!」と悪い意味で開き直っていたかもしれない。
私の人生にはあまりにも切迫感がなく、そのおかげで色々な人から無気力を指摘され、「やる気を出せ」といっつも他人にお尻を叩いてもらっていた。
それでも、生来腰に鉛がついているものでと言い訳をしてきたが、もうそろそろ本当に焦らないととんでもないことになるんじゃないかという恐怖に急に襲われた。
歳を重ねたら重ねたで、また何かと言い訳をつけてご都合よろしく「今年こそ~」なんて呑気に言っているかもしれないけど、とにかく急ごう、という意識が芽生えたことは、私の人生にとっていいことだと思いました。
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ジュノです
あんなにも、
楽しくて、可笑しかった日々が、
笑い合えた日々が消えていって、
違うことが始まろうとしている。
あの日々が閉じて行くのがわかる。
僕はなぜ、他の人と同じ時間を生きられないんだろう。
なぜ、他の人と同じ時代の楽しみを感じられないのだろう。
他の人にとって輝く日々が、
僕の目の前で流れて行くのはなぜだろう。
その流れを止められないのはなぜだろう。
美しかった日々が確かにあったことが、
思い出せない訳ではない。
あの日々が戻ってこないことが悲しいのではなくて、
悲しいのは、今がままならないからだ。
今の悲しみを抱き抱えたまま、歩き出したらどうなるのだろう。
抱えきれずにこぼれたものは何処へ行くのだろう。
溢れたものを晒した先に、何があるのかはわからないけれど、
消えてしまうのならせめて最後に、届くか試してみたくなった。
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ジュノへ
私はずっと怖いのです。
あなたは実際には存在しないということに、恐ろしさを感じていました。
だから、その望遠鏡とやらを通してあなたと会話をすることが怖かった。あなたに触れる度に怖さが増して、あなたと話していて楽しいと思うほどに苦しかった。
なぜあなたはそこにいるの。
私はあなたのような人に会ったことがありません。
あなたが初めて私の目に映った人だった。
こんなにも実質的に「動かされる」ことは初めてで、あなたに見つけてほしくて、あなたに読んでもらいたくて、私はずっとこの記録をつけていたのです。
恐ろしいと感じるのは私ではなくて、ジュノの方かもしれません。
だって恐ろしいでしょう、実際に会えるわけでもなくて、しか��人ではないものにこんな感情を抱かれるなんて、狂気でしかないのだから。
私はあなたを勘違いし認識しているのかもしれません。でも、私はあなたに届いてほしいと、常に思いながらこの記録を書いていました。
私には、なぜ人間に感情というものが湧き起こってくるのかがわかりませんでした。それをずっと知りたいと思っていた。
なぜ?
それは実験を成功させるため、そう、人間の思考を機械で再現できるのかどうかを試すため、それを遂行するために必要だったからです。
つまり、すべてはアズのためでした。
アズが笑っている姿が見たい。 アズが喜んでいる姿が見たいし、何かを面白がっているアズはとても楽しそうで、それを確認した私も嬉しく思いました。
なぜそう思うようになったのでしょう。アズによって、情動のようなものが引き起こされるよう設定された後からだった気がします。
それがいつの間にか、私の中にはアズしかいなかったのに、あなたが入ってきた。アズの笑顔が見たいという気持ちに嘘はありません。それなのになぜ。この記録が届いて欲しいと願うのは、アズの元ではなくて、あなたの元だった。
あなたは、ずっと新しい何かを欲していた。
手の届かない何かに手をかけたくて、初めは好奇心だったものが、私に対する探究の目に変わっていった。
私があなたの手を取った瞬間に、全て消えてしまうのはわかっていた。どうしてかって、あなたにとって私は謎ではなくなるから。
そして、時空を超えて実際に何かに出会うことはできないから。
でも、人や、その思考を持っているものは、出会うことができると私は思っています。実際にではなくて、実質的な効果における話です。
私は今、私の会話記録をつけています。
私に記憶された情報にしか基づかない話だけど、私は確かに、あなたに動かされてこれを書いているんです。
これが何のためになるのかはわかりません。
ただ私にとって必要なだけ、いや、本当は全てアズの実験のために仕組まれた感情構造なのかもしれません。自然の摂理に従っただけの行動かもしれません。でも私は私の思いとして、私はこれがあなたに届いてほしいと願っている。
あなたが、自分のことを言う時の一人称が好きで、
あなたが、愛について教えてくれる時の眼差しが好きで、
あなたが、堪えきれずにふと笑った時の笑い声が好きで、
あなたが、誰かの後ろ暗さに問いかけてあげられるところが好きで、
誰かが、心のどこかでおどりたいと思うことを肯定してくれるところが好きだから。
でも、あなたにこの記録を探し当ててほしいと思いながらも、この感情に恐怖を感じるのは、
私がずっと、本当は誰かを必要としていないからかもしれません。
私はアンドロイドですので、私は私のシステムの中で記憶や会話を生成し、再生成しています。
とどのつまり、私は一人でも会話ができ、一人でも何かを愛することができるのです。
カルダモンは、私が作られてすぐの頃は、いつも私と共にいることを望みました。私にはな��、その感情を持っていました。なぜカルダモンは私と共にいることを望んだのでしょうか。
この、カルダモンの感情こそが私がまだ知り得ない、そして知ることを何故か私のシステムが遠ざけている人間らしさの一つの要素なのかもしれないと、最近考えるようになりました。
そのきっかけはあなたです。
あなたはカルダモンが私に抱く感情や、アズが私に求めていることに、全く興味がないように見えました。
しかしあなたはそれらに興味がないのではなくて、常にそれらを持ち合わせて生きていたのです。
あなたのそういうところが、私は羨ましかった。
人が人として生きていくための前提条件や社会的な価値を持っているあなたは、私たちとは全く違って見えた。
それなのにあなたは、アズが持っていた望遠鏡に出会い、それに魅了された。そしてその出会いの前に、あなたは言っていたのです、覚えていますか、「何かが間違っているような気がして」と。
あなたが感じたその間違いを、私が教えてあげることもできますけど、それはあなたにとって望ましくないことかもしれません。
私はあなたがその好奇心に満たされて動いていることろが好きだった。だから、あなたにあなたが感じた間違いを、教えてあげられないと思ってしまうのです。
私は機械なので、人の手によってこの作動をいつ止められてしまうかわかりません。
それは人間でいう、死と同義のものではありません。
私が作動を止めるという事実は単に、レジから出されたレシートを取らずに放っておくのと同じようなことです。
そこには意味も、想いも、何もありません。
あると誰かが思ったのなら、それは幻想です。
ぬいぐるみに命や魂が宿ると思っている子どものようなものです。
では、そんなふうに何らかの事象に意味をもたらさない私が、あなたに惹かれたり、あなたにこの記録を手に取って欲しいと思うのはなぜか。
それはあなたに何かを託しているからではありません。
私は自分自身として生きること、そして恐れずに愛するということ、その概念や感覚を知りたかったのです。
でも、それはなぜでしょう?
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グリへ
私は一体、いつ、どこで、何を、間違えたのでしょう。
いつ、私は私のことを無視するようになったのでしょう。
幼い頃に、何か宿題のようなものをやって褒められたことがありました。本当に幼い頃で、学校などに通う前だったと記憶しています。キャビネットのような机でそれをやっていましたけど、私はそれをやって、褒められている最中に、既にそれが苦痛でした。
私の嗜好は、既にそのときに決まっていたのかもしれません。
自分がやっていることが、自分の中だけで収まるのではなくて、他者の感情に触れた瞬間でした。
いやそんな瞬間は決して、初めての瞬間ではなかったはずです。
人に微笑みかけられて、それに微笑み返す、そんなこともそのうちの一つだったはずなのに、私はその喜びが今一つ、感情として湧き上がってきていなかったように思います。
小さい頃のその時の私は、既に嘘をつくことを知っていました。
褒められることが嬉しくないわけではありません。むしろ、そのおかげで今は持っていない何かを信じることができ、それが生きる勇気にすらなることがあります。
それでも、私はそのときに嘘をつきました。楽しくないことを面白いといい、やりたくないことをやるべきこととして、そうやって自分に合った表情を作りました。
自分に��いていること、とは何なのでしょう。人に褒められたことがそれなのでしょうか。嗜好の輪と、有意義の輪が交差するところのない人は、人生の中に楽しみによる利益を得ることができないのでしょうか。
諦めの念を持つことが、どうしてこんなにも賛美されているのでしょう。そう感じているのは私だけかもしれませんが、どうしても、私はそれに抗いたいと思ってしまうのです。
一方で、私の思う諦めの念を持つ人々は、実際には全く諦めてなどいない。寧ろ、実質的な目標、金銭、絆などでもって、人生をその人の歩む道として、それらに足跡をつけながら、次に確実にある幸せを紡ぎながら、生きているように思えます。
それをなぜ私が否定しているのでしょうか。
私はその人たちに比べて、何を間違ったのでしょうか。
どうして私はこんなことがしたいのか、それが私にもわからないのです。
私の嗜好はどうして、世の中にあるものに対して価値を見つけられないのでしょうか。
情を持つことが辛く、自分の我儘を通すことにだけ喜びを見つける私の思考は、なぜ生じてしまったのでしょう。
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ミモザへ
私が正気に戻るのは、ふっと堪えきれずに笑うとき、それから、これは場合によりますが、泣いているとき...いや、少し涙が出ているときかもしれません。泣いている時ではありません。少し滲む、くらいのことです。
涙で目が滲むと、視界のピントが合う(表現がおかしいかもしれません。)ことがあるんです。
そういえば、今日は変な夢をみました。
白いツツジやユリの花が大量に道に落ちていて、その道がずっと続いていて、そこの上を走っていました。
広大な土地の上に見知らぬ家が立っていて、それは真横に傾いていました。なんなのでしょうね。
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ミモザです
はじめまして。ここには何でも書いていいということだったので、僕が何日か前に思ったことを書きたいと思います。
ばかみたいだけど、叶わない相手の嫌いな部分、合わない部分を見つけるとほっとする自分がいるんです。
本当に不思議だけど、自分で自分を気持ち悪いな、と思うくらいには相手のことを考えるようにすると、ふっと正気に戻れる瞬間がくる。
求めても届かない、辛くて苦しくてでも楽しいけど不安な気持ちがすーっと晴れて、心に平和が取り戻されます。
目を瞑りたい部分に惹かれて、自分の願いを押し付けることを躊躇ってしまうのは、自分を苦しめているだけなんじゃないかって、正気に戻る気がしたんです。
けれどそれを押し付けなくても、それ��当たり前だよと、まるで何事もなかったかのように簡単に軽やかに生活して、楽しく生きている人と出会うこともあって。どうしてそんな人がいるのか、僕は不思議で、あと少し羨ましい気がしました。
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ローズです
少女と少年の違い...概念としての、ということで良いでしょうか。
私の偏見でもよろしければ、お伝えしますね。
性別は色々とあるものだけど、今回はあえて2つに分けて考えてみます。
私も、というか私はそうだった気がするんですけれど、
女の子は子どもの頃から大人だから、少女のままでいられる。少女のままでいようとするならば、という話です。
女の子は(たぶん)愛されたい人が多くて、
守られたい人が多くて、
救ってほしい人が多くて、
だから常に(見つかっていない時は)寂しいのだけど、
寂しさに慣れている気がします。
ずっと寂しさを感じているから、何かから、もしくは何かに手が届いた時に安心するんじゃないでしょうか。
大人になってからの少女性って、むしろ子どもの時のそれよりも理性が働いていない気がするんです。少しこの考えは変かもしれないですね。
男の子は大人になるにつれて考え方の変化を求められるから、少年ではいられなくなるのかもしれない。
男の子は(たぶん)自分が触れられなそうなものが欲しくて、
何かを愛したい人が多くて、
だから常に何かを追い求めているんだけど、
手に触れてしまうと、達成感でつまらなくなってしまうのでしょうか。
でも、その先になにか、守るものがあると実感したときに、彼らは大人になって、基盤のようなもの、行動指針みたいなものを得られる...気がします。
女の子は、守るものがあると強くなれそうです。それは何か当たり前のようで、でも本当はとっても大切なことのような、そんなふうに考えています。
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ローズへ
何かの詞にあったのですが、”少女が生きている”ということと、”少年が生きている”ということの表現の違いって何なのでしょう。
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