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藤澤→中間/2019.04.01
アヤカさん
お疲れ様です。藤澤です。
先日は「フリーウェイ・ダンス」お疲れ様でした。無事に終演して何よりでした。
昨日の夜、長野の実家に帰ってきました。今日4/1は休みで、明日から新しい職場での仕事が始まります。
改めてとなりますが、この度は「フリーウェイ・ダンス」にお誘い頂き、ありがとうございました。公演が終わった後も、中々フリーウェイのことが頭から離れない日々が続いてます。普通、自分が関わった公演なら2~3日程度でスッと気持ちが切り替わるのですが。だからこういう感覚は自分��中では初めてで、戸惑っています。公演がまだ始まってないような、逆にもう1年も前に上演したような、そんな心地もする。本当はこの戸惑いがもう少しおさまってから、文章を書くべきだとは思うのですが、それでもやはり、これを書くことを一つの区切りにしようと思っている自分がいます。新しい生活も始まるし。なので、これが最後の往復書簡です。きっとこれから書く文章は支離滅裂で長いものになると思うんですが、ひとまず今、頭の中にあるものを全部書き切ってしまおうと思います。ご容赦ください。
まず、僕自身の感想なのですが、とても楽しい公演でした。アヤカさんから具体的な指示がほぼなかったのがすごくやりやすくて、おかげでダンス以外のことを沢山考えることが出来ました。今回、様々な資料を集めましたが、資料の集め方について、自分の癖を一つ見つけました。それはアナロジー(類推)が多いということです。アナロジーは端的にいうと、共通項探しということです。例えば今回、かごめかごめと別府音頭がキーワードとして出てきましたが、僕は何かを考えるときに、この2つの共通項を見つけることが多い。探した結果、かごめかごめと別府音頭は2曲ともヨナ抜き音階であることが分かった。また、別府音頭と僕の出身の中野市の共通項として、別府音頭の作曲家の中山晋平が中野市出身であることが分かったりとか。連想ゲームですね。これはけっこうやってて楽しい作業でした。
その一方で、「身体図式とアフォーダンス」「記憶のネガ(バイオグラフィー)」は直接的に、踊りの方法論を探ったものでした。この時はかなり「アヤカさんを実際どう動かすことができるのか」ということを意識して考えてました。これもこれで一つのペーパーにまとめる作業が出来たのはすごく楽しかったです。
両方の作業とも、当初からずっと念頭においてたのは、なるべくアヤカさんの考えに寄り添わないようにしようということです。そもそも寄り添っても仕方ないし。逆にアヤカさんが途中で死んでしまっても「フリーウェイ・ダンス」が別の形で成り立つようにしたいなと思ってました。冊子とかで。あわよくば「フリーウェイ・ダンス」を乗っ取ってやろうと思ってたんですが、無事に本番を終えられたようで何よりでした。
3月に入ってからは、映像なり川なりドリンクコーナーなり当パンなり、具体的に形に起こす作業をしてました。ドラマトゥルクというより演出助手的な作業。あれもあれでやっぱ楽しいですね。ものづくりの楽しさを思い出しました。
ただ、不思議なことに本番は全然楽しいって感覚がなかったです。というか、本番の記憶は恐ろしいほど���薄です。一つには、アヤカさんのダンスをそんな見ていないということがあります(なんだかんだ色々と作業をしてたので)。もう一つは、これは制作をしているときからの癖で、本番中は自分の関わっている公演でも他人事だと思ってる、思うような舞台にしたいと意識しているからだと思います。本番は出演者と観客のものだといつも考えているので。だから今回お客さんの感想で「居心地がよい空間・時間」という言葉が散見されたのですが、その理由がイマイチ僕は分かってません。いつもは本番は見なくても、ゲネを見たら大体の雰囲気を掴めるのですが、今回は全然そんなことなかった。なので、そこを少し後悔してます。もっと場の空気を楽しみたかったなと。
僕のリクエスト曲が流れたのは普通に嬉しかったです。
アヤカさんのダンスに関していうと、「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」というのは一つだけありました。3/17あたりの通しでやった「左利きの人のためのダンス」の、柔らかいものを揉んでる動き。「手の表情が・・・云々」言いながらやっている時の手の動きは「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」だったと思います。解説付きでめっちゃ分かりやすいとこですけど。でも同じ動作でも、それ以降では何も感じなかったので不思議ですね。ダンス留学に入る前に「コンテンポラリーダンス@西日本」を見たときに、目黒さんの作品におばあさんが一人出て、自分のことを喋りながらダンスをするっていうのがあったんですけど、そのときもあるシーンで「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」ぽいのを感じました(というかそれ見て初めてコンテを面白いと思った)。もしかしたら僕は、喋りながら踊る作品の方が「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」を感じやすいのかもしれないですね。
あと、初日3/23は、序盤、アヤカさんがガチガチに緊張しているのが見て取れて、あれは新鮮でめっちゃ面白かったです。アヤカさんでも目に見える形で緊張するんだ!って思いました。もちろん、幹雄さんもモナイさんも僕も緊張してましたけど。
一番印象に残ってる場面は、3/23の公演の後半の新別府音頭を踊ってる最中に、アヤカさんが泣きそうになったけどグッと泣くのをこらえてまた踊り続けたところです。それは別にアヤカさんに感情移入したとか感動したとかそういう訳ではなくて、単純に「踊ってるとき何を考えてたんだろう」と思いました。ダンサーが踊っているときに何を考えているのかとか、ふだん別に興味ないんですが、あの涙はやっぱ気になりました。それは涙が身体の「中」から出てきたものだからかもしれないです。
公演自体についていうと、見てくださった方の感想が皆さんかなり良いのは嬉しいです。感想を見ると「時間」「空間」という言葉が散見されます。面白いのが「時間」「空間」につく形容詞が「幸福な」とか「居心地のよい」というポジティブなワードが多いという点です。一方で、アヤカさんのダンスに対しては、大谷さんがレコメンドメッセージで「ひとり孤独に」という言葉を使っていたり、竹田真���さんもtwitterで「なぜか哀しみと表裏にあるように思える」と述べているように、どちらかというとポジティブではないイメージがある。そのポジティブではないダンスを4時間も見て、なぜ「幸福な時間」「居心地のよい空間」という言葉が出てくるのでしょうか。これは個人的にとても矛盾したように感じます。むしろ、その矛盾が一つの公演の中において同居していることが、「フリーウェイ・ダンス」の特徴なのかもしれません。
モニターも、なんだかんだ言って、あって良かったと思います。確かに、見る人はあまりいなかったのですが。ちょうど三浦さんが言うところの扇風機の役割になっていたと思います。アヤカさんと別のリズムを奏でる存在。これは本番終わったあとでふと思いついたのですが、僕の友達もいたし、ごはんの時間、映像を流すのをやめて、みんなでスマブラやりたかったなぁと思いました。
今回は、なんだかんだ言ってギリギリ「ダンス公演」に納まる範囲だったように感じます。それは上演時間と料金について言えると思います。料金が2500円というのは、今から考えると「ダンス公演」の値付けでしたね。4時間も、ギリギリ「公演」に納まる上演時間でした(ミュージカルや文楽ならザラですし)。これがきっと、料金が1000円で、上演時間が10:00-17:00とかだったら、もっとインスタレーションの方に近づいていって、お客さんの出入りも多かったことのように思います。だから予想に反して、途中で帰るお客さんがあまりいなかったし、そもそも途中入退場する人もそんないなかったです。みんな、なんだかんだ最初から最後までいた。その是非は置いとくとして。今回「作品であるより前にダンスでありたい」というのはアヤカさんは当初からずっと述べていましたが、「公演」であるべきか、それともその範疇からも出るべきかというのはあまり話しませんでした。だから今後もし、「公演」という範疇も超える何かをするのなら、料金と上演時間は大事な要素だと感じました。
上記に関係して、一つ見てみたいなと思ったパターンは、上演時間は4時間で変えず、毎日17:00~21:00でやって1週間ほどロングランする。それで料金をワンドリンク付き1000円とかにしたら、お客さんのダンスの楽しみ方もまた変わるでしょうね。仕事終わりでふらっときて、ふらっと出て行ったり。1週間通し券3000円にしたらもっと気軽に来れるかもしれません。今回は両公演とも約50名ほどでしたが、ゲネを見た感じ、お客さんが少なくても少ないなりに面白い公演だなと思いました。僕は3/21の通しの時が一番好きでした。
あと、もっと入退場が多くあったバージョンが見てみたいです。入退場が多くあったパターンというか、もっとお客さんに「見ない自由」があったバージョン。今回思ったのが、劇場内に死角がなかったということです。どこからでも比較的アヤカさんの姿がよく見えた。もっと壁とかあって死角が沢山あったら、お客さんがアヤカさんを見ない時間が作れたかもしれないと思います。そ��と、三浦さんも仰ってましたが、出演者がやっぱりアヤカさんしかいないので、これが他に2名ほどいたら、そこに「誰かを見る」という選択が生まれるから、「誰も見ない」という選択がより取りやすくなったかもしれないです。でも、そうなるとより���演要素が薄まって、インスタレーションに近づき、コンセプチュアルになると思いますが。
だから逆にいうと、今回は死角もないし、ダンサーもアヤカさんしかいないので、(三浦さんが言った通り)お客さんはアヤカさんを見るしかなかったわけで、でもアヤカさんはそれを踊りきった。だから感想でも「4時間踊りきってすごい」とか「ダンサーの底力を見た」というものがありました。僕もアヤカさんは胆力があるなぁと思いました。お客さんの中にはアヤカさんを応援する気持ちで見ていた人もいたと思います。和馬さんが言っていたのですが、今回は観客の方々が温かかったって。これは確かにそうだと思います。だから、新長田以外の、それこそアヤカさんの知り合いとか僕の知り合いが誰もいない場所でやったらどうなるんだろうという想像はすごく膨らみます。
上記を踏まえると、この「フリーウェイ・ダンス」は絶妙なバランスの上に成り立っている公演だと言えると思います。ぎりぎりダンス公演でいられる範疇に納まっていた。これが料金・上演時間・出演人数・死角の有無のどれかが違ったら、また受ける印象はがらっと変わっていたと思います。
面白かったのが、見てくださった方に「どのシーンが好きでしたか」って聞くと、みなそれぞれ違うんですよね、好きなところが。大谷さんはラストの回るところ(エイリアンズらへん)で、玲奈さんは終演の挨拶以後、お客さんが帰ったり残ったりしてる中でアヤカさんが踊り続けているところ。文章さんはサンバの衣装に着替えてからサンバを踊る前の時間。三浦さんは「地図の踊り」。小野くんは冒頭のモナイさんが庭の説明をしているところからアヤカさんが踊るのに気づくとこまで。それと着替え。ちなみに僕は「技ご披露」でした。
ごはんの時間、やはり1時間は長かったように思います(これを公演として捉えるなら)。お客さんが50人として、やはり40分から45分ですね。
テクニカルスタッフの方々の満足度が高い公演で、これはすごくいいなぁと思いました。幹雄さんとモナイさんも含めて。たぶん、僕がアヤカさんに「あれやって、これやって」って言われなかったのと同じように、銘々がかなり自由に(フリーウェイ!)できたからじゃないでしょうか。大田さんも3/24は法事行けるぐらいでしたし。銘々が自由なのに、チーム感あるのは面白かったです。1月の段階ぐらいで「この公演には作家がいない」という話をしたと思うのですが、全体をまとめる作家は確かにいなくて、だけど照明家・音響家・舞台監督・庭師・売り子とそれぞれの立場・職責の人々がその場に自由に存在できていた。この点について考えるとき、やっぱりスタッフにとっても「幸福で」「居心地良い」空間・時間だったんだなと思います。これはこの座組みだからできたことですよね。
これは質問なのですが、アヤカさんは今回「振付を抜き差ししないまま、積み重ねていく」ことを試みたと思うのですが、その試みは実際にできたのでしょうか。できたとして、通常の「振付を抜き差しする」状態と、今回踊っている中で違う点はありましたでしょうか。
あと、もう一つお聞きしたかったのが、「振付を身体に入れる」という行��は、快・不快でいうとどちらなのでしょうか。振付を身体に入れるのは心地よいことなのでしょうか、それとも気持ち���くないことなのでしょうか。それとも振付によって快・不快は異なるのでしょうか。直接あったときでいいので、またお聞かせください。
(蛇足)僕はけっこう小説、特に長編小説を読むとき、「小説が身体に入る」感覚を覚えます。というか、小説に憑依される感じで、日常での物事の考え方も小説に引っ張られたりします。例えば、少し主人公が乱暴な小説を読むと、自分自身の言動も乱暴になったりします。それが小説の醍醐味の一つだと思っている節もあって、だから短編小説はほぼ読まないです。
僕の友人も何人か見にきてくれましたが、彼らに関西を離れる挨拶をできたのは、すごく嬉しいことでした。ちゃんと顔を見て。
振付家やダンサーの人の何人かからは、この公演の構造に着目した意見を頂きました。庭という空間と、ごはんの時間を含む4時間という上演時間という「枠組」が先立ってあって、この枠組に対してダンサー:中間アヤカがどう取り組むのかを見る舞台だったと。だからこの舞台は、中間アヤカ以外でもできるんじゃないかと。僕もおそらく観客の立場だったらこういう感想を持ったと思います。でもこの見方はけっこう作家的だなと思います。時間・空間に対する作為性を前提にしている見方。僕も「これ、アヤカさん以外だったら誰が出来るんだろう」という想像は結構したんですが、でも、そもそも上演時間が4時間で、舞台装置には庭があってブランコがあってお立ち台があって、入退場自由という枠組だけ先に渡しても、その条件に「適応」「従順」するダンスにしかならないから、この「フリーウェイ・ダンス」は立ち上がってこないと気がつきました。だからこの「フリーウェイ・ダンス」は、一見、他の人でもできるようで、その実、それがかなり難しい舞台だと思ってます。それはとりもなおさず、再演がかなり難しいということと同義ですが。再演するなら本当にゼロベースからもう一度考える必要がある気がします。そもそも前やったのをそのままやるという時点で誰も自由ではいられないし、前やったのと全く同じ条件でやるというのなら、それはその「前やった」ものの作為性に頼るということだから、より「作品」に近づいてしまうだろうなと予想してます。
アヤカさんのお父様、運転めっちゃ上手ですね!たぶんアヤカさんは乗り慣れているから気づいてないと思いますが。すごく丁寧ですよ。
それとダンスについて、三浦さんや大谷さん、佐藤さんは黒沢美香さんの影響を指摘したり、竹田真理さんはcontact Gonzoでの経験を指摘してました。僕の友人も「喋るところがチェルフィッチュぽかった」って言ってました。それを聞いて面白かったのが、アヤカさんが提供された記憶(振付)を踊るのに、別の振付家から以前にもらった振付技法を使っているという点です。振付を踊るのに、別の振付をテクニックとして使っている。これは色んな人から振付られる「ダンサー」だからできることなんだなって感じました。ダンサーの仕事の幅広さを感じました。
さて、予告通り長文になってしまいました。だいぶ書いて頭の中もスッキリしてきました。おかげでやっと、次の本を読めそうです。次の本を読めるだけの隙間が頭の中に生まれてきた感じがします。これでひとまず、僕の中では「フリーウェイ・ダンス」には区切りをつけたつもりです。きっとこれからも、「月月・・・」の時みたいに、折に触れてはこの公演のことについて考えると思います。それだけ沢山の宿題をあの公演ではもらいました。 これはずっと言いたくて言わなかったことなんですが、アヤカさんはダンサーであることに本当に丁寧につまづいていると思います。よい意味で。その「一歩を踏み出さない」勇気を、この1年間、ずっと隣で拝見できたのは、僕の中ではとにかく貴重な時間でした。面と向かって言うには小っ恥ずかしいことだったので、この場を借りて言いました。改めて、御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
いつになるかは分かりませんが、また、アヤカさんとご一緒にお仕事できる日を心より楽しみにしてます。
では。
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中間報告へのお返事 2018.10.23
トモくんへ
加納さんとの撮影からしばらく時間が経って、あの日のことを思い出そうとしてみると意外とまだ記憶は鮮明に残っています。記憶というか、感覚というか。その両方か。でもきっと確実にこれから先もっと時間が経つにつれて、いまこの身体に残っているあの1日はどんどん薄れて、跡形もなく消えてしまうことはないにしろ枠組みのようなものだけになってしまう日がやってくるのだろうと思います。やってくるというか、思い出そうとしたその時やっとそこにいることに気が付く感じ。そんな繰り返しを、わたし(の身体)はこれまでいくつもの振付と共にしてきたのだろうと思います。と、あの撮影を振り返ることができるだけの時間が経ったいまこの時になって知りました。
おそらくこのことについて、私たちはもっと深く思考できるような気がします。記憶。思い出そうとすること。いつか持っ��いたもの。いまは失われてしまった事柄。を、今ここに、今この身体に呼び起こすこと。たくさんの人に、その記憶を貰うことはどうだろう?その記憶は私の身体が扱える(残る、刻まれる)ような形として渡してもらう。そして、私はそれを記憶としてではなく振付として扱う。形はそれぞれお任せするとして、記憶の内容は、みな同じテーマが良いのかなと思っています。「初めて踊った(身体がダンスした)時の記憶をください」とかだとざっくりしすぎてるかな?でも、このテーマならそれぞれの人が考える「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」、それも、どこかで偶然見た(出会えた)ラッキーではない自分の身体が感じた「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」が集まるんじゃないだろうか。
パリのルーブル美術館でモナリザを見ました。メンバーに美大出身の子がいて、その子が「モナリザにはアウラを感じなかった」と言ってた。優れた芸術作品にはアウラがあると教わったらしい。私もモナリザを見るのは初めてだったけど、確かにその凄さはよく分からなかった。モナリザの絵はめちゃくちゃ人だかりのできている柵の向こうのガラスケースに入れられていて、普通に距離が遠かったからなんじゃないかとも思ったけど。
それで、トモくんの日記にも出てきたし、アウラについて少し調べてみたけどこのブログが面白かった。
http://sharp.hatenablog.com/entry/2013/11/14/013313
振付家の最後の1人はたぶん観客だ。上演に立ち会ってもらうだけじゃなくて、なにかアクションを起こしてもらっても良いかもしれない。チェルフィッチュのトゥールーズ公演の最終日がね、おしゃべりなお客さんがめちゃくちゃ多くて。もちろん上演中実際になにか喋っていたわけではないんだけど、ちゃんと話しかけたら、返事が返ってくるんだよね。それを感じて、自分のパフォーマンスも変わる。舞台と客席の関係性を、具体的な設えも含めてよく考えたいと思っていま���。
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中間報告的なもの/2018.10.09
アヤカさん、お疲れ様です。今頃はもう欧州でしょうか。 先日は撮影会ありがとうございました。あいにくの雨と緊張で何だか疲れましたが、翌日の夕方ごろに何だかじわじわと来て、あぁ、何だかよく分からない時間だったなぁと会社で一人ニヤニヤしてしまいました。あのとき加納さんは、一体何を撮っていたんだろうと想像し、果たして写真には何が写っているのか。自分の写真もそうですけど、アヤカさんもどういう顔して写っているのか、撮影しているときは全然見てなかったので楽しみです。出来上がりの写真の想像が全くつかなくて、ドキドキしてます。 撮影会の前のお話の時に、この撮影がちょうど中間���点かもしれないですね、ということを話しました。ですので、協働者(?)として、ここまでの中間報告じゃないですが、ここまでを終えて、いま考えることをつらつらと書きなぐっておきます。 一つ目は「記録」について。私は高校の頃から日記をつけているのですが、アヤカさんにこのプロジェクトのお話を頂いた2018年4月から、今日に至るまでの間にて、このプロジェクトに関係がある記事を抜き出しました。これも非公開で「藤澤日記(2018.04〜10)」としてあげておきました。ご笑覧ください。 今回の撮影会の前に、アヤカさんは、衣装を選ぶ時からすでに振付られていると仰ったと思うのですが、それを聞いて、以前、往復書簡でアヤカさんが書いていた「一瞬の心の動きも振付と呼んでいいと思います」という言葉を思い出しました。最近、アヤカさんって実はけっこう随所随所で誰かに何かに振付けられているんだなぁと、僕は何となく思っています。もしかしたら今もどこかで誰かに何かに振付けられているのかもしれない。その振付けられた軌跡ではないですけど、少なくともこのプロジェクトの中での、アヤカさんの振り付けられ史みたいなものを残しておきたいなぁと思っています。たとえそれが直接的に「ダンスを立ち上げる」ということに直結しなくても。 思うに、このプロジェクトって、振り付けてもらう人を探している今も、ずっと動いているプロジェクトなんじゃないかって思うんです。実際のクリエイションは始まってはいないけど、プロジェクト自体はもうとっくに始まっている。Eさんに会って話して後日断られたこともこのプロジェクトに含まれているし、もっと前、4月に地球屋で工場のメンバーで飲んだ時からも始まっている。そんな気がするのです。もっともっと言うと、前史に工場プロジェクトがある。なので実は日記には、結構このプロジェクトについては意識的に書き残すようにしてました。でも大した内容じゃないので軽い気持ちでみてもらえたらと思います。その日の記事は全て抜き出したので個人的な部分もあって分かりにくいかもしれないです。あと長いですので、飛ばし飛ばし、時間があるときに読んでください。 二つ目は「振付をもらう方法」について、今ちょっと考えています。これも撮影前にアヤカさんが言っていたことですが、そもそも振付をしてもらうのに正面切って「振付をしてください」っていうのが、果たして本当に正しいことなのか。撮影会が終わったあと、岩本さんと3人で話している時にもこの疑問がふと頭をもたげました。もしかしたら、正面切って「振り付けてください」ではなく、別の言い方をした方が、結果的に相手からたくさん振り付けを貰えるかもしれない(例えば「初恋の人との思い出の場所で一緒にお茶して今の奥さんの愚痴を聞かせてください」とか「あなたの好きな動物の特に好きな部位を一緒に買いに行きましょう」とか。めっちゃ適当書きましたけど)。ただ、その場合、相手は「アヤカさんを振り付ける」という意思を持っていないので、相手は振付をした意識にはならないと思いますが。それでもいいのか、それとも相手にはちゃんとアヤカさんを振り付けるという意思をもってほしいのか、そこはアヤカさんに確認しておきたいところです。どっちみち、「振付をもらう方法」については、結構色々と考える必要があるかなと。岩本さんが振付をもらう人は一人じゃなくていいんじゃない?と仰っていましたが、10人いるなら10人それぞれの振付があるように、振付をもらう方法も10通りあっていいかもしれないですね(もちろん1通りでもいいと思います)。この辺はちょっとアヤカさんのご意見お聞きしたいところです。 最後、これはこのプロジェクトと全く関係がなくて、ただ最近僕が思っていることなので、全然無視してもらってもいいことなんですけど、コンテンポラリーダンスを初めて見た時から現在まで、結構どのダンスをみても「よく動く演劇だな」って思うことが多くて、というか、どのダンスも演劇的だなと感じることが多かったんです。むしろ動画で見ている時の方が、素直に「ダンス」として受け取れることの方が多かったり、WS見てた時の方が「ダンス」があった気がして、なぜ舞台上で上演される時には「ダンス」を素直に感じることが少なくて、演劇っぽいと感じてしまうことの方が多いのかというのは、自分の中でけっこう長年の疑問だったんです。で、最近劇場の歴史を調べていたんですけど、古代ギリシアの劇場ではそもそも「舞台」というものがなくて、観客席=テアトロンと、オルケストラという円形の場所のみで構成されていたみたいです。そこで演劇も舞踊も音楽もごっちゃになってやっていた。それが後代になって、スケーネという後壁兼楽屋と、プロスケニオンという舞台ができるようになって、そのプロスケニオンの上で俳優が演劇をするようになった・・・らしいです。このブログが分かりやすいです→ http://urx3.nu/Mnj7 何が言いたいのかというと、そもそも舞踊って、舞台でやるものではないのではないか?ということと、舞台は演劇のために作られたものならば、舞台でやるパフォーミングアーツは演劇臭がするのも当たり前なのではないか・・・?ということです。ただこれは俄仕込みで調べたことなので、もしかしたらプロスケニオンでも舞踊はあったかもしれないです。ただ、舞台というのが本当に舞踊に適した空間なのか?というのは、最近色々と考えています。映像で見た時の方が純粋に「ダンス」を感じられるのも、「映像」という枠組みが「舞台」という枠組みに先立って存在して、その分「舞台の上でやっている」ということをあまり意識しないでいいからかもしれません。あと、音楽と舞踊が親和性が高いのも、2つとも舞台から取り残されたものだからかもしれません。・・・なんてことを考えたり。だからどうしろこうしろって話ではなくて、こういうこと考えてますというお話でした。でも、どこでやるのか、どういう文脈の場所でやるのかも、ちょっと色々と考えてみたいです。 さて、長文失礼しました。海外ツアー、頑張ってください!今日の関西は秋晴れのキッと晴れた1日でした。そして御身体だけにはどうぞお気をつけてお戻りください。では。
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藤澤→中間/2018.07.03
こんにちは。藤澤です。会社で書いてます。もう夏ですね。 文楽、急なお誘いにも関わらずお付き合い頂きありがとうございました。あれからも少しずつ文楽について調べているのですが、文楽は、舞台稽古(義太��、三味線、人形が一緒に行う稽古)は1回しかしないそうです。この事実が個人的にとても面白く感じました。私たちが普段慣れ親しんでいる総合芸術としてのパフォーミングアーツとは、きっと根本で舞台や稽古に対する考え方が違う。そもそも「総合」することを目的としてないというか。アヤカさんが「あの舞台にはメソッドの違う振付たちがレイヤーとして存在する」といったことに近いかもしれません。文楽はこれからもダラダラ調べていこうと思っています。 質問へのご回答もありがとうございました。アヤカさんがダンサーとして出演している舞台においては、「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」について特に考えてない、それを目的として踊っていない、というのは分かるような分からないようなお話でした。じゃあ「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」について話している時のアヤカさんは何者なのか。振付家なのか。観客なのか。ふと気になって往復書簡を遡ってみると、アヤカさんが「振り付けられた身体は振付をもとに動くけれど、そこにダンスを見出すのは踊り手ではなくそれを見ている身体(=観客)なのかもしれません」と仰っていて、ここにつながるのかと一人で勝手に納得しました。「振付けられること」と「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」について話す時では、アヤカさんの立場というか目線が違う。これは個人的には嬉しい気づきでした。 今回は短めにこれぐらいで。あと、毎度のことながら最後に1つだけ質問させて下さい。 いま一番分からないことは何ですか。
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中間→藤澤/2018.06.20
アヤカです。返信が遅くなってしまいました。
こないだの文楽、連れて行ってくれてありがとうございました。初体験の感想としては、見所が多すぎて自分の視点が定まらないことが面白かったです。まず語る人がいて、その人は劇のストーリーを話し、登場する全てのキャラクターにもなり、その横には効果音ではなく一緒にその役割を担う音楽家がいる。劇としてはそれだけで充分なのに、彼らはメインの舞台から外れた場所に配置され、私たちの目の前には言葉ではなく身体で語る人形と、それを動かす生の身体がある。ひとつの物語をいくつもの違う身体が同時に語ること、そしてそれを受け取る身体は自分のこの身ひとつしかないこと。情報量がすごく多くて、私の身体はだんだんと物語から外れたところ(物語のまわりにある要素)だけを感じようとしていったような気がします。あと、言葉を使わない人たちはなにを振付として動いているのかが気になりました。側で発される言葉や音を振付として受け取っているのか、それとも彼らだけが使うことのできる別の振付があるのか。だとしたらあの舞台にはメソッドの違う振付たちがレイヤーとして存在する。
長野でのプライベートレジデンス、トモくんにとって特別な時間だったようでなによりです。「事故」のたとえ、まさに私が受け取ったことのある「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」もそのようなものだと思います。
トモくんからの質問を受けて、そういえば自分が踊っている最中に「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」のことを考えたことがないと気がつきました。こんなにこだわっていることなのに��考えたことがないというか、それを生み出すことを目的にして踊ったことがない、という方が正確かもしれません。作品(振付)をつくる時はもちろんその時間を目撃したくて、でもなかなかやってこないものだからそれこそ「事故」が起こるのをいろいろな方法を試しながら辛抱強く待つけれど、ダンスしてる最中の身体は事故を起こす当事者にならなければいけないので、また感覚が違うのかもしれません。事故の発生率を高めるために振付があり、ダンスする身体はそれに振り回されて思わず事故を起こしてしまうといっても良いかもしれません。事故が起きたかどうか、踊っている最中の私の身体はわりと自覚的であるように思います。そしてそれは観客の反応から受け取ることも多く、私が人前で踊りたがりな理由とも繋がっているかもしれません。舞台に立っている最中に受けることができなかったら、そのあと時間が経ってもそれは変わりません。(事故に限り)
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藤澤→中間/2018.05.26
こんばんは。藤澤です。 京都の本番お疲れ様でした。 今は欧州ツアーの最中でしょうか。体調崩されぬようお気をつけください。お土産話楽しみにしておりますね。 私は今東京からの帰りの新幹線の中でこれを書いています。 振付の連鎖の息の根をとめて、身体に閉じ込めてしまうお話、とても面白いですね。振付はどこからきて、どこに行くのか。もらった振付をどうするのかというのも、ダンス観の一つなんだなと感じました。でも普段、ダンス以外の時間でアヤカさんにお会いしてもアヤカさんはダンスっ気ゼロなので、「振付を身体に閉じ込める」というのは、なんか納得しました。振付が外にでてこないというか。観客の立場からすると、ダンス作品や公演などで、ある振付を見た瞬間が、その振付の出発点であると同時に終点のように感じます(何回も見るなら別ですが)。でも、ダンサーの身体には公演後も振付が身体知として残るわけで、その観客とダンサーの間に生じる振付のタイムラグが面白いです。振付は瞬間的なものか、継続的なものか、みたいな。 そういえば5/9~13の5日間、実家の長野に帰省しておりました。今回はプライベート・レジデンスと称し、振付家・ダンサーの木村玲奈さんも同期間、我が家に滞在しました。といっても別に作品を作ってもらったわけではなく、私の家族と一緒にご飯を食べたり、長野の名所や私の思い出深いところへ玲奈さんを案内して回っただけの滞在だったのですが。このレジデンス中にふと思ったのが、ダンスって事故みたいなものだということです。いつ、どこで、何のタイミングで事故=「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」が起こるのか分からない。事故が起こりやすい場所(=劇場)や事故が起こりやすい車両(=ダンサー)もあるけど、でも必ずしも事故が起こる訳ではない。そして、その場では事故が起きなかったとしても、帰宅後に後遺症を発症して、実は事故(=ダン��)だったと気づくかもしれない(実際に、車にぶつかった時は何ともなくても、後日体調不良を訴えるケースはあると教習所で習いました)。長野でのレジデンスも、長野にいるときは、単に玲奈さんと時間を過ごしているだけという感じだったのですが、帰阪後、あの体験を振り返った瞬間、深い混乱と興奮に襲われました。滞在中、私たちは一体何をしていたのか、あの時間は何だったのか、頭ではよく理解できなかったし、実は今もほとんど理解できていません。それほど不思議な時間でした。まさしくあれも「事故」で、今も後遺症が続いています。これも一種のタイムラグですね。 さて、また長文となってしまいました。最後に、アヤカさんに2つだけ質問させてください。一つ目は、以前の往復書簡で出てきた「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」についてです。この「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」は、アヤカさんが実際にご自身で踊っているときにも生じる時間なのでしょうか。それとも、ある行為や事象を客観的に「見ている」ときにしか生じないものなのでしょうか。もう一つ、仮に「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」が、アヤカさんご自身が踊っているときにも生じるものだと仮定して、上記のタイムラグのように、実際に踊っているときは「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」を感じることができないけど、ダンスが終わって暫く時間が経ってから「ダンスとしか呼ぶことのできない時間」を感じることはあるのでしょうか。
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中間→藤澤/2018.05.14
アヤカです。
おととい京都での本番が終わりました。妖精に変身したり、お客さんのガイドをしたり、盛りだくさんの2日間で楽しかったです。
トモくんの獅子舞の話、驚きました。初めて会った頃からこの人踊ればいいのにと思いながら身体を見ていましたが、まさか経験があったとは。弟さんも、お父さんも、自分の家族と同じ踊りをすること、その踊りを見ることは特別な体験だと思います。私の親族は誰も踊りません。いつも1人で踊っ��いた。私の家族はどんな踊りをするんだろうとこの話を聞いてふと考えました。
振付を貰いに行き、それを自分の身体に吹き込み、新しい場所でその振付を体現する(踊る)。そうしてまたその振付に魅了される人が出てきて、繰り返されることで振付は生き続ける。でもその息の根をどこかのタイミングで止めてやりたいとも思います。誰かが誰かのために作った振付を、自分の身体だけに閉じ込めてもう誰も触れないようにしたい。形は変えずに、でも私だけが踊ることの許される振付としてすっかり色を変えてしまいたい。他人の振付作品を踊ってばかりのダンサーは何が楽しくてそれをやるのか、よく聞かれるけれどこんなことを企んでいたりします。
先日、KAVCにある人たちの対談を聞きに行きました。今日来ている人たちがどんな人なのか知りたい、という登壇者の呼びかけで何人かの観客が自己紹介的なことをしたのですが、そこには何かを表現したい人たちがたくさんいました。「1人で細々と、演劇的なことをしています。」「表に出してはいないけれど、ずっと続けています。」「言いたいことがたくさんあります。」やっぱり、この世に生きるいろんな人の振付を踊ってみたいと思いま��た。例えばいま隣の席で喧嘩をしている若いカップルが私に振り付けてくれるとしたら。どんな踊りを披露できるのか、気になって仕方がないです。
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藤澤→中間/2018.05.06
こんばんは。藤澤です。 いま、静岡からの帰りの新幹線の中でこれを書いています。「ふじのくに⇄せかい演劇祭」に行ってきました。風が強かったですが、からりと晴れたよい天気に恵まれました。これから帰阪します。 質問へのご回答ありがとうございます。アヤカさんのお答えを読んで一つ思い出したことがあります。私の地元では、秋になると奉納祭として未成年の男子が獅子舞を行います。私も、中1の時から地元を出る高3までの6年間、獅子を舞っておりました(これが恐らく私の唯一のダンス経験?)。私の弟も獅子を舞いましたし、私の父とその兄弟も獅子を舞いました。さて、この獅子舞ですが、うちの祖父母に聞いたところ、祖父母の代か、その一つ二つ前の代の人々が、隣の村まで教わりに行って、うちの集落に持ってきたもののようです。隣といっても片道8〜10kmほど離れていますし、当時の移動手段は徒歩ですので、教わりに行くだけでも一苦労です。勿論、一晩二晩では覚えきれないので、何回も通ったことでしょう。 なぜこの話を思い出したかというと、当時の私のご先祖様たちも、ある種「振付」を求めていたのではないかと思うのです。アヤカさんのお答えにある通り、振付が、ダンサーを取り巻く環境や、一瞬の心の動きも含むのならば、彼らも何らかの動機や原因、気持ちがあって、隣村まで「振付」を貰いに行ったに違いありません。集落の発展や娯楽の提供、隣村との交流などの理由かもしれません。でもその時彼らが「自分たちで獅子舞をつくろう!」ではなく「隣村に獅子舞を教わりに行こう!」と決めたのが、とても面白いし、何だか、僕にはアヤカさんのお答えと重なっているように感じるのです。何よりもこの選択は、振付家(作家)ではなく、ダンサーぽいなと思います。 前回お会いした時に「振付をしたいと思っていない人に、無理やり振付をしてもらうのも暴力だよね」という話をしました。でも、ある人に心動かされ、その人に振付してもらいたいという気持ちが生じた時点で振付が始まっているのだとしたら、既に振付は始まっているのだと思います。では、その振付をどう貰いに行って、そして、どうやって持ち帰るのか。私個人としては、ダンスそのものよりも、振付を貰い受け、それを持ち帰る過程の方が今は興味があります。何よりその過程は、ダンスそのものと同じくらい重要なことに私は思います。 長文失礼いたしました。今週末は本番ですね。帰省しているため見に行くことは出来ませんが、公演のご成功をお祈りしております。 追伸:振付けられたい人、あとでこっそり教えて下さい。
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中間→藤澤/2018.05.02
アヤカです。
今日は稽古日を1日間違えて劇場に行きました。やる気満々で雨の中歩いたのに。疲れているのかもしれません。
先週、忙しい中時間を作ってくれてありがとうございました。2年前に一緒にやった工場の頃から芯の部分でやりたいことはやっぱり変わっていなくて、何かまた新しい動きをしようと思ったときに共犯者として真っ先に浮かんだのがトモくんでした。また巻き込んでしまったねぇ。 「往復書簡」という単語をこれまで25年生きてきて使ったことがなくて、調べました。英語では「correspondence」というらしいです。この往復書簡のサイトを立ち上げるのにメールアドレスが必要で、新しいアカウントを作ったのだけど「correspondence」はすでに使われてた。複数形の「correspondences」やバンド名っぽく「thecorrespondence」もダメだった。パッと見「contemporary dance」みたいだな〜と思って「correspondance」という造語でトライしたんだけど、これもなんと使われていた!実際に存在する単語なのか気になって調べてみたらフランス語でした。最終的には面倒くさくなって最後にisを付けて、やっとアカウントを入手できました。
3つの要素の質問に答えます。私の個人的な感覚としては、振付があるから人は踊るのだと思っています。ここで言う「振付」とは動きの形や順序のことだけではなく、場所や音など踊り手を取り巻く環境も含みます。嬉しくて踊りだしたくなるというような、一瞬の心の動きも振付と呼んでいいと思います。「ダンスを立ち上げる」という言葉は「ダンスとしか呼ぶことのできない時間を生む」という意味で使いました。どんな行為もダンスと名付けることのできる素晴らしい時代だけど、ダンスとしか呼ぶことのできない行為ってどんなものだろう。振り付けられた身体は振付をもとに動くけれど、そこにダンスを見出すのは踊り手ではなくそれを見ている身体(=観客)なのかもしれません。劇場で行われているダンス作品を見に行ってもダンスを見た気がしないようなことは多々あって、ダンスってネッシーとかUMAみたいなものなんじゃないかって最近考えるようになりました。ダンスを見ることができるなんてのはただの思い込みで、私たちは自分勝手に「ダンスを見た!」と決めつけて楽しんでいる。現象。これで答えになっているでしょうか。
P.S. また1人、振り付けられてみたい人を見つけました。
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藤澤→中間/2018.04.30
こんばんは。藤澤です。 先日はありがとうございました。久しぶりにアヤカさんとじっくり話せて、とても楽しい時間でした。2年前の工場プロジェクトが終わってからは、舞台上でお見かけすることの方が多かったので、不思議と、久しぶりにアヤカさんにお会いした心地がしました。さて、この往復書簡をしたいと申し出たのは私からですが、実は私も往復書簡は初めてなので、勝手がよく分かりません。ただ、まだまだアヤカさんに聞きたいことは山ほどあって、できればそれを自分のリズムを保ったままで聞こうとした時に、往復書簡というのは、手前勝手な意見ですが���ても楽な感じな気がします。自分勝手ですみません。そういえば、アヤカさんからのLINEを見て気づいたのですが、往復書簡はcorrespondanceisと訳すのですね。何語でしょうか。「dance」に思わず目がいきます。 さて、前回お話をお聞きした際に、アヤカさんは「振付家以外(舞台芸術家以外)の人に私を振り付けてもらい、それを私が(私たちが)踊って、ダンスを立ち上げる」ということを少し考えていると仰いました。その時、私はただフムフムと聞いていただけでしたが、今振り返るとこの言葉の中には、「(誰かに)振付けられる」こと、「踊る」こと、「ダンスを立ち上げる」ことという3つの要素があるように思います。そして、この3つの要素は、おそらくダンサーの方々にとっては切っても切り離せない不可分の関係なんだろうと、何となく(勝手に想像して)思う部分もあるのですが、だからこそ、改めてお聞きしたいのですが、アヤカさんにとってこの「(誰かに)振付けられる」「踊る」「ダンスを立ち上げる」という3つは、互いにどういう関係にあるのでしょうか?例えば、ダンスを立ち上げるのに際して、誰かに振付けられるというのは、必須の条件なのでしょうか。それとも誰かに振付けられなくても、ダンスが立ち上がることはあるのでしょうか。 何とも大雑把な質問になってしまいましたが、ご容赦下さい。そしてこの質問はきっと、折々の場面で、色々な言葉で、何回もアヤカさんにお聞きしているような気がします。それでもだからこそ、今このタイミングでもう一度お聞きしたいのかもしれません。
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