Tumgik
cocojino · 5 years
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死というシステム
生き物は始まったら終わる。
そういうシステムになってる。
それってすごく素晴らしいシステムだと思ってるんだけど、いかんせん人間には感情があるので、そのシステムに精神をやられる。
無感情な植物だったらシステムの恩恵を受けるだけ受けて何も感じずに死を迎えられるのに、人間はどうして感情なんていうオプションを付けられたんだろう。
神さま(本当に信じてるわけじゃないけど、便宜上)がそう作った意図はどこにあるんだろうと、人が死ぬたびに考える。
知らない人も死ぬし、好きな人も死ぬし、嫌いな人も死ぬ。みんな結局死ぬ。
いつ死ぬかどう死ぬかは選べないんだろうなと思う。運命論者なのかなあ。
tumblerを長らく放置していて、今日やっとまた文字を打ち始めたけど、先日、好きな人が死んだ。
周りには、その好きな人を好きな人がたくさんいた。みんな悲しんでた。悔しがってる人もいた。怒ってる人もいた。
みんなそれぞれの感情があるんだなあ、と思った。
わたしは、たぶん、悲しいが8割で心配が2割だった。
彼の時が止まっても、わたしの時は動いているのが不思議でたまらない。
日常を過ごすということが、こんなに虚無なものなのかと、どん底の気分の中で考えた。
仕事は良い。
仕事をしていると忘れられる。
今週はとても忙しい週だったのが幸いして、1日10時間くらいは忘れていられた。
眠っている時間が5時間くらいだから、残りの9時間は彼のことと死について考えてた。
この9時間が長かった。とてもとても長かった。
日課になっている漫画やアニメやドラマも観てたし、ゲームもしてたし、風呂にも入ったしごはんも食べてた。
ただ、あまり覚えていない。1日9時間分、さっぱり覚えていなかった。
まだしばらく、自分の日常と、非日常がどろどろに混ざった不思議な気分で過ごしていくのだろうと思うけど、好きな人たちに会って、楽しいなと思えることを増やしたい。
とてつもなくとりとめのない話になったな。
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cocojino · 7 years
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幸せの下ごしらえ
昔読んだ本で、「幸運の下ごしらえ」という言葉があった。
詳しい内容はうろ覚えだけど、要は、「運と幸運は違う」「幸運はすべての人間に平等に降り注ぐ」「だが、きちんと準備していたものにだけ芽吹く」といった話だった。
そこからわたしは幸運を幸せと変えて、座右の銘にした。
たぶん、幸せは得るべき人しか得られない。
幸せを得る瞬間まで、ちゃんと(定義が怪しい)生きてきた人だけが掴めるのだと思う。
さて、わたしは下ごしらえをしているか?
しているつもりだけど、全く幸せになれない。
このまま死ぬ瞬間まで幸せになれなかったらどうしようという思いが、ここ半年ほどこびりついて離れない。
そもそも"下ごしらえ"ってなんだ?
慎ましく誠実に生きればそれは"下ごしらえ"なのか?
ということを考えていて思い出した。
例の本では「幸運のクローバーを見つけた者に国をやる」という、幸運の定義があったこと。
なるほどね、自分にとっての幸せとはなんなのかを明確にしなければ下ごしらえなどできないということなのね、と。
つまりわたしは下ごしらえできていなかった。
幸せの定義、ちゃんと見つけないといけない。
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cocojino · 7 years
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年が明けた
2018という数字はしっくり来るので、2017よりは良い年になりそう。
1年間、特に何もせずに過ごした気がする。
気持ちの動きはたくさんあったけど、何かをしたかと言われるとそんなことはない。
仕事、うまくいかないことばかりだった。
生活、変化についていくのが精一杯だった。
友達、結局増えなかった。
趣味、一生懸命になれなかった。
大きな反省点もなく、大きな達成感もない、無の1年だった。
2018年は旅行をすると決めた。
ひとりで旅をする。
26歳になって、人生のデッドラインまであと24年になるけど、残りをどうしたらいいのか、ちゃんと考えようと思う。
日々かなしいきもちを抱えて生きるのを辞める方法を考える。
自分で自分を褒めてあげられる生き方を見つける。
他人への依存の質を高める。
なんだか新年早々ものすごくもやもやするね。
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cocojino · 7 years
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友達キャンペーン
というのをやっている。
友達がいないことに危機感を感じたわたしが、他人とたくさん会ってみるというキャンペーンだ。
何人かと会ってわかったのは、他人と話すと自分の考えがまとまって芯の強いものになるという、至極当たり前のことだった。
他人の考えを聞いてブラッシュアップしながら自分の考えを広げたり深くしたりする作業、それが他人との会話の旨味だった。
ムム?
友達できてなくない?
・・・できてない!!!!!!!
いや、きっといつかできるから。
何年かかったとしても、自信を持って「わたしの友達なの!」と言える人を増やしたい。
ですから、他人の皆さんわたしと会ってお喋りしてください。
もちろんくだらないバカ話もできます、そんなに真面目ではないのでできます。
よろしくお願いします。
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cocojino · 7 years
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自分のための1万円
ジムに行きはじめた
運動ができなくなっていた。
高校卒業から7年、その間にしていたのは演劇だけ。
演劇は疲れるけど運動ではなかったからなあ。
行こうと思った理由は、会社の大人が行っていて羨ましいなってしばらく思ってたところに、わりと仲良くしてくれてる人が行ってることを知ってさらに羨ましく思い、トドメは順調な昇給。
これくらい昇給したなら自分のためにお金使っても良いのではないか?と決意したものの、入会直後は「自分に1万円を投資すること」に恐怖してしまい、無理〜っつって友達に泣きついたりした。
もともと自分のためにお金を使うことが苦手。
例えば化粧品を買うのは、いい大人なんだから化粧しなさいと言われるからだし、
かばんを買うのは、デザイナーの兄弟や日本のお店のスタッフに還元しないといいかばんが維持できないと思うからだし、
服を買うのは、隣にいる人が恥ずかしい思いをしないようにだし。
つまりわたしは自分のためと思って投資したことがほぼないんですよね。他人に奉仕する精神が根深すぎる。蔓延ってるなぁってかんじ。
貢ぐ体質ともまたちょっと違うと思うんだけど、これなんなんですかね?教えてすごいひと。
とりあえず現状の54〜55kgというのは変えずに、見た目がそこに釣り合うように半年後くらいを目標に運動します。
いまの見た目完全に60kgだからな。
泳いで走ってチャリ漕いでがんばります。
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cocojino · 7 years
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他人とかかわりたい
他人ってすごい。
他人なのに情を持って接してくれる。他人なのに!!!!
なので、他人とかかわりたい。
この世のほとんどは他人だ。自分から見ても他人ばかりで、他人から見ても大抵の場合わたしは他人だ。
こんなにも他人ばかりの世界で生きていて、ちゃんと他人とのかかわりを持っている他人たちは本当にすごい。
わたしは他人との繋がりが非常に希薄で、友達は1人か辛うじて2人、会社の人たち、ライブハウス(このことはいつか書く)で会う人たち、かばんやさん(このこともいつか書く)で会う人たちくらいしか思い浮かばない。
そしてそのほとんどはインターネットの中で関わっている。
あ、インターネットでしか生きられない話もしたかったんだった。今回は話のゴールが違うくなってしまうのでしないけれど。
インターネットで生きることは素晴らしい。
なぜならほんとうに快適だから。
批判に晒されることはあるけど、そういうものはすぐに見なかったことにできる。(その後の自分の気持ちは最悪だけど)
姿を見せ合いながらかかわるよりも断然楽だ。
だけどやっぱり他人の姿を見ながら、五感を使って、外でかかわりたいという気持ちは捨てられない。
最近、わたしと同じようにインターネットで生きている人とよく会話している。
その人も非常に生きにくそうだ。
他人とのかかわりかたがわからない人間って、人類史上たくさんいたと思うんだけど、一体どうやって生きていたのだろう。
他人とかかわりたいけどどうしても無理な人向けの、穏やかな暮らしかたマニュアルはないのかな。
ああしろこうしろと言われたくはない。
だって今までたくさんがんばって来て、それでもできなかったんだもの。
もう諦めてもいいと思うのだ。
他人たちへの憧れは捨てられないし、他人に情を持って接してもらいたいし、他人に情を持って接したい。
だけど、どうしてもどうしても無理だ。
他人のみなさん、他人であるわたしにかかわってくれませんか。
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cocojino · 7 years
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音楽
音楽素晴らしい期っていうのが不定期で来るんだけど、ほんとうに音楽に対して妄信的になる期で、ちょっと厄介。
音楽は別に命を救ってはくれないのに、救ってもらった気になって、作った人への愛で溢れる期。
「女の音楽の趣味は男の影響」という定説に漏れず、わたしも付き合った男の影響で音楽を聴くようになったんだけど、
そもそもその男が作る音楽が最高すぎたというのも理由のひとつで、これだけ音楽を妄信してしまう根本はそこなのかなと思います。
精神が気持ち悪いので、常に何かに救いを求めてしまっていたので、そこにガッチリはまってしまったのだろうなあ。
音楽を自給自足したら自分に自信が持てたり自分を好きになれたりするのだろうか。
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cocojino · 7 years
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昔のことをかんがえる
最近は昔のことを考えることが多い。
昔好きだった人とか、昔仲よかった人とか、昔いじめられていたこととか、昔病気になったときのこととか。
好きになった人たちのことはいまでも大切に思っているし、会いたいなあと思うこともあるんだけど、すでに連絡が取れない人もたくさんいて。
大人になってから何人か会えたし、いまも会おうと言えばわりとすぐ会ってくれる人もいるけど、「好き」という感情がないまま会うのは毎度不思議な気持ちになる。
人を好きになるとそのことでいっぱいいっぱいになって他のことが適当になってしまうダメ人間だったので、いま会ってなんの話をしてなにをして楽しく過ごせばいいのかよく分からない。
人対人としての関係は築けていなかったんだなと痛感する時間になります。
好きだった人より大変なのが仲が良かった所謂友人という存在。
だって今仲良くはないんだもの!どうやってお話したら良いの!
わたしは���活動をしていたので、そのときの仲間とか、大学時代のサークルの仲間とか学部や学科の友人とか。
思い出話をするべきなの?今なにをしてなにを考えているか話せばいいの?彼や彼女はわたしの現在���興味なんてないんだから、そんな無意味な時間を過ごす意味はあるのかしら。
現状、わたしが友達だと思えているのって2人しかいなくて、そのうちの1人は限りなく友達に近い知り合いだし、もう1人は前の彼氏で、果たして友達とは何なのだろうと考えてしまう。
友達の定義って人それぞれだと思うけど、わたしは"自分を包み隠さず話せる存在"だと思うので、そうすると本当に誰もいないんじゃないかと思ってしまうのです。これだから友達いないんだよな。
わたしをいじめていた人間については、本気で不幸になればいいと願っています。
できる限り苦しんで、世界を呪いながら生きて死んでほしい。
だってわたしはこんなに世界を呪っているんだもの。彼女たちも最低限そうじゃないと不公平だ。
病気は一向に完治しない。12年くらい通院しているのにもかかわらず、全く良くならない。
未だに発作は起こるし新たな症状に悩まされてるし、いきなり食事ができなくなったり眠れなくなったり欲を制御できなくなったり涙を止めることができなくなる。
誰のせいなのか考えたこともあるけど、加害者のせいっていうのは書類や世間での見方であって、わたし基準で見たら結局わたしが悪いんだと思う。
過去をうまく清算できないから今の人生が苦しいのだ。
人も、事実も、環境も、清算できないと苦しいままで生きていくことになってしまうよ、という話でした。
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cocojino · 7 years
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わたしはとてもミスが多い
ほんとうに多い。 忘れてしまうことを言い訳にはできないから、いつもメモを細かく取って、覚えるべきことはチカチカするようなビビット色の付箋に書いている。 それでも間違う。 極めつけはミスに対しての注意を、うまく受け止められないことだ。 間違ってしまった自分を間違った方向に卑下してしまって、異常に落ち込む。 相手が怒っているとか、自分のために言ってくれているとか、ミスの大小とか、そんなの関係なしに、ミスをしたという出来事だけで失恋よりも友達との絶交よりも、家族が死ぬことよりも、落ち込む。 「性格は変えられる」を実現してみせた人間がいちばん近くにいるのだけれど、ものすごい努力が必要だったそうだ。 それならわたしも変えればいいのに、"ものすごい努力"はしたくない。 そんな覚悟はないらしい。 人間が社会人として大人として生きていく上で普通にできることがなぜできない、なぜ直せない、なぜ覚悟がないのかと間違うたびに思うのに、いつまでたっても暗闇のままで困った。 欠陥をどう埋めるか考えないといけない。
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cocojino · 7 years
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日本人としてどうなの?
「日本人としてどうなのそれ?」ってよく言われる。 味噌汁を飲めないこと 花火大会が嫌いなこと 主にこの2点なんだけど、いまいち理解ができない。 いま観てる海外ドラマ、「オレンジ・イズ・ニュー・ブラック(原題:ORANGE IS THE NEW BLACK)で、黒人白人ラテン系アジア系がそれぞれ自分の人種について主張して喧嘩してるけど、無意味すぎる。 自分の国に誇りを持っているのは素晴らしいことだと思うけれど、それを主張する���とに意味はないよね。 心の中にあるべきものであって、アウトプットするための感情ではないと思う。 パスタが食べられないイタリア人がいてもいいし、ハンバーガーが嫌いなアメリカ人も、アッラーを信じてないイスラム系もいるかもしれないし、人種という一応のくくりはあってもひとくくりにするのは気持ち悪い。 パスタが大好きなタイ人がいてもいいし、ハンバーガーしか食べないロシア人がいてもいいし、アッラーを信じる日本人がいてもいい。 何かに固執するというのは、周りが見えなくなるので本当に悪だなあ、と思う。 味噌は臭い。油で臭いが消えていないと口に入れられたもんじゃない。 花火はうるさい。無音にしたテレビ中継で美しさだけを感じていたい。 とはいえやっぱり、日本人として楽しめることを楽しめないのは悲しいことだと思います。 ごめんね味噌と花火。
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cocojino · 7 years
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文章を書くことを始めたかった
そう思っていてもなかなか書くことなんて見つからないものだ。 昔から読書が好きで、でも食指が伸びるものは限られていてとても狭い世界だった。 絵本はあまり読まなかったと思う。 図鑑もきっと読んでない。 ずっと子供向けの推理小説(学校の図書館にある易しいアガサ・クリスティーみたいやつ)を読んでいたと思う。 多分とか思うとかばかりなのは、つい昨日のことも覚えていないような脳みそのつくりだから。 病気ではない。 でも覚えられないというのは、日常生活をどうしようもなく送りづらくする。 文章を書くことを始めようと思ったのは、ちゃんと毎日を覚えていたいからだ。 その日の感覚を忘れたくないと思うからだ。 覚えられないから嘘をつく。覚えられないから誤魔化すし、覚えられないから諦めるし、覚えられないから記憶を塗り替える。 そういう自分でも、まだ信じていたい気がする。 大きな声で叫ぶつもりはないから、周りの誰かに少しだけ聞こえるような音量を出せればいいと思う。 ちなみに実際に声に出して話そうとすると音量調整ができなさすぎてうるさいと言われがちだ。 だからせめて文章では、小さな声でいたい。声が大きいというのは恥ずかしいことだと知っているからね。
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