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例えば禁欲というのは、禁欲しなければならないという煩悩か、禁欲したいという欲望か、そのどちらかでないということは果たしてあり得るのか。
禁欲を禁欲して奔放に欲望に遊ぶ事は、一体どういうことなのだろう。
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例えば視界が無い状態を無明と呼ぶとすれば、文字通り明かりが無いことと等しく明かりの中にあることもまたひとつの無明と呼ぶのではないか。
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ゲームは人生のメタファーだ、というのが持論のわたくしですが、最近悟りの境地というのはFF5のすっぴんマスターとか、ドラクエ6の勇者マスターとかに近いのではないかと思う。
FF5ですっぴんは初期状態(所謂ジョブについてない状態)で、特殊なアクションも出来ないし、能力値も低い(あとで高くなる。後述)
ジョブはナイトとか黒魔道士とか、変なところでは薬師などがあるんだけど、ジョブにはそれぞれ特性があって、耐久力があるとか素早い、みたいな能力値系のものと、魔法が使えるとか特殊なアイテムを使って色んな事を起こすとか、色々ある。魔法が使えるけど貧弱だったりもする。
また各ジョブ固有のアクションがひとつ設定されていて、これは外せない。例えば黒魔道士ならくろまほう。竜騎士ならジャンプ。
各ジョブはABPと呼ばれる成長ポイントを貯めることでレベルが上がり、レベルに応じたアビリティを習得する。
習得したアビリティは別のジョブに就いてもひとつだけ選んで付けることができる。ジャンプ出来る黒魔道士とか。
レベルが規定値に達するとマスターになる。
マスターする前でも自由に転職ができる。
マスターすると、各ジョブ固定の能力値や特性がすっぴんに引き継がれる。例えば黒魔道士マスターのすっぴんは、魔力が黒魔道士と同じ値になる。シーフなら素早さ。
ここでいうジョブは、悟りにおける煩悩にあたる。煩悩は108あるらしいから、全部で108ジョブをマスターする必要がある。
ジョブには上級職みたいなのがあって、特定のジョブをいくつかマスターしないとつけなかったりする。つまりいくつかの煩悩���アレしないと気付くことさえ出来ない自分の煩悩がある。
たまにドラクエ6の主人公みたいに、悟り適性がある奴がいて、10煩悩マスターで悟ったりする。
強くてニューゲーム(輪廻転生)システムが採用されていて、周回しないと全マスターは難しい。でもたまに悟り適性がある奴がいて、一生のうちに悟ったりする。
一生一煩悩、というわけでなく、いくつかマスター出来ることもあるし、途中で死んで転生することもある(マスター前に転職することにあたる)
この前湯浅 亮平くんと話したみたいに、ヤバくても全滅してレベル上げて挑み直すってのはシステム的に出来ないから(輪廻転生の試行回数を増やせば同じ状況に巡り合う可能性はある)、ラストエリクサーは惜しみなく使った方がいいし、諦めて来世頑張るのに賭けた方がいい。
煩悩によってマスターまでに必要なABP量は異なる。
そのジョブに就いて生きてればいいってわけではなくて、ABPが貯まる行動をしなければならない(この辺はFF2の成長システムに似てる。脳筋にしたければひたすら殴るしかないし、魔法でごり押ししたければその魔法使いまくるしかない。選んだコマンドに対応する成長ポイントが得られる)。つまり超一所懸命生きても、違うポイント稼いでたらそのジョブマスターまでは時間がかかる。
しかし生物は大体色んな行動をするから、どんな煩悩に対しても1ABP分くらいの功徳は積める。つまり超長く輪廻転生しまくれば、いつかは解脱に至る(一切衆生悉���仏性)
でもそれは永く辛い経験であるから、自分の取り組むべき煩悩をなるべく早く知り(般若)、どの行動がどんなポイントに対応しているかの因果関係を見極め(業)、早いところマスター出来るような生き方をしようぜ(六波羅蜜多)! というのが仏教の基本姿勢。
しかしだるいのはやり込み要素の存在で、薬師なのにアイテム使用禁止とか、最初から詰んでる設定の巡り合わせもある。そこで親鸞は、いや、それでもただ一心に南無阿弥陀仏と唱えればABP貯まるって阿弥陀仏言ってたぜ!と説いて民衆の支持を得た。
そういう理不尽な巡り合わせとか、対応するポイントの獲得方法が超複雑な煩悩の攻略法をまとめたのが色んな仏典とか注釈書とか真言とか印とか禅で、現代でいう所謂アルティマニア。
で、アルティマニア無しで凡人がこのゲームをフルコンプして終わるまでに必要とされてる時間が、3阿僧祇劫年。
参考文献:海野(海野 慶文)住職のサブカル説法
Wikipedia
FF5 FF2 ドラクエ6
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音楽するときのフォームとか、爪なども含めた道具のお手入れや、良い状態に保つことの大事さについて書く。
当然かつ今更ながら、本当に大切だなと思う。
音楽には色々な音が必要だ。音程だけではなくて、金管木管、弦、パーカッションとかそういう音質だけでもなくて、例えばソリッドで鋭くて速い音とか、柔らかくて丸くて温かい音とか、同じ楽器で同じ音価で同じ音程を出しても、なんかもうちょっと…こう…!みたいな要求がある。そういうのが和音的にも旋律的にも寄り集まって、というか撚り集まって、みんなで統一したり、あえてセクション毎に対立させたりして曲想表現というのが出来る。音楽というのは本当は本当に微妙なのだ。
さてそういう音色の表現は突き詰めれば個々人の力量に掛かってくる。そのためにみんな細かな基礎練習をする。延々とスタッカートで吹き、フォルテシモで弾き、スフォルツァンドとかスタッカートテヌートとかいうわけのわからない指示に悩み、アラルガンドをメトロノームを睨みつつ鍛えるのだ。
そういう前提の元で、人が音楽をやる場合、イメージと発音の間に身体が介在する限り、そこにはメカニカルな要素が必ずある。惜しげも無く全身を響かせて歌い上げるオペラでも、座り込んで不健康に俯いて弾くシューゲイザーのギターでも、多分それは同じだ。
例えば和太鼓で大きい音を出したい時、撥を勢いよく振り下ろせば大きい音は出るのだけど、だからといって素人が力任せに叩いても音量はたかが知れている。もちろん筋肉量の問題もあるけれど、撥の先端に最大限のエネルギーを乗せるには直線的にではなく円を描くように動かすことが必要だからだ。
振り子の事をイメージすれば、同じ先端速度で動いていても、運動半径が大きいほどエネルギーは大きくなるから、手首や肘や肩ではなく、背中や���を使って腕を振る事でエネルギーを与えることが必要になる。
ここまでは身体の仕組みの前提で、次に問題になるのは、和太鼓に求められるフォームの中でそれをする時、綺麗なフォームを保ったまま最大限のエネルギーを出す、ということだ。なぜそのフォームが求められているのかは、各楽器によって文脈や歴史があると思う。神事でありそのフォームを保つことそのものが理由である、ということもあるだろうし、要求される全ての音色をトータルに考慮した上で最もバランスの良い身体の状態が理想的なフォームとされている例もあるだろう。しかしとりあえず、この例だけについていえば、和太鼓のフォームは大きい音を出す為だけなら効率の良くないフォームである。足を大きく開くので身体の可動域は狭まるし、バランスを崩してせっかく生み出したエネルギーが他に流れてしまうこともある。
ここまで書いてきて、和太鼓の例は本筋と違う方向で、ミスチョイスだったなと思ったけど、とりあえずそのまま書く。和太鼓は楽器そのものの歴史に比べて、現在主流の演奏方法の歴史はごくごく浅いので、今後もしかしたら革新があるかもしれない。
ということで、ギターの話をすると、特にクラシックギターのフォームは、ごく効率的に洗練されている。楽器に対する指の位置や角度、動かし方、爪の形、そのために指の筋肉を動かしやすい肘や肩の位置、ギターとのバランスを取りやすい姿勢、足の組み方、頭の位置等々。ひとつひとつに、目的と、論理的な理由付けがきちんとあるのだ。
それについての正確な、というか、誠実な理解無しに練習することは、決して効率的とは言えない。
トレモロを流れるように弾きたいのに、弦に引っかかる爪の形をしていたら、指の筋肉を鍛えることすら出来ないし、肩の位置がおかしくて弦に対する指の角度が変わってしまったら、変な筋肉がついてしまうか、手首や指で修正しようとして怪我をしてしまうかもしれない。
自分の音楽の不出来を解決するのに、自分のイメージと身体の不出来以外の部分でつまづいてしまうのは、あまり賢明とは言えないな、と思う。
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例えば人を貶したりルールを無視したり、その方が良いということを大人が実践していたら、子供がそれに適応するのはごく自然な流れのように思う。人として、というよりむしろ生物として。
この場合の良いはかなり流動的な概念であることには気をつけておかなければならないと思う。子供の純粋性というのは、良いの対義語としての悪いことをしない/知らないということにではなく、善悪の判断を経ずに物事を受容し、それに基づいて認知や善悪の判断基準や自己といったものを立ち上げるということに、その核心があるからだ。
もちろん、世に言う善悪というようなものには、ヒトの化学的な組成や生理学的、形態学的、分子生物学的な観点ないし行動社会学的な観点から不都合なものとそうでないものを弁別する基準が多分に含まれていることは疑いようのない事実ではあるだろうが、そうであるからといってそれらが恒真的な基準であると判断することには致命的な誤謬があるように思う。
ひとつには、社会構造の変動があり、例えばペットボトルは、リサイクルするより廃棄して新しく作った方が環境負荷が低いらしい。これについてのデータは確認していないけれども、中世から近代にかけて職人が金継をして水筒を使い続けていた頃とは状況が違い得るということがあるだろうし、もうひとつには、心裡留保的な点で、ある行動について内心それを悪だと判断していても、具体的かつ直接的な修正力が働いて是正されない限りはそれが善と判断されてしまうという問題があるように思う。
ということは具体的な悪行を働かずとも僕たち一人一人は立法的行政的立場以前に社会に対して責任を負うのであり、所謂「だらしない/情け無い最近の若者」を育て上げたのは他ならぬ僕たち一人一人であるということになりはしないか。
ロールモデル無き社会ではなく、ロールモデルを失ってオロオロする僕たち自身がすでにロールモデルになりはしないか。
継承の失敗を継承してしまうことになりはしないか。自覚無く悪の片棒を担ぎ、僕はそれが恐ろしい。
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フラメンコギターは指で弾く。
まあ当たり前なんだけど、ピックメインで、中途半端に指弾きに手を出してた人間にとっては0からではなくマイナスからのスタートなのが痛いところだ。
とはいえ、フォームの矯正は一般にとても苦労すると言われているけれども、単に時間がかかるというだけのことで、遅いテンポから少しずつ形を作っていくのはなかなか楽しい。下手くそなりに、間違っているなりに、やったことがあるというのはアドバンテージだ。
フォームが変わると音も変わる。前のフォームではやりづらかったアプローチも出来るようになる。フレーズの幅も広がる。前のフォームとの比較で、挑戦中のフォームに対して自分に足りないところもわかる。例えば薬指が動かないなら、ペットボトルを人差し指ではなく薬指と親指で握る。独立が必要なら中指を添えても良い。タッチパネルを中指と薬指で操作する。切符を自動改札に入れるのも薬指を使う。煙草は薬指と小指で支える。掃除をする時、掃除機を逆の手で持つ。もちろん指は薬指をメインに意識する。雑巾を絞る時、普段と逆に握る。
身体の使い方は心を規定する、と思う。
身体の自由さに比例して、世界は拡張する。
身体は僕の枠であるのと同じ強さで僕の檻でもある、と思う。
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人生に遅過ぎるということはない、のではなく、遅かれ早かれそれをしないことにはこれ以上どこにも進めないということが人生にはあるだけなのだな、と思う。ここで死ぬか、あそこで死ぬかだ。
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メトロノームを使う。
メトロノームの効用は、単純に正しいリズムが身につく、という以上に、自分の指の運動の限界を自覚することにある、と思う。
フリーテンポで演奏すると、出来ない部分を曲想表現と勘違いしてしまう。
客観性がない、というのは恐ろしいことだなと思う。
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練習日記的なもの
なるほど日記ってこういう理由で付けるのか、って感心してる。
フラメンコギター、という名目だかジャンルだかで毎日ギター触ってるけど、今が一番、練習してるって感じする。音量、音価、アクセント他諸々のアーティキュレーションを考えて、感じて、弾きながら反省するのは、ある意味曲を練習するより楽しい瞬間があるなと思う。僕の音楽の始まりが、吹奏楽で本当に良かったなあと思う。例えばBUMP OF CHICKENみたいなバンドサウンドから始めていたら、こんな小難しい単語も出てこなかった代わりに、もっと早い段階で挫折していたんじゃないかと思っている。
ピック弾きと違って、そして多分クラシックギターとも違って、フラメンコは右手の小指でさえストロークをする。力任せとか、手の重み任せに振り下ろしてもそれっぽい音は出てくれない。然るべき勢いで、然るべき角度で、然るべき部分を当てて弾く必要がある。その為にはだから、意識というか、手の張りのようなものが甲全体に行き渡っていないとあまり上手くいかない。力を入れるとか、緊張させる、とは微妙に違う、漫画脳としてはオーラを纏わせるとでも言いたくなるような感覚を、手首より先に満遍なく張り巡らせるのは、本当に難しい。
こういうの、どちらかといえば武道の稽古に近いのではないかという気がする。これも漫画からの知識ですが。
かといって、ストロークだけではフラメンコは弾けない。単音系の技術もたっぷり出てくる。高速のメロディも、複雑なアルペジオも、優雅なトレモロも、そ���ぞれ曲調や展開に合わせて表現を変えながら弾く必要がある。
ストロークで少し上手くいっても、例えばアルペジオになった瞬間全然違う指の使い方を要求されて、呆気なく出来ないのは結構がっくりくるものがある。
禁じられた遊び、という曲はクラシックギターの名曲として有名だけど、もともとはエチュードの一つだそうだ。全編通してごく単純なアルペジオが続く。薬指で一弦、中指で二弦、人差し指で三弦を三連符で弾く、そのパターンは全く変わらないのに、少しずつ表情が違うそれを、上手く、ではなく、良い感じに弾こうとするだけでも高い高い壁を感じる。
しかしまあ、なんとも楽しいものだなあと思う。
それはそうと、楽典を勉強しなくては…
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フラメンコギターをやり始めるにあたって一番の壁は、そのスピードというより、それを可能にする左右の指使いではないかと思う。左手も、普通にエレキギターを弾いてる限りではあり得ないと思うような運指をするけど、輪をかけて右手の動きの多彩さは怯むに充分だと思う。
けれども解説書をよく読むと、動きは複雑だというより普段やらない動きがいくつか組み合わさっているだけで、もちろんパコデルシアみたいな一流のマエストロになるには一生かかるのだろうけど、手の構造として特に有り得ない動き方はしない。
どちらかというとあの動きは豪華絢爛だというより、機能美の世界だと思う。
例えばラスゲアード、いわゆるフラメンコらしい、高速三連符でのコードストロークなどをやる時に使われる奏法は爪の表側、マニュキアを塗る部分で弦を弾く、という奏法らしいのだけど、これを実際にやろうとしてみると、使うのはデコピンをする時と似たような筋肉だということがわかる。演奏中は親指に引っ掛けていられないので、掌というか親指の付け根辺りに引っ掛けて勢いを出す。音にアクセントをつけない時は引っ掛かりを使わない。グーからパーに指を広げる時の動きで弦を弾く。人差し指から小指まで、音価、音量、タイミングを揃える。
だいたいどの楽器でも言われるように、薬指は時に小指より独立性が低い。筋肉の柔軟性も、力強さも、中指に依存している度合いが高い。
だけどこれは、複雑な動きを要求されているというよりは、単純な筋力不足、柔軟性不足であって、だから同じ��ごく単純でフィジカルなトレーニングで解消出来るはずだ。
従って一所懸命弦に向かってデコピンをする。手首の位置、曲げ方、肘の角度、どこで中指と連動してしまうか、力強い音を出すにはどの筋肉を意識するか、繊細に弾くにはどうするか、弾き終わった後どこまで指を伸ばせば一弦まで届いたのか、リズムに乗って弾くには指の戻し、つまり手の握り方にも注意が必要だ。実際の曲には高速六連符や連続三連符も出てくる。そういう事を考えるのは、少し複雑だと言えるのかもしれない。
そういう時には一流のギタリストの動画を見る。幸いなことにパコデルシアはじめ、高名なギタリストは高画質なDVDが沢山出ている。
上手く書けなかったけど、上記の悩みには二段階ある。どれが正解か、と、それに至るにはどうするか、の二つだ。
先日書いた、先人の功績というのは、どれが正解か、について悩む必要がない、ということだ。そして時に、それに至るにはどうするかもメソッドとして確立していることも多い。
時々、こういうのは畑仕事に似ているなと思うことがある。良い収穫を得るためには、まず土作りが必要だ。きちんと石を拾い、木の根を引っこ抜いて、肥料をまき、日当たりを確保して、必要なら灌漑設備を整える。
逆にワイン用のブドウは水捌けを良くするため砂地などに植えることもある。日が当たりすぎるのが良くない植物もある。必要な肥料も異なる。
例えばギターをどう構えて、指はどう使うか、エチュードに至る前のこういう些細なトレーニングは、土作りに似ているかもしれない。
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フラメンコギターの練習始めて一週間くらい。目に見えて音は変わったし、リズムも良くなったけど、今までサボってた分取り返しただけって気もする。
今までエレキギターやアコースティックギターをやるにあたって教本は何冊か読んだし、メタル用のメカニカルトレーニングは出来ないながら一所懸命取り組んだけど、指の形とかピックの持ち方とか、全て自己流だったからか積み上げてる気がしなかった。
フラメンコは受け継がれてきた伝統というか、正解がしっかりしていて、指の形から動かし方から弦への当て方まで、こうあるべきというのを示してくれるから、本当に気が楽。
練習するとき、出来るようになったとき、これで合ってるのか無駄に悩まなくて済む。クラシックもそうだけど、先人の功績にあやかれるというのは何事にも代え難い財産と幸運なのだなと思う。
現代音楽のような、フリースタイルな音楽は、始めるにあたっても、売れるにあたっても、敷居は低く感じるけれども(ピアニストみたいにほんの一握りの天才しかそれを職業に出来ない、なんてことも、やり方によっては回避できるし)、本当はきちんと上手くなるためにはものすごく過酷な環境なんじゃないかと時々考える。
もしかしたら音楽だけじゃなく、この世界の色んなことは、そんな風に出来ているのかもしれない。
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進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくりかえしであるらしい。
ドーキンス 利己的な遺伝子 p126
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遺伝子は、それ単独で「すぐれたもの」としてではなく、遺伝子プール内の他の遺伝子を背景にしてはたらくさいにすぐれたものとして淘汰に残る。
ドーキンス 利己的な遺伝子 p123
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