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DOとBE
朝起きるのが苦手。いつまでも寝ていたい。 そのもう少し深いところには、朝追い立てられる私の頭の中の思考がある。 朝起きると、昨日できなかったことや、今日どうしてもやりたいこと。そういうことを朝にやろうという目標、そんなのがぐるぐる回って、「早く起きないと」となる。 最近それをやめようとしている。 朝に何かをしよう と思っておきるのをやめる。 先ず、何も考えずに勝手にやる習慣をつける。 朝起きたら布団片付けて、歯を磨いて顔を洗って、トイレ掃除して、掃き掃除。 すこし目が覚めたら瞑想 瞑想をしている最中に思考がどんどん活発になってくる。 それにとらわれない。 BE そのままでいる。 できるだけ���DO 行動 をしない。 瞑想が済むと、 -しなきゃ という行動はしてい���いけど、そういう自分のあり方から --したい という衝動のほうにシフトしてくる。 この -したい を大切にしようと思う。 ノートに書く。 妄想リスト。 今日やりたいことから、もっと長い目の野望のような大きなことまで。 昨日書いたことを復習しない。その日流れることをただ書く。 こうして、朝はつらいもの から 朝はやりたいことだらけでワクワク にシフトをする工夫をしている。 何かを行うことを優先で考える DO よりも、 何かを行いたい(リラックスしたいでも、シゴトしたいでもどっちでもいい。)という心地よいからだとこころの状態 BE を大切にするのだ。
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十分ある
うわー無い!
に気がついて久しぶりに気持ちが落ち込んだ。
その落ち込んでいる自分に気がついて、どうにかしようとしたが、どんな手も思いつかなかった。
人に頼って解消しようとした。そのときに、いつも人からもらわないと生きていけないと思っている自分に気がついた。
諦めて寝た。
朝起きて、ちょっとした音楽や動画なんかを見た。
そう、感謝 という学びがあった。
何にも無いけど、いいじゃん。
だってもう十分にあるから。
去年の状態から、今こうして三重と島根を行き来しつつ楽しい瞬間を体験できている。
コラムを書かせてもらえた。
朝普通に起きていられる。
日中普通に生活出来ている。
夜遅くなっても朝起きられる。
会って楽しい時間を共有してくれる人が居る。
心配してくれる人が居る。
叱咤激励してくれる人が居る。
ある事だらけだということに気がつく。
ああ、気持ちがいいなあ。
高速道路で休憩中に、こうやって記事を書こうという気分になったこと自体が気持ちがいい。
急いで向かわなければ と思っていてもどうせ休憩は取る。
その休憩中に、やりたいことをしている。それだけで幸せだ。 そうこうしていたら、無いことを在るに変えるアイディアが浮かんできた。 そうか!それでいいか。たとえ失敗してゼロになったっていい。生きている。
ゼロでもいいや。でもプラスに出来るアイディアもある。
今あるものだけで何が出来るか考えればいい。
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山葵谷トレッキング 開拓編
「シマヤマ」な山葵谷トレッキング
昨年に引き続き山葵谷トレッキング今年度第一回開催。山登りたいねと話していた友人を誘ってそこからメンバーを募った。
今回は町内の猛者から津和野、山口と ボーダレスなメンバーとなった。
「俺らって、島根って感じでもないよね。すぐ近く山口だし。」
(そうなんです!自分も山口との境に住む一人。ギリギリ島根の山口くん。)
「じゃあ、この界隈ってなんて表現したらいいかね?」
「シマヤマ じゃね?」
と言った具合で、勝手にシマヤマと名乗り始めている。
今回はまさにシマヤマなメンツである。
何で山葵なのか、何でトレッキングなのか。
山葵の谷は今まで隠されてきたものだった。人に見せるものではなかった。我が城として、マツタケまでは行かないまでも、家族や一部の人には見せるが、山奥にひっそりと鎮座するものとして扱われてきたのだ。
自分は受け継がれてきた古い文化が好きだ。そんな���で山葵というのはまさに「絶滅危惧文化」山越えてお隣の匹見や日原では、盛り上がりを見せつつあるが、吉賀町では 山奥の 谷の 在来種 なんていうものはほぼやっている人はいない(いないことも無いが。)。
この封印されてきたものの封印を解く。在来の種を後世に残していきたい。山葵は吉賀町、谷のご縁をいただいた柿木、そして周辺のシマヤマにとってとても貴重な種だと思う。
それと、山は自分にとって理屈無しに開放的で、人生に必要な要素なのだ。だから 山葵の谷 に関わることは、私にとって仕事ではなく、生きるという喜びそのものだ。つまり登山だ。トレッキングだ。
山を愛する人たちと共に
貴重な山葵の谷を 復活させ! 愛で! トレックする!
この考え方を詰め込んだものが「山葵谷トレッキング」である。
今回は 「山登りたいよね!」 と話をしていた友人に声をかけ、仲間を募った。 山やアウトドアーを愛する人たちだ。それと、山葵谷トレッキングのアイディアをいただきたかった。「自分はこんなこと出来るよ」って。
登山口(笑)の途中、ここは「長崎谷だよ。」と クンペイ が教えてくれた。
長崎谷の山葵谷トレッキングが始まった。
オールドスタイル
今回は1つ、自分の中で大切なテーマがあった。
ワラジ職人の なるくん に声をかけた。
ワラジで谷を登れないかなということ。
彼の古い文化愛には目を見張るものがある。が、何を隠そう、自分こそ古い文化大好きなのだ!そんな中で「ワラジ職人」となってくれたなるくん!君はすごい!「今回ワラジで登ってみて欲しいんじゃけど。あとで俺も作って登るけ。」とここは彼任せにした。(自分は地味だが、素足感覚をテーマに地下足袋と田靴を山のメインアイテムにと研究中だ。)
そうしたら、全く別の流れでクンペイが 背負子 を持ってきてくれた!現代によみがえる いにしえの山スタイル まさに絶滅危惧種がここに復活した瞬間!
「なんかネパールのポーターみたいだね。」って誰かが言っていた。
そうだね、お客さんの重装備を横に、大きな荷物を サンダルとズタ袋で 軽快に登ってしまう。そんなポーターが日本に出現した感じだ。それも面白い。
さて、ワラジ を自分はリクエストしたのだが、彼はワラゾウリ を履いてきた。草履はツッカケで、要するにサンダル。ワラジは足首に巻きつけることが出来る仕組みになっていて、かかとも守られる。要するにムーンサンダルみたいなやつ。
サバイバルな野生感が半端ない。
トレッキングならぬ開拓団
登りはじめるや、潅木、草、ツルが行く手を阻む。
パーティーの先頭に立っているので当然、ナタガマを振り回し、ばっさばっさと道を開拓しながら上るのだ。ついてくるほうも大変だ。急斜面やガレガレの滑りやすい場所もある。1人ならまだいいが、6人となると安全なルートを確保しなければならない。
ロープやはしご、草刈り、潅木刈り、道をはっきりさせる。谷にたどり着くまでには開拓をすることが山済みだ!山だけに。(にしてもこれをゼロから作り上げ、石を積み上げた先人には頭が下がる思いだし、残していきたい。)
途中、竹籠の麻が切れ、背負えなくなるアクシデントがあったが、やさしいゆーじさん(オットバル)に紐を差し出され、山人の準備の良さを感じた。しかしそのままいかないのがこの開拓団。なるくんがツルを差し出してきた。「これでいけるよ」という。しかたない。自分も地味にサバイバル力を見せる。
しっかりとつながった。
天界パーリー
予定の1時間よりもさらに40分ほどかかってしまった。山葵谷に到着すると、流石に皆疲れていると思ったので、コーヒーにしよう!と提案した。
そのままお昼の流れになる。
ここで、各メンバーの野での能力の高さを見せ付けられた!
イスを発掘して配置する。パイプを利用して洗い場が出来る。石のかまどが出来る。
シホ&マキはテーブルを作る。
クンペイはまさかの山での野草天ぷら!
ゆーじさんは西欧の雰囲気かおる豪華なみそ汁を提供!
そうそう、忘れてはいけない。登ったもの特権の山で山葵丼。それとシホ持参のお蕎麦に山葵!旬の山葵の花芽も入れて。
しめにまきさんのスウィーツ。なるくんのかきもち。
お昼はこんなにきれいで美しいものに。
自分だけならここまでは出来ない。メンバーに感謝。
テントはここで、
潅木を切って見晴らしよくして、
ここにバーカウンターでしょ、
ハンモックかけるならここ。
出る出るアイディア。 いただきましたー!
やはりここまでくると飲みたいもの。次回は是非泊まりでやりましょう。
谷掃除
楽しみすぎてすっかり時間もたち、昼寝もしたいところだが、谷掃除を体験してもらった。
山葵谷を復活させるには、余計な草を取り去り、トンギリとかトギリぐわと
呼ばれる細いクワを使って泥を流す 「谷洗い」 が必要だ。
現代的な方法なら、ポンプを使って強制的に流したり、
小さな耕運機を持ってきてかき回したりする。
そういう作業の効率化のために道を作りトラックが入れるようにもする。
しかし、自分が目指すものは、効率的な作業や見た目の良い高品質の山葵ではなくて、
どうやら「昔のそのままを残していくこと。」だと気がついた。
人と自然の共存
人が山と共存していくときに、
山葵谷はある種 聖地であってほしいと思う。
だから、人は自分の足で登り、自らの手で谷を洗い、山にひれ伏す。
その過程で出来上がった山葵をいただくのだ。
山に人が関わることで、山に賑わいを取り戻し、
人が必要な分だけ切り開いた林には、それに応じた生態。系が出来上がる。
自然が許してくれる範囲で、人は自然に影響を与える。 そうすると人も含めた生態系が出来上がるのだ。
人と自然との共存と調和。
結果として災害に強い山に、
里の人たちの貴重な飲み水に、
鮎やハマグリをはぐくむ水に、
モモンガやイノシシや熊が食べられる森に、
サンショウウオやゴギやヤマメのいる渓流に。
山葵谷にいたカスミサンショウウオ
共存とは、甘美な関係ではない。
生かし、生かされる。そこには脅かしあう緊張感もある。 だけど、どちらか一方が一方的に勝利はしない。
バランスが豊かさを生むことを知っているからだ。
山葵谷を通じて人と自然の共存する、人間も含めた生態系に関わっていきたい。
わんこたち
しろとこむぎちゃん 山のたのもしい相棒 わんこ
下山
下山が楽かと思って尾根を選んだが、急で、獣道しかないし、なかなか難しい。ルート確保必須。
ルート作りしてくれる人募集!
今後も登るぞー!
みんなお疲れサマーありがとう
ルートの整備、谷洗い、泊まれるパーリー会場
やることはまだまだたくさんある。
そして、山はあまり大人数では登れない。
およそ6名程度のメンバーと貴重な時間を共にしたい。
今後も月1くらいで企画をします。 是非ともに登りましょう。
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フリーフロウを感じて三重へ
3月初旬から三重県 津市 太郎生 の 村上真平さん ところ (住所は三重県津市三杉町太郎生になっています。)で、 「パーマカルチャーをベースにした農的くらしの研修センター作り構想」(山口解釈) のお手伝いをさせていただいている。 「パーマカルチャーをベースにした農的くらしの研修センター作り構想」(山口解釈) のお手伝いをさせていただいている。
なんで? いやー、よくわからない。
聞かれたら正直そう答えたい。
始まりは、こころの不調(心の旅)をきっかけにした 村上真平氏との再会だった。
2009年、青年海外協力隊から帰国した自分は、アフリカでお世話になった本、
LESSON FROM NATURE
��著者、村上真平氏の住む福島県飯館村を訪れた。震災後、原発に関する講演をして歩いていた真平さんを吉賀町に招いたこともあるとこもある。それ以来だった。
突然電話がかかってきて「あんた、ナンだあの記事は?俺はフェイスブックはめったに見ないが、たまたま開けたらあんたの記事が出てきて、病んだだとかなんとかかいてあったからビックリしてな。調子が悪いならビパッサナー瞑想行きなさい。」そんな内容だった。
シンクロ二シティー?メッセージ?
「ビパッサナー瞑想」
って 1年ほど前からちょいちょいっと友人から話を聞いていた。真平さんの電話の直前にも、友人から 「興味あるんだよねー。」なんて話を聞いていたから、そのワードが出てきてビックリだった。
そうかぁ、これは行けというメッセージだな。こころに気になっていたワードがまたしても出てくるなんて!(行ってみてわかったけど、近年は特に女性に大人気で、予約がその日のうちに一杯になるらしい。)
早速HP見てみた。
1月の6-8日には安曇野のシャロムヒュッテで断食をする予定になっていた。
断食で身体の調子を整えてっと。心もきっと整うに違いない☆ってな感じで。
で、ビパッサナーの日程を見ると。。。 1月10日ー21日だった。(10日の瞑想、1日のおしゃべり解禁期間で11日!鬱で何も手がつかない状態じゃないとなかなか日程つくれないぜ☆)
えっと、長野から京都、って何だこの日程?ギリギリ行けるぞ!しかも断食からの瞑想ってなにこの神日程?
ということで、目に見えない力に導かれるようにあれよあれよと予定が決まっていった。
瞑想が終わり、真平さんにお礼かねがね会おうと三重へ
1泊2日のはずが何故か、ペチカにハマッテ
旅をして帰ろうと思っていたので、1泊2日の予定だったのだが、
「ペチカって知ってる?」って聞かれて 「なんすか?それ?」
「今作ろうと思ってるんだけど」「やりたいです!」
ってことで、ペチカを作り始めた。
作っている間に、ロケットストーブを見せてもらったり、全国愛農会の会長さんになったことを聞いたり、奥様と共に4度ほど瞑想詩に行った話を聞いたり、パーマカルチャーやシャロムの臼井とのことや研修センターのことを聞いた。
真平さんから感じられた感情は、「私がやっていきたい!」という未来に対する意気込みと、「世の中は人類滅亡の方向に進んでいる。」という憂いの2つの感情だった。 「若い人たちは、どんどん目覚めて 愛を貴重にした未来を持���可能に生きるという考え方にどんどん目覚めてます!」と私は主張した。
あなたがパーマカルチャーのデザインを学びたいと思うなら、研修生という手もあるよ。
話題の1つとして、「日本のパーカルサイトでは、ちゃんと農に力を入れている人がいない。」というモノがあった。 自分としてもそう思うところがあった。(岩手の自然農園ウレシパモシリは唯一、自分が これは! と思うパーカルサイト。というかパーカルを取り入れた農家さん。) 真平さんは山の上に作業小屋を建て、持続可能な農も含めた暮らし方の研修センターを作りたいというのだ。 自分もそんな場所作りをしたいという思いを暖めていた。 また、真平さんは結構多忙だったり、色々あって畑の管理が行き届かなくて悩んでいるところもあったのだ。 そんな時、シャロムヒュッテの臼井さんが、人を紹介したり、アイディアを渡したり、背中を押してくれた。 真平さんは健二さんに愛されている。笑 要するに必要なのは、その思いを支える人員体制、 スタッフ なんかわからないけど、話しているうちに、真平さんの思いを見届けたくなった。それの適任は自分ではないかと思ってしまった。 ただ、自分にはワサビがある。 島根に住んで心を病んでしまった。 安曇野に住んだら楽しいだろうなと思ったし、 空気があうあわないって大事だよとも言われた。 出てもいいような気がした。 けれども、おじいさんが続けてきたワサビの谷を残したい。 その思いはいまだにもえている。 「関わりたいですが、常駐のスタッフや愛農の職員として入ることは出来ません。」 真平さん 「あなたがパーマカルチャーのデザインを学びたいと思うなら、研修生という手もあるよ。」 そっかあ。 では、月1週間ほど島根に帰れるなら、ワサビの収穫は2018年なので、関われるぞ。 そんな風に思うに至った。 目に見えないビパッサナー瞑想、その指導者のゴエンカさんのご縁からか? 流れに身をゆだね、自由な身体の流れを感じる。 フリーフロウに乗るようにして過ごすことにした。 さて、そんなことで、3月頭から、今日まで 種継ぎ種での苗作り、酵素玄米、甘酒、電気工事、ペチカ作りと着々と日々を過ごすのでした。
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タビの終わりと始まり
2015年11月、自分自身の中にある違和感と向き合い始めて、どん底の気分まで落ち込み、人に会うこともままならず、何も手がつかず、ひたすら「自己受容」や「浄化」と言った”心の旅”を続けてきました。 調子が良くなるにつれて、日記からも遠ざかり、「目の前のみに集中する」「今ここにいる」を精一杯やってきました。 そんなこんなで、今はすっかり調子がよくなり、「あれ?なんだったんだっけあの不調は?」というとこまで今は快復しております。 わー!やったおめでとう☆ よくがんばったね。
と、今まで出来なかった自分で自分を褒めることもしています。 ということで、"心の旅”は一度ここで終着するとしよう。 今は相談があれば、 「自己受容のカウンセリング 」"自分の思い込みや強迫観念を見つけて浄化する" のお手伝いをさせもらっています。 心の旅の終わりに、今までの自分のたび年表をざっと書いてみようと思う。 2015年 11月 畑に手がつかなくなる。 2016年 2-3月 はなまる治療院の「マインドヘルスセミナー」を受講、心の仕組みや浄化ワークについて学ぶ。量子論と引き寄せ のようなことや、ホオポノポノ、M2メソッドといった”心へのアプローチと幸福の作り方”を学ぶ 5月 別れる。”新しい展開”を目指す。が不調がエスカレート。心の旅の本番が始まる。
6月 引きつった顔、ぎらぎらした目つき、今振り返るとそんな期間。必死に生きる。 9月 死を意識する。感情のどん底を経験する。本当に何も出来なくなる。 11月 実家で引きこもり生活。母と向き合う。交通事故にあう。こころここに無かった。 対人恐怖、どもり、頭が真っ白 が頻繁に。 結果として”私は自立できない” ”わたしは甘えたい” "わたしは受け入れられたい" "わたしは寂しい" といった感情、母への複雑な気持ちを「浄化」する期間となる。
12月前半 快復したか!?ということで島根に戻るが、心が一気に落ち込んでしまう。心の旅の佳境か?別れた彼女に世話になる。そんな自分を許すことにする。
12月後半 学生時代にお世話になった、自分にとっての原点 長野県の安曇野で過ごす。13年前、自分自身が農的暮らしに夢と希望をもっていた、そのときに出会った人々、仲間、ご縁。過去が消化され、私の身になり戻ってきた感覚。 2017年1月 シャロムヒュッテの断食合宿、京都のダンマセンターでのビパッサナー瞑想で、 ”おだやかさ” と ”気づいている状態” を経験する。 村上真平氏と再会 目に見えない フロウ を感じて従うことにする。 2月 島根に戻る。 不調のときの感覚を客観的に観察する。 "運転中落ち着��ない" ”人の目が気になる” ”朝悪夢を見る。絶望で目覚める” そっかぁ こんな感情をずーっと抱えていたのか。そりゃあおかしくなるわな 笑 今、この場所で落ち着かないのであれば、無理することは無い。旅にも出れる。何処で生きてもよい。 しかしワサビだけは続けたいなあ。 村上真平氏が
”パーマカルチャーや、自然と調和する農と生き方を学ぶ学び舎”(山口解釈) を作っていくという構想をもっているので、では学ばせていただこう!お手伝いさせてもらおう!おもしろそうだ! ということで 「島根に戻る。ワサビを見に時々帰る。」という決意の元、新たなたびに出る。 ということで、不思議なご縁で、三重にしばし滞在することとした。 ひとまずは1年。 立ち止まっておめでとう。歩き始めておめでとう。
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母と過ごす 1
まとめ:
・トラウマって言うのはほぼ間違えなく家族起源です。
そしてその大元はほぼ間違えなく母との関係にある言われています。
・親子はそっくり。
・母を受け入れることと、自分を受け入れることは同じことだ。
10月の終わりから母が手術と言うことで、看病に帰りました。
そして無事手術が終わり、母は元気です。ご心配をおかけした皆様。
ありがとうございました。
そのときの出来事。
実は、「母の手術で」 っていうのは事実ではあるが、本当は「自分自身の療養のため」帰省したのです。立ち止まって、気持ちの上下が続く中で少しづつ自分の中のものに気がつきました。人は皆、多かれ少なかれトラウマって言うものを抱えているものです。フツーに生きている人は、それを「まいっか」とか、「しょうがないな」とか、「今日はツイテナカッタナ」程度で終わるものが、トラウマが膨らむと、同じことがずーっと頭を支配するのです。頭の中に感情の渦、��、が起こり、止まらないのです。
さて、そのトラウマって言うのはほぼ間違えなく家族起源です。
そしてその大元はほぼ間違えなく母との関係にあると言われています。
自分自身が自分自身で気がついた母との関わりの中でのトラウマは、
「父と母とのケンカ」を止められなかったこと 罪悪感
「母がいつも大変そうで寝ていた」ことを守りたかった。
守るために男らしくありたかったけど運動音痴で男らしくなれなかった。劣等感
「一人っ子だから甘やかされて育ってるんでしょう?」という周りの大人からの呪いの言葉に、「そうだ、僕は甘えてるんだ。」と素直に思ったこと。羞の意識
これを母と過ごすことで、解消が出来るのではないか?と思った。
これは良いタイミングだ。母と向き合って自分自身の心の成長にしたい。
そう思った。
ちなみにこのときも油断をしていると、
しかしなんで、こんな35になってこんな風になるんだろう。恥
早く仕事を見つけないと。恥、不安
普通ならこんなことにならないよな。自分ってなんて弱くてだめなんだろうか。劣等感
とごちゃごちゃおしゃべりの止まらない頭の中の輩(やから)たちと付き合いながらの滞在だった。
手術前日。
母と病院に向かい、ささやかに晩餐。しばらくは食べられない。
手術当日。
丸一日病院で待機。何もできないし、何もしない。色々な思いが遠のいていく。
暇ではある。なにかやらないとという思いも出てくる。けれども、何も出来ないという口実があることが自分には有難かった。
手術後1日目。 事件はおこった。
この日も見舞いに来た自分。
到着して、寝ている母。手術は無事に済んでいろいろなものが取り付けられている。寝ている。看護士さんが来て母が起きる。
その様子を見守り、自分は読書をしながらしばらくの時間をともに過ごそうと思った。
すると、来て5分も経たないのに
「ねえ、おまえ、もう帰って。」
と言い始めた母
「おしっこにもいけないし、つらいんだよ。」
まあまあ、今着たばかりだししばらく居させてよ。
「ねえ、かえってよ、仕事しなさーい。」
「汚いんだから見られたくないんだよ。」
なんか、違和感を覚えて、そうは言っても帰りたくないと思い
まあまあ とだけいい、だんまりを決め込む自分。
だんだん激しさを増す母の「帰れ」コール 笑
寝たふりをする自分
「もう!帰りなさい。帰らないと蹴るよ!」
病人なのに強い母。滑稽だった。
そのうち本当に蹴り始めた。駄々をこねているような感じだ。
4人部屋だし、うるさいし、なんかわけがわからない。
このとき、自分の気持ちは
「どうしてもいたい!」
だった。こちらも意地のスイッチが入ったのだ。
しかし、状況が、はたから見ると変だ。
極めつけは
「看護婦さん呼ぶよ!」
「もううちの息子が帰れって言うのに帰らないんです。返してください。困ります。」
呆れた。そして悲しかった。こんなに激しく、そして達の悪い母は初めてだった。(忘れているだけかもしれないが。)
看護士さんが到着した頃には、自分自身の感情も制御が聞かなくなっていた。
悲しくて、腹が立って、変である。そしてとうとう
「うるせーな!帰ってやるからあとはもう一人で全部なんとかしろ! もう見舞いにも来ないし、一人で帰れ!」
と怒鳴ってしまった。
あーあ、やってしまった。まるで子どもじゃないか。
そんな思いで病室を出て、ロビーまで戻る。
本番はここからだった。。。
急に悲しみで立ち尽くしてしまった。
涙が出てきた。
身体がまるで貧血のように震え、めまいがし、動けない。
どうしたことだろう?混乱したが、この事態を理解しようとした。
感情の波が、嵐が襲う。
「くそー!なんて意地っ張りで頑固な母なんだ!強がりで、弱いところを隠そうとする!人に甘えることを嫌がる。息子の心配ばかりして、それも迷惑!しかし、なんだこの悲しみは!自分は母を愛しているのに、何で受け取ってくれないんだよう!」
今までのどんなに惚れた女性にフラれることよりも、大きな衝撃だった! 笑
「母に拒否されることが、自分にとって、こんなにもショックで耐え難いことだなんて!」
震えと涙と動揺で、動けなかった。
帰りに親戚のおばさんに電話をした。
「悦子は頑固だからねえ。気にしちゃだめよ。それにあのこ、ツンボでしょう?時々何言っても聞かないし、ずっとわけのわからないこと言い続けることがあるわ。」
やはり親族というものは冷静に見ているものだ。この一歩引いた言葉に助けられ、また、母には少ないが大切な人に守られているのだなという安心感をえた。
もうすこし時間が経つと、
あれ、あの母って、やっぱり自分の母だわな。親子そっくり。
意地っ張りで弱いところを人に見せたくない。
なーんだ。愛しい母よ。
(そう、母を受け入れることと、自分を受け入れることは同じことだ。)
母との日々はもう少し続く。
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月に願いを
星に願いをではなく。笑
ひどい感情に向き合う。ふと脈絡もなく思い出した。
今日をふくめこの3日間は感情がひどく���れ狂い、
嵐のように自分を苦しめている。 寂しい という感情がひどい。
そして人と会うことも恐ろしくなってしまっている。
人と無事に会い、話し、すこし楽になってもまた離れるとすぐに、
生きていくことが苦しい感情がわきあがる。
仕方なく家とその周辺で過ごした。
特に何をするでもなく過ごしたからこそ思い出すことがあった。
明後日はいよいよというか新月である。
大きな気づきが訪れる日らしい。
月の秘密
これはもう30年近く秘密にしていたことだ。
しかも脈絡無く、新月ではなく満月のことだ。
よく小さい頃に夜道を歩くことがあった。
なんで歩いてたんだっけ?
母とではなく、一人で歩いていた。保育園の園庭なのか、あるいは、お母さんと約束した場所に歩いていたのかわからない。もしくは小学生で、もう、少しは暗い道も一人で歩けたのかも知れない。
いつも満月が大切な日だった。
月に願いを
満月にお願い事をすると願いが叶うという決まりがあった。
よくスピ系の人は「新月に」っていうんだけど、自分は満月であった。
これを誰から教わったのか良く覚えていない。
多分、たまにうちに顔を出しては、母とケンカになりながらも、
自分を旅へと連れて行った「父」から教わったのではないかと思う。
自分はそれを信じていた。
満月と気づいたときはいつもお願いをしていた。
子どもの願いだからたわいも無いものだった。
あのおもちゃが欲しいとか、そういうものだった。
そして確か全て願いが叶った。
トキ
1つだけ願いの中で、社会的なことをお願いをしたことがある。
それは、「いつかトキが復活して野生に帰れます様に。」
という願いだった。長い年月を経て、トキは着々と頭数を増やしている。
自然と地球を愛する子どもだった。 (だから三宅洋平の「子どもには この川は昔魚のすめない所だったけど、お父さん達が頑張って魚が戻ってきたんだよ って言いたい。」という主張はすごくストレートに自分に響く。)
当然トキ保護センターや思いのある人々、有機農業を通じてトキの餌場作りに協力する農家さん達の努力やトキの生きていく野生の力の賜物であるのだが、自分が月に願ったことが叶ったのだ。
今晩そんなことを思い出している。
秘密のルール
そしてもうひとつ大切なルールがあった。
「この魔法のお願いは絶対に誰にも話してはいけない。」ということ。
自分は大人になった。
そして時代は囲い込むものでなく、シェアする時代に突入している。
だからこの大切なルールを手放すことにした。
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魔法の言葉を私に
立ち止まり始めてからとても沢山の考え方、見方、とらえ方との「出会い」があった。
その出会いの中でいただいた
「魔法の言葉」
を使って
「自分自身を受け入れていく」
そんなことを日々やっている。
出会いのはじまり
首の怪我がきっかけで 「はなまる治療院」に通っていたのだが、そこで開催されていた「マインドヘルスセミナー」に2016年2月-3月参加した。名前は怪しげだが、端的にいうと心理療法のトラウマ除去法を伝授してくれる。そしてさらに深いところを瞑想法を通じて心の部分から開いていく勉強会だ。
心が軽くなり、5月までに今までずっと毎日頭をぐるぐるまわるだけで実行できなかったことをえいやっとやり始めた。 別れと引越しを。
箱を開ける 私との出会い
それは、パンドラの箱なのか、大切な箱なのか。それをあけることになった。空けたら出るわ出るわ!苦しいけど向き合っている。今までの生きづらさの総集編のような体験。 2015年11月頃や2月につらいと思っていたことがまだかわいらしいと思えるような絶望的な感情のオンパレード。5月(ドカーン)、9月(ちゅどーんあえて音にするなら。)
荒井由美の局「メッセージ」
こころの奥にしまい忘れた大切な箱開くときは今
少々きついがそれが今みたい。大切な箱の中にはちょっとした生ものか何かが上にあって、臭くて、ツラくて、おなかが痛くなる。きっとその上の部分のもっと奥にはキラキラとした目をしたあのかわいかった自分がいる。救ってあげられるのは大人になった自分。そういうことかもしれない。
向き合うために、出会うためにメッセージがあったのかな
こういう状況になって改めて腑に落ちたけど、島根に来てずーっと「あなたは無理しているよ、気がついてね。自分らしく生きようね。」ってメッセージがあったみたい。
はじめの自覚は、島根に来てから何かと大変な目にあうなあという感覚。
絡まれる、
事故る、
孤立感を味わう、
不整脈になる、など等
2015年の11月からは畑にでづらくなり、
そして5月は死んだ魚の目になり、
7月くらいから全く畑に出られない。
山葵の谷だけはなんとか行ける。そしてぷらぷらと遊びに出かけることは出来る。
9月 感情のどん底体験 死を意識する。
荒れ狂うつらい感情たち
感情の渦に流��れてしんどくて意味がわからない。
でもその渦をよくよく観察すると、いくつかの感情が沢山、毎日、多ければ毎瞬出ていることに気がつく。
さびしい
だとか
何かしなければいけない
だとか
私は何かが劣っている
と言ったやつだ。
やっと見つめて整理整頓して出てきた
「罪悪感・劣等感・恥」 と言った感情のオンパレード
魔法の言葉
そういう感情に対して、愛しています。と話しかける。
ハワイの「ホオポノポノのクリーニング」という手法なのだが。
自己承認のための心理療法であるという認識でいる。
そして「自己受容」というジャンルがあることを知った。
世の中には同じように自分を受け入れられず苦しんでいる人がいて、そして乗り越えていった人たちがこんなにも沢山いるなんて!
愛しています。の魔法の言葉は別に愛しています。 でなくてもいい。
とにかく自分の心の中にいる、小さな自分、子どもの頃の記憶(インナーチャイルドというらしい)、前世の記憶(ホオポノポノの考え方ではウニヒピリというらしい)、そんなものを大人になった自分が温かく優しさで抱きしめてあげる。そういうことが出来たらいい。
自分は自分に優しくすることは「甘え」なんだと思っていた���
でも甘えと優しさとは違う。
自分自身を認める。愛する。よくやった俺!今まで大変なことも喜びも。
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気づき
今、自分の感情に「気づく」練習をしている。
どんな気持ちが流れてくるのか一歩引いて客観的に見るということ。
そして、その気持ちを文章にする。
そうしていると、
どれだけ自分を否定する気持ち、感情が出ているのか気がついて驚いた。
(そういえば、出来るなあと尊敬する人はほぼ例外なく、この「自分を外から見る」ということをやっていたなあ。)
ある日の朝の数時間だけでも、自分のこの発言で皆楽しかっただろうか?自分の発言に怒ってなかったかな どんな顔してさよならを言えばいいのだろう。居心地が悪い。自分が悪かったか。自分には能力がない。自分は劣っている。自分は生活能力がない。自分は人から受け入れられない。今まで同じ事を繰り返してきた。運動は出来ない。怠けている。など等 そういうのが流れる。
精神的に病むということは、こういう感情がものすごい量流れると言うことらしい。
そして実際しんどい日はこの有様である。
健全な人はこのぶつぶつ��ぶやくやつが少ない。
そしてこのぶつぶつがもうすこし前向きなはずである。
まあ健全か病的かというのは本人の自覚次第なんだけど。
今までは、世の中一般で普通に認識されているであろう、「努力、根性、気合」というので自分は乗り越えてきた。
ただ、今までずっと違和感は感じていた。何故か被害者的な気持ちになったり、人からどうせ大切にはされていないんだといじけたり。そういう時がけっこうあった。それと時々ひどく落ち込んで(大した理由なんてないのに)、本気で動けない時が数度あった。そのたび、それは一時的なものだと信じて、動けない自分を認めなかった。認めないとはいっても、数日から数週間落ち込んで仕事を休んで家でごろごろすることがあった。そういうことは、甘えだと思っていたし、自分がネクラで弱いからだと思っていた。
ポジティブな気持ちになりさえすればいいと思って無理やり楽しいことをしていた。
今まではそれで解決できたのだけど、だんだん、だんだんと動けなくなってきた。
今こうして文章に残し、解説をすることは一番は自分にとって大切なことだ。
感情が強くなると感情の渦に巻き込まれて全く何がなんだかわからなくなる。動けなくなる。しんどくて、人にも会いたくなく、全てがネガティブな感覚だ。そして眠い。眠いけど寝るとまたうなされる。今日はそんな日だ。
2月から魔法の言葉に出会って、こういう自分に向き合うようになった。
そしてパンドラの箱なのか、大切な箱なのか。それをあけた。
苦しいけど向き合っている。今までの生きづらさの総集編のような体験。
荒井由美の局「メッセージ」
こころの奥にしまい忘れた大切な箱開くときは今
少々きついがそれが今みたい。大切な箱の中にはちょっとした生ものか何かが上にあって、臭くて、辛くて、おなかが痛くなる。きっとその上の部分のもっと奥にはキラキラとした目をしたあのかわいかった自分がいる。救ってあげられるのは大人になった自分。そういうことかもしれない。それと自分は「男」というものを結構否定している。箱の奥には案外と男らしい自分がいて、認められるのをまっているのかもしれない。
さあ明日も生きよう。
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立ち止まっておめでとう。
自然が好きで、自給自足がしたい!希望に満ちて島根に住み始めて5年目がたった。そして僕は急に動けなくなってしまった。2015年11月、古民家に住み自給ベースの少量多品目野菜を自分の好きな農法で種取りをしながら生きてきたその暮らしに強制終了がかかった。別に身体が悪いわけではないのに心が動けなくなってしまって、畑に出ることが「怖く」なってしまったのだ。
なぜなのかよくわからないけど、今までなんとなく人生の生きづらさを感じていたのは事実。そこから僕の心の旅が始まった。
立ち止まっておめでとう。
悩みも恵なんだよ。
やっとそうやって自分自身に言える。こ��ブログでは今たった一つの希望である 「山に入ること」 やこの「立ち止まり」からどう復帰していくのか、復帰ではなく違う道に行くのか、そんな様子についての両方を語れたらと思う。
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