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「たまに考えるんだよね、もしきりりんたちと出逢う場所が違ったら、どんなだったのかな〜って」 たとえばここ、パン屋さん。どれにしようかな、と、うろうろ迷うトングの先をかちかち鳴らして、まだ何も載せていないバットをひらひら振りながら、きりりんに語りかける。給食を受け取るときみたいに、お行儀よく両手でバットをまっすぐ掴んでいるきりりんは、下段の棚に並ぶ動物の笑顔を象ったかわいいパンたちを一瞥して、それからそっと両眼を閉じて、いまとは違う世界を瞼の裏に描き始めた。 「結華ちゃんと、パン屋さん……ふふ、とっても楽しそう……いっしょに、うさぎさんやくまさん、並べようね」 「あー、いっしょに働く設定なんだ。きりりんは優しいねえ」 私が空想していたのは、出逢いと呼ぶにはあまりにささやかで、たしかな断絶だった。私だけがパン屋さんに務めていて、きりりんたちはいまと変わらずアイドルで��私は目敏くあなたたちを見つけて、カレーパンは揚げたてだよ、新作のぶたさんはピロシキ風だよ、そんなふうに教えたくなる気持ちを、清く正しいファンであるべくぐっと抑え込む。もしも、お得意さまになってくれたなら、ちょっとだけ踏み出して話しかけるかもしれない。あくまで、いち店員とお客さまという関係性のままで。 「結華ちゃんとなら……いつ、どこでだってきっと、なかよくなれるよ」 私の戯言にそう返してくれる輝かしいあなたを、まっすぐ見つめ返すことができなくて、私はつい目を細めてしまう。 あなたたちと同じアイドルとして出逢えたこと、こうして共に日々を過ごしていることは、私にとって得難い奇跡なんだ。ときどき、卑屈な虚構で揺り戻さないと、これは現実だって信じられないくらいに。 「そうそう! 幽谷家直伝のピザトースト、毎度お世話になっております!」 このあとにすぐ食べるパンたちをどかして、分厚い四枚切りのラウンドトップをバットの隅に横たえる。ピザトーストを作るときは、いつもここのトースト用食パンを買っている。早くても食べるのは明日の朝だろうに、口の中はもうあの味を求めている。ざっくりした小麦ととろとろのチーズ、散りばめられた輪切りのピーマン、そして決め手のキリコ・ユーコク・オリジナル。ひとり暮らしを始めるとき、置物にならないか不安だったオーブントースターが稼働するたび、私は間違ってなかったんだ、と安堵する。三峰結華よ、さすがにちょっと、いくらなんでも自己肯定感が低すぎないだろうか。
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右耳だけに響く、水中に潜っているようなくぐもった低音。少しずつ伝わる周波数が広がって、やがて痛烈な叫びが姿を現す。目を開けると、眼前には薄暗い人波と掲げられた紫色のサイリウムの群れ。その向こう岸に見えるステージには、私の居ない、アンティーカの四人が佇んでいる。MC中のようだけれど、さっきからつづいている騒音にかき消されてしまう。 恐る恐る右側を一瞥すると、法被を羽織った大柄の男が、耳を劈くほどの大声で叫んでいた。周りの観客もあからさまに顔を顰めているか、あるいはそちらを見ないように努めている。彼が何をがなり立てているのかは聴き取れない。というよりも、私の言語野が理解を拒んでいるみたいだ。アイドルのファンが揃って品行方正だとは思っていないけれど、それでもアンティーカにこんなファンが居るだなんて、その存在を認めたくないほどに醜悪な単語を喚いているんだろう。 私は、彼を窘めるために声を上げようとした。でも、喉が開かない。それだけでなく、全身が重苦しくて、手を伸ばすことさえままならない。ようやく夢だと気づいて、私がどれだけもがいても何ひとつ届かないようにできていることを思い知らされる。耳を塞ぐのも許されず、ただただ再び目を閉じてこの世界を無理やりぼかすことしかできない。夢の中なのにやたらと意識がはっきりしているのがまた苛立たしい。 そんな私を余所に、アンティーカは再び廻り出す。歌声と伴奏と呪詛が綯い交ぜになって、私の鼓膜を打ち鳴らす。止めて。助けて。静かにして。そんな祈りで造った檻を轟音は容易くすり抜けて、私の中で無際限に増幅されていく。
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夢か現か確かめようとほっぺをつねる、あれ。漫画やアニメでよくある、とはいえ今日びあんまり見かけなくなった表現。私はあれの効果を信じていない。信じてはいないけれど、身体の自由が効くときは必ず試している。十中八九痛い。たとえ夢でも痛い。夢の中では痛覚がない……だなんて通説がまかり通っていることが不思議でならない。少なくとも私は、夢の中で起きている事象と現実での痛覚が、どちらが原因かはわからないけれど、確実にリンクしている。 今回もそうだった。夢から覚めても、耳鳴りが止まない。シーツも汗びっしょりで気持ち悪い。どうか気��せいであってほしい、そう祈って身体を起こすと、ぐわんと世界が歪んで回る。ちょうど本棚に置きっぱなしだった体温計を手に取り測る。なかなか見ない大台の数字を自覚して、目眩がいっそう強くなった。 とりあえずは報告。あー、あー。音にならない。咳払いしてもう一度発声しても、まともに空気を震わせることもできなかった。ここ十年でも最悪のコンディション。電話は諦めて、プロデューサーにチェインを送ることにした。今日の仕事がソロの案件でよかった。いや、全然よくはないけれど、アンティーカとしての仕事で穴を開けるよりはずっと気が楽だった。穴を開ける。不条理な夢のできごととはいえ、私不在のステージがフラッシュバックして、それを打ち消すように再びベッドに倒れ込んだ。 じっと目を閉じていても眠れない。気怠い身体をもう一度奮い起こして、冷蔵庫へ向かう。扉を開けると、お目当ての冷却シートよりも先に、冷蔵室のど真ん中に居座る食パンが目に飛び込んできた。あんなに楽しみだったピザトーストを思い浮かべるだけでも、悪心を覚える。パン屋さんの食パンは足が早い。食べられなくなる前には体調が戻ればいいのだけれど。
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断続的に始まっては終わる夢の数々。そのどれもが悪夢で、一度たりとも私に声を与えられなかった。 ラジオ番組なのにひとことも喋れず、それでも周りは何も問題ないかのように進行する。 事務所でみんなが雑談に花を咲かせているのに、私がいくら話しかけても誰も応えず振り向かない。亡霊みたいだ。 雨が降りしきる中、傘も持たない私はずぶ濡れの衣服に足を取られて、プロデューサーだけがひとり先を往く。もはや呼び止めることすら諦めた。 やがて夢見ることに怯えて、眠らないように部屋の灯りを点けっぱなしにして、アンティーカのライブ映像を再生した。そこにはたしかに三峰結華が居て、いつもの五人で歌い踊っている。しかし、その安堵を睡魔は見逃さない。うとうとしているうちに、私はまた夢の世界へ引き摺り込まれた。 いつの間にかテレビも電灯も消えて、部屋は真っ暗になっていた。喉がからからだ。リモコンは見当たらず、仕方なく暗闇を這いずる。臥したまま冷蔵庫へ手を伸ばし、自重に任せて扉を開け放った。一度は灯った庫内��照明を、どろどろに黒ずんだ食パンの成れの果てが一面に広がり覆い隠した。 驚き飛び跳ね目を覚ましても、また真っ暗な部屋のベッドの上、ふりだしだ。経験上、この類の夢は、何度起きてもまだ夢の中で、苦しみ疲れ果てるまで繰り返す。 助けてよ。相変わらず、声にならない声はどこにも響かない。そう判っていても、吐息を漏らすだけだとしても、息を止めて押し黙っていては苦しくて死んでしまいそうだったから。 すると、ぎゅっと瞑っていた瞼の向こうに、光が生まれた。潜り込んだ布団の中で、スマホがひとつの通知を照らしていた。 『もしもし』 きりりんだ。アンティーカのみんなにはあまり心配をかけたくなくて、グループチェインでかんたんに知らせただけで済ませたのに。きりりん個人からチェインが来て、しかも『もしもし』って。くすくすと、思わず笑いが漏れる。 そうだ。声が出ないなら文字を打てばいいなんて、実に簡単な話だ。しかしこれは、まだ夢の中だろうか。儀礼的な頬のつねりは、これは夢だと信じ込ませるみたいに無感覚だ。それならばもうすこしだけ、きりりんに甘えさせてもらおう。
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『もしもし、三峰でーす』 『もしもし、幽谷です』 『結華ちゃん、大丈夫?』 『ぜーんぜん!』 『あんまりにもしんどくて眠れないくらい』 『病院、行かなくて大丈夫?』 『わたしもついていくよ』 『いやーもう起き上がるのもひと苦労なんだよねー』 『それよりきりりんにお見舞いに来てほしいな』 『ほら、未来のお医者さまだし?』 『だめだよ、結華ちゃん』 『だよね、風邪うつしちゃったら悪いし』 『そうじゃなくて』 『もっと大きな病気だったら、お医者さんに診てもらわなきゃ』 『ごめんごめん、ほんとに無理だったらちゃんと行くからさ』 『うちの末っ子も、こういうときはお母さんみたいだねえ』 『ふふ……これは、まねっこだから』 『まねっこ?』 『わたしが小さい頃ね』 『風邪を引いて学校を休んでも、親がつきっきりってわけにもいかなくて』 『でも、熱や咳よりも、静かな家にひとりきりで居ることの方がつらかったの』 『誰かの声が聴きたいなって、そう思ったとき』 『どこかで見計らってたみたいに、ママが電話をくれるの』 『体調はどう、とか、お昼はもう食べたか、とか、かんたんな連絡だけだけど』 『そばに居なくても、ちゃんと気にかけてくれてる誰かが居るんだって』 『声を聴いただけでそれがわかって、もう寂しくなくなったの』 『それがうれしかったのを思い出して、��たしもまねっこしてみたの』 『でも、結華ちゃん、まだおしゃべりはできないかなって思って』 『それで、も��もしなんだね』 『うん』 『そっか。きりりん、ありがと』 『とっても気が楽になったし、これで眠れるよ』 『よかった』 『それじゃ、気が向いたらお見舞いに来てね』 『おやすみ』 『おやすみ^^』
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それから目が覚めるまで、夢を見ることはなかった。スマホの通知で起きた頃には、灯りもいらないくらい日が高くなっていた。スマホには、きりりんから『もしもし』というチェイン。履歴を手繰っても、あのやりとりは残されていなかった。もうだいぶ熱は下がっていたけれど、まだ人恋���さは冷めやらない。あー、あー。声はぎりぎり形を成す程度で、まだ人に聴かせるほどには復調していなかった。私は夢と同じように、文字で『もしもし』と返して、お見舞いをせがんだ。 夕刻、両手いっぱいのお見舞い品を抱えたきりりんが、我が家を訪れた。他のみんなもお見舞いに来たがっていたけど、三峰ハウスの狭さを建前にきりりんだけを招聘した。きっと、いちどきに全員と会ってしまったら、満たされすぎて溢れてしまいそうだから、というのが本音。 とりあえずスポーツドリンクや冷却シートをしまっておこうと冷蔵庫を開けると、まだまっさらな姿を保っている食パンが、私の前に再び現れた。もう悪心はない。きゅうう、という間抜けな音が、私の空腹を律儀にきりりんに知らせた。とは言っても、さすがにチーズみたいな強い香りはまだ受け入れ態勢が整っていない。そうだ、あれはつくれるだろうか。冷蔵室を一望して材料が揃っていることを確認。それからスマホで言葉を打ち込んで、きりりんへと向ける。 『あのさ、すっごいわがまま、言っていい?』
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料理ができるまで再度の安静を命じられて、おとなしくベッドに寝転がる。肩まで毛布を引き寄せ、顔だけ出してキッチンのきりりんを見守る。 弱火でゆるく熱したフライパンへ溶けこむ音とともに漂うバターの香りは、気持ちひかえめ。銀色のボウルから、ひたひたの卵液を纏った食パンを掬い上げ、バターの浅瀬へ静かに並べていく。じっくり焼いて、何度かひっくり返して。ああ、この焦れったさも懐かしい。幼い頃、病気の快気祝いにいつもお母さんがつくってくれたっけ。療養中の味気ないお粥で膨らみきった欲求不満が、彼方へ弾け飛んでしまうような溢れる甘味を、舌が勝手に思い出そうとする。 きりりんがたっぷりの湯気を上げながら運んだお皿には、四切れのフレンチトースト。焼き目が夕空のうろこ雲みたいで、衝動に駆られて写真に収めてしまった。そして最後の仕上げに、はちみつをひと回し。私の調子に合わせているのか、身振り手振りで『めしあがれ』と言うきりりんに応えて、合掌。お辞儀。『いただきます』は心の声で唱えた。ナイフでひと口分に切り分けて現れた断面は、短かった卵液の漬け時間でもしっかり玉子色で染まっていた。興奮、あるいは寒気に震えるフォークの先で、グルメ番組も顔負けなほどぷるぷる踊っているそれを、落とさないようゆっくり口に運ぶ。舌先から喉の奥まで、瞬く間に糖と脂が走り抜けた。軋んだ歯車に潤滑油を塗り込んだような喉の潤いに、立ちどころに声を取り戻した錯覚に包まれる。調子に乗って上げた嬌声は、まだまだディストーションが抜けきらない。つい強めに咳き込んでしまい、そんな私を見てきりりんが慌てて、そんなきりりんを見て私も慌てる。 私の要望で、かなり贅沢めな分量でつくられたつやつやのフレンチトーストに、一切れ半で胸焼けノックアウト。まだ本調子でないのに無茶をして、きりりんに余計な心配をさせてしまったかもしれない。 きりりんは、ベッドに再びぐったり臥せるうち言葉少なになっていく私を見届けて、おやすみを告げ立ち去ろうとする。私は、きりりんの手を取り、か細い掠れた声で『眠るまでここに居て』と、せいいっぱいの駄々をこねた。すこしだけ困った表情を浮かべたきりりんは、ベッドの横に正座し直した。私の肩に手をやって、子供をあやすみたいに、ぽん、ぽん、とゆっくり叩く。横向きに寝転がる私の眼前には一面、きりりんの穏やかな破顔が広がっている。
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その日見た夢は一転して、とにかく意味不明で、だけど心地のよい夢だった。 0時過ぎ、誰も居ない真夜中の街角。シャッターが降ろされた宝くじ売り場の前にせり出したカウンターを拠点に、私ときりりんがお酒の缶を片手に談笑している。いやいや、私すらまだ未成年なのだが。きりりんがお酒を飲めるくらい先の、近いような、遠いような未来の設定なんだろう。すぐそばのロータリーにオープンカーが進入してきて、私たちの前に横付けした。こがたんとまみみんだ。ふたりはナンパの真似事を私たちに仕掛けてきて、何やってるのって呆れながら名前を呼びかけてもしらばっくれる。もしかして、これはこれで悪夢じゃないだろうか。そのうち真っ白なリムジンが、オープンカーを思うさま追突した。ロータリーから抜け出せるのか心配になるほど長い車体の最後部、勿体つけてゆっくり下がるスモークガラスの向こうには、まあやっぱり、さくやんが座っていた。このあとにつづくであろう寸劇をショートカットするべく、大破したオープンカーで伸びているふたりを引っ張って、全員揃ってリムジンへと乗り込んだ。 行き先不明のリムジンに揺られながら、中身のわからないシャンパングラスを五人でぶつけ合って乾杯する。ひとつ前の座席からはカメラが向けられていて、これがCMかMVの撮影だとようやく察する。ううん、変に正気だ。まだ夢に整合性を求めている私が馬鹿馬鹿しくなってきた。もうなんだっていい。どんな世界でも、私たちが私たちで楽しく過ごせるならば。アンティーカを乗せたリムジンは、信号、標識、すべての条理を蹴飛ばしながら、常夜の街を駆けていく。
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次に目覚めたとき、夜を通り越して朝焼けになっていて、ベッドの脇に突っ伏してまどろむきりりんを見たときは心底焦った。 「起きてきりりん!」 思考より先に滑り出たその呼び声に澱みや濁りはなく、何事もなかったかのように再生していた。そのあっけなさに、思わず苦笑が漏れる。 「声、戻ったんだね……よかった……」 その目尻を拭う所作は、寝起きのそれとはきっと違うのだろう。きりりんは、心から私の回復を祝福してくれている。 何事もなかった、なんてことはない。自分の仕事をひとつ失って、事務所のみんなに心配や迷惑をかけて、きりりんには身勝手に縋って。 そして何より私自身、悪夢なんかに押し潰されそうだったことに、ぞっとする。 「ありがとう、ごめんね」 誰に向けたものなのか、自分でもわからない言葉だけが零れ落ちた。
新しい朝。ふたりで食べるピザトーストはどこか特別で、食べ終わってしまうのがすこし惜しい。
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