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ロンドンより愛をこめて
『美味しいケーキをいただいたので、よければ家にいらしてください』
携帯に届いた珍しい(彼は滅多なことでは人を自宅に招かないし、それはナワーブ相手でも例外はない)メッセージを見て慌ててバイクを走らせて彼のアパートのドアを叩くと、男は機嫌の良さそうな微笑とともに、「来てくださって嬉しいです。こんな��早く着くとは思ってなかったですけど」とナワーブを部屋に迎え入れた。
男が住むアパートはイーストエンドの中でも比較的裕福な人間が住むエリアにあった。ナワーブが住む、駅から遠く離れ部屋の壁にはあちこち亀裂が入り暖房もバカになっている、家賃破格の300ポンドぽっきり、というボロアパートからはそれなりの距離があって、ナワーブはそれを違反を取られないギリギリの速度で飛ばしてきた。 外ではいつもナツメグの香水の匂いを纏っている男は、今は油絵具のオイルの匂いを微かに漂わせていた。 「暇してたから」 ナワーブの返事に男は呆れたように小さな笑い声をあげた。 「日曜日のお昼に暇をしてるなんて、もう少しお友達を増やしたらいかがですか」 「お前にだけは言われたくない」 リュックを下ろしながら答えると、男の長い腕がにゅっと伸びてきて、ナワーブの髪を丁寧に撫でつけた。 「髪もこんなボサボサで」 「……飛ばしてきたから」 男の骨張った細い指がナワーブの髪を戯れに撫でるのはよくあることだった。「手を伸ばすといつもちょうど良い位置にあるから」と意地の悪い笑みを浮かべる男の手つきは嫌いではなかったが、なぜか今日は言いようもない違和感を感じる。本人にそれを伝えるわけにもいかず、ナワーブはそれを自然に振り払うようにリビングへと足早に向かった。 数ヶ月前に訪れたときと一切変わらず、リビングは必要最低限の家具だけが揃い整然と片付けられていた。ソファにリュックと上着を乱雑に投げ捨てると、遅れてやってきた男がすぐにそれらを拾い、壁にあるフックに丁寧に掛けていく。他人の家では散々好き勝手に振る舞う男は、自分の生活スペース内でだけこうしてやたらとテキパキ動くのだった。 「贔屓の方からチョコレートケーキをいただいたんです。私一人では食べきれそうになくて」 「知らない人から食べ物を貰うなって言ってるだろ」 「ナワーブくん、贔屓のお客様は知らない人ではありませんよ」 男がナワーブの教養と感性では到底理解できないおどろおどろしい絵を描き、それを売って生活をしていることに何も意見はないが、その客たちが毎度大金を払い「今回の作品も大変素晴らしいですね」と彼に握手を求める理由が、どうにも絵だけが目的ではな��そうなのは如何なものかと思っている。 男はこうしてたまに客から貰い物をして、それは大抵ブランドものの茶葉やロンドンで流行っている店のスイーツだったりするのだが、本当に時々その中におかしなものを入れられるときがある。前に一度貰い物のトリュフを食べた男が顔を真っ赤にしながら深夜一時にタクシーでわざわざナワーブのアパートまでやってきて、「頭が熱くて変なんです」と泣きついてきたことがあった。それから客から貰ったものは口に入れずに捨てろと言っているのに、喉元過ぎたものは綺麗さっぱり忘れる質の男は、ナワーブの言葉をにやにやと笑って平気で無視をする。 男が冷蔵庫からとりだしたのは茶色のスポンジにたっぷりの生クリームが挟まり、追い討ちのようにそれらをまたチョコレートでコーティングした、つやつやのまあるいホールケーキだった。見るからに甘くてくどいと分かるケーキを、たしかに男は四分の一も食べきれないだろう。 「コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか」 「ブラックコーヒーって言ったら淹れてくれんの?」 「それでは渋めのダージリンにいたしましょう」 しばらくしてから、陶磁のカップに淹れられた綺麗な色をしたダージリンと、大きくカットされたケーキををお盆に乗せて男はリビングに戻ってきた。 頬張ったチョコレートケーキは想像と違わぬくどい甘さで口の中をいっきに侵食した。チョコをたっぷりと吸ったスポンジも、間に挟まるこってりとした生クリームも、それをコーティングするチョコレートも文句なしの激しい甘さだった。この国の料理はやたらと油っぽくてナワーブは今でも気に入っていないのだが、スイーツのくどい甘さは故郷のお茶や甘味を思い出させてくれるので好きだった。 一口食べて紅茶を口に含んで、ナワーブはおやっと思った。カップを口につけながら、そろりと目の前の男に視線を向ける。男は同じようにカップを手に取り紅茶を味わっているところだった。普段と何一つ変わらず男は優雅な手つきで紅茶を飲んでいる。しかし段々と大きくなっていくこの違和感は、いったい何だというのだろう。 「お前がこの前勧めてくれた映画、観たよ」 男はカップから口を離し、嬉しそうに頬を緩めた。 「如何でしたか」 「アクションが良かった、特に列車の中の。男はああいうのに弱い」 「男の子ですもんねあなたは」 「お前はどちらかというと、あの女の方が好きだろ」 「そうですね、美しい方でしたし。何よりああいう仕事の方が私には向いています。まあ私がやったら……」 男は微笑とともにケーキの小さいかけらを口に運んだ。 「“ロンドンより愛をこめて”になってしまうわけですが」 「カトマンズよりはマシなタイトルだな」 目の前の男は、今このタイミングでこの質問をした��ワーブの意図が正しく分かっただろう。その上で完璧に回答を返してみせた。何かがおかしいことは確実なのに、その決定打がどこにもない。二人の間に静かに流れている腹の探り合いのような雰囲気にナワーブはこれ以上耐えられる気がしなかった。 カップをソーサーに戻し、ナワーブは椅子から腰をあげてテーブルに身を乗り出した。男が少し驚いたように反射で身を引いたが、逃がさないようその腕をがっしりと掴んだ。 「キスしていいか」 「今日から許可制を始めるおつもりですか?」 座ったままの男は怪訝な様子でナワーブを見上げたが、やがて観念したかのように返事代わりに無言で両目を閉じた。 その瞬間、ナワーブはテーブルを兎のように飛び跳ねて跨ぎ、男を椅子ごと床にひっくり返した。椅子と大の男一人が思い切り床に叩きつけられ、リビングにはものすごい音が響き渡った。男の両腕を左手で頭上に縛り上げ、ナイフを持った右手を骨ばった喉に当てる。 「何の真似ですか」 こんな状態になって尚、男の表情には焦りの一つも浮かんでいなかった。躾のなっていない犬を嗜めるような穏やかな声にナワーブの眉が怒りでぴくりと動いた。 「それは俺が聞きたいな。言っておくがこれ以上猿芝居を続けるようなら容赦はしない、俺はケーキ用のナイフでもお前を痛めつけて殺せるぞ」 「ビハールの戦地で学んだことがそれですか?退役軍人の名が泣きますね」 「退役ではなく脱走兵だ」 「そんな堂々と言われても」 「言いからさっさと吐け。ナイフが徐々に皮膚に食い込んでいく感触は結構キツイぞ」 ナイフの刃先を首にぐっとあてる。ぷつっと小さな音がして、銀色の刃先を血が濡らし始めたところで男はあっさりと、「降参です」と口にしそれから、「ジャック!早く出てきてこいつを止めろ!」とひどく乱暴な叫び声をあげた。ぎょっとしたのはナワーブの方だった。叫び声に呼ばれて寝室のドアがゆっくりと開き、床に組み倒しているのと全く同じ顔をした“ジャック”がすました顔で姿を現したからだ。 それを眺めて呆けていると、男が長い脚で背中を蹴り飛ばしてきたのでナワーブは慌てて両手の拘束を解き男を解放した。首元を抑えたままゆっくりと立ち上がった男は寝室から出てきたジャックに向かって唾を吐くかのような勢いで悪態を吐いた。 「もう今更誰がきても驚くまいと思ったが、何なんだこの野蛮な男は。本当に首をやられたぞ」 「ウォルター、あなたがもっと上手くやらないからですよ。彼は野生の���が働くと忠告しておいたのに」 「これ以上どう上手くやれって?しかし賭けは私の勝ちだな、あとでチャーチの請求書を送るからしっかりと払うように」 「ああ……せっかく絵が売れたのにこれでは帳消しですよ」 「いや、いやいやいや。何を普通に話しているんだ、俺に分かるように説明してくれ、今すぐに!」 ナワーブの言葉に二人は顔を見合わせて、やがてジャックの方が口を開いた。 「彼は私の兄です、名前をウォルターといいます」 ジャックにそう説明された男 ── ウォルターは首にハンカチを当てながら、先ほどよりかは幾分神経質そうな表情(本来の彼はそういう質なのだろう)をして慣れた動作で頭を下げた。 「どうも、あなたのことは弟からよく聞いています。いえ、勝手にベラベラとこいつが話してくるというのが正しい言い方ですね」 「兄……」 「似ているでしょう。一卵性なので親でも結局見分けができませんでした……黙って立っていたらね」 「兄はまあまあ真っ当な人間なので。喋ったり何かするとすぐにバレてしまうんです、ああこいつは言動がちょっとおかしいから、ジャックのほうだなとか」 「その真っ当な人間がやることがこれか」 棘のある言葉にウォルターは頬を歪ませて笑ってみせた。 信じがたいことだがこの二人は本当に双子の兄弟で、もう随分と長いこと一緒にいるというのにジャックは兄の存在をひた隠しにし続け、ここだというタイミングでナワーブをだまくらかして遊んだというわけだ。彼のやることなすことが常識と倫理の範疇にないということはよく���解していたつもりだが、さすがにこの仕打ちはないだろうとナワーブはどっと疲れたような、柄にもなく泣きたくなるような心持ちになった。最後まで気づかないままだったらいったいこの先どうなっていたのかも分からない。 ナワーブの表情を見て思うことを察したのだろう。ジャックは上っ面だけは申し訳なさそうな顔をして、 「この遊びに巻き込まれたのはあなたのほかに四人、その誰もが兄の正体に気づかず、恐ろしいことにベッドの上に場を移しても気づかず……終いにはテムズ川の養分になられました。だから私、結構感動しているんですよあなたの愛情にね」 謝罪にもならないような言葉を次々と語ってみせた。 「賭けはお前の負けらしいじゃないか。何だお前、俺が引っかかると思ってたのか」 「だって皆さんそうだったんですもの。私はこの賭けに勝ってオーブンを新しくする予定でしたのに」 「オーブンを新しくして、俺はテムズ川の養分にって?」 「それはウォルターに言ってくださいよ。私は別に構わないと言ってるのに、この人が嫌がるんですから」 「弟の恋人となんて冗談じゃない。でも君の場合はきっと無理だったね、なにせ本当に腕が立つんだから。この首、跡にならないといいのだが」 聞きたいことは色々とあった。自分の前に被害にあった四人のこと、テムズ川の養分になるということ、恋人とベッドの上で交わした映画���タイトルを知っていたことについて。本当に色々あったが、言葉にするのも疲れるような気がして、ナワーブは���力を振り絞りやっとこれだけ言葉にすることができた。 「その真っ当にお兄さんがなぜこんな遊びに五回もつきあっているんですか」 恨みがましいナワーブの言葉に、彼はさして気にした様子でもなく、 「決まっているでしょう、チャーチの革靴を新調しなければいけなかったから」 隣にいる弟と同じ顔をして答えてみせた。
*
それから二人の兄弟を前にしてナワーブは残りのケーキを片付けることになった。ジャックが淹れなおしたダージリンはさっき飲んだものよりも僅かに渋みを増した味で、少しだけ心が和らいだ。こんな気分で食べても美味しくないだろうと思っていたチョコレートケーキはふしぎなことにより美味しく感じられ、いま自分がとても疲れているということをナワーブ は再認識した。 目の前の兄弟たちはやはりほとんど同じ顔、同じ仕草で、同じくらいにカットされたケーキをゆっくりと味わっている。服装が微妙に違うのでまだ見分けがつくが、これが同じだったら相当難しいだろう。 視線を感じたのか二人は同時に顔を上げ、それからウォルターの方がカップを片手に口を開いた。 「弟は野生の勘などと言いましたが、実際のところ私が別人だという決め手はあったのですか」 ナワーブは返事に迷った。本当のことを言えば二人が気を悪くするだろうな、ということがなんとなく想像ついたからだ。しかしそれも、今日自分が受けたあまりにひどい仕打ちを考えれば些細なことだとすぐに思い直した。 「簡単なことだ、キスをするときこいつは目を瞑らない」 そう言って残りのケーキを大きく頬張るナワーブ前で、二人は驚いたようにからだを固まらせた。それから二人で目を見合わせ、もう一度こちらに視線を戻すと不愉快な声音で、 「弟のそんな話を聞きたくなかった」 「兄の前でやめてくださいよ」 やはり同じ顔をして、勝手な文句を言うのだった。
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性悪と悪趣味
「もう疲れました、無理です」 男の中に入れていたものをずるりと抜くと、それだけでどっと疲れが増すようだった。 さっきまで自分の下で気持ち良さそうにからだをしならせていた男は、同じ時間この行為を続けていたというのに、額に汗の粒が浮かんでいるだけで表情そのものはけろりとしている。落ちて額にくっつく前髪が邪魔なのか、ゴムを解き手櫛で雑に括り直すと、男はそのついでのように片手をこちらに伸ばし、硬い指の腹でジャックの頬を撫でた。 「今のすっごい良かった、な、あともう一回だけ」 「だから無理だって言いましたよね。あなたにつきあって差し上げるのは一晩に二回が限界ですよ、ああ疲れた!もう起き上がりたくありません」 「あ、おい待てったら。寝転がったらおまえ寝るだろ」 「寝ますよ寝るに決まってるじゃあないですか。シャワーも朝にしますから、はい、おやすみなさい」 からだのあちこちがどちらのものかも分からない体液でぬるりと湿っていて、このまま寝れば朝には固くこびりつくことは分かっていたが、それでもジャックはこのまま眠りにつくことを選んだ。 そもそも今夜はこんなことをする予定ではなかった。ジャックは夜の一番最後までびっしりとゲームが詰まっていたし、それは目の前の男も同じはずだった。お互い少しくたびれた表情のまま部屋に戻り、パンとスープで簡単な夕食をとり、明日も早いのでさっさと寝ようとそういう約束だったのだ。ジャックの提案に男はパンをちぎりながら素直に頷いたし、夕食を食べ終わり二人でベッドに入るまではなんの問題もなかったはずだ。 それがいったいどうしてこんなことになってしまったのだろうか。眠りにつこうとしたジャックの脚に男の脚がからまってきたのはよく覚えている。寝返りがうてない邪魔くささはあったが、わざわざ蹴っ飛ばすほどでもないのでそのままにしたのがいけなかった。あとはあれよあれよという間に絡まった男の足の先がジャックのつま先を撫で、脹脛を撫で、最後には器用にパンツを脱がして恥骨を撫でた。蹴り飛ばそうと思ったときには男はすっかりやる気の表情をしていたし、自分のからだも反応していたので仕方なく、本当に仕方なく一回きりだと言ってジャックは重い腰を上げたのだ。互いに一回出してこれで満足だろうとシャワーに向かおうとしたジャックのからだを、男が今度は両脚で絡み上げてきたので、抵抗するのも面倒になり二回目も付き合ってやった。その上、「あともう一回」だなんて冗談にもほどがある。 男の制止を無視してベッドの上に倒れ込むと、今まで耐えてきた眠気が波のように押し寄せてきた。シーツが湿っているのが気持ち悪くて少しでも乾いたところに移動しようと腰を少し浮かせて這うような体勢にした途端、その腰を男の両手が力強く掴んで自分の元へと引き寄せた。 「猿かお前は!いい加減にしろ!」 「お前は寝転がってていいよ、次は俺がいれるから」 「嫌ですよ、シャワーを浴びて中身をかき出す面倒が増えるじゃないですか」 「嫌なのはそこなんだ」 「気持ちの良いことは好きですよ、ただ寝転がっていられるなら尚のこと」 「なんで今日そんなに疲れてるわけ」 「最後のゲームが最悪だったんですよ、あの忌々しい骸骨趣味の女に何度痛めつけられたことか」 「パトリシアは別に骸骨が趣味なわけではないが……」 「ああ……ベッドの上で他の女の名前を出すなんて最低です。私、とても傷ついたのでもう寝てもよろしいですか?」 「お前がそういうことで傷つくようなやつだったら、本当に良かったんだけどな」 言葉に反して男は大して気にしていないような口調だった。ずるずるとジャックのからだを引っ張り続けて、自分の近くまでようやく引き寄せるとうつ伏せになっているからだを軽々と転がし仰向けに組み伏せた。 「そういうあなたは、今日どうしてこんなに元気なんですか」 「最後の試合すごいギリギリでさ、間一髪ってところでエマを庇えて、みんなでゲートから出れて……ハイが続いてるのかも」 「二人も女の名前を出しましたね、涙が出そうなのでもう寝させていただいてもよろしいですか」 「お前の涙ってここから出るの?」 そう言って男は腕を伸ばしてジャックの顔の冷たい窪みを指先でなぞった。痛みも嫌悪感もなかった、男の指先はガサガサと荒れていたが、それが自分の窪みを優しくどこか労わるように撫でるたび、言いようのない気持ち良さがからだの奥からじんわりとせり上がってくるようで、ジャックはそれを逃すように熱い息を吐いた。 「知りません、流したことがないから」 「見てみたいな。なんか俺だけそういう顔見られてるの、不公平な気がする」 男は額からぽとりと汗を垂らしながら小さく笑う。 ジャックは男がベッドに沈んでいるとき、その手がすがるようにジャックの背中に爪をたてるときの表情を思い浮かべた。何かに耐えるような表情でくちびるを噛みしめながら、生理的な涙が頬を濡らす男の顔。それが女性の顔であったならジャックを喜ばせることもあるのかもしれないが、男のそれを見て何を思うこともない。それが果たして、不公平なことなのだろうか。 「別に不公平ってことはないでしょう、そんな大したものでもないですよ」 「そりゃお前はそうだろうけど……でもお前が泣いてる顔なんて見たら、なんか、うーん、逆に萎えるかもしれない」 「ええ……」 自分から言い出しておいて何を、とジャックが顔を歪めると、男は慌てて首を振った。 「いやいや、そういうことじゃなくて。普通にさ、好きな人の泣き顔なんてわざわざ見たいとは思わないだろ。笑ってくれてた方がいい」 「あなたってそういう感性がつくづく真っ当ですよね」 「お前がつくづくおかしいんだよ……なんか話してたら俺も眠くなってきたな、やっぱシャワー浴びて寝るか」 「シャワーをするなら私も連れてってくださいよ」 「洗ってほしい?」 「ええ!あなたがぜーんぶやってくれたら私、嬉しくて笑顔になりますとも」 「そりゃいいな」 腕を伸ばして男の首元にゆったりと回すと、男はジャックのからだを慣れた手つきで軽々と抱き上げた。
シャワールームまで運ばれていく間にジャックは“真っ当な感性”について思いを馳せた。男はジャックのことをおかしいと言って呆れた様子を見せたが、しかし趣味が悪いのはそっちの方だ。 この人が悪趣味で本当に良かった。ジャックは小さくあくびをしながら、男の首に回した両腕にもう少しだけ力を込めた。
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アプサントにて
リンゴーンとやたら響くチャイムの音がした瞬間から、なんだか嫌な予感はしていた。 リビングの時計は23時を回っていて、それも不安を助長させていた。ただでさえ人が滅多なことでは尋ねてこないこの家に、こんな時間にチャイム鳴るなんてただごとではない。 エドガーは考える間もなく居留守を使おうと決めた。こんな時間に郵便配達なんてこともないだろうし、たとえそうだとしても非常識すぎるから今夜はお引き取り願おう。 中断したパレットの掃除を再開しようと蛇口に手をかけたところでもう一回チャイムが鳴った。アパートの廊下の窓はリビングの光が漏れているだろうから、当然あっちは居留守が分かっている。されていると分かっていてこんな厚かましいことをしてくる知人の顔をいくつか思い浮かべ、どれが来てても最悪だとエドガーは絶対にドアを開けるものかと決心を固くした。 濁ったパレットをスポンジで丁寧に洗い流していると三回目のチャイムが響き、そこからはもう最悪だった。連続して響くチャイムの音に加えて、相手がドアを蹴っ飛ばし始めたのだ。あまりに遠慮のない音にエドガーは蹴破られたら堪らないと慌てて水を止めて、騒音鳴り止まない玄関に駆けていった。チェーンをしっかりとかけて恐る恐るドアを開ける。ドアが開いたと分かった途端、けたたましい騒音はピタリと止まった。エドガーが小さく開いた隙間を覗き込んだとき、初めは誰がそこにいるのか全く分からなかった。客人は夜に溶け込むような濃いグリーンのコートを着ていた。それでいて背が高いものだからエドガーの目にはそれが暗闇なのか、コートの生地なのかがよく分からなかったのだ。ぼやぼやとした背景がゆっくりと動き出し、男の青白い端正な顔がひょっこりと隙間を覗いたところで、エドガーはようやくこの迷惑な客人の正体に気づいたのだった。 「ご機嫌ようエドガーくん、風が気持ち良い素晴らしい夜ですね」 「お前がチャイムを鳴らした瞬間に最悪の夜に変わったけどね。来て早々悪いけどもう帰ってくれる?」 エドガーがドアを閉めようとした瞬間、男は躊躇いなく長い左手を伸ばしてその隙間に指を突っ込んだ。ぎょっとしたのはエドガーの方だった。どんなに最悪で大迷惑な客人であっても、その左手が筆を握ると知ってる以上���怪我をさせるなんてとんでもないことだ。エドガーが慌てて動きを止めたのを見ると、男は形の良いくちびるをつりあげて、にっこりと笑った。 「そういうところですよ。あなたは優しいから、私みたいなのにつけこまれる」 胃がムカムカしてくるような声音にエドガーは耐えきれず舌打ちをした。チェーンを外してドアを開けると、この寒空の下でマフラーもせずに、薄手のコートだけを羽織っている男の姿があった。 「なにその格好」 「家を飛び出してきたんです。だから持ち物も‥‥‥これしかなくて」 男はポケットから携帯を取り出して、さして困った様子でもなく笑った。 「家を飛び出すって、おまえ一人暮らしでしょ」 「ああ、あのアパートは今はアトリエにしてるんです。衣食住は別のところで済ましているので」 今度は呆れて舌打ちも出てこなかった。 この男が無類のプレイボーイで、日毎に連れて歩く女性を変えている話は、同じ大学にいる人間なら誰だって知っている。エドガーもそのことを聞いたときは、さぞ多くの厄介ごとを起こしているのだろうと軽蔑したものだが、この男はふしぎなことに浮いた話は多くあれど、女性を怒らせたなどという話は全く流れてこないのだ。器用によくやってるものだと思っていたが、結局はこの様だ。 「寄生先から追い出されたってことか。おまえ、情けないなあ」 エドガーの言葉に男は気分を悪くするでもなく、曖昧に笑みを浮かべ続けた。 「哀れと思って、一晩泊めてくださいませんか。明日にはちゃんと次の宿を見つけますから」 「客用のベッドなんてないよ。床で寝たいって言うなら好きに使ってくれていいけど」 「十分です。私、寝ようと思えばどこでも寝られますから」 「だったらあそこで寝てろよ」 アパートのそばの小さなゴミ捨て場を指さすと、男はにっこりと笑って「失礼します」と玄関へと無理やり体を滑り込ませた。
*
「絵の具の匂いがします。制作の途中でしたか?」 男はコートを丁寧に畳んでソファの隅に置いた。 「講評会は明後日なんだから制作してない方がおかしいだろ」 「私、あの教授苦手です。この前の制作では散々なことを言われました」 「教授はお前の絵じゃなくて倫理観にうんざりしてるんだよ。抱いた女の裸婦画ばっか見せられて、僕だって同情するよ」 大学きっての問題児であるこの男が、連れている女性を裸婦画のモデルにしている、というのも周知の事実である。数日前まで連れ添っていた女性の姿を見なくなったと思ったら、講評会の作品でベッドの上で気怠げに寝転ぶ姿になって返ってくるというのも一度や二度の話ではない。エドガーがその事実に気づいたときも酷くうんざりしたが、それを毎回見せられる教授の憂鬱は相当のものだろう。 この男になまじ才能があるのも良くなかった。それがくだらない絵であれば足蹴にして目もくれないこともできたが、男の描く絵には芸術家やそれを志す人間であれば、到底無視できない��どの魅力があった。エドガーは彼が描く陰気でどんよりとして嫌になるほど生々しい絵筆の跡を好ましいと思えないが、それが絵画として評価に値する作品であることは、認めざるを得なかった。 「たまにはセーヌ河でも描けば?教授も泣いて喜ぶと思うよ」 「冗談言わないでください。あなたが描けばそれは美しいものが出来上がるでしょうが、私があれを描いたところで‥‥‥くだらないものにしかなりません」 「タイトルが“身投げ”とかになりそうだもんね」 「さすがエドガーくん、よく分かっていらっしゃる。ねえ、あなたの絵を見させていただいても?」 「廊下を出て右の部屋」 「ありがとうございます。少し失礼しますね」 男がリビングを出るのを見送ってから、エドガーは早々にパレットの掃除へと戻った。男を部屋へと引き上げてしまった以上、最低限のもてなしはしてやらないといけない。ブランケットを用意して、使い捨ての歯ブラシを探して、それから‥‥‥いや、これ以上は贅沢すぎるからいいだろう。 綺麗に洗い流したパレットたちをタオルで拭いて、リビングに戻ってきたところで静かなバイブ音に気づいた。テーブルに置いてある自分の携帯を覗くが特に着信はきていない。慎重に音を辿っていくと、男が綺麗の畳んだコートの元に行き着いた。 (これは寄生先の女からに違いない)エドガーは直感的にそう確信した。こんな深夜に、何コールも鳴り続けるこのしつこさ。それ以外は考えられなかった。 エドガーは少しの間どうしたものかと悩んだが、やはり相手に文句の一つでも言ってやろうとコートのポケットをまさぐり、コール画面を慣れた手つきでスワイプした。 「いい加減にしろジャック。財布も自分のアパートの鍵も持たないで家出なんてバカがやることだぞ」 聞こえてきた声に、思わず携帯を落としそうになった。 それは若い男の声だった。少し訛りのある英語で、どことなく田舎っぽさを感じる喋り方だった。 電話口の男はこちらの返事をしばらく待っていたが、返事が返ってきそうにないというのが分かると、小さくため息をついた。次に聞こえてきたのは、少し疲れたような声音だった。 「わかった、もう何も言わないよ。とにかく帰ってきてくれ、それだけでいい。場所を教えてくれれば今すぐ迎えに行く」 「‥‥‥郵便番号から必要?」 姿を見ずとも男が固まった様子が分かった。 「ジャックじゃなかったのか。失礼だが君は?」 「大学の同級生。ついさっき家出したバカに無理やり家に押しかけられて大迷惑中」 「それは本当に‥‥‥申し訳ないことをした。回収しに行くから市名から教えてくれ」 住所を教えて電話を切ってから、エドガーは二人の男の関係性について考えた。 電話口の男はいかにも生真面目でお堅い青年といった様子で、それがどうしてあの絵と顔しか取り柄のない問題児に捕まってしまったのか。彼らの邂逅について想像してみたがまるっきり分からず、こんなのは時間の無駄だと早々に止めにした。 迎えが来ることを伝えるためにアトリエにしている個室に行く��、男は壁を背もたれにしてエドガーの描きかけの絵の前で丸くなって眠っていた。暖房もつけてない部屋はとても人が眠れるような温度ではないはずなのに、男はエドガーの気配にも気付かずにすっかり寝入ってしまっている。長い手足を折りたたむようにして丸まっている男には、いつもの嫌な不遜さが削ぎ落とされ、まるで幼い子どものようにエドガーの目に映った。 こういうところなんだろうな、とエドガーは思う。世の中の女性は男が思っているよりもずっと用心深い。甘いマスクと柔らかいテノールがあれば、いくらだって取っ替え引っ替えできるというものではない。それどころか下手をしたら一生この世に残るかもしれない絵のモデルに、ベッドの上でなろうだなんて。 きっと誰も彼もが、この男の二面性にどうしようもなく引かれてしまうのだろう。無理やり造られたものではなく、初めからそうであるように生まれた純真なそれに、惹きつけられてあっという間に言いなりになってしまうのだ。 迎えに行く、と疲れた声で言った電話口の男のことを思い返す。時刻はもう深夜をあっという間に回っている、バスもメトロもとっくに終電を迎えたはずだ。そうまでして取り返したいものなのだろうか、そうまでさせるほどの何かが、目の前の男にはあるのだろうか。 「馬鹿馬鹿しい話だな」 リビングから引っ張ってきたブランケットを男のからだにかける。この寒さの中じゃ気休めにもならないだろうが、このままでは見てるこっちの背筋が凍えそうだった。男の寝息はとても小さく、少しの胸の上下を見逃せば死体かと勘違いしそうなほどの静けさがあった。 しばらくして外から聞きなれないバイクのエンジン音が聞こえてきた。ここは比較的豊かな人間が集う住宅街で、こんな時間にエンジン音が響くなど滅多なことではありえない。エドガーが玄関に着いたのと同時に、控えめにチャイムの音が鳴った。ドアを開けると、ダウンジャケットを引っ掛けただけの身軽な青年の姿が現れた。 「ワルデンさんで間違いないですか、先ほど電話をしたナワーブ・サベダーです」 電話で聞くよりも少し高いが、間違いなく先ほどの男の声だった。なんとなく身長がある大柄な姿を想像していたから、男の身長がエドガーと同じかもしくはそれより低いことに驚いた。 「間違いないです。はるばるこんなところまで、どうも」 「いや、深夜に騒がせてしまって本当にすまなかった。‥‥‥あいつは?」 「寝てるよ、極寒のアトリエですやすやと」 「あれはどこででも寝るからな、すぐに回収して帰るよ。上がってもいいかな」 頷いて部屋へと案内する。男は───ナワーブは丸まった探し人の姿を見るなりホッとしたように息を吐いた。それからゆっくりと床に膝をついて、眠る男の頬を小さく叩いた。 「起きろジャック、一緒に帰るぞ」 男はしばらく声にならない声を出しながら夢と現実を行き来していたが、やがてパッチリと目を開けて自分を揺さぶるナワーブの姿を捉えると、 「なんだ、夢か」 「いい加減にしろ、俺を振り回すのは構わないが人に迷惑をかけるなと何度言ったら分かるんだ」 「あなたって��んなところでまで口うるさいんですね。少しくらい私に都合の良いナワーブくんになってくれたって、よろしいじゃないですか。ああ、本当につまらない夢」 起き抜けだというのによくまあこんなにペラペラと舌が回るものだ。男は迎えが来るなどと思っていなかったようで、完全にこれが夢の出来事だと思い込んでいた。それも贅沢なことに、都合の悪い夢などと言って。 「お前にとって都合が良い男になったら、それこそ終わりなんだよ」 ナワーブはそろりと男の頬に手を伸ばすと、自然な流れでキスをした。静寂の中に、男の爪が床を微かに引っ掻く音と、ぴちゃりと唾液が交わる音が響く。 驚きはしなかった。エ��ガーはふしぎなことに、その光景をとても静かな心持ちで冷静に眺めることができた。彼らの後ろには数時間前まで自分が筆を走らせていたキャンバスがイーゼルの上に整然と佇んでいる。描かれているのはサン・ドニ通りを少し歩いたところにある小さなカフェだった。大学に向かう途中、たまたま通ったその店の中には二人の男女がいて、話をするでもなく互いにどこか遠くに視線をやりながら陽炎のようにぼんやりとソファで寄り添っていたのを、持ち歩いている小さなカメラに自然と手が伸び、シャッターを切ったものだった。埃と雨粒の跡で汚れたガラス窓を挟んでいて二人の姿は鮮明には映らなかったが、エドガーがそれを絵にするには十分だった。あと少し色を加えれば完成する自分の絵のそばで、同級生と見知らぬ男が舌を交しあっている異様な光景をエドガーは隅々まで観察するように、ただ静かに眺めていた。 「‥‥‥覚めないから夢ではないのか」 やっとくちびるが離れると、男は淡々とそう呟いた。それからドアの前に立っているエドガーの方に視線を向けて、 「素敵な作品ですね、これ」 描きかけのキャンバスを指差してにっこりと笑った。 「ありがと。でも次に描く絵の方がきっと良いものになるよ。完成したら一番にお前に見せてあげる」 「それは楽しみです、次は年に二回の合評ですから、大作になれば一ヶ月は校舎に飾られますよ」 「最高だね、その時のお前の顔が今からすっごく楽しみ」 エドガーはこの夜初めて愉快な気持ちになって、頬を緩めて笑った。
ナワーブは男にバイクの鍵を渡すと先にエンジンをかけるようにと頼んだ。彼の後ろ姿が見えなくなったところで、エドガーはナワーブから小さな紙袋を受け取った。 「迷惑料。たいしたものでなくてすまないが、よかったら」 「ご丁寧にどうも」 「‥‥‥あいつ、あんなだから。大学に友人がいると知って安心したよ、君はうんざりしているかもしれないが懲りずによくしてやってくれないか」 意外な言葉に思わずふふっと息がこぼれた。友人───見当違いもいいところだが、否定もせずにエドガーは笑って頷いた。 「あなたも知ってると思うけど、あいつは今も女を取っ替え引っ替え抱いてるよ」 「あれはもう、性分みたいなものだからな。俺にはどうしようもない」 「それを受け入れても自分のものにしたいと思わせる何かが、あの男に本当にあるのかな」 ナワーブは目尻を歪めて、困ったように微笑した。薄緑のひとみがこちら��見上げて静かに牽制しているのが分かった。お前には関係のないことで、知らなくて良いことだと彼の視線は雄弁にそれを語っていた。(この男は案外これで嫉妬深いやつなのかもしれない)そう思うとエドガーはますます愉快な心持ちになった。絵を描き終わったら二番目に彼に見せてやろうと思った。 「それじゃあおやすみ。気をつけて帰ってね」 外の廊下から二人がくっついてバイクに乗り、夜の街に消えていくのを見届けたあと、エドガーは紙袋の中身を覗いた。繊細な模様が描かれた紅茶の缶が二つ、そこに並んでいた。きっとこれはロンドン生まれの紅茶男の趣味だろう。迷惑料としては上々だ。 そう思ったところで、ふと玄関に視線を移してエドガーは思わず声をあげた。玄関の扉の下の方に、朝にはなかったボコボコの傷痕が残っていた。本当にうんざりする、あの男には加減というものがないのだろうか。明日には業者を呼んで、請求書はあの彼氏宛にして送ってやろう。 迷惑料を余分に貰っておいて本当に良かった。エドガーはあの異様な自室の光景を思い浮かべ、さてどこから色を置いたら良いだろうかと微笑しながら、やっと静かになった自室へと帰った。
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砂糖の上の大人たち
コーヒーを飲もうと思ったら気に入りの豆がストックごと空になっていた。
仕方ないので冷蔵庫の隅っこに少しだけ残っていた牛乳を飲んで、ふと賞味期限を見たら一週間前の日付だった。いつもなら冷蔵庫の中身はチェズレイが綺麗に整頓して管理してくれるのだが、彼はここ数日出かけの仕事に出ているので今やすっかり荒れたものになっている。
彼が出かけの際にモクマに残した言葉は二つ、「使ったものは元ある場所に戻し、空になったらすぐ捨てる」「食材は古いものから順番に使う」
これさえ守っていれば百点とはいかなくとも、及第点くらいには家が綺麗に保たれるはずですと、彼はいつになく真剣な面持ちでモクマに言いつけた。本当はあと十項目くらいは足したかっただろうに、このガサツな男にはこれが限界だろうと譲歩してくれたチェズレイの優しさ──諦めとも言えるに、モクマもその時は言いつけを守るように努めようと意気込んだものだ。
その意気込みは最初の三日は続いていたと思う。なんだか面倒くさいなあと思って少しサボり始めるともうダメだった。いま部屋の中を見渡すと、すでにあちらこちらに物が散らばり普段とは似つかない景色になっている。チェズレイが見たらきっと、「あまりの光景に目眩が」と大げさに嘆いてふらりと倒れ出すだろう。
「これは少しどうにかせんとね‥‥‥」
彼の帰宅を記したカレンダーの赤丸は明日の日付を指している。朝帰ってくるにしても夜になるとしても、今日中にこの部屋を元の状態に戻しておいたほうがいい。丸一日ゆっくり時間をかけてやれば、ギリギリだとしても及第点をもらえるはずだ。
時間をかければなんとかなるだろうと勇んで始めた片付けは、やっぱりと言うべきかすぐに難航した。使ってから何日も放置していた物を元の位置に戻すというのはこんなにも大変なものなのか。記憶が頼りにならないのなら直感に任せようと思ったが、センスがなければそれも無駄なことだった。結局午前を丸々と午後の半分を使って部屋を微妙に整頓した状態に取り繕い、モクマは心底疲れた心持ちのまま休む暇なく買い出しへと足を運んだ。
*
「あっ、危ない!」
若い女性の声が聞こえた瞬間に、モクマの腕は自然にその方向へと伸びていた。
大通りへと続く近道の階段をモクマは早足で駆け上がり、女性もヒールの音をカツカツと響かせ早足で駆け下りていた。石造りの急な角度の段差に着地が上手くいかなかったのだろう。声と同時にモクマが顔を上げると女性のからだは既に前傾しながら宙を待っていて、モクマのからだは落ちてくるそれをしっかりと抱きとめたあと、階段を少しの間転がり広さのある踊り場でぴたりと止まった。
「大丈夫かい?」
腕の中の女性はアーモンド色のひとみを大きく広げて、何が起こったのか分からないという表情でモクマの顔を見上げたあと、ほっとしたように大きく息を吐いた。
「大丈夫です、ええ、あなたのおかげで。あなたこそお怪我は?」
女性が身じろぎをするとふわりと巻いてある髪から柑橘系の濃い甘い匂いがした。オレンジかベルガモット──。ぼんやりと考えながらも腕は女性のからだを立たせるようにと自然に動いていた。無事に立てるならきっと足もひねらずに済んだのだろう。
「俺はこの通り全然平気。仕事柄、高いところから落ちるのは慣れてるんだ」
「まあ、良い人に助けてもらったのね。私も本当にどこも痛くないの。おかげで助かりました、お礼ができたら良いんだけど今は何も持ち合わせていなくて」
「お礼なんて全然、こんな美人さんを受け止められてむしろこっちがお礼を言いたいところだしね」
「あなた冗談も‥‥‥あっ、いけないわ」
女性の顔が申し訳なさそうに歪んで、モクマは小首を傾げた。
「今日、うっかりして香水をつけすぎてしまったの。だからあなたにも移ってる、オレンジの匂いがするでしょう?」
ああ、やっぱりオレンジだったのかと思いながらモクマは自分のシャツを手繰り寄せてすん、と匂いをかいだ。確かにさっき彼女から香った爽やかな甘い匂いが微かに感じられる。
「あなたに恋人がいたら申し訳ないわ。誤解ですと一筆書いて渡したほうが良いかしら」
女性が心配している理由が分かって、モクマは思わず笑ってしまった。明日まで家に帰ってこない男が��クマがこの香りをつけて帰ってきたらどんな顔をするだろうか。少し想像してみたけれど彼女が心配するような事態になる姿はちっとも思い浮かばなかった。呆れるにしても笑うにしても、彼はモクマのシャツを指差してからバスルームの方へと動かし人を小馬鹿にしたような声音でこう言うだろう、「さぞ素敵な思い出かと思いますが、匂うので早く洗い流してくださいね」
彼の甘えたような少し高い声を想像の中でなぞると、無性に恋しくなった。思えばこんなに長く離れているのは久しぶりだし、そのことを無意識のうちに気づかないように慎重に過ごしていたのかもしれない。目の前でモクマのことを見つめる女性が、彼だったら良いのにと馬鹿げたことを一瞬にして考えて、しかしその考えも微かに香るオレンジの匂いにかき消された。チェズレイは香水を好まない。彼から香るのはいつだって冬の朝のような、鼻先が痛むくらい冷たく清んだ匂いだった。
「それなら大丈夫。あいにく恋人は明日まで家に帰ってこないんだ」
女性はモクマの言葉にまた目を丸くさせて、それから困ったように口元に小さな笑みを浮かべた。
「よくない言い方だわ」
「こういう物言いをずっとしてきたから、もう直らないんだよね」
「私は恋人が知らない匂いをつけて帰ってきたら、玄関のフラワーベースで殴りつけるわよ。そうならないように、あなたはどうか誠実にね」
「助言をありがとう、お嬢さんも急いでいるときの階段には気をつけて」
今度は慎重に階段を降りる女性の姿を見届けてから、モクマはまた急ぎ足で階段を駆け上がった。明日帰って来る恋人に及第点ですねと笑ってもらうために、そして笑った口元をなぞってキスするために。コーヒー豆のストックと賞味期限の切れていない牛乳を買わなければいけないのだ。
買い物はチェズレイと一緒にもう何度も同じ店を訪ねて同じものを買っていたから何事もなく終わった。
馴染みのコーヒー屋さんのウエイトレスはモクマの隣にいつも見かける長髪の綺麗な男がいないのを見ると、ふしぎな顔をして「今日はお一人なんですね」と言った。年若い彼女にはそれが何を意味する可能性があるのか、など分からなかっただろう。店の奥からマスターが慌てて飛んできてすみませんと頭を下げても、彼女がまだあどけない顔をしているのが面白くて、モクマはまた思わず笑ってしまった。
「出張に行ってて、明日帰って来るんだよ」
「どのくらい行ってたんですか?」
「今日で三日くらいかなあ」
「三日も‥‥‥それは寂しいですね」
そうだね、さっき急にすごく寂しくなってさ──。
言おうとした言葉は喉元で止まって、どうしてか口には出せなかった。モクマは曖昧に頷いて、「でも、もうすぐ会えるから」と笑った。
言葉にしてしまえば、本当にいてもたってもいられないほど寂しくなってしまうような気がした。家に帰ってコーヒー豆を元あるところに綺麗に並べて、それから玄関の鍵が開く音がするまで一晩中でもじっとリビングで彼を待っている自分の姿を想像した。それはあんまりな姿だった。
だからモクマは家へと帰り玄関の鍵を開けてサンダルを蹴っ飛ばすようにして脱ごうとしたとき、そこに整然と揃えられた汚れひとつない革靴があるのを見て、思わず声をあげそうになった。もしかしたら少し���ていたかもしれない。とにかく驚いたものだから、思わず屈んでその靴を凝視してしまい、その瞬間に紙袋に詰まっていたコーヒー豆の袋がボトッと廊下に転がった。革靴に視線をやりながら落としたそれに手を伸ばそうとして、しかしそれはモクマが拾う前にひょいと姿を消した。視線を上げるとふしぎな顔をした男がモクマのことを心配そうに見下ろしていた。
「お、お前さん」
「玄関からカエルを荷馬車で轢き潰したような、ひどい声がして驚きました」
チェズレイだった。最後に会ったときと何ひとつ変わらない美しい男がそこに立っていた。
「帰ってくるのは明日じゃなかった?」
「用事が早く済んだのですよ。たまには一人で観光を楽しんでも良かったのですが、あなたが寂しくしてるといけないと思って急いで帰ってきましたのに‥‥‥まるで都合が悪いという顔ですね」
都合が悪いかと聞かれれば、半分はその通りだった。なにせ部屋の中はまだ微妙に片付いていないし、キッチンのシンクには賞味期限が切れた牛乳パックがそのままの形で放置されている。目の前の男はもうすでに全部見てしまっているだろうけど。
「いや、都合が悪いなんてことはないし、まずは仕事が無事に終わって何より‥‥‥」
そう言ってモクマがからだを起こした瞬間だった。男の口元から浮かんでいた笑みが消えて、すみれ色のひとみがどこか冷ややかにモクマの首元のあたりをじいっと見つめた。男はモクマの肩に手を置くとそれから流れるような仕草でその胸に顔を寄せて、小さく呼吸をした。
「シャネルのココ マドモアゼル」
大きく開いたシャツの胸元に、男の生ぬるい吐息がかかった。
至近距離で目があう。ビー玉のような両目がモクマのことを責めるように見上げていて、モクマは思わずその頰に手を伸ばして宥めるようにゆっくりと撫でた。
「怒ってる?」
「よりによってこの香り。私のことをバカにしているのかと思いました」
「おじさんには全然分からないんだけど、このオレンジの匂いが?」
「モクマさん、香水は時間が経つと匂いが変わるのですよ。今はもうパチュリとバニラの最悪な甘い匂いです」
「最悪‥‥‥」
「久々に家に帰ってみれば物の位置が微妙に違うし、あなたは女物の香水の匂いをつけている。これを最悪と言わずしてなんと言いましょうか」
「言っておくけどお前が疑っているようなことは何一つないからね」
男はけろりと表情を変えて、モクマの腕の中でクスクスと少女のように笑った。それからもう一度大きく深呼吸をして、「やっぱり最悪な匂いだ」と呟いて可笑しそうにまた笑った。
「存じてますよ、少しからかっただけです。あなたは寂しがったりしませんから」
「お前が数日家にいないことを?」
「それもですし、それ以外の何にしても」
男の声音は優しく、しかしそこには諦めのようなものがあった。モクマは今日のことを全て彼に話して聞いてもらいたいと思ったが、どの言葉もやっぱり喉元で止まり口には出せなかった。誠実な人間でありたいなら、寂しかったし今すぐにでも会いたいと思っていたと伝えるべきだった。しかしモクマにはそれができなかった。男の冷たく滑らかな頬を撫でて唇の横にキスをする。モクマのこういうやり方を男はどうしてか好んだ。誤魔化して、気持ちの良いことでなあなあにしてしまう狡さ��身に受けるたびに、彼はどこかほっとしたように幼い顔で笑うのだ。
「及第点ですよモクマさん」
男の長くてしなやかな両腕が背中に回る。彼はそれに続くモクマの言葉を必要とはしていなかった。もし万が一言葉にできていたとしても、決してそれを信じなかっただろう。
ただこの瞬間ここにいてくれればいいのだと、両腕に強く力が込められていた。
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Nation White
リビングでカフェオレを片手に適当にテレビのリモコンをいじっていると、部屋の奥からドカン!という爆発音が聞こえてきて、モクマは危うくマグの中身をひっくり返すところだった。
「チェズレイ?!」
音が聞こえたのはキッチンの方で、そこには朝から彼が何やらこもって料理をしていたはずだった。爆発音はそれ一回きりだったが、鼻をさすような焦げ臭い匂いがリビングまであっという間に漂ってくる。数あるセーフハウスの一つである比較的小さなこの家は、ルークたちにだって住所を教えていない場所だった。あのチェズレイに限って住所をどこかに漏らすなんてヘマはしないだろうし、自分がいながら何者かの尾行に気づかなかったなんてことも考え辛い。
頭の中で最悪のシチュエーションをいくつも想像しながらキッチンへと駆けると、そこは既に充満した煙で辺りがほとんど見えないくらいになっていた。自分たち以外の人間がいる気配はない。そこに呆然とした様子で立ち尽くす大きな人影を見つけて、モクマはシンクの側の小窓を開けながら慌ててその腕を引っ張ってキッチンの外へと連れ出した。
「大丈夫?怪我は」
返事をしようと口を開いた男は、煙を吸い込んだせいか上手く声が出せず咳き込んだ。
「驚かせて、すみません」
「けっこう煙吸ったね。無理して喋らなくていいから」
「いえ、いえ……大丈夫ですから。あなたが心配しているようなことは何一つありません。とにかく、それだけはご安心ください」
どうしても先に伝えたかったのだろう。男は早口でそう口にすると、また小さく咳き込んだ。
窓を開けたおかげでさっきまで何も見えないくらいに充満していたキッチンの煙も引いて、リビングも嫌な焦げ臭さが残るぐらいになってきた。ゆっくり深呼吸しよ、とモクマが言うと男は素直に頷いて吸って吐いてを繰り返した。シャツ越しでも背骨の感触が目立つ薄っぺらい背中をさすってやると、男はようやく落ち着いたようだった。
見上げた先に見える男の表情は、あまり見たことのないような少しふしぎなものだった。薄い綺麗なすみれ色は、自分でも何が起こったのか分からないという風にぼんやりとまあるくなっている。自分のことでさえ、まるで他人事のように難なく客観視ができるこの男にしては本当に珍しい表情だ。モクマは過去の記憶を一つずつ辿っていき、ああ、と一人でに頷いた。
男がこういう表情をするときは、決まって子どもがするような単純なミスをしたときだった。
「モクマさん、にわかには信じがたいお話なのですが」
「うん」
「電子レンジが一人でに、ボカンと」
「電子レンジが一人でにボカン」
それはなんともにわかには信じがたい話だ。
モクマは朝方、あくびをこらえながらおはようを言いにキッチンへ向かったときのことを思い出した。髪を高いところに結んでエプロンを身につけた男、その側に綺麗に一列に並んだ食材たち。砂糖、バター、生クリーム、サツマイモ……。
「サツマイモだろ、チェズレイ」
「おや、探偵の才能もおありでしたか」
「いやいや、キッチンに並んでた食材でレンジで爆発しそうなものといったらそれしかないでしょ」
「きちんとレシピ通りに加熱していたのですが、ふしぎなものです」
しれっと言う男に、モクマは大方レシピを一行読み間違えたとかそんなところだろうと思った。完璧主義の名に違わず、何をするにも緻密に計算して完璧に実行してみせるこの男が、なぜか誰も予想しないところで小さなポカをしでかすことはBONDのメンバーなら誰でも知っている。あとこれだけという最後のボタンを押し間違えるとか、左右どちらかを選べばいいのに真ん中をわざわざ選んでしまうとか。手元が狂いました、と何食わぬ顔で言う男にアーロンは顔を思い切り歪めていたが、ルークなんかは、「ああいうところをたまに見ると、チェズレイも僕と同じ人間なんだなと思ってなんだか安心します」と朗らかに笑っていた。ルークが男のことを普段はなんだと思っているのか、モクマは今も少しだけ気になっている。
「お騒がせしました、後片付けは一人でもできますのでモクマさんはどうぞコーヒーの続きをなさってください」
「えっ、俺も手伝うよ。爆発したレンジ触るの嫌でしょお前さん」
レンジの中は多分、炭となったサツマイモが飛散してとんでもない状態になっているはずだ。
「お構いなく。レンジの中身は見ません、そのまま不燃物として処理します」
「丸ごと葬り去るのね……そんな勿体無いことしなくてもサツマイモを爆発させたくらいなら掃除してまた使えるようになるから」
「私はあれを掃除したくありませんし、あなたの手を煩わせるようなこともしたくありません。ですからどうぞお気になさらず、さっさとコーヒー片手にテレビで競馬予想をご覧ください」
「お前さんさ、なんでそんな意地はってるの」
その言葉に男の眉がぴくりと動いた。乱れた前髪の隙間から、苛立ったように細まった紫色がモクマのことを見下ろしているのが見えた。
「見当違いなことを言われては困ります。私はあなたにご迷惑をかけるつもりはないと言ってるんです」
「それこそおかしな話だよチェズレイ。お前のことで俺が迷惑だとか面倒とか思うことなんて無いってこと、賢いお前さんが一番よく知ってるよね」
「それはもちろん。ですからこれはただのあなたへの思いやりです。意地をはってるなどと言われては心外ですよ」
「思いやりねえ。あ、チェズレイ少し屈んで」
男は少し間を空けてからゆっくりと腰を低くした。乱れてあちこちに跳ねている彼の前髪を手櫛で慎重に整える。細く柔らかいアッシュゴールド���髪からはわずかに焦げ臭い匂いがした。目の前で突然レンジが爆発したときの男の表情を不意に想像して、モクマは思わず口元をつり上げた。
「何がおかしいんですか」
男は目ざとくそれに気づいたらしい。前髪をモクマの手に委ねながら、むすっとした様子で言った。
「いや、爆発したときのこと想像したらなんか面白くなっちゃって」
「面白い……」
「面白いし可愛いし好きだなあって思った。ね、一緒に片付けようや。何を作ろうとしてたとか、どんな風に爆発したとか話しながらさ。それで片付いたら買い物行って、今度は一緒に作ろ」
男はしばらくモクマのことをじいっと見つめて、やがて観念したかのように目元を緩めて笑った。彼は美しくすました外見とは裏腹によく笑う人で、モクマは男がこうやって穏やかに笑う顔がとても好きだった。
「なんでもできる人間が時々つまらない失敗をすると、誰もが期待外れだと冷たい視線を投げるものです」
「昔の話?」
「そう、すごく昔の話。初めてショパンを弾けるようになった両手で、私は同じ日に拳銃を握り人を殺しました。父と母は私に大きな期待を寄せていた、それぞれ全く違う方向に。その期待を一粒も裏切らずに答える必要があのときの私にはありました。母の心を守るためだと思っていましたが……今思えばあれは自分のためでもあったのかもしれません」
「お母様の言葉だね」
「完璧でなければ愛してもらえない、というのが彼女の思想でした。しかし今にしてみるとあなたは完璧とは程遠く、お酒にだらしなくて寝癖も悪くてどちらかといえば不衛生な男ですが」
「チェズレイさんそんなことを思って……」
「それでも私はあなたのことがとても好きですし、いつでもキスしたいなって思います。でもそれってあなたもきっと同じですよね、少し焦げ臭くても私にキスしたいって思ってくれますか?」
この年下の男は時々とんでもないことを言ってモクマのことを驚かせる。何十年もいろんな土地を渡り歩いていろんな人と出会ってきたけれど、こんなにモクマの心を揺さぶる人間はいなかったし、これからもそうだろう。
「そりゃあもう、いつでもキスしたいって思ってるよ」
「じゃあ今すぐしてください」
横髪を耳にかけながら屈む男の顎を掴んで、触れるだけのキスをする。彼の鼻先からはやっぱり少し焦げ臭い匂いがしたけれど、それも可愛いと言えば男は当然のように、にっこりと綺麗な顔で笑ってみせた。さっきまではうだうだと言っていたのに、相変わらずのさっぱりとした心変わりの早さである。
男が作りたかったのはスイートポテトらしい。
なんでも砂糖は少なめで甘みの強いサツマイモを使って、健康的なおやつをルークに送るのだとか。レンジを爆発させたことは今は黙ってようねとモクマが言うと、男は当然ですと言ってモクマが好きな顔をして笑った。
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Hotel Moonside
ヴィンウェ��の冬は寒さが痛みに変わる、辛く険しいだけの季節ですよ。
故郷へと走る夜行列車の中で彼が言った言葉は本当だった。モクマは今まで世界中を渡り歩いていたし、その中には冬の間は太陽が一切拝めない極寒の地だってあった。全身を防寒具で包み寒さに俯きながら、モクマは紅葉の木に真っ白で柔らかな雪が積もる里の美しい冬を、少しだけ懐かしく思ったものだ。
十二月のヴィンウェイは、モクマが今まで出会ってきたどの冬とも全く違う景色を見せていた。零下五十度が日常の街では普通に息をすることもままならない。列車から降りてすぐ、肌をナイフで刺されるような痛いくらいの寒さにモクマは思わず声をあげて、それから勢いよく咳き込んだ。後から降りてきたチェズレイはその姿を見てカラカラと笑い、「息の仕方がダメなんですよ」と言ってモクマに背中をさすってくれた。冷気で肌が痛むということは、吸い込めば肺も傷つけるということだった。
二人はトランクを片手に、灰色の雲に覆われた街を会話もなく足早に歩き続けた。モクマは寒さでろくに口が開ける状態でなかったし、隣を歩く男も——最も彼の場合はもっと複雑な理由なのだろうけど——普段はよく回る舌を大人しくしまいこんでいた。
ヴィンウェイの街はひどく寒かったが、同時に美しくあった。石造の立派な建物たちは、どれも左右対称の精密で美しい造りをしていた。さぞかし名のある城なのだろうと思ってよく見ると、銀行だとか町役場だとかの看板を飾っているので驚いた。チェズレイがここだと言って入った建物もそうだった。見上げるほど大きい建物の壁面には、等間隔で固く閉ざされた二重窓がずらり並び、その間は蔦のような花のような、とにかくモクマには何だかさっぱり分からない細かな彫刻で装飾されている。この大仰な建物が自分たちがしばらく滞在するホテルだと分かったとき、モクマはなんだかとても疲れたような心持ちになった。紅葉に雪が積もる、里の静かでささやかな冬が本当に懐かしい。そして同時にこの街で生まれ育ったチェズレイのことを、見たこともないくせにどうにも懐かしく思うのだった。
ホテルのロビーには煉瓦で作られた大きな暖炉があって、チェズレイはそれを見た瞬間ほんの少しだけ足の動きを止めた。それから何事もなかったかのようにフロントで鍵を受け取ると、部屋まで荷物を運ぶと言うスタッフをにこやか制し、モクマを連れて最上階の部屋へと上がっていった。
「どうですか、言った通りの街だったでしょう」
上着をハンガーにかけながらチェズレイはソファに座り込むモクマに笑いかけた。
「辛く険しい、確かにその通りだけどそれだけでもない。俺はこんなに美しい冬の街を初めて見たよ」
「しかし美しさではお腹も膨れず、温かくもならない。数日の観光でしたら面白くもあるでしょうが、暮らすとなればやはり厳しい土地ですよ」
「それでもお前が育った街だ。空気は痛いくらい冷たくて、でも景色はびっくりするほど綺麗で。俺は昔のお前さんのことなんかちっとも知らないのに、ここで育ったんだなあってなんだか懐かしい気持ちなったよ」
チェズレイはソファに沈むモクマから無理やり上着を奪い取ってハンガーにかけた。その横顔がどこかつまらなそうで、それが彼を幼く見せているのを、モクマは黙って横目で見つめた。
「あの暖炉、なにか思い入れがあった?」
その言葉にチェズレイは露骨に嫌そうな顔をした。気づかれたくも、簡単に踏み込まれたくもないことだったらしい。彼の気持ちを尊重してここで適当に話を終わらせても良かったが、この街に来た以上不穏の種はなるべく潰しておいた方が良い。黙れと言ってもペラペラと舌を回すこの男が、それでいて本当に大事なことは土壇場になってからしか口にしないことはよく知っている。
チェズレイは聡い男だった。モクマが空気を察してこの話題を軽口で終わらせるのをじっと待っていたが、そうする気が無いのだと分かった途端、渋々といった表情でモクマの目の前のソファに座った。
「あれは父のセーフハウスの一つにあった暖炉でした。よく覚えています、小さな煉瓦を半円状に敷き詰めてあってとても繊細な技術がいるのだと話してくれました」
「マフィアのセーフハウスの暖炉が、なしてこんなところに」
「さあ。父を殺したあと彼の私物は適当に売り払いましたから、どこかの物好きがあれを気に入ってご丁寧にそのまま残しておいたのでしょう」
「昔を思い出した?」
「ええ、そしておぞましい心持ちになりました。この街には私が、父が、母が、過ごしてきた昔の面影がありすぎる。もう何年も帰っていなかったから、すっかり忘れた気になってしまった。そんな都合のいいこと、あるはずないのに」
モクマには彼の心労と怯えが痛いほど分かった。自分の場合は何十年だった。逃げるようにして里を出て、過去を捨てるように自分を作り変えて、それでも故郷に帰ればここで過ごした時間とあの日の自分が、簡単に脳裏に蘇る。視界の隅に映る何気ない景色でさえ、モクマのことを疎み罵っているかのように感じられたあの数日間のことは、今思い返してもモクマの心を曇らせる。
「おいでチェズレイ」
彼にかける言葉を探したけれど、結局口にできたのはこれだけだった。チェズレイはしばらくモクマのことを眉をしかめて見つめていたけれど、やがてソファから立ち上がるとモクマの膝にからだを乗せて、柳の枝のように枝垂れかかった。頬に触れるチェズレイの髪はひんやりと冷たく、冬の朝のような清澄な匂いがした。
「こわいですモクマさん。ここにいると、私はあの父と血が繋がっているんだと、いやでも思い知らされる。彼は冷淡で薄情で他人には殊更冷たい人でした。しかし私もそうなんです、同じ血が流れていますから。ここでたくさん人を殺したし、興味のない他人を同じ人間だとも思っていなかった。私は若かったが、理由はそれだけではなかった。だってあの父の子どもなんですから」
「自分がここで約束を破ってしまうかもって、そう思ってる?」
チェズレイは何も返さなかった。彼の長い両腕が、絡みつくようにモクマの背中を抱いていた。
「そうなる前に俺がやるよ。ここでかたをつけるのに本当に必要になった時は、俺がやる。お前さんには父親の血がもちろん流れているが、そんなことはもう考えなくていい。お前はもう俺のなんだから」
「それって、どういう理屈ですか」
「他の男のことで悩んだり苦しむ必要なんてないってこと」
「答えになっていないし、モクマさんあなたって時々びっくりするようなこと言いますね」
チェズレイが顔を上げる。少しだけ充血していたけれど、彼の目はからりと乾いていた。表情はすっかりいつもの優雅な詐欺師の顔に戻っていた。彼は子どもがするような触���るだけのキスを落として、満足したように口元に笑みを浮かべた。
「私がおそれるべきは父ではなくあなただと分かったら、なんだか気が楽になりました」
「えっ、なして」
「自分で考えてください。得意でしょう、自問自答するの」
「あのね、別に好き好んで何十年もそうやって生きてきたわけじゃないんだけども‥‥‥まあいいや。お前さんはそうやって元気でいるのが一番だ」
「ふふ、愛されてますねえ私」
そりゃあね、という言葉をモクマはゆっりと飲み込んだ。暖房がきいた部屋の中では、大きく深呼吸ができる。なだらかな背中をシャツ越しに強く抱くと、彼は痛いと言って困ったように笑った。このまま自分の熱も匂いも、何もかもが彼に移ったらいいのにと思う。
この街の寂しく冷たい冬の匂いは、それでも彼のからだにこんなにもよく馴染むのだ。
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ブルー・ナイト
やけに館が静かだと二匹がよく転がっている大広間を見に行くと、いつものようにぎゅうとくっついてソファに寝転がっていた。 彼らの手は一つの本を一緒に支えていて、夢中になって眺めているようだった。 「何を見ていらっしゃるんですか」 ジャックが声をかけるとそろって首をひねりこっちを見上げた。嗅覚に優れた彼らのことだから、ジャックがそろりと広間に入ったことは最初から気づいていたことだろう。 「おはよう伯爵」 「これは書斎にあった写真集。」 「昨日忍び込んだときに見つけたから」 「こっそり持ち帰ってきたんだ」 二匹の犬は交互に話すふしぎな喋り方をする。話が噛み合わなかったり、タイミングが合わなくなったりしないんだろうかとジャックはいつも思っているが、今日も二匹は息ぴったりだ。 彼らの手の中にある大きな本を覗き込むと、ページ一面にモノクロの海の写真が広がっていた。どこか遠くの南の方の海だろうか、波しぶきのてっぺんが白い光でチカチカと光っていて、色がなくとも太陽の光と暑さが伝わってくるようだった。 「綺麗ですね。お二人は海が好きですか」 「好きだよ、波とは追っかけっこができるし」 「舐めるとしょっぱくて美味しい」 「波ってしょっぱいんですか」 二匹は揃ってジャックのことをじいっと見つめた。毛に隠れて目は見えないのだけど、「そんなことも知らないのか」と眉をしかめているだろうとすぐに分かった。もうずっと前に森の中で拾ったこの二匹の犬たちは、ジャックよりうんと幼くて小さい生き物なのに、色んなことをよく知っている。ジャックがこの深い森の館に篭り、何百年も静かにくらしていたのに反して、彼らは生まれてから今日までの数十年を色んな土地を飛び回って自由に過ごしていたのだ。 森で怪我をして弱っているところを連れて帰ったとき、ジャックは「元気になったらいつ出て行っても構わない」と彼らに言った。若い二匹はご飯を食べてよく眠ったらあっという間に館中をびゅんびゅん駆け回るくらいに回復したけれど、なぜだかジャックのもとを離れようとしなかった。こんな薄暗いジメジメした森の奥深くにずっといても仕方ないとジャックが心配するたびに二人は、「ジャックは良い匂いがするから好き」「毛を優しく梳いてくれるから好き」と言ってジャックの両足にそれぞれしがみつくのだった。 「私は森から出たことありませんから、海が大きいことくらいは知っていますが、味までは存じ上げません」 二匹は体を起こしてソファの端っこにそれぞれ座り直すと、その真ん中にジャックを座らせてその膝に本を置いた。 「この波は寄せては返すから、追いかけっこができるんだ」 「砂浜にたまに貝殻を残していくこともある。耳に当てると波の音がする」 「貝殻から波の音が?とても素敵です。‥‥‥でも、波の音っていったいどんなものなんでしょう」 「俺たちが連れていってあげようか」 「森にいると時々潮の匂いがするから、きっと近くに海があるはずだよ」 「この近くに?ずっとここにいますけど、そんな話聞いたこともありませんよ」 ジャックが驚くと、二人は呆れたような顔をした。 「それはジャックがものぐさの引きこもりだからだろ」 「運動しないから何もないところですっ転ぶんだぞ」 ジャックはついこの前食器を運んでいたところを不意に転げて、駆けてきた二匹たちに自分とガラスの食器を助けてもらったことを思い出した。ジャックがこの館から滅多に外に出ないことを、いろんな人たちがあれこれ推測して噂をするが、二匹はその本当のところを知っている。古代ローマの時代ではあるまいし、吸血鬼が陽の光に弱いだとか、魔典を守っているだとかそんなものは迷信もいいところだ。 ジャックは二匹からの痛い視線に負けて、赤い爪がかがやく左手をあげた。居心地の良い自分の家から離れて、数日ぶりに外に出る決心をしたのだ。 「では準備をしておいてくださいね。夜になったら出かけますから」 二匹はその言葉を聞くと嬉しそうに広間を駆け回り、ワオン!と低い声で遠吠えを森中にひびかせた。
*
潮の匂いがするなんて半信半疑だったが、彼らの言ったことは本当だった。 鼻をクンクンとひくつかせて四つ足で駆ける二匹を追い、森を抜けて川を下るとそれは突然目の前に現れた。 今夜は雲ひとつない快晴で、海は月明かりに照らされてぼんやりと青白く光り、真ん中には月まで続いているかのような光の道がゆらゆらと揺れてかがやいていた。 ジャックが感嘆の息をもらしている間に、二匹は景色などおかまいなしに砂浜へと飛んでいき、じゃ���合いながら追いかけっこを始めていた。 「伯爵も早く来いよ!」 「砂浜歩くの気持ち良いぞ!」 二人の声に誘われてジャックも砂浜に行こうとしたが、何を思い出したのか慌ててこっちに戻ってきた二匹に止められた。 「その格好じゃ服が砂まみれになる」 「上着と靴も脱いで、シャツとズボンだけにしたほうがいい」 二匹は慣れた手つきで上着を脱がしてリボンとタイをほどいた。 「靴まで脱ぐんですか」 「砂が入ると気持ち悪いぞ」 「ジャリジャリして後で洗うのが大変なんだ」 二匹に支えられながら靴を片方ずつ脱がしてもらい、シャツとズボンだけという慣れない身軽な格好になると、ジャックはなんだか楽しい気持ちになった。こんな風にして外で遊ぶなんて、もしかしたら初めてかもしれなかった。 「よし、行くぞ伯爵」 「砂に足がもつれるから、ゆっくり歩こう」 両手を彼らに握ってもらいながら、ジャックは恐る恐る砂浜に足を踏み出す。 勝手に熱いんだろうと思っていたから、砂がひんやりと冷たくなっていることに驚いた。柔らかい砂を踏む感触が面白くて、どんどん前に進もうとすると砂に引きずり込まれるかのように自分の足が沈んでいき、危うく後ろにひっくり返りそうになったのを二匹の腕がぐっと引っ張って戻してくれた。 「あ、ありがとうございます」 「ゆっくりって言っただろ」 「砂の上を歩くのは難しいんだから」 そうは言っても二匹はさっきまでぴょんぴょん自由に駆け回っていたじゃないか。 口から出かけた言葉を、ジャックはなんとか堪えて黙って頷いた。そんなことを言えば手厳しい二匹たちにまた引きこもりがどうのこうのと言われるのは間違いない。 三人は手を繋いだままゆっくりと砂浜を歩いて、長い時間をかけて波打ち際へとたどり着いた。寄せては返すと言った彼らの言葉は本当だった。生ぬるい夜の波はジャックのつま先をつつくように濡らしかと思えば、あっという間に去ってしまうのだった。 波打ち際から見るどこまでも続く海が綺麗で、ジャックはぼんやりと遠くを眺めていた。二匹も手を握ったまましばらく無言だったけれどやがて、「あっ」と大きな声を上げた。 「伯爵の素足って初めて見たかもしれない」 「爪が丸くて可愛いね」 そんなことを言うのだから、ジャックは呆れてしまった。 「あなたたち、こんなに綺麗な海にいるのに私のつま先を眺めてどうするんですか」 二匹はキャンキャンと甘えたような笑い声をあげながら、ジャックの手をぎゅうと強く握った。 「海なんて俺たち、二人でずっと見てきたし」 「今は伯爵のこと見てたほうが、ずっと面白いよ」 「波打ち際もいいけど、もうちょっと海に入ろう」 「俺たちが手を握ってるから、転びそうになったら引っ張ってやるよ」 「それはどうも。‥‥‥頼もしい子犬たちですね」 『子犬じゃない!!』
二匹の声が綺麗に揃うものだから、ジャックはおかしくて笑ってしまった。そして笑いながら彼らの手を引いて、ゆっくりと波の中に一歩足を踏み出した。
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六月と赤い指輪
ここ数週間、仕事が重なり合��て珍しく残業が続くと見る見るうちに恋人の機嫌が悪くなっていくのが分かった。 元から自分の不機嫌をちっとも隠そうとせず好き勝手に文句を言ってくるような男だったが、今回はよほど腹が立ったのか逆にだんまりを決め込んだからナワーブは驚いた。落ち着いたら一緒に出かけようと言えば、普段なら行きたいところややりたいことをペラペラと話して勝手に決めてしまうのに、この前もらった返事は「そうですか」の五文字だけだった。恋人の不遜な態度はいつものことだがこんな風になるのは本当に珍しく、ナワーブは仕事をどうにか調整して一晩だけ空きをつくり恋人を食事に誘ったのだ。 仕事は夕方までは順調だった。あとは先方から返事を貰えれば定時には職場を出て、待ち合わせに余裕を持って行けるだろう‥‥‥というところで返ってきた返事が「再考してください」の八文字だった。あれだけ散々打ち合わせを重ねて、経過報告も逐一させておいてそれはないだろうと静かな怒りが湧いたがそれはすぐにため息へと変わった。いまこの瞬間の一番の問題は再考させられる企画書ではなく、あと数時間後に食事の約束をしている恋人になんて申し訳を立てるか、ということだった。 約束をキャンセルにするのはまず無理だろう。以前、大きな喧嘩をしたときに頭に血が上った男がナワーブの部屋に蛍光ピンクのペンキをぶちまけたのは記憶に新しい。おかげで部屋の小物や家具は、今もピンクの飛沫模様が残っているものがある。見るたびにナワーブは喧嘩のことを思い出してうんざりとした気持ちになるが、恋人は、「殺風景な風景に彩りができて良かったですね」とカラカラと笑う。小指の先ほどでも常識と理性が残っていればまず実行しないだろう、ということをためらいなく本当にやってしまうのがあの恋人だった。 今日、恋人との時間を作るのは絶対だしこの企画書をなんとかするのも絶対だ。すっかり温くなったコーヒーを飲みながらナワーブはしばらく考えて、とりあえず退勤という考えをやめることにした。あと一時間は仕事をする、そして二時間中抜けをしてなんとか恋人の機嫌を取って帰り会社に戻って作業を続ける。 ナワーブにはこの予定が上手くいく想像がちっともできなかったが、それでも現状ではこれが最善の案だ。「悪いが一時間遅れる」とだけメッセージを送って、ナワーブは急いでメールの返事に取り掛かった。
「アイスティーを3杯とケーキを二つも頼みました」 そう言って綺麗に折り畳まれたレシートを、不機嫌そうに男がこちらに差し出してくる。 ナワーブが素直に受け取ろうとすると男はうんざりした表情でその手を翻して、「これくらい自分で払えるので結構」と財布の中に戻した。 送ったメッセージに返事が返ってこないのを不安に思いながらも、ナワーブが会社を抜け出して待ち合わせ場所に一時間遅れで着くと、意外にもすんなり恋人の姿は見つかった。 二十一時過ぎの駅前は雨上がりの蒸し暑さもあって息苦しいくらいの人混みだったが、どこにいても人より頭一つ大きい背丈の恋人はよく目立つ。六月には少し暑そうな首元まできっちり閉めたストライプのシャツに細身のスラックスを身につけて、左腕の腕時計を睨みつけていた男はいったい何の勘なのかナワーブが側に走り寄ると不意に視線を上げて、不機嫌を隠そうともしないしかめ面を更に歪ませながら、開口一番レシートをナワーブの鼻先に突きつけたのだ。 「悪かったよ」 ナワーブの言葉に、男はフンと鼻で笑ってみせた。 「別に謝ることはありませんよ。私も分別ある人間ですから、仕事の都合に怒っても仕方ありません」 分別がある人間は恋人の部屋に蛍光ピンクのペンキを撒き散らしたりはしないと思ったが、ナワーブは黙って頷いた。 「今夜はもう仕事はないんでしょう?食事をしたらあなたの家で寝たいです。明日は午前の講義があって、絶対起きないとそろそろ単位が危なくて」 男はナワーブの首元にそろりと手を伸ばし、乱れた襟を整えながら言った。そのついでに冷たい指先が甘えるように首筋を引っ掻くのを、ナワーブは片手で咎めてゆっくりと押し返した。言いたくない。心底口にしたくはないが、仕方がない。 「今日は一緒には帰れない」 「帰れない。‥‥‥どうして?」 こんなことを言われるとは思っていなかったのだろう。男は目をまあるくさせながら、子どものようにナワーブの言葉を繰り返した。 「今日終わらせないといけない仕事が増えたんだ。俺だってお前を連れて帰るつもりでいたが、こればっかりはどうしようもない」 「どうしようもないって、あなた、二週間も私を放っておいて。出てくる言葉がそれですか」 「だから悪いと思って、こうやって時間をつくっただろ」 「まるで私が面倒だから本当に嫌々仕方なくつくってやったみたいな言い草!」 「そんなこと言ってない」 「あなたの、その、態度が!そう見えるって言ってるんです」 「わかった、分かったから声が大きい」 男の声はどんどん大きくなっていくし、良い大人の男二人が駅前で言い争いをしてる姿はさぞ目立っただろう。慌ただしく側を横切る人たちの視線を次々と背中に感じて、ナワーブはやっぱり上手くいかなかったと空を仰ぎたくなった。本当に男のことを面倒だとしか思っていないのなら、わざわざこんな無理をして時間をつくったりなんかしないし、もっと言えば恋人になんか絶対にしない。ナワーブだって少しでも顔を見て声が聞きたいと思って、恋しいと思って過ごしているのに、この男にはちっともそれが分からない。 こうして言い争いをしても無駄に時間が過ぎていくだけだ。どうにかして癇癪を一度なだめて食事に引きずろうと思案したとき、男がやけに神妙な口調でぽつりと呟いた。 「指輪が欲しいです」 車のクラクション、ビル広告から流れる音楽、通り過ぎる人の話し声。 駅前の雑踏の中では簡単に埋もれて消えてしまいそうな男の声は、その瞬間ふしぎと耳にはっきりと届いた。今度はナワーブが驚く番だった。見上げた先の男の表情は想像していたよりも穏やかで、アーモンド色のひとみを少しだけ細くさせながらナワーブのことを見下ろしていた。 「指輪って、なんの」 「ティファニー」 「今か」 「絶対に今欲しいです。それさえくれたら私、あなたの仕事が落ち着くまで何週間、何ヶ月だって大人しく待ちます」 ナワーブは慌てて腕時計を見た。二十一時半を少し過ぎたこの時間では路面店もデパートもすでに閉まっているだろう。しかしそんなこと男には関係ないのだ。自分のことを本当に好きならば、やれないことなんてないだろうという表情でナワーブのことを今も見下ろしている。 「無理だ、もう店が全部閉まってる。お前がそれで安心できるって言うのなら、明日また時間をつくるよ。必ずだ」 「ナワーブ君もよくご存知だと思うんですけど、私ってすっごく気が短いんです。明日なんて到底待てませんよ。今この場でくれないって言うのなら、私、そこの交差点に転がって暴れてあなたの名前を叫びながら泣きわめきますから」 「はあ?」 ナワーブはいよいよギョッとして背中に嫌な汗が流れた。自分の身なりと他人の視線を何より気にするこの男が本当にそんな馬鹿げたことをするだろうかという考えと、この男ならやりかねないという考えが頭の中で一瞬のうちにぐるぐると渦巻いていった。 慌てて見上げた男の頰に、どこからか反射した赤いネオンの光がうっすらと横切っていく。そこに歪んだ雫のようなものが映っていて、ナワーブは咄嗟に男の手を引いてからだを屈ませて、頰に手をやった。湿気のせいで少しだけしっとりした男の頰は、だけども濡れた感触は少しもなかった。ネオンと一緒に雨粒が反射していたのだと、ナワーブは後になってようやく気づいた。男は急に手を引かれて驚いたのか、ぴたりと大人しくなっていた。 「本当に泣き出したのかと思った」 ナワーブはそのまま男の頰を軽く撫でた。男は少しだけ気まずそうに視線を横に逸らした。 「こんなことで泣きませんよ、子どもじゃあるまいし」 「子どもはティファニーの指輪を欲しがらないしな」 「それも、ええ、別にいいですもう。時間がないんでしょう早く食事に、」 「いいよ。薬指にはめようか」 男の腕を掴んでいた手を離して、今度はその手を握りながらナワーブは雑踏の中をずんずんと歩いていく。手を引かれて後ろを歩く男が何事かと焦っているのが分かる。それがなんだか面白くて、ナワーブは気づかれないように口の端を上げた。いつもならどんなにねだられたって街中で手を繋いだりなんかしないけれど、今はもうそんなことはどうでもよかった。二週間も恋人に会えなくて気持ちがやられていたのは、もしかしたら自分の方だったのかもしれない。 交差点を突っ切ってセンター街を少し横に入ったところに目当てのものはあった。大きなゲームセンターの前に並べられたガチャガチャの機械を一つずつ目で追って、端っこの方にひっそりとたたずむそれに百円玉を三つ入れる。お前がやるか?という意味で隣に視線をやると、男は未だに戸惑った様子で小さく首を振った。 ガタガタッと鈍い音と共に出てきたそれはルビーを模したような、大きくて真っ赤なガラス玉の指輪だった。ナワーブの目から見てもこれ以上ないほどチープなそれは、男にしてみたらよっぽどのものだっただろう。嫌だと言ってもはめる気でいたが、実物を見たら少しだけ気が引けてきて、 「今はこれしかあげられないから、お前がもし、」 「私、これがいいです」 これでいいなら──と続けようとした言葉を、男が慌てて遮った。 「やっぱりやめたとか、無しですから」 「‥‥‥左手、出して」 素直に差し出された左手に指輪をはめる。男の痩せた細い指に指輪���少し大きくて、ぐらぐらと不安定に揺れていたが、男はガラス玉の指輪が自分の指にはまったのを見て、満足そうに目を細めた。 「良いですね。安っぽいけど悪くない」 「ティファニーがいいなら明日も時間をつくるけど」 「気にいったのでしばらくはこれで良いです。でも少し緩いから手直ししないと」 「自分でやれるか」 「美大生の端くれですから、それくらいなんとかします」 「偉いぞ」 ナワーブがこういう言い方をするといつもは機嫌を悪くするのだけど、男は満更でもなさそうな表情をして、少し屈んで両目を閉じた。男がここまで素直でしおらしくなるのはやっぱり珍しい。
男のくちびるからは湿った夏の夜の感触がした。 ナワーブはそこでやっと彼が急いで指輪を欲しがった理由が分かって、くちびるを合わせながら小さく笑った。
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ファースト・スプリッツァ
学生最後の夏休みにどうせなら遠いところに行ってみたいと言ったのは范無咎の方だった。例えば?と聞くと彼は、「それは考えてない」とあっけらかんと答えた。何でも言い出すのは彼の方なのに決まって中身を考えてこないから、その後のことを決めるのはいつも謝必安の役目だった。旅行雑誌をいくつか買い込んで眺めているときに、たまたま目についたのがクリムトの絵画だった。美術書ではもう何度も目にしている���実物を見るいい機会かもしれない。ウィーンに行きたいと言うと、彼は考える間もなく、「そうしよう」と言った。この男、きっとウィーンがどこの都市かも分かっていないに違いない。 少しは真面目に考えてくれとこぼすと、男は困ったような顔で笑った。「君と遠くに行けるのなら、本当にどこでもいいんだ」すまないと謝る男の横顔を見た途端、さっきまでの小さな不満は泡のように消えていった。どんなに小さなことでも嘘や誤魔化しを絶対にしない彼のことを、謝必安は心の底から好きだと思っている。
初めて訪れた欧州の旅はとても素敵なものだった。故郷にはない石造りの豪奢な街並みに、聞き慣れない異国の言葉、ふしぎな甘い匂い。隣を歩く男はその全てに大げさなくらい感動していた。顔には出さないが謝必安だって、もちろんそうだった。 お金がない学生の貧乏旅行だったので、分け合えるものはなんでも二人で半分にした。彼は肉が好きだからシュニッツェルは彼が少し多めに、自分は甘いものが好きだからザッハトルテは自分が大きい欠片を。何を言わなくとも、互いの手は自然にそうやって動いた。 夕食は宿の近くの小さなレストランに入った。石畳の上をトランクをごろごろと転がしてい���ときに、綺麗な赤色の看板が自然と目に入ってきたのだ。彼もそうだったのだろう、二人は同時にその看板を見上げて、それから互い��向き合って笑った。 店の中には地元のお客らしき人がちらほらと食事をしていた。出迎えてくれた若い女性の給仕は二人の姿と手にしているトランクを見るなり少し驚いた顔をして、「ヴィルコッメン!」とにこやかに笑いかけてくれた。どうやら観光客が来るのは珍しいことらしい。トランクを置く場所がないからテラスでも良いかと店の外を指されて、二人は同時に頷いた。 八月のウィーンは夕方でも首元からじわりと汗が出るような暑さだったが、とてもからりとしていて気持ちが良いものだった。 「同じ夏でも大違いだな」 地元の茹だるような蒸し暑さと比べていたのだろう。男はそう言って美味しそうに炭酸水をゴクゴクと飲み干した。 「お昼に食べたお肉、ジャガイモに甘いソースがかかってるの驚いたなあ」 「君、変な顔してたもんな。俺も一口目は驚いたけど、嫌いな味ではなかった」 「お前は好き嫌いがないからね。腐ってなければなんでも美味しく食べるだろ」 「そんなことは‥‥‥いや、あるかもしれんが」 「ふふ。お前が美味しそうに食べてる姿を見ていると、僕までお腹いっぱいになってくるよ」 「君はちょっと偏食がすぎる。チョコレートだけでは何の栄養にもならないぞ」 「小言は帰ってからにしてくれよ。夕食くらいは少し贅沢をして色々頼もうか」 「あっ、俺これが気になってた」 ガイドブックの単語帳を片手に、二人はなんだか美味しそうな気がするものをあれこれと頼んだ。あんまり勝手に頼むので、それを聞いた給仕は時々それを遮って違うメニューを指差してこっちの方が良いと助言をしてくれた。多分あまりにも肉料理が被りすぎているとか、そういう理由だったのだろう。運ばれてきた料理は葉物のサラダに始まり肉、魚、スープとバランスよくテーブルの上に並んだ。運ばれてきた料理はどれも美味しかったけれど、その全てに甘酸っぱいソースがかかっているのを見ては、二人で顔を見合わせて密やかに笑い合った。 煮込み肉の最後の一切れにフォークを刺していると、目の前の男がふと店の中を指さした。 「なあ、あれなんだと思う」 彼の指の先には一人で食事している老父の卓に置いてある、ワイングラスがあった。丸みをおびたつるりとしたグラスの中には透明の綺麗な水のような液体が入っていて、涼しげに氷が浮かんでいる。 「炭酸水じゃない」 「でもその横にボトルが置いてある。なあ、あれ氷が入ったワインじゃないか」 「そんな飲み方ある?」 「欧州は面妖なことばかりだ。ワインに氷を入れていてもおかしくない」 皿を片付けにきた給仕に彼は早速その飲み物のことを尋ねた。たどたどしいドイツ語をなんとか聞き取ってくれた彼女は、説明するより飲ませた方が早いと思ったのか足早にその場を去って、厨房からグラスとボトルを持ってきてその場でそれを作ってくれた。 ワイングラスの半分に白ワイン、それから炭酸水と氷とレモン。なんとかというカクテルらしいけれど名前は上手く聞き取れなかった。給仕の、さあ飲んで!という視線に押されて、二人はぐびっとそれを飲んで、それから「グート!」と笑い合った。その姿は若い女性の給仕にどう見えていたのだろうか。「ブルーダー?」という彼女の問いに二人は���ばらく顔を見合わせて、それから小さく首を振った。自分たちは良い友人であり良い兄弟であり、間違いなく良い恋人だった。 白ワインのカクテルを二人はあれから何度もおかわりをして、店を出る頃には鼻歌でも歌い出しそうな陽気な気分になっていた。もしかしたら少し歌っていたかもしれない。 「ねえ、手を繋ごうか」 その言葉に隣を歩く男が怪訝な顔をしたのが分かった。 「こんな街中で?」 「街中だからじゃないか。僕たちが住んでる小さな村じゃない。だから咎める人なんていないし、何より僕たちのことなんて誰も気にしてないよ」 夜が深まりつつある街外れの人通りはまばらだった。手を繋ぐ若い男女、酒瓶を片手に談笑する学生たち。大きなトランクを引いて歩く観光客のことなど、彼らの視界にはちっとも入っていないことは明らかだった。 男は少し考えてから、やがてゆっくりとトランクを持つ手を入れ替えて、左手を空けてくれた。謝必安はその手をゆっくりと取って、酔いで熱くなった指をぎゅっと握った。彼の指はしばらく困ったように宙をさまよっていたけれど、やがて同じように謝必安の指を強く握りしめた。 「お前が遠くに行きたいと言ったときに」 「うん」 「辛い思いをさせているかなって、少し泣きそうだった」 謝必安の手を握る指先にぎゅっと力が入った。そうではないのだと、男は小さくぽつりとつぶやいた。 「君と一緒にいれるなら、後のことは何でもいいんだ。本当に」 からりとした異国の夏の空気を吸うたびに、謝必安は地元の蒸し暑いうんざりするような熱気を思い出す。見渡す限りの山と緑、とてつもなく広いはずなのに、二人で生きるのにはあまりにも小さく閉鎖的なあの村。数日後にはまた戻らなくてはいけない。二人で並んで歩く帰路では、もうこうやって手を繋ぐことはないだろう。 「ねえ、ウィーンは気に入った?」 「まあ、それなりに。肉は美味いし、冷たいワインも良かった」 「じゃあお前が卒業したらまた来ようか。なんなら住み着いても良いね」 「慣れない土地では君が飢えて死ぬだろう」 「お前と一緒にいれるなら、甘いソースがかかった肉もちゃんと食べるよ」 信用ならない言い草に男はしばらく眉をしかめて黙々と前を向いて歩いていたが、やがてぴたりと足を止めて謝必安の方にからだを向けた。トランクを地面に置いて小さく深呼吸をすると、おそるおそる謝必安の薄い背中に手を回してぴたりとからだをくっつけた。 謝必安は驚いて彼の腕が背中に回って、自分のからだを抱きしめるのを呆然と見ていることしかできなかった。一呼吸遅れて彼の背中を同じように抱きしめる。頬をなでるように風が吹くすばらしく気持ちが良い夜に、肌を寄せ合うことがこんなにも心地良いのだと謝必安は初めて知った。 「聞いたからな。約束は違えないでくれ」 彼の言葉は異国の空の下でも、変わりなくまっすぐだった。 謝必安はその言葉にしっかりと頷いて、背中を抱く腕に力を込めた。
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素晴らしい夜
その日はそう、特別に心が浮き足立ってたのだ。 ここ数日自分を苦しめていた大きな課題がやっと終わったというのもあるし、その評論会で教授陣にそこそこの評価を貰ったから、というのもある。とにかく晴れやかで清々しい気分だった。 裸婦画が描かれた四十号のキャンバスを鼻歌混じりに抱えて歩いていたとき、珍しく同級生に声をかけられた。物腰は柔らかいが付き合いが悪いと入学してから今日まで文句を言われ続けている自分に、こんな風に誰かが声をかけてくるのは本当に珍しいことだった。 さっきまで一緒に評論会に出ていた油画科の男は、同じようにキャンバスを抱えながら、「お金もいらないし、好きなだけ食べていいし飲んでいいし、飽きたら帰っていいので一瞬だけ飲み会に来てくれ!」と目の前にやってくるなり勢いよく頭を下げた。その拍子に彼のキャンバスが鈍い音とともに床にぶつかって、ジャックは驚きながらもそれを持ち上げて支えてやった。 「いま、飲み会って言いました?」 新歓から学期末の打ち上げまでジャックがそういう騒がしい付き合いには一切参加しない、というのはこの男も知っているはずだった。顔を上げた男は随分と気まずそうな顔をして、 「モデルをお願いしたい彫刻科の女の子がいるんだが、ずっとお断りされてて、お前も飲み会に連れてくるなら考えてやってもいいって言うんだ」 「なんだって私を」 「お前の顔が好きなんだろうさ。あの子が作る作品ときたら毎回彫りが深くて端正な顔をした……いや、この話はいい。とにかく俺の次の作品はお前にかかってるんだよ。これっきりだから!人助けだと思って!頼む!」 男はもう一度思い切り頭を下げて、キャンバスが床にぶつかる音が廊下にひびいた。 普段の自分であればいつも通り誘いを断っていただろう。少しかわいそうな気もするが、だからと言って自分が時間を割いて助けてやる義理もない。だけどこのときの自分は、特別心が浮き足立っていた。目の前で学友がこんなにも必死に頭を下げているのだから、少しくらいつき合ってやってもいいんじゃないかと思うくらいには。 善行などを気にして生きてきたことはないが、たまには人の役に立つと言うのも悪くない。そう思ってジャックはひとまず悩むような仕草をしたあとに、「君がそこまで言うのなら」と恩着せがましく笑って頷いて見せた。頼んではみたものの、イエスと返事がもらえるとは思ってもいなかったのだろう。男は信じられないという顔をして、それからやっぱりキャンバスを床にぶつけながら深々と頭を下げ続けた。
男に連れられて来たのは、いかにも金がない学生の溜まり場という風なチープな居酒屋だった。恋人にこんな店を案内されたなら、横っ面をぶん殴って一ヶ月は無視を決め込んでやるような、ジャックの嗜好にはかすりもしない店だったが見物気分で来てみると思っていたより面白い。ドリンクが全て殴り書きで壁一面に貼られていたり、ビールケースを積んで無理やりテーブルに仕立てているのも、一周回ってなんだか味わい深い気がする。 席にはすでに数人が飲み会を初めていて、ジャックがやって来たのを見るなり皆一様に驚いた顔をした。その中でもひときわ目をまあるくさせた女がいた。綺麗な銀髪をした小柄な女、これが例の彫刻科の子だろうとジャックはなんとなく目がいったというような装いで、彼女ににこりと笑���かけた。 今まで興味がないし騒がしいのはごめんだと思って避けていた飲み会も、行ってみればなかなか面白いものだとジャックは驚いた。心底憎らしい鬼教授の話から、次の展示会の作品、最近流行りの音楽の話まで彼らは次から次へと話題を変えてあれこれと話し、ジャックがふしぎそうな顔をすれば丁寧に教えてくれた。薄いレモンサワーや、やたら濃い味付けの焼き鳥も慣れればそう悪いものではなかったし。浮かれた学生しかいない空間には、これこそがぴったりなのだと思った。 顔を見せて一杯飲んだら帰ろうと思っていたのに気づけばそろそろ終電という時間になっていた。ポケットで震え始めた携帯を取り出してふと見えた時間にジャックはびっくりした。それから着信先の名前を見て、まずったぞとくちびるを舐めた。どう電話に出ようかと悩んでいるうちに着信が切れれば良いと思っていたが、一向にバイブが止まないのでジャックは仕方なく携帯を持って店の外へと出た。 「お前、いまどこで何してるんだよ」 ボタンを押して聞こえたのはうんざりしたような声だった。 「ええ、その、同じ学科の方たちと一緒にいまして」 「お前が学校の奴らと?珍しいこともあるもんだ」 「評論会が終わったでしょう。たまには皆さんと一緒に話すのも悪くないと思って、今回の作品について積もる話を色々としてたら……こんな時間に」 「なら連絡を一つ入れてくれ。お前の言うなんたらってワイン、一時間は探し回ったぞ」 「すみませんナワーブくん。忘れていたわけではないんですけど、いま思い出しました」 「それを忘れてたって言うんだよ。どうする、明日にするか?」 「お祝いですから今日飲まなくては。ねえ、迎えに来てくださいよ」 「……十分後に出る。住所を送っておけ」 電話が切れたのを確認して、ジャックはほっと息を吐いた。 昨日、まだ制作の修羅場にいる中で調子はどうだとかかってきた恋人からの電話に、ペインティングナイフを握りながら癇癪を起こしたことを思い出す。もうだめだ、絶対完成なんかできっこないなどの弱音を吐き散らし、これが終わったらなんたらってワインが飲みたいとごねた記憶がある。そのワインの名前はすっかり忘れてしまったけど。 律儀な恋人がその名前をメモして仕事終わりに探し回っている姿を想像すると、ジャックは途端に愉快な心持ちになった。あれほど楽しんでいた飲み会もすっかりどうでもよくなってしまった。ナワーブに最寄りの駅の名前を伝えて、男には「もう帰ります」とだけメールを送る。携帯をポケットに戻して、心地よい夜風の中をジャックは鼻歌混じりで歩いて行った。 駅に着いた数分後にはロータリーに見慣れたバイクがやって来て、ジャックは小走りでそこに駆け寄った。男はヘルメットを外しながらこちらを見るなり、「酒臭いな」と言って露骨に眉をしかめた。 「少しだけ飲みました」 大嘘だった。お金を払わないのを良いことに、あれこれ頼んで綺麗に飲み干してきたから自分��も少し酔っている自覚がある。目の前の男にもバレバレなはずだが、男はそれについては何も言わずにヘルメットを差し出した。 「お前にも友人がいたんだと安心した」 「私をなんだと思っているんですか。華の大学生ですよ、友人の一人や二人いますとも」 「今度菓子折りでも持たせようかな。こんな性格に難しかない男と、つるんでくれてありがとうございますって」 バイクに跨りながらカラカラと笑う男の背を締め付けるように腕を回したが、彼はぴくりとも反応せずバイクを走らせた。そのままにしていると自分の腕が痛くなるばかりなので、早々に力を緩めて暖かい背中にぴったりとからだをくっつけた。 「課題はどうだった」 「そこそこです。教授たちの評価も悪くなかったし。今度あなたにも見せて差し上げますよ」 「お前の絵は俺にはよく分からんがな」 「あなたみたいな単純な男によく分かられたら、それこそ困ります」 男の背中に鼻をくっつけると、嗅ぎ慣れたソープの匂いがした。外仕事の男は家に帰ると必ず一番にシャワーを浴びるのだ。 「初めて飲み会というものに行きましたが、意外と良いものですね。レモンサワーがシャリシャリしてるんですよ」 「楽しかったなら今日じゃなくても良かったんだぞ」 「声を聞いたらあなたに会いたくなったんです。いじらしい恋人のこの気持ちがわかりませんか?朴念仁め」 「お前って奴は本当に都合が良い男だな……」 呆れた声で言う男に、ジャックはふんと鼻を鳴らした。そういう男をすき好んで選んだのはそっちの方だ。 火照った頰に夜風が気持ち良く、嗅ぎ慣れたソープの匂いはジャックをとても安心させた。良い夜だと思った。 「嫌ならそう言ってくれても良いんですよ」 「本当にそうしたら癇癪起こして泣くくせに」 「失礼な!そんなことで泣きません」 「お前の我儘で試されると俺はほっとするよ。ああ、まだ好きでいてくれるんだなって」 男の言葉には嫌味も悲しみもなかった。本心なのだろう、穏やかにそんなことを言うからジャックはなんて返せば良いのか分からなくなって、ぎゅうと腕に力を込めた。 「あなたが嫌だって言わないのを見ると、私だってほっとします。まだ好きでいてくれるんだって」 男の返事はなかった。高速から見えるキラキラとした街の光を眺めながら、大きく息を吸った。気に入っているミントのソープも、ジャックが無理やり言ってバスルームに置かせたものだ。男はその時も何か言いたそうなそぶりをしたが、結局何も言わずにそれを受け入れた。それが子供のような独占欲だということも、彼はきっと分かっているだろう。 「帰ったらまずシャワーを浴びたいです。あなたが髪を洗ってくれたら、とっても嬉しいんですけど」 男の返事はしばらくなかった。信号を二つほど通り抜けたところで、「シャンプーを切らしているかもしれない」という気まずそうな声が聞こえてきて、ジャックは思わず声を上げて笑ってしまった。やっぱり今日は素晴らしく良い夜だ。
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手つかずの世界
──夜��ゲームが終わったらまたお部屋に伺いますから、紅茶を温めておいてくださいね。 気に入りの香水を膝裏に吹き掛けながら男がそう言ったのは数時間前。 彼は今夜の最後のゲームの招待状を受け取っていて、夕方までずっとナワーブの部屋のベッドで惰眠を貪っていたのをそろそろ起きろと引っ張り出してやった時の言葉だった。ゲームまであと二十分もないぞとナワーブが言うと、彼はふわりとあくびをしながらくしゃくしゃになったシャツを床に放り投げ、すでに部屋主の倍以上のスペースを占領しているクローゼットから真新しいシャツといつもの深緑のコートを手に取った。コートのポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると、もう一度小さなあくびをしながら爪先でちょいとナワーブのことを呼んだ。
「シャツのボタン、お願いできますか。それからネクタイも」 お願いできますか、とは言うものの彼はナワーブがそれを断るとはちっとも思っていないようだった。返事を気にする素振りも見せず、左手の鉤爪の具合を熱心に確認している。 「ネクタイはいつもの色でいいのか」 「ええ、構いません」 側に寄ると、男はボタンに手が届きやすいように少し屈んでくれた。前までは言ってもこちらの都合なんて気にしてくれなかったのに、忍耐強く言い聞かせれば進歩もするものだとナワーブは少し感心する。ボタンを全てとめて、クローゼットから黒のネクタイを手に取る。屈んでもらっていてもこのままではさすがに結べないのでベッドに座るように言うと、男は大人しくさっきまで寝転がっていたそこに腰を下ろした。 「今日のゲームはとても楽しめそうです」 招待状を眺めながら男は機嫌良さそうに言った。 「やりやすそうな相手だったのか」 「いえ、私の狩りを邪魔する方達ばかりですが‥‥‥みなさん女性なんです」 「それは、お誂え向きだな」 「ええ!最初に誰を見つけても胸が高まります。こんなに素敵なゲームなら、もう少し気の利いた格好をした方が良いでしょうか」 「時間がないからやめておけ。何を着ていてもお前は最高のリッパーだよ」 「あなた、ネクタイを結び直すのが面倒なんでしょう。白々しいセリフですが、まあ、間に受けてあげましょう」 「そりゃあ有難い」 きゅっと最後に小剣を引っ張り上げて、これで良しとネクタイから手を離す。ゲームのちょうど十分前、これなら余裕を持ってこの部屋を出してやれそうだ。 男は一通り身嗜みを確認したあと、最後の仕上げに香水を軽く吹きかけながら、ナワーブに冒頭の言葉をかけたのだ。
自分の勘はよく当たる、とナワーブは思っている。戦場での一瞬の判断から、今日の夕食のメニューまで、なんとなくそうだろうなと頭によぎることがしっかりと当たるのだ。仲間たちはそれを決まって、「野生の勘だ」と言うが、目の前の男はそれを馬鹿馬鹿しいと笑う。 この男が今夜ここに戻ることはないだろうという予感があった。ふしぎなことにそれはほとんど確信に近いものだった、だからナワーブはその言葉に曖昧に笑うしかなかった。その態度が男は気に入らなかったらしい。微かに歪んだ頬に冷たい爪先がそっと食い込んだ。 「相変わらず、変な笑い方」 「放っておいてくれ」 「いってらっしゃいのキスがほ��いです」 「それは、必ずここに戻ってくる奴にすることだろう」 ぷちっと嫌な感触がした。爪先が柔らかな肌を食い破って少しの鉄の匂いが鼻先をかよった。 「私の言葉を信じていないんだ。ひどい人」 「俺はいつだって信じてるよ。ただ、お前がそうしてくれないだけ」 「なんて詭弁!」 爪先が食いこんで、コツンと何かに当たる。鈍い痛みの中で、頬骨をかすめたのだとナワーブはぼんやりと思った。痛いと一言声に出せば男は慌てて爪を引くだろう。いつだってそう、衝動と欲のままに生きているから自覚がすっぽりと抜けているのだ。だからこれは仕方のないことだとずっと前から諦めはついている。楽しいゲームを終えた男はその興奮と衝動のままに、誰か気に入った女に声をかけるだろう。言葉巧みに、表情豊かに彼は女を誘う。そしてジャック・ザ・リッパーの誘いを、どうやったって女は断れないのだ。 もう一度コツンと音がして、男はようやく自分の爪が目の前の男の頬肉をえぐっていることに気づいた。爪はゆっくりと引き抜かれて、男は怒りをはらんだ小さなため息をついた。 「あなたは私のことを困った殺人鬼だと思って、侮って、仕方ないと諦めていらっしゃる。」 ナワーブ思わず眉をしかめた。それを見て、男は楽しそうに鉤爪を揺らした。 「私はあなたのことをほとんど信じていますけど。あなたは私の言葉をちっとも信用できない。‥‥‥あなたのそういう冷たいところ、私は結構好きですよ」 あなたのお気持ちを尊重して、キスは我慢しますね。そう言って男は足取り軽く部屋を出て行った。僅かな香水の残り香だけが、いつまでもそこに残って消えなかった。
*
結局ゲームが終わって一時間経っても、日付��変わっても、朝日が登り始めても男がこの部屋に現れることはなかった。ベッドに腰掛けて窓を眺めていたのをやめて力なく横たわるとすぐに眠気がやってきて、ナワーブは知らない間にまぶたを閉じていた。 次に目覚めたのは、それから数時間経った頃だった。陽は完全に登っていて、カーテンから白い光が漏れている。 彼のために淹れたお茶は魔法瓶にうつしかえてサイドテーブルに置いていた。まだ重いからだを無理やり動かしてそれを手に取った。 すっかりと軽くなっている魔法瓶の重さに、ナワーブはどうしようもなく悲しくなった。
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春とキンヒバリ
──私は授業の準備があるから先に寝ていていいよ その言葉に素直に頷いてベッドに入ったのが三十分前。彼は昨日も同じことを言ってノートンをリビングから追い出し、明け方まで仕事をし、赤い目をしょぼしょぼさせて大学まで出勤していった。 そんなだから今日は早く寝なよと夕食をとりながら釘を刺して、彼はすました顔して言われなくともという返事をしていたのに、蓋を開けてみればこれだ。��ートンのことを子どもだと思ってふだんはあれこれうるさく口を出してくるくせに、自分のこととなると途端にだらしなくなるのが彼だった。 さすがに今日は早く寝るだろうと思っていたけど、この調子じゃまた朝までパソコンにかじりついているかもしれない。適当に眺めていた携帯をベッドに放り投げて、ノートンは寝室を抜け出した。 真っ暗な廊下の向こう側で、リビングの明かりが煌々と輝いていた。近づいてみてもカサリとも音がしないので、まさかソファに座ったまま寝落ちているんじゃないかと思っていると、獣のような低い呻き声が聞こえてきて、ノートンは小さくため息をついた。 ノートンが勉強に煮詰まったときはやれやれという表情で息抜きの重要性(と彼は名付けている)を説くのに、自分のこととなるとやっぱり実践できないのだ。 パソコンと資料の山と文字で埋め尽くされたノート。それらを睨みつけながら唸り続ける男の後ろにそろりと滑り込み、細い首元に腕を回す。彼は心底驚いたのか声すら出さず肩を大きく揺らして、慌てて後ろを振り向いた。 「びっくりした。心臓が止まるかと思ったぞ」 ノートン姿を確認した男はほっと息をついて正面へ顔を戻した。 「いつまで仕事をやるつもり?昨日も遅かったんだから、今日は寝ないとだめだよ」 「あと少しなんだよ、ここが終わればすぐにでもベッドに行ける」 「さっきも同じこと言ってもう三十分たったけど。今日はもう寝て、朝に続きをやったほうがいいんじゃない」 ノートンの鼻をくすぐる彼の髪はしっとりと濡れていて、シャンプーの良い匂いがしていた。髪はちゃんと乾かすようにいつも言っているのに、少し目を離すとこれだ。 男はかつかつと指でテーブルを叩きながら、「でもしかし...」とか「本当にあと少しで...」みたいなことをぶつぶつと呟いている。 首に回していた腕を滑らせて、形の良い耳を指先でなぞると彼は少しだけからだをふるわせて、ノートンの腕に頬をすり寄せた。疲れているときの彼は仕草がどこか小動物のようになるのが可愛らしい。 本当は力づくでもベッドに引き摺り込む算段だったのだけど、こんな風にすり寄られるとどうにも気が引けてしまう。睡眠を取った方が良いとは分かっている、だけど彼がいま一番望んでいるのはこの仕事をしっかりと終わらせることなのだ。 「少しだけ散歩に行きましょうか」 その言葉は口からぽろりと溢れた。 「散歩」 「昼間暖かかったからそんなに寒くはないと思います。気分転換なりますよ」 「君も一緒に?」 「なんであなた一人で行かせるんですか。当たり前でしょう」 呆れたようなノートンの言葉に、彼は充血して真っ赤になったひとみをぱちくりとさせた。
*
玄関を出ると生温い春の風が頬を撫でた。 昼間吹いていた強風でアパートの庭に植えてあるリンゴの木の葉っぱが玄関前埋め尽くすように散っていた。男はそれを眺めて、 「春になったんだね」 と少し驚いたようすで呟いた。 三月に入ってから今日までずっと忙しなく働いていた彼は、もしかしたら今初めてこの街にも春がきたことに気づいたのかしれない。 午前一時の住宅街は不気味なくらい静かだったけれど、暖かい夜風のおかげで穏やでもあった。自分と隣に歩く男は玄関を出てから無言のまま石畳の小さな路地を歩いた。この道をずっと右に曲がっていると、最後にはアパートに帰れることを二人とも知っていた。 男は路地のすみっこに咲く花や、時々風に揺れる木をぼおっと眺めていて、時々暗闇の中に動く小虫を見つけると、「キンヒバリだね」などと簡単に正体を教えてくれた。雛に餌をやる親鳥のように、自分の知識をノートンに分け与えるときの彼の声はとても好きだ。この人は僕のことを好きなんだってその声を聞けばいつも分かるから。 隣で揺れている彼の手を握った。昼間にこんなことはできないけれど、今だったら許されるかなという小さな期待があった。 「忙しいのが落ち着いたら、りんごの花を見にいきましょうね」 返事はなかった。 ひんやりと冷たい男の手が、ゆっくりとノートンの手を握り返していた。
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Winter
沸騰した鍋にパスタの束を放り込んで、さあ茹でようと思ったところでそれは不意にノートンの視界の隅に入ってきた。無地の柔らかい紙に数字が整然と並んでいるだけのカレンダー。几帳面なこの部屋の主人は、1日が終わるたびにそこに鉛筆で斜線を引いている。既に22日まで線が引かれたカレンダーを見て、ノートンは「あっ」と小さく声をあげた。 「ねえルキノさん」 リビングのソファに沈みながら分厚い本と睨めっこをしていた男はしばらく顔を上げてくれず、それから数十秒ノートンが沈黙を守ったところで、ようやく一つに結んだ三つ編みを揺らしながらこっちを向いてくれた。 「私のことを呼んだかな」 家に帰ってから飲み食いも喋りもせず、ひたすら熱心に本を読んでいた男の声は少しだけかさついていた。 「呼びました。でもまずあなたはお水を飲んだ方が良いですね」 手元にあったグラスを手に取りジャバジャバと水を入れて男に手渡す。よほど喉が渇いていたのか、男はそれを一口であっという間に飲みきった。 「麺を茹でてる匂いがする」 「もうすぐ夕飯ですよ。それで、麺を茹でていたら気づいたんですけど、あなた二十四日の予定は?」 「二十四日?‥‥‥今日は二十三だから、明日‥‥‥ああ、明日はゼミのクリスマスパーティだね」 「‥‥‥ゼミのクリスマスパーティー」 むん、と背中を伸ばしながら男は、 「ちょうど外に講演会を聞きに行くことになっていてね、ついでだからそのままクリスマスを祝おうかという話になった」 ノートンはそうですかと頷きながら、男が受け持っているゼミ生たちの顔を思い出す。「爬虫類の進化分類学」というびっくりするほどつまらそうなゼミに入っている先輩たちを一通り頭に浮かべ、クリスマスに何の予定がなくとも不思議ではないなと早々に思い至った。 「だから君とは二十五日に一緒に過ごそうと思っていたのだが、言ってなかったかな」 「聞いていませんが問題ないです。僕もバイトが入っていますから」 「クリスマスまでバイトだなんて、大変だねえ」 それはこっちの台詞だと思いつつ、ノートンは空になったコップを受け取った。キッチンに戻る間に急いでポケットから携帯を取り出してメールを開く。バイト先のマスターに「明日はラストまで大丈夫です」と用件だけのメッセージを送ると、ものの数秒で返事が返ってきた。「失恋?」とだけ表示された画面を見て、ノートンは小さく舌打ちをしながらポケットに乱暴に突っ込んだ。
*
彼について人に話すとき、「それって本当に恋人なの?」と聞かれることがよくある。 そんなとき、ノートンは決まって一瞬言葉を詰まらせ、当たり前じゃないかというようなことを口にしようとして、最後にはすべて飲み込んで曖昧に笑ってしまう。彼と一緒にいる時間が長くなるにつれ、ノートンはよくそうやって笑うことが増えた。 例えば、昼間に手を繋いでポルティコの下を歩いたり、クリスマーケットをホットワインを飲みながら回ったり。そういう二人を恋人と呼ぶのなら、自分と彼はどうしたってその枠に入れない。そんな姿を誰かに見られたら彼はまず間違いなく大学を追い出されてしまうし。そうでなくとも、そもそも彼は「普通の恋人らしい行為」というものに興味がない。彼の形の良い頭蓋骨の中は未知への探究心と爬虫類への好奇心ですでにほとんどを埋め尽くされていて、ノートンはそこになんとかして自分を入れてもらおうと意地汚く努力を続けて、そうしてやっと今の関係を手に入れたのだ。 ノートンが曖昧な笑みを浮かべると、友人やバイト先のマスターは必��「フゥン」という表情をした。そして次に「訳ありなんだ」とどこか労わるような、お節介じみた言葉を口にした。彼らがどんなラブロマンス映画を思い浮かべているのかノートンには想像もできないけれど、訳ありだなんてまったく馬鹿らしい話だ。自分と彼の関係ほどシンプルなものはないと思う。ただ言葉にするには少し寂しい、それだけのことだ。
「なんだ失恋したんじゃないのか」 ガラスの小さなグラスを揺らしながらマスターはあからさまになあんだという表情をした。 オレンジの綺麗な色のウイスキーは彼の一番のお気に入りで、予約がたくさん入っている日なんかはお水のようにゴクゴクと飲んでしまう。栄養剤だよと彼は言っているけれど、そのせいで五回に一回はメジャーカップからシロップを零すので止めてほしいと思っている。 「ご期待に添えず申し訳ないですけど、あっちに仕事が入ったってだけなので」 「クリスマスイブも仕事だなんて働くねえ‥‥‥まあ、それを言ったら私も君もそうなんだけど」 「ジョゼフさんは、あれっ、今は独り身でしたっけ」 「失礼だね君。誘えば飛んでくるような婦人は何人もいるよ」 「独り身なんですね。‥‥‥でもこんなに予約が入ってるとは思ってなかったので、これはこれで良かったかな」 マスターは眉を顰めて、 「勤勉なのは良いことだけど、学生がそんなこと言うもんじゃないよ」 となぜかノートンをたしなめた。 駅からマッジョーレ広場に向かう途中の道を少し逸れた、小さな一本道にあるこのワイン���ーには二年前からキッチンとして週に四回バイトをしている。この辺りは学生街で、安くていっぱい食べれる大衆料理屋が人気なのだけど、ここはお酒もつまみも少し値が張るいわゆる「ちょっといい感じのお店」だ。小さなカウンター席も、二つしかないテーブル席も普段は満席になんてならないのだけど、クリスマスイブの夜はすでにどの時間も予約で席が埋まっている。おかげでノートンは予定より二時間も早く店に呼び出され、ボウルいっぱいのジャガイモの皮むきをするはめになった。隣では同じように呼びつけられたフロアのトレイシーまでもが玉ねぎのみじん切りにかり出され、ポロポロと涙を流しながら玉ねぎの山をつくりだしていた。 「そうだよノートン!なんだって僕が、こんな、クリスマスに、玉ねぎのみじん切りをしなくちゃいけないのさ!」 「ボーナス出すからってナワーブにも声をかけたんだけど、どうしても予定があるから無理って断られたから。悪いねトレイシー」 「くそっ!あいつ絶対女だよ!この前ロシアンテキーラした時に、恋人がめちゃくちゃロマンチストでクリスマスもすごく楽しみにしてるから今から準備が大変って酔っ払ってニヤニヤしてたもん!」 「げっ、在庫の数が合わないと思ってたらまた君たちそんなふざけた遊びを」 「ノートンの彼女はさあ、仕事人間って感じなの?」 マスターの言葉を遮ってトレイシーがノートンをちらりと見る。 「仕事人間というか、趣味を仕事にしたみたいな人だから。純粋に楽しくて仕方がないんだよ」 「ふーん」 最後の玉ねぎを切り終わったトレイシーは真っ赤になった目元を袖で擦って、 「それで、君はそういうとこを好きになったんだ」 たいして興味もなさそうに呟いた。ノートンはジャガイモに包丁を入れながら小さく頷いたけれど、彼女は気づかなかっただろう。 あの人を好きになったきっかけを思い出す。 それは何か一つの大きな衝撃だったかもしれないし、もしくは小さな発見の塊だったかもしれない。始まりを思い出すのが難しいくらいに、出会った日からどんどん増えていった。柔らかいオレンジ色の髪、ジャムの瓶すら開けるのに手こずる大きくて非力な手、考え事をするときの静かな横顔、笑うと目尻にできる繊細なリネンのような皺。頭のてっぺんから爪先まで、挙げろと言われればいつまでだって口にできるくらい、本当にたくさんあるのだ。 ノートンがそれを言葉にすると、あの人はいつもなんだか困ったような表情をして笑ってしまう。それから、「私も同じだよ」と薄くて冷たいくちびるを額にくっつけてくれる。たくさんの場所でたくさんのキスをしてきたけど、この小さな子どもを相手にするようなチープなキスがノートンは一番好きだ。 一度だけ少し意地悪なことを言ったことがある。熱心に本を読んでる表情が好きだとノートンは言って、彼はいつもの言葉を返してくれた。暖かいベッドの中だったと思う。ノートンの額はうっすらと汗が滲んでいて、くちびるを落とした彼はついでにぺろりと舌を出して、「しょっぱいね」と笑っていた。 ──私も同じだって言うけど。 ──けど? ──僕、熱心に本を読んだことなんかないよ。 ノートンの言葉に、彼のオレンジのひとみがまあるくなる。 彼を困らせたいというただ���意地悪なのだけど、これは本当のことだった。ノートンは勉強が好きだし、本だって人並みには読むけれど彼のように食事も忘れてかじりつくように読書をしたことなど一度もない。そもそもノートンが本を読むのはテストで良い点をとって奨学金をもらうためであって、知識が欲しい、知るのが楽しいという彼の純粋さとは根本的にかけ離れている。 オレンジ色のひとみはまあるくなったあと、ノートンを小馬鹿にするかのようにゆっくりと細くなった。 ──そりゃあ君は熱心に本を読まないが。 囁くような小さな声だった。 ──熱心に私を見るし、さわってくれる。その欲求の熱は私が本を読むのと全く同じものだ。だから私は想像できる、君がもし熱心に本を読むことがあるならこんな表情をするんだろうって。そして私は君のそういう表情がとても好きだよ。 ノートンは驚いた。彼はこうして時々、とんでもないことを言ってノートンを驚かせる。 どんな言葉を返せばよいのか分からないノートンを見て、彼はくちびるをつり上げた。ずるい大人の表情だった。いつだって欲しいときに欲しい言葉をくれるような、気のきいた恋人ではない。クリスマスの予定を一人でさっさと埋めて、次の日は一緒に過ごそうかなんて平気で言ってくる人だ。だけど、誰も知らないノートンのことを一番に見つけて好きだと言ってくれる、優しい人だった。
*
七時の開店と共に店はあっという間に満席になり、いつもとは違う賑わいをみせた。 扉のベルを鳴らして店に入ってくる人たちはみんな夜の冷たい空気と、クリスマスイブの陽気で頬を赤くさせていた。扉が開くとキッチンの奥にまでほんの一瞬冷たい冬の匂いが流れてきて、頬に触れるたびノートンはどこにいるのかも分からない恋人のことを思った。 ディナーコースは提供するものが決まっていてすでに準備はできていたのでキッチンはそんなに慌ただしくはなかったのだけど、あちこちの卓からお酒の注文が止まないのでノートンは珍しくフロアの手伝いに回ることになった。お皿を下げて、注文を聞いて、ワインを注いで。休みなく動く途中、トレイシーが申し訳なさそうに目配せを何度もするので、片手を上げながらノートンはやっぱり今日はラストまで入って正解だったなと思った。 十一時を過ぎるといったん注文の波が止んで、二人は久しぶりにキッチンに奥に戻って一息つくことができた。テーブル席の客はついさっき二組とも帰っており、今はカウンターに数名お酒を楽しんでいる人が残っているだけだ。 「疲れたあ‥‥‥こんなにテキパキ動いたの、運動会ぶりだよ」 テーブルにべったりと頬をつけて座り込むトレイシーに、マスターはまかない用に取り分けてあったチキンのグラタンを差し出した。 「お疲れ様。それ食べたらもう上がっていいよ、あとはノートンがなんとかしてくれるから」 「やったーグラタン!でもまだお客さんいますよね?僕もラストまでいけますよ」 「女の子を日付を越して帰らせるわけにはいかないだろう。もう遅いからタクシーで帰って、領収書もらってきて」 「ジョゼフさんこんなに優しいのになんで彼女ができないんだろう」 「君は頭が良いのにいつも一言余計だね、静かに食べてさっさと帰りなさい。ノートンも食べ終わったらフロアに戻ってきてくれ」 用件だけ告げてマスターは駆け足でカウンターへと戻った。 「ノートンありがとうね。僕一人だったら回らなかったよ」 大きな口でグラタンを頬張りながらトレイシーが笑う。 「トレイシーも玉ねぎ手伝ってくれただろ。お互い様」 「ノートン食べるの早いから、先にこれ渡しちゃうね」 そう言ってトレイシーはポッケからごそごそと取り出したものをノートンに渡した。 「カイロ?」 「今日帰り遅くなるかなーってたくさん持ってきてたの。ノートンもあったかくして帰ってね」 「ありがとう、カイロなんて持ってきてなかったから、すごい助かる」 「よかった!‥‥‥使い捨てカイロって大丈夫だよね?彼女さん的に。イブに渡したとはいえ、使い捨てカイロだもんね?」 急にはっとした表情をして慌てだしたトレイシーに、ノートンは思わず笑ってしまった。 「全然大丈夫。そういうの全く気にしない人だから。多分僕がカルティエの財布とか貰ってきても平気な顔するよ」 「えー‥‥‥それは逆に困っちゃうね」 「もう慣れたから。カイロ本当にありがとう、僕はもう戻るから、気をつけて帰って」 笑顔のトレイシーに見送られながら、ノートンはカイロをポケットに入れてキッチンを後にした。
すでに残っているのは常連のお客さんたちだけとなっていた。 喧騒が去った店内はさっきまでの熱気を知っていると少しだけ寂しく感じられたけれど、静かであたたかい幸福があった。ふしぎな雰囲気だった。いつも赤ワインを好んで飲む上品な身なりの夫婦は珍しくシャンパンを頼んでいて、見慣れた透明の泡さえもが、まるで天国にある水か何か、素晴らしく美しいもののようにノートンの目に映った。 シャンパンを熱心に見つめていたノートンに気づいたのは老紳士の方だった。いつもは赤を飲んでいるからふしぎに思われたのだろうと彼は、「イブは特別だからね。昔からシャンパンを飲むと決めているんだ」と言った。 「ふしぎですね。見慣れたシャンパンだけど、今日は特別美しい飲み物のように見えます」 紳士はノートンを見上げて、朗らかに笑ってみせた。
深夜十二時半。 お店はさっきまでのあたたかさを残したまま、フロアの明かりが落とされていた。 スツールに腰を落とすと、一気に疲労感がやってきて今夜の忙しさをノートンはしみじみと感じた。あんまり忙しいので途中からは恋人のことなんてすっぽり頭から抜けていたほどだ。生徒とのパーティーなら夜通し開催しているということはないだろう、彼もそろそろアパートに帰っているだろうか。考えると無性に彼の声を聞きたくなって、そんな自分に驚いた。センチメンタルにもほどがある。明日会えるのだから、今夜の数時間がなんだと言うのか。 「お疲れ様。今夜は本当に助かったよ、片付けは明日に回すからもう上がって大丈夫」 心なしか肌や髪がくたびれたマスターは、 「あと、これ持って帰りなさい」 そう言って大きな紙袋をカウンターに置いた。 まかないの残りだろうかとのそりと体を起こして中を覗く。そこに見えたつるりとした綺麗なボトルに、ノートンは思わず声を漏らした。 「えっ」 「常連さんが君にって。詩的な言葉を貰ったから、そのお返しだってさ。‥‥‥君の口から詩だなんて、私には想像つかないけど」 引っ張り出したボトルは老夫婦が飲んでいたものと同じだった。緑色のボトルに、金色の美しい装飾が控えめに光っていた。ノートンは次にこのボトルの値段を思い浮かべた。こんな気軽に貰っていいような値段ではなかったはずだと眉をしかめている間に、マスターはノートンのコートや荷物をぽいぽいカウンターへと投げ捨てて、さっさと帰れとノートンをせっついた。 「でもジョゼフさん、僕こんな高いもの受け取れません」 「私だったらやらないさ。だけどあの人があげるって言ったんだから、素直に貰っておいたら良いよ」 「でも‥‥‥」 「さあ!さっさと帰ってくれ!私もこれから用事があるんだ、楽しい用事がね!」 コートもろくに着させてもらえないまま、ノートンは紙袋を押し付けられあっという間に店から追い出されてしまった。 外はとびきり冷たい風が吹いていて、ノートンはたまらずコートに袖を通してメインストリートへと駆け出した。冷たい夜の空気と一緒に、お店に漂っていた幸福の残り香が街にも溢れていた。ふしぎなことに足は広場をまっすぐ駆けて、自分のアパートとは反対へとぐんぐん進んでいった。 揺れる視界のあちこちにピカピカと電球の灯りがテールランプのように光り、すぐに後ろに流れて消えていく。紙袋を両手で抱えたまま走るから時々石畳につまずきそうになった。あの人のアパートが見えて、二階の角部屋に明かりがついていないのが分かると、足はのろのろとスピードを落として古い階段の前でぴたりと止まってしまった。 肩を上下させながらノートンは一階にあるポストにおもむろに手を突っ込んだ。そこに紙の感触があるのを確かに確認してから、ゆっくりと古い階段を登った。廊下を歩いて一番奥の部屋まで歩き、人の気配が少しもしない扉に��を預けてずるりとそこに座り込んだ。 背中に触れる扉も、コンクリートの地面も、抱えたシャンパンも全てが悲しいくらいに冷たかった。あれだけ街に漂っていた幸福の匂いはもうしない。視界には相変わらずピカピカと光る電球が映っているけど、それがノートンを少しだけ、本当に少しだけ悲しい気持ちにさせていた。 期待していたわけじゃなかった。だって、約束なんてしていなかったし。 誰にたいしてなのか言い訳のような言葉をノートンは胸の内でずっと呟いた。そして百個つぶやき終わったら、すっぱりと諦めて帰ろうと思った。それから二十個目でもう吐き出せる言葉がないことに気づき、呟くことも止めた。あの人が聞いたらカラカラと笑っただろう「だから本はたくさん読みなさいと言っただろう!」って。 もうそれでも良いし、ここに来てくれるのならなんでも良かった。だって今日はクリスマスで、自分たちは恋人なんだから、それくらい願ったってバチも当たらないだろうに!
「ルキノさんのアホ」 「誰がアホだって、うん?」
ぎょっとした。 紙袋を放り投げそうになって、慌てて抱え直した。勢いよく上を向くと、ずっと会いたかった恋人の姿があった。ノートンが立ち上がるよりも早く、ルキノはその場にしゃがみこんで大きな手でノートンの頬を触った。 「どのくらい待ってたんだ。かわいそうなほど冷たいぞ」 「あなたが帰ってくるのが遅いから」 「連絡をくれれば良かったのに。気分を悪くした子がいたから、家まで送りに行ってたんだよ」 「そりゃあメールをすれば良かったんだろうけど、‥‥‥いや、そうだね。そうすれば良かったね」 何を言っても自分のわがままにしかならないことは知っていた。イブだからなんて、自分が淡い期待を勝手にしただけなのだから。 ノートンが口を閉じると、ルキノは白い息を吐いて困ったように眉を下げた。怒られるかと思ったけど彼は何も言わず、代わりに冷たくなったノートンの頬を労わるように撫でた。 「その紙袋は?」 「常連さんから貰ったシャンパン」 「それは素敵だね」 「あなたにあげるとは言ってないよ」 「意地が悪いな、君。じゃあこれと交換しよう」 ルキノの手がノートンに小さな何かを握らせた。冷たい感触に思わず手が震えた、恐る恐る視線を落とすと銀色に光るピカピカの鍵���あった。傷ひとつない、作りたての鍵だった。ノートンは慌てて顔をあげた。その瞬間、くちびるに一瞬だけ冷たいものが触れた。彼のお気に入りの赤ワインの味が僅かに残っていた。どこもかしこも冷たかったけれど、彼の舌はびっくりするくらい熱くて、ワインの味がして、街に溢れていた幸せの正体がそこにはあった。夢中でそれを追っていると、彼の指がノートンの腕を痛いぐらいに掴んだ。鼻で息をするんだよと教えてくれたのには彼なのに、なぜかそれを実践できないのも彼だった。
くちびるを離してお互いに大きく息を吸った。 冷たい鼻先をくっつけながら聞く彼のメリークリスマスは今まで聞いたこともないくらいに、とびきり美しい発音だった。
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ラストダンス
血の女王を歓迎するための舞踏会はどこからともなく聞こえてきたヴァイオリンによるワルツから始まった。館の住人たちは朝も夜も問わず踊り、疲れたらワインを飲み、ケーキをつまみ、眠くなったらソファに転がり‥‥‥各々好き勝手に宴を楽しみ続け、今日で三日目を迎えようとしていた。
「ナワーブ、僕もう疲れたし踊りも飽きたよう」
長机に散乱している食器を乱暴にどかして、ぐったりと肘をついたままトレイシーは言った。
「今日で最後だろ。女王さまに目をつけられない限りはこうしてゆっくり過ごしてればいいさ」
「あの人本当すごいよね。みんなを巻き込んでこんなに大きな宴を開いて、三日踊り続けてもピンピンしてる!僕なんか関節があちこち痛いよ」
「お前は普段運動しないからな」
「だからナワーブがペアで助かったよ。君があんなにダンスが上手いと思わなかった!」
数日前、舞踏会のペアにとトレイシーに声をかけたとき彼女はしかめ面をして、「僕はダンスなんてできないよ」と吐き捨てた。それでも誰かと組まなければいけないのだからと彼女を説き伏せ、試しに簡単なステップを踏んでみると、確かに全然踊れないのだった。だから言ったでしょと彼女は眉をしかめたけれど、あの柳のようにのっぽな殺人鬼とステップを踏むことに比べれば、ナワーブにとってはなんてことのないことだった。
頭の回転が早い彼女はナワーブが指示を出せば、もたつきながらも正確に足を出して、くるりと回ることができた。思考に体がちゃんとついてくるようになると、トレイシーは見事にワルツのステップを踏めるようになっていた。
「褒め言葉かそれは」
「褒めてるよっ、ギャップにびっくりしたってこと!例えばリッパーが踊りが上手いのはさあ、そりゃあそうだよねって思うでしょ」
「はは、そうだなあ」
リッパー、という言葉に笑ってしまいそうになった。
踊りなんてできない!と癇癪を起こしていた男は、ナワーブが一晩練習に付き合うと「なあんだ、足を出して回るだけなんですから造作もないですね」と笑ってさっさと自分の館に帰ってしまった。元々センスがあったのか、早々に彼のステップは様になっていたがそれはナワーブが極力男の動きに身を任せていたからだ。本番でヘマをしなければいいけどと思っていたが、白いドレスで着飾った女王の手を引いてダンスフロアで踊る男の姿を見てそれは杞憂に終わった。
「あっ、見て。噂をすればリッパーだよ」
トレイシーが指差す方に視線をやると、女王と並んでいる男の姿が見えた。金色の流動体をキラキラとさせながら優雅に彼女の腰に手をやる姿には、あの日ナワーブの前で癇癪を起こした男の面影は少しもない。
女王の一番のお気に入りは写真家だったのだけど、彼は一日中踊りに付き合わされ辟易したのか二日目からは、「この素晴らしい舞踏会の時間を写真に収めなければ」と言って写真機からぴったりと離れなくなってしまった。それで次に女王が目につけたのが霧の殺人鬼だった。
「スレンダーな人たちが踊ると様になるね」
「トレイシーだって随分と様になってたぞ」
「そりゃどーも!‥‥‥あれっ、二人ともこっちに来るよ」
「まっすぐ向かって来てるな」
朗らかな笑みを浮かべた女王は男の手を引いたまま軽やかに二人が座るテーブルへとやって来た。
「御機嫌よう。二人とも楽しんでいらっしゃるかしら」
「おかげさまでとってもね!」
トレイシーの乱雑な返事を疑う素ぶりもなく、女王は満足気に頷いた。
「わたくし、ちょっと喉が渇いたのよ。葡萄酒をいただいたらまたフロアに戻るから、それまであなた、ムッシュのお相手をしてくださる?」
そう言って自分に微笑みかける女王の表情を、ナワーブはびっくりしてまじまじと見つめてしまった。
「俺が、誰と踊るって?」
「だってあなた、私が彼と踊るのを昨日も今日も飽きもせずずっと見ていたじゃない」
彼、というのはもちろん彼女の後ろですまし顔をしている男のことだろう。確かに視界に入れば姿を追うくらいのことはしていたけれど、そんなにあからさまだっただろうか。
「舞踏会は今日で最後だもの。ぜひ楽しい思い出をつくって帰ってちょうだいね」
彼女の細くて真っ白な指がナワーブの腕を掴む。見た目からは想像もつかないような力で椅子から引きずりおろされて、あっという間に男の隣に追いやられた。女王は素早くナワーブがどいた椅子に腰掛けると、ひらひらと手を振って二人をフロアへと送り出した。
「俺ってそんなにあからさまだったかな」
「ええ、それはもう。何かの採点のようにずっと見てくるものだから、居心地は良くありませんでしたね」
「でもお前、すごい上手に踊れてたよ。びっくりした。トレイシーも言ってたよ、」
その言葉に男の歩みがピタリと止まった。モノアイがぎゅるりとこちらを向いて、
「私と踊るのにほかの女の名前を出さないで」
不機嫌そうに言うのでナワーブは思わず笑ってしまった。
「悪かったよ。情緒がなかったな」
「そんなものあなたに期待する方がバカですけどね。ねえ、一曲踊ったらこっそりフロアを抜け出しましょう。一晩中踊りに付き合わされてさすがの私も疲れました」
ステップを踏みながら男は自然な動作でナワーブのからだを引っ張り上げ、耳元で囁いた。
「抜け出してどうするんだ」
「いつもの中庭に行きます。ワインは飽きたので私が紅茶を淹れてさしあげますから、一息ついたら今日が終わるまで‥‥‥オルゴールを鳴らして一緒に踊りましょう」
殺人鬼の提案にしては、それはとってもステキなものだった。
「お前にしては良い案だな」
「舞踏会なんてくだらないと思っていましたが、まあそれなりに愉快でしたし。今日が最後の夜ですから、ねえ」
なんだか歯切れの悪い男の言葉に、ナワーブが笑う。ありがとうと素直に言えないのが、彼の数少ない人間らしさでもある。
ワルツはチェロの小さな余韻を残して終わった。次の音楽が流れるひと呼吸の間に、二人は静かに夜の荘園へと消えていった。
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ムーン・リバー
午前零時過ぎの森は冷たく静か。だけどまあるい月が空に浮かんでいるおかげで、辺りはぼんやりと黄色い明かりに照らされいた。 リッパーがそれを口に出したのは突然だった。庭で一緒に紅茶を飲んでいたら突然、「あなたが泳いでいる姿が見たいです」なんて言うから、ナワーブは思わず眉をしかめた。どうして、なんで、という質問をこの男にするのは無意味だ。彼の欲や衝動は突拍子も無いことが殆どだけれど、そう思うに至った経緯について彼は考えるということをしない。やりたいからやる、見たいから見る、本当にそれが全てなのだ。 湖景村に行くか、と聞くと男は首を振った。もっと水が綺麗であなたがよく見えるところが良いと言うのでナワーブは荘園にある知る限りの水場を思い返した。湖景村の海が駄目なら遊園地の川なんて絶対に嫌だろうし、他にどこか良い場所があっただろうかと考えて、一つだけ思い出したのがこの森だった。 館を背にして大樹が太陽の光さえ遮る暗い森をずっと進んだ奥深くに、小さいけれど水底までよく見える澄んだ湖沼がぽつんと存在していた。明るい時間であれば、水面が周りの木々を写して青緑色に揺れているのが見えるのだけど、今この湖沼を照らすのは微かな月明かりだけなので水面は深い緑色で、その真ん中にぽってりとした満月が写っているのが見えるだけだった。 「こんな場所、よくご存知ですね」 「この前野ウサギを追っていたらたまたま見つけた」 「ウサギがウサギを追いかけている姿、私も拝見したかったです」 「それで、良いのかここで?」 「ええ、月明かりであなたのこともよく見れそうですし。さあさあ!早く泳いで見せてください」 男の声は楽しそうに弾んでいた。 ナワーブは上着とシャツ、靴をぽいとそこら辺に投げ捨ててズボンだけの格好になるとグッと腕を空に伸ばした。その腕をそのまま回して、何度か屈伸をする。軽い準備体操をしているだけなのに、男は面白いものを見るようにニコニコ(実際は目も口も笑っていないのだが、ナワーブにはそう感じられる)しながらその様子を隣で見下ろしていた。 最後にその場で軽く跳ねて、からだがちゃんと動くことを確認してからナワーブは湖沼を振り返る。 「なあリッパー」 「なんでしょうか」 「暗くてよく分からないだろうけど、ここ結構深い湖沼なんだよ」 「ふぅん」 「だから俺が沈んだきり浮かんでこなかったら、頼むわ」 男のモノアイがぎゅるりとこっちを向いたのを感じながら、ナワーブは勢いよく水面へ飛び込んだ。
しゅわしゅわと泡が水面へ上っていく音。身を刺すような冷たい温度。 目を開くとぼやけた視界の真ん中で黄色い光が見えた。その光がだんだん遠くなっていくのを見つめながら、ナワーブは自分を下へと沈ませる水圧に身を任せていた。騒々しい水音が段々と消えていくと、その代わりに何か別の音が聞こえた。厚い膜を隔てたようにぼんやりと届くその音は、誰かの名前を呼んでいるように聞こえた。笑みが溢れる代わりに口元から小さな泡がぽこぽこと溢れていく。 ぎゅんっとからだを翻して、両足で思い切り水を蹴る。からだはあっという間に水面へと上がっていく。ナワーブは水面へ手を伸ばすと、そこから湖沼を覗き込んでいるだろう男の襟首をしっかりと捕まえて思い切り水の中へ引っ張った。 さっきとは比べ物にならないくらい大きな水音がして、視界は一瞬で湧き上がる白い泡でいっぱいになった。パチパチと生まれては消えていくその中で、男の銀の流動体がキラキラと光っているのが見えた。襟首を浮かんでいた手を男の手が無理やり剥がそうとする。泡の隙間から見えるモノアイがこっちをジロリと睨みつけている。騙したな、という苛立った視線にこぽりとまた口から泡が漏れた。 襟首を軽く引っ張ると、男のからだはびっくりするほど簡単にナワーブの元に近づいた。こっちを睨んで逸らさないモノアイの横にキスをして、もう一度両足を思い切り蹴る。 水面から顔を出して大きく息を吸うと、 「ウサギのくせに私を騙しましたね」 「騙してないさ。お前が勝手に勘違いをしただけ」 「一張羅なんですよ。それをこんなびしょ濡れに‥‥‥」 「悪かったよ。でもほら、こっちのほうが泳ぎがよく見えるし、それに」 「それに?」 「頭の位置が同じだから、俺からいくらでも、したいときにキスができる。‥‥‥ステキだろ」 リッパーはしばらく流動体の手を揺らして考え込んだあと、「確かにそれは素敵ですね」と笑った。
彼の手がナワーブの腕に絡みつくと、二人はもう一度水底へと音を立てずに沈んでいった。
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ファミリー・コンプレックス
朝起きたとき、からだが少し重かった。 朝ごはんを食べると、喉が痛んでいることに気づいた。柔らかいクロワッサンのかけらが喉を通るたび、ちくっちくっと痛みがして、エマはいつもよりずっと時間をかけてそれを食べきった。今日の朝食はミルクとクロワッサン。デザートには新鮮なオレンジが切り分けられていたけどエマはそれをこっそりとお皿の端っこに寄せてシンクへ戻そうと席を立って、 「あらっ、どうしたのエマ」 急に後ろ聞こえた声にエマは少しだけ肩を震わせた。 「エミリー、おはよう」 「おはようエマ。朝食を残すなんて珍しいわね」 「なんだか喉が痛くて。でもからだは大丈夫、今日のゲームも問題ないの」 にっこりと笑ってみせたけど、エミリーは眉を下げてエマを見つめていた。朝食のプレートをテーブルに置いて、エマに近づくと白くてほっそりした指で額にそっと触れた。 「少し熱いわね」 「熱かな?」 エミリーの手はひんやりとして気持ちがよかった。そう感じると、ふしぎとからだがポカポカと熱を帯びたような心持ちになってきた。朝起きたときに感じたからだの重さの原因は、これだったのだ。 エミリーに手を引かれて、彼女の部屋で体温を測ると少しだけどやっぱり熱があった。疲れが溜まったのかしらとエミリーは言っていたけど、エマは多分昨日のゲームのせいだろうなと思った。雪が降る工場の跡地で、ハンターから身を隠すために、積もった雪にけっこうな時間潜り込んでいたのだ。おかげでその場はやり過ごすことができたけど、服は濡れるし、くしゃみはしばらく止まらないしであのときは大変だった。 エミリーに正直に言えばチクチクと小言を言われることは分かっているので、エマは彼女の言葉に曖昧に頷いた。 「エマはお昼のゲームよね。今日は私が代わるわ」 「エミリーに悪いわ」 「悪化して長引くほうが大変よ。ちょうど今日は何の予定も入ってなかったから、気にしないでゆっくり休んでちょうだい」 エミリーが優しい顔で笑うから、エマは少しだけ迷ってから、ありがとうと呟いた。
氷枕と体温計、薬と水差し、小さく切られたリンゴ。 ベッドの横のサイドチェストにはエミリーが置いていったものが整然と並んでいる。 薬は三時と十八時きっかりに飲みなさいと言われたけど、多分守れないだろうなと思っている。こんな明るい時間にベッドに包まっているなんていつぶりかしらと途方に暮れながら、エマはぼんやりと窓の外を眺めていた。寝なきゃいけないのは分かっているのに、目をつむっても眠れる気が全然しない。試しに羊数えてみたけど、六十匹を超えた辺りで馬鹿馬鹿しくなったのでやめた。 小さい頃、エマはよく熱を出す子どもだった。 外でたくさん走り回ったり、プールに泳ぎにいった次の日なんかは決まって熱を出して学校を休んでいた。 ママはそのたびにエマの真っ赤になったほっぺたに手をやって、「真っ赤なリンゴが二つもあるわ」と笑った。それからすりおろしたリンゴと、あんまり美味しくないジュース(ママは子どもの頃から、風邪を引いたら必ずこれ飲んでいたらしい)をつくって、エマが薬飲んで眠るまでずっと髪を撫でてくれた。ママの冷たくて柔らかい手は、魔法のように眠りに導いてくれるのだ。 美味しくないジュースも、ママの冷たい手もここにはないから、エマは一人で眠りにつかないといけない。それはなんだかとても大変で、難しいことのように思えて、エマはやっぱりぼんやりと窓の外を眺めることしかできなかった。 (秒針の音を、あと二十回数えよう。数え終わったら目を閉じて、眠気がくるのをじっと待とう) そう決めたときだった。 コツンコツン、と何かを叩く音が聞こえた。耳を澄ましてみると、どうやらそれはこの部屋の扉を叩く音のようだった。こうしてベッドにじっとしているときじゃなかったら絶対に気づかなかったと思うほど、あまりに控えめなノックだった。 ベッドを降りるのは億劫で、エマは喉を抑えながら、「どうぞ!」と客人に返事をした。そろりと扉を開けて部屋に入ってきた人の顔を見て、エマは思わず目をまあるくさせた。 「こんにちはウッズさん。‥‥‥風邪、お大事に」 まるで練習してきたかのような定型文を早口で喋った男は、それから右手に持った紙袋を小さく揺らした。 「カールさんが来るなんてびっくりしたの」 「ダイアー医師に頼まれました。あなたにこれを渡すようにと」 イソップはサイドチェストに紙袋を置いた。 「飴玉だわ。エミリーったら気を使いすぎね」 袋中にはカラフルな飴玉がどっさりと入っていた。ゲームに行く途中、喉が痛いというエマの言葉をふいに思い出して慌てて用意をしてくれたのだろうか。そんなとき、たまたま目に入ったのか周りをうろちょろしていたのが、この男だったのだろうか。 マスクをつけた男の表情は相変わらずよく分からない。ぴくりとも動かない眉は、面倒ごと頼まれて怒っているようにも、なんにも気にしてないようにも見える。どちらにせよ、他人の部屋にお使いを頼まれて良い気持ちじゃないだろうとは分かるけど。 エマが飴玉を覗き���んでいる間に、イソップは音も立てず部屋を出て行こうと扉へと歩いていた。 「あっ、待ってカールさん」 その後ろ姿をエマは思わず呼び止めた。イソップは少し驚いたように眉を動かしながらこちらを振り向いた。エマも、自分の口から出た言葉に驚いていた。 「飴玉をくれてありがとう」 「僕はダイアー医師が用意したものを運んだだけです」 「じゃあ運んでくれてありがとう」 「時間が空いていただけです」 「ねえ、ついでにもう一つ頼まれごとを聞いてほしいの」 「何でしょうか」 「私が寝るまででいいから、一緒にベッドにいてくれない?」 イソップはぱちぱちと瞬きをして、 「そんなことは耐えられません」 とぴしゃりと言った。 「ちょっとだけでいいのよ」 「ありえません」 「何がだめなの?私の隣にいること?他人のベッドに転がること?無為に時間を過ごすこと?」 「他人の側に長く留まっていること」 「それじゃあしっかり距離をとろう。‥‥‥アレキサンダーおいで」 部屋のすみっこ、自分の寝床で丸まっていたアレキサンダーは、エマの声にぴくりと尻尾を揺らして、あっという間にベッドへととびこんだ。 「この子を真ん中にするの。カールさんはベッドの端っこで、エマが眠るまで座ってて」 返事は聞かなかった。掛け布団の上でアレキサンダーがもぞもぞと丸くなるの片目に、エマは窓際の方にからだを転がして、同じように丸まった。 ベッドの横で立ち尽くしている男が部屋を出てしまっても良いと思っていた。どちらにせよ、エマは眠気がくるまでじっと目をつむっているだけなのだから。だから長い沈黙のあと彼がゆっくりとベッドをきしませたとき、エマはとても驚いて心の中で、「おおっ」と感嘆の声を上げた。何が彼をそうさせたのか分からないが、相当な決心だったに違いない。ベッドがきしむ音は、彼の心持ちを表すようにどこか神妙に聞こえた。 隣で丸くなるアレクサンダーの寝息と、イソップの微かな呼吸音はエマをとても安心させた。彼はベッドに軽く腰をかけたきりぴくりも動かず、置物のようにエマの隣にいてくれた。 「ねえ、カールさん」 「‥‥‥何ですか」 「カールさんが小さいとき、熱を出したらパパとママは何をしてくれた?」 しばらく考えるような間が空いたあと、 「母は歌をうたってくれました。ベッドの横で、僕が眠るまでずっと」 「どんな歌?」 「さあ‥‥‥なんだかゆっくりとした歌でした。三拍子で、ブラームスみたいな」 エマはブラームスが分からなかったけど、その風景を想像してみた。イソップはきっと母親似だ。だから彼のママも、真っ白な肌の、陽が当たるとキラキラ光る銀の髪の、目元の窪みが深く美しい女性だったのだろう。エマはイソップの指先を見たことがない(いつも手袋で隠れているし、彼は食事のときでさえそれを外さない)���れど、多分それは細くて冷たくて、指の腹が少し柔らかくて。彼のママも同じ指先で、イソップの髪を撫でたのだろう思った。 「パパは?」 「‥‥‥ジェイは、よく分からない味のジュースをいつもつくってくれました」 「あっ!エマもよ!私のママも、いつも変な味のジュースをつくってくれたの。今になっても、あれが何だったのか分からないままだけど」 「僕も分かりません。でも、とても変な味でした」 「ええ、とっても変な味だった」 「それからジェイは、早くよくなりなさいと額にキスをしてくれました」 「パパに触られるのは嫌いじゃないの?」 「それは、まあ、好きではなかったですけど、父親‥‥‥だったから」 「だったから?」 「親は、子どもに何をしても良いんですよ」 エマはベッドの端に丸まって、じっと壁を見つめていた。なのでイソップがどんな表情をしているかなんてちっとも見えないのだけど、彼が少し嬉しそうに頬を歪めていることは分かった。 「ふしぎな理屈ね」 「血が繋がってますから」 「血が繋がっているから、カールさんはパパとそういうことをしてたの?」 ギイ、と微かにベッドがきしむ音がした。アレキサンダーがぷう、と間抜けな寝言を漏らして、それからはしばらく無音だった。 「‥‥‥あなたにその話しましたっけ」 「去年のクリスマス。赤ワインで酔ったカールさんが中庭のベンチで話してくれたのよ」 あのときのことは今でもよく覚えている。 エマは中庭で自分が剪定した立派なモミの木を眺めていた。主幹が太くどっしりとしていて、てっぺんまで葉が綺麗な曲線になった良い木だった。飾り付けはエミリーとウィラがやってくれて、派手ではないけれど繊細でセンスの良い、素敵なクリスマスツリーになった。 エマが良い気持ちでそれを眺めているところに、男は突然ひょいとやってきたのだ。形の良い鼻先を少しだけ赤くした彼は三人分ほど間を開けてベンチに座ると、「良いモミの木ですね」と呟いた。モミの木の良し悪しなんて分かるのかしらと思いつつ、エマは笑顔で頷いた。特に話すことなんてなかったのだけど、せっかく一緒にいるわけだからと、「カールさんはクリスマスが好き?」と聞いてみた。お祭りごとに何の興味もないような人が、クリスマスパーティーで鼻を赤くしているのがおもしろくて、ふしぎだったからだ。イソップはモミの木のてっぺんを見つめていた。金色の星のオーナメントがそこには立派に輝いていた。そうしてイソップはやっぱりどこか嬉しそうな声音で、ジェイと過ごしたクリスマスのことをエマに教えてくれたのだ。
「それは、あまり正しい言い方ではないですね」 「そう?」 「ええ‥‥‥だって、違いますよ。血が繋がっていますから、ということは、子どもだって親に何をしても良いんです。だから、僕とジェイは、そういうことだったんです」 相変わらずこの男の言うことはさっぱり分からないなと思った。でも同時にすごく良く分かる、とも思った。 「それって、素敵な考え方かもね。今のエマには熱を出したとき髪を撫でてくれるママもパパもいないけど‥‥‥でも、そうなる前に、エマは二人に何をすればよかったのかしら」 「‥‥‥ウッズさん」 「なあに」 「眠らないんですか」 「眠るわ。でもちょっと時間がかかりそうだから、カールさんは帰ってちょうだいね。引きとめてしまってごめんなさい」 エマは今度こそぎゅっと目をつむった。彼はさっさとベッドから降りてしまうものだと思っていたけど、ふしぎなことにいつまでたってもじっとそこに腰掛けていた。ありえません、なんて言ってたのに、変な人。 意識がぷつんと途切れるギリギリに、すきま風のような、か細くて途切れがちの歌を聞いた。 それがエマがはじめて聞いたブラームスだった。
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ホワイトクリスマス
ナワーブがその男と出会ったのは身体の芯まで凍ってしまいそうな、冷たい夜の路地裏だった。 曲がり角を一歩踏み出すと、何か柔らかいものを捻り潰すような音が聞こえた。初めに目に入ったのは男の後ろ姿だった。闇夜に溶け込むトレンチコートの裾が楽しげにひらりと揺れていた。男は捻り潰したものを路地のコンクリートの壁に投げつけた。それは弱々しい音を立てながら壁にぶつかり、地面へと飛び散った。嗅ぎ慣れた鉄の匂いに、ナワーブは小さく息を吐いた。 「おや、見られてしまいました」 柔らかいテノール。男はナワーブに背を向けたまま歌うように言った。見られてしまったと言うわりに、男の声に焦りや動揺は一切なかった。彼の手が持っていた大きな塊をぽいと地面に放り投げた。くるくると巻かれた長いブロンドが地面に散らばって、まだ乾いていない赤黒い血を吸っていく。 「あなた、ジャック・ザ・リッパーをご存知でない?駄目でしょう、こんな真夜中にイーストエンドをうろついては」 「‥‥‥ついさっき、ここに来たばかりだから」 「ひどい訛り。どこからやって来たお客さんですか」 「アフガンから」 男は初めてそこでナワーブの方を振り返った。コートもシャツもネクタイも靴も、身につけてるもの全てが血と臓物の破片で汚れていた。痩せた頰の男はナワーブのことを上から下までじっくりと眺めて、それからくちびるの端を微かに歪ませた。 「これはこれは、軍人さんでしたか。アフガンからということは‥‥‥あの侵攻、いつの間にか終わっていたんですか」 「終わっていない、が、もうじき終わる。イギリスは負け続きだ、そろそろ妥協をするだろう」 「どうりで最近は新聞でも戦果が報じられないわけです」 「お前は何をしているんだ」 男はきょとんとした表情でナワーブを見つめた。それから血まみれの自分の手と、地面に転がった女の死体に交互に目をやって、 「見ての通りですが」 つまらないことを聞くな、という風に言った。 「戦争も終わっていないのに、あなたはどうしてこんな場所に?」 「お前に言う必要はない」 「ええ、そうでしょうとも。ですがこんな時間に路地をうろつくのは危ないですよ。私が男を手にかけない殺人鬼だから良かったものの、この辺りの治安は最悪ですから」 「殺人鬼なのか、お前」 「ええ!しかし心配になってきました。あなた行くあては?帰る家は?真冬のロンドンをこんな風にして歩いているなんて可哀想。私は今から家に帰りますが、あなたも良かったらいらっしゃいます?」 男の声は弾んでいた。名案です、そうしましょう!という独り言と共に、男は躊躇うことなく血に濡れた手でナワーブの片手を取った。その手をはね除けることも、振り払うことも簡単だったがナワーブはされるがままに男の手に引っ張られて路地裏を歩いた。 とにかくひどく疲れていた。帰る家がないのも本当だった。こんなところで凍死は嫌だな、とも思っていた。この男がたとえ殺人鬼だとしても返り討ちにすることは容易い。素振りを見せれば自分もそれに応えれば良い。そんな単純な思考でもって、ナワーブは男について行くことに決めた。 路地を四回曲がったところで男は「ここです」と言って古いアパートの階段を登った。外と同じくらい冷え切った部屋に入り、男は一番に暖房のスイッチを押した。それから電気をつけて、廊下に立ちっぱなしのナワーブを小さなソファに案内した。必要最低限の物しか置かれていない質素な部屋だった。唯一窓際の壁に立てかけられた金の飾りの姿見だけが、この部屋の主人の輪郭をわずかに示していた。 男はナワーブがソファに座るのを見届けてから隣の部屋へと姿を消し、身綺麗な姿ですぐにリビングへと戻ってきた。鉄の匂いと、花のような甘い匂いを一緒に漂わせながら男は、 「お腹空いてますか」 「空いてる」 「それではご飯にしましょう、私も動いたらお腹が減りました」 そう言ってカウンターテーブルの奥の小さなキッチンへと、鼻歌混じりで歩いていった。 「温めるだけなのですぐに用意できますよ」 跳ね返ったのだろう血が毛先で固まっている前髪がふわりと揺れる。手際よく鍋を温めて食器を用意する男の姿を、ナワーブはソファに沈みながらぼうっと眺めていた。部屋が少しずつ暖かくなって行くにつれて、鉄の匂いを塗り替えるように甘い牛乳の匂いがリビングに漂っていく。その匂いに鼻の奥が少しだけツンと痛んだ。生唾が自然と沸くような、食べ物の温かい匂いを、自分が久しく感じていなかったことを知った。 男の言葉は本当で、ナワーブがぼんやとしたり鼻の奥が痛くなっている間に、テキパキと食事の準備を終えて全てをテーブルへと運んでくれた。深皿には大盛りのシチューがよそられていた。ジャガイモとベーコンだけしか入っていない少し寂しいそれをナワーブに差し出した男は、なんだか申し訳なさそうな表情をしていた。 「気づいたら冷蔵庫が空っぽで、これくらいしか具材がなかったんです」 華奢な銀のスプーンを手にとって、たった二つの具材を掬う。一口目をゆっくりと飲み込んでから、ナワーブは二口、三口とひたすらにシチューを掬う手を動かした。無言のまま手と口だけを動かすナワーブのことを、男はその隣に座ったままじいっと眺めていた。大盛りのシチューはあっという間に空になって、ナワーブはそれをスプーンがカツンと皿を叩く音を聞いて初めて気がついた。隣に座る男はクスクスと吐息混じりの笑い声をあげながら、自分の皿とナワーブの皿を素早く交換してくれた。 「お腹が空いていたんですねえ。まだお鍋に残っていますから、おかわりもできますよ」 男の声は優しく、牛乳の匂いは甘く、自分のからだは温かかった。ナワーブは二皿めも無言でパクパクと食べた。ふしぎなことに、隣に座る男の髪先から微かに香る鉄の匂いが心地よかった。カツン、とスプーンがまた皿を叩いた。男は笑いながらナワーブの目尻を指でなぞった。 「私がつくったシチューは泣くほど美味しいですか」 びっくりして男の顔を見上げた。その瞬間、冷たい雫がナワーブの頰を滑り落ちていった。流れたのはたった一滴、それだけだった。 「たくさん食べて良いんですよ、今日はクリスマスですから」 「クリスマス?」 「そうですよ。だから私も殺しはお休み。あなたも、もちろんお休みです」 冷たさを感じた頰は暖房の熱気にあてられて、すぐに乾いていった。スプーンを握る自分の指がふと目に入り、その爪の中に赤黒い塊がこびりついているのに気がついた。随分と遠くまで逃げてきて、随分と時間が���ってしまった。だって今日がクリスマスだなんて、想像すらできなかった。 おかわりはいりますかと聞かれたので、小さくそれに頷いた。 目の前の窓に小さな影が降っていくのが見えた。クリスマスのロンドンに、雪が降り始めていた。
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