#三重��フェ
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mocomocon · 2 years ago
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地獄はここだぜ
ちょっと寄ってかねぇかい、お客さん(虚ろな目
以下A1漫画、第8話ネタバレ。
どうにかこうにかフェンちゃんがトカロント警備隊を説得し、一縷の希望を見つけたみんなではありますが、やはりフェンちゃんの傷は深く。そしてそれに気づくのはやはりクルースちゃんでね。
思わずこぼれ落ちる涙と嗚咽。それをぽんぽんとクルースちゃんがあやすシーンがとても好き。そして遠くから様子を伺っているビーグルちゃんに、フェンちゃんが手招きしてね、三人の無事を抱き締めあってわかちあう三人が最高すぎてな……どうしてこの三人の仲を将来(以下略
ここでアルバちゃんのフェンちゃんに対する信頼はMAXになるんですけども……二次災害は一回目よりも激しく、中層の天井が破壊されてしまいます。崩落する天井。暴風によって吹き飛ばされる人々。阿鼻叫喚とはこのことで、そして感染者地区のギャングであるレイ・シーがみんなを助けようと奮闘します。
崩落する天井が彼に落ちる。周りには心配する子供達。
俺は大丈夫だから、早く逃げろ。
そう言う彼の背には、大量の源石が表面化していました。
源石病の末期症状。このシーンに来る前に、彼がクルースちゃんに説明しているんですよ。
まずは、体表に大量の源石が発現するって。
そしてここで、子供を助けようとしたクルースちゃんが頭を負傷します。傷口から感染するのが一番危ないんですよ……ね……直接血中に入るから。でも私は、そんな傷をものともせずに子供を助けた彼女だからこそ好きです。
そして避難中に。空から降ってきた破片が、レイ・シーを貫き。みんなが駆け寄ったときには、両面が結晶化してしまっていました。
もう、助かることはない。それでも気丈に、みんなは生きろと最後まで助けようとする。フェンちゃんが伸ばした手は、ドーミンによって引き戻され、届くことはなく。彼は崩落する天井から皆を守りきり。最後に一言、アルバちゃんに残して脱落します。よく食べろよ、と。
テカロント感染地区で生まれ育った彼は、腹一杯にご飯を食べたことがありませんでした。この場所で力を得、生活をよりよくしようと働き、今はダメでもいつかは、とよき将来を望んだ、一人の男からの重い言葉。
アルバちゃんはね、二度親を失ったんですよ。本当の母親と、育ての親。こんなのあんまりじゃないですか。
だからね、彼女が錯乱してもしょうがない。ただ、不幸だったのは彼女が感染者で、きっとアーツを暴走させてしまったことなんです。
アルバちゃんは間違って穴に落ち、それを助けようとしたドーミンさんも一緒に落ち、フェんちゃん達はその衝撃で意識を飛ばして終わります。地獄か????
さあ、次いってみよう……(白目
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ohayocafe · 5 years ago
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OHAYO CAFE the 33rd
重要なお知らせ
天候不良により7/14 → 9/1 延期決定!改めて参加申込をお願いお願いします。
開催日時
2019年09月01日(日)開始 11:00 〜 終了 17:00 ※荒天等で中止の場合は適宜ご連絡します。
場所
多摩川河川敷(詳しくはアクセスを参照)
参加費
2,000円(ドリンク、フード含む) ※学生・幼児無料
参加申込
参加する方の名前(ニックネーム可)を渥美宛にお送りください。 申込期限:2019年08月30日(金)
OHAYO CAFEとは
OHAYO CAFE(オハヨーカフェ)とは、友を呼び集い一期一会を楽しむ水辺の茶会です。子どもから大人まで飲食をともにしておしゃべりを楽しんでいます。 名前は深夜0時から朝にかけて語らい、朝日を見ながらコーヒーを飲んで締めるという開始当初の流れを表しています。 縁あって集ったみなさん、楽しみましょう!
これまでの歩み
2002年の多摩川河川敷から始まり、三保海岸(静岡県)、朝霧高原(静岡県)、琵琶湖畔(滋賀県)、糸満市海岸(沖縄県)で開催しています。
持ち物
スニーカーなど歩きやすい靴(小石があって足場が悪い)
ポケットティッシュ (トイレットペーパーが切れた時に)
雨具(天気予報を見て)
マイコップやマイ箸(ゴミの少量化)
虫よけスプレー(周囲が草むら)
注意・お願い
すべてのゴミは持ち帰ります。喫煙する方は携帯灰皿を持参していただき、イベント終了後は原状復帰できるようにご協力ください。
飲酒する予定の方は絶対に車で来ないでください。
コンテンツ
OHAYO DOME
OHAYO CAFEのシンボルであり、場の中核となるシェルターです。部材から皮膜まですべて手作りです。一緒に設営設営しましょう!!
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KAME BAR
宇宙大使◯ムーンこと亀ちゃんが提供してくれるわくわくドリンクを味わおう!
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ふじかフェ
フジカさんが提供してくれるこだわりのどきどきコーヒーを味わおう!
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マーニャパン
マーニャが提供してくれる手作りのほわほわパンを味わおう!
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OHAYO KITCHEN
ハッチが提供してくれる手作りのぱくぱくフードを味わおう!
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KUCHU FLOATER
板に座っていっときの空中浮遊を楽しもう!
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SOBADATE
ハンモックに横になって目を閉じる。聴こえてくる音を味わおう!
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GASAGASA
���サガサで魚やエビとふれあおう!
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宇宙GATE BIGBAAN!
宇宙からお楽しみの場所に向かうゲート。小粋で楽しいムービーを撮る仕掛け。子どもから大人までバーンとゲートからど飛び出そう!
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タイムテーブル
09:00 設備搬入
09:30 OHAYO DOME設営
10:00 会場設営
11:00 OPEN
13:30 みんなで乾杯
15:30 コーヒータイム(by ふじかフェ)
17:00 CLOSE
18:00 撤収完了
19:00 二次会(渥美宅)
交通
電車・バスでお越しの方
東急田園都市線二子新地駅から徒歩7分、または二子玉川駅より徒歩12分。
自動車でお越しの方
会場近くの河川敷に駐車場(500円/日)があります。 多摩川緑地瀬田駐車場(多摩川河川敷駐車場)
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frmjetcity · 7 years ago
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認識過程の意識化とその組み換えのための言語活動 -「状況認識の文学教育」における客体の機能性に着目して-
はじめに
 近年、学校教育をめぐる議論では生徒の主体性の問題が活発に取り上げられている。2017年3月に公示された次期小学校・中学校学習指導要領においても、「主体的・対話的で深い学び」の実現に向けた授業改善事項が明記された。しかしその一方で、客体についての考察は放置されている印象がある。いたるところで主体的な態度の涵���が重視されてはいるが、例えば、対話的な活動を通してクラスメートの意見がどう受容され、どのような機能によって主体に影響を与えるのかといった研究はあまり見られない(田中実の「第三項理論」など、文学教育では主客の関係性を捉えなおす研究がなされるが、広く言語活動でいえばその手薄さは否めない)。児玉忠は、「主体的」の意味が「どの学習者のなかにもアプリオリに存在する(はず)、あるいは生成・成立する(はず)」のものから、「「客体」との関係、広くいえば「場(状況・環境)」のなか、あるいはその関係性のなかで相対的に規定され、生成されるもの」に変化したと指摘する。このことを考慮すれば、生徒の主体性を中心とするこれからの教育のために、客体の役割の明瞭化が求められるに違いない。 
 本稿が客体に関する考察を通して実現させたいのは、他者の心情を汲み取ろうとする態度の育成を目標とした授業理論の完成である。言語を用いた他者との対話能力は、近代以降の学校教育、こと国語教育において原理的で「不易」なものだが、同時に、様々な局面で分断が叫ばれる現代社会では今日的な「流行」でもある。自らの知識や技能、認識がローカルな「場(状況・環境)」に従属することを意識し、異なる文脈に属する他者の内面を誠実に受け止めようとする態度がなければ、混沌を極める社会を持続可能とする主体は現れない。第1章では、こうした柔軟で可塑的な主体を実現するための能力とその指導方法について、中央教育審議会やOECDの資料を基に検討する。
 今日の「主体的な学び」が、従来の没・主体な一方向の教育の超克を意図するならば、本稿で提案するのは脱・主体を目指す授業理論とその実践的方法といえる。脱・主体が意味するのは、第1に客体からの眼差しを意識化することであり、第2に客体を足場としてそれまでとは異なる主体へとジャンプすることである。この脱・主体の授業理論を組み上げるために、第2章では大河原忠蔵による「状況認識の文学教育」を中核に据えて考察していく。大河原が開発した生徒の主体性を引き出す授業理論は、すでに多くの分析がなされてきたが、本稿で注目するのは大河原理論における客体の機能性である。状況に打ち勝つ主体の育成を目途とした大河原にとって、客体は主体によって乗り越えられるべき対象だったが、この主客の序列を注視することで主体形成に通じる客体の役割を明らかにすることを目指す。
第1章 具体性の中での教育
1-1 2030年に向けた資質・能力
1-1-1 コンピテンシー・ベース��の転換
 2017年現在、新たな学習指導要領への転換期を控えて、中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(2016年12月、以下「答申」と略称)や、小学校、中学校の次期学習指導要領(2017年3月公示)で示される2030年に向けた学力観についての議論が盛んに行われている。今回の改訂では、「主体的・対話的で深い学び」や「カリキュラム・マネジメント」の必要性がより強調されるが、その根底にあるのは「何を知っているか」というコンテンツ・ベースから「何ができるか」というコンピテンシー・ベースへのパラダイム転換である。答申では新しい学習指導要領で改善するべき項目を以下の6点にまとめている。
①「何ができるようになるか」(育成を目指す資質・能力) 
②「何を学ぶか」(教科等を学ぶ意義と、教科等間・学校段階間のつながりを踏まえた教育課程の編成)
③「どのように学ぶか」(各教科等の指導計画の作成と実施、学習・指導の改善・充実)
④「子供一人一人の発達をどのように支援するか」(子供の発達を踏まえた指導)
⑤「何が身に付いたか」(学習評価の充実)
⑥「実施するために何が必要か」(学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策) 
 「主体的・対話的で深い学び」は学習の方法であり③や④に含まれている。その活動が有用であるためには体系的なカリキュラム、つまり②の問題が要求される。そして、そうした「カリキュラム・マネジメント」は①の育成されるべき資質・能力(コンピテンシー)に基づいて行われる。このように、2020年以降の学力は資質・能力に立脚するものであり、それゆえに、これからの教育を考え創造していく上でコンピテンシーについて検討することは避けて通れない。研究の間口として多少広さを感じるものの、コンピテンシー・ベースへの転換は一朝一夕に起こったものではなく、また、日本に限られた動きでもないため、現在示される資質・能力を広く比較することはこの過渡期において極めて重要である。 
 これからのコンピテンシーを精緻に把握するために、まず日本における資質・能力の概念がどのように変遷してきたかを確認していく。「関心・意欲・態度」 を打ち出した「新学力観」が登場したのは1989年版学習指導要領である。この学習指導要領で登場する「新学力観」について、当時の文部省は次のように説明している。   
 これまでの教育においては、基礎・基本として、 知識や技能を中心にとらえる傾向が見られた。 これからの教育においては、子供たちが主体的に生きていくために必要な豊かな心と個性や創造性の育成を目指しており、そのような豊かに生きる力としての資質や能力を基礎・基本ととらえることが肝要である。
  基礎・基本をこのようにとらえるとき、「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現 (又は技能)」、「知識・理解」などの資質や能力がその中核になると言えよう。中でも、子供たちの豊かな自己実現に生きて働く関心・ 意欲・態度、思考力や判断力などの資質や能力は、これからの教育において十分その育成を図るよう留意する必要がある。
 ここでは、それまでの「知識や技能」の習得を中心に展開する学習ではなく、生徒の「関心・意欲・態度」、「思考・判断」、「技能・表現(又は技能)」、「知識・理解」などを「豊かに生きる力としての資質・能力」と規定し、その「資質・能力」を中核に据えた学びが肝要であるとしている(「知識・技能」も「資質・能力」の一部であり、それらの習得を否定しているわけではないことに注意しなければならない)。このように、1989年版学習指導要領での「新学力観」は、2007年の改正で明記された教育基本法第30条第2項の「学力の三要素」、すなわち「基礎的な知識及び技能」、「思考力、判断力、表現力」、「主体的に学習に取り組む態度」につながっている。
 今日提言されるコンピテンシー・ベースの教育へと伸びる源流は以上のように確認される。その後、1998年版の学習指導要領では「生きる力」の育成を目指した、生徒の自主性を重視するいわゆる「ゆとり教育」が実施され、2008年の改訂においては、「ゆとり」でも「詰め込み」でもない教育を実現するために「生きる力」をより詳細に定義している。先述したように、教育基本法が「学力の三要素」を規定したのもこの時期である。2008年の中央教育審議会答申では、教育基本法改正について以下のように述べている。
 改正教育基本法や学校教育法の一部改正は、「生きる力」を支える「確かな学力」、「豊かな心」、「健やかな体」の調和を重視するとともに、学力の重要な要素は、①基礎的・基本的な知識・技能の習得、②知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等、③学習意欲、であることを示した。
 1989年版学習指導要領での、「知識・技能」中心の学力から「関心・意欲・態度」などと共にそれらを包括した「資質・能力」中心の学力への転換は、それから2度の改訂を経て、身につけた「知識・技能」を「思考力・判断力・表現力等」、そして「学習意欲」によって活用するための学力へと具体化された。では、答申で明らかになった2020年以降の学力観、コンピテンシー概念は、これまでのものと比べてどのような差別化がなされているのだろうか。 
1-1-2 「学びに向かう力・人間性等」の重要性
 繰り返しになるが、資質・能力という学力観は最近になって登場したものではない。それについては答申でも明言されている。
(「生きる力」の育成と、学校教育及び教育課程への期待) 
○ こうした力は、これまでの学校教育で育まれてきたものとは異なる全く新しい力ということではない。学校教育が長年その育成を目指してきた、変化の激しい社会を生きるために必要な力である「生きる力」や、その中でこれまでも重視されてきた知・徳・体の育成ということの意義を、加速度的に変化する社会の文脈の中で改めて捉え直し、 しっかりと発揮できるようにしていくことであると考えられる。時代の変化という「流行」の中で未来を切り拓いていくための力の基盤は、学校教育における「不易」たるものの中で育まれると言えよう。 
 答申ではこれまでの学校教育で育んできたもの、つまりは知識や技能とそれを活用する力である資質・能力を「不易」なものとしている。その上で資質・能力を「基盤」とし、今後育むべきものを現代社会��文脈に柔軟に適応させることが重要なのである。こうした観点から答申は、教育基本法での「学力の三要素」を基にした、「何を理解しているか、何ができるか(生きて働く「知識・技能」の習得)」、「理解していること・できることをどう使うか(未知の状況にも対応できる「思考力・ 判断力・表現力等」の育成)」、「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性等」の涵養)」という3つの要素を「資質・能力の三つの柱」として整理した。
 「知識・技能」は、従来以上に他教科の知識や生徒個人の経験との接続を求める。「思考力・判断力・表現力等」では、情報を精査する中で思考したことを根拠としながら表現したり、協働学習で他者の意見を受容しながら集団の考えを形成したりするなどの2008年の改訂で示された項目に加え、問題の発見・解決の過程を重視している。以上2点は、多少の変更がなされているものの、2008年版学習指導要領から引き継がれている要素といえる。それでは、3つ目の「学びに向かう力・人間性等」の位置づけはどうか。答申によれば「学びに向かう力・人間性等」は、「知識・技能」及び「思考力・判断力・表現力等」を「どのような方向性で働かせていくかを決定付ける重要な要素」である。細かくは「メタ認知」に関するものと、「多様性を尊重する態度」や「共同する力」など、「人間性等」に関するものに分けられる。これらは上記の2つの要素に対し、2008年版学習指導要領においては明記されていない新たな資質・能力の構成要素となっている(中央教育審議会「幼稚園, 小学校, 中学校, 高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について(答申)」(2008年1月)で示される「思考力・判断力・表現力等」を育成するために不可欠であるとされる活動例の中には、「概念・法則・意図などを解釈し、説明したり活用したりする」といった「メタ認知」に通ずるものも含まれている。そのため正確には、「学びに向かう力・人間性等」は「思考力・判断力・表現力等」を細分化し改めて資質・���力として規定した要素といえる)。
 2020年を目前に「学びに向かう力・人間性等」が強調される背景には、多様な価値観をもったいくつものコミュニティが近接して社会を形成するという現代の「流行」が横たわっている。異なる文脈に属する他者との接点が日常に溢れる現代では、自らの常識に安住することは不可能に近い(それを強行することは他者への暴力に転化する)。各教科で習得した知識を相対化し結びつけることや、自らの意思を表現しながら自分と異なる意見と照らし合わせることなど、他者を媒介にして自己を見つめる活動は先の2つの要素でも求められたが、それらは現代の多文化が幾重にも連なる極めて複雑な社会の中で発揮されてはじめて意味をもつものである。答申が家庭・地域と連携した教育を実施していく「社会に開かれた教育課程」を重要視するのも、学校と社会の接続を強化する狙いの表れだろう。
 このように、学校で身につけた「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力等」をこれからの社会の実践的状況に持ち出すために、「学びに向かう力・人間性等」は要請される。言い換えれば、「学びに向かう力・人間性等」、すなわち多文化主義を前提としたメタ認知能力こそが新しい学力の新規性を担保するものであり、現代日本でコンピテンシー概念を検討する上で最も今日的なテーマなのである。2008年版学習指導要領で��、「思考力・判断力・表現力等」の領域で「言語活動の充実」が図られた。しかし、2020年以降の学校教育では、生徒が自らの問題意識を学びに反映させたり、自分の思考過程がどのようなシステムに法っているのかを捉えたりする「メタ認知」の領域まで、その活動を敷衍させなければならない。
1-1-3 水平的「転移」としてのメタ認知
 1-1-1でも触れたように、コンピテンシーに基づく教育改革は世界的な趨勢である。こうした新しい力は、EUの「生涯学習のためのキー・コンピテンシー」や、全米研究評議会の「21世紀型コンピテンス」をはじめとしてその名称は国や地域によって多岐に渡るが、これらの新しい能力概念には共通して高次の認知能力が含まれている。本項では、海外のコンピテンシー概念と日本の資質・能力の関わりから、本研究で重視するべきメタ認知能力のより仔細な位置づけを行う。
 各国で開発されるコンピテンシー概念は、2003年に最終報告がされたOECD(経済協力開発機構)におけるDeSeCoの「キー・コンピテンシー」を土台としている。そうした背景を踏まえ、文部科学省は1998年版学習指導要領から明記される「生きる力」を、「キー・コンピテンシー」を先取りしていた概念であるとして両者の関連を指摘している。また、「キー・コンピテンシー」を開発したOECDは現在、その後継ともいえる「OECD Education 2030」で未来の学力観についての議論を行なっているが、そこでOECDに影響を与えているのは、CCR(カリキュラム・リデザイン・センター)が設定した「CCRフレームワーク」である。日本も、2015年に行われたOECDとの政策対話で、「CCRフレームワーク」に対し「日本の学習指導要領改訂が目指しているアプローチと近い」と共感を示している。
 以上のことを考慮し、ここでは現行の2008年版と次期の学習指導要領に結びつく「キー・コンピテンシー」と「CCRフレームワーク」に含まれるメタ認知能力を取り上げることにする。
 OECD-DeSeCoの「キー・コンピテンシー」では、「社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力(個人と社会との相互関係)」、「多様な社会グループにおける人間関係形成能力(自己と他者との相互関係)」、「自律的に行動する能力(個人の自律性と主体性)」という3つの能力を三角形に組み、その中核に「個人が深く考え、行動することの必要性」(思慮深さや省察性、反省性などと訳される)を据えている。一方の「CCRフレームワーク」は、「知識」、「スキル」、「人格」の3つの円(要素)が部分的に重なるように配置していて、さらにそれらを「メタ認知」と「成長的思考態度」を組み合わせた「メタ学習」が包括する形で構成している。 
 これらを見れば、答申がメタ認知(「学びに向かう力・人間性等」)を「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力等」の方向性を決定する要素と規定したのと同様に、両者ともメタ認知に当たる能力を、その他の能力をまとめる位置に設定しているのがわかる。ただ、「キー・コンピテンシー」と「CCRフレームワーク」の「省察性」、「メタ学習」は完全には一致しない。松下佳代は、両者の差異について次のように指摘している。
 DeSeCo キー・コンピテンシーでは「何のための能力か」という問いに対し、「個人の豊かな人生」と「うまく機能する社会」を掲げ、現状への批判的スタン��も取りながら、個人と社会との軋轢や複数の社会的価値の間の対立関係の調停を図ることを「省察性」の中に込めているのに対し、CCRの「メタ学習」には「個人の豊かな人生」の視点のみ――しかも、世界の変化への適応のみ――しか含まれていない。
 松下は、「メタ学習」がすべて生徒個人に還元されるのに対し、「省察性」は個人と社会や、複数の共同体の境界に生じる摩擦を克服する方向に向いているとして、「キー・コンピテンシー」の役目が終わっていないことを主張する。たしかに「CCRフレームワーク」においては、「メタ認知」が「成長の機会に気づくための鍵」として、また、「成長的思考態度」は「自分は成長できると信じるために」必要な要素として求められるように、生徒自身の成長が第一に重視されている。
 他方、「省察性」で強調されるのは、コンピテンシーを発揮する文脈を意識することである。DeSeCoは、「個人と社会との関係は論理的で動的である」ことを「コンピテンスモデルの基礎をなす仮説」とし、行為は常に社会的文脈に影響を受けるものであるとする。換言すれば、DeSeCoが整理したそれぞれのコンピテンシーを教育することは、生来人間に備わった力を開花させる意味ではなく、ある固有の文脈からの需要に応える資質・能力を学習によって外側から補完することを指している。ここでの「省察性」は、身につけた資質・能力を相対化し、異なるコミュニティに属する他者との協働、共生を可能にするためのスキルなのである。
 前項で挙げた現代の「流行」を顧みれば、松下の指摘の通り、「省察性」にこそアクチュアリティが認められるといえる(学習指導要領と「キー・コンピテンシー」、「CCRフレームワーク」の関わりについてはさらに詳細な検討が必要である。したがって、両者を安易に対立関係にはめ込むことは本稿の狙いから外れる。それでも、管見の限り、社会的要請が高まる高次の認知機能に関しての言及はOECD-DeSeCoがより詳しいため、ここでは「省察性」を考察の中心に据えることにする)。では、多文化主義を前提とする社会の中で、「省察性」はどのように発揮されるのだろうか。
 DeSeCoは多様な社会において、「問題や問いを一連の相互に排他的な選択肢の集合に還元したり、差異や矛盾を扱うための厳重な規則を採用したりすること」を否定し、「複雑でダイナミックな相互作用を認識しながら、その間の緊張関係を扱おうとする」態度を要求する。こうした価値観の対立を、その場限りの統合的な方法で乗り越えていくために「省察性」が方法とするのは、「転移」と「適応」である。
 前述の通り、DeSeCoのコンピテンシーは特定の文脈の内側で機能するため、異なる文脈からの需要に既存のスキルで応答することは自己中心的な態度になる。したがって、緊張関係を扱うためには、「古い状況から新しい状況へとスキルやコンピテンシーを移動させる」必要がある。この移動が「転移」である。そして、複数の文脈を「転移」によって往来しながら、既存のものと新たな需要に折り合いをつけるのが「適応」という概念である。図式的に表せば、「転移」は既存の文脈から対立する他の文脈への横方向の運動であり、「適応」はそれらの対立を調停し統合する弁証法的な縦方向の運動だと位置づけられる。
 無論、ここでは「適応」が最終的な到達点となる。答申の「主体的・対話的で深い学び」からも、極めて簡略化して述べれば、主体を対話によって相対化し、異なる他者との協働からより深い次元に到達するといったフローを見出すことができる。しかし、以上のことから学習の焦点を「適応」の達成に限定することは性急な結論である。ときに「適応」は、集団における主導権争いの結果や高次の目的(経済的な合理性など)のために、個人の具体的な意思を捨象する形で実行されてしまうからである。こうした局面では、「転移」が表面的な上滑りに終始して、ただグループの合意形成を得るためだけの活動に陥っていると考えられる。表面的な「転移」は、他者を主体による生産物へと変貌させてしまい、そうなれば、学習の成果として残るのは見せかけの達成感以外にない。
 多様で複雑な社会では、他者とはいつでも〈私〉とは異なる存在であり、そこでは他を他として見る態度の涵養こそが必要である。その態度は、他者を自分に引き寄せて解釈したり、個人の性質を抽象化してカテゴライズしたりすることを断固として拒む。ここで求めるのは、自らの文脈を意識しながら、他者の文脈に寄り添うように自己を変容していく横方向の「転移」である。ここからは、この「転移」のためのメタ認知能力を「水平的メタ認知」と称して、その育成の方法を探っていく。
1-2 水平的メタ認知の指導方法の検討
1-2-1 なぜアクティブ・ラーニングか
 前節では、2030年に向けて最も注視すべきコンピテンシーがメタ認知能力であることを確認した。本稿の中心に置くのは、他者を媒介にして自らの思考を止揚するためのものではなく、他者の文脈においてそれまでとは全く異なる新しい自己を生成するような、状況に応じた横方向への「転移」を正確に実行する能力である。
 本節からはその方法についての検討に移る。答申では、新たな資質・能力を「どのように学ぶか」という課題に対し、「主体的・対話的で深い学び」の導入を目指している。アクティブ・ラーニングと「主体的・対話的で深い学び」の相違に関しては、答申における「「アクティブ・ ラーニング」については、子供たちの「主体的・対話的で深い学び」を実現するために共有すべき授業改善の視点として、その位置付けを明確にすることとした」という記述を基に、「主体的・対話的で深い学び」をアクティブ・ラーニングから、より方法的な志向性を抽出した学習方法と捉えて問題はないだろう。ただ、「主体的・対話的で深い学び」についても未だ共通の理解があるわけではない。そのことを考慮し、ここでは大枠的にアクティブ・ラーニングの意味と問題を明らかにし、水平的メタ認知を育成するために必要な施策を探っていく。
 日本でアクティブ・ラーニングが広く注目される契機となったのは、2012年8月の中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」である。ここでアクティブ・ラーニングは以下のように述べられる。
従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。
 ここでは、教員主体の知識注入型の授業から生徒主体のインタラクティブな授業への転換がポイントになっている(アクティブ・ラーニングは高等教育から導入ざれた概念であるため、多くの言説は対象となる学習者を「学生」としているが、本稿では引用箇所を除き「生徒」の表記に統一している)。そして、生徒主体の活動が「能動的学修(アクティブ・ラーニング)」なのである。溝上慎一は、ここから能動的な学習をさらに「書く・話す・発表するなどの活動への関与」と、「そこで生じる認知プロセスの外化」という2つのフェーズに分けている。この2つの位相の接続は必然のようにも思えるが、溝上は受動的学習では現出しない「認知機能」を意識することこそがアクティブ・ラーニングの意義として、「二重表現を採って」関与と外化の「十分な協奏」を主張する。まとめれば、アクティブ・ラーニングとは生徒主体の授業であるが、ディスカッションやディベ��トなどの活動が等しく「能動的学修」になるのではなく、その活動を通して発動する「認知機能」を自覚することによって有効となる学習方法なのである。ここでの「認知機能」とは、作文やグループワークでの言葉が内包する意図を生徒自らが意識する程度の意味で、広義の認知といえる。それでも溝上の以上の定義に従えば、アクティブ・ラーニングは先天的にメタ認知能力を向上させることに適した学習方法として捉えられるだろう。
1-2-2 アクティブ・ラーニングの問題と「転移」のための方策
 ここまでで、アクティブ・ラーニングが「認知機能」の発動と認識を前提とした学びであることを理解した。ただ、溝上が関与と外化を慎重に結びつけるように、アクティブ・ラーニングの実践を充実させるのは決して容易ではない。前述したような、「能動的学修」にまで至らない形式的活動に陥る危険もある。このようなアクティブ・ラーニングの問題を、松下は次の3点にまとめている。
①知識(内容)と活動の乖離
②能動的学習をめざす授業のもたらす受動性
③学習スタイルの多様性への対応
 ①は、アクティブ・ラーニングを優先するあまり、最低限の知識(内容)すら獲得できないという問題である。能動的な学習によって高次の思考の獲得を目指すならば、それに見合う知識が不可欠であり、知識の習得をおろそかにすれば活動の形骸化は免れない。この問題の誘因は、コンテンツをコンピテンシーの対立項に定置してしまうことだろう。コンピテンシー・ベースの教育が決して「知識・技能」の獲得を否定するものでないことを思い返せば、教育課程の効果的な編成が解決の糸口になるはずである。
 ②は、生徒がアクティブな態度を表面的に演じる危険性を表している。佐貫浩もこの問題に対し、教員の立場から「アクティブさを測る基準が、挙手、発言、というような「形式」におかれ、そういう「態度」を取らせることが、アクティブ・ラーニングであるかの「誤解」に近い混乱が起こっている」と指摘する。一方で③は、そうした積��的な振る舞いを拒否する生徒への対応に関する問題を指す。これらは、生徒の学習を促進するはずのアクティブ・ラーニングが、却って抑制する働きに向いてしまう可能性を示唆している。上記のもの以外でも、「そこそこの労力でまあまあの結果を出すということがグループ内で暗黙の了解(暗黙のルール)となってしま」うことや、「グループ内での分業が許容される程度をこえて不均等になり、フリーライダーの出現を許してしまう」ことは、実践例の中に散見される失敗である。
 以上の問題に、水平的メタ認知の育成を目指す立場から、どのような解決策が考えられるだろうか。前項で確認したように、アクティブ・ラーニングの肝となる「認知機能」は外化に至るまでのプロセスを認識することであり、これは生徒の発言回数などの外的要素とは区別される内的な活動である。それならば、本研究では外的活動の活性化に拘泥するのではなく、内的活動をアクティブに働かせることを第一義にするべきだろう。 
 グループワークなどの協働学習は、複数の異なる意見の存在を認識したり、それらを擦り合わせて共有可能な1つの答えを導いたりするためには有効である。けれども、前者に関してはその先の活動こそが本稿の目途であるし、後者は弁証法的な縦方向の学習であり、ここでは目的を異にしている。よって、本稿で提示する水平的メタ認知育成のための授業理論では、その手段として協働的な活動は用いない。この選択が、授業におけるアクティブさの消失を意味するものでは決してないことを強調しておく。例えば、「対話的な学び」がリテラルな他者との対話でのみ実現されるわけではないように、アクティブさを測る尺度は内的活動に向けられべきなのである。それは、答申の「対話的な学び」は「子供同士の協働、教職員や地域の人との対話、先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ」て実現されるという見解にも表れている。
 学びのアクティブさは外的活動の活発さに依存するものではない。それゆえに、作文のような個別的表出でも、認知プロセスの意識化および外化は実現可能である。このように、外的活動から内的活動へとアクティブ・ラーニングの焦点を移動させれば、生徒が積極的な態度を演じる、またはそれを拒否する生徒を生み出すという問題を回避しながら狙いに直線的な働きかけを試みることができる。
 もう1つ、授業で「転移」を行うのに最適な課題設定について簡単に言及する。意識すべきは、メタ認知、ひいては「学びに向かう力・人間性等」が、学校と社会を係留する動きの中で持ち出されたコンピテンシーだということである。したがって、メタ認知のための課題は、生徒の生活に侵食していくような強度をもったものでなければならない。松下らが提唱する「ディープ・アクティブラーニング」は、学習課題に対して「原理と関連づける」や「身近な問題に適用する」などの「深いアプローチ」を行い、思考を抽象化することで学びの射程距離の延長を目論んでいる。もちろんこれは抽象化という縦方向の運動性を有しており、本研究では別の方策を採る必要がある。それは、生徒の思考を高次の一には回収しない。それは、生徒個人の生活から始まり、それらの多様な具体性の中で完了されるべきものである。
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