#勲四等旭��小綬章
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落語家・桂米丸さんが老衰のため死去 享年100 現役最高齢で「寄席復帰を模索する中の訃報」悲しみ
落語家の桂米丸さんが1日、東京都内の病院で死去した。享年100。落語芸術協会が5日、公式ホームページで発表した。
同協会が「令和6年8月1日(木)午後4時45分、当協会最高顧問 四代目桂米丸(本名:須川勇)が老衰のため、都内の病院にて逝去しました。享年100」と伝えた。
同協会は桂米丸さんについて「大正生まれで現役最高齢、終戦直後新作派の古今亭今輔門下に入門し、新作落語一筋を貫いた落語家でした。落語界で大いに売れるとともに、テレビ黎明期、開局と共にテレビスターとしても売れに売れ続け、広くお茶の間に愛された師匠でした」とこれまでの経歴を紹介。
さらに「日本芸術協会から落語芸術協会にかけて23年間会長職に就き、長きにわたり協会の指導役であるとともに落語界の指導者でありつづけました。協会会長を勇退後も顧問、最高顧問として後進の指導に携わり続け当協会の精神的支柱であり続けると共に、新作落語の第一人者としても最晩年まで創作意欲が衰えることはありませんでした」とコメント。「新型コロナウィルス感染症の流行以降は寄席出演を控えておりましたが、電話で元気な声を聞かせてくれることも多く、寄席復帰を模索する中の訃報となりました」と悲しみをつづった。
また寄席定席の最後の高座について、「令和元年九月下席新宿末廣亭でした」と説明。「葬儀は8月4日近親者にて執り行われました」とし、「謹んでご冥福をお祈りいたします」と伝えた。喪主は長女・倉田信子さん、次女・平井いずみさんが務めた。
桂米丸さんは1925年4月6日生まれ、神奈川県横浜市出身。46年に古今亭今輔に入門、47年に二ツ目に昇進し「古今亭今児」となる。49年に「四代目桂米丸」を襲名し真打。76年に日本芸術協会(現・落語芸術協会)の三代目会長、77年に社団法人化に伴い初代会長に就任した。99年、会長職を勇退し顧問。2000年に最高顧問に就任した。92��紫綬褒章受章、98年勲四等旭日小綬章受章。
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■袴田巌さんの操作と裁判にかかわった主な刑事・検事・裁判官 刑事 逮捕から起訴まで連日12時間以上の強引な取り調べを行い、袴田さんに「自白」を強要した。 松本久次郎 警部(捜査班長。取り調べ回数は最多) 岩本広夫 警部補(取り調べなど捜査に従事) 住吉親 警部補(現金入り封筒を送った女を取り調べ) 松本義男 巡査部長(自白を取るも公判では不採用) 森田政司 巡査部長(血の付着したパジャマを発見) 松本久次郎警部は後に蒲原署長を務め、'02年春には勲五等瑞宝章を受章した。 松本義男巡査部長も'99年秋に勲六等単光旭日章を受賞している。 住吉親警部補も'07年春に瑞宝双光章を受賞している。 検事 警察の捜査をチェックすべき検事が、刑事と同じく「自白」を強要。公判では死刑を求刑。 吉村英三 静岡地検捜査検事(自白をとる。公判で採用) 岩成重義 静岡地検公判検事(一審で死刑を求刑) 猪口民雄 東京高裁公判検事(控訴棄却を主張) 竹村照雄 最高検公判検事(上告棄却を主張) 袴田さんの自白をとった吉村検事は仙台地検検事正まで上り詰めた。 竹村照雄検事は広島高検検事長となった後、'96年春の叙勲で勲二等旭日重光章を受賞している。 裁判官 刑事の違法な取り調べを認めつつ「死刑」とした一審判決を、すべての裁判官が追認した。 熊本典道 一審裁判官(死刑判決文を書く。後に謝罪) 岩見勝四 一審裁判長(死刑判決を下す) 横川敏雄 東京高裁裁判長(控訴棄却) 宮崎梧一 最高裁裁判長(上告棄却) 鈴木勝利 静岡地裁裁判長(再審請求棄却) 安廣文夫 東京高裁裁判長(再審請求即時抗告棄却) 今井功 最高裁裁判長(再審請求特別抗告棄却) 横川敏雄裁判長は後に札幌高裁長官。 宮崎梧一裁判長は判事を退官した後の'86年秋に勲一等瑞宝章を受章。 鈴木勝利裁判長は東京高裁判事となり、 安廣文夫裁判長は東京高裁部総括判事を務めた後、中央大学法科大学院教授。 今井功裁判長は'11年春に旭日大綬章を受賞、皇居で天皇から直接親授された。 その他の裁判官 一審の熊本裁判官以外、誰一人、間違いを認めていないし謝罪もしていない。 高井吉夫(一審裁判官・死刑判決) 以下、カッコ内は当時の肩書き・出した判決 中��武夫(東京高裁裁判官・控訴棄却) 柏井康夫(東京高裁裁判官・控訴棄却) 塩野宜慶(最高裁裁判官・上告棄却) 塚本重頼(最高裁裁判官・上告棄却) 木下忠良(最高裁裁判官・上告棄却) 栗本一夫(最高裁裁判官・上告棄却) 内山梨枝子(静岡地検裁判官・再審請求棄却) 伊東一廣(静岡地検裁判官・再審請求棄却) 竹花俊徳(東京高裁裁判官・再審請求即時抗告棄却) 小西秀宣(東京高裁裁判官・再審請求即時抗告棄却) 古田佑紀(最高裁裁判官・再審請求特別抗告棄却) 中川了滋(最高裁裁判官・再審請求特別抗告棄却) 津野修(最高裁裁判官・再審請求特別抗告棄却)
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢��戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち、粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げる天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人��とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機関」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田��太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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◆寿限無(じゅげむ) 落語
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◆寿限無(じゅげむ) 落語 落語の中だ普通あまり演目として取り上げないのに一番有名な 演目(ネタ)ではなかろうか。 落語は古い演目などの名前は変わらない。 「竃(へっつい)」などは今はないので解からない人が多い。 竈(かまど)の事である。 かまども知らない人は居るかな。 知らない人は下の(くど)に写真があるから見て下さい。
その時の時勢を取り入れて話を膨らませたり縮めたりしている。 だから聞くたびに笑いの場所が変わったりする。
古典落語/新作落語(創作落語)合わせてどのくらい有るのかな。 新作落語は次々と作り出されるから自然 数は増えてくる。
古典落語は下のページに一覧がある。 ざっと百近くだったけど実数は判らない。
三遊亭圓歌だったかなの何とか学校は何十回も聴いた覚えがある。 昔はラジオしか無いから聞いていてよく父に怒られたもの。 うどん屋の店の客が聞きたいものと違うことが多かったか���。 大人と子供の思いは違うからね。 でも「山の穴アナアナ」なんて始まると大人でも引き込まれたもの。 今は浪曲(浪花節)なども聞く人は居ないのかな。 ラジオでは昔良くしていたけど最近は余り無いと聞く。 残念ながら私はラジオもテレビも持っていない。
世捨て人みたいだね。
それでも毎日は楽しい。 日本の良い部分ばかりをネットで見れるから。 日本は楽しい国である。 ◆落語 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/落語 落語(らくご)は、近世期の日本において成立し、 現在まで伝承されている伝統的な話芸 の一種である。 最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり、 「落としばなし」略して「はなし」ともいう。 「はなし」は「話」または「噺」とも表記する。 都市に人口が集積することによって市民・大衆のための芸能として成立した。 成立当時はさまざまな人が演じたが、現在はそれを職業とする 落語家によって演じられることが多い。 能楽や歌舞伎など他の芸能と異なり、衣装や道具、音曲に頼ることは 比較的少なく、ひとりで何役も演じ、語りのほかは身振り・手振りのみで 物語を進め、また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する 独特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能である。 ◆古典落語(こてんらくご)http://bit.ly/ym1cUu 落語の演目のうち、一般に江戸時代から明治時代に作られたものを指す。 それよりも新しい時代に作られた演目は、新作落語と呼んで区別される。 なお、創作落語は関西の落語家による造語であり文献によっても広く古典と対比されるのは新作とされる。 ◆新作落語 https://ja.wikipedia.org/wiki/新作落語 新作落語(しんさくらくご)、創作落語(そうさくらくご) 日本の話芸のひとつで、古典落語に対して用いられる落語の分類である。 現在では主に大正時代以降に創作された落語を指す。 明治期における三遊亭圓朝による「牡丹灯篭」「真景累ヶ淵」や オペラを翻案した「死神」、 後に上方に伝わって昭和戦後期に「ぜんざい公社」となる「御膳しるこ」 などをその嚆矢(こうし)とすることができる。 ◆嚆矢(こうし) https://ja.wikipedia.org/wiki/嚆矢 ・先端に鏑(かぶら)という、飛行時に大きな音を出す装置を付けた矢。 会戦の始まりを知らせる用具として使われた。鏑矢を参照。 ・上記の意味が転じて、ものごとの始まり。wikt:嚆矢を参照。 嚆 矢(こうし) wikt https://ja.wiktionary.org/wiki/嚆矢 嚆 矢(こうし 歴史的仮名遣い:かうし) 1.鏑矢。 2.(会戦において鏑矢を互いに放って戦を始めたことから転じて)物事の始まり。 ・「それでキリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのはたぶんこの講師が嚆矢であるかも知れない」(内村鑑三『後世への最大遺物』) ◆鏑矢(かぶらや)(鏑から転送) https://ja.wiktionary.org/wiki/鏑矢#鏑 鏑矢(かぶらや、希に蕪矢とも書く) 矢の先端付近の鏃の根元に位置するように鏑(後述)が取り付けられた矢のこと。 射放つと音響が生じることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた。 日本列島に於いては鎌倉時代には既に記述が見られる(保元物語)が、初期の頃は名称も��まっておらず起源、いつ頃から使われていたのかは解っていない。 ◆上方落語 https://ja.wikipedia.org/wiki/上方落語 上方落語(かみがたらくご) 大阪・京都を中心とする畿内の上方で主に演じられる落語の総称である。 ◆竈(くど) http://ja.wikipedia.org/wiki/竈_(くど) 竈(くど)とは、 ・竈(かまど)のうち、その後部に位置する煙の排出部を意味する(原義)。 この意味では特に「竈突」「竈処」と表記されることもある。 また『竹取物語』には「かみに竈をあけて…」という一節が存在する。 ・京都などでは、竈(かまど)そのものを意味し、「おくどさん」と呼ぶ。 また、土間など住居の中で、煮炊きを行う空間そのものを意味することもある。 山陰地方などでは、煮炊きの設備を「かまど」、 空間そのものを「くど」と呼んで区別している地域も存在する。 ◆寿限無(じゅげむ)http://bit.ly/A0v5O9 『寿限無』(じゅげむ) 早口言葉あるいは言葉遊びとして知られる古典的な噺であり、落語の前座噺である。 上方落語では古くは別題を「長名」という。 ・以下はこの噺の主人公である赤ん坊に付けられる「名前」の一例である。 日本で最も長い名前、としてしばしば語られる。バンコクの正式名称より長い。 寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 やぶら小路の藪柑子 パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助 なお、落語家によって一部細かい部分での違いが見られる。 ・解説 ・寿限無 限り無い長寿のこと。 ・五劫の擦り切れ 本来は「五劫の摺り切れず」が正しい。言い回しのために「ず」が省略されてしまうことがあるらしい。 天女が時折泉で水浴びをする際、その泉の岩の表面が微かに擦り減り、それを繰り返して無くなってしまうまでが一劫とされ、その期間はおよそ40億年。それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。別の落語では、天女が三千年に一回、須弥山に下りてきて羽衣で一振りして、須弥山がなくなるまでが一劫である。 ・海砂利水魚 海の砂利や水中の魚のように数限りないたとえ。 ・水行末雲来末風来末 水・雲・風の来し方行く末には果てがないことのたとえ。 ・食う寝る処に住む処 衣食住の食・住より。これらに困らずに生きて行ける事を祈ったもの。 ・やぶら小路の藪柑子 やぶらこうじのぶらこうじ、とも。「やぶらこうじ」とは藪柑子(やぶこうじ)で生命力豊かな縁起物の木の名称。「ぶらこうじ」はやぶこうじがぶらぶらなり下がる様か(?)単に語呂の関係でつけられたようにも思える。 ・パイポ、シューリンガン、グーリンダイ、ポンポコピー、ポンポコナー 唐土のパイポ王国の歴代の王様の名前でいずれも長生きしたという架空の話から。グーリンダイはシューリンガンのお妃様で、あとの2名が子供(娘)達という説も。 ・長久命 文字通り長く久しい命。また、「天地長久」という読んでも書いてもめでたい言葉が経文に登場するので、そこからとったとする説も。 ・長助 長く助けるの意味合いを持つ。 ◆寿限無 - ODN http://bit.ly/w3sxMl もともとは、落語の前座咄(ばなし)の代表作。 毎日毎日 「にほんごであそぼ」の放送を見ていたら 二歳の子どもでも(つまり仮名が読めなくても) 丸暗記。 さらに ジジババの前で唱えだし おどろきもものきさんしょのき! 話題騒然のこのことば 大人は意味が付いてないと覚えられないとか…… じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところに すむところ やぶらこうじの ぶらこうじ パイポパイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの ちょうきゅうめいのちょうすけ もともとは、落語の前座咄(ばなし)の代表作。 生まれた男の子に、ぜひともめでたい名前を付けて欲しいと、男(ちなみに名字は杉太とのこと)がお寺の坊さんに���んだ。めでたいことがらをめいいっぱい重ねられたこの名前、便利なこと、不便なこと多々あった。最後に井戸(関東地方の話では川になっているところも面白い)に落ちた「寿限無寿限無……長久命長助」を助けようとしたのだが、名前が長すぎて助けられなかったという笑えない話。 ◆書きまくるトレーニンク にほんごであそぼふぁんさいと http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/ 文章力養成コーチのぶい先生こと松嶋有香です。 子どもにも大人にも国語、文章の書き方などを教えています。
子どもにとって国語の力を付けることは、全ての科目で学力強化に通じること、 大人にとっても「書く力」は、仕事、プライベートなど、様々なシーンで大切な力となっています。
オンラインというスタイルで 同じ志を持つ仲間と一緒に またはマンツーマンで 「書く力」を鍛えてみませんか。 ◆たらちね 長文落語 http://bit.ly/ypogzz 江戸落語の演目の一つである。 漢字表記は『垂乳女』。上方落語で『延陽伯』(えんようはく)という題で演じられているものを東京に移植した。ストーリーは、大家の紹介で妻をもらった八五郎だが、彼女の言葉づかいがあまりにも丁寧なために起きる騒動を描く。 前座噺としても寄席で頻繁に演じられる。 上方落語で『延陽伯』(えんようはく)という題で演じられているものを東京に移植した。 ストーリーは、大家の紹介で妻をもらった八五郎だが、彼女の言葉づかいがあまりにも丁寧なために起きる騒動を描く。 得意としたのは5代目三遊亭圓楽。 ◆東西落語特選 http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/fulllist.php 2015/04/08 ・上方落語「貧乏神」 貧乏神...取り憑かれたら貧乏に...なるわけではない。その実態は... ・上方落語「阿弥陀池」, 『子ほめ』『青菜』と同系列の「愚か者が人から聞いた話しを他でやって失敗する」モノです。 ・上方落語「祝いのし」, お馴染み喜六のおお ... をモチーフにした噺。読み比べてみて。 ・落語「寿限無」, みんな知ってる、あの噺です. http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/view.php?file=jugemu 古今東西、いろんな神様がございます。 外国の神様、キリスト教やイスラム教の神様なんかは人間どもの雑事を 一手に引き受けて、全責任を負ってらっしゃるそうで、 まことにご苦労な話でございますな。 ◆昔昔亭笑海(せきせきていしょうかい)の寿限無(じゅげむ) https://youtu.be/jEmvzVUKJ7o ◆東中亭どテ珍「寿限無」 https://youtu.be/y9iXsyJGSD8 https://youtu.be/bxZ0rDAQPq8 ◆落語 立川談志 黄金餅 2015/04/12 https://youtu.be/6Ogl3ZWiBmY ★あらすじ 【黄金餅】 西念という坊主が病気になったと聞き、見舞いに来た隣部屋の金兵衛。 西念があんころ餅を食べたいの言うので買ってきたが、一人で食べたいからといって部屋を追い出される。金兵衛が怪訝に思ってこっそり覗くと、西念は今までしこしこため続けた金銀を餅に詰めて丸のみし始め、そしてついに力尽きる。金兵衛は西念の腹��中の金が欲しくなる。 ◆立川談志:源平盛衰記:昭和57年6月 2013/03/01 https://youtu.be/elpHO6_gNJY ◆立川談志 勘定板 https://youtu.be/ZrnU51dQCbE あらすじ とある、トイレの文化がない田舎の村では、糞便は海のそばにある紐のついた板の上でやり、用が終わると紐を引き海に流すという様式がとられ、この糞便をすることを「カンジョウをする」といい、糞便をするための板のことを「カンジョウ板」と呼んでいた。 ◆柳家花緑 2015年12月5日 独演会より 2017/09/29 https://youtu.be/L_62UF668BQ ◆源平盛衰記(落語散歩600) http://sakamitisanpo.g.dgdg.jp/gennpeiseiduiki.html あらすじ 「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、・・・」(平家物語) 平治の乱で敗れた源義朝の愛妾の常盤御前は三人の子どもを抱えて悲しみに暮れている。 そこへ訪ねて来たのが平平宗清で、「うちの大将はお前さんにぞっこん惚れこんでいるよ。大将の意に従えば三人の子どもの命は助かけてもらえる。これが”操を破って操を立てる、破る操が真の操”ということだ」と説得され、平清盛に身をまかせて世話になる。 ◆610報恩記念大会 落語 2013/01/02 https://youtu.be/lL1FH0nk3Dg 本門佛立宗 妙深寺、法深寺が6月10日に開催した「東日本大震災復興祈願 開導会併先住御十三回忌 報恩記念大会」での柳家花緑師匠による落語です。 ◆三遊亭圓歌 授業中 2016/08/09 https://youtu.be/OgYXCEArRFI 昭和23年作、昭和25年発表の創作落語。1982年の貴重な音源(当時53歳) ★三部作 ①授業中(山のあな) https://youtu.be/OgYXCEArRFI ②月給日 https://youtu.be/QUCvM5jjiF8 ③浪曲社長 https://youtu.be/ACdYxcUJwGg 【落語チャンネル】ネット寄席 ⇒ http://rakugo-channel.tsuvasa.com/jyugyoutyu-enka-3 ◆情報商人裏話し いつも動画をご覧いただき有難うございます。 天才落語家 立川談慶師匠が会話の悩みを解消し、毎日の暮らしに好循環をもたらすコミュニケーション講座 http://bctiecc.com/tatekawa/you/ 【関連動画】 情報商人裏話し~懐かしい上方落語 懐かしい上方落語を集めてみました。 https://www.youtube.com/channel/UC8pNlZ2wZYul6-AHGt2iQcw 中沢家の人々「三遊亭圓歌」 - YouTube 2017/04/24 https://youtu.be/nyzOk7mA208 ★概要 【中沢家の人々】 国鉄職員から噺家、そして僧侶。息子をあっさり勘当しておいて、売れた途端何食わぬ顔で扶養となる両親。義理の親4人。計6人の老人との爆笑エピソードを交えて自らの人生を語る、圓歌渾身の創作落語。 ★演者について 【三遊亭圓歌(三代目)】 1929-2017。東京都墨田区向島出身。本名は中澤 圓法(信夫)。 国鉄職員を経て1945年、二代目円歌に入門。二つ目時代の三遊亭歌奴の頃から黎明期のテレビ番組に多く出演し、新作落語「授業中」などが好評を博し、売れっ子芸人となる。 黒以外の紋付きを着る、メガネをかけて高座に上がるなど、これまでの江戸落語界の常識を破ったことでも知られる。落語協会副会長、会長を歴任し、2002年、勲四等旭日小綬章受章。 2017年4月23日 死去。享年88。(Wikipediaより抜粋) ★補足 「近親相姦」と答えたのは弟子の小円歌(現:二代目立花家橘之助)師匠だそうです。 三遊亭円歌・中沢家の人々 2016/01/28 新作・創作落語
静止画でごめんなさい 新作・創作落語(地噺・枕)のチャンネルです. 三遊亭円歌・中沢家の人々 2016/01/28 新作・創作落語 1:05:27 https://youtu.be/yqYhnevfC78 落語「月給日」三遊亭圓歌 by RAKUGO1 エンターテイメント 音声のみ、中沢家の圓歌さんです。 銀行振込みが広まったお陰でかけにくくなった演目ですが、 個人的には日本のある時代風景を切り取ったネタとして残して欲しいお噺です。 ちなみに写真の紙っぺらは私の自作なんぞでなく、 駄菓子屋で売ってる月給袋とその中に入ってる明細書です。 そのうちこういう商品もなくなっちゃうのかな… https://www.nicovideo.jp/watch/sm9221343 2009/12/28 25:09 落語「月給日」三遊亭圓歌 [エンターテイメント] 音声のみ、 中沢家の圓歌さんです。銀行振込みが広まったお陰でかけにく ... ◆【坊主��遊び】 三代目三遊亭 圓歌 2017/02/11 https://youtu.be/-RsZHyJfdCA 令和2年2月に再生回数が100万回に達しました。ありがとうございます。 平成4年の高座 三代目三遊亭圓歌師匠は平成29年4月23日、お亡くなりになりました。 (享年:満88歳)心よりご冥福をお祈りいたします。
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Favorite tweets: うちの母方の親戚、大正14年生まれの男児で、趣味は人形作りだったんだけど、親戚一同馬鹿にしないで応援して育てたら、人形作家として勲四等旭日小綬章受勲しましたわ。川本喜八郎って言って、ヒカリエにギャラリーがあります。子供の可能性潰した��勿体ないなと。 https://t.co/BLTSdMEA9b— ロキ (@mugi5775) November 28, 2019
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Favorite tweets
うちの母方の親戚、大正14年生まれの男児で、趣味は人形作りだったんだけど、親戚一同馬鹿にしないで応援して育てたら、人形作家として勲四等旭日小綬章受勲しましたわ。 川本喜八郎って言って、ヒカリエにギャラリーがあります。 子供の可能性潰したら勿体ないなと。 https://t.co/BLTSdMEA9b
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人間国宝・鶴澤寛治さん死去 89歳 文楽三味線
#文楽 #人形浄瑠璃 [楽天 Woman]人形浄瑠璃文楽座・三味線で勲四等旭日小綬章、重要無形文化財保持者(人間国宝)の鶴澤寛治(本名白井康夫)さんが5日、生駒市内の病院で ...
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紀伊田辺「扇ヶ浜公園」は風光明媚で偉人の石碑がいっぱい! ORICON NEWS 柔術・剣術といった各武術の修行の成果を神道の研究から得た独自の精神哲学で、まとめ直した「合気道」を創設。後に紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、正五位勲三等瑞宝章を受賞しました。元大相撲力士、憲兵隊、剣道家、柔道家との信じられないような逸話が多く残っており、 ...
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【満員御礼】『仲代達矢が語る日本映画黄金時代 完全版』 (文春文庫)刊行記念 仲代達矢さん×春日太一さん トークショー
【満員御礼】となりました。
これがプロフェッショナルの凄味! 名監督との出会い、伝説の俳優との撮影秘話から現在の映画界や芸談、役者論まで! ―― 80歳を超えてなお活躍する役者 仲代達矢。 映画史の生き証人ともいえる氏に、岡本喜八、黒澤明、成瀬巳喜男、小林正樹ら名監督との出会いから高峰秀子、原節子、夏目雅子、勝新太郎ら伝説の俳優との仕事、そして現在の映画界に至るまで、稀代の時代劇・映画史研究家 春日太一がインタビューし尽くした濃密な一冊! 文庫化にあたり新章「仲代達矢の現在地」を追加し、大幅加筆。 NEW YORK FESTIVALS WORLD’S BEST TV & FILMS(2017)のDrama Special部門にて、金賞を受賞した主演時代劇『果し合い』の現場ルポも収録。 待望の完全版刊行を記念したトークショーです。 ※トークショー終了後、春日太一さんのサイン会をおこないます。仲代達矢さんのサイン会はありません。
日時:2017年9月20日 (水) 18:00~(開場:17:30) 会場:本店 8F ギャラリー 募集人員:100名(申し込み先着順)※ご好評につき満員となりました。
申込方法 当店で対象書籍をお買い上げのお客さまに1階カウンターにて参加整理券をお渡しいたします。 また、お電話によるご予約も承ります。(電話番号:03-3281-8201) ※書籍の発売前でもご予約を承ります。ご購入は開催当日で結構です。 ※参加整理券1枚につき、お1人のご入場とさせていただきます。 ▼対象書籍:『仲代達矢が語る日本映画黄金時代 完全版』 (本体価格790円、9/5発売)
主催:八重洲ブックセンター
仲代達矢(なかだい たつや) 1932(昭和7)年東京生まれ。80歳を超えてなお活躍しつづける役者。1975年俳優を育成する私塾「無名塾」を、亡き妻・宮崎恭子(女優・脚本家・演出家)と共に設立。塾員・塾生と共に無名塾公演で全国を巡演。「どん底」「リチャード三世」「ドライビング・ミス・デイジー」などの舞台で、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞、紀伊国屋演劇賞、読売演劇賞ほか数々の賞を受賞している。 近年は若き才能と組んだ作品も多く、小林政広監督「日本の悲劇」、稲塚秀孝監督「NORIN TEN—稲塚権次郎物語」など。テレビドラマの代表作では「新平家物語」「大地の子」ほか多数。2007年文化功労者。勲四等旭日小綬章、川喜多賞、朝日賞など受章多数。2015年文化勲章受章。
春日太一(かすが たいち) 1977(昭和52)年東京生まれ。時代劇・映画史研究家。 日本大学大学院博士後期課程修了。 著書に『天才 勝新太郎』『時代劇は死なず!』『仁義なき日本沈没』『市川崑と「犬神家の一族」』『鬼才 五社英雄の生涯』など多数。
イベント情報の詳細はこちら
from honyade.com http://ift.tt/2w3VXYk
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三遊亭円歌さん
#落語 #三遊亭歌る多 [毎日新聞]戦後の寄席を支え、爆笑新作落語で人気だった落語協会最高顧問の三遊亭円歌(さんゆうてい・えんか、本名 ... 歌之介さん、歌武蔵さん、初の女性真打ちの歌る多さんら多くの弟子も育てた。 02年、勲四等旭日小綬章受章。 戸籍では1932年生まれ ...
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紀伊田辺「扇ヶ浜公園」は風光明媚で偉人の石碑がいっぱい! ORICON NEWS 柔術・剣術といった各武術の修行の成果を神道の研究から得た独自の精神哲学で、まとめ直した「合気道」を創設。後に紫綬褒章、勲四等旭日小綬章、正五位勲三等瑞宝章を受賞しました。元大相撲力士、憲兵隊、剣道家、柔道家との信じられないような逸話が多く残っており、 ...
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