#福建焼きそ���
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✿ 福建焼きそば ホッケンミー ✍️ 赤ワイン,アンチョビペースト
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Shuri Castle - Burning castle of the Ryukyu Dynasty (Ref)
Shuri Castle, the royal castle of the Ryukyu Dynasty, was once the political, economic and cultural centre of that maritime kingdom. The date of construction of Shuri Castle is not known, but it is thought to have been built in the late 13th and 14th centuries during the Gusuku period.
Until the end of the 16th century, the Ryukyu Kingdom remained independent in turbulent East Asia, as did Korea and Vietnam, but was invaded and ruled by the Satsuma clan (now Kyusyu, Japan), and became a vassal state in the early 17th century.
After several fires and war damage, and repeated rebuilding, the World Heritage Site Shuri Castle was once again destroyed by a sudden fire on 31 October 2019, which lasted about eight hours and destroyed nine buildings and historical heritage sites, including the main hall. It is currently being rebuilt with a view to restoration in 2026.
The first burning occurred in 1453 during the struggle for the throne that followed the death of King Shō Kinpuku of the 1st Shō dynasty (Shiro-Furi Rebellion), when the castle was completely destroyed. The second fire, in 1660, took 11 years to rebuild, and the third fire in 1709 destroyed the main, north and south halls.
After the Ryukyu Disposition following the establishment of Okinawa Pref. by Japanese Government in 1879, the main hall and other buildings of Shuri Castle lost their role as the seat of government and were sold to the Japanese Army's 6th Division (Kumamoto, Japan) as a military camp and then to Shuri Ward (later Shuri City), which used them as school buildings for girls' schools.
It was almost completely destroyed during the Battle of Okinawa (WWⅡ) in 1945 and the construction of the University after the war, leaving only a small portion of the castle walls and building foundations remaining.
Full-scale reconstruction was considered in the 1980s, and the restoration work, which took about 40 years, was completed in January 2019. In October of the same year, a mysterious fire destroyed the castle again.
Shuri Castle, which has been repeatedly persecuted and burnt down but continues to revive, seems to symbolise Ryukyuan culture itself.
首里城 〜 燃え続ける琉球王朝のお城(参照)
琉球王朝の王城、首里城はかつてその海洋王国の政治・経済・文化の中心にあった。首里城の築城年代は明らかではないが、13世紀後半から14世紀にかけてのグスク造営期の時代に築城されたと考えられている。
琉球王国は16世紀末まで、朝鮮やベトナムと同様に激動の東アジアで独立を保っていたが、薩摩藩 (現在の九州)の侵略と支配を受け、17世紀初頭に属国となった。
世界遺産でもある首里城は、数度の火災や戦災を経て、再建を繰り返してきたが、ついに2019年10月31日、約8時間にわたる突然の火災により、本殿を含む9つの建物や歴史遺産を焼失した。現在、2026年の復興に向け、再建中である。
1度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死後に発生した王位争い (志魯・布里の乱) であり、城内は完全に破壊された。2度目の焼失は1660年のことであり再建に11年の年月を要した。1709年には3度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。
1879年の日本政府による沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団 (熊本) の軍営として、その後は首里区 (後の首里市) に払い下げられ、女学校の校舎として利用された。
1945年の沖縄戦や戦後の琉球大学建設でほぼ全壊し、城壁や建物の基礎の一部が残るのみであった。1980年代に本格的な再建が検討され、約40年の歳月をかけた修復工事が2019年1月に完了した。同年10月、謎の大火災により再び焼失した。
迫害や焼失を繰り返しながらも復活を続ける首里城は、琉球文化そのものを象徴しているようだ。
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【かいわいの時】慶長十一年(1606)十二月十三日:秀頼、生国魂神社を再建(大阪市史編纂所)
家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた(略)当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など(柏原市「玉手山物語」)。※原文ママ
石山本願寺建立の際には、この生国魂神社を隣接地に遷座して建立したとも言われるが、だとするならば石山本願寺は生国魂神社の最初の鎮座地に存在したことになる。また、近年の研究によれば石山本願寺は豊臣期の大阪城の詰之丸に存在したとの説もあるが、これがもし事実ならば、生国魂神社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周辺ということになる。 戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失した。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を造営し、天正13年(1585年)に遷座した。このときに造営された社殿は、「生国魂造」と呼ばれる、流造の屋根の正面の屋上に千鳥破風、唐破風さらにその上に千鳥破風と3重に破風を乗せるという独特の建築様式のものである(いくたま夏祭りみこし会)。
(写真)『摂津名所図会 巻之三』より「生玉神社 其二」(スミソニアン蔵)。
江戸時代には、豊臣秀頼により造営された社殿が慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による兵火で焼失したが、江戸幕府により社殿は再興され、社領300石も安堵された。寛永-正保期(1624 - 1648年)の「摂津国高帳」によれば、その社領地は下難波村(現在の浪速区)にあった。また5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院は、黄金若干を当社に寄進したという。『摂津名所図会』では、当時の境内��様子や走馬神事の様子などが描かれている。幕末の『浪花百景』にも絵馬堂、弁天池が選ばれている。弘化2年(1845年)には、社殿の造替がなされた《略》1912年(明治45年)1月には「南の大火」により社殿を焼失し、1913年(大正2年)11月に再建された。しかし1945年(昭和20年)3月13日・14日の第1回大阪大空襲により再び焼失した。1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列され、翌1949年(昭和24年)7月に本殿が再建されるも、1950年(昭和25年)9月のジェーン台風で倒壊してしまった。その後、1956年(昭和31年)4月に鉄筋コンクリート造で再建された(ウィキペディア)。
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稽古日誌っていつぶりだっけ
お疲れ様です。大福小餅です。
ちょっと過ぎましたがおそらくセーフだと思って多分10/7の稽古日誌を投稿します(間違ってる可能性あり)
今日やったこと
発声、ポーズ継承エチュード、古今東西、動きつけ、読み合わせ
…古今東西の後遺症に未だ苦しめられてます
さて、皆さんはウズベキスタンという国を知っていますか?
ウズベキスタンは中央アジアに位置する内陸国です。シルクロードの要所として栄え、ティムールが都を置いた場所としても有名です。青いタイルの建物がとても綺麗です。串焼きが美味しいらしいです。バザール楽しそうです。スザニ(刺繍布)とてもきれいです
なんで稽古日誌でウズベキスタンを語っているかって?
喋りたいからです
ぜひ休憩時間にウズベキスタンの話題をふってみてください。カバンからガイドブックを取り出して押しを布教するのと同じテンションで話し出すでしょう。
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北海道でおいしかったお店を2軒記録。
2日目のお昼に行った札幌のとぐちというラーメン屋さん。
私は福岡出身なので細くてまっすぐな麺がおなじみなんだけど、札幌ラーメンの黄色くて太い麺は食べ応えがあってすっごくおいしかった🍜こってり味噌味のスープも好きでした。
お水飲んで締めても気が付いたらレンゲを持ってスープをすくってるの繰り返し😂
夜は小樽に戻って天狗丸というジンギスカンのお店に行きました👺⬇⬇
カウンターだけの小さなお店で昭和な雰囲気。綺麗な女将さんがジンギスカンや北海道のことを話しながら丁寧に焼いてくれたお肉は、柔らかくてすっごく美味しかった。自家製のタレも最高。
北海道は、見るものすべてが新鮮で本当に素敵なところだった。
私が見た地域は、住宅の屋根が平らでほとんどの家に屋根に上がるハシゴがついてた。玄関はガラスで囲ってあって(天狗丸の女将さんが“玄関フード”という言葉を教えてくれました)、今は真夏だけど、ここには私が想像もできないような厳しい冬が来るんだなと思いました。
マカロンみたいに淡い色の外壁で凹凸があまりない洋風な住宅が多くて、街全体がメルヘンチックでかわいい。
札幌の中心部以外は集合住宅が少なくて、高い建物はホテルくらい。森はあるけど山がないからすごく遠くまで見渡せて本当に広い。
街路樹の育ち方も豪快で、ここまで枝が伸びたら広島なら切られちゃうだろうな、ってくらい枝がスクスク育ってた。クリスマスツリーみたいな木がいたるところに生えていてロマンチックでした🎄
あと農業のスケールが桁違い👀
以前北海道在住の友達が、「北海道は海外だから」って言ってたけど、ほんとそうだなって思いました。
またいつか行けるといいな☺️
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伊勢神宮へ 酔いと音の古殿地
先日、友人のピアニストであるふじいさんと伊勢神宮に行った。初めて観光地で昼間からお酒をのむということをし、今までの観光のなかでいちばん心地よく頭のまわらなさ、とてもよい小旅行だった。またわたしは偶然、京都の伏見と混号になっている伊勢特集のブラタモリを所持しており、これが今回とても役に立った。前の週に予習として読んだときは(ふ〜ん、)というくらいだったが、伊勢までの電車の中で読むと既に実感を伴い、(知識にも入れどきってもんがあるのよ〜)となった。わたしの人生初のお伊勢参りは午前中だったからか観光地としては非常にちょうど良いくらいの人の多さ(多くなく)で、曇り雨���報もお伊勢参り中は全く降られることなくとても良かった。神宮のつくりと見かけ、また観光地としての佇まいはとても美しく、気高く、tidyな賢さのある観光地であった。おおきく見ていてうれしかったポイントとしてはふたつある。
ひとつめは古殿地のシステム。古殿地というのは、伊勢神宮は20年毎に1回式年遷宮という正殿を筆頭にいくつかの社殿を真横にそっくりそのまま建て替えるということをする。古殿地とはそのための土地、要するにholyな空き地である。この20年を節目にして建て替えられるというのは飛鳥時代の620年あたりからで、ここまでのべ62回の造り替えが行われてきたそうだ。社殿に使われる装具品なども全て作りなおされるので、伊勢神宮はトラディショナルだが常に新しいということである。して、それの何がよかったのかというと、完成された社殿に開発できるスペースが常にあると言う状態がこの神宮の格式の高さだと思えたからだ。これをふじいさんに伝えようと思ったときに何に例えると良いだろうかと参道を歩きながら考えた。大抵いつもこういう感動を伝えやすいのはエンジニアの友人であるカイくんで、彼だったらプログラミング、書ききったコードにあらかじめバッファを残すやり方とかそういうものがありそうだな、、とか思ったが、その辺のプログラミングの素養がわたしにはないし、プログラミングに例えてもわたしもふじいさんも納得感が薄い感じ〜となりそうと思うと、ピアノのスケールに例えられる気がした。スケールというのは順当に並んだ音階のこと、単純言うとドレミファソラシドという音列(これはCメジャースケール)のことで、これをたとえば片手で1オクターブ分のスケールを引くときには、(右手で弾く場合)15音に対して指は5本しかないので運指を少し工夫する必要がある。ドレミまで123(親指から番号を振り)の指で引きファの音で指を潜らせて1の指で引いてやると次のドまでの音階を残った2345の指で弾いてやることができる。これを左手で行うと(小指から逆順に番号を振り)5432/1321の運指でありここまではとても美しいシステム、指の運びだなとわたしは思うのだが、わたしが気にしているのは2オクターブ以上引くときの運指である。音の始めはいずれにしても1の指からなのだが1オクターブ上のドに辿り着く指はいずれも345の流れである。つまり2オクターブ以上引くときには間で指を潜らせたり跨がせる所作をさらに加えて行う必要がある。具体的には右手の場合は123/1234/123/12345。左手だと54321/321/321/4321となる。このときの右手の運指に問題がある。1オクターブ引き切る前に2オクターブ目のスケールに向かうための運指の変化があるのだ。つまり1オクターブのスケールを弾くときと2オクターブ引くときの指を流れ��違う。1オクターブ弾き切ってから(ア!もう1オクターブいきたいかも)にシステムとしては対応できていない。というようなことをつい先日スケールの練習をしているときにそういうことを考えていたことを思い出した。たとえばクラシックではそんな場面はあまりないかもしれないが、たとえばジャズでインプロビゼーションなどするのであれば土壇場でもう一音階上がりたいという場面があってもおかしくないのではと想像したのだ。前置きが長くなったが、どこまでも上がり下がりする音階をつくるためには一般的な運指ではなくあらかじめ次の音階に上がれる「音(指)の古殿地」が必要かもしれないということ。それを彼女に話すと、よくそんなこと思いつくと言ったあと、でもそういった場合たとえばペダルを併用したりもう一方の手でカバーを入れたりして澱みなく繋ぎ直す方法もあると教えてくれて、わたしはとても愉快になった。ふじいさんはとてもピアノが上手いし、いつも話を聞いているとピアノに対しての甘えのない人だ。そしてこの彼女がシステムを超えるためのアドホックな技巧があること、またそう言ったときの(おそらく演奏というものは必ずしもそういうことではない)というような毅然とした態度に、わたしは増してわくわくした。
ふたつめは終点の標識。伊勢神宮には愛知から名古屋を経由し国道23号線をずっと走ってくると伊勢神宮までたどり着くことができ、そこには国道23号の終わりがある。標識の23の文字の下には白地に黒文字で終点と書かれており、ことは内務省より「東京より伊勢宗廟に達する路線」 として国道9号が指定されたのが1885年、1920年には旧道路法に基づく変更にのり国道1号となり名実ともに日本を代表する幹線道路だったわけだが、終戦後に再び何度かの道路改正があり、一級二級といった区別がなくなり今の一般国道23号線になったのは1965年のことだそうだ。この終点の標識ひとつとっても、当時からの伊勢神宮の位の高さが伺える。神宮としてあり続けるために観光面においても、御司という平安から明治の初めにかけて多くいた伊勢神宮への参拝のための旅行コンシェルジュのような存在や、江戸の街並みを再現したおはらい町など、伊勢神宮の気高さは街全体がつくってきたのだ。そして終点もそのひとつ。観光地が維持されながらも同時にアップデートされていく一端を見れてとてもうれしい心持ちであった。なんといっても「終点」 というのが良い、目的地のなかでも終点と言われてしまえば(真に目指す必要のある場所だ!)と思うのも頷ける。
とりあえず外宮と内宮を見て周り、初お伊勢参りとしては十分及第点だろうといったところで、そのまま横に流れ、おはらい町へ。てこね寿司を食べようと思ったが、ふじいさんがそんなに乗り気ではないように思われたので、とりあえずコロッケのおいしいという店でコロッケとメンチカツを頼んだタイミングで、焼酎をのもうと言われ2号をふたりで飲んだら、すごくきれいに酩酊。わたしは観光地ではいつも専ら学習モチベーションが高く、神宮でも、最高な巨木!美しい五十鈴川。気高き社殿群と、直感的には伊勢の空気に触れつつもしばしばブラタモリを開いてはふむふむしていたお昼まで、初めて旅行先の外でしっかり酔っ払いとても愉快であった。神宮に行く前に伊勢うどんを食べたこともあり、めちゃくちゃ腹減りという感じでもなく、すっかり機嫌の良いわたしたちは観光地とはおおよそ関係の希薄そうなアイスクリームを食べ、こちらは子供サイズというひと巻きかふた巻きほど少ないのが大きさのものがあり、一個は多いが、というニーズにぴったりであった。その後は本店の赤福を食べ、ふじいさんの友人の谷さんいわくお土産の赤福とは一線を画すとの前情報であったが、たしかに、食感においていつもの赤福より餅が柔く、餡も心なしかみずみずしいように感じられた。このあたりでは少し酔いが覚めてきて、非常にちょうど良さではあったが、良さのもう一段上、更なる心地よさへの高みに想像がはたらき(酔いの古殿地)、別のお店であともう一杯だけ日本酒をのむと、それはなんとも贅沢な昼の心地であった。そうこうしているとおおよそ帰路に着く時間に近づいてきていたので、わたしのリクエストでバスで宇治山田駅へと向かう。かく宇治山田駅もお伊勢参りの後援として一役買っている重要な場所である。1931年に建てられたこのモダン調の駅舎は近鉄電車、大阪のなんばから宇治山田駅間を2時間ほどで繋いでおり、関西から参拝にくるひとの多くが利用するルートのひとつである。ちなみにブラタモリには駅舎のテラコッタ色のタイルが印象的であると書かれていたのだが、わたしが見る限りではどこにテラコッタ色のタイルはなく(見つけられず)、それは少し悔やまれたが、しかしそんなことはどうでも良いと思わせるほどのサプライズがあった。なんと宇治山田駅にはストリートピアノなるものが設置��れていたのだ。開けた構内には普段であればちょっとピアノ弾くか迷うくらいのひとの多さがあったが、ここで追い日本酒がほどよく効いていたのもあり、純粋に突如現れたグランドピアノにテンションがあがった。思いもしないタイミングでふじいさんの演奏を直に聴くことができるのがうれしい。確実に演奏家として彼女の方がはるかに上手に弾くだろうと思ったので、先に私から演奏する。すこし音をならすと、非常に良い調律というか鍵盤の硬さで(あとでピアノの写真を見返すとYAMAHAであった)、初見でこんなに手に馴染むピアノがめずらしく、また酔いも助けてわたしはとても良いモチベーションで演奏できた。楽しく弾くことができたし聴き手からしても楽しさ〜という演奏になっていたように思う。あとからあれはBLUE GIANTの2巻でダイが、「音楽はいいな〜音楽はスゲェな〜を吹きます」 のシーンの心持ちだった。それからふじいさんの演奏。連弾用に椅子が二脚あり横に座って聴いたのだが、彼女の演奏はとても流暢で、酔いのなか、彼女としてはどんな出来だったのかは分からないが、とても軽やかで流れのある水を撫でているような心地よさ、砕けたいうにはいささか繊細な粒子の細かいフランクな音でとてもよかった。彼女の手の動きは見ていてもおもしろかったし、途中からは音楽に身を委ねて目を瞑って聴いたのであった。彼女は2曲(だったと思う)弾いてくれ、一曲はラヴェルだと言っていた(もう一曲はなんだったんだろう)そのあとは少しだけふたりでポロポロと弾いたり弾かなかったりした。あらためてとても良い旅であった。
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NoBarbenheimer
今回の件���原爆投下/原水爆をミーム化/ネタ化する動きの加速に対して。フェミニズムな作品であることがとても楽しみだったバービーの……“公式アカウント”が乗っかっていたという事実。そのショックについて。自分も抗議を送ったりTwitter/Tumblrでタグを使ったひとりですが、
「日本のみ」が被爆国ではないし、「日本人とされれる人々のみ」が被爆被害者ではない。
凡ゆる国と地域で被爆被害があり、凡ゆる国や地域の人々が、被害者が、世界中にいること。
“戦争被爆国”としての日本においては、戦時下で、軍国主義/差別主義の中で更に更にマイノリティとして虐げられた人々が、植民地支配/強制連行による被害者や、捕虜として収容されていた人々が、沢山、犠牲になっているし、その後も苦しみ続けている。日本/政府による迫害と差別に晒されている。その存在が、事実が、歴史が、蔑ろにされ続けている。
原爆/原水爆の犠牲者が、被害者が、いまも、世界で、さまざまな場所で、苦しみ続けていること。その歴史について。
それらを踏みにじるような言葉も、それらについて誤った認識を与える言葉も、Twitter上では多く(差別主義者/ネトウヨ/極右なども、バービーという作品そのものとそこにあるフェミニズムや多様性に対する一方的な揶揄/叩きや、韓国へのデマ/ヘイトや、他の悲惨な歴史や事件を更にミームにして茶化し出すという……醜悪な最低最悪な行いをぶち撒けながら、この抗議タグをTwitter上で利用してきていることもあり、)かなり蔓延してきてるようなので。
Twitterで今回自分がRTさせて頂いた……さまざまな方々が紹介していた記事や��ーカイブ/今までTwitter上で自分がRTしてきたり引用してきたりした記事なども、自分用と兼ねて、いくつか、改めて、此方にも引用してみます。
また、再度、強調したいのですが、
日本は、今なお、戦争責任/加害の歴史に向き合おうとしない。戦争の責任と記録と歴史を忘却し、捻じ曲げようとする歴史修正主義が、まさにいま、どんどん勢いを増し続けている現状。核廃絶について背を向けるばかりか、核武装について“柔軟な議論”などとほざいて嬉々として語り出す連中が、差別主義者の糞どもが、万年与党であること。
そこを無視することこそ、恐ろしいことで、忘れてはならないこと。(これもほんと繰り返しだが、この現状だからこそ、戦争/核を軽視しないための抗議の責任があること、強調したい)
・日本だけではない、被爆国
「核兵器を開発するためには実験が必要です。1945年、アメリカのニューメキシコ州で世界で初めての核実験が行われてから、これまで2,050回以上の核実験が行われきました。
アメリカはネバダ砂漠や太平洋でロシアはカザフスタンや北極海で、イギリスはオーストラリアや太平洋の島国で、フランスはアルジェリアや南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチで中国は新疆ウイグル自治区で実施しました。ワシントンやモスクワなどの大都市から遠く離れ、多くの場合は植民地や先住民族の暮らしている土地でした。(川崎 哲「核兵器はなくせる」、岩波ジュニア新書、2018)」
・Hiroshima and Nagasaki: A Multilingual Bibliography
「ABOUT US: The Aim of Our Project
In 2014, a year before the 70th anniversary of the atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki, we started our survey and research into the multilingual publication of atomic bomb literature. Our goal is to make a comprehensive survey into the process of worldwide acknowledgment of Hiroshima and Nagasaki for 70 years.」
・外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑
「この戦争の末期、長崎では数次にわたる米軍の空襲、潜水艦攻撃、そして八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギ リス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。
特に浦上刑務所のあった隣接する丘では、三十二名の中国人、十三名の朝鮮人が、日本人 受刑者とともに爆死し、また香焼や幸町の捕虜収容所では、被爆前に病気や事故などによ って数百名の連合軍兵士が死亡した」
「碑の建立に力を注いだのは、戦時中に収容所の職員だった田島治太夫さん(九九年死去)。一緒に運動した鎌田信子さん(72)は「日本人だけでなく、多くの外国人が犠牲になったことを知ってもらいたい」と語る。」(2005/07/15 掲載記事)
・被爆2世、女性として直面した複合差別 ――「韓国のヒロシマ」陜川から
「2023年2月7日、被爆者の援護を定めた法の対象外となっているのは不当だとして、被爆2世が国を訴えていた裁判の判決が広島地裁で言い渡された。「不当な差別とは評価できない」などとして、原告の訴えは棄却された。被爆2世に対しては、厚生労働省が定めた要綱に基づく健康診断が実施されているものの、がん検診はそこに含まれず、各種手当の交付なども受けられない。」
「原爆被害に加え、それ以前からの植民地支配に翻弄されてきた韓国人被爆者の次世代も、「線引きの外側」に置かれ、公的な支えを受けられずに生きてきた。」
・80歳を過ぎて語り始めた被爆体験――福島へ手渡したい思いとは
「切明さんの話は、「あの日」から始まるのではなく、軍都「廣島」の話から始まる。
「広島は今、平和を守ることや、核兵器廃絶を掲げていますが、77年前までは軍国主義の街でした」
切明さんが国民学校2年生の時、満州事変が起きる。広島城の周辺には陸軍の師団が置かれており、宇品港は中国大陸や、その後の東南アジアの国々侵略のための出発港だった。」
・「存在しない」とされた残留放射線、内部被ばくの被害を認めない政府
「こうした政府の態度の根底にあるのは、残留放射線による内部被ばくの否定だ。放射性物質を体内に取り込む危険性から目を背ける、その姿勢の源流を知るためには、日米の歴史を紐解く必要がある。
『原水爆時代〈上〉―現代史の証言』(今堀誠二)や 『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』(木村朗、高橋博子)でも示されているが、原爆投下から1ヵ月後、マンハッタン計画の副責任者であるトーマス・ファーレル氏は、下記のような声明を発表したとされる。
「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能の余燼ために苦しんでいる者は皆無だ」
残留放射能が存在しないとした理由について記者からの質問を受け、ファーレル氏は「相当の高度で爆発させた」ことを挙げていた。
なぜこうした声明を出すに至ったのか。『核の戦後史』の他、『封印されたヒロシマ・ナガサキ』などの著者でもある奈良大学の高橋博子教授は、占領を円滑に進める必要がある米国側の意図を指摘する。
「声明には、原爆投下が国際法違反であることを否定し、広島を取材した連合国軍記者による報道を打ち消す狙いがあったと思われます」 」
「 「日本政府は核兵器の残酷さや非人道性を訴えるどころか、その“威力”を重視し、原爆攻撃をした米国と一緒になって、核兵器の有効性を世界に向けて訴えてきたといえます。核の“パワー”の肯定的イメージを拡散してきた、世界に対する責任は重いと思います」 」
・«さもしいといって下さいますな» 福田須磨子さんの思い 原爆を背負って(30)
「 《何も彼(か)も いやになりました 原子野に屹立(きつりつ)する巨大な平和像 それはいい それはいいけど そのお金で何とかならなかったかしら “石の像は食えぬし腹の足しにならぬ” さもしいといって下さいますな 原爆後十年をぎりぎりに生きる 被災者の偽らぬ心境です》
1955年8月、被爆詩人・福田須磨子さん=74年に52歳で死去=が詠んだ詩「ひとりごと」です。須磨子さんは23歳のとき、爆心地から1・8キロ地点で被爆。高熱や脱毛など後遺症に苦しみ、紅斑症にもかかります。身体的、精神的苦痛と生活苦にさいなまれる日々…。3千万円の巨費を投じて造られた平和祈念像を見て、この詩を詠みました。」
・問われる空襲被害者の戦後補償
この記事は2020年放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を下地にした2021年放送のクローズアップ現代の記事です。もとのNHKスペシャルを記事化したページは……もう削除されてしまい、この別番組の記事しか残っていない状況です。
被爆被害とは違った話なのですが、日本が戦後も、ずっと、いかに、国内外問わず、戦争責任に向き合っていない国であるか。民間人/市民を切り捨て、権力者/軍部を優遇してきたか。それがわかりやすい記事のひとつとして、引用します。
以下はNHKスペシャルの特集記事から当時引用した文面です。
「大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。その一方で、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。」
「国家が総動員体制で遂行し、破滅への道をたどった日本の戦争。犠牲となった民間人は80万人。戦後、国家補償を求めた民間被害者の訴えは一貫して退けられてきた。」
「ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大していった日本の戦後補償」
(しかしNHKの戦争責任を問う特集関係の読みやすいWEB記事や記録は……数年しか残さない、消されてしまうし。オンデマンド配信に全て入る訳ではないようだしで。戦争の真実シリーズの731部隊の特集の書籍化は何年も延期が続き、今年やっと……出版されそう……?である現状(何かしらの検閲を受けていないかが、不安である)、本当に不気味で、最悪だ)
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バビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
列王記下25・1-12
バビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。
列王記
25・1ゼデキヤの治世第九年の第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは全軍を率いてエルサレムに到着し、陣を敷き、周りに堡塁を築いた。2都は包囲され、ゼデキヤ王の第十一年に至った。3その月の九日に都の中で飢えが厳しくなり、国の民の食糧が尽き、4都の一角が破られた。カルデア人が都を取り巻いていたが、戦士たちは皆、夜中に王の園に近い二つの城壁の間にある門を通って逃げ出した。王はアラバに向かって行った。5カルデア軍は王の後を追い、エリコの荒��地で彼に追いついた。王の軍隊はすべて王を離れ去ってちりぢりになった。6王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。7彼らはゼデキヤの目の前で彼の王子たちを殺し、その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。8第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、9主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。10また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。11民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。12この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。
答唱詩編
詩編137・1+2、3+4、答5+6
エルサレムよ、おま��を忘れるよりは、わたしの右手がなえたほうがよい。エルサレムを思わず、最上の喜びとしないなら、わたしは口がきけなくなったほうがよい。
詩編137
137・1バビロンの流れのほとりにすわり、 柳にたて琴をかけ、 2シオンをおもい、 すすり泣いた。
3わたしたちをとりこにしたものが、歌をもとめ、 しいたげる者がなぐさみに 「シオンの歌をうたえ」と命じた。 4異国の地にあって、どうして主の歌がうたえよう。
福音朗読
マタイ8・1-4
アレルヤ、アレルヤ。主は私たちの病を身に負い、わたしたちの苦しみを担ってくださる。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
そのとき、8・1イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。2すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」
聖ペトロ、聖パウロ使徒・前晩のミサ 聖人の記念
第一朗読
使徒言行録3・1-10
わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名��よって立ち上がり、歩きなさい。
使徒たちの宣教
その日、3・1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。
答唱詩編
詩編19・2+3、4+5
天は神の栄光を語り、大空はみ手のわざを告げる。
詩編19
19・2天は神の栄光を語り、 大空はみ手のわざを告げる。 3日は日にことばを語り継ぎ、 夜は夜に知識を伝える。
4ことばでもなく、話でもなく、 その声も聞こえないが、 その響きは地を覆い、その知らせは世界に及ぶ。 5神は天に太陽の幕屋をすえられた。
第ニ朗読
ガラテヤ1・11-20
わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。
使徒パウロのガラテヤの教会ヘの手紙
1・11兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。12わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。13あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。15しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、17また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。18それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19ほかの使徒��はだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。20わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。
福音朗読
ヨハネ21・15-19
アレルヤ、アレルヤ。あなたはいわお。この岩の上にわたしの教会を建てよう。地獄の門もこれに勝つことはできない。アレルヤ、アレルヤ。
ヨハネによる福音
イエスは、弟子たちに御自身を表され、食事を共にされた。21・15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。
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福山市駅家町に鎮座する服部八幡神社です 初代の備後守護の頼朝の重臣土肥実平と梶原景時によって鶴岡八幡宮より勧請し創建しました 鶴岡八幡宮は元々河内源氏二代目源頼義が石清水八幡もしくは壷井八幡より勧請し創建しましたが時代はくだって源頼朝が鶴岡若宮として鎌倉幕府の中心としましたが社殿を焼失して改めて岩清水八幡宮より勧請し現在の鶴岡八幡宮です その造営に多大に寄与したのが頼朝の重臣土肥実平で備後守護になったことで源氏の武運にあやかり全国に八幡神が勧請されて行きましたがその先駆けになった神社の一社です 神前読経する特殊神事「風祈祷」で知られているそうです 境内は中心に八幡宮本殿と両脇に艮神社、稲荷社を摂している配置になっています #服部八幡神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 服部八幡神社(はっとりはちまんじんじゃ) 鎮座地:広島県福山市駅家町服部永谷94 主祭神:応神天皇、神功皇后、仲哀天皇 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社とわたしの思い出#神社建築#神社仏閣#パワースポット#広島県#福山市 (Ekiyacho Oazahatsutorinagatani, Fukuyama-shi) https://www.instagram.com/p/CmosSZ3v4g3/?igshid=NGJjMDIxMWI=
#服部八幡神社#神社#神社巡り#神社好き#神社好きな人と繋がりたい#神道#shrine#shinto#日本の風景#参拝#神社巡拝家#recotrip#神社フォトコンわたしと神社#神社とわたしの思い出#神社建築#神社仏閣#パワースポット#広島県#福山市
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愛染明王坐像〔重文)奈良国立博物館蔵
建長8年、 山城国相楽郡〔現在の京都府木津川市)で、大仏師・快成と小佛師快尊・快弁の手によって東大寺大仏殿の焼け残りの柱材を用いて造像・建立された愛染明王。
願主は真言律宗の開祖・叡尊の高弟で阿闇梨の寂澄。
尚、叡尊の高祖は空海です。
真言律宗は真言密教とその戒律である三昧耶戒(さんまやかい)を修学する宗派。
三昧耶戒とは、サンスクリット語のサマヤ(約束・契約という意味)からきており、仏との約束に基づく戒めと誓約という密教だけに存在する戒律のことを三昧耶戒といいます。
鎌倉・室町時代に一大宗派に躍り出た真言律宗ですが、明治時代にこの宗派も例外なく薩摩・長州の輩連中による廃仏毀釈によって復活が不可能というくらいの壊滅的な被害を受けました。
しかしその後、さまざまな知識人や常識ある人々の助けもあり、現在、北は福島、南は熊本まで100近くの末寺を擁する宗団にまで復活しました。
数多な国宝を有する京都・浄瑠璃寺も真言律宗の寺院です。
浄瑠璃寺はもともと奈良・興福寺の末寺でしたが、薩摩・長州からの廃仏毀釈で壊滅的な被害を受けた興福寺と同じ被害を受けないようにと、真言律宗に転じ貴重な文化財を守りました。
鎌倉時代作、奈良国立博物館蔵の重文・愛染明王。
真紅の身体と三眼六臂の憤怒相、怒髪天の頭上には、ひとたび雄たけびをあげれば、どんな猛獣や邪鬼もおとなしくなるという獅子の冠、後部には執着や愛欲を焼き尽くす日輪形光背、腕には煩悩を打ち砕く五鈷杵に衆生の眼を覚まさせる鈴の五鈷鈴、悟りの世界の象徴である蓮の花、そしてトレードマークであるキューピットのような弓矢などを持っています。
仏教における仏は、そのいくつかが古代ローマ神話に出てくる神が起源になっています。
愛染明王もローマ神話の神クピードー(キューピット)が地中海からシルクロードを通り中央アジアでヒンズー教の神仏に姿かたちを変え、日本に伝わってくる過程で、このスタイルになったといわれています。
愛染明王は左手の第三の手だけは何も持っていない金剛拳のように見えますが、この拳の中には衆生の思いや願いに応じるための摩尼宝珠を隠し持っています。
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✿ ホッケン・ミー | Hokkien Mee ・シンガポール、マレーシアなどで食べられている焼きそばの一種。福建ミー、福建焼きそばなどとも呼ばれる。主に、シンガポール式、クアラルンプール式があり、味付けや具に違いがある。 ・マレーシアのクアラルンプール式ホッケン・ミーは、かん水を使った黄色い太麺を用い、ラード、黒い醤油、豚肉、菜心、キャベツなどの具を使った、色の濃い焼きそばである。ホッキエン・チャー・ミー(閩南語 福建炒麵。英語 Hokkien char mee、Hokkien fried noodles)とも呼ばれ、クアラルンプールだけでなく、スランゴール州など、Klang Valleyとよばれるクラン川流域の町でも見られる。 クアラルンプール式ホッケン・ミーの発祥は1930年前後にさかのぼり、中華民国福建省安渓県出身の王金蓮が1927年にマレーシアに移り住み、クアラルンプールのチャイナタウンである茨廠街付近で屋台を開いて出したとされる。当初は、福建省で一般的な汁そばを主力にしたが、熱帯気候に合わず、「大地魚」と呼ばれるヒラメ類の乾物の粉末、黒い醤油を使ってうまみや濃厚な味を出し、それを麺にしみこませ、からませたものにして、人気を得た。食べる時には、好みでサンバル・ブラチャンや唐辛子ペーストを付ける。
#hokkien mee#ホッケンミー#ホッケン・ミー#福建焼きそば#福建ミー#福建麺#マレーシア:めん#マレーシア:主食#マレーシア#2020〜#豚肉#やきそは#焼きそば#東南アジア#food:まれーマレーシア:クアラルンプール#福建炒麺
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野芥縁切地蔵尊(福岡市早良区)
全国的に有名なようで、多くの人の深い願いが込められた場所であります。
説明板の前に車1台分の駐車スペースがあります。バス通りからもそう離れてません。(資さんうどん野芥店があ��辺り)
事の起こりは何と「和銅」の頃 ~ 『1300年程前に粕屋の姫が重留の長者の息子に嫁ぐ途中、「花婿は死んだ」と嘘の知らせを信じて野芥の地で自害。姫を不憫に思った村人が弔うために建てた』(福岡市のページより)のが始まりだそうです。その後に男女の縁切り、今は一切の悪縁諸病との縁切りに霊験あらたかであると全国的に有名になったそうです。
お堂は昭和60年に火災で全焼し、その後に再建されてます。階段を登る必要がありますが、決しておどろおどろしい場所ではありません。
火災防止のためマッチやライターは置いてないので必要な人は持参してください、またろうそくに火を灯した場合は必ず消して帰って下さいとなってます。(祈願文を留める押しピンは置かれてます。また、近所にマックスバリューがあります。)
お地蔵さまは縁切りを願う人々によって削られてきたそうです。
近所のリサイクルショップ TOMO(南へ歩いてすぐ)で絵馬を取り扱ってるそうです。
手水舎
すぐ前の裏道を通るバスもある ~ 国道まで出た方が便数が多い。
お堂側の階段から
こちらは何気にスルーしました。(個人が置いたように感じた)
駐車スペース側の階段から
福岡在住でも知らない人が多そうだし、知ってても「むやみにお参りする場所じゃない」って思ってる人も多そうです。確かに多くの人の切実な願い・念が込められた場所ではありますが、お姫様を弔う気持ちや自分の邪心を静める気持ちでお参りするのは良いのではないでしょうか。とは言っても、他の参拝者が居る時は邪魔にならないよう時間を空けたほうが良いかもです。「迂闊に参拝してはいけない神社」(実際にあると思う)とは違って、多くの神社仏閣と同じで心を静めることができる場所のように感じました。まして、縁切り祈願で訪れる方にはなおさらではないでしょうか。(ちょっと言い訳っぽくなってます)
2024.4.14
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春日東西両塔跡 春日塔跡は春日大社の一の鳥居を入った参道の左側 (現在の奈良国立博物館構内) に、東西に並ぶ2基の塔跡である。神仏習合思想にもとづいて神社にも仏教の塔を建立した代表的遺構であり、両塔のありし日の偉容は多くの春日宮曼荼羅に描かれている。 西塔(現在地より西へ約90m)永久4年(1116)に関白藤原忠実により造営され、東塔(現在地)は鳥羽上皇の本願により保延6年(1140)に建立された。そのため西塔は"殿下の御塔"、東塔は"院の御塔"と称されていた。ところが治承4年(1180)に平重衡の南部焼打にあって焼失し、相次いで再建されたものの、応永18年(1411)の雷火にあって再び焼失した。その後は再建されることなく今日におよんでいる。 両塔は、1965年(昭和40)の発掘調査によって規模や構造が明確になった。その規模は興福寺五重塔とほぼ同じであり、高さ約50m、初層の一辺長約8.6mで、東塔の初層には裳階がつけられていた。また塔の南正面には複廊を築いて数門を設け、東、西、北の三方には一辺約100mの築地をめぐらしていた。 奈良国立博物館
東塔跡 (東より 1965年発掘時) 西塔跡 (西より 1965年発掘時)
現在地 東塔 西塔
春日宮曼荼羅 部分 (奈良市南市町自治会蔵 鎌倉時代 重要文化財)
Vocab 春日 (かすが)Kasuga 東西 (とうざい)east and west 塔跡 (とうあと)ruins of a tower 春日大社 (かすがたいしゃ)Kasuga-taisha 参道 (さんどう)road approaching a shrine 構内 (こうない)premises, grounds 神仏習合 (しんぶつしゅうごう)Shinto-Buddhist syncretism 建立 (こんりゅう)(act of) building (temple, monument, etc.) 遺構 (いこう)(archaeological) remains ありし日 (ありしひ)the olden days, days of yore 偉容 (いよう)dignified/majestic/imposing appearance 宮曼荼羅 (みやまんだら)shrine mandala 永久 (えいきゅう)Eikyuu era (7.13.1113-4.3.1118) 関白 (かんぱく)chief advisor to the Emperor 藤原忠通 (ふじわらの・ただざね)Fujiwara no Tadazane 造営 (ぞうえい)building (a temple, palace, etc.) 鳥羽天皇 (とば)Emperor Toba (じょうこう)retired emperor 本願 (ほんがん)Amida Buddha’s original vow/Primal Vow 保延 (ほうえん)Hoen era (4.27.1135-7.10.1141) 殿下の御塔 (てんかのみとう)Tenka no mitou 称す (しょうす)to take the name of 治承 (じしょう)Jisho era (8.4.1177-7.14.1181) 平重衡 (たいらの・しげひら)Taira no Shigehira 南部 (なんぶ)southern part; the south (of a region) 焼打 (やきうち)setting on fire 焼失 (しょうしつ)destruction by fire 相次いで (あいついで)one after the other, successively ものの although, despite the fact 応永 (おうえい)Oei era (7.5.1394-4.27.1428) 雷火 (らいか)fire caused by lightning 及ぶ (およぶ)to befall, to happen to, to go on (for, until) 発掘調査 (はっくつちょうさ)excavation, dig 規模 (きぼ)scale, scope, plan, structure 興福寺 (こうふくじ)Kofuku-ji 一辺 (いっぺん)side of a geometic shape 裳階 (もこし)pent roof (below the true roof of a pagoda, etc.) 複 (ふく)multiple 廊 (ろう)corridor, passage, hall 築く (きずく)to build, construct 設ける (もうける)to set up, establish 築地 (ついじ)mud wall with a roof 巡らす (めぐらす)to enclose (with), surround (with) 自治会 (じちかい)neighborhood council 蔵 (ぞう)possession, ownership
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今、御祈祷人と称して天台・真言・禅・律僧等、雨の御祈祷をなさるのに甚だ神慮に適っていません。国中の旱魃、東西の夷戎の興起することは他でもない。みんな禅・戒・念仏等の繁盛に拠るのだ。それゆえ、建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・大仏殿・長楽寺・浄光明寺以下の諸寺の伽藍を焼き払い、および禅僧・律僧・念仏僧等の頭を斬って由比ヶ浜に懸けた後で、雨は一天を潤し、徳の風によって四海は静まるであろうと。
松尾剛次『日蓮』を読む - mmpoloの日記
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【らくごはん×Ao】 週末落語家・萬福亭をにく @manpuku_t_029 さんと私のごはんのコラボ「らくごはん」、今回は日本橋兜町のハブ的な存在として、大正12年(1923)竣工の重厚な銀行建築の雰囲気を活かしたリノベーションにより誕生した複合施設K5の中核テナントの1つであるBar Ao @ao_k5_tokyo にて開催しました←超絶オシャレなとこ✨
お越しくださったみなさま、ありがとうございましたー
ごはん担当の私、をにくさんの落語のおともになるサイズ、深紅の店内に映えるように黒い艶やかな箱にエッジの効いた(ほぼ)ベジな品々をギュギュッと詰め込みました😌
…って紙箱やし四角ばってるってだけやねんけどな。
(左の方から)
・押し寿司風(...精進します😭)(酢飯にカブ、紅くるり大根、大葉、ベジいくら、紅しぐれ大根のっけた。ちりめん山椒混ぜ込んだのも。)
・ベジ松風(ひよこ豆凍結融解したお豆腐刻んだいぶりがっこ井伊商店のお味噌あたりをまぜまぜこねこねしてごまをたっぷりあしらってオーブンで焼いた)
・なすのかわいい田楽(オリーブオイルからめて蒸したおなすにしょうがすりごまたっぷりのお味噌乗っけて枝豆ちらした)
・ゆず釜(実家の庭でもいできたかわいいサイズのゆずにゆず果汁たっぷり使ったなますを)
・二色のきんとん(紫いもと安納芋、蒸してマッシュマッシュ、紫いもにはちょっとシロップ足して二色合わせてキュッとひねった。
・八幡巻(今回のお気に入り。おだしでじんわり煮た金時にんじんとごぼうを四角柱にカット、開いたおあげにしょうが効かせた下味つけて片栗粉といたのにくぐらせてお野菜ギュギュっと巻いて焼きしめた。
・キクイモのからあげ(せたがやの庭で掘っただいすきキクイモ、下味つけて揚げた)
・おひたし(ほうれんそう金時にんじんえのきだけを蒸し茹でしておだしとうすくち醤油に浸して山椒ガリガリ挽いて巻いた)
・ベジたまご(粉砕したお麩蒸したかぼちゃお豆腐あたりフープロでガガーッして、硫黄強めのお塩してたまご焼きみたいに焼いて巻き簾で整えた)
・ひとくち大根ステーキ(柔らかく茹でた大根を香ばしく焼いて甘酒ソース絡めた)
・銀杏塩炒り(「金融の街兜町」経済→そろばんを意識して、塩茹でした銀杏を松葉串に刺した)
をにくさんから「和食」ってリクエストもあり、なんとなくおせちっぽくなってしまった。いろいろ立て込んでたこともありギリッギリまで何作るか決められず試作の時間も(睡眠も😓)取れなく��、途中で完全に機能停止したりして自分でもどうなることかと思ったけど、楽しんでもらえたっぽくてヨカッタ。
タイムマネジメントの改善も含め(ってか、それが大問題)課題いっぱいのびしろいっぱい?!精進しますー
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語彙力が地を這っているで有名なふぃあです。私の脳内は、ほとんど「好き」と「可愛い」で構成されています。そのため、他の子のように素晴らしい文章も、面白い文章も書ける気がしません。率直に書いてみます
以下、敬称略
園堂香莉
この可愛いくて楽しい脚本を書いてくださって、本当にありがとうございます。36期のことを、すごい可愛がってくれます。可愛くて優しい先輩です。いっつも、鯛焼きのグッズを携帯していて鯛焼き愛が伝わってきます。ニコニコしちゃいます。それから、やっぱり私は照明が好きだと気づきました。精一杯働くので、これからもよろしくお願いしたいです🫣🫣🫣
まだ、お稽古始まってから鯛焼きを食べられていません。おすすめの鯛焼き屋さんを教えてください。
響夜
たい焼き君は強弱が大事な役だと思うけど、どんどん良くなってるよね
しっぽ、こしあん派なの、まだ許してません。一回やり合いませんか?
カルタやってるところが本当に見てみたい。私も、小学校の頃に百人一首をかじってたんだよね。意外と今でも覚えてるから、なびやのやる、競技かるためっちゃ興味ある。ちはやふるも見てた
36期の中でもいろんな意味で危ない人だと思ってる。一緒に卒業しようね
東愛莉
発声も、表情管理もどんどん上手くなっててほんとにすごい!!どう意識したらそんなに表情筋が動くのか??私はセリフで精一杯……
あずから、動きを提案してくれることも増えて嬉しい
人のことをよく見てて、恋愛事情に鈍感な私にも、いろんな推しを教えてくれます。助かります。ニヤニヤします
あと、家が心地よすぎます。何でも貸してくれるし、許容範囲が広すぎてもう、母なる家。BIG LOVE
今も、あずの家なうです。何度でも行きます。
張潤玲
ほんとに、最初のお稽古から発音とか、アクセントとか上手くなっててすごい!!
ふわふわな髪の毛がほんと可愛いし、さわりたくなります
毎回、普通に日本語で会話できて感動する。私は英語ですら微妙なのでね
いろんな言葉を教えたい。メロい、使ってね
あんまりご飯も食べる機会が無くて悲しいよ!どっか食べに行こうね
ミル鍋
ギャルの見た目も演技も好きすぎます。私もギャル役やってみたいと思うくらい楽しそうです。ギャル好き。
優しいし、面白いし、絵が上手いし、姉御感があってほんと好きです。建築やってるのかっこいいです。メロい。髪型も好きです。包容力がありすぎて、甘えたくなります。いつも吹田のことを嘆いていて可愛いです。可哀想はかわいい。
宣美に誘われたので、チョロすぎる私はすぐに承諾しました。次回からよろしくお願いします。
あろハム権左衛門
高身長女子は可愛い!異論は認めません。
高身長女子は最高です。かっこいい。いろんな服が似合いそうで羨ましいです。先程、(おそらく初?)ハグをさせて頂いたのですが、もう、幸福感がエグかったです。高身長女子からしか得られない栄養がありました。また、ハグしにいってもいいですか?🫣🫣🫣
ギャル可愛すぎました好きです。髪巻いて、前髪あげるのとてもいいです。(勿論、前髪有りも好きです)
いっつも、発声が良くて尊敬です❗❗❗
しかも、成績もいいと聞きました。数学教えてください
帝京魂
衣装がエグ可愛いです。もっと着ていてほしいのに、すぐ脱いでしまうので、いつも勝手に悲しくなってます。
ただでさえ、見れる時間が少ないのに…
演技がとても上手くて尊敬してます。なんで、そんなに体が動くの!?と、いつも疑問です。普段と違う感じの性格のキャラもすんなり演じているのが、すごすぎます。
新歓公演のときのイメージで、最初は怖そうだと思っていましたが、今は、優しくて面白い可愛い一面もあってメロいです。
海泥波波美
短いセリフの役なのに、面白くて、印象に残ります。新歓のときもそうだった気がします。
いつも動きが上手くて面白くて、お稽古場にいるだけで、場の雰囲気が良くなる気がします。私にも、いろいろな動きを提案してくださいました。ありがとうございます。
パラ経羨ましすぎます。若気の至りで、身勝手に理系を選んでしまったことを…悔やんでいます。
舞原まひろ
おぢ、もともと、あんこ味の鯛焼きしか作ってなかったの、鯛焼き屋さんとして、流石にまずいと思います。
同じ理学部として、実験の話を共感してくれるのが嬉しいです。同期には理学部(笑)の数学科しかいないので。でも、先輩がレポートで忙しそうにしているのを見て、既にこの先が思いやられます。私、昔は実験が好きだったはずなんです。けど、今は実験が憂鬱で仕方がありません。
メイクがお上手だと聞いています。
また、語りましょう。
たぴおか太郎
ほんとに可愛いです。衣装が、いつも着ているような服と系統が全然違うので本当に今しか見れないと思って、しっかり目に焼き付けます。
可愛いし、面白くて最高な先輩です。
いっつも皆を褒めてくださって嬉しいです。褒められて伸びるタイプなので、ほんとに有り難いです。やる気が出ます!!
インナーも、メイクもめちゃカワです。
ちいかわの服も可愛いです。でも、サブカル系の服を着て欲しいです。絶対かわいい。
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