#子どもの頃ヤマハに通ってたけど
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240614 金
引き寄せの法則ってのを結構素で信じてるって以前書いた
「なんで自分は毎日絵が描けてしまうんだろう?」って今思ってる
これがいいんだよ
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「なんでやれてしまうんだろう?」
「なんでこんなに幸せでラッキーなんだろう?」
ってベクトルで自分を不思議がる
これだけでどんどんやれるし、どんどんラッキーになる
マージ、マジマジ
--- 僕、28歳ん時もうすぐ死ぬ思いました
なんでかってこのまま生きてても「嫌なことの総量が増えていく」ばかりでそれを打ち消すいい事なんて雀の涙程度しか手に入らないに決まってるって思ったから
それが予想できるくらいには主観的踏んだり蹴ったり感を味わっていたし、過去の自分の成功体験に照らしても、もう10代の頃以上のラッキーなんて訪れるわけがないな、思ってた
つまり生きてても主観的にも客観的にもムダ。ふつうの知性と自尊心あるなら惨めで恥ずかしすぎて生きてらんない。格好悪すぎる思ってた
結構「武士的なスタンス」だと思うのね、これ
あとは自分をむっっっっっちゃ主人公として捉えてたよね
でも生きる為、それをやめた。精神を「負け犬ヌケサク敗残兵モード」にチェンジし、虐げられて然るべきモブ・・だけどどっこい最後まで生き残ちまう「ひょうきんピエロ」的ポジション目指した
しばらくその目くらましでどうにかなってたシーズンもあったけど、やがて冷静になって全部馬鹿らしくなって「幼少期に戻って人生最初からやり直したい」という気持ちになった
20代の頃のような「死にたい」という気持ち(格好良さを貫きたいという気持ち)は最早ない。ただただリセットしたい、今度はうまくやる、あそこで絶対妥協しない、選択ミスしない、へこたれない...って誓った
だからもう一度チャンスが来たら今度こそ間違わないし乗り遅れないって思った
僕の失敗のきっかけは初音ミクに対ししょーもないヘイトを抱いてしまったことだ
DTMを生半可に愛していたがゆえに、それ系の知識と愛が全然ないであろうミーハー絵描き達が初音ミクをハブにして唐突にDTM文化を蹂躙してきた(あるいはDTMカルチャー一切無視して製品のガワだけ浅はかに消費してきた)と感じてしまい、自分の好きなものを穢されたと感じてしまった
これはもう、そう感じちまったんだからどうしようもない...
それに加えpixiv台頭によるホームページの価値消失、友人に初音ミクブーストで狂気レベルの差をつけられたってのもヒステリー加速に拍車をかけた。でも何よりも大きいのは自分がディレクションしていたゲーム企画を取り上げられた事だったな
とにかく「ほう? ここまで俺をコケにしたいんか、世界」って思ったわ。知らんよなそんなの。みんな楽しくミクちゃん描いてんだ...
なぜそのウェーブに乗らないんだ? って知り合いの絵描きから暗に明に言われたさ。同人イベントで色紙にミク描いてって言われた時は内心全ギレしながら描いたっけなあ
ほんと、運気を下げる思考をしていた
何が要因かっつーと結局「愛を侮辱された」っていう主観的感情がきっかけなんすよ
だからそれ以降僕はなにかを愛することをやめました
だって、愛があるからそれを「穢された」とか「バカにされた」って思うんでしょ?
その結果チャンス逃して人から嫌われるようなルサンチマンばっか吐いてたら、結果的に自分が損するじゃん
損する事がわかってる「愛」を維持するの、ある意味純愛かもしれんけどその愛向けてる対象が自分の方振り向いてくれんの? 言ったら無理なわけじゃん、初音ミクの場合はクリプトンとかヤマハなわけ、あとRolandも好きだった
でもそういうオフィシャルは僕じゃなく初音ミクというキャラをサクサク消費しお祭り騒ぎしてる実力派絵描きの方を大事にする
いやもう、何言ってんだ純粋にお前キャラ ド・ヘタじゃんって指摘にはイエス、諸手を上げてイエス
ほんっと、身の程知らずとはこの事よ!!
今でも怒りと悲しみと後悔が蘇ってくるわ。どういうこじれ方してんだアホ!! 普通に魅力的なキャラなりなんなり描いて人心掴めよヘタクソ!!! って言いたい
腐ったアヤナミみてーのばっか描いてんじゃねーよ、と
・
閑話休題。昔話を繰り返したところでしょーがない
つまり、だ。今ムカついてるその���目、そのムカつきの要因となっているあんたの身勝手な「愛」
それ本当に維持すべき愛っすか? って話なんすよ
僕の場合は「自分が作った箱(Discord)への愛と執着」がまだ強固に残ってる...
こいつが今後間違いなく僕を不幸に導くことだろう
不幸になってでも、多少嫌われてでも自分の好きは決して曲げない
そういう気持ち(他人や社会のことをガン無視したヒステリックなプライド)があるとな、些末な事に侮辱と敵意感じてはヘイト撒き散らし、周囲に呆れられ病人扱いされキャリアも積めぬまま歳だけ食って、どうして自分のこの真摯でキレイで真っ直ぐな気持ちを誰一人理解してくれなかったんだろう? みたいなドンズレ思考抱えた××老害になる(うーん... 極端だ。極端な思考は自分と周りを傷つける。それは結果的に自分を不幸にする。だからよくない)
プライドは、捨てなくてもいいから箱にしまうか、意識的に横に置く
そして皆が食べたがっている料理を丁寧につくる
体力増やしアタマ使って時間捻出し「自尊感情維持する為の城(テリトリー)」を構築する
最初は自閉モードでいい。次第に他者を呼び込む為のサンドボックスなり応接間なり作っていけばよい
そして考えることは「しあわせ」についてだけでいい
「どうしてできないんだろう?」と考えると「できない自分」を引き寄せる
「どうして不幸なんだろう?」と考えると「不幸な自分」を引き寄せる
それは文脈関係なしに最初に見出しに設定したワードの正当性を「肉付け」する思考が脳内で自動的に発生してしまうから
だから「どうして幸せなんだろう?」と考え続ける事で「XXでXXであるがゆえにしあわせなのである」という講式が脳内に刻まれてゆく
どうして不幸だと思うのかを思考するメリットはない
どうして幸せなのか? を自身に問い続けるだけで100%、何をどうやっても幸福になってしまう
幸せな主観があれば精神的バッファがあるわけだから無茶できる
無茶すりゃ歳食ってたってそれなりの出力と他者貢献できる
それさえできりゃいずれ優しい世界が手を差し伸べてくれる
ああ、我々が思うほど世界は悲しくプログラムされちゃあいない
誰も自分という人間に手を差し伸べぬなら、自らが率先して誰かに手を差し伸べてしまえばよい
はい、キモいお節介&パターナル&ハラスメントフラグ、って指摘には同意
同意はするが、潜在的正解は常にそれだろ
自分が救うことや手を差し伸べることを「許してくれる命」を見つけて、まずはそれを応援する事から始めたらいい
人を応援する人をディスる人ってのはもう、それは120%ロクな人間じゃあないから無視していい
無論、犯罪者や極度に反社会的な性格の人を応援するようなムーブしちゃダメだし、それをやりそうになってる自分を止めてくれる人の事は無視しちゃダメだが
善&道徳だわ、基本。子供がいる手前、そうとしか言えん
だって子供はオートで犯罪犯したがるからな。それは子供の本質。そこに親も乗っかりブーストかけちゃったらクソ毒親だろ...
ゆたぼんの父親とかそうだろ。最終的に反面教師として役立ったから結果オーライかもしれんが
とにかく、絵とフィクションの中で悪と不道徳を描くのは構わないが現実のパーソナリティや生活ん中にそれ適用すんのはナンセンスだし何一つメリットがない
マジメすぎると現実と絵の世界を同期させちまうんだよな
自分もその境目がなかった、かつて―
絵は絵、現実は現実。どっちもウケがよく自分を幸せに導くベクトルに「デザイン」してこ
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【団員レポート】TYO第10期 キックオフ!
7月21日(日)に福島民報ホールにて第10期のキックオフと1回目の合同練習会を行いました。
まずは毎年恒例、TYO事務局長の田中宏和さんから東北ユースオーケストラの説明と今後の活動についてのお話がありました。
田中さんは先日なんと「タナカヒロカズカンパニー」を設立したそうです。そんな話を交えながら今後のTYOについてのお話をいただきました。
今年のTYOの目標は
1 音楽を通じて3.11のいまを伝え、未だ深い傷跡が残る現実を風化させない。2 坂本龍一監督の作品を演奏し、その創造性を後世に伝承する。3 自然災害の被災地の子どもたちとつながり、音楽を通じた支援を行う。です。
特に、3に関しては今年の1月1日におきた能登半島地震のこともあるので、力を入れていきたいと思う点です。
そして東北ユースオーケストラ代表理事の、ヤマハ株式会社の押木正人さんから激励のお言葉もいただきました。
続いて、毎年ご支援くださっているJA共済連福島の服部道夫さんからご挨拶とお茶の差し入れをいただきました。今年もよろしくお願いいたします。
この日の福島市は最高気温35.9℃の猛暑日だったので大変ありがたい差し入れでした。
そして、今期のキャプテンは前期(9期)に引き続き、福島県出身トロンボーンパートの大学3年生、海津洸太くんです。
9期のキックオフのときは当日にキャプテンを努めることを知ったそうですが、10期は2年目なので表情にゆとりが見られますね。
9期の写真と比べてみるとかなり落ち着いていますね。
10期は32名もの新規団員を迎えての94名でのスタートとなります。
早く顔と名前を覚えて仲良くなるのが個人的な目標です。
去年はOBOGが参加していたので新規団員は少なかったですが、今年は新規団員がとても多いので9期と比べて雰囲気がガラッと変わったなと感じました。
これまでのメンバーも自己紹介して顔合わせです。
彼は、ホルンパートの菊野奏良くん。第1期から参加していて、知ってる人は知っているベテラン団員です。キャプテンの右腕的存在と言っても過言ではありません。
ですが、最近は遅刻癖があるようで、毎練習のときにはモーニングコールしてやろうかなとキャプテンが言っていました。笑
全団員の自己紹介終了後は、今年3月の演奏会、
坂本監督追悼 東北ユースオーケストラ演奏会2024
のBlu-rayをみんなで鑑賞しました。
たった4ヶ月くらいしか経っていませんが、とても懐かしい気持ちになりました。
Blu-rayは1人ずつもらえたので、家でたくさん見ましたが、やはり一番の推しは"Merry Christmas Mr.Lawrence"です。
今年の演奏会では坂本監督のピアノから始まりました。あそこは何回見ても鳥肌が立ちます。画面の中だったとはいえ、坂本監督といっしょに演奏できたことがとても嬉しかったです。
演奏会鑑賞後は一旦解散で、
9月7日(土)に奈良の法隆寺で行われる「OTOBUTAI 2024 HORYUJI」に参加するメンバーは初の合奏練習です
指揮者の高井優希さんやピアニストの原摩利彦さんをお迎えしての練習です。
「OTOBUTAI 2024 HORYUJI」は11月10日(日)にMBS・TBS系列で放送されますので、ぜひ御覧ください。 https://www.mbs.jp/otobutai/
また、8月18日(日)福島市まちなか広場で行われる「Voice ふくしま 納涼祭」に東北ユースオーケストラから有志団員が参加いたします。
有志のメンバーも演奏会に向けて練習です。
演奏予定時刻は14:35頃です。お近くの方はぜひお越しください!
次回の練習から本格的に来年3月の演奏会にむけて合奏練習が始まります。素晴らしい演奏会にできるよう、団員一同練習に励んでいきます。
今年も東北ユースオーケストラの応援のほどよろしくお願いいたします。 by フルートパート石川慧花
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予定があって上京するという両親を娘のピアノ発表会に誘って、浦和の埼玉会館まで。
元々娘がピアノを習うきっかけになったのは、実家の父が退職に際して贈ってくれた電子ピアノ。
(あの時は何の連絡もなく届いたから、何かの詐欺かと思ったよね)
せっかくあるなら、ピアノ教室に通う?とヤマハ音楽教室に入ったのが、娘が確か4歳の頃。
あれからずっと続けた娘が今日弾いた曲は、ベートーヴェンの「月光」第三楽章。
本人は「いっぱい間違えちゃった」と(いつも通り)、言っていたけど、両親は「何だかジーンとして涙が出そうになった」と話していて、今日の機会を持ててよかったなあと思ったのでした。
「私を使って親孝行して!」って娘には言われそうだけど、いい時間でした。ありがとう。
そして自分の何かよりよっぽど緊張するのが娘の大舞台。今日も母はこっそり緊張してました。
ふう。今日も1日お疲れさまでした。
画像はいつかの白鷺。
#bird
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TOPPOP: Akiko Kobayashi - Koi ni Ochite (Fall In Love)
作詞:湯川れい子 作曲:小林明子 編曲:萩田光雄
1985年8月31日発売。
「I'm just a woman Fall in love・・」
元は全部英語歌詞だったけど、日本じゃ売れないってことで1コーラスを日本語、2コーラスを英語歌詞でリリース。
不倫の香りがプンプンする歌詞の内容は、作詞家・湯川れい子の実体験そのままを綴ったそうです。
(えーっ!マジですか?)
ええ。
で、歌詞の細部にも手を抜かない湯川女史。
当時の電話はダイヤル式からプッシュ式に変わった頃で、湯川女史はどちらにするかムチャクチャ間悩んだそうですが、迷う心理を表現するためにあえて「ダイヤル回して手をとめた」と表現。
(ああ、確かに「プッシュして」より「ダイヤル回して」のほうがいいわ。笑)
編曲はクラシック音楽理論に精通したエンジニア出身の萩田光雄。
静岡の星!
(わかった、わかった)
ヤマハ音楽振興会。
(マニアックすぎる。笑)
サビ部分にカノン進行と下降タイプのクリシェ進行が複合的に使われていて物凄くロマンティックでハイセンス!
(ハイセンス!って・・)
ちなみに英語詞の部分は山口美江が書いたんだよ。
(知らない人もいるだろーな。笑)
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#001-Squid
Squid
UK・ブライトンの大学生による5人組バンド。異なる音楽背景を持つメンバーで構成された結果、ロックやジャズ、電子音楽までハイブリッド。複雑かつ緻密なサウンドを体現している。一方でボーカルは土臭く、真っすぐ。WARPも契約するUKポストパンクの新鋭。
Instagram:@squidbanduk
ージャズ、テクノ、ポスト��ック、『Near The Westway』では、オーケストラアレンジまで加えました。ジャンルレスな制作のインスピレーションはどこから受けていますか?
僕たちの音楽が一つのジャンルにとらわれていないのは、自分たちが様々なことに興味を持っているからだと思う。僕たち自身もリスナーとして聴いていて驚かされる音楽が好きだし、それは自分たちの音楽にとっても重要な要素なんだ。あと、僕たちは5人それぞれが互いに異なる音楽テイストを持っている。それも作る音楽が一つの形に定まらない理由の一つだね。
ー真っすぐなビートに対して、音の構造は緻密。そのバランス感は感覚的にやってますか? 意識的にやってますか?
作り始めはけっこう真っすぐだと思う。そこから色々実験してみたり、アイデアを乗せて重ねていくうちに緻密になっていくんだ。ぐつぐつ煮たった鍋にアイデアを放り込んでいく感じ。あえて複雑にしようとか、シンプルにしようと意識しているわけじゃない。シンプルなアイデアで十分で、それをそのまま曲にする時もあるから。
ーFranz Ferdinand、Lily Allen、Tame Impalaなどを手がける名匠Dan Careyがサポートしていることも話題となっています。彼はどういった人ですか?
すごく上品でもあり、同時に奇人でもある。ある一つのアイデアにものすごくフォーカスしてそれにひたすら力を注ぐこともあれば、次から次へと新しいアイデアに移っていくこともあるんだ。そんな彼を見ているのはすごく興味深い(笑) 彼は、僕たちの親しい友人にもなれた。一番最初に作業をした時は彼を知らなくて、彼の反応を気にしたり緊張もしていたけど、今ではそんなこともなくなりすごく心地よくなった。スタジオの外でも会うようになったしね。
ーバンドは大きな成功を収めつつあると思いますが、それによって取り巻く状況や環境、周りからの見られ方に変化はありましたか?
もちろん皆Squidの音楽を気に入ってエンジョイしてくれているわけだけど、それと同時に、僕たちの音楽が変化を続けるものであることも理解してくれているとも感じているんだ。それは、僕たちに自分たちが作りたいものを作り続けていいんだという勇気をくれている。人々がショーに来て一緒に歌ってくれている姿を見ると本当にありがたいと思うし、僕らの音楽の様々な要素を総括して受け入れ、楽しんでくれていることに心から感謝しているよ。それがあるから、僕たちも進化し続けていられるんだ。ライブのやり方もそうだし、皆が変化を受け入れ、喜んでくれるから、連鎖反応のようにこちらも成長し続け���れるんだ。
ー活動をしていて、ジェンダーの差や“らしさ”のようなものを感じたり、意識するようになったりはしましたか?
男性っぽさ、女性っぽさというアイデアは音楽業界にも存在していると思う。音楽業界では、性差別やその間の境界線はいまだに大きな問題でもあるし。でも僕たちは、それを避けている。なるべく自分たちがやりたいことに集中して、有害で変に男勝りな表現なんかはしないようにしているんだ。そういったイメージは、そもそも僕たち自身が繋がりを感じるものでもないしね。
ーコロナ禍になって気付いた自身の変化はありますか?
自分の変化ではないけど、コミュニティーの大切さや有り難さに気が付いた。パンデミックが始まるまで、その存在が当たり前のように思っていた。でもコロナで集まることができなくなり、コミュニティーの意味がより明白になったんだ。音楽仲間もそうだし、家族や友達もそう。今となってはロックダウンに慣れてしまって、最初に感じたあのショッキングな驚きはもう消えてしまったのがすごく変な感じだけど。
ー自分たちの中で変わったことは?
新しい音楽の書き方を見つけたことかな。インターネットを使ってもっと曲を書くようになった。会うのは最低限にして、個々で曲を書くのは、それはそれで面白いよ。ショーやフェス、ツアーで観客やバンドメンバーに囲まれて生活することに慣れていたけど、自分の時間を過ごすことと良いバランスが取れるようになったのは良かったと思う。
ーそれらはどう昇華されていきましたか?
どう昇華されたかは自分ではわからない。前は全員ブライトンに住んでいて、ずっと一緒に時間を過ごしていたけど、今、僕とオリーとローリーはブリストルに住んでいるんだ。昇華されたというか、メンバー同士の繋がり方がコロナを通して変化したと思う。それぞれ生活している環境が変わったからね。例えばアーサーはロンドンでボートの中に住んでいるし(笑) どこにボート���止めるとか、彼には彼のやるべきことがある(笑) だから、メンバー同士の会い方が変わったんだ。その分、皆で会うと前より集中できるようになった。もうすぐUKツアーが始まるから、久々に皆で長い時間を過ごすことになる。また一緒に飲んだり食べたりできるのは楽しいだろうな。
ー今はコロナで難しいかと思いますが、普段はどういった場所で何をして遊んでいますか?
正直、今はほとんど制限がないんだよ。いくつか行けない国があるくらいで。国によっては出入国できても隔離生活をしないといけない国もある。でも、普段の生活は前より断然ノーマルになってきた。前はこんなことができてたんだったなっていう感覚を取り戻しつつある。それが再びノーマルになることの方が不思議に感じるけどね。コロナの前後で変わったのは、電動スクーターでの移動(笑) 皆人混みの中での移動を避けるようになって、電動スクーターがより活躍するようになった。あれは良い変化だな。今ではバーも開いているからバーにも行くし、友達のバンドを見に行ったり、家族に会ったり���ているよ。
ーあなたたちが住んでいるブリストルは今どんなムードですか?
生活も普通に戻りつつあるし、皆ポジティブだと思う。でも、アフガニスタンのニュースが出てきたりで、それには心を痛めているけどね。それがあるから、完全にお祝いムードではない。世界がやっと回復しようとしている時に、それをさらに難しい状況にしようとしている人たちがいるなんて信じられない。今、それに関して自分たちは何ができるかを考えているところなんだ。
ー日本に比べイギリスは社会的弱者を救う取り組みが多くあると思います。抑圧された人に対して、音楽ができることは何だと思いますか?
まず僕らにできることは、音楽を通しファンベースを利用して、支援金を集めることだと思うんだ。ギグに来た人に寄付を頼んだりね。実際に今、そういう話をしているところ。それ以外にも何ができるか、今も模索しているところなんだ。
ー最近気になっている社会問題は?
ありすぎてどこから始めればいいか。今は選べないな。
ー周りの音楽シーンのトレンドは?
超現実的でアートスクールっぽい、ノイズっぽい音楽が流行ってると思う。例えばMermaid Chunkyっていうデュオがいるんだけど、彼女たちはすごく良い。あとはFaux Realっていうデュオも。すごく表現豊かなデュオで、音も素晴らしいんだ。彼らみたいに、少人数でステージ上でビッグなサウンドを作っているバンドが人気だね。一対一で音を奏でているのに、サウンドは超ビッグ、みたいな。
ー自分たちの中ではどうですか? 気になっている音楽ジャンルはありますか?
来週ツアーが始まるから、またアンビエント系の音楽にハマるかも。ツアー中って車の中にいることが多くて、窓から見える景色がどんどん変わっていく。その景色の移り変わりには、メロウなアンビエントが合うんだよね。だから今、自分のコレクションを掘って良さそうなアンビエントを探しているところ。
ー音楽はどんなガジェットで聴いてますか?
いまだに父親のアンプを使ってるんだ。父親が18歳の時に買ったやつなんだけど、今でもサウンドが良くてさ。80年代のヤマハの何か。そんなに長い間使えているなんて、さすが日本のクオリティーだよね(笑)。 音楽を聴くのはパソコン。YouTubeやBandcampで聴いてる。イヤホンは壊れてしまって、最近はすっごい安い適当なやつを使ってる。そろそろちゃんと買わなきゃな。
ー影響を受けた作品は?
最近見た『All Hands on Deck』という映画には影響を受けたな。フランスの映画で、ギヨーム・ブラック(Guillaume Brac)っていう監督の作品。彼は素晴らしい監督で、フランスの移住者たちに興味を持っているんだ。彼は同時に休暇というテーマにもハマっている(笑) 『All Hands on Deck』は、面白おかしくもあり、同時に美しくもある。ロマンチックな関係から家族の繋がりまで、様々な人間関係が描かれていて面白い。すっごく笑えるんだけど、見ていてすごく気持ちが良くなる映画なんだ。
ーあなたにとってメンターは?
Will Burgessっていう友達。彼は周りにいる人たちの中で一番面白い人。何かにぶち当たった時、彼に会えば気持ちが上がる。実は、最初に僕らの音楽を発見してくれた人も彼なんだ。彼のおかげで今のマネージメントと知り合った。ショーの時もいつも来てくれるんだ。
ー幼い頃から変わらない自分の性格は?
僕は昔から、一つのアクティビティーから次のアクティビティーに移らずにはいられないんだよね。注意力が続かないんだ(笑) 音楽を聴くのもそうだし、演奏するのもそう。それはずっと変わらないだろうな。自分の周りには、半分しか済ませてないことがたくさんある(笑) 一つのことをなかなか終わらせられない性格なんだ。
ー好きなスタイルはありますか?
僕は特にないけど、イギリスではフットボールのジャック・グリーリッシュ(Jack Grealish)選手の髪型が流行ってるよ(笑)
ーいつか日本でライブしてもらえますか?
もちろん。日本に行くことは一番やりたいことの一つ。まだ日本に行ったことがないし、文化が本当に美しそうだし、行ったらたくさん刺激を受けるんだろうな。
【RECOMMENDED TUNES】 「Kingdread Spirit」Faux Real さっき話したし、音もすごく良いから。
「Amulet B」Deliluh 僕とオリーが見つけたバンドで、本当に最高なんだ。今年の夏「Green Man Festival」っていうフェスで彼らの演奏を見たんだけど、あれは素晴らしい経験だった。エナジーがすごくて、コロナ禍に入って始めてあんなにエモーショナルになったと思う。あ��瞬間は、この夏のハイライトの一つだったな。
「aoe_advancing」No Moon とにかく、アンビエントとブレイクビート、ジャングルリズムのバランスが良い曲。そしてこのトラックをリリースしている「CRAIGIE KNOWS」っていうグラズゴーのレーベルも最高なんだ。最近のリリースではないけど、最高のリリースだと思う。
TRANSLATION : MIHO HARAGUCHI INTERVIEWEE : LOUIS BORLASE(Gt./Vo.)
*このインタビューは2021年9月28日に発売されたVI/NYL #001のために実施されました。
*写真は全てアーティストからの提供です。
■VI/NYL
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第二次世界大戦で奇跡の生還を遂げ「戦艦大和の語り部」として講演活動などをしてきた八杉康夫氏が1月11日広島県福山市内で死去した。92歳。誤嚥性肺炎だった。
著書『戦艦大和最後の乗組員の遺言』(2005年 ワック)は筆者の手になる聞き書きである。その生涯と言葉を振り返りたい。
八杉氏は福山市の豆腐店に生まれた。1943年、「街を颯爽と歩く水兵さんにあこがれて」15歳で海軍に志願。秀才の集まる横須賀砲術学校を2番で卒業。17歳で憧れの大和乗務員に抜擢された。
担当は艦橋最上部での敵機の偵察。「司令官ら偉い人たちの居る場で狭い階段で最敬礼の連続でした」。
敗色濃厚となった1945年4月7日、「天一号作戦」と呼ばれる沖縄海上特攻に呉港から出撃する。「温存されていた大和を使わないまま敗戦になれば国民の批判を受けることを軍部は恐れたのです。燃料は片道分と言われましたがそれは嘘で、十分に積んでいたはずです」
乗り込む前夜、母まきゑさんと呉市の旅館で食事をし、当日は港近くまで送られた。「『長い間ありがとうございました』と敬礼し踵を返すと『あんた、元気でな』と言われましたが振り返りませんでした。これで会えないと覚悟していました」。
壮絶な少尉の割腹自殺と救助を拒否した高射長
隠密行動のはずだったが米偵察機マーチンがさっと上空をかすめた。「すぐに察知されていたんですね」。いよいよ、敵機は近い。
「艦橋最上部で5メートルもあるニコン自慢の測距儀のレンズを覗くと米機の編隊で真っ黒だった。自慢の45センチ(内径)の主砲を撃つタイミングを今か今かと測っていると編隊はさっと雲上に消えたのです。真上から攻撃された大和は高射砲で応じましたが300機以上の米機はまるで雲霞(ウンカ)の大群。魚雷、250キロ爆弾などが次々と命中し為すすべもありません。大和は結局、主砲は一発も撃てませんでした」。当時、日本のレーダーはお粗末で基本は目視だが、運悪くこの日は空一面に雲が広がっていた。
ちぎれた手足や首が転がり甲板は血の海。地獄絵図の中、八杉少年は衝撃的な光景を目の当たりにする。可愛がってくれた保本政一少尉が傾く甲板で軍服をはだけ、持っていた短刀で割腹自殺したのだ。「血がホースの水のように吹き出し、少尉は倒れました。私は震えて立ち尽くしました。前夜、褌をアイロンして届けると『ありがとう、明日は頑張れよ』と言われました。彼が秘密の上陸を母に密かに知らせてくれたから母に会えたのです」
八杉少年は横転した大和の艦橋が海面に接する直前に海に飛び込むが大和が沈没し大渦に巻き込まれる。「洗濯機に放り込まれたように水中をぐるぐる回り、人にバンバン当たりました。息ができず苦しくてもう駄目だと思った時、水中がバアーッと黄色く光ったのです」。弾薬庫に引火した大和が水中で大爆発した。その勢いで運よくぽっかりと水面に浮かんだ。
空を見上げるとアルミ箔のようにきらきらと光っていた。「きれいだなと思っていたらそれが落ちてきました。砕け散った大和の鉄片だったのです。近くで漂っていた人は頭を真っ二つに裂かれました」。重油の海で力尽きた仲間が次々と沈んでいった。
沈みかけて思わず「助けてー」と叫ぶと偶然近くを漂っていた川崎(勝己)高射長が「そうれ」と丸太を渡してくれた。「自慢の髭は油まみれでオットセイのようでした。『お前は若いのだから頑張って生きろ』と大和が沈んだ方向へ泳いで消えました。私は高射長、高射長と叫び続けました、川崎さんは救助を拒み、大和が沈められた責任をお取りになったのです」。
4時間の漂流の末、八杉少年は駆逐艦、「雪風」に救助された。「赤玉ポートワインを飲まされ重油をゲーゲーと吐きました。引き揚げてくれた若い男は『お前、よかったなあ』と泣きながら私の顔を叩いていました」
雪風が到着した佐世保は一面、桜満開の快晴だった。「『畜生、これが昨日だったら』と全員が男泣きしました」。40キロ以上飛翔する主砲弾が編隊の中で炸裂すれば米軍機10機くらいは一度に落とせたはずだった。
広島では自爆攻撃訓練
大和の沈没は国家機密。生還者は佐世保にしばらく幽閉された。そして広島へ戻り、母にも再会できたが山中で米軍撃退の「肉薄攻撃」と呼ばれる「自爆攻撃」の訓練に明け暮れた。「棒の先の爆弾を戦車に踏ませるんです。部下は銃の扱いも知らない頼りない兵隊ばかりでした」。
ある朝、空が光ったかと思うとものすごい風が吹いてきた。原爆だった。すぐに広島市内の現地調査を命じられた。水を求める少年に「後でやるからな」と去った。「水を与えるな」が命令だった。「人生、あれだけは心残りです」。
音楽の才能の豊かだった八杉氏は戦後、NHKラジオの『のど自慢』のアコーディオン伴奏なども担当した。神戸で修業し、ピアノの調律師として生きたが、被ばくが原因で階段も上がれないような疲労に襲われることもあった。結婚もしたがすぐに離婚された。ヤマハの技師長にまで出世したが、退社後は楽器工房を営んだ。
みつかった戦艦大和
1980年代に「大和探し」が始まった。調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」。
「潜水カメラの影響でしゃれこうべ(頭蓋骨)が浮かび上がって一回転し、スーッと沈んでいった時は船上の全員が涙を流しました。実は自衛隊の対潜哨戒機が上空から場所を教えてくれたんです」。その後、日本船舶振興会の笹川良一氏などが大和を引き揚げようという計画を立ち上げたが八杉氏は「仲間はあそこで静かに眠らせたい」と反対した。
名作『戦艦大和ノ最期』の嘘を著者に認めさせる
朗らかな人柄だが事実には厳しかった。名著とされた吉田満の『戦艦大和ノ最期』には救助艇の「初霜」について海面から兵隊が這い上がると艇が沈むため、「ここに総指揮および乗り組み下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひし)めく腕を手首よりバッサバッサと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落す」とある。
だが八杉氏は「初霜は内火艇と言って羅針盤の磁気に影響するため乗る時は軍刀を持ち込めない。そもそもそんなことする必要もない。艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それにそんな事実があれば幽閉されていた佐世保では『ひどい奴だ』とその話題で持ちきりになったはず。そんな話題は全くなかった」。
筆者は子供の頃、『戦艦大和ノ最期』を読み、這い上がる兵隊の手首を斬り落としたという場面は衝撃的で鮮明に覚えている。八杉氏に会ってそれが嘘と知り、少しほっとしたが迷惑千万だったのは書かれた当人だ。実名は出していないが旧海軍関係者にはすぐに誰かわかる。兵隊の腕を切り蹴り落としたとされた初霜の総指揮は松井一彦中尉。戦後、東京で弁護士をしている松井氏に筆者も会い取材したこともある。松井氏は訴訟も検討したそうだが吉田氏は五十代で早逝した。
作品では���和艦上で兵隊たちが議論していた時、臼淵磐大尉が「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。(中略)敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。(中略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」と演説している。この「名言」に八杉氏は鋭く疑問を呈した。「戦後民主主義教育を受けなくてはあり得ない。あの時は全員が『見ておれ、アメ公め』と燃えていたんです。敗れた自分たちが愚かだった、反省して国を再建しよう、なんて発想が出るはずもない」と。
吉田満氏は東京帝大出身。大和には電測士として乗り込み、九死に一生を得た。「頭のいい吉田さんは鬼畜米英から戦後民主主義にさっと切り替えて、あたかも大和の乗組員が話したかのようにしたのでしょう」。八杉氏が吉田氏に会って問い糺すと相手はフィクションと認めた。「フィクションならどうして実名で書くんですか」と畳み掛けると黙ってしまったという。『戦艦大和ノ最期』は三島由紀夫、河上徹太郎、小林秀雄ら当代一流の文壇人が「ノンフィクションの最高傑作」とこぞって絶賛した。若い吉田氏は「あれは作り事でした」とは言えなかったのだろう。だが名作の影響は大きい。「徳之島」も吉田氏の著作が根拠だった。
八杉氏は後年、『男たちの大和』の作家辺見じゅんにも「それは嘘です。そうお書きになるなら小説になさい」などと厳しく指摘した。
2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史ら出演俳優らに、高射砲の撃ち方などを実技指導した。その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑っていた。
感動的な講演を続け、川崎高射長の場面では必ずしゃくりあげた。一年半前、久しぶりに福山市内の施設で会った時は認知症も進み、いつも「粟野先生」と呼んでくれていたダンディな八杉氏が筆者が誰か判別も付かずショックを受けた。
「敗戦の象徴」の生き証人はいつもこう訴えた。「平和は向こうから歩いてはこない。自ら掴み取るのです」。
粟野仁雄(あわの・まさお) ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。
週刊新潮WEB取材班編集
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赦-forgive-
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エミリーライクステニス二万字インタビュー企画第二回は、最後の加入メンバーにして最年長の赦-forgive-。個性がぶつかり重なり合うバンドの中で確かなベースの主張がありながら人間性はあまり見えてこない。同じベースプレイヤーかつ同年代という共通項で比較的フランクに行われたインタビューで見えて来たのは、彼の見えない人間性ではなく、そもそも人間性という型の無さであった。否が応でもこれまでの型を���り、これからを暗中模索しなければならない今日のわれわれにおいて、彼の型の無い人生観やベースプレイはひとつの糸口となるのではないだろうか
(聞き手・早瀬雅之)
●それではエミリーライクステニスのメンバーそれぞれの二万字インタビューということなんですが、今回は飯田君(赦-forgive)、始めて行きましょうか。よろしくお願いします。
「よろしくお願いします。俺、二万字も話すことあるかな。俺二千字で良いかなー(笑)」
●ははは少ねえよ(苦笑)
「まあ乗り気で頑張ります!」
●それでは生い立ちから訊きたいなと��出身はどこ?
「出身はちょっと色々引っ越してて説明がめんどくさくて」
●それは親の都合で?
「そうだね。親の社宅が色々転々と場所が変わっていって、生まれた時は千葉に住んでいて、2歳で渋谷区の恵比寿に引っ越して、小学三年生の時に川崎市の等々力競技場の近くに引っ越して、そっから長くて、高校を卒業したあたりで横浜へ。横浜は親が家を買って。川崎市が一番長かったかな」
●ああそうなんだ。まあざっくりいうと関東圏内を転々と、って感じだね。
「そう転々とっすねぇ。だからこれと言った地元っていう感覚が分からなくて、大学の時とか地方から来たやつが半分以上だったから『休みに実家に帰る』みたいな話を聞くと地元に帰るっていう一つの儀式みたいなものが羨ましかったりした。地元があるっていうことは自分のルーツがしっかりあって逆にそういうのがない自分はルーツはわからないから自分は何者なんだろうというフワフワした感覚が昔からあって。親の出身も二人とも関西だし。ずっと『ここは自分の居場所なんだろうか』っていう正体不明の違和感がずっと付き纏っていた。裏を返すと『ここも、ここも地元だよ』っていう風にどこでも出しゃばっているけど、とにかく地元があるやつはみんな羨ましかった」
だんだん距離感とかわかってくるんだろうね、近すぎず遠すぎず。
●家族構成はどんな感じなんでしょう?
「父親、母親、それで姉二人」
●姉二人か、へぇそうなんだ。兄弟の仲とかはいいの?
「あー、どうなんだろうね、自分の家族しかわかんないし客観的に考えたことなかったなあ。うーん、どうだろう。仲が良いっていうのはどういうことを言うんだろう。そういえば早瀬くんは兄弟いるの?
●俺は弟がいるよ。
「へえ、仲良い?仲良いっていうのは一緒に遊んだりっていう感じなのかな」
●子供の頃はそうだね。子供の時だったら一緒に遊んだりっていうのが仲良いってことじゃないかな。飯田くんは子供の頃どうだったの?
「そうね、小さい頃は結構、姉が友達と遊んでいる時に、一緒に遊びに連れてってもらって、まあ姉の友達に可愛がられたり、甘やかされたりしたよね。(だんだんと思い出して)ああ、でも真ん中の姉には小さい頃すげえいじめられてた気がし��きた。三人兄弟ってさあ、一番上はまあ親にとって最初の子供だからすごく可愛がられて、それで一番下はまあずっと甘やかされてチヤホヤされるじゃん。そうすると、真ん中の子って可愛がられる期間が短いし、末っ子は可愛がられてるしで、ひねくれたりするんだよね。
●なんかそういう傾向はあるよね、三人兄弟は。
「それでさ、小さい頃の家族の写真、俺泣いてて、隣で姉がにやけてたりすんの。大きくなってから何で俺泣いてんのかって思って親に聞いたら、写真撮る直前につねられたりしてたわよ、って」
●(笑)
「甘やかされてる弟にムカついててて、俺がなんか憎たらしいことを言ってそれを親に訴えたところで『お姉ちゃんなんだから我慢しなさい』っって言われるだけだから、陰でこっそり俺にヤキを入れていたんだろうね。あるいは単純にいじめてたか」
●はいはいはい(笑)
「でも高校生とか、大人になってくるとそういうのは段々となくなっていって、いつも普段はそんな会話する方ではなかったんだけど、むしろ節目とかことあるごとに俺がどうしようとか悩んでると『おい、あのな、』と的確なアドバイスとかくれたりして、『え、何で俺のことそんな知ってんの。』って不思議に思いつつすげえなあってなったりして。あんまり喋りはしないのに。よく見てんだね、姉というものは。ああ、今まで生意気なこと言ってきてごめんなさいって。
●いやでもいい関係ですね、それ。
「だんだん距離感とかわかってくるんだろうね、近すぎず遠すぎず。人間関係は適度な距離が大事と言うことを学んだし、姉は偉大だと」
●なるほど。
●子供の時は客観的にどんな子供だったと思う?
「うーん、やっぱり客観的に考えるのは苦手だな、、、。まあ喋んなかったね。
●結構無口だったんだ。
「無口だねえ。自分の主張とか苦手だね。授業中手をあげたりしないし、友達作ったりとかも積極的にしないし。学校帰りとかに友達んちにゲームしに行ったりとかはまああったけど、家で一人でなんか一人遊びしたり図鑑を読んでたりしてるのが多かったなあ。
●積極的じゃなかったんだね、意外だなあ。
「え、そう?俺の中では今も全然変わった感じしないんだけどなあ」
●あ、そう?(笑)
「そう(笑)」
●内気な少年だったんだ。
「そうね、小心者だし。あまり目立ちたくないんだよね。何事も傍観していたい」
●将来の夢とかあった?
「それね、そういう質問になるよね!」
●内気な少年は何になりたかったの?
「無い!その時どきでみんながなりたいようなのになりたいっていうのはあったけど。プロ野球選手とか、パイロットとか、他色々。
●ベタなとこね。
「ベタなとこはあったけど、『絶対これになりたい!』っていうのはなかったねえ。多分、自分の将来を思い描いてなかった、描けなかったんだろうね。あ、これいいね。ここ使ってよ!『内気な少年は、見えない未来を思い描くことが、出来なかった・・・』」
●はいはい(苦笑)
こんな中学行きたくねえ、こんな世界絶対抜け出してやる!
●中学校の時とか部活何やってたの?
「そりゃ将棋部っすよ」
●あっ!本当に将棋やってたの!?
「本当に将棋部なんだよ!」(注:赦-forgiveは一時期「将棋部」と名乗っていた)
「話が脱線するんだけど、ビーストとかドラゴンが実名でやると名字が珍しいから仕事的にまずいかもみたいなのでステージネームを決めるって話になって、俺は全然支障ないし、ありふれた飯田と言う苗字だし別に飯田で良いんだけどなーって思っていたんだけど、飯田さんも揃えてつけましょう!って流れになって、それでビーストが『飯田さん、〈DJボカロP〉か〈囲碁部〉にしましょう!」って言ってきて。
●なんだよそれ(笑)
「なんだよそれだよな。まあ『DJボカロP』は無いじゃん。俺そんな面白い名前背負える自信ないし、そんな名前つけるほど派手な真似できないし」
●まあそうだね(笑)
「それで消去法で〈囲碁部〉が残るんだけど、実際に将棋部だった手前、それを名乗るのは俺は許せないわけよ。『いや、囲碁できねえし、将棋部だったし!』って感じで、『じゃあ〈将棋部〉でいいかな』って」
●そんな話だったんだ。
「それでまたね、一年かそこら将棋部でやってたけど、将棋で藤井くんって怪物が出てきて、将棋ブームがやってくるわけよ。俺、将棋部入ってたけど、全然部活熱心に行ってなくて、ほぼ帰宅部だったから、これまた背負えないわけよ、『将棋部』という看板を。おこがましすぎるじゃんよ。それで『将棋部』に似た音の、ショウギブ・・・・・フォーギブ・・・forgive(赦す)・・・・これだ!・・・っと」
●それが名前の由来だったんだ。それでも意味わかんないけどね。
「うちのバンドの意味のわからなさは今に始まったわけではなく。まあもう、飯田でいいんだけどね、なんでもいいよ。名前はただの記号だし」
●ちょっと話を戻して、中高の頃とかどうだった?やっぱり内気だったの?
「中高の頃は多少変わって喋るようにはなったかもしれない。友達も普通にいたし。そう言えば中学に入る前の、小学生の時もずっと内気だったかと言われると、そうではなかったかもしれない気がしてきた。まあ小さい頃は内気で喋んなかったんだけど、小学校入学してから三年生の時まで渋谷区にいるときは割と学校で騒いでたり積極的に喋ってたりしてた方かも。川崎市に引っ越してからガラッと変わったかもしれない。渋谷と川崎って距離は近いんだけど、結構雰囲気が違ってね。渋谷区って、渋谷駅の雰囲気はまた違うけど、そこで暮らしてる人たちってやっぱり余裕がある人が多かったりして、全体的に落ち着いていると言うかマセていると言うか独特の雰囲気があって。川崎の方は、一般的な工業的な川崎のイメージのある東の方の地域よりもっと西の陸の方に行って、イメージとしての川崎よりももうちょっと落ち着いているんだけど、でもなんか、等々力らへんの、都会っぽさと田舎っぽさが共存しているところで、まあ日本全体で考えると川崎の方で渋谷の方が特殊なんだけど、俺はそこで育ったから川崎に言った瞬間に空気が違うのを肌で感じて、嫌いじゃないし居心地が悪いわけではないんだけど、なんか萎縮してしまって、ちょっとからかわれたりするだけでヘコんで、��の許せる同級生とだけ喋るって感じで」
●ふーん。
「それで、しょうろくになるぐらいに中学のこととか段々意識するようになるけど、それで地元の中学が通学路にあったから毎日様子を見てたんだけど、『あ、やべえ、金髪のやついるし、なんかバット持ってるし』ってなって、もうぬくぬく育てられた気弱な俺はそんな中学で過ごしていく自信なんか湧くわけないから『こんな中学行きたくねえ、こんな世界絶対抜け出してやる!』っていうふうなことで中学受験を決意しまして。親も俺がそういう性格なのはもちろん知ってるから『じゃあ頑張んなさい』と」
●なんか初めて自我みたいなものが見えたね。
「あー。そういえば。いいこと言うね。それまで自我というか、自分で『これやりたい』と主張したことなかったな。初めての自我の芽生えかもしれない。それで、中学はなんかおぼっちゃまみたいなのが集まるような学校だったから、また水が合うのか自然にに過ごせるようになって内気では無くなったかもしれない。まあ中高は楽しく過ごしてましたね。
●ちなみに音楽はどのぐらいの頃から聴いてた?
「どうだっけな。最初は姉が買ってきたりしてたCD聴いたりしてたなぁ。あとは学校で流行りの音楽を聴いたり。特別深いものでもなく、普通にJーPOPを。小沢健二とかB’zとかスピッツとかミスチルとか奥田民生とか。初めて自分で買ったCDは、シングルはラルクだったかなあ。アルバムはTMレボリューションの『トリプルジョーカー』。
●ちょうどそのへん流行りだったね。TMレボリューションとかって小学生の時だっけ。
「いや、中学入ってからな気がするなあ。小学校のときはお小遣いはそんなにないしジャンプとかVジャンプとかドラクエのバトル鉛筆に消えてたから、お小遣いが増えた中学生の頃だったと思う。(注:赦-forgive-と早瀬は一学年の差があり、一九九八年のTMレボリューションやラルクアンシエルが流行った時期は赦が中学一年生、早瀬が小学六年生でお互いの認識はそれぞれ正しい。)
「中学のときも流行りの音楽を聴くだけで、意識して色々聴き始めたのは高校生になってからかな。友達たちもみんなそれぞれ音楽的に趣向が出てきて、情報交換、というか『これやべえいいぞ』とか教えてもらって、NOFXとかRED HOT CHILI PEPPERSとかRAGE AGAINST THE MACHINEとかRADIOHEADとか王道なのから、SLAYERみたいなスラッシュメタルだったりJOHN ZORNだったり、でもJUDY AND MARYめっちゃ聴いてたり。一番学校でやっべえぞってなったのが、AT THE DRIVE INで。そんで、高校ではいわゆるミクスチャーとかメロコアと呼ばれてるのが流行って俺もだいぶ聴いてたけど、高三になったあたりでUKロックがロックリバイバルになった頃で、このあたりが一番ダイレクトに影響受けたかもしれない。FRANZ FERDINAND、THE MUSIC、THE CORAL、がかなり大学生になってロック研究会とブルースサー��ルに入って、そこから一気に世界が広がったかもしれない。50年代とか60年代のロックやブルース、そしてソウルとかファンクとかの世界を知った感じ」
●親の影響とかは有ったの?
「父親はなんか、楽器はやってなかったけど音楽を聴くのはすごく好きだったみたいで、めっちゃ大量にCDを買い漁ってて、それがアメリカのカントリーとかサザンロックとか、ジャズとかクラシックとか大量に千枚とか二千枚とか家に有って。なんか馬鹿高そうなオーディオとか買ったりして。ロック系だったらオールマンブラザーズとかアルクーパーとかフェアポートコンベンションとかリトルフィートとか、あともちろんビートルズとかも。別に父親と仲が良いとかもなく、父親もそんなに会話する方じゃなかっし、音楽とかそういう話はした記憶がないんだけど、父親が高そうなオーディオで垂れ流してるのを俺は自然と聴いて、『あ、これ良いな。』とか心の中で思っていたり、思わなかったり。あとは、姉がエレクトーン習ってたりしたのと、俺の幼稚園の同級生のお母さんかおばあちゃんか忘れたけどピアノの先生をやってたから、それがきっかけで俺は幼稚園の時からなんとなくピアノ習ってて、引っ越す小学校三年生までやってたかな」
●あ、ピアノやってたんだ。ピアノってなんか音楽というかベースに役立ったりしてる?
「それね、めちゃくちゃ役立ってる。楽譜読むのとか基礎的な部分とか、和音の構成の知識がついて、それでベースライン考えられたり。この音出したいなら、フレットをこんだけ移動スレばこの音になるんだなとか検討ついたり、ベースやるなら他の楽器もやった方がいいというか、他の楽器を始めてからベースをやった方がいいと思う。いきなりベースやると基本的に全体のことが良く見えなくて、無意識にコードがCだったらドを弾かなきゃみたいな。でもCだからってドを弾かなきゃ行けない訳ではなくて、他の音を弾いてもいいし、逆にここはドを絶対弾いた方がいいみたいな、色々考えるには他の楽器やってからの方がいいベース弾けると思う。それでその楽器の経験とか知識がベースに組み合わさって面白い発想のベースが弾けると思うし。俺のベースは変わってる、みたいなことを言われることが多くて、自分では『どの辺が?』と思うけど、これは多分俺はベース始めたときにギターを触ったことなくて、鍵盤をベースにしてたりするからかなあと。まあ音楽的な話はつまらないからこのぐらいでやめよう。
●ベースを始めたのはいつ頃になるの?
「人生のたいていのことはあんまりはっきり覚えてないんだけど、ベースを始めた時期はよく覚えていて、中学二年の時。さっきの話に通じるけど、俺は中学の頃は今で言ういわゆるキョロ充みたいな奴で、オタクな奴とも仲良いし、嫌いな言葉だけどスクールカースト的に上位の、流行の最先端を追いかけてる奴とかとも仲良くて、それで、上位の奴とかが『バンドやろうぜ』みたいなブームが中二くらいで出てくるのね。俺は、その時はもうピアノもやってないしそれほど音楽にも興味はなかったんだけど、どういう流れか忘れたけど『飯田もやれよ。』ということになって、それで『ベースいないから、お前ベースな』って言われて。『ベースって���それ?』という感じで。俺も、よくわかってなかったけど楽しそうだから『じゃあやるわ。』と。その頃は、バンドというのもよく知らないし、ギターとベースの違いとかも全然わからなかったんだけど、それで友達の家で、その友達は医者の息子で吹奏楽部に入ってて、千葉に豪邸が建ってて、当時は出たばっかりで高級品のソニーのMP3プレーヤーとか持ってて、『すげえ、いっぱい曲入ってるし!』って興奮したんだけど、そいつはNOFXとかハイスタンダードが好きで、そいつの家でハイスタンダードだったか忘れたけどミュージックステーションの録画でバンドが演奏しているのを見せてもらって、『このでかい方のギターがベースだよ。今度買いに行くぞ』って。『俺は深夜にこっそりエヴァンゲリオンとギルガメッシュナイトを録画したことしかないのに、こいつは音楽番組を録画して、MP3プレーヤーを持ってるし、なんてハイソサエティな世界なんだ!』と興奮しちゃって、ベースやるぞって気持ちがどんどん盛り上がってきて。ちなみに二〇年前のテレビなんか大して低音が聞こえないから、結局ベースの音が一体どういうものか全くわからなかったんだけど。それで数日後にお茶の水の楽器屋へ行って、三万か四万くらいのヤマハの初心者セットを買って、ベースを始めた感じ」
●(笑)じゃあ始めたきっかけは友達の影響って感じなんだ。
「うん。自我が基本ないからね。友達がやってて楽しそうだったらやる、みたいな」
●最初はどういうのやってたの?
「最初はHIDEとかハイスタとか、イエモンとか・・・」
●当時の流行りひと通りって感じだね。
「何かエンリケとかが毛嫌いしてそうな奴ばっかだな(笑)」
●高校に行ってもバンドを続けてたたの?
「俺、何事も自分からは始めることってあまりないけど、一回やり始めたらなかなかやめないからね。やり始めたら止まらない。っていうか学校が中高一緒だったんだよ。中学から同級生みんなそのまま高校へっていう流れがあるから普通にやってた。ベースやってみたら、『あ、結構楽しいじゃん』って、ずっとやってた。
●バンド組んだら、文化祭とか、発表の場とか、自分で作ったことはある?
「文化祭ライブは前からあったんだけど、うちの高校は軽音部みたいなのが元々なくて、ちょうどうちの代の人達が『軽音部作ろうぜ』ってなって軽音部を作ったね。俺はまあ傍観してただけだけど。スーパーガンバリゴールキーパーズの抜けたメンバーとか、同級生なんだけど、そいつらが積極的に動いてた。
●あ、同級生だったんだ。
「そう。実は」
●それが高校時代。そっから大学になると思うんだけど、進路とかどういう風に決めたの?
「いやー、進路が難しかったんだよね。何しろ将来の夢とか具体的になかったから。大学、学部どうしようって。
●大学に行こうっていうのは決めてたの?
「高校がみんな大学受験するって感じの高校だったから、大学受験する以外の選択肢は特に無くて、大学受験するっていうのだけ頭にあって、『とりあえず勉強頑張って、一番行けたところに行こう』と」
●高校の時って頭良かったの?
「学校の中で?」
●うん。
「いや、全然。二八〇人くらいいて、大体二五〇位とか二六〇位とか」
●低いね(笑)
「高��ぐらいまで五年間勉強はほとんどしないでゲームとバンドしかやってなかったからね。さすがに高三になって、『さすがに勉強しないとまずいな』って。自分の中で何も勉強しないで適当に卒業して適当に大学行ってたら人生に何も残らないで後悔するだろうなって危機感が湧いてきて。とりあえずやることはちゃんとやろうと思って。結局高三になってからそんなんじゃ現役では受からないから浪人することになるんだけど」
●すごいね。また自我らしきものが出てきたね(笑)
「そうなんすよ」
●それ以外は流されるままに生きてるね(笑)
「そうだね(笑)」
●やっとこう、自分の意志で、ていうのが出てきましたね。
「高三の時にね、学年のボスと同じクラスになって、なんか急に仲良くなって。野崎くんっていうんだけど。野崎は中学からマジ怖くてね。蹴られたりとかしてたんだけど、高三になって同じクラスになってから急に仲良くなって、一緒に学校帰りに自習室に行ったり。野崎が「俺は将来弁護士になりたいから中央法に行く」って言ってて。俺も影響されてめっちゃ勉強して」
●学部はどこ?
「経営学部ってとこで。これはなんでここかっていうと、ここはセンター試験の点数だけで良くて、俺はセンター試験でめちゃくちゃ点数とったから、センター利用でこことあと何個か合格して、行きたかった私立は滑って、結局まあ自分なりに頑張ったでしょとここに落ち着いて。経営学部は、まあ全然興味なくて本当につまんなかったね。もっときちんと学部を調べればよかった。
●サークル的なものは?
「最初、映画研究部っていうところに入って、これは単に部室が居心地良かったからなんだけど、これも映画が全然好きじゃなくてね。ここでも自我が無いな(笑)」
●バンドのサークルはどうだったの?
「最初入ってなかったんだんだけど、経営学部にやっぱり授業出てなかったりで友達いなかったんだけど、大学にマルチメディア文化課程っていうとこがあって、何するかよくわかんない学科なんだけど、まあ日大芸術学部みたいなとこなのかな。そこに入ってくる奴はもう変な奴しかいなくて、映画研究部にもマルチのやつがいっぱいいたからマルチのやつと仲良くなってって、そいつから『マルチのやつでバンド組みたいやつがいてベースいないらしいんだけど、飯田くんやる?』っていう流れになって。マルチのKくんっていうのが組もうと言ってて、そのKくん含めてマルチの三人と俺とでバンドやり出して、それでロック研究会に入りました。
●バンド組んだのが先だったのね。
「そう。でもこのバンド、そのKくんとは”音楽性の違い”でKくん以外の三人で活動するようになるんだけど(笑)」
●大学行ったらバンドを続けよう、あるいはやめようみたいな気持ちはあったの?
「あー、最初はやろうと思ってなかった!『バンドなんて将来の役に全然立たない』っていうのがあったから、いつやめようかなあって。最初は大学で勉強しまくるぞって。でもやっぱり大学は水が合わないし、学部は全然つまらないし、受験で燃え尽きてたし、でも、なんかバンドは楽しいじゃん。それ大学行かずにロッ研だけは行く、みたいな」
●バンドはどういう感じの活動だったの?
「最初は横浜のライブハウスに出たりしてて、そのうち下屋根のオーディション受けに行こうってことになって、俺はそん時仕組みをよくわかってなかったから『オーディション!?やべえじゃん何それ!」ってなってて、後から考えると屋根裏のはそんな大袈裟なものじゃないと気づいていくけど、���たちはオーディション受かったぞ!うおおお!みたいな自惚れみたいなもので興奮して、屋根裏とかに出るようになって。そん時に太平洋不知火楽団とかオワリカラとか対バンで見てたりして。向こうは俺たちのことなんて何にも覚えて無いと思うけど。俺たちは謎の根拠の無い自信で調子乗ってて、もっといろんなバンドと交流しておけば良かったなと後悔してる。あとから三年か四年後とかに、太平洋とかオワリカラとかやべえぞ!みたいな。そん時俺は『同じようなところで出てた同世代のちゃんと頑張って活動してるカッコイイバンドはどんどん結果出してるじゃん。何やってんだ俺は。』ってやる気どんどん無くして行って」
●そのバンドはいつぐらいまでやってたの?
「いつまでやってたかな。他にもサークルで組んだりとかもあって・・・、四、五年くらいやって、自然にやらなくなっていったかな。あ、ちなみにそのバンドのやつ、放送研究会にも入ってて、エンリケの先輩になるんだけど、性格に癖が強すぎてエンリケがそいつをめちゃくちゃ苦手でね。まあ俺は同級生で同じバンドだからそいつのこと面白くて良いけど、確かにこいつが先輩だったらめちゃくちゃ嫌だろうなって(笑)エンリケが『バンドはカッコイイし、飯田さんは良い人なんですけどね・・・』って(笑)今は『飯田さんのベースは認めるけど、人間性はね・・・。』って、真逆のことを言われてるけど(笑)」
●エミリーライクステニスに入ったのはどういう流れ?
「前々からエンリケが『飯田さん、ベースやってくださいよ。ブボンペキペキってやつを』って言ってくれてたんだけど、俺はずっと断ってたの。先輩とやったらエンリケが遠慮して、自由に出来ないで堅苦しいだろうなって。そのあと、やってたバンドもやらなくなって、就職もしないでずーっとゲームとかして虚空を見つめて人生無駄な期間過ごしてて、ちょうどエミリーライクステニスの先代のベースが抜けて。『もう、飯田さんしかいません。』って。『じゃあやる。』って。二〇一三年だったっけな。もう七年くらい前か」
あれ?これはめちゃくちゃカッコイイぞ。
●それまでは、エミリーを外から見ててどんな印象だった?
「そうね、最初は三人でやってて、横浜のライブハウスとかに見に行ったりしてて、なんかまあ、俺もバンドやってるから、『エンリケのやりたいのはおそらくこうこう、こんな感じなんだろうな。』って頭の中で補正しながら見てて理解はできたんだけど、やってることは甲高い声でエンリケが叫んで、速いリフの応酬で、でも全然演奏がめちゃくちゃで、なんかMCだけはまあエンリケのことだから面白い、誰が見に来るんだ、みたいな」
●それはエンリケも言ってたね。『演奏は受けずにMCだけ受けてました』って。
「そんで、しばらくして、先々代のベースがいて、ビーストとドラゴンが入学して二人が入って、四人でやってるのを学祭で見た時に『あれ?これはめちゃくちゃカッコイイぞ。演奏はめちゃくちゃだがこのまま演奏が上達したら良い感じになりそうだな。』って印象になってきて」
●おお。
「でもね、先々代のベースが就職する時に『辞めます。』ってなって、先代のベースが入って。その時は俺は虚空を見つめてたから一回もライブ見てないんだけど。なんかいろいろあったらしいことをエンリケから相談というか報告されてて、それでさっきの話の通り俺が入ることになって」
●なるほど。飯田くんが入ってから、いろいろ幅が広がったし、やろうとしていること��再現度が上がったりしてきたと思いますけども。
「それは褒められてんのかな(笑)」
●そうですね。ライブ中は何を考えていたりするの?
「そうだねえ。色々考えてるけど。むしろ早瀬くんはどういうことを考えてライブやったりしてた?」
●そうね、エンリケとこないだ話したことだけど、『ライブ中何も考えない時の方がいい時が多いよね。』って話をしてて。
「そういうのはあるなあ。でも何も考えないでやるって、昔はできてたけど、最近は、エミリーやってからはなくなったなあ。何かしら考えてやったりしてる。演奏、走ったりとかしないか、とかここでこのタイミングで音変えるぞ、とか考えなきゃいけないことが多くて。エミリーに入ってから無心で無邪気にできなくなったというか。昔は『俺が弾くものは全部ベースソロだぞ。』みたいな感じだったけどエミリーでは支えなきゃいけないなって意識が出てきて。先輩という意識もあったし、俺が演奏面で支えなきゃいけない自覚が出て。これは成長なのかな。まあ演奏以外では別に先輩みたいな威厳とかは全然無いんだけれども。演奏に関してはまあある程度矜恃はあるので。あとはステージの上は恥ずかしいよね。恥ずかしいからビースト全部任せたぞ、って感じで」
俺たちがやる意味あるんですか?
●曲作りの面では、どういった作り方とか、どういう役割?
「難しいよね。一曲一曲違うし、以前と最近ではだいぶ作り方変わってきて。最近はコロナがあってしばらくスタジオには入ってないから作ってないけど。ボツになるのも多いし。なんかいい感じのフレーズができても『こういうの俺たちがやる意味あるんですか?』とか、『面白いところがわからないから無しにしましょう。』とか」
●やっぱ基準が「面白いかどうか」になってるんだね(笑)
「そうだね。具体的には・・・スサノオ先生とかは、ビーストが『東京オリンピックの新しい種目の応援ソング作りましょう!』とか言って、『種目はスポーツチャンバラです。』って。まあ俺も最初は『???』だよね。最終的にブラジルの少年がスポーツチャンバラでヤマタノオロチを倒すみたいな感じで、『じゃあ曲調はサンバのリズムで作るか』とか、うーん、すぐ思いつくのは、スペースパワーで、俺が最初言ったのかビーストが言ったのか忘れたけど、『動物はもういっぱいやったから宇宙で行こう』見たいな感じになって、まあ宇宙って言ったら、Pファンクとか、あとはスペースカウボーイっしょ、って感じで、ジャミロクワイっぽい『ドゥンべべドゥンべべドゥンべべドゥンべべ』ってアシッドなベースを考えて、そっからどんどん肉付けして行って」
●最初にコンセプト的なものが生まれるってこと?
「ここ最近はね。最近スタジオ、二時間入ったら、一時間くらいは会話でずっと大喜利やってるもん。最近の面白いのあったけどまだ曲完成して無いからここでは言えないわ。映画制作みたいな曲の作り方なんじゃない?『このシーンはこういう感じで、次のシーンはこういう感じで・・』ってどんどん」
●展開が一方通行だよね。同じ展開が出てこない。
「繰り返さないね。俺もなんか心配になって『繰り返さないの?』て言ってみたら『いや、繰り返しません。』と」
●ハハハ(笑)一方通行って覚えるの大変じゃないの?
「それがねえ、よく同じこと聞かれるんだけど、むしろ逆で簡単。一方通行で流れがあるから一回覚えたらむしろ混乱がなくて、覚えられるよ。みんながイメージしてるより簡単。並列だと、繰り返しがあると数えなきゃいけないじゃん。例えば、イントロあってAメロが何小節でサビが何小節あって、またAメロで次はサビ二回あって、とか。『あれ?今どの部分引いてんだっけ?』とか、数えなきゃいけないじゃん。そっちのほうが断然頭使わなきゃいけないと思う。直列の方が間違えない。もし間違えるとしたらそれはもう技術的な問題。』
●その、エミリーの曲の作り方とか構造はみんな気になるよね。
「なるのかね。まあ俺もたまに『ん?ん?何言ってるんだこいつら』ってなってるけど(笑)」
●(笑)
「まあ俺はあんまり構成とかはなるべく意見しないようにしてるけど。俺あんま面白い人間じゃないし、三人の方が面白いこととか突拍子ないこととか考えてるから面白いことは三人が考えてればいいっしょって。俺はフレーズ、こここういう方がしっくりくるんじゃない?とかそういう細かいところとか、リフ一緒に考えたりとか」
●そういうところでも役割がいろいろあるわけですね。
●また次の質問に行きますけど、バンドとかやってるけども、最近、普段音楽どういうのを好きで聴いてる?
「あーそうね、最近は・・・。三〇代になると根気とかなくなってきて昔みたいに聴き漁ってはないけど」
●新しいのを掘ったりしたりしなくなってくるよね。
「もともと、他の、バンドやってる人たちに比べては漁ってないと思う。最近はこういうのかっこいい、とか発掘しないね」
●プレイの面で影響受けてるものとかは?
「この話面白いのか疑問だけど(笑)この種の話をしだしたら面白味もなくダラダラ二、三時間くらい続くけど(笑)まあベースに関してもいろんなもの影響してるので全部はあげられないから一番だけ挙げると、生で一番『やべえぞ、このグルーヴは。』ってなったのは、溝渕さん(注:ex.スイセイノボアズのベース)。まあ他にも挙げたらキリがないのでこの辺で」
●はい(笑)
●エミリーに入ってもう長いと思うけど、もしバンドをやってなかったら今頃何やってた?
「何やってたんだろうね。考えられないな。生活の一部だからね。うーん。まあ・・・・・ゲームしてるかなあ」
●あ、そう(笑)
「ゲーム・・・。マジで何してただろ」
●例えば、今(コロナの影響で)バンドできないで家にいるだろうからゲームするの?
「ゲームといえばね、俺さあ、ゲームばっかやってたから、もうかれこれ一〇年以上以上ゲーム買わないで禁止してたわけよ。ずっとやっちゃうから。
●なるほど。
「でもね、そこで今回のコロナよ。俺、久しく一人で旅行とかそういうのしてこなかったから、冬ぐらいに『なんか東京に疲れてきたしたまには一人でちょっと北海道でも行こうかな。』って思って、三月に飛行機と宿を予約したのよ。そしたら見事に北海道で『これコロナじゃないの?』みたいになり始めたタイミングで、『マジかよ。何でこんなピンポイントで。こっそり行こうかな。でも絶対怒られるよな。』って自問自答して。まあ結局行かないで正解だったんだけど。そんで飛行機代は損したけど、あっちで三、四万くらいパッと使うかーって考えてたから、『行けなくなっちゃったなあ。鬱憤ばらしになんか買うか。』って。『そういFF7リメイク出るじゃんか。これだ。』って。それでPS4買って、FF7リメイク予約して、ドラクエⅪとか買って。ちょうど四万くらいだし。三月からもうずっとゲームして。いやもうPS4やばいよ」
●(笑)。俺ゲームやんないからわかんないけどどうすごいの?
「スーファミとかPS1とかで止まってたとこからいきなりPS4になったらね」
●だいぶ飛んだね(笑)PS4になると例えばPS3とかと比べると何が違うの?
「PS3は全然わかんないんだよ。やってないから。でも多分、PS3でも、ムービーとかはすごかったと思うの。でも操作中とかは多分荒くなったり。PS4でさ、まずドラクエⅪやって、動いてる最中もずっと綺麗だから『うわあ、リアルドラクエだ。』って感動して、さらにFF7リメイクやったら、もうフルCGムービー状態で操作できんの。FF7リメイクはなんか賛否両論あるみたいだけど。いやもう没入感がすごかった。それで切れ目がないから、ずーっとエンドレスでやっちゃって、四日くらいでクリアして。五〇時間くらいだったから一日一〇時間以上か」
●えー。熱中しちゃうね。
「だから、バンドやってなかったらそんな生活してたと思う」
●廃人になってたところでしたね(笑)
「別に今も廃人みたいなもんだけど(笑)」
●ふふ(笑)
●なんかこう、今こういう状況ですけど、これが明けたら、なんか『こういうことしたい。』っていうのありますか?バンドとしても個人的にも。
「まあこれは普通にもうね、普通にライブしたい。さっきステージ出るの嫌だみたいな話したけど、やっぱり、生でやるのはいいですからね、バンドは。もう普通にバンドしたい。
●そうだよね。
「そのね、普通にライブできる状態にするには、ライブハウスが普通の状態に戻らないと行けない。でもなんか俺ができることって何なんだろうって。何にもねえなあって」
●いやまあ、このインタビューでもそうなんだけど、エミリーはいろいろアイデアに溢れてるから、状況問わず、面白い発信のしかたがありそうですけどね。
「うん。まあそういう面白いアイデアは三人が考えて、俺は『あ、それいいんじゃない?』って言ってるだけだけど(笑)まあそんな感じでなんかやれたらいいっすね」
●まあ、アイデア豊富なバンドを支える、ベース飯田くんって感じですかね。
「なんか綺麗にまとめようとしてるね(笑)」
●いやでも、一人そういう人がいないと収拾つかなくなると思うんだよね。
「まあバンドに一人はそういう人必要だけど、俺が支えてるかって言われると、うーん。そんな気はしないけど」
●まあ一人そう、受け入れ態勢のある人がいないと、結構ぶつかったりとかも増えると思うし、いいバランスなんじゃないですかね。
「そんなもんなのかね。まあ良いように言うとね。まあなん今回のインタビューで振り返ってみると、小さい頃から『受け入れてる』のかな・・」
●そうっすね。そういう感じがある。
俺ね、面白いやつと一緒にいないと何にも面白くなんないんだと思う。
●今こうバンドやってる上で、その辺の意識というか、バンドを最初始めたきっかけも、周りの影響で始めたとか多かったけど、なんかこう、自分の意志でやってるなって感覚はあります?
「やっぱりあんまない気がするよなあ。かと言って消極的にやってる訳でもないんだけど。俺、多分さ、『こういうのいいんじゃないすか?』って言われて、『それはいいんじゃないか』とか『よくないんじゃないか。』とか『それ面白そうだな。』とか『むしろこうしたらもっと面白くない?』とかが多くて。そんで『じゃあそれやってみよう。』って、やってそれが面白そうだな、って思ったら割と積極的にやってたりする」
●はいはいはい。0から思いつくっていうより、人から提示されたものを重ねて行ったりする方が得意なんだね。
「そうそう。確かにずっとそうだった。0から1にするよりも、1を2にしたり、10を11とか12にしたりは得意だな。改良したりアレンジしたり。
●そこが持ち味ですね。
「俺ね、面白いやつと一緒にいないと何にも面白いよね。俺一人だと全然なんも面白くない。面白いやつと一緒にいたらその面白いやつをさらに面白くさせられるとは思う。だからね、こういうインタビューは、大変ですよ(笑)」
●ハハハ(笑)そうだね。個人のインタビューはね(笑)
「そういうの含めて、自分の話好きじゃないんだよ。『俺の話なんかして、お前、なんか面白いか?』って」
●まあでも、今回は飯田くんの自我がどこにあるのかってい うのがポイントだったと思うけど、今の話でなんか見えた気がする。
「うん。まあ俺は金魚の糞ですよ。コバンザメ」
●ハハ(苦笑)
「なんか面白そうなやつにくっついて、なんか面白そうにしてるだけ。
●まあ、なんか面白そうなものを膨らませる可能性を持ってる感じですね。
「なんかやっぱり上手いようにまとめようとしてるね(笑)」
●いやまあ、この辺で質問ももうないし終わりに向かって行こうかなと(笑)
「いや、でも二千字で終わるつもりだったから思ったより長くなった(笑)」
●じゃあまあこのへんで(笑)ありがとうございました。
「ありがとうございました」
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1987年、ヤマハは8耐本格ファクトリー参戦3年目で初優勝を飾った。#21 SHISEIDO TECH21 レーシングチームのマーチン・ウイマー/ケビン・マギー組が終盤の逆転劇で優勝したのだ。しかし、TECH21の代名詞である平忠彦の姿は表彰台にはなかった。怪我で出走できず監督として参加していたからだ。 この年、平は昨年の世界選手権GP250からGP500を主戦場としており、国内レースには参戦していなかった。鈴鹿8耐の前哨戦である6月の鈴鹿200kmレースも含め… しかしトピックがあった。ヤマハは鈴鹿200kmレースに片持ちリアアームを採用したファクトリーマシン「YZF750」を投入し、マギーに託した。ピットイン・給油もある34周のこのセミ耐久でマギーは健闘し、後続に大差をつけてトップフィニッシュ。8耐に照準を合わせる精力的なヤマハチームの姿勢を示した。 準備万端に見えたヤマハだったが、8耐前週のフランスGPで平が負傷というバッドニュースが舞い込んできた。ウィークの木曜日に練習走行を走って様子をみたが、首の状態は風圧に耐えられるものではなくライダーとしての出場を断念し、監督としてピットを守った。ピンチヒッターは、平と同じマールボロチームで前年GP250走り、気心知れたウイマーが選ばれ、マギーとのペアで出場することになった。 迎えた決勝。トップを走るワイン・ガードナー/ドミニク・サロン組(ホンダ)が転倒リタイア。これでギャリー・グッドフェロー/高吉克朗組(スズキ)がトップに立ち、#21 SHISEIDO TECH21 レーシングチームが追い上げる展開となった。マギーの強烈なブレーキングで、熱膨張したパッドがキャリパーから離れずタイヤ交換に手間取る場面もあったが諦めることはなかった。暗闇が迫る頃、チームは大胆な作戦に出る。ライバルとのギャップを鑑み、ウイマーに代わり、マギーがタイヤ交換なしで連続して走行する作戦をとる。 残り45分でトップとの差は約20秒。マギーはトップより0.5〜1秒ほど速かったが、逆転するためには微妙な残り時間だった。ラスト10分、2台の差は10〜11秒差。当然のようにトップを走る高吉へのサインは「↑」(タイムをあげろ!)という内容のものだった。そしてラスト5分、198周目の第2コーナーでアクシデントが起こる。周回遅れをかわそうとした高吉が転倒したのだ。その脇をマギーが通り過ぎていきチェッカー。ヤマハがラスト5分の逆転でついに8耐初優勝を飾ったのだ。 チームのピットとヤマハファンは熱狂的に沸いたが、転倒後に復帰し2位でゴールした高吉に対して、この日一番の声援がおくられた。さらに歓喜の表彰台に平の姿がないことで、ファンの胸中にはどこか満たされないものが存在していた。そして平が優勝トロフィーを掲げる姿を見たいという欲求がさらに膨らんでいくこととなる。
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. . . . _ 最近、赤ちゃんを見るたび 秋風よりも強めのモヤっと風が心を打ちつけて止みません。 今の僕にとって一番必要なのは 落胆よりも高揚なのだけど。ぷはぁ どうも、クズです。 . . . なんだろう この感じ 赤ちゃんって誰しもが喜ぶであろう事柄じゃないですか 僕自身も生命の誕生は素敵な出来事って思っているのだけど なんだろう 頰が素直に紅葉しない感じ . . 助手席に乗るとシートベルトが乳首に当たって感じてしまうくらいには身も心も敏感な僕が考えすぎているだけなんですけどね。 . ベビーって絶対善で それが人生の通過点というか 歩む道筋みたいな風潮がなんかなあ。と 悪いことをしていないけども なんかすごく間違いや罪を犯しているみたいな無言の圧というか 喪失感の上で更に故意ではない無垢なハピネスを無数に浴びせられてる気分というか。 まるでベビーがシャワーで降りかかってくる。 意味は雲泥の差ですけども。 あくまでも僕の偏ったイメージや思考なんでしょうけどね。って 周りを見てて思う。から やっぱ可笑しいのかなって思うけども。 . 人として、クズとしても 素晴らしいことだと めでたいことだとちゃんと思っているんだけどもね。 _ 僕は子どもが嫌いでもなければ 特に好きってわけでもないし 子守お願いされても嫌な時は嫌だったりしますけど(するけど) . 甥(一歳)が僕の顔をみるなり 屈託の無い笑顔と発狂を織り交ぜながら走って向かってきては 抱きしめてきて抱っことせがんではちゅーとしてくる。 そして僕がいなくなると泣き叫び恋しい素ぶりを見せてくる。 . 『お前さんだけだよ、必要として求めてくれるのはよ~』と甥に話しかけると意味がわからないにもかかわらず、うんうんと頷く。 こういう姿に実際癒されて可愛い〜とはなるが それは体感の話であってね こころはまた違うじゃない 必要とされたから応えてるだけな気がする。 . 赤ちゃんも友達も恋愛も同じ 必要とされたら求められたら 全うするのみ。 自分から求めたらロクなことにならないので保険をかけてフォーエバー待機 赤ちゃんであれ友達であれ知らない人であれ必要としてきた人には弱っちいんだなあ。 . . そんな野郎だけど 先日、姉がやっていたリトミックのイベントやらに行ってきた。 . 無論興味がないから 子守兼ドライバーとしての役目だったのだが こんな経験なかなかないだろうとちゃっかり参加してきた。 ヴァイオリンとピアノ聴けたから満足。 . 子ども産んだら 女性って女の子って 同い年だろうともっと若かろうと お母さん感がすごくでるなあ 見た目同じだけど お母さん感がすごい 母性?雰囲気? 僕は女性は女性ってしか見てないんですけどね。 . . . #ヴァイオリン弾きの婿養子になりたい #ピアニストの婿養子でもいい #手を怪我しないように全家事するから #コーヒータイムにはクラシック弾いてほしい #昼はアラベスクジムノペディ月の光トロイメライ夜想曲第2番別れの曲カプリース24番 #夜は悲愴月光愛の夢Gアリア1812夜想曲第20番 #絶頂時には一択ヘンデルの私を泣かせてください #目つむってタクト振る真似してしまいそうなうざい男 #子どもの頃ヤマハに通ってたけど #弾かずピアノ周りを走りまくってクビになった #もったいない #死ぬまでにしたい100000のことじゃなく #死ぬためにしたい100000のことの一つに #いかにもなホールでオペラかクラシック鑑賞って入れたけど #無理そう https://www.instagram.com/p/Bqk9GGJHdER/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=uhn15j93fyu6
#ヴァイオリン弾きの婿養子になりたい#ピアニストの婿養子でもいい#手を怪我しないように全家事するから#コーヒータイムにはクラシック弾いてほしい#昼はアラベスクジムノペディ月の光トロイメライ夜想曲第2番別れの曲カプリース24番#夜は悲愴月光愛の夢gアリア1812夜想曲第20番#絶頂時には一択ヘンデルの私を泣かせてください#目つむってタクト振る真似してしまいそうなうざい男#子どもの頃ヤマハに通ってたけど#弾かずピアノ周りを走りまくって���ビになった#もったいない#死ぬまでにしたい100000のことじゃなく#死ぬためにしたい100000のことの一つに#いかにもなホールでオペラかクラシック鑑賞って入れたけど#無理そう
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デジタル音楽論
科研報告書(『poi vol.2』)のために書いたデジタル音楽論の本文です(脚注と図版は省いてあります)。デジタル音声合成などの動向を、メディア考古学的に初期蓄音機の言説と関連づけようとしたのですが、やや中途半端に終わってしまいました。このテーマは現在も研究中。進んだらまたアップします。
秋吉康晴「サイボーグの歌声−−デジタル音楽をめぐる試論」
不滅の声からサイボーグの声へ
1877年12月6日の早朝、トーマス・エジソンは数名の部下とともに一台の機械を囲んでいた。フォノグラフと名づけられたこの試作品は、最古の録音再生機として知られている。録音用の錫箔をシリンダーに巻きつけ、その上に針を落とすと、エジソンはクランクを回しはじめた。彼が最初に録音したのは、よく知られた童謡《メリーさんの羊》だったと言われている。ラッパ型の吹き込み口に向かって大声で歌い終わると、エジソンはクランクを回す手を止めて、今度は再生用の針を錫箔の上に置いた。再びクランクを回しはじめると、わずかに甲高いながらも、確かに彼自身の歌声が鳴り響いたという。エジソンはこの瞬間を後に回想して、「人生であれほど驚天したことはなかった」と述べているが、機械が発する声をはじめて聞いたひとびとの驚きはどれほどのものだったろうか。録音技術にすっかり慣れてしまった現代のわたしたちには想像すべくもないが、フォノグラフの発明が当時のひとびとにとって「驚異」として受け取られたことは確かなようだ。その理由の一端は、試作品の完成から遡ることおよそ三週間前、エジソンの部下が『サイエンティフィック・アメリカン』誌で発表した声明文からうかがい知ること��できる。エドワード・ジョンソンという名の技師はそこで、フォノグラフのもたらす可能性を次のように述べている。
フォノグラフの吹き込み口に向けて話したことがあるか、これから話すかもしれないひと、つまり言葉をフォノグラフによって記録されるひとなら誰でも、彼自身が塵と化してからずっと後に、音声を再生されることを保証されている。その可能性は単純に驚くべきものである。ぎざぎざの入った一片の紙が小さな機械を通り抜け、機械の音が増幅されると、わたしたちの孫や数世紀後の子孫はまるでわたしたちがそこにいるかのようにはっきりとわたしたちの声を聞くのだ。音声はいわば不滅になったのである。
ジョンソンがエジソンに代わって言うには、フォノグラフがもたらすであろう最大の驚異は、未来に向けて声を保存できることにあるという。フォノグラフが発明される以前、あらゆる人物の声は死とともに永遠に失われてしまう定めにあった。故人の声は残されたひとびとの記憶のなかにしか存在しないものだった。ところが、フォノグラフが発明されるやいなや、ひとの声はその主がたとえ亡くなってしまっても、生き生きとした響きをもって保存されるようになる。そうすれば、未来のひとびとは彼らの声を「まるでわたしたちがそこにいるかのように」聞くことになるだろう。ジョンソンいわく、フォノグラフの発明によって声は死を超越し、「不滅」になるのだ。もっとも、人類ではじめてその恩恵に与ったはずのエジソンの歌声は、現存さえしていない。というのも、そのとき録音媒体として用いられた錫箔は、数回の再生にも耐えられないほど脆い代物だったからだ。エジソンの声は不滅になるどころか、それを刻んだ錫箔もろとも失われてしまったのである。とはいえ、ジョンソンの記事はフォノグラフと最初に遭遇したひとびとが録音技術に何を期待したのかを知るうえで興味深い。いつかは消え去ってしまう声を物体に定着させ、保存するという可能性を、彼らは夢見たのだろう。録音技術を利用することが日常化した現在、わたしたちはそうした可能性にもはや驚きを感じないが、ときおりふとそれに気づくこともある。たとえば、古いレコードをかけて、引退して久しい歌手の歌声に耳を傾けるときや、その歌手が故人となってしまったとき、録音は最大限の効力を発揮するはずだ。歌唱や演奏を老化や死のような、避けがたい時間の暴力から救い出し、くりかえし何度でも「再生」できること。そうした力はいまでも確かに録音技術がもつ大きな魅力のひとつであり続けている。
ところが、録音のデジタル化が進行しつつある現在、インターネットを介して無数に増殖していく「不滅の声」たちのあいだから、それらとは別種の声が漏れ聞こえてくるようになってきた。そうした声のひとつとして、たとえば「初音ミク」のそれをあげることができるだろう。「初音ミク」とはヤマハが開発した音声合成技術「VOCALOID2」を応用し、2007年に発売されたDTM(デスクトップミュージック)用のソフトウェアを指している。周知のように、このソフトウェアではあらかじめライブラリに登録されている音声データを素材として利用し、歌声そのものを合成できることが売りになっている。つまり、「初音ミク」を用いれば、作曲した楽曲を自分で歌ったり、誰かに歌ったりしてもらうことなく、いわばコンピュータに歌わせることができるのだ。「初音ミク」を開発したクリプトン・フューチャー・メディアが一種のキャラクター商品としてVOCALOID製品をパッケージ化し、可愛らしい少女のデザインをあしらったことから、このソフトウェアは「ニコニコ動画」のような動画共有サイトを媒体とするオタク的な受容の文脈において「架空のアイドルに歌わせる」という新しい表現方法を生み出した[図1]。発売から10年が経過した現在、「ボカロ系」として定着しつつあるそうした表現方法は、一部に録音技術を利用しているとはいえ、「不滅の声」のような声の表象からはかけ離れているように思われる。というのも、そこでは録音は誰かの歌声を記録するのではなく、誰かの歌声を使って、新たに別の歌声を生成するための手段として用いられているからだ。そのいささかたどたどしい歌声を耳にするとき、筆者は人間が歌っているのか、それともコンピュータが歌っているのか、そのいずれとも決定したがいような感覚に襲われることがある。わたしは「初音ミク」のライブラリに登録された音声データが藤田咲という実在の声優に由来することを確かに知っている。だが、人工的な響きをもったその歌声には、彼女自身の声としてそれを聴くことを拒むような何かがある。その何かを指して、本稿では仮に「サイボーグ」という言葉を使ってみたい。「初音ミク」の声を聴いていると、人間と機械とが互いに融合してしまっているかのような、そんな印象を受けるのだ。
ところで、そうしたサイボーグ的な声の表現は「初音ミク」に限らず、近年ではさまざまなところで聞こえるようになってきた。この小論では、録音のデジタル化によって可能になった声の表現をいくつか紹介しつつ、それらの表現の文化史的な背景として人間と機械の脱境界化をめざすような傾向があることを確認してみたい。わたしたちの声はデジタル化の進行につれて、いわばサイボーグ化の方向へと必然的に向かっているかのように思われるのだ。まずは、「初音ミク」の合成技術を例に、録音のデジタル化が声の表現に何をもたらしたのかをみていくしよう。
デジタルな音響処理
「初音ミク」というソフトウェアはどのようにして音声を合成するのか。開発者の剣持秀紀によれば、そのもとになっている「VOCALOID」の技術は、音声素片を接続するという発想でつくられたという。たとえば、「朝」という単語の発音は、ローマ字で表現すると[a]+[s]+[a]となるが、実際の音声に即すなら[#a]+[a]+[a-s]+[s-a]+[a]+[a#]という素片によって構成される。簡単に言ってしまえば、「朝」という音声を合成しようと思えば、これら6つの素片をあらかじめ録音しておき、順番に再生すればよいのだ。ただし、実際にはそう単純ではない。発音が滑らかに聞こえるためには、素片のピッチ(音の高さ)を同じに必要があるし、たとえピッチが同じであっても、ただ接続するだけでは2つの素片の音色の差がノイズとして表れてしまうからだ。つまり、素片同士を滑らかに接続するには、それぞれの素片のピッチと音色の両方を調整する必要があるのだ。そうした処理をおこなうために合成のプロセスに組み込んだ工夫を、剣持は主にふたつ挙げている。ひとつは音色の変化を滑らかにするために、素片同士を接続する際、クロスフェードしながら接続するという工夫である。加えて、素片によっては最初もしくは最後の部分の音色をくりかえすなどして、時間的に引き伸ばすこともおこなっているという。もうひとつは素片のピッチを変えても、音色が変化しないようにするための工夫だ。周波数帯を全体的にずらすと、ピッチを変えることができるが、このやり方では音色も変化してしまう。単純にピッチを上下させると、音色を決定するスペクトル(周波数毎の強さの分布)が全体的に変化してしまうからだ。このような音色の変化を防ぐため、「VOCALOID」の合成エンジンではピッチを変更する際に、もとの素片のスペクトル特性が維持されるように調整しているという。それによって、素片にメロディを与えても、もとの音色は保たれるのである。剣持のグループが開発した最初のヴァージョンは作曲用のソフトウェアに応用され、2004年にイギリスのZERO-Gから「LEON」と「LOLA」として、日本のクリプトン・フューチャー・メディアから「MEIKO」として発売された[図2][図3]。これらのソフトウェアは歌詞と音符のデータを入力することで、比較的簡単に歌唱を合成できるようなインターフェースを与えられており、その基本仕様は先に触れた後続の「初音ミク」にも引き継がれている[図4]。
「初音ミク」をはじめとする「VOCALOID」製品が「ニコニコ動画」を媒体とするオタク系文化において人気を獲得し、DTM用のソフトウェアとしては異例の注目を浴びた理由を問うことは、これまで散々議論されてきたので他に譲るとして、ここで注目してみたいのは「VOCALOID」における録音のあり方である。「VOCALOID」の技術は、録音のデジタル化にともなって、音の扱い方が大きく変化したことを示している。たとえば、録音の断片を繋ぎ合わせるだけなら、ヴァイナル・ディスクでは難しいとしても、磁気テープを用いれば、アナログ・メディアにおいても比較的容易におこなうことができた。だが、音色を変えずにピッチだけを変えることは、アナログ録音においては難しいというより原理的に不可能に近い。アナログ録音でピッチを変える最も簡単な方法は、再生速度を変えることだが、このやり方ではピッチだけでなくテンポも変わってしまう。それだけでなく、周波数スペクトルもやはり変わってしまうので、音色にも変化が生じる。ヴァイナル・ディスクやカセット・テープに触れたことのあるひとの多くは、そうした遊びに興じた覚えがあるのではないだろうか。たとえば自分の声をテープに録音して再生速度を変えると、テンポ、ピッチ、音色といった複数のパラメータが同時に変化し、印象に劇的な変化をもたらすだろう。それに対して、デジタル的な音の処理では、任意のパラメータを個別に変化させることができる。もとのピッチや音色を保ったまま、テンポを変えることや、反対にもとのテンポを保ったまま、ピッチを変えることは、現在のソフトウェア技術においてはそれほど難しいことではない。同様の技術は「VOCALOID」においても、ピッチの変更や音色の調整をおこなう際に利用されている。では、アナログ録音では不可能だったそうした操作は、なぜデジタル録音の導入によって可能になったのだろうか。
これまで何度も指摘されてきたように、録音技術において「アナログ」と「デジタル」の最大の違いのひとつは、記録の性質がその媒体の物質的な条件によって左右され���かどうかにある。たとえば、レコード盤や磁気テープがくりかえしの使用によって摩耗したり、劣化したりすると、再生音に変化が現れることは周知の事実だ。また、ある媒体から別の媒体に録音を複製しても、音質が変化することも周知のとおりだろう。ところが、デジタル録音の場合には、たとえばCDに傷がついてその部分の音が再生できないということがあっても、音質が劣化するということがない。また、CDのデータをいくら複製しても、音質が変わることはありえない−−データを圧縮したり、再生ソフトウェアを変えたりする場合、話は別だが。こうした違いはもちろん素材の違いではなく、記録の原理の違いに起因する。エリック・ローゼンバーグとジョン・ピータースが言うように、「アナログ」の録音とは文字どおり、音の「相似物analogue」を意味し、記録の方式に違いはあれ、音波のエネルギーを利用してそれに相似した痕跡をつくりだすという特徴をもつ。最も分かりやすいのは蓄音機の例だが、エジソンが発明したフォノグラフは音波のエネルギーを針に伝え、その針の振動によって記録媒体の表面を削り取るような仕組みをもっていた。音波のエネルギーを利用して削られた溝が、ここでは音の痕跡すなわち記録ということになる。磁気録音の場合、記録の仕組みはより複雑になり、音波のエネルギーを電気エネルギーに変換し、さらにそれを磁気エネルギーに変換するというプロセスをとるが、発想の根幹にあるものは変わらない。蓄音機も磁気録音機も音波のエネルギーを物理的に利用して、音に相似した痕跡をつくりだすという点では共通するからだ。そのため、アナログな録音では音の「相似物」としての痕跡が劣化したり、変質したりすることで、再生音にも変化が生じるのである。これに対し、デジタルな録音技術は音波のエネルギーを電気エネルギーに変換したうえで、さらにそれを計測し、数値として記録するということをおこなう。digitalの名詞形であるdigitはそもそもラテン語で「指」を意味し、指を折って数えることから転じて、「数」を意味するようになった言葉だ。この語源が示唆するように、デジタル録音の本質とは物理的な痕跡ではなく、数値として表現されたデータにある。CDにも採用されているPCM(パルス符号変調Pulse Code Modulation)方式を例にとるなら、そうした数値化は次のようにおこなわれる。音波のエネルギーはまず電気エネルギーに変換される。この状態でのオーディオ信号(電気信号)は電圧の波として表される。PCM方式ではその電圧を一定の頻度で測定し、数値として記録するのである。このとき測定された数値は、二進数(0と1)によって表現されるバイナリー・データとして記録される。これらの数値をグラフ化し、線で結ぶと、音の波は階段状の線によって表現されるだろう。数値化の頻度を増やし、数値化の尺度を細かくすれば、階段状の線は徐々に滑らかな波のかたちに近づいていくはずだ。デジタル録音の本質とはこのように、音波を非連続的に数値によって表現することにある。デジタル録音の音質が、記録媒体の物質的な条件によって左右されないのはこのためである。たとえば0という数字を紙に書いても、道路に書いても、スクリーンに写しても、その字義的な意味は変わらないように、記録された数値さえ保持されるなら、どのような記録媒体に保存しても再生音の質は変わらない。また、記録媒体がどれだけ劣化しても、数値さえ読み取れるなら、同様に音質は変わらないだろう。このようにデジタル録音は「数」と「計算」にその基礎を置くことで、記録媒体の物質性に左右されることなく、音を処理することができるのである。
記録の原理におけるこうした違いは、デジタル化によって録音の耐用年数が向上したとか、音質の劣化を気にせずに録音をコピーできるようになったということを単純に意味するだけではない。録音の基礎が「痕跡」から「数値」へと移行したことは、音を操作するあり方に根本的な違いをもたらしたのである。その違いはたとえば、先に述べたように、ピッチを変えるという操作においても明瞭に表れている。アナログ録音においてそうした操作は、再生速度を物理的に変えるというやり方でおこなわれていた。ヴァイナル・ディスクの回転数を下げれば、ピッチは下がり、カセット・テープを文字どおり「早送り」すれば、ピッチは上がる。こうした特徴は、録音とその媒体となる物質がまさしく一体であることを意味している。だからこそ、再生速度を変えれば、ピッチだけでなく、テンポや音色といった要素も全体的に変わってしまうのである。それに対して、デジタルな音の操作は物理的な領域ではなく、「数的な領域」においておこなわれる。「VOCALOID」を例にあげるなら、音声素片のピッチ操作はFFT(高速フーリエ変換Fast Fourier Transform)による計算処理を利用している。FFTとはフーリエ変換をおこなうアルゴリズムの一種であり、音の分析では、複雑な波形をより単純な波形(正弦波)に分解するために用いられる。この処理をおこなえば、ある波形を複数の周波数成分に分解し、それらの強度の分布(スペクトル)を細かく数値化できる。「VOCALOID」の合成エンジンでは、このアルゴリズムを利用し、スペクトルを周波数軸上で動かすことでピッチを変えるのである。先述したように、この方法では音色が変わってしまうが、アナログの場合と違って、テンポが変わることはない。また、「VOCALOID」では音色の調整にも同じくFFTが利用されており、今度は周波数成分の強度を調整することで声質を変えるのである。このように、デジタルな方式においては、音の操作は数的なデータの計算処理と書き換えによっておこなわれる。そのため、記録媒体の素材や形状その他諸々の物質的な条件にかかわりなく、音を変化させることができるのだ。
このようにデジタル技術に特有の方法で合成された歌声は、まるで誰かが実際に喉を震わせて歌ったような実在感をともなっている。それもそのはずだ。「VOCALOID」の合成音は、実在する人物の声にもとづいているのだから。だが、どこかぎこちなさを残したその声は、人間の声としてそれを聞くことを拒むような人工的な響きをともなっている。実在する人物の声を利用しているとはいえ、断片的な素材として格納された彼らの声のデータは書き換えられ、パッチワークのようにつなぎ合わされて出力される。そのとき混入する独特の歪みは、どれだけ入念にパラメータを調整しても、完全に消えることはなく、コンピュータの介在性に気づかずにはいられない。人間の声のようでありながら、純粋に人間の声とは言いがたい、独特な印象をその歌声は与える。人間の声がコンピュータと結合することで生まれた、奇妙な歌声。そうした声を指して、ここでは仮に「サイボーグ的な声」と呼んでみたいと思う。
サイボーグ的な声
人間の声とコンピュータの結合によって生まれた「サイボーグ的な声」は、実のところ「VOCALOID」の例に限らず、さまざまなところで聴くことができる。むしろ、そうした声のあり方は現在のポップ産業ではありふれたものになっているとさえ言えるかもしれない。たとえば、先にみたようなピッチ操作の方法は、レコーディングの際、音程を補正するために利用されるようになっている。分かりやすく言えば、たとえ音程を外しても、ソフトウェアで「音痴を直す」ことができるのだ。その種のソフトウェアで有名なものに、Antares Audio Technologies(アンタレス・オーディオ・テクノロジー)社が販売している「Auto-Tune(オートチューン)」がある。このソフトウェアには、ユーザが指定したスケールに合わせてピッチのずれを自動補正する「オートマティック・モード」と、グラフ化されたピッチのデータを手動で調整できる「グラフィカル・モード」があり、「音痴」の程度によってモードを使い分けることができる[図5][図6]。だが、このソフトウェアを有名にしたのは、そうしたいわば「正当」な用途ではなかった。「Auto-Tune」はピッチのずれを補正するだけではなく、特殊な効果をボーカルに加えるために使われることもある。米国の女性歌手・俳優のCher(シェール)が1998年にリリースした「Believe」は、そうした効果を有名にした楽曲として知られる。「Auto-Tune」のインターフェースには、ピッチ補正の変化スピードを調整する「スピード」というパラメータがあるが、その値をゼロにすると、ポルタメント(ある音から別の音に移る際に音程を滑らかに変化させる技法)がなくなり、音程の変化が直線的になる。すると��歌声はもとの音色をある程度保ちながらも、人間的な声の滑らかさを失い、ある種の電子楽器の演奏音のような硬直した音に変化するのである。こうした効果はその後、「シェール・エフェクト」として知られるようになり、Daft Punk(ダフト・パンク)、T-Pain(T・ペイン)、Kanye West(カニエ・ウェスト) といったクラブミュージック系のミュージシャンによって用いられてきた。日本の例では中田ヤスタカがプロデュースするアイドル・ユニット、Perfume(パフューム)のボーカルに同様の効果が用いられている。その効果は人体の構造から逸脱した、直線的なピッチの変化を与えることで、ボーカルに人工的な響きを加えることに寄与している。
また、日本では彼らほど知られていないが、音楽産業の外側で活動するミュージシャンのなかには、音楽的にというだけでなく政治的に興味深いやり方で「Auto-Tune」を利用しているひとびともいる。マイケル、アンドリュー、エヴァンのグレゴリー三兄弟とエヴァンの妻サラの四人によって2007年に結成されたThe Gregory Brothers(ザ・グレゴリー・ブラザーズ)は、動画共有サイト「YouTube」を作品リリース��主な媒体として活動するグループだが、ほとんど無名であった彼らを有名にしたのは、2010年頃から発表を続けている「Auto-Tune the News(オートチューン・ザ・ニュース)」というシリーズだ。このシリーズで彼らはニュース番組から切り取った映像の音声を「Auto-Tune」で加工し、伴奏とコーラスを加えることで、ポップソングのように仕立て上げている。そこではニュースキャスター、政治家、評論家などが演説や答弁をしている声は、歌やラップのように変えられ、The Gregory Brothersのメンバーとセッションしているかのように編集されている−−動画のなかで彼らはしばしばニュースキャスターやインタビュアーの役割を演じている[図7]。政治的なテーマについて歌った楽曲はこれまでも多くあったが、The Gregory Brothersの楽曲はそれらとは一線を画している。彼らは政治的なテーマについて歌うのではなく、政治家みずからに歌わせることで、政治的な事柄という��りも政治的な行為そのものを音楽的に批評するという手法をとっているのだ。
こうした「Auto-Tune」の用法は「音痴を直す」という本来的な用法よりも強力に、サイボーグ的な効果、つまり人間と機械の境界を溶解させてしまうような効果をもっている。「シェール・エフェクト」を多用する楽曲において、ボーカルの声質は伴奏に用いられている純粋な電子音とまったく区別できないところまでとはいかないまでも、きわめて近いところまで接近しており、両者の境界を聴覚的に曖昧にしている。また「Auto-Tune the News」においては、インタビュアーや政治家の声はあたかもコンピュータで身体をハッキングされてしまったかのように無理やり操作され、歪められてしまっている。もちろん事実はそうではないが、少なくとも聴覚的な印象においては、人間の喉と機械のあいだに境界など存在しないかのようである。
「Auto-Tune」から離れて、ほかの例もみてみよう。プログラミングに長けたミュージシャンのなかには人間の声をコンピュータの電子音に近づけるのではなく、その逆のプロセスをたどって作曲に利用している作家たちもいる。たとえば、三輪眞弘と左近田展康のふたりによって2000年に結成されたフォルマント兄弟は、「テクノロジーと芸術の今日的問題を《声》を機軸にしながら哲学的、美学的、音楽的、技術的に探求し、21世紀の《歌》を機械に歌わせること」を目指し、独自の手法で合成した音声を創作に活用している。彼らの活動のなかでも最も興味深いものに、『フレディーの墓/インターナショナル』(2009年)という作品がある。この作品においてフォルマント兄弟は1991年に亡くなったQueen(クィーン)のボーカル、フレディー・マーキュリーがあたかも亡霊のように墓地に現われ、歌いはじめでもしたかのように、彼の歌声を蘇らせている[図8]。彼らはマーキュリーの歌声がもつ音響的な特徴を解析し、独自に開発したデジタル音響合成のプログラムによって復元したのだ[図9]。ただし、彼らが亡霊として召喚しようとしたのは、かつて存在した「フレディー・マーキュリー」そのひととは微妙に異なる。召喚された「フレディー」が歌うのは、彼が歌ったはずのない楽曲だからだ。フォルマント兄弟の「フレディー」が歌うのは、共産主義の革命歌として知られる「インターナショナル」である。彼らは冷戦期に米国の文化産業を代表するスターとして生き、冷戦の終結とともに死んだフレディー・マーキュリーの声に、その対極にあるような楽曲を、しかも日本語で歌わせたのだ。作品とともに発表したテキストのなかで、フォルマント兄弟が『フレディーの墓』を「死者なき亡霊」の歌と呼ぶのはこのためだ。ロラン・バルトが写真の本質としてあげた「それは-かつて-あった」という時間性を敷衍して彼らが述べるように、録音技術がもたらしたのは「かつて生者であった者の痕跡」としての声を「いま-ここ」に再現することで、過去に生きたひとびとを亡霊のように召喚するという体験であった。フォルマント兄弟はそのような録音の体験を逆手にとり、デジタル的に合成された歌声によって、かつて生きたあの「フレディー」のようでありながら、しかし実のところ誰でもない何者かを聴き手の感覚のなかに呼びだした。録音という痕跡の効果として事後的に召喚されたその何者かを指して、フォルマント兄弟は「死者なき亡霊」と名づけたのである。こうした試みはデジタル技術の発達によって、音声情報を詳細に数値化し、その解析データを音響合成に活用することが可能になったことを意味するだけではない。むしろ、フォルマント兄弟がラディカルに主張するのは、声による「現前」の感覚はメディア技術によって構成されうるものになりつつあるということだ。
本稿の冒頭でとりあげた「不滅の声」という表現が、死者の亡霊的な現前という事態を録音技術の偉力として言祝いだものだとすれば、フォルマント兄弟が提唱する「死者なき亡霊」はそうした効果を最新の技術のもとで読み替えようとする試みだと言うことができる。そして、同様の試みは彼らほど自覚的ではないかもしれないが、筆者がここでとりあげてきたデジタル的な声の表現にもあてはまるだろう。それらはみな「かつて-あった」者たちのようでありながら、しかし実のところ「かつて-あった」誰でもない何者かを召喚してしまうような側面をもっていたからだ。だが、筆者はここでその何者かを「死者なき亡霊」と呼ぶよりも、あえて「サイボーグ」と呼んでみたい。なぜなら、現在起きつつあるのはメディア技術がもつ亡霊化の作用が新たな段階を迎えつつあるというだけではなく、人間が機械に、機械が人間に近づいていくような事態だからだ。「VOCALOID」や「Auto-Tune」を用いた作品において、人間の声はコンピュータによってデータ的に生成され、出力される電子音へと接近していく。他方、フォルマント兄弟の作品では逆に、コンピュータによって生成される電子音のほうが人間の声へと接近していく。こうした事態を名指すには亡霊化という表現よりもむしろ、サイボーグ化という表現のほうが筆者にはしっくりくるのだ。
サイボーグ化する声の系譜
1877年に蓄音機が発明されたとき、録音技術にはじめて遭遇したひとびとはその魅力を声の不滅化という言葉で表現した。そうした表現は写真映像の力を時間の「防腐処理」という言葉で言い表したフランスの映画評論家アンドレ・バザンの主張とどこか似ている。バザンによれば、写真や映画を生んだのは、人類が古代よりとりつかれてきた「ミイラ・コンプレックス」の衝動であった。それは永続化しうる人物の似姿をつくることで、死の恐怖を乗り越えようとする衝動であり、その起源としてバザンは古代エジプトのミイラを挙げ、その末裔あるいは完成として写真と映像を挙げる。遺体に防腐処理を施すように、写真と映像は時間に防腐処理を施し、「持続のさなかでせき止められ、死の運命から解き放たれた生命」の姿をわたしたちに与えた。蓄音機がもたらしたのはある意味でそうした「防腐処理」の音声版であったと言うことができる。蓄音機は声を死や腐敗といった時間の暴力から救い出したのみならず、主体の亡霊的な現前という驚くような効果をもたらした。エジソンが蓄音機を発明した当時とは異なり、その効果はすでに日常化し、人間にとって第二の自然と化していると言っても過言ではない。ひとたび「再生」をはじめれば、往年の歌手たちも、流行りのアイドルたちも当人の生死や老いにかかわりなく、当たり前のようにわたしたちのために歌ってくれる。そうしたある意味で奇跡のような体験は、鳴り響くなり消えてしまう声という儚い現象を物体に刻み込み、痕跡化する技術によって可能になった。
ところが、録音のデジタル化が進んだ現在、スピーカーからは「不滅の声」とは別種の声が聞こえるようになってきた。あるところでは、ソフトウェアで歌唱データを入力し、電子楽器を自動演奏するように歌声を操るということがおこなわれ、別のところでは、音声のデータを書き換え、歌声をシンセサイザーの電子音のように変えたり、話し声を歌声のように変えたりするということが当たり前のようにおこなわれている。またあるところでは、デジタル処理される音響のデータを人間の声に近づけ、無から歌声を生成するということさえおこなわれている。つまり一方では、人間の歌声が機械によって生成される音響に接近していくという状況が生まれており、他方では、機械によって生成される音響が人間の歌声に接近していくという状況が生まれているのだ。人間と機械とがあたかも互いに結合するようにして生まれる声。そうした声のあり方を、本稿ではサイボーグ的な声と呼んできた。
こうした状況はなぜ生まれたのか。その背景をゆっくり考える紙幅の余裕はもはやないが、デジタル技術の歴史をたどっていくと、そこにはもともと人間と機械の融合を志向するような思想をいくども垣間見ることができることは指摘しておきたい。たとえば、「サイボーグ」という言葉の由来として知られる「サイバネティクス」は、そうした思想を代表するものとして挙げられるだろう。1948年にこの学問を提唱したアメリカの数学者ノーバート・ウィーナーは、動物と機械を通信工学と制御工学の観点から総合的に扱うことをその目的としたが、彼はそこで動物の神経系を高速計算機すなわちコンピュータと同列に置くという考えを提示している−−「われわれに明らかになったことは、つぎつぎにスイッチの操作を行なう超高速計算機が、神経系に生ずる問題をほとんど理想的にあらわす模型となりうるにちがいないということであった」。彼いわく、神経系のニューロンは発火するか、しないかという二者択一的な性格をもつが、この性格は0と1という二進法に従って作動するコンピュータと共通するというのだ。また、ノイマン型コンピュータの父として知られるジョン・フォン・ノイマンは、1957年に死去するまで脳とコンピュータの類似性を数学的に証明する試みに従事していた。その遺稿においてノイマンは脳の働きにアナログ的な側面があることを認めつつも、ウィーナーと同じく、神経パルスがデジタル的な性格をもつことを主張し、中枢神経系の働きを記述するためのプログラム言語の可能性を指摘している。彼らが主張したのは、人体とコンピュータは類似した働きをもつということだった。だからこそ、コンピュータを人間のように扱い、人工知能や自動制御の技術に応用することが可能になったのであり、人間をコンピュータに接続し、人工臓器によって制御するようなことも可能になったのだ。人間の声をコンピュータ技術と結合させ、両者の境界を曖昧にしてしまうような表現は、人間と機械を同じく「計算」というタームでくくるような思想が社会に浸透したことの現われだと言えるかもしれない。
だが、人間と機械との接近をもたらすような技術やそれを用いた表現は、何も今にはじまったことではない。メディア研究者のジョナサン・スターンが指摘するように、そもそも蓄音機の発明からしてすでに、人間と機械の境界を揺るがすような側面をもっていた。その発明は人体をある種の機械とみなし、実物の機械として再構築しようと目論むようなさまざまな探求の成果としておこなわれたのであり、局所的にみれば、電話や蓄音機は鼓膜の模造品に起源をもつ。また、筆者が別の論文で書いたように、さらに遡れば、18世紀にはすでに口や喉といった音声器官を人工的に再現することで、人間の声を機械化しようとするような試みもおこなわれていた。ジョンソンが「不滅の声」について語ったとき、それはすでにかつての人間の声ではなく、フランケンシュタインの怪物があげた産声のごとく、人間と機械の境界を乗り越えようとするさまざまな実践の積み重ねによって誕生した声だったのだ。以来、人間の声は機械との結合と融合をくりかえし、美的に洗練され、マイクロフォンを通して聞こえる声こそが自然な��声として受け容れられるような文化さえ成立した。そう考えると、本稿で「サイボーグの歌声」と呼んだものは、アナログとデジタルとの断絶を意味するものというより、録音技術の誕生以来(あるいはそれ以前から)くりかえされてきた試みの延長にあるものとみなすべきかもしれない。
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20190618
雑記(走ること、身体、ミラーレス一眼、CS-40J)。
身心一如
週一回程にペースは落ちたものの細々とランニングを続けている。今までどれくらいの距離を走ったかが気になり2015年の十月から付け始めた記録を調べたら約1000kmに達していた。それ以前に喫煙者だった頃からたまに走っていたがそれでも大体1200〜1300kmぐらいなのではないかと思われる。約4年間で1000kmという数字は少ないのかもわからないが、以前の私といえば継続してきたことは三日坊主というようなものでそっからすれば大分凄いことである。
三島由紀夫の随筆に、「私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れた」というような一節があったが、文弱の極みのような情けない現実の自分から逃走するかのように始めた「走る」という行為は1000kmの遠回りを経て結果自分自身に辿り着いたというような感がある。心と身体の間には思考という1000kmもの距離が横たわっていた。
ランニングコースにいくつかあるトンネルを通り抜ける度に毎回生まれ変わる意識で、振り返ったトンネルの入り口にさっきまでの古い自分がこちらに向かって手を振り別れを告げる映像をまるで幻視のように想像した。走る度に死に、走る度に生まれ変わる。後にユング心理学や文化人類学で象徴思考や擬死再生の儀式などを知ることになるが自然と行き着いた再び自らに生命力を吹き込む方法の一つだった。思考や頭さえ邪魔しなければ魂は自然と正しい場所と正しい時間に辿り着く。
ランニングを始めた頃、誰もいない夜の湖の周りを独り静かに走るのは、今思い返しても背骨が軋むような孤独な時間だったがあれは自己分離感に由来する寂しさだったと思う。それにエゴは静寂を恐れる。一歩一歩、一呼吸一呼吸、身体に定期的に意識を引き戻すことで絶え間のない思考を分断することを習慣化した今ではかつてのような強烈な寂しさを感じることは無くなったように思う。
話は変わり、オリンパスのミラーレス一眼を購入。色々考え若干型落ちの感は否めないものの防塵防滴仕様と山行に向いてそうなOM-D E-M5 Mark2にした。ブログを始めるちょっと前、3年半ぐらい前から始めた小銭の貯金箱がパンパンになり使い道を考えていた矢先でばっちしのタイミング。両替した際はなんだか金持ちになった気分だったが、すぐ飛んで行ったので短い付き合いでありました。説明書の厚みと本体のボタンの多さに面食らうが機械音痴の私に果たして機能を使いこなせるのでありましょうか。
カメラを新品で買ったのは大学生以来だがカメラへの興味は心理的に分かりやすく外の世界への眼差しの現れだと思う。
んで余ったお金でヤマハのクラシックギターのCS-40Jの中古をネットでめちゃ安で購入。すぐ調律狂いそうな蟹みたいな形のペグをGotohの金キラの35G420ペグに交換し、弦はSAVAREZのクリエイション・カンティーガのハイテンションを張った。ボディーの淵に打痕が結構あったため、車用のクリアーのタッチアップで補修。指板とフレットは綺麗だった。恐らく弾かずにインテリア用として立てかけておいてたまに倒して打痕ができたのかなと推測した。ショートスケールかつ自分のチューニングが一音下げだからハイテンションの弦を張ったがそれでも少し弦がビビってしまう。しかしポロリンと無為につま弾くだけでそれっぽく聴こえるから不思議だ。
Soundcloudに以前上げた折坂悠太の「窓」という曲が、動画サイト等にオリジナルが上がっていない為に毎日誰かしらが検索して聴きにくるのだが、どうやらがっかりして皆帰って行くようである。コードも適当で正直みっともないから消したいのだが、とりあえずもっ回一から耳コピし直している。この「窓」が収録されている初期自主制作盤の「あけぼの」はitunesとかで5曲入り900円で買えるけど、折坂悠太という才能が世に出る前の濃密な気配ごとそのまま録音したようなアルバムで一番おすすめであります。
なんかダラダラ長く書いちゃったな。なんかダラダラ長く書きたい日だった。
今でも、夏が来るあの感じは変わってない。
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MAGAZINE - 2018.01.18
NEIL AND IRAIZAインタビュー
インタビュー、構成:与田太郎
2017年は90年代の音楽シーンをリードしてきたミュージシャン達が活動を再開したり、再結成ライブが行われた一年となった。そんな偶然のシンクロを喜んだ音楽ファンも多かったのではないだろうか。その2017年の年末、ニール・アンド・イライザの15年ぶりのアルバムが発売となった。松田岳二と堀江博久の二人もまたそれぞれに90年代以降の音楽シーンに様々な形で影響を与えてきたし、現在まで独自のスタンスで活動を続けている。彼らに共通しているのは自分の音楽を素直に追求してきたところだろう。そんな二人にこれまでの活動と新作について懐かしい話も交えながら聞いてみた。
ー鍵盤は子供の頃から習ってたんですか? 堀江:はい、���歳くらいの頃かな?ヤマハ音楽教室に通ってました。そこでエレクトーンを弾いたり、いろんな楽器に触れたりしていました。 ー入り口はクラシックということですか? 堀江:いや、クラシックは全く通っていなくて。歌謡曲、ポップスとかが多かったのかな。 ー堀江さんがミュージシャンとして活動を始めたのは92年ぐらいですか? 堀江:きっかけはなんだろう?大学が多摩美で、1年のときにザ・ピンチーズというR&Bのバンドをギターの塚本功と作って。それが89年でした。 ーネタンダーズの。 堀江:そう。そこからずっとつながってる感じですね。ザ・ピンチーズは学内のバンドだったんで卒業で解散になるんですけど、その解散ライブを新宿ジャムでやったんです。それが92年ぐらいです。たぶん、その前にマーチ・オブ・ザ・モッズに出たんじゃないかな。それで黒田マナブさんに出会ってThe I-Spy(アイ・スパイ)に誘われるという。ザ・ピンチーズはふだんは八王子や国立で練習したり、ライブしたりしていたんだけど、都内にいくきっかけはモッズのイベントでしたね。
新宿JAMでのピンチーズ解散ライブとMODS MAYDAY'92のフライヤー(1992)
ーなるほど。ちょうどクルーエル(Crue-L Records)やトランペット・トランペット(A Trumpet Trumpet Records)がスタートする時期ですね。 堀江:そう、クルーエルがコンピレーション・アルバム『Blow-Up』(1991)を出した頃なのかな。
Blow-Up/ V.A(1991)
ー僕ともどこかですれ違ってますよね(笑)。 堀江:そうかもしれないですね。でも当時家が横浜で、都内に来てもライブが終わると車でそのまま帰ってましたから。あんまり長居をせずに帰ってた気がします。 ーちょうど下北沢のクラブ、ZOOがSLITS(スリッツ)に名前が変わった頃ですよね? 堀江:この頃のアイ・スパイはマナブさんに反抗して、彼以外のメンバーでSTUDIO APES(スタジオ・エイプス)というバンドを始めます。そのバンドがよくSLITSや渋谷公会堂の前にあったDJバー・インクスティックに出ていました。
スタジオ・エイプス/ STUDIO APES(1994)
ーチャーベくんと会うのもこの頃ですか? 堀江:もう少し後だと思います。アイ・スパイは、当時インスト期で、サックスがいたり、エル・マロの柚木さん(柚木隆一郎)がゲストでトロンボーン吹いたりして、ウォーター・メロン・マンとか、ロニー・スミスのカバーとか、ジャズ・ファンクとかをやるバンドでした。
DAGGER TO FOOL / El-malo(1993)
ーイギリスでアシッド・ジャズ、トーキン・ラウドが盛り上がる時期ですね。 堀江:そうです、92~93年です。エイプスでは、オリジナルの曲を作るようになって、僕も曲を書き始めて。ベースはキタダマキ、彼はその後、ホフ・ディランやSyrup 16gに参加します。パーカッションのおいちゃん(及川浩志)は、現サルサバンドのCENTRAL。その当時はエイプスと並行してアイゴン(會田茂一)とLOW IQ ICHIのACROBAT BUNCH(アクロバット・バンチ)のメンバーでもありました。僕もそこで鍵盤を弾いたりもしました。あと、小沢健二さんのバンドでもずっとプレイしていますね。ドラムのタクゾウ(和田卓造)さんは、数多くのモッズ・バンドを経て、今はWack Wack Rhythm Band(ワック・ワック・リズム・バンド)で叩いています。そういえばワック・ワックとの交流もこの頃からでした。そのうちギターを弾いていた山下くん(山下洋)が、Freedom Suite(フリーダム・スウィート)を立ち上げることになって、そこにいたメンバーがチャーベくん。
ACROBAT BUNCH(1993)
TOKYO SESSON/ WACK WACK RHYTHM BAND(1994)
ーSLITS周辺っていう感じですね。 堀江:チャーベくんは、SLITSの何かのイベントで初めて会ったか、存在を認識したと思うんです。クルーエルの瀧見さん(瀧見憲司)の『ラヴ・パレード』だったかな?ちょうど、瀧見さんとDJイベントをやっていた、フェイバリット・マリンの神田くん(神田朋樹)が93年にLIBRODISIA(リブロディジア)というソロ・プロジェクトを立ち上げて、エイプスでも神田くんがギターを弾くことになったりして、それで、クルーエルのみんなと近くなっていって。出会った順序がちょっとあやふやなんですけど(笑)。
Got To Be Real/ LIBRODISIA(1993)
LIBRODISIAとSTUDIO APESクアトロでのライブのフライヤー(1994)
ーNEIL AND IRAIZA(ニール・アンド・イライザ)はチャーベくんが堀江さんのデモを聴いて、形にしたいっていうことでスタートしたそうですね? 堀江:そうです。 ーそれが94年か95年? 堀江:たしか95年のフリーダム・スウィートのレコーディングの時だったような…、新宿御苑にあったバズーカ・スタジオの地下で。そこに神田くんとチャーベくんがいて、ミックスやってる間に「MIDDLE MAN」という20歳くらいに書いた1st『I♡NY』の2曲目に入ってる曲を聴かせたんですよ。
Something In The Air /Freedom Suite(1995)
MIDDLE MAN / NEIL AND IRAIZA 7inch(1996) ーそこからレコーディングをして、ニール・アンド・イライザが始まるんですね。ニールの活動がはじまってもキーボード・プレイヤーとしての活動も続いてましたよね? 堀江:そうですね、これは自分にとっては別腹というか、全く別の活動な感じで(笑)。初めて誘われたのは、プレイグスでした。その後GREAT3と出会うきっかけになります。93年かな?これはマナブさんがつなげてくれて、実は、ギター・ボーカルの深沼くん(深沼元昭)はニール・アンド・イライザの名付け親なんです。よく聞かれるんです、ニールがメインなのかキーボード・プレイヤーとしての活動がメインなのか。今でも、自分ではどちらかをあんまり意識してないんですけど。 ーコーネリアスは最初から参加してますよね? 堀江:はい、山下くんをはじめ、ワック・ワックのメンバーが参加していていいなって僕もやりたいと思って。当時ポリスターというレコード会社で働いていた、ドラマーでもある荒川くん(荒川康伸)が小山田くん(小山田圭吾)を連れてエイプスを見にきてくれて、その時に初めて会いました。たしか94年渋谷のクアトロでしたね。 ーフリッパーズ・ギターのライブは見てましたか? 堀江:それが、大学時代に塚本からバンド名は聞いたことはあったけど、どんな音楽をやっているのか知らなくて。コーネリアスは1stアルバムを出す前に、エイプスのおいちゃんが緑のロゴTシャツを着ていたことが、とても印象に残ってます。 ーニール・アンド・イライザはその後にはじまるんですよね? 堀江:そうですね。フリーダム・スウィートのレコーディングでアイデアが出て、チャーベくんと一緒に当時、渋谷の東急ハンズの近くにあった、ゼストというレコード屋にいたEscalator Records(エスカレーター・レコーズ)の仲くん(仲真史)にこういうアルバム作りたいんだけどって、デモが入ったカセット・テープを持って行ったのがきっかけです。それで、エスカレーターの『NEW ONE』(1996)のコンピレーションに収録された「MEDDLE」という曲を梅ケ丘のリンキー・ディンク・スタジオで録音して。これは、今でもずっとニールのレコーディングしてくれている及川さん(及川勉)にやってもらっています。
I♡NY/ NEIL AND IRAIZA(1996)
ー今回のアルバムもそうですけど、ニール・アンド・イライザっていい意味でのサンプリング感がありますよね。作られた曲のルーツが見えるというか、完成に至るまでのいろんな音楽の断片が見えるというか。僕もお二人とほぼ同世代なので、80年代後半から90年代のヒップホップが出てきて、ハウスやテクノが盛り上がってロックがそれを取り入れるというのを目の当たりにしてきたので、いろんなものがミックスされている感覚に違和感がないんですよね。 堀江:そうですね、当時は、ほんと洋楽と邦楽ぐらいでザックリしてましたよね。世界に自分の音が届くなんてとか。 ーいま20代のミュージシャンが音楽を作ろうとすると中心となるスタイルを決めてスタートすると思うんですが、ニール・アンド・イライザはそういう感じがまったくなくて自由ですよね。そういう意味では60年代のポップスから90年代のサンプリングを使ったサウンドまで聞こえてくる、いろんなものがミックスされていて面白いですね。 堀江:たしかに世代的にそういう雑食な感覚があるんじゃないかと思いますね。でもニールをはじめた頃のことを思い出してみると、その時期に渋谷のゼスト周辺で流行っていた音楽や80年代のネオ・アコースティックを僕はほとんど通ってないんです。大学生の頃は、横浜の馬車道にあったディスク・ユニオンで働いていた現Target Earthの中上くん(中上マサオ)に教えてもらったり、ロックの名盤やファンク、それこそスライとか、黒いモノをよく聴いてたんです。
ー高校生ぐらいの時はどうでした? 堀江:高校のころは、フラワー・ムーブメントさらにルーツ・ミュージック中心で、横浜の地元で、高円寺に行く前の相澤純一郎(アイザワンダー)や和太鼓奏者のヒダノ修一に出会って、それこそブルースだったりファンクだったり。もちろんフーやキンクスなんかのモッドなバンド、それとローリング・ストーンズは昔から大好きでした。 ーそうですね、高校時代にジャムやクラッシュを聴くと必然的に60年代のフーやキンクスを聴きますね。音楽を聴く上で、そういう文脈みたいなものは堀江さんの世代には濃厚にありますね。ひとつ好きな音楽に出会うとその背景にある音楽も聴いてしまうという。 堀江:そうですね。でも80年代後半から90年代前半でも、僕はマンチェ・ブームからも、抜け落ちてるんです。 ー僕はそこが起点になってるんです(笑)。僕にとっては自分の世代のムーブメントという意識も強かったんですが、あれは一種の60年代リヴァイヴァルという側面もあったんだと思います。 堀江:たしかにあの時期ヴィーナス・ペーターの「EVERY PLANETS SON」(1992)とか何曲かびっくりした曲がありました。あと、80年代後半は、じゃがたらとフールズ、ゴッドあたりも聴いてましたね。 松田岳二登場 ーいま堀江さんにいろいろ聞いていたところです。 堀江:いろいろ時代があやふやになってて(笑)。僕たちが初めて出会ったのは下北沢ということは覚えてるんだけど。 松田:僕が最初に堀江くんを認識したのはSLITSか…、その前にワック・ワックが出てた代々木公園で行われていたフレンドシップという野外イベントのセッションは? 堀江:いや、あれは冬でしょ。焚き火したもん。会ったの夏じゃなかった? 松田:最初に話したのはSLITSだったのはよく覚えている。いや、そのまえにフリーダム・スウィートのリハに堀江くんが来たことがあって。 堀江:いや、そうだっけ。クルーエルのコンピレーション『HELLO YOUNG LOVERS』(1993)が出た後くらいじゃないかな?
HELLO YOUNG LOVERS / V.A(1993)
松田:そうだっけ? 堀江:チャーベくんがゼストに入る前ぐらいだよ。 松田:当時僕は完全にお客さんでしたから。DJはやってたけど、バンドマンではなくて。ワック・ワックとかそういうのをよく見に行って、瀧見さんのDJに遊びに行って、火曜日に渋谷のクラブ、THE ROOMで瀧見さんと山下くんがパーティーを始めて、そこでパーカッションを叩くようになって、フリーダム・スウィートに参加するんです。
ニール結成前の頃の堀江と松田。フリーダムスイートライブ 心斎橋クアトロ(1995)
ー今回ニール・アンド・イライザひさしぶりの新作を聴いて、ものすごく90年代を感じたし、また二人のルーツが響いてくると思ったんです。今年はフリッパーズの二人がそれぞれ活動を再開したり、ペニー・アーケードやブリッジの再結成ライブがあったり、偶然いろんなことが重なってるじゃないですか。そのタイミングでまた新作を作ろうと思ったのはどうしてなんですか? 松田:そうですね。いろんなこと思い出して、あーこんな感じだったなみたいな。今回ニールは、FRONTIER BACKYARD(フロンティア・バックヤード)とのツアーに誘われて東京、大阪、名古屋の3箇所回ったんですけど、ドラムがMAGIC DRUM&LOVEのきんちゃん、ベースがロイジプシーのおかんと、2人女の子だったんで新鮮でもありました。実は今回のフロンティアのツアーには1年ぐらい前から誘われてて、堀江くんがやれるなら僕はいいですよって言ってて、いつもの通りに。 堀江:それで僕も久しぶりにやろうと決めて。 松田:なんやかんや言っても1年に一回ぐらいは、やってたんです。でも今回また同じように、ただライブをやるのもどうかなって思っていて。どうせならライブの物販で売るだけでもいいから、CDを作ってみない?というのが最初のきっかけなんです。それで堀江くんに曲書いてくれって頼んで。あれはいつごろだっけ? 堀江:去年2017年のスペシャルズの来日ライブの時じゃなかった?夏前ぐらいかな。その時に作ろうってことになって3曲ぐらい作って。 松田:それが全部良かったんで、がんばって歌詞を書いて、でもなかなかイメージが固まんなくて。ある日、1曲仕上がって、これは“時間“がテーマだなって思って。それで1曲できたらスルスルって、それを投げ返して完成していったんです。 ー話を聞いてると今回は15年ぶりに作るぞ、的な気負いもなかったんですね。 松田&堀江:ないですね(笑)。 松田:で、3曲入りのシングルを作るイメージだったんですけど、堀江くんが2003年ぐらいにも何曲か作りかけの曲あるよって言われて、スタジオにデータがあるか確認したらあったんですよ。
ーそうか、もうプロツールスの時代だから残ってたんですね。 松田:そう!ギリギリで。それで3曲送られてきて、それに歌詞を付けることができたらアルバムにできるなって。不思議な流れでしたよ、発掘された3曲僕は全然覚えてなくて。堀江くん覚えてた? 堀江:僕は自分が書いた曲は覚えてるよ。 松田:僕は2003年以降キュビ・ファイブ(CUBISMO GRAFICO FIVE)になっていくので全然覚えてなくて。聴いたら、このスクラッチみたいな音はなんだ?みたいな(笑)。
CINQ(four+one) / CUBISMO GRAFICO FIVE(2003)
ー今年は同世代のミュージシャンが元気だったじゃないですか?はからずもニール・アンド・イライザもシンクロして、しかも偶然。面白いですね。 松田:なんなんですかね?この感じ。 堀江:みんな時間に余裕ができたってことじゃない?久しぶりといえばこの前、ブリッジのライブでヒロちゃん��黒澤宏子)がドラムを叩くの見れてよかったな。 松田:雪解け(笑)? 堀江:それもあるね。ブリッジではステージで清水くん(清水ひろたか)もカジさん(カジヒデキ)も話してたね。(再結成は)みんなのタイミングがあったんだろうね。 ーブリッジはペニー・アーケードがライブをやるっていうこともきっかけなんだと思いますね。 松田:ペニー・アーケードはキリキリヴィラの再発がきっかけなんですか? ーそうなんですよ。最初はメンバーのみなさんも無理って感じだったんですけど。うれしかったですよ、ライブOKって聞いた時は(笑)。 松田:再発でも若い人にとっては新しい音楽ですもんね。 ーNOT WONKやCAR10聴いてる20代に20年前、30年前に日本にもこういうバンドがいたんだって、伝えたいという思いもありましたから。海外ってそういう循環というか、過去と現在を繋げて音楽を聴く流れがあるじゃないですか?再発もとても多いし。 松田:そうですね、そんな中でもニールは特殊なんですよ。僕らは現役というか、堀江くんは凄いミュージシャンとしてずっと一線で活躍してるじゃないですか、世界各国に行くし、多分知られてないことまで含めると凄い活動量で。僕はこの辺の地下で形を変えながらでもなにかやっていたい方だし(笑)。その感覚があるからわりとすぐに動けたんじゃないでしょうか? ーしかも二人でリズム隊が固定されてないじゃないですか。それって二人がヒップホップが出てきて、ハウスが出てきた時代をリアル・タイムで見てきてることとも関係してるんじゃないでしょうか?サンプリング世代の登場をみてきたっていう。ニールの独特なエディット感ってそういうところからきてるような気がします。 松田:僕らもそこまで生ドラムにこだわるわけじゃないし。 堀江:たぶんニールを作った当時は、僕もチャーベくんも20代半ばで、経験したことがないことが多くて、でも、やりたいことがいっぱいあって、それが、90年代半ばのタイミングで、良かったんじゃないかな。どっちが歌うかジャンケンで決めたり(笑)。お互い同じタイミングでシンセを買ったり、平塚にあった、海の近くのフリースタジオ湘南というレコーディングスタジオで、さんざん朝まで遊び倒して楽しかったな。そんな感じで作ったのが1st『I♡NY』(1996)なんだよね。
フリースタジオREC時(1997)
フリースタジオ夏(1997)
フリースタジオ冬(1997)
松田:そういう意味では90年代の音源は習作みたいな感じだよね、遊びながら練習してるみたいな。
ー楽しい時間ですよね。 堀江:もちろんその時期でも、僕は鍵盤弾きや作曲やアレンジャーとして、いろんなアーティストやバンドに参加したりしていて、それをニールの活動や自分のやりたいことと切り離しているつもりはないんだけど、同じ感覚でもなくて。思えば当時から自分の音楽活動が、周りから見て、捉えにくかったのかもしれませんね。チャーベくんはDJでもあったから、この当時も、いろんなアイデアが出てくるのは自然だったでしょ?
JUILLET/ NEIL AND IRAIZA(1999)
松田:そうだね、ニールの時はこういうイメージでっていうのがあった。99年に堀江くんが書いた、カヒミさん(KAHIMI KARIE)とのデュエットの曲とか聴くと、ニールとはまた違うものになってて。堀江くんはニールの時はやっぱりニールって感じになる。人のところでやる時は、とても打点が高くて、ニールの時はもっとナチュラルでやさしくやってる感じで。
One Thousand 20th Century Chairs/ KAHIMI KARIE(1999)
堀江:僕は不器用だと思っていたから、ニールをやってる時も決めつけてるつもりはなかったんだけど、いま振り返って思うと、漫画や小説の連載みたいに、ニールにはニールのイメージで、って決めつけていたかもね(笑)。他でやる時は相手に合わせたモードがあって、ニールはこれだよねっていう二人の特別な共通点があって。自分的にも特殊なんだね。ニールは。チャーベくんもそうでしょ? ーニールには特別柔らかい感じありますよね。 堀江:でもナメられると攻撃的だったり(笑)。自分の中ではマクドナルド・アンド・ジャイルスっていうキング・クリムゾンを母体に出てきたユニットがモデルとしてあって。これは、クリムゾンから派生したユニットなんだけど、ジャケットも含めすごくいいアルバムで。それで~アンド~っていうグループがいいなって。漠然と。ホール・アンド・オーツとかサイモン・アンド・ガーファンクルとかもあるけどね(笑)。同じ世代で、水と油みたいな人たちが一緒にやるっていうデコボコなスタイルが良かったんですよ、それぞれにないものが出会うっていう。 松田:趣味全然違いますからね(笑)、キング・クリムゾンとかほとんど聴いてないですから(笑)。 堀江:あんまり影響されあってないけど、面白いと思うきっかけがあるとできるよね。レゲエのラバーズを聴かせてもらったら面白かったとか、そういうの結構ある。 松田:たとえば、ロッド・スチュワートが在籍していたイギリスのバンド、フェイセスを好きな理由は堀江くんと僕では違うんですよ。 ー聴いてる部分が違うんでしょうね。 松田:僕がDJでフェイセスのブレイク・ビーツの曲かけてたら、堀江くんがすっとんできて「なんでこれかけてるの!」言ったことがあって。 堀江:「Bad 'n' Ruin」っていうスワンプの曲で。 松田:僕は踊れるビートとしてかけてて、時々そういうことあるよね。 堀江:それはずっと変わらないね。 ー90年代のトラットリアやクルーエル、エスカレーターの人たちってほんとにレコード中心で、貪欲なまでに音を求めていくじゃないですか。お2人もそうですね。渋谷系という言葉がいいか悪いかは別として音楽を求める姿勢は一貫してますね。 松田:癖なんじゃないですか。今となっては「あれっぽくしよう」って思ってもすぐできちゃうじゃないですか。 ーそうですね。今回の作品でも曲ごとにモデルがあるっていうよりも、1曲の中にいろんな曲あつまっていると思いました。ちょっとしたアレンジの断片にいろんな音楽が聞こえてくるというか。二人が聴いてきた膨大な量の音楽が自然に醸造されてるようなイメージです、若い時だとできなかったことじゃないですか? 松田: ニールのアルバム、4th『NEW SCHOOL』(2002)には、マッドネスの「アワ・ハウス」をモチーフにした「アワ・ハウジング」って曲があって、ふざけてるんですけど、曲として似てるけど別ものなんですよ。 堀江:ラトルズの発想だよね。 松田:そうラトルズ。 堀江:「アワ・ハウス」もそうだし、ファイン・ヤング・カニバルズの「She Drives Me Crazy 」のリフも引用してる。(笑)。 松田:そうなんですよ、曲の中で、わりとふざけ倒してきてて(笑)。だから今回の5th『Timeless Melodies』(2017)はあまりふざけてなくて、ニールの中でも正統派の作品です(笑)。
Timeless Melodies/ NEIL AND IRAIZA(2017)
ーテーマも時間ですし。 松田:ひさしぶりーって、聴く人もそういう感じで。懐かしいって思う人もいるだろうし。今回はデザインをやってくれた関山(関山雄太)が引っ張ってくれたこともあって。 ー彼は高校生の頃にニールのコピー・バンドをやってたんですよね、最高ですね。 松田:まだアルバムが形になってない時期に彼が最初に作ってきたビジュアルが時計で。それで二人で会って話して、代々木公園まで行って時計を撮影したんです。そういう新しい人が参加してくれたことも刺激になりました。 堀江:昔からニールが動く時はなにかアイデアやテーマが重要で、1stの『I♡NY』 (1996)とかは、女子高校生とジャンキーに喜んでもらえる、チープでどこかサイケデリックな作品を目指したり。もちろんオレンジのジャケット・デザインもそうだし、言葉だとかテーマだとか拾えるものを拾って、無理難題の思いつきで、ほんとまとめるのが大変なんだけど、いつもニールのやり方は変わらない。 松田:堀江くんの思いつきが無理難題であればあるほど面白いし。 堀江:その拾い方が15年経ったと思えないぐらい、これまで通りな感じで(笑)。でもまとめ方が早くなったんですね、それはお互い成長したというか。チャーベくんの、その返しが早くなったことで今回アルバムがツアーに間に合ったんです。 松田:歌詞とかも思いついたら忘れないようにして。8月ぐらいに千駄ヶ谷のkit galleryに行く途中、代々木公園でパソコンひらいて歌詞書きましたから(笑)。途中で堀江くんがバンドのメンバーをドラムとベースを女の子にしたいって言い出して、これも難しいぞーって(笑)。 堀江:夏にいきなり思いついて、相談して。 松田:堀江くんのミュージシャンの繋がりってけっこうなプロの世界じゃないですか。ニールではそれじゃない感じで、これは野良を拾ってこようって(笑)。それでかわいい二人を見つけて。僕は、今、ラーナーズでもマネージャーっぽく動いてるじゃないですか、そういう無理難題を形にしていくのが癖になってるみたいで。 ーオーガナイザーですよね。 堀江:ほんと無茶振りは昔からで。当時、仲くんに対してのほうが、レコーディングとか、より無理難題は多かったかもしれないけど(笑)。 松田:そうだねー。 堀江:1st『I♡NY』(1996)の売れ行きが良かったんで、次はパリでレコーディングしたい、とかあったね。 ーフランス��で行ったんですもんね。 堀江:機材もスタジオも現地で全部おさえて。 松田:僕がちょうどインドネシアのバリから帰ってきたとこで。 堀江:チャーベくん、次、パリにいかないって?ひらめいて(笑)。自分もパリって行ったことなか��たし。
パリREC HORIE(1997)
パリREC CHABE(1997)
松田:ロンドンとかニューヨークじゃあ普通だからつまらないって堀江くんが言い出して。オレ、パリならロック的に勝てそうな気がするって(笑)、ムチャクチャな理由だなと(笑)。 堀江:そうそう、思い出した。ロンドンやニューヨークだと僕らもひるんでしまうけど、パリならロック的に勝てるんじゃないかって言ったね。それで、アンテナとか、クレプスキュールの多くのレコーディングを手がけたジル・マーティンをベルギーから呼んで、『ソフト・ロック』と『NO EXISTENCE CALL』の2曲を1週間でレコーディングして。
パリREC(1997)
ーそれが実現できたっていうのも、いい時代ですね。 松田:そうですね、カジさんがシャルル・ドゴール空港からスタジオに直行してくれてコーラス入れてくれるとか。 堀江:それが96年。26~7歳のころですね。 松田:やっぱり仲くんがちゃんと受け止めてくれたんだなって、思いますね。ほんとムチャクチャだったんだって。普通そんな話無理じゃないですか。エスカレーター・レコーズってすごかったと思います。 ーほんとですね。 堀江:面白い時代でしたね。その後、今は無きニューヨークのレコード屋、OTHER MUSICに1st『I♡NY』が置かれて。 ーそれは国内盤を仕入れてくれたんですか? 堀江:そう、90年代終わり、当時マタドールがギター・ウルフやピチカート・ファイブ、コーネリアスを出したりして、日本の音楽が注目されたタイミングで。ニールもアザーのバイヤーの人が興味もってくれて。それを実際にニューヨークに行って自分で見つけた時はすごいことだと実感しました。 松田:それは嬉しいよね。 堀江:別に歌詞がどうとか、タイトルがとかでもなくて(笑)。2nd『ジョニー・マー?』(1997)とかも僕がまずタイトルを考えて。
Johnny Marr?/ NEIL AND IRAIZA (1997)
松田:堀江くん、あの時ジョニー・マー知らなかったんですよ。スミス(THE SMITHS)を通ってなくて。「ジョニー・マーって誰?」って言ってて(笑)。それが面白くて。コーネリアスの97年の武道館の時にはじめてスミス聴いたんだよね? 堀江:そうそう。「ディス・チャーミングマン」を日本武道館で大音量で聴いた。
NI各アルバムフライヤー
ー4th『NEW SCHOOL』(2002)のリリース後、なぜ活動が止まったんですか? 堀江:いや、ライブは毎年どこかでやってました。活動が止まるっていうより、それぞれが忙しくなったんじゃないかな。ラジオはやってたしね。 松田:インターネット・ラジオの“i-Radio killed radio star”というタイトルで。2008年ぐらいまでやってたかな。 堀江:今回の5th『TIMELESS MELODIES』に収録されている、後半の3曲は2003年ぐらいにスタジオで作業していて、なかなか形にならないので一度作業を止めて。そのあとコンピレーションに曲を提供とかはあったんですけど。そのあたりから、どんどんレコーディングから遠ざかっていったかな、そのあとも、2005年にフロンティアが東名阪のツアーに誘ってくれたりして。 松田:『NEO CLASSICAL』。そうだった。 堀江:お互い忙しくなって、チャーベくんもキュビズモを始めて。
TOUT/ CUBISMO GRAFICO(1999)
松田:当時堀江くんが本当に忙しくて、ニールを待ってるといつになるかわからなくてキュビズモを始めたんです。むしろニールの存在がプレッシャーになっても嫌だったし、僕もなにかを始めないといけないって思って。 堀江:リミックスやCMもはじめたよね。 松田:堀江くん、くるりに参加したのは何年ぐらい? 堀江:あれは2004年だったかな。アンテナの武道館公演の頃。それからSINGER SONGERっていうCOCCOとくるりのバンドが動いて。その後もPupaからtheHIATUSに繋がって。キーボード・プレイヤーとしていろんなとこで演奏しながらも、バンドのメンバーとしてもアルバム作ってやるっていうのが2005年ぐらいから始まって、とてもバタバタしてた。
ばらいろポップ/ SINGER SONGER(2005)
Floating PUPA/ PUPA(2008)
Trash We’d Love/ the HIATUS(2009)
ー堀江さんって難しいフロント・マンばかりとやってますね(笑)。 堀江:そうですね。たしかに制作している時、けっこう大変な時期もありました。でも、単なるプロジェクトとしてではなく、バンドとして自分の今まで持っていた最高な空気と感覚を普通にぶつけて、いいアルバムを作って。その中からヒット・ソングも生まれたし、結果うまくいったと思います。 ー『ウォーターボーイズ』のサントラをチャーベくんが手がけたのが2003年ぐらいですか? 松田:2001年です。
ウォーターボーイズ - オリジナル・サウンドトラック/V.A(2001)
ーちょうどその時期からそれぞれに次のレベルの活動に入っていった時期なんですね。 松田:そうだね。 堀江:2004年から2013年ぐらいまでそういう時期でしたね。
At Grand Gallery/ HORIE HIROHISA(2013)
LEARNERS/ LEARNERS(2015)
ーお話しを聞いてると、2人が自然にやろうって思えるタイミングが今回やってきたっていう感じなんですね。しかもニール・アンド・イライザって音楽的にこういうモノっていうよりも、2人でやるとなってしまうモノという感じなんですね。2人の状態というか。 松田:それはありますね。 ーニール・アンド・イライザでの思い出深いことってありますか? 松田:最初の頃、僕はレコーディングがつらかったですね。昔なんでレコーディングが長かったじゃないですか、合宿とかで。仲くんがいて、ゲンちゃんっていうドラムがいて、もう男子校ノリでしたね。堀江くんはレコーディングになると結構ナーバスで、真剣になるんで。いつむちゃ振りがくるかと…。
ジュイエREC時(1999)
ジュイエREC時(1999)
ー合宿やりましたねー。 堀江:僕はやっぱりニールの音楽が、国内外問わずいろんな場所に届いたっていうのが嬉しかったですね。それで今でも大事に聴いてくれたり、最近でも映像作品や映画で流れたりとか。 ー海外の映画ですよね? 松田:ひとつはタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督です、今や世界的な監督なんですけど。 堀江:それとやっぱ、レコード屋に自分のアルバムが普通に置かれたことですかね。なんか大きな出来事がというより、小さな出会いやちょっとしたことがいつも続いてるっていうのがニールの面白いとこですね。
On Tour (1997)
15年ぶりのアルバム”TIMELESS MELODIES"を発表したNeil and Iraizaによるワンマンライブが決定!
FEELIN’ FELLOWS PRESENTS NEIL AND IRAIZA"TIMELESS MELODIES RELEASE SHOW” 2/13 新代田FEVER OPEN/START 19:30 ADV ¥3,000 (+1DRINK) DOOR ¥3,500 (+1DRINK) Live : NEIL AND IRAIZA DJ : HIDEKI KAJI
チケットはe+とFEVER店頭にて発売中
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ピアノ
ピアノは毎日の生活に彩りと響きをあたえてくれた。楽譜を追う、そのひとときひとときが愛おしい。3歳の頃からピアノを習っている。始めは保育園の後にヤマハ音楽教室に通い始めた。もちろん、その頃は一家に一台ピアノを持つのが流行っていたからにちがいない。鳥取の家はピアノが置ける広さのある一戸建てだったから、両親はピアノを買ってくれたのだ。しかも、そのピアノ、わたしに選ばせてくれたから普通の黒いアップライトではなくって深みのある赤茶色のアップライトのピアノなのだ。ヤマハ音楽教室は楽しかった。リズム感がなくってなにごともワンテンポ遅い私なのだけど、みんなでそろって先生の言った曲を少しずつ弾いていくのが。教材もきれいなかわいい絵がついていて、無理なく右手と左手を少しずつ弾いていくようになっている。じゅにあ-1とじゅにあ-2の楽譜は、あれから随分経った今でも手元にある。母が半紙で破れたページを補強してくれたおかげでセロテープで貼るよりも長持ちしている。小学校になって成城に引越してからは個人の先生のお宅にレッスンに通った。そこではメトードローズとバイエルを弾いていた。年に一度、先生のお宅でおさらい会があり、終わってから素敵な応接室でお茶とお菓子をいただいたのが忘れられない。無作法な私はおみやげにお菓子をいただいて「わあ、儲かった!」と叫んで「そんなことはいわないのよ。」と、先生にたしなめられた。先生のお父様が書かれた「モーツァルト」のご本もいただいた。表紙に金髪を後ろで結んだモーツァルトの絵がついている。まだ若い。こんな人が私達の弾く曲をかいたのかと、ちょっと不思議だった。読んでみると、まだ子供の頃に作曲を始めたということだったのでもっとびっくりした。それで私も作曲してみようと、ピアノをぽんぽんと弾いてみて、弾いた音を五線紙に書きつけてみたりもした。小学校3年生で横浜に引越したのでその優しく美しい先生とはお別れになって、もうすこし年配のきりっとした先生についてピアノを学ぶことになった。妹も一緒に通うことになった。先生のご主人はチェリストで、発表会のときには一緒に演奏して下さったりもした。ブルグミューラー、ピアノのテクニック、ピアノ小曲集、ソナチネくらいまでを先生について習っていた。時々、お弟子さんの若い方が指導してくださる時もあった。発表会は山下公園のそばにある県民ホールや港の見える丘公園近くのイギリス館だったりした。今思えば、なんと素敵な体験であろうか。その時はそのおしゃれさがピンとこなくってひたすら緊張していたのであるが。中学2年になってまたもや引越したのと、高校受験が近づいてきていたのでピアノをやめる事にした。新居の居間にピアノは置かれてときたま妹や私に触れられるものの、殆ど蓋が閉じたままになっていた。調律師の方はそんなピアノがかわいそうだと、もっと弾いてあげてくださいと懇願されたのであるが。その後、就職してから2年目にまたヤマハ音楽教室に通い始めた。こんどはポピュラーピアノを習いたいと希望して、二冊の楽譜集を弾きだした。私の夢は何と言ってもピアノで弾き語りすることなので、クラシックばかりでないピアノを弾いてみたいと思ったのだ。大好きなテレビシリーズ、「FAME」に出て来る男の子のように弾いてみたいと。あんな風に楽譜をみないでのって弾くことができたらいいなあと。しかしその後結婚したのでまたもやピアノを中断した。子供がふたり生まれてここに引越してきてから、友達ができた。その人はウィーンにピアノ留学してギタリストのご主人と知り合った。彼が音楽学校で教えるためここに来たので彼女も付いてきた次第。彼女のお子さんたちはうちの子供より1歳ずつ年が下だった。まだピアノ教師として学校で教え始める前の彼女から個人レッスンを受け始め、その後は音楽学校を通して彼女の教える他の生徒さんたちと一緒に発表会をしたりしてピアノ生活が戻って来た。リトミックも教えられる彼女は、はじめの頃、わたしにピアノの曲や旋律を聞いてイメージした音を絵にかかせたり、リボンを持って踊らせたりしてくれた。ブルグミューラーからまた始めたのだけど、簡単な曲がいかにうつくしく響くかを教えてくれた。娘はギター、息子はフルートを始めたので合奏することもあった。ピアノのおかげで人生がなんとうつくしくなったことであろうか。今また、仕事の都合でピアノのレッスンが続けられなくなったけれど、自力で月光の第三楽章を練習しているところだ。いつか、この曲をのりのりで弾けるようになろう。
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生家の記憶
7/7/2020
(Description) I was born and raised in a traditional Japanese house. As an adult, I live in a new house, but the only dreams I see at night are dreams of a house I grew up as a child.
The spiritual mentor said. "Sometimes see family photos. Love can be charged."
ぼくは長屋の一角で産まれたんだけどその長屋は借家だったので、 両親ががんばって古い家付きの土地を買ったのを機に引っ越したのね。 古い家を改築し、曲がりなりにも風雨を防いで家らしくなった後 両親は相次いで亡くなった。
ぼくは今の家で寝る。そして夢を見る。家族が出て来る。家が出て来る。 だけど今の家じゃない。前の家。生まれて育った家。長屋の夢。
格子扉をがらりと開けると暗い暗い土間があって ぼくの手が届かない天井近くに番傘が何本も飾ってある。 飾ってあったのか、そこが番傘の定位置だったのかは分からないけど。 父が木材を組み合わせて真っ黒に塗り、前面にカーテンを付けた お手製の下駄箱の上に黒猫が子猫を育てている。
靴を脱いで最初のドアを開ける。 左に食器棚、それから冷蔵庫その向こうにガス台と作業台?そしてシンクと洗面。 また扉があってその向こうに洗濯機。ここは底上げして床を張った台所とは違って 打ちっぱなしのコンクリートの上に木のすのこを置いただけ。 洗濯機の隣はお風呂。五右衛門風呂。
友達のうちがガス風呂だったのに、うちは長らく五右衛門風呂だった。 おじいちゃんが古いものを大切にするひとだったから。 毎日書く日記は万年筆で書いていた。 その万年筆はインクを吸うタイプの太いもの。 力の入れ具合によって字が太くなったり細くなったりする。 おじいちゃんが書く字は好きだった。 西日が入る居間で一日の終わりにおじいちゃんが書く日記。 癖字で何が書いてあるのかは分からなかったけど 万年筆の先から太い線、細い線が生み出されて そこから家族の歴史が編み出される。
あの日記。どこにあるんだろう。今、読みたいのに。
裏庭の真ん中には大きな石が据えてあった。 下駄を脱ぐところにも小さな石があった。 裏庭を挟んでお風呂と相対するところにトイレ。 木の欄干。いつもそこを握ってくるっと回るから 欄干の頭はつるつるしていた。 黒いスベスベした木と細い竹が組み合わされた床は 一部が外れて床下にアクセスできるようになっていた。
いつも開けていたのはおばあちゃんか父だったので ぼくはとうとう開け方をマスター出来なかった。 たしか、欄干の一部が組木になっていて、あるパーツを外して 次のパーツをずらすと欄干の下が外れ、その向こうにある 木と竹を手前にスライドさせて床に穴があくんだった。
昔の職人さんはすごいね。こんな市井の小さな長屋にも そんな細工をほどこしていたんだよ。 もっともおじいちゃんが長らく町長をしていたせいかどうだか 長屋の中でもうちは別格に大きい家だったけど。
長屋だったから、奥行きはみんな一緒だったけど、家の幅は広かった。
皆で囲む食卓には時計があった。 おじいちゃんの勤続何年だったかに職場からもらった記念の柱時計。 食卓の上に乗って、手を伸ばすと時計の扉を開けて 中に入っている金属のネジを取り、文字盤の左に開いている穴に差し込んで右回り 文字盤の右に開いている穴に差し込んで左に回す。 指が痛くなるほど回してから金属の振り子をちょっと動かすと チックタック、チックタック、動き出す。
友達の家にはおしゃれな電池の時計なんだよ。 スイッチポンのガス風呂。 ガス給湯器。
でもうちは朝練炭に火をおこして薬缶の水を湧かす。 湧いたお湯を洗面にためた水に足してそれで顔を洗っていた。
「お金がないからね」 と父。 どうして、お金がないの? 「そんなことはお前は気にするな」
今振り返ってみたらなんとなく分かる。 気前が良すぎる祖父母。もらったものを家族で分けず誰かにあげる。 我が家には未開封の箱が通り過ぎるだけ。 おばあちゃんは民生委員だったからウチよりもっと貧しい家のうちによくサポートしに 行っていた。
ぼくが生まれる前は祖父母は田舎の子弟をたくさん下宿させて下宿代も取らなかった。 田舎の人は最初にコメ渡したら中学高校6年間何もくれなかった。 最初のコメがどんなけ保つと思っていたんやろう、あっという間になくなるわ。 母がこぼしていた。
団地の子のうちはピカピカで、ハイカラで、最先端。 医者の子のうちには見たこともないおもちゃがいっぱいで庭には芝生が植えてあって 英語の絵本を読んでもらった。 アパートに住んでいた子のウチにだってガラスで出来た動物の置物がいっぱいあって それで遊んだ。
ぼくは何で遊んでいただろう。覚えがない。 ぼくは2歳から字を読み始めたと言うから、絵本を読んでいたかもしれない。 ぐりとぐら。 エルマーとりゅう。 不思議な絵本。
食事をする部屋の片隅のふすまを開けると階段���ある。 ふすまを開けて階段というのは遊びに来た友達がいつも驚くポイント。 暗く急な黒光りする階段を手を使って四つ足で上る。 上り切った左手に布団箪笥。 布団箪笥の上に三毛猫が子猫を育てている。
ぼくがいつも子猫のしっぽをつまんでぶら下げるものだから 母さん三毛猫はぼくがとんとんとんと階段を上がって来ると 子猫の首を咥えてぼくの手が届かないところに避難する。
布団部屋に立って、左に行けば両親の寝室。 両親の寝室を抜けて立て付けの悪い黒い扉を挟んであるガス管に注意しながら 開けると父の書斎。木で出来た古い大きい重い素敵な机。
あの机。いつかぼくもあそこで勉強とかするんだろうか
とか思っていたけど、あの机、どうして引っ越しするとき捨てちゃったの?
布団部屋から右に行くと父のアトリエ。父は絵描きだった。 この部屋はかなり大きくて天井も高くて、天井には展覧会のポスターが 全面に貼られていた。おじいちゃんと二人でポスターの裏に糊を塗って 天井に貼っていた作業、今でも覚えているよ。
大きな木の机がふたつもあって、なぜかというと父は学区内の子供たちを集めて 絵画教室をしていたから。
時間内に絵を描いて、父が画用紙の裏に批評を書く。 「よくできました」 「せんが、きれいです」 「いろづかいがすばらしい」 そして花丸。
ぼくは小さかったけど、小学生のお兄さんお姉さんがたくさん来るこの時間は わいわいとたのしかった。たまに電車の中で知らないお姉さんに 懐かしそうに話しかけられることがある。だけどぼくはその時4,5歳。 ぼくのほうはお姉さんの顔、覚えていないよ。
ていうか、いまのぼくって5歳のころの面影残ってるんだろうか。 それはそれでフクザツ。
アトリエの横にまた扉があって、それを開けると母の音楽室。 母は音楽の先生だった。
エレクトーンとオルガンが並んでいた。倉庫には古いレコードがいっぱい。 レコードプレイヤーや映写機、木琴、カスタネット、ハーモニカは一段二段三段。 子供用のハープ。大太鼓小太鼓。トライアングルまであったな。 ピアノは1階の客間に置いてあって、ヤマハじゃなくてイバッハ。 リストやワーグナーが愛したと言うドイツ製のピアノ。 (「iBach」「ピアノ」で検索。今買うと300万円ぐらいします)
ぼくは小学生になった頃、このピアノには嫌な思い出しかない。 友達と遊びに行けなくなったから。 学校から帰ると母がピアノの前で待ち構えている。 母が紡ぎ出す和音を当てないと遊びに行かせてもらえない。 どみそ どふぁら しれそ 他多数。
一個当てたら遊びに行かせてあげる。 一個当てたらもう一個。 さらにまた また、また、また。 玄関で待っていた友達は待ちくたびれて行ってしまった。 ○○ちゃんと遊びたい。 「明日遊べる」 母の言葉。 でも明日も母はピアノの前で待ち構えている。
おじいちゃんが毛が無くなった頭をなでながら登場 「(ぼくの愛称)が可哀想だ。あそばしたれ」 母、渋々��くを開放。 しかしもう日は暮れて、烏がかぁかぁ。友達はみんな暖かい家にご帰宅。 玄関の前には誰もおらず、ぼくのこころのなかに冷たい風がひゅ〜。
重量 200kg もあるイバッハを置くために客間だ���改築し、床下を補強してある。 長屋なのに! イバッハの向こうには前庭があって、父の鳥小屋がある。 猫もいるのに鳥もいる。 鳥は50羽ぐらいいた。ほとんどジュウシマツとベニスズメ。
ぼくの鳥好きは父の影響だな。ぼくが飼ったのはカエデチョウ。
客間には改築時出窓を作ってここだけハイカラだった。 出窓には水槽があって、父が釣り堀で釣って来た金の鯉やドイツゴイがいた。 ぼくはこの鯉でごった返す水槽を眺めるのがホントに好きだった。 簡単にトランス状態に入れるから(^^;
夕焼けが見える西の掃き出し窓を全開にして、夕日が入る畳の表情が好き。 裏庭にぼくが作った鳥の餌台にキジバトが来てクルック〜。 前庭の木に巣を作ってヒナを育てた。 この家は小鳥のエサのおこぼれはあるは、それとは別に餌はくれるは すげ〜気前がええぞ〜と思っていたかどうかは知らない。
長屋で暮らした思い出が濃過ぎて。 今の家で見る夢に出て来るのは前の家の映像ばかり。 家族がいて、両親がいて、祖父母がいて 猫がいて小鳥がいっぱいいて 光が入って、風が通って、いろんな思い出が渦巻いていて。
仏間に飾ってあったぼくが生まれる前の家族の集合写真 今どこにあるんだろう。
今の家には家族の定位置がない。 前の家にあった家族の思い出が詰まっていたアルバムやら古い写真やら入れていた水屋 あれをどうして捨てちゃったの? アルバムはどこに片付けてあるんだろう。 今、見たいのに。
江原さんが言っていたよ。 たまには家族の写真を見なさい。 愛は充電出来るから。って。
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8/6(木) 柳原陽一郎 30th Anniversaryの旅 with 外山 明
*中止となりました。ご予約いただいた皆様には順次ご連絡いたします。
出演:柳原陽一郎 vo.gt.key、外山明 dr
<柳原陽一郎>
1990年にバンド“たま”のメンバーとして『さよなら人類/らんちう』で メジャーデビュー。1995年にソロ活動をスタート。日々雑感を 平たい目線で捉えつつ、人の心の機微をファンタジーや言葉遊びに 託した歌詞は特にユニークで、おおらかでペーソス漂うボーカルと ともに各方面より賞賛されている。ジャンルを問わないセッションも 精力的に行い、2012年からはバンド、オルケスタリブレによる 『三文オペラ』に全曲の訳詞とボーカルで参加し、新たな魅力を アピールすることとなった。2015年1月にはデビュー25周年を 記念して柳原陽一郎としては初のベストセレクション・アルバム 『もっけの幸い』をリリース。2018年12月には柳原陽一郎名義として 9作目のアルバム「小唄三昧」をリリース。 好きなものコト) 阪急2300系電車、夏目漱石、水餃子、焚き火 ジョン・レノン、湯治旅行、阪神の平田コーチ、頑丈なギター 山田五十鈴、宮下順子、荒井注、マクセルのカセットテープ ルイス・ブニュエルの映画、琵琶湖疎水、ダイヤモンドクロス など
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<外山明>
1962年1月15日・神奈川県横浜市出身 血液型:O型 1962年 横浜元町に産声をあげる。 オルガンを習っていた兄の影響で、幼少より音楽に興味を持つ。 小学校2年の時、母親にギターを買ってもらう兄に 便乗してウクレレを買ってもらう。 小学校6年の時、エレクトーン教室に通う。 小学校6年の時に宮崎に移住。 中学入学後、兄のギターでビートルズをコピーの日々。 ちなみに外山氏、自ら購入した初めてのレコードは WINGSの『Venus&Mars』 中学校3年の15歳の誕生日にドラムを購入。 厳しい進学高校に入学。 高校1年の時、友達とロックバンドを結成。 当時流行りの洋楽をコピーしていた。 (DeepPurple,Kiss,LedZeppelinなど) 高校3年の時、音楽の道に進むと表明し、 進路指導の先生に怒られる。 が、気持ちは揺るがず、プロへの道へ着々と駒を進める。 高校卒業後、コンサ��トホールの裏方のバイトを しながら、バンド活動に励む日々。 地元のジャズ喫茶に入り浸るが、ジャズにはあまり興味なし。 19歳の時出場した、ヤマハ・ポプコンで九州大会優勝。 21歳の時、東京に移住。 22歳の時出場した、’84年EAST-WESTで優勝。 その後、バンドを脱退。 24歳の時、『日野皓正氏とHAVATAMPA』に参加。 同じ頃、廣木光一トリオに参加。 その後、坂田 明氏、渡辺貞夫氏、山下洋輔氏、松岡直也氏などの レコーディング、ツアーで活躍。
最近の活動は渋谷毅オーケストラ、エッセンシャルエリントン、月の鳥(ゲスト)、childhood(ゲスト)、 松風鉱一カルテット、TOTONOTTA(小川美潮)、板橋文夫オーケストラ、四気筒、Quivarac(今堀恒雄)、 Phonolite trio、外山・大儀見duo、栗田妙子duo、内橋和久との『内外』、他
http://hwbb.gyao.ne.jp/tea-pb/sotoyama.htm
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1985年から6大会目を迎えた1990年。年々増え続けた観客数はこの年にピークを迎え、決勝だけでおよそ16万人が詰めかけた。「#21 SHISEIDO TECH21 レーシング」は平忠彦とエディー・ローソンのペア。ローソンは当時すでに世界選手権GP500のタイトルを4度獲得しており、ヤマハに復帰したこの年もGPに参戦していた。しかしシーズン序盤のアメリカGPでの負傷後は欠場が続き、タイトル獲得の道からは大きく逸れていた。そんな折、彼は1980年以来となる8耐参戦を決意した。 1980年、ローソンはカワサキZ1を駆り8耐で2位となっているが、平もこの年プライベートチームからCB750Eで出場して39位で完走している。平はその時のローソンを覚えており、「スプーンの入り口でラップされるとき、接触しながら追い越されたのだが、その時ちゃんと手をあげていった。マナーのいいライダーだと思った」と。それから10年、ふたりはそれぞれの道を歩んできたが、この年パートナーとして鈴鹿に登場したのだ。 迎えた木曜日のフリー走行。1986年のデイトナ200マイルレースでFZ750を駆り優勝して以来、4年半ぶりに4ストロークに乗るローソンだったが、16秒20をマーク。その初日のタイムにチームは期待を寄せた。金・土と2回行われた予選はその期待通り、平が15秒819、ローソンは13秒520を記録。ローソンは、マイケル・ドゥーハン(ホンダ)に次ぐ総合2番手タイムを得る。ただスターティンググリッドは、タイム順ではなく予選A・B組から交互に組まれたのでグリッドは3番手となった。 決勝は平がTECH21ではじめてスタートライダーを務めた。スタート直後に集団にのみ込まれたが1ラップ目で9番手まで挽回、1回目のライダー交代時には3番手まで浮上した。セッションを終えた平は「マシン、自分ともにまったく問題ない。暑さにも慣れたのでこの調子でいけそうだ。途中、若干タイムにムラがあったのは周回遅れがいたためで、暑さのためではない。今後、コンスタントに17秒台でいける」と手応えを口にした。そしてレースは、ワイン・ガードナーとドゥーハンのペア、そしてTECH21の一騎討ちの様相となっていく。 場内で大きなどよめきが起こったのは、序盤から中盤に入ろうとしていた頃だった。ガードナーがシケインで転倒したのだ。すぐにマシンを起こしピットに戻ったが、その間にローソンの駆るYZF750がトップに浮上し、1分以上のアドバンテージを築いた。そしてローソンから平へマシンが渡る。「暑さもきつくなってきたが、注意したのは例年以上に多い周回遅れ。自分の受け持ち時間としては半分を消化したが、油断せず自分のペースを守りながら後半もがんばるだけ」と、平は2回目の走行も無事にこなした。 レースに復帰したガードナーはその頃、トップを奪還しようとペースアップを図っていたが、それが影響してか15時27分ごろヘアピン付近でマシンを止めることとなる。原因はガス欠だった。この状況にローソンは、「ガードナーがリタイアしたことで気持ち的に楽になった。だからこそこれからはより注意深く様子を見ながらレース運ぶ」と2回目のセッションを終え話したが、その後はTECH21を追うマシンは現れぬまま、終盤に入っていった。 一方の平は、さらに慎重だった。「気温も下がり水温もやや下がって、マシンにとってはよい状況。でもまだ油断せず自分の走りに集中する。集中力が一番大切なんだ。次も1周1周を大事に走ることを心掛ける」という言葉を残し最終セッションに臨んだ。そして平は18時30分過ぎ、残り1時間を切ったところで、ローソンに無事YZF750を繋いだ。 すでに2番手の宮崎祥司/故大島正組(ホンダ)との差は2ラップに広がっていた。ローソンは、GP譲りのスティディな走りで夕闇の中を駆けていく。モニ��ーに映るヘッドライトの輝きも滑らかだ。そして19時30分、スプーンコーナーを過ぎた#21の姿が映し出される。ピット裏では気の早い誰かが缶ビールに添えた指に力を込めていたが… それと同時にメインスタンドから大歓声が沸き起こり、その中をローソンが駆け抜けていった。 1985年、19時のリタイアにはじまり4度にわたって苦渋���飲むこととなった平の悲劇は、優勝という最高の形で終止符が打たれた。「SHISEIDO TECH21」にとって1987年に続く2度目、ヤマハにとっては3度目の8耐優勝だ。またこの年は、YZFで出場の故永井康友/加藤信吾組(Y.R.T.R.)が4位、町井邦生/藤原儀彦組(NESCAFE RT YAMAHA)が5位と、ヤマハファクトリーの全車が上位入賞を果たしたのだった。 レース終了後、ヤマハのリリースがプレスルームで配られたが、そこには優勝直後のライダーたちの談話が載っていた。 平忠彦談「もう何しろうれしいだけ。自分の最後の走行のラスト15分くらいは、6年間のいろいろなことが頭をよぎり心配で心配でしょうがなかった。スタッフ、ファンのみなさんに感謝」 エディー・ローソン談「GPでは何度も勝ったけど、8耐で初めて勝ててうれしい。僕が平の夢の達成を助けたのではなく、彼自身が自分でやり遂げたのだ。彼はマシンの性能を十分生かし、完璧な走りをした」 1985年から6年に渡る「SHISEIDO TECH21」劇場は、30年が経とうという現在にあっても色あせることなく語り継がれている。平忠彦、多くのGPライダー、ファクトリーマシン、数々のライバル… そして何よりも圧倒的な熱量を持ち、目を輝かせたファンの存在こそが「熱狂の時代」を築いたのだ。 2019年は、「YAMAHA FACTORY RACING TEAM」が当時の「SHISEIDO TECH21」とともに5連覇へ挑戦する。あの頃の世代、新しい世代のファンとともに、もう一度、後世まで語りついでいきたくなる物語を生み出すために。
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