Tumgik
#仙台理容美容学校
neobakufu · 3 months
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ネオ幕府アキノリ党による100の政策
※内はアキノリ将軍未満による脚注。
🌾 文化・日本語
1. 『双京構想』京都を陪都に。
※ 上皇后両陛下に仙洞御所にお戻り頂く案などから上奏。
2. 文章の形式を国粋化。縦書き・漢数字を基礎に、時間や単位や数理や音楽も日本文化圏独特の書式を考案し漸次移行。
※ 漢数字に関しては画数が多く判読もしにくいため,西ローマ・アラビア数字くらい判読しやすく書きやすい数字用の文字を作ってフォントに組み込んだりを検討。
3. 日本語の電子媒体を刷新。
※ イーロン・マスク氏に会いに行ってXの東アジアの言語を全部縦書き漢数字(言語ごと)に直してもらう事を条件に,共栄圏での法人を作ってもいいと約束。ただし,その情報資産は共栄圏のものとし,資本の移動は認めない。 ※ 拡張かなを拡充し電子媒体に組み込む・体制化した際に方言の言語化も視野に。
4. 都内の外国籍労働者・親族等への日本語や法制に係る教育サービスの展開。
※ それぞれの民族に寄り添った親善団体と連携 ※ 裏で世界共栄化に関わる宣伝を行い、本国に情報輸出させる足がかりとする。😈
5. 都内の宗教共同体の実態把握・公的包摂・共生都市社会の推進。
※ 体制化までの中長期的に各宗教の日本化を試みる方針。
🌾 税制・社会保障・経済
6. 税制改革や都債発行を財源に,実質賃金の上昇率の安定向上(最低でも年3%水準)まで一律で都民税半額。
7. 都営ブロックチェーンの創設・ネオ幕府トークンの発行とサーバー維持管理。
※ 全国電子通貨を想定・通貨の名前は「球」読み方は本名が「たま」,「きう」が普及版。NAMが出典。 ※ いずれ日本円にとって代わる。😈 ※ 我々が全国化した折には武蔵国の地域トークンというか藩札を創設を想定。
8. 都債発行・時限的な商品券等の給付による地域経済振興。
9. 都民や都内に通学する学生への一律奨学金免除。
10. インボイス廃止を国政に提言・特に中小零細企業の事務処理負担を軽減。
11. 濫用的な投資や無軌道な開発,オーバーツーリズム等に因る地価や宿泊施設の価格高騰を抑制。
12. 外国企業等による国土の売買規制に係るモデル条例の策定。
13. 都内の特に大企業の法人税の納税率を向上・財源構成の平等化。固定資産税の累進化。
14. 社会保障費用の逆進性緩和・累進課税の推進。
🌾 教育・学術
15. 公営学生寮の確保・増大。
※ 国際法を典拠に一定の自治権を認める
16. 大学院まで教育全面無償化+困窮世帯向けに塾代含め支援検討。
17. 専門学校等の整理統合・総合大学との連携強化・学生や職員の有益な流動化を促進。
18. 図書館民営化の見直し。知識アクセス・公共教育インフラの維持。
19. PTAの有償化や情報共有・可視化の促進。
20. 教育委員会の体質改善・責任体制の明確化。
21. 都立高校の入試改革の見直し・効果的な外国語教育に転換/無益な学習負担の軽減化。
※ どうでもいいけどほんとに外語やるならマッチング実践とかだわ
22. カルト校則の全面廃止・学生の学ぶ権利や表現の自由を守る。
23. 入学しない大学への入学金支払義務の免除・ルール撤廃を東京から実践。
24. 部活動の地域化・民営化等による教員の負担軽減を都から実践。
🌾 交通・公共施設
25. 練馬─中野─杉並─世田谷区や足立─台東─江戸川区を縦断する都営線路の開拓。
26. 東京都-近隣の港湾に集中投資・世界一の港湾大都市圏を構築。
27. 満員電車の終局的な解消・時差通勤の促進(主に企業向け)や代替手段の公的導入検討。
28. 離島との往復費用の低廉化・人材や投資交流の活発化。
※ 将来伊豆諸島は伊豆の国に, 小笠原諸島以南は小笠原国にする。
29. 16歳未満(中学生)に対しての交通インフラ料金を子供料金にする・25歳以下に対してユース料金の公共交通機関・各商業施設での導入。
🌾 防災・戦時体制を想定した防衛
30. 全国のあらゆる自然災害に対し救援・復興の為の物資や人員輸送が可能な体制の整備。
31. 都内のあらゆる公共設備の耐震化推進。
※ 災害をある程度前提とする伝統的な都市デザインの可能性も検討。
32. 核戦争を想定した核シェルター建設・地下経済圏の構築促進。
33. 災害リスクを見据えた都民や隣接県民(都内の勤労者)向けに食料等備蓄・予備的分配。
34. 官公庁・民間企業に対するサイバー攻撃の防衛体制整備。
35. 東京都の空を米軍から取り戻す・首都圏の集団安全保障体制を見直し。
36. 近隣諸国の紛争や破局的災害を想定した都民の命と経済を守る有事法制・モデル条例の策定。
37. 安全保障や軍需産業分野の研究開発支援・学界に蔓延る偏見の改善。
🌾 恋愛・婚姻等の共生生活・性的少数者支援
※ 現在はヘテロが社会の主体である事を公共に認め(右翼を安心させ), その余裕の下に性的少数者への配慮を行う政治指針を宣言化。
38. パートナーシップや相続法制等に係る性的少数者の権利保障モデル条例の策定。
※ パートナーシップに日本語の造語を与えることを目的に研究会を行う、反動保守国学者や左派リベラルの論客もネオ幕府体制の責任もとで幅広く招聘したい。
39. 専門家や当事者の意見を参考に高齢者向けの公的恋愛支援事業を実験的に開設。
40. 既存の公営マッチングアプリ・ブライダル支援等政策の見直しと再構築。
41. ユース(18-25歳を想定)以下に対してのマッチングアプリ補助制度。
🌾 医療・福祉・地域協同・家庭問題
42. 視力矯正器具や歯列矯正等への保険適用・車椅子や補聴器の価格低廉化。ゆくゆくは無償化。
※ 歯を生やせるようになればすぐ保険適用を検討
43. ひきこもり老人を訪問し地域を協同化・社会的包摂を目指す・若年層のアルバイトで高齢者を訪問しスマホ教室とネット普及・生活状況の実態調査。
44. 民間に甘んじた無料塾・こども食堂等の公営化。
※ 都から職員を派遣して実態調査し一定の基準で認可を行い、その場で謝礼。 ※ その後恒久的に経済支援, 半官半民でネットワークをくみ人的支援を拡大 ※ 定期的に児童虐待や裏社会の斡旋等の有無を潜入調査。😈
45. 実態調査のうえ, 都心や下町に関わらず包括的な訪問診療・介護サービス等を拡充。
46. 学校や社内研修に基礎的な救急救命の教育カリキュラムを導入・相互扶助の日本を再建。
47. 地域交流や文化活動を活性化すべく公立小中学校等の空きスペース活用促進。
48. 既にある公園に遊具を拡充・児童の自由と安全を保障。遊閑地の利活用推進。
※ クレーム処理等は我々ネオ幕府が請け負う。
49. 生活保護の取得要件緩和と生活再建・出口支援。給付付き税額控除の試験的導入。
50. 公共施設から迅速・全面・包括的にバリアフリーデザインを実装。
51. 乞食(路上生活者・野宿者・炎上するだろうがこの言葉を使う,いささかの差別的感情を含まない)の住宅支援事業における不合理待遇(いわゆる「タコ部屋」等)の撤廃。
52. 「禁煙」でなく「分煙」。公共喫煙所の増設と依存症支援拡充。
53. 「帰宅困難家庭」の児童のシェルター確保・拡充。
54. 親の孤立防止。財政的支援やシッター利用・保育所等インフラの拡充。
55. 麻酔科医の待遇改善・拡充による無痛分娩・不妊治療等の普及・無償化を都から実践。
56. ヤングケアラーの実態調査・迅速な支援拡充。
57. 一定期間の債務等支払義務の凍結や世間からの隔絶を許容する「隠遁」制度の試験的導入による自殺予防。
58. 共同親権制度移行後の離婚親や子の権利保証に向けたモデル条例案の策定。
59. 犯罪被害者や遺族の情報秘匿や生活再建支援事業の拡充を都から実践。
🌾 環境・公共衛生・都市デザイン
60. 『江戸東京オシャレ特区』構想・ドレスコードの厳格なサービス業種の方でも自分らしい服装等の表現を保障。
61. 炭素繊維等による東京湾浄化・老若男女が利用可能な東京湾に。
※ 一〇年単位の長期計画で研究会に予算をつけて水質浄化に関わる各方面の専門家と企業に助成を。
62. タクシーや通勤通学バスや訪問介護車両や都内を往来する長距離トラック等に向けた電気自動車等の導入支援。
63. 道路にゴミ箱を増設し収集作業も増員・雇用創出。
※ 『乞食』の方々向けに最低でも3日に1度は湯船に疲れる水準の支援体制を迅速に構築。
64. 都内の樹林伐採ストップ・地域経済や文化に無益な再開発の見直し。国土を守る。
65. 引越しや住宅確保等に係る費用分担による近隣県への移住サポート。
※ 漸次地方都市にも移住サポートしたい・全国化したときに地域を蘇らせる。
66. 主に大企業の都外への本社機能移転・人口とリスク分散を段階的に進める。
67. 排除アート・「座らせないベンチ」の全面撤去。小憩できる都市デザインの再建。
68. ユース(12-25最程度を想定)以下に対して公営美術館・芸術施設の入場料無料化。
69. 路上表現・アーティスト等に向けた道路使用許可申請等手続きの簡素化・拡充
70. 官民連携で路上ライブ・イベント等を充実させ,『解放区』の乱立。
🌾 動植物
71. 動物殺処分0の次は都から始める愛玩動物の生体販売全面禁止。
※ ペットショップの店員かわいそうだから動物病院とか生物学研究所に転職もさせてあげて。そのために予算つけよう。 ※ 日本固有種の生物種は緩和したさがある,というかその系統を維持するための研究会や国家機関創設を提唱したい。
72. 特定外来種や有毒の微生物等の実態調査・飼育手段の包括的なデータベースを策定し公開。
73. 生物学系の人材活用・医療分野との連携を強化。
74. 孤立対策に動植物との共生を促進・AI利活用で安全・安定的な飼育体制を提供。
🌾 宇宙開発
75. 軌道エレベーターや公共/民間通信衛星等を想定した宇宙産業への公共投資。
※ 東京から日本〜東南アジアをまたぐ測天衛星網(GPS)を提唱
76. 核融合発電技術への積極的公共投資。
※ 戦時を想定した燃料備蓄
🌾 食糧自給・安全保障
77. 家庭菜園や地域農産・地産地消の促進。
78. 種苗法改正の見直し・食文化の保全。
※ 戦時を想定した食料備蓄
79. 酒税法の見直し・どぶろく文化を再興。
80. 生レバーやユッケ等の規制緩和。
81. 依存症対策や飲酒強制の予防規制を条件に, 飲酒解禁を18歳に引き下げ。
🌾 労働市場制度
82. 新卒一括採用の見直し・企業や経済団体等への協力要請。
83. 官公庁や民間企業の採用基準にポスドク枠拡充。
84. 生涯学習・リカレント教育普及に向けた労働市場改革。職業訓練給付や実施企業への支援等の拡充。
85. 様々な産業分野の企業に対して有給や育休利用の促進。
🌾 汚職・職権乱用の防止
86. 地方議会における縁故的な役職(選管等)の選定過程・給与等の見直し・再編と代替的職務の用意。
87. 刑事収容施設や入管施設内での侮辱や虐待や差別的待遇の実態調査・迅速な改善。
88. 市民オンブズマン制度の創設・拡充による��三者目線の地方議会の監査強化。
89. NPO法人設立や生活保護申請・政治団体含む会計監査の厳格化・責任体制の明確化。
🌾 表現・報道の自由
90. 小池都知事が実施していた様な一部のマスコミやジャーナリスト等の排除に反対・報道と表現の自由を守る。
91. 『表現の自由』の前提として,エンタメ・出版・コンテンツ業界に投資拡充・且つアーティストの食い扶持と表現の場を守り,層の厚さを維持。
92. NHKの過剰な集金を規制・困窮世帯の債務免除・公共の利益となる基礎的なコンテンツは保障するが国民の無償・平等な『知る権利』に配慮。
🌾 スポーツ
93. 『マイナースポーツに光を』・Eスポーツ含む多様な体育会系コンテンツにも積極的に投資。
94. 身体に障害を有する方々が主役であるパラスポーツ分野に投資拡充・宣伝を強化。
🌾 その他
95. 小池都知事の財政調整基金の使途・費用対効果について徹底的に監査。
96. 小池都知事や森本首相も関わる東京オリンピックに関する利権構造や裏金・役員の不審死・作業員の過労死等の真実究明。
97. コロナ禍におけるエンタメ産業や一部の飲食業界・性産業等への差別的待遇の見直し・適切で平等な補償体制の確約。
98. コロナ禍における緊急事態宣言の手続的正当性・費用対効果を徹底再調査。
99. お気持ちベースの『自粛要請』では無く必要な法整備・責任体制を明確化。
100. 多様な業種の方々に配慮し投票所を26時まで開放・且つ開票日を平日にスライドし行政コストを軽減。
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jinghuablog · 2 months
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回到家里,淑君先上床补个觉。醒来之后,她趁厨房没人的空档,去那里煮了一碗菠菜香肠鸡蛋面。在上海淑君不怎么爱吃面食,现在她没有更好的选择,不喜欢吃也得吃,不过这碗面她觉得做的还不错,并没有想象中那么难以下咽。她一边吃,一边想起过去在上海常对儿子说的那句话:"宽宽,饿你三天三夜,你就不会再挑三拣四了,什么东西都觉得好吃。"现在这句话仿佛回旋标似的应验到了她自己身上,真是一大讽刺。事到如今她不得不对现实低头,对现实低头决非只有吃饭这一桩,但恰恰在吃这件事上,淑君是最不愿意将就的,可那又能怎么样呢?她心里想:"现在一切开销能省则省,每天的一日三餐,方便、实恵、扛饿必须放在首位,而营养、偏爱、习惯统统退居次要的位置。如果一时半会找不到工作,节衣缩食将成为必然,成为无了无休的生活常态,但只要有一份工作可干,处境就会反转,到那时再随心所愿也不晚。"
正当淑君把碗里最后一口面汤喝完的时候,Sarah从外面走了进来。她一见到淑君,马上走了过来,一屁股坐在她身边,撅着嘴,一脸的不高兴。淑君看她气鼓鼓的样子,打趣的说:"出门还好好的,外面给狗吓着了?"
"哼……狗我才不怕呢,可有的人比狗还可恶。"
淑君听了咯咯一笑,刚想接她的话茬,忽然看到贾东杰脸色铁青走了进来。他也不朝淑君那边看上一眼,便径自走到水槽边,一言不发地埋头刷洗晚饭留下的锅碗瓢盆,一时间霹雳乓啷的碰撞声响个不停,好像他专找手上的东西撒气似的。淑君心里明白,他们俩准又在闹别扭了,为了避免尴尬,她连忙改换话题,对Sarah说:"是不是在外面走累了,我说点好玩的给你听听怎么样?"
一听淑君要说学校里的见闻,Sarah便来了兴致,说:"好呀……好呀…… "
淑君把今天所碰到的人和事笼统的说了一遍。当说起坐车途中的一路风光,尤其是列车经过悉尼大桥所带给她的那种新奇和兴奋的感觉时,Sarah便在一旁不住的摇头,笑话淑君像乡下人逛外滩那样的土里土气。当说到蒙派克公园里惊魂的那一刻,Sarah笑着说:"流浪汉不吃人,只是身上邋里邋遢,体臭难闻吧了。"还不忘叮嘱一句以后不要在那里多停留。当引用那个姓赖的说什么"钱就是上海人的亲爹亲娘,就是马路天使。"Sarah更是笑得前仰后合,连连称道那位姓赖的老成见到,说话针针见血。
"有什么好笑的,钱对于每个人来讲就是亲爹亲娘,我们不都是奔着亲爹亲娘来的吗?"
"淑君,我不是说这句话不对,只是笑这个比喻太形象了,你那个老赖好幽默呀。"她一边说,一边又咯咯笑了起来。
"你这话说的更幽默,这声老赖叫的好,他还真有点死皮赖脸的样子。"淑君也跟着笑个不停,笑过之后,她又说:"不过这人还有点自大,初次见面就把别的同学贬损的一文不值,好像没什么人可以入他的法眼。"
"很多上海人都是这副德行…… "
"拜托啦,你管别人干嘛。他好像觉得跟他们分在同一个班上课,是件不光彩的事情。不过当他知道我们俩分在同个班级,我看他蛮开心的。"
"听你这么一说,好像只有你他还愿意搭理似的。哎——他会不会看上你了?"
"不会啦,这种人就是没事寻开心。我们聊了这么长时间,他也没打听过半句我私人的事情。"她觉得Sarah这句话问的很唐突,人又不是视觉动物,哪有带着这种动机与人相处的呀。
"这个老赖还真不赖,不像Jack一见到我就两眼放光,虚寒问暖,活像个查户口的。"
"那你为什么不反过来查他的户口?…… "
"呯!"的一声,贾东杰正在洗盘子的手一滑,盘子落在水槽里,吓了大家一大跳。"查户口?"贾东杰心里咯噔一下,一股凉意蹿到了后颈窝,这个字眼今天已经出现了二次,刚才发生的那一幕还宛然在目,怎么又提起这档子事情了。
晚上他们俩吃完了饭,照列一起外出散步,这是他们每天生活的一部分,也是一段快乐时光。那句话怎么说来着,"饭后走一走,胜似活神仙。"贾东杰常常把它挂在嘴边,如今他觉得自己就是一个"活神仙",有一份稳定工作,有一年的临时居留权,更有一个娇娇滴滴的美人陪伴,跟那些还在为生活奔波的同胞相比,他这个男人是何等的幸运,何等的神气。生活对于他来说真是不薄,来到这里没多久,精神和肉体就得到意想不到的双重满足。他想保持这种生活,紧紧抓住手中的幸福,可是幸福来得快,去得也快,就像刮过去的一阵风。如今他们俩的日子越来越像那些过寻常生活的夫妻,没有变化,毫无新意,呆在一起总是你看我,我看你,干巴巴的说话,就是亲热也成了一件例行公事。现在只剩下每天晚饭后的散步还能带来些变化。路上跑的汽车,行人的衣着打扮,邻居家的花园、房子,街上的一景一物,花开花谢,甚至天上飞的鸟,飘过的云彩……统统可以拿来作为谈资,而这些谈话倒也不嫌枯燥。
他们俩拐入了另一条街,迎面是一个高坡。贾东杰一马当先走在前面,他身穿一件崭新的T恤衫,一条休闲裤,显得英俊洒脱,夕阳照在他的身后,颀长的身躯看上去更加的魁梧高大。Sarah一见他这身打扮就来气,心里酸酸的想:"这身衣服穿的这么好看,那个买衣服的人一定花了不少时间和心思,而肯花时间和精力的肯定非女人莫属,那么他们之间到底是层什么关系?"可这个疑问困挠过她多时,她再也不想陷入这无解的苦恼之中,于是她自言自语的说:"不用在乎他,反正问他也没有什么结果。用表妹来作挡箭牌?还真以为我是三岁小孩呢。"
Sarah停住了脚步,说是要休息一下,歇口气。
贾东杰回过身来,一个劲的催促她说:"快来呀,再晚怕是看不到太阳落山。"
她把脸一沉,说:"那你上去吧,我就不奉陪了。"
"又怎么了?我的小天使。"贾东杰无奈的走回到她的身边。
"我心中有个疑团始终无法解开……"她还是忍不住问道。
"你这么聪明的人,有什么可以难得倒你的,有事尽管问。"贾东杰尽量装出无所谓的样子,他估摸这话憋在她心里已经好久了。
"你穿的这件T恤衫,难不成又是你表妹买的?"
"反正是淑君带来的,至于谁买的,连我自己也不知道。"
"不管谁买的,跟你那个表妹脱不了干系。我真是纳闷,我也有好多表兄妹,可大家平时鲜有联系,最多逢年过节吃个饭,聊聊天,无微不至的关怀我还没见过,能不能说说你们除了表兄妹之外还有什么关系?"
"怎么啦,开始查户口了?哈……哈……"贾东杰笑着把她揽在怀里,轻轻在她脸颊上吻了一下。他知道她又在吃醋,耍上海小姐的小性子,不过这也好办,只要放下身段,哄哄她不就得了,于是他说:"小傻瓜,其实原因很简单,我父母大字不识几个,更不会买东西,所以请我表妹帮忙代劳,也算是情理之中的事情,你用不着胡猜乱想,徒增烦恼不值得。"说完他拉起Sarah的手,说:"我们俩一鼓足气冲上这道坡,中途谁都不准停,你看怎样?或者你在前,我在后,我先礼让你十秒钟,看我能不能追上,一旦落入我的手心,我就一口把你吞掉。"说完他张大嘴巴作出咬人的样子。
Sarah把手狠狠的一甩,面带愠怒的说:"你先把你们之间的关系捋捋顺,什么事在你嘴里都成了情理之中的事情,难道表兄妹结亲也在情理之中?"
"以前肯定是,这种亲上加亲的习俗向上可追溯上千年的历史,可现在鲜有耳闻,世移俗异嘛,你就放一百个心吧!"说完他不由分说又拉起Sarah的手,一路跑上了高坡。
此时,夕阳将要落入地平线,这是令人心动的一刻。他们脚下的大地沐浴在一片金色的霞光之中。郁郁葱葱的树林,形状各异的屋舍,纵横阡陌的道路尽收眼底。一条蜿蜒的主马路堵满了下班回家的车辆;一列长长的城际列车在郊外飞奔;一大片闪闪烁烁的万家灯火;天空中不时飞过一群群白色的��鹉,一声声刺耳的鸟鸣划破天际;西边的天空堆积如山的云翳像是被火烧过一样,火焰般的嫣红,奇彩无比。展现在眼前的是温暖祥和的夕阳美景。
他们经常来这里看日落,手挽手,十指交叉,站在这个平台上忆过去,讲笑话,谈未来。可今天的气氛却有点不一样,俩人各怀心事,说话流于表面,枯燥乏味,也没有肢体上的亲热。Sarah转过头去看了一眼贾东杰,只见他脸色憔悴,胡子拉碴,头发零乱,刚才哄人时的那副笑容也不见了,看上去一副心事重重的样子。“唉!"Sarah心里叹了口气,近来贾东杰的变化可真大,几个月前他还是一个注重仪表,意气奋发,想要有所作为的人,可如今他的精气神都去哪儿了呢?或许他要面对的闹心的事情太多,太沉重,俱乐部里的“老虎机”吞噬了他的钱财,淑君的到来又让他多了难以言状的困扰,还有许许多多不明就里的原因。在朝朝暮暮的生活中,Sarah能切实感受到他的这些细微的变化。
他们俩朝夕相处了大半年,Sarah对眼前这个男人还是有很深的感情。刚开始Sarah觉得他哪儿都好,除了不够光明磊落,不能坦诚相见之外,对此她并不在意,而是义无反顾的投入他的怀抱。孤身在外,她渴望爱,需要温暖,向往被人捧在手心里的那种幸福,可是当她一旦坠入了爱河,反而觉得男人的诚实比魅力更为重要。如果贾东杰能敞开心扉,那怕只是一角,她会投桃报李去爱他,甚至放弃上海的家庭也在所不惜。可如今走到了这一步,她的信念动摇了不少,这个男人真让她吃不透,也看不懂,什么事经他的一番花言巧语之后,就完全变了个样,你看到的只是他想让你看到的,他不想让人知道的,你也甭想知道。更让她蓦然惊觉的是,现在反过来是她更加再乎这段感情。
现在Sarah算是想明白了,与其穷追不舍地问出个水落石出,还不如顺其自然,退一万步说,即使真的弄清所谓的"真相",那又能怎样?她自己不也是结过婚,有孩子,有家庭,与真相相比她更加在乎自己在这场游戏中的角色,她只想知道越出常轨的那条边际在什么地方,从而有个稳定的预期,早作打算,虽然她也知道女人在这方面的努力往往都是徒劳的。
望着残阳渐渐消失在地平线上,贾东杰一脸惋惜的说:"蛮好我们早点出门,这么好看的‘火烧云’并不多见。"
"也没什么好可惜的,好花不常开,好景不常在,世上所有事都自有它的道理,这点我算是看明白了。"
贾东杰似乎听出她话里有话,便伸出胳膊搂住她的腰,换成一副笑脸,说:"今天你是怎么了,生气啦?"
"哼,一身新衣服,心向‘火烧云’,我在你心里还有什么位置?"Sarah挣脱他的搂抱,转身急匆匆的往回走……
Sarah也在回想饭后散步的那一幕。不过淑君的话反倒是提醒了她,"那你为什么不反过来查他的户口?"这话说的太及时了,看来淑君真是观世音菩萨派来的,要不自己被贾东杰卖掉都浑然不知。从今往后,只要淑君站在自己一边,他就再也休想瞒天过海。于是她接过刚才的话说:"淑君,改天等我心情好些,我要好好查一下他的‘户口’,你一定得给我把把关哦。"
淑君对刚才脱口而出的话有点后悔,像这样话赶话的,很容易引火上身,反而会伤到自己。不过即然话都说到这份上,何不再多说一句,也好敲打一下这个不要脸的男人。她说:"好呀,我一定配合你,不过我现在愁的事情有一大堆,今天去学校才知道是怎么回事,那里根本就不是一个读书的地方,这个学期就这样混过去再说,下学期我想报一个商业课程,等英语这关过了以后,还是想继续念我的本行。"
"理想很美好,可钱从哪儿来呢?"贾东杰在一旁插话道,他已经把厨房给收拾得干干净净。现在正好逮到一个转移话题的机会。
"是啊,依我看你还是走一步,看一步,读医科固然好,但学费你考虑过吗?这笔费用可不低哦。"Sarah以一个过来人的口吻说道。
"其实说难也不难,看你敢不敢豁出去,大树底下的滋味想想都很美。"贾东杰带着嘲讽的口吻说,他也想借机反击一下。
"靠男人还不如靠自己,那些自视大树的男人都是些自大狂,高兴时可以把你捧上天,翻起脸来就嫌你是个累赘,所以大树底下未必能高枕无忧。"Sarah意有所指的说。
淑君被他们俩说得无言以对,本来她是想表达一下藏在自己心里的想法,可话一出口就像被浇一盆冷水。她心里有点难过,刚才贾东杰说的"其实说难也不难,看你敢不敢豁出去……"这句话,仿佛跟那老赖的"……只要你乐意应该都易如反掌"是同一个意思。当然贾东杰说的肯定有不怀好意的成份,不过也说出一个残酷的事实,漂亮女人到了万不得已的时候,还有一张王牌可用。
但淑君不一样,从小到大,她靠的是聪明的脑袋瓜和一双勤勤恳恳的手,才在大上海找到一处安身立命的绿洲。靠脸蛋吃饭,自己不也被划入让她瞧不起的那类人了吗?所以淑君暗自下定决心,千千万万要守住这条底线,但付出的代价肯定不会轻,甚至完全可能让自己脱一身皮,但不管怎样,人的肌肤可以再生,可理想一旦失守,那这辈子再也甭想找回来了。
淑君把脸转向Sarah,说:"你说的有道理,想的越远,负担越重。自己就这么个条件,也只能走一步,是一步了。"
"走一步,是一步——这话听起来有点被动消极呀!"这时有一个带磁性的男声飘进厨房,淑君回抬头一看,只见一个小个子男人走进厨房,他是那种让人过目不忘类型的人。矮小粗壮的个子,平顶头,脸长的方方正正,脖子粗短,眼距比常人宽,一对小眼睛闪着聪明的眼神,嘴角挂着微笑。他身穿一件不合身的圆领卫生衫,一副憨态可掬的滑稽样子。
Sarah闻声侧过头去,目光跟那来人相遇,不禁兴奋的叫起来:"呵呵——真是难得一见呀。淑君,他就是我跟你说的Mark,他有一副唱歌的好嗓子,还能烧得一手好菜,更是我们这里的‘开心果’。"
"是吗?我怎么觉得你更喜欢吃Jack烧的东西,如果你真的喜欢我那个……那个……小小的烧菜手艺,干脆跟Jack分道扬镳得了,过来跟着我混,你觉的怎样?"他说这话的时侯,抬眼看了一眼贾东杰,然后作了一个失言的手势。
"美的你!"Sarah挥起右手,作了个扇他巴掌的样子。
"听说你手下来了二个美女?"他一边说,一边上下打量着淑君。
"你这是在痴心妄想,就是来二十个都没你的份……"Sarah忽然停了一下,像是想起什么似的问道:"哎,忘了问你了,你那个朋友现在情况怎么样,好点了吗?"
"还是老样子,一直不见有好转,还是情绪低落,不爱讲话,整天痴痴呆呆面壁而坐,说要带他回家,可问他家在哪儿,他又答不上来,唉!……"
"淑君刚从上海来,是新华医院的医生,或者你把你朋友的病情说一下,看看她有什么法子。"Sarah用手指了指坐在身边的淑��,恍然大悟的说。
"哇……大医生呀!……算我有眼不识泰山,我只当你是个大美人呢。"Mark一听淑君是个医生便喜出望外,不过插科打诨一旦成了习惯,严肃的话题也添上滑稽幽默的色彩。
Sarah打断了他的话,说:"你眼里除了美女,还是美女,我看你干脆转道去美国算了,那里全都是美女,美国女人去掉二个字,不就成了‘美女’了吗?"
"那好呀,我不就摇身一变一下子成了‘美男’了吗。"Mark 一边说,一边踮起一只脚转了一个身,"还省去一大笔娶老婆的费用,我何乐而不为呢?"
"言归正传,你朋友怎么会出国的,出国以前是个什么状况?"淑君收住了笑容。
"出国以前,他跟我们所有的人都一样挺正常的,乐观开朗,聪明好学。我来悉尼还多亏了他帮忙,帮助我安家落户,又陪我到处找工作,要不然我怎么会这样一帆风顺。"
"既然这样那他的病具体有哪些症状,这些症状持续了多久?我问的是典型症状。"淑君又问道。
"‘典型’二字我比较难把握,我只能讲个大概情况,至于哪些是典型,哪些又是非典型,你自己作个判断吧。"于是Mark开始讲述他朋友的情况。他们俩以前在上海是同事关系。他比Mark早来半年。以前他在上海有个交往多年的女朋友,出来之后,他一直想把他的女朋友也办过来留学,于是他就拚着命的打工挣钱,积攒学费。爱情的力量真是神奇,经过几个月没日没夜的干活,终于凑足了一笔学费。当时他还笑呵呵告诉Mark说,他将要告别单身生活。可是这笔钱竟给他带来了一场噩运,原来他有个一个熟人自称神通广大,办理留学签证既快捷,又方便,而且成功率百分之百。于是他就盲目地把钱交给那个熟人来办理这件事,可谁曾料到这事非但没办成,居然连那个熟人都找不到了。最终他不仅钱追不回来,后来连女朋友也跟他分了手,真是人财两失,这件事对他打击很大,从那以后,他整天沉默寡言,郁郁不乐,工作也没心思去干,整个人都沉沦下去,最后被他的房东给赶了出来。Mark得知此事,便把他接过来同住,生活上尽可能帮他一把,可对于他的病实在无能为力。
"那他有没有去看医生?"淑君尽量想问的详细些,她知道这种病最好找这方面的专业医生。
"没有,他对外面世界充满着恐惧,说是有人要害他,整天昏昏沉沉,痴痴傻傻的,白天黑夜颠倒,吃饭睡觉混乱……"
"从你讲的情况来看,他的症状比较明显,要抓紧看医生,进行必要的药物干预,避免病情加重。1984年,我国曾推出一个这种病的诊断标准,在这八项标准中,典型症状的符合二项,不典型的符合三项,病程三个月以上,基本可以确诊为精神类疾病。我看他的情况不乐观。"
"那怎么个治疗法呢?"
"在国内有中医、西医、电击等方法,中医见效慢,效果有限。电击要去专门的医疗机构进行。西医主要是药物治疗,常用药物有舒乐安定、奋乃静、舒必利等。不过我带来些安定药,今晚你就给他用上,最要紧的是先把他的作息调整过来,看看情况再说。"
Sarah在一旁感叹的说:"真是太可惜了,像他这种情况还是呆在上海更好,至少有家人陪伴和照顾。现在在这里,他只能孤身应对,我们大家的帮助也很有限,想出力都不知道从哪方面下手。"
"这种人太脆弱了,经不起风浪的考验。"贾东杰事不关己的嘲笑说。
淑君听了火冒三丈,谁都能说这种话,唯有你贾东杰没资格这么说,他是可惜,是很悲哀,在某些人眼里他根本就不应该这么做,可他不但这么做了,而且还陪上自己的一生幸福,这种可惜让人心怀敬意,这种悲哀叫人扼腕叹息。淑君愤愤的说:"他那个熟人太可恶了,简直是骗钱害命,这种人真该扪心自问一下,从他人的不幸中获益就这么的心安理得?"
"是啊,从他人痛苦中牟利的人无一例外的先是得意洋洋,接下来就是恶有恶报,最后一定是咎由自取。"Mark也为他朋友的遭遇愤愤不平。
贾东杰听了心里不是滋味,淑君的话里好像处处都在针对他,敲打他。她这个人现在越来越大胆放肆,这种话一次、二次别人或许不一定再意,如果含沙射影的攻击成为一种常态,最后势必弄的尽人皆知,现在贾东杰深感压力山大,淑君一来就展现出咄咄逼人的态度,也没有任何打算收敛的意思,而Sarah也变得越来越疑心重重,他两头都得罪不起,当初让淑君住进来就不是一个好主意,如今一切都为时已晚。
"厨房里好热啊—— "丹丹风风火火从外面走了进来。
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lunahoshisolar · 6 months
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第一話 「青高、春の嵐!顔真っ青な青春の始まり!?」
「ここが、龍脈の一番集まった町か……」
低い声が稲妻のように轟く。その声は、大柄の一人の男のものだ。じゃり、と巨体を支える頼もしき足が地面を擦り、音を立てる。
彼の名前は「青山龍星(あおやま りゅうせい)」。左手の黒いレザーの手袋に落ちる淡い光沢が、ギリリと握りしめられ、細く伸びる。その握力に耐えうる頑丈さを感じさせる。
その男は、今日この日のために、獣さえ足を入れることを憚るような、仙人が住むような滝壺や、龍が住むとさえ言われる秘境(十和田)でその技と肉体を限界まで鍛え抜き、磨き上げられた道具。
龍が如き四肢を持つ、誰もがその覇気により認めざるを得ない「最強」の男である。
その男がやってきたのはーー……、
がさり、と茂みを折る。その薮は普通の男では動かす事が困難な物だが。
山の下に広がるのは、盆地。田舎のはずだが人口も多く不可思議に賑わった、田舎の町だった。ここが彼の新しい「巣」だ。
「ついに高校生だ〜!桜めっちゃ綺麗〜、友達たくさん作るぞ〜!」
快活な声を少年はあげる。少年の名は「式狼縁(しき ろうえん)」。若々しく生え揃った豊かな黒髪に、春の風がはためき、桜の匂いを運ぶのが見える。
「友達はまろがおるじゃろ!たくさんもいるのか?」
不思議な昔の公家のような口調の少女は、「丹下琴絵(たんげ ことえ)」、狼縁の幼馴染の白銀色の長髪の少女である。美容院に行ったばかりのようで、キューティクルが整った輝きと、切り揃えられた真っ直ぐな前髪が愛くるしい。
「そりゃそうでしょ。あっ学校見えてきた」
先ほどの桜は、高校の隣に位置する中学校のものであるので、そこを通り過ぎた地点に彼らのこれから青春を紡ぐであろう学舎があるのだ。
「…‥何遍見てもおどろおどろしいな!最悪だよ本当!」
青藍蒼高校は、中学校と高校の背後を取る巨大な山のせいで日陰になる方に陣取っていた。
「やだ……まろ、怖い……ロウ、まろ、学校行けにゃいよぉ……」
「コトエちゃん、大丈夫だ!俺がついてるから、ネ!?ほら、ダッシュだ!どっちが先に着くかな」
少年少女は走り出す。その青春が、暗い闇に包まれてるとも知らずに。
青藍蒼高校を象徴するような、日の見えない青い空に影が差した。新学期にも関わらず、灰色の雲が出て春の風は嵐になる。雷鳴が轟く。まるで何かを告げているかのように。
「うわっ、風つっよ。ん……?」
少年は風の強さに驚きながら上をふと見ると、山の上に人影を見た。少年の視力は2.0である。
「人……?」
立ち止まる少年に、少女は気にもとめず走り続け、ゴールを目指した。彼だけが人影に気付いているが、きっと大事なことではないだろう。
「いや待てよ!」
少年は少女を追いかけてるうちに人影のことなど忘れていた。
入学式が、始まろうとしていた。
「ねぇ……まろ、まじ気まずいんじゃけど。みんなめっちゃ親おるわ……まろ無理かもしれん」
少女は「新入生歓迎」の看板を前に、新高校生とは思えぬ落ち込んだ表情だ。
「大丈夫だよ、先生に連絡したら俺らだけでいいって言ってた。コトエちゃんの保護者って基本俺じゃんいつも。だからいつもとあんまかわんなくしてればいいんじゃないかな〜なんて〜。入学おめでとう、コトエちゃん」
少年は慣れたもので、いつものことのように軽く少女を励ます。彼らには両親がいないようだ。兄妹のような仲の良さはそれでなのだろう、人は幼少の愛着対象に安心を見出す。
「それもそうじゃな!でもまろ、まじ家でプリンセス対応で育ったからな〜」
「そうだね、その口調も俺がまじコトエちゃん姫対応じゃんうちで、って言ったらコトエちゃんがどこからか昔のお姫様の口調調べてきて真似始めてそれになったんよね」
少女というものは得てして、周囲から影響を受けやすいもので、彼女も例外ではないようである。
「まろ、でもロウみたいな付き人役いなかったら恥ずかしくて辞めてたよ?」
少年は遠い目をする。
「あ〜そういえば、俺が付き人役だったっけ……お姫様(ひいさま)とか、お爺ちゃんに教えられながら頑張って付き合ったわ」
「えっまろ、さすがにロウとは付き合ってないよ」
「付き合ってないよ、それはわかってるよ」
姦しく言論するその様子は、さっきまで落ち込んでいたとは思えないぐらい子供らしく朗らかだ。周囲の子供達は、両親と共にこの後の予定について話し込んでいる。皆、新しい環境に浮き足立っていて落ち着くのに精一杯のようである。
少年少女達はお互い見知っていて、中学校からの仲良しと巡り会うたびに黄色い声が上がる。
ここで大雨にさえなっていなければ、普通の暖かい入学式風景だ。青藍蒼高校の上空のみを、厚い雲が覆いシャワーのような雨を降らしていた。車の運転ができる保護者の同伴がないコトエとロウは、上がることを祈るしかないし、それを考えないようにするかのようにずっと雑談をして体育館の中で着席して式の始まりを待つしかない。
気が気でない中、校長の話が始まり、吹奏楽部の演奏も終わった。雨は止まない。
ロウは、コトエがこのままでは折角美容院に行ってうるつやさらさらにした髪が台無しになってしまい一生引きずる嫌な思い出になることを恐れ、軽く貧乏ゆすりを始めた、その時。
その男は現れた。
「続けて、担任の先生は新任の青山龍星先生です。青山先生、大丈夫ですか?」
ゆらり、と巨体が立ち上がる。生徒の中から息を呑む音が上がる。外は晴れ始め、雨が止み、割れた雲から光が入る。
体育館の窓を通しその男が前に出るタイミングで都合よくスポットライトのように白く館内が照らし出される。
「君たちの担任を務めることになった、青山龍星です。君たちには何があっても俺が守ってみせる」
そう低音でマイク無しで宣言する教師のシャツは、びしょびしょに濡れていた。鍛え上げられた胸筋に張り付く、頼りなく薄い白シャツ。外の大雨に降られ、着替えもなかったのだろう。
しかしそれを気にも留めず背後に腕を回し、男は堂々と胸を張っていた。
先生や親の女性陣から生唾を飲むような音を聞きながら、ロウは思った。
「やっべえ……この学校……」
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jinghuablog · 4 months
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留学不易百感生,初来乍到万事难(五)
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回到家里,淑君先上床补了一个觉。醒来之后,她趁厨房没人的空档进去下了一碗菠菜香肠鸡蛋面吃。在上海淑君不怎么爱吃面食,可这顿晚餐她觉得太好吃了,真没想到自己竟能做出这么棒的一碗面。她想起过去在上海,只要儿子不好好吃饭,她总是吓唬他说:"宽宽——饿你三天三夜,你就不会再挑三拣四,什么东西都觉得好吃。"现在这句话犹如回旋标似的应验到了自己身上,实在是一大讽刺。唉……世到如今她不得不对现实低头,对现实低头决非只有吃饭这一桩,但恰恰在吃这件事上,淑君是最不愿意将就,可那又能怎样?现在一切开销能省则省,每天的一日三餐,方便、实恵、扛饿必须放在首位,而营养、偏爱、习惯统统退居于次要的位置。如果一时半会找不到工作,节衣缩食将成为必然,成为无了无休的生活常态,但只要有一份工作可干,处境就会反转,到那时再随心所愿也不晚。
正当淑君把碗里最后一口面汤喝完的时候,Sarah从外面回来。她一见到淑君,马上走了过来,一言不发的坐在她身边,撅着嘴,一脸的不高兴。淑君看她气鼓鼓的样子,打趣的说:"出门还好好的,外面给狗吓着了?"
"哼,狗我才不怕呢,可有的人比狗还可恶。"
淑君听了呵呵一笑,刚想接她的话茬,忽然贾东杰脸色铁青走了进来,他也不朝淑君那边看上一眼,便径自走到水槽边,一言不发地埋头刷洗晚饭留下的锅碗瓢盆,霹雳乓啷的碰撞声响个不停,好像专找手上的东西撒气似的。淑君心里明白,他们俩准又在闹别扭,为了避免尴尬,她连忙改换话题,对Sarah说:"是不是在外面走累了,我说点好玩的给你听怎么样?"
一听淑君要说学校里的见闻,Sarah便来了兴致,说:"好呀……好呀…… "
淑君将今天所碰到的人和事娓娓道来,当说起列车途中的一路风光,尤其列车经过悉尼大桥时所带来的新奇和兴奋的体验,Sarah听了咯咯地直笑,笑话淑君像过去乡下人抬头看上海国际饭店那样的土里土气。说到蒙派克公园里惊魂的那一刻,Sarah笑着说流浪汉不吃人,只是身上邋里邋遢,体臭难闻,还不忘叮嘱一句以后不要在那里停留。当听到那个姓肖的说什么"钱就是上海人的亲爹亲娘,就是马路天使。"Sarah更是笑得前仰后合,连连称道那位姓肖的老成见到,说话针针见血。
"有什么好笑的,钱对于每个人来讲都仿佛是亲爹亲娘,我们不都是奔着亲爹亲娘来的吗?"
"淑君呀,我不是说这句话不对,只是笑这比喻太形象了,你那个同学好幽默呀。"
"还有点自大,初次见面就把别的同学贬损的一文不值,好像没什么人可以入他的法眼。……拜托哦,我们到学校是来求学的,管他谁跟我们是同班呢,不过当他知道我们俩分在一个班的时候,我看他蛮开心的。"
"听你这么一说,好像只有你他还愿意搭理。哎——他会不会是看上了你?"
淑君咯咯笑道:"不会啦,他就是没事寻开心,从头至尾都没打听过半句我个人的事情。"她觉得Sarah这句话问的唐突,人又不是视觉动物,哪有带着这种动机与人相处。
"这个人挺有风度的,不像Jack一见到我就两眼放光,问长问短,像是个查户口的。"
"那你为什么没查他的户口?…… "
"呯!"的一声,贾东杰正在洗盘子的手一滑,盘子落在水槽里,吓了大家一大跳。查户口?贾东杰心里咯噔一下,一股凉意蹿到了后颈窝,这个字眼今天已经出现了二次,刚才的那一幕宛然在目,怎么又提起这档子事情了呢?
吃完晚餐,贾东杰和Sarah照常外出散步,这是他们每天的快乐时光。那句话怎么说来着,饭后百步走,胜似活神仙,贾东杰常常把它挂在��边,他觉得自己如今就是一个"活神仙",有一份稳定工作,有一年的临时居留权,更有一个娇娇滴滴的美人相伴,跟那些苦呵呵为生活疲于奔命的男同胞相比,他这男人是何等的福气,何等的神气。生活对他真是不薄,来到这里没多久,精神和肉体就得到意想不到的满足,他想保持这种状态,紧紧抓住手中的幸福,但幸福来得快,去得也快,像一阵风似的。现在他们俩越来越像过寻常生活的夫妻,没有变化,毫无新意。呆在家里你看我,我看你,干巴巴的过日子,过去那些心醉神迷的新鲜感犹如一阵青烟,消散的无影无踪。现在只剩下每天的饭后散步还能带来些变化。路上的汽车,行人的模样,邻居家的花园、房子,街上的一景一物,花开花谢,甚至天上飞的鸟,飘过的云彩……统统可以拿来作为谈资,由此引申出来的话题更是无穷无尽。
他们拐入另一条街,迎面是一个高坡,贾东杰一马当先走在前面,夕阳照在他的身后,颀长的身躯配上的一件崭新的T恤衫,显得英俊洒脱。Sarah心里酸酸的想:"这身衣服即合体,颜色又不错,买衣服的人一定花了不少时间,倾注很多心思,而肯花时间精力的那层关系肯定非同一般。"
Sarah越想越气,她停住脚步,说是要休息一下,歇口气。
贾东杰回过身来,一个劲的催促说:"再晚怕是看不到太阳落山。"
Sarah脸一沉,说:"那你上去吧,我就不奉陪了。"
"又怎么了?我的小天使。"贾东杰无奈的走回到她身边。
"我心中有个疑团始终无法解开……"
"你这么聪明的人,有什么可以难倒你的呢?有事尽管问。"贾东杰装出无所谓的模样,可他心里明白这话憋在她心里已经好久了。
"你穿的这件T恤衫,难不成又是你表妹帮买的?"
"反正是淑君带来的,至于谁买的,连我自己也不知道。"
"不管谁买的,跟你那个表妹脱不了干系。我真是纳闷,我也有好多表兄妹,可大家平时鲜有联系,最多逢年过节吃个饭,聊聊天,无微不至的关心我还没见过,这算是第一次见识,能不能说说你们之间到底是层什么关系?"
"怎么啦,开始查户口了?哈哈——"贾东杰笑着把她揽在怀里,用嘴唇在她脸颊上吻了一下。他知道她又在吃醋,耍上海小姐的小性子,不过这也好办,只要放下身段哄哄她不就得了,于是他说:"小傻瓜,其实原因很简单,我父母大字不识几个,更不会买东西,所以请我表妹帮忙代劳,也算是情理之中的事情,你用不着胡猜乱想,徒增烦恼不值得。"说完他拉起Sarah的手"我们俩一鼓足气冲上这道坡,中途谁都不准停,你看怎样?或者你在前,我在后,我先礼让你十秒钟,看我能不能追上,一旦落入我的手心,我就一口把你吞掉。"说完他张大嘴巴作出咬人的样子。
Sarah把手狠狠的一甩,面带愠怒的说:"你先把你们之间的关系捋捋顺,什么事在你嘴里都成了情理之中的事情,难道表兄妹结亲也在情理之中?"
"以前肯定是,这种亲上加亲的风俗向上可追溯上千年的历史,可现在鲜有耳闻,世移俗异嘛,你就放一百个心吧!"说完他不由分说拉起Sarah的手,一路跑上了高坡。
此时,夕阳将要落入地平线,这是令人心动的一刻。他们站在高处,脚下的大地沐浴在一片金黄色的霞光之中,郁郁葱葱的树林,形状各异的屋舍,纵横阡陌的道路尽收眼底。一条蜿蜒的主马路堵满了下班回家的车辆,一列长长的城际列车在郊外飞奔;天空中不时飞过一群群白色的鹦鹉,一声声刺耳的鸟鸣划破天际;西边天空堆积如山的云翳像是被火烧过一样,火焰般的嫣红,奇彩无比,天与地之间是一派超尘绝俗的美丽风光。
他们经常来这里看日落,手挽手,十指交叉,站在这个平台上忆过去,讲笑话,谈未来,可今天的气氛却大不一样,贾东杰脸色憔悴,胡子拉碴,一脸的忧郁,没有肢体上的亲热,说话也是流于表面,枯燥乏味。"唉…… "Sarah心里叹了口气,近来贾东杰的变化可真大,几个月前他还是一个注重仪表,意气奋发的有为青年,可如今他的精气神都去了哪儿呢?或许他要面对的闹心的事情太多,太沉重,俱乐部里的“老虎机”吞噬了他的钱财,淑君的到来又让他多了难以言状的困扰,还有许许多多不明就里的原因,作为女人她能感受到这些细微的变化。
他们俩朝夕相处大半年,Sarah对眼前这个男人还是有很深的感情,刚开始Sarah觉得他哪儿都好,除了不够光明磊落,不能坦诚相见之外,但她并不在意,义无反顾的投入那个男人的怀抱。孤身在外,她需要爱,她渴望幸福,可一旦坠入了爱河,她反而觉得男人的诚实比魅力更为重要。如果贾东杰能敞开心扉,那怕只是一角,她同样也会投桃报李,甚至放弃上海的家庭也在所不惜。可如今走到了这一步,她的信念动摇了不少,这个男人真让她吃不透,也看不懂,什么事经他的一番花言巧语之后,就会完全变了样,你看到的只是他想让你看到的,他不想让人知道的你就甭想知道。
现在Sarah算是想明白了,与其穷追不舍地问出个水落石出,还不如顺其自然,退一万步说,即使真的弄清所谓的"真相",那又能怎样?其实她才不在乎他们是否是表兄妹关系,她自己不也结过婚,有孩子,有家庭。与这些相比她更加在乎自己在这场游戏中的角色,只想知道越出常轨的那条边际在什么地方,从而有个稳定的预期,早作打算,虽然她也知道女人在这方面的努力往往是徒劳的。
望着残阳渐渐消失在地平线上,贾东杰一脸惋惜的说:"蛮好我们早点出门,这么好看的‘火烧云’并不多见。"
"也没什么好可惜的,好花不常开,好景不常在,世上所有事都自有它的道理,这点我算是看明白了。"
"今天你是怎么了,生气啦?"
"哼,一身新衣服,心向‘火烧云’,你心里哪还有我的位置。"Sarah挣脱他的搂抱,转身急匆匆的往回走……
Sarah回想起饭后散步的那一幕,觉得淑君说的那句"那你为什么没查他的户口?"绝对是点睛之招神来之笔,让她低落的情绪立马止跌回升,心情也好了很多,看来淑君真是观世音菩萨派来的,要不自己被贾东杰卖掉都浑然不知,今后只要淑君站在自己的一边,贾东杰就再也休想瞒天过海了。她开心的说:"淑君,改天等心情好些,我要好好查一下户口,你一定得给我把把关哦。"
淑君刚才的话一说出口,就有点后悔,像这样话赶话的,很容易引火上身,反而伤到自己,于是她连忙说:"我现在愁的事情还多着呢,今天去了学校才知道怎么回事,那里根本就不是一个读书的地方,这个学期就这样混过去再说,下学期我想报一个商业课程,等英语这关过了后,还是想继续念我的本行。"
"理想倒是很美好,可钱从哪儿来呢?"贾东杰在一旁插话道,他已经把厨房给收拾了干净,正想找机会加入她俩的谈话。
"是啊,依我看你还是走一步,看一步,读医科固然好,但学费你考虑过吗?这笔费用可不低哦。"Sarah以一个过来人的口吻说。
"其实说难也不难,看你敢不敢豁出去,大树底下的滋味想想都很美。"贾东杰带着嘲讽的口吻说,他想借机敲打一下淑君。
"靠男人还不如靠自己,那些自视大树的男人都是些自大狂,高兴时可以把你捧上天,不乐意时就嫌你是个累赘,所以大树底下未必清凉惬意。"Sarah意有所指的说。
淑君被他们俩说得无言以对,本来她想表达一下藏在自己心里的想法,可话一出口像是被浇一盆冷水似的,真叫一个透心凉。刚才贾东杰说的"其实说难也不难,看你敢不敢豁出去……"这句话,仿佛跟那个姓肖的"……只要你乐意应该都易如反掌"是同一个意思。当然贾东杰说这话肯定是不怀好意,但也说出一个残酷的事实,漂亮女人到了万不得已的时候,还有一张王牌可用。但淑君不一样,从小到大她靠的是聪明的脑袋瓜和一双勤勤恳恳的手,才在大上海找到一处安身立命的绿洲。靠脸蛋吃饭,自己不也被划入让她瞧不起的那类人了吗?所以淑君暗自下定决心,千千万万要守住这条底线,但付出的代价肯定不会轻,甚至完全可能让自己脱一身皮,但不管怎样,人的肌肤可以再生,可理想一旦失守,那这辈子再也甭想找回来了。
淑君脸对着Sarah说:"你说的有道理,想的越远,负担越重。自己就这么个条件,也只能走一步是一步了。"
"走一步是一步——这话听起来有点被动消极的意味呀!"这时有一个带磁性的男声飘进厨房,淑君回抬头一看,只见一个小个子男人走进厨房,他是一种让人过目不忘那种类型的人。他个子矮小粗壮,平顶头,脸方方正正的,脖子粗短,眼距比常人宽,一对小眼睛闪着聪明的眼神,嘴唇挂着微笑。他身穿一件不合身的圆领卫生衫,一副憨态可掬的滑稽样子。
Sarah闻声偏过头去,目光跟那来人相遇,不禁兴奋的叫起来:"呵呵——真是难得一见呀。淑君,他就是昨天跟你说的Mark,他有一副唱歌的好嗓子,还能烧得一手好菜,更是我们这里的‘开心果’。"
"是吗?我怎么觉得你更喜欢吃Jack烧的东西。如果真的喜欢我那个……那个……小小的烧菜手艺,干脆跟Jack分道扬镳得了,过来跟着我混,你觉的怎样?"他说这话的时侯,抬眼看了贾东杰一眼,然后作了一个失言的手势。
"美的你!"Sarah挥起右手,作了个扇他的样子。
"听说你手下又来了二个美女?"他一边说,一边上下打量着淑君。
"你这是痴心妄想,就是来二十个都没你的份。哈哈——哎,忘了问你了,你那个朋友现在情况怎么样,好点了吗?"
"还是老样子,一直不见有任何好转,现在还是情绪低落,不爱讲话,整天痴痴呆呆面壁而坐,说要带他回家,可问他家在哪儿,他又答不上来,唉……"
"哎,她刚从上海来,是新华医院的医生,或者你把你朋友的病情说一下,看看她有什么法子。"Sarah用手指了指坐在身边的淑君,恍然大悟的说。
"大医生呀!……算我有眼不识泰山,我还只当你是个大美人呢。"Mark一听淑君是个医生便喜出望外,但仍不忘插科打诨地说道。
Sarah打断了他的话,说:"你眼里除了美女,还是美女,我看你干脆转道去美国算了,那里全都是美女,美国女人去掉二个字,不就成了‘美女’了吗?"
"那好呀,我不就摇身一变成了一个美男了,还省去大笔的整容费,我何乐不为呢?"Mark 一边说,一边扭动着矮胖的身子,引的大家哄堂大笑。
"言归正传,你朋友怎么会出国的呢?家里人又怎么会放心让他只身在外。"淑君收住了笑容。
"出国以前,他跟我们所有的人都一样,挺正常的,乐观开朗,聪明好学。我来悉尼还多亏了他帮忙,帮我安家落户,又陪我到处找工作,要不然我怎么会这样的一帆风顺,又怎么会认识你们?"。"
"那他的病有哪些具体症状,这些症状持续多久了?我问的是典型症状。"淑君接着又问道,这是她的职业习惯。
"‘典型’二字我比较难把握,我只能讲个��概情况,至于哪些是典型,哪些又是非典型,你自己作判断吧。"Mark说完开始讲述他朋友的情况,他们俩以前是上海单位的同事,他比Mark早来半年。过去在上海他有个交往多年的女朋友,他出来以后,就一直想把那位女朋友办来这里,爱情的动力真是神奇,他就拚着命的打工挣钱,没有休息日,更没有节假日,经过几个月努力打工,省吃俭用,终于凑足一笔学费,当时他还笑呵呵告诉Mark说,他将要告别单身生活,可这笔钱竟成了他的一场噩梦。他有个一个熟人自称神通广大,办理留学签证又快又方便,成功率百分之百。于是他就盲目把钱交给那个熟人来办这件事,可谁曾料到这事非但没办成,后来居然连人影都找不到了。这件事对他和他女朋友打击都很大,后来女朋友一怒之下便和他断了关系。唉——人财两失,自己也成了一个废人,真是人生之大不幸啊!从那以后,他那朋友就沉默寡言,郁郁不乐,到后来工作干不了,生活也不能自理,最后被他的房东给赶了出来。Mark得知此事,便把他接过来同住,生活上尽可能帮他一把,可对于他的病实在无能为力。
"那他有没有去看医生?"淑君尽量想问的详细些,如果还没看过病,自己的意见显示无关紧要,这种病首先得找个专业医生。
"没有,他对外面世界充满着恐惧,说是有人要害他,整天昏昏沉沉,痴痴傻傻的,白天黑夜颠倒,吃饭睡觉混乱……"
"从你讲的情况来看,他的症状明显,要抓紧看医生,进行必要的药物干预,避免病情加重。1984年,我国出了个精神分裂症诊断标准,八项标准中症状典型的符合二项,不典型的符合三项,病程三个月以上。我看他的情况不乐观"
"那怎么个治疗法?"
"在国内有中医、西医、电击等方法,中医见效慢,效果有限,电击要去专门的医疗机构进行,西医主要是药物治疗,药物有舒乐安定、奋乃静、舒必利等。我带来些睡眠药,今天晚上你就给他服用,要紧的是把他的作息调整过来,看看情况再说。"说完淑君回到自己房间,拿了点安丁给她。
Sarah在一旁感叹的说:"真是太可惜了,这种人呆在上海可能会更好。可又有谁能预料得到呢?在上海至少有家人朋友的陪伴和照顾,脱离这个环境,只能孤身应对了。"
"这种人太脆弱,经不起风浪考验。"贾东杰事不关己的嘲笑说。
淑君听了火冒三丈,谁都能说这种话,唯有你贾东杰没资格这么说,他是可惜,是很悲哀,在某些人眼里他就不应该这么做,可他不但这么做了,而且还陪上自己的一生幸福,这种可惜让人心怀敬意,这种悲哀叫人扼腕叹息。想到这里淑君说:"他那个熟人太可恶了,简直是骗钱害人,这种人真该扪心自问一下,从他人不幸中获益真的能安心吗?"
"是啊,从他人痛苦中牟利的人无一例外先是得意洋洋,接下来就是恶有恶报,最后一定是咎由自取。"Mark也为他朋友的遭遇愤愤不平。
贾东杰听了心里不是滋味,淑君的话里好像处处在针对他,敲打他,这种含沙射影越来越大胆放肆,一次、二次别人或许不一定再意,如果敲打成为一种常态,那就会尽人皆知,现在贾东杰深感压力山大,淑君一来就展现咄咄逼人的态度,也没有任何打算收敛的意思,而Sarah也变得越来越疑心重重,他两头都得罪不起,当初让淑君住进来就不是一个好主意,如今一切都为时已晚。
"厨房里好热啊—— "丹丹风风火火从外面走了进来。
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silentmeteorite93 · 2 years
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10月第一周
  01102022  清晨的海边纵然有着温暖的日出却依旧冷冽,走入阳台的我很自然地收紧了睡袍,贪婪地将清新的空气占为己有,面对美景却不敢再向前走上一步。可能是早起后赤脚走上阳台已经是我的习惯了,我并没有捕捉到空气中那一丝海的味道。远处海平面上还看不到太阳,它暂时只用橙色的光芒把世界点亮。看着和海面截然不同的两个颜色的冲撞,清凉的蓝色和甜美的橙黄竟然激起了我的食欲。阳光照射不到的建筑背面是几乎全黑的,无意地成为了它们夹缝间天空和海洋的相框。
  天空越靠近海平面的地方就越被太阳所渲染,最上面还是淡淡的天蓝色,最下面就已经是污浊的赤红色。好动的大海此刻一动不动,平静地像是只为了反射光芒而存在。暴躁的太阳还很温柔,趁着无人可以看到它的慵懒,它只是无精打采地敷衍着天空。云彩,云彩是出乎意料的。由于眼中可以观察的画幅并不大,而其中尚在运动的更是屈指可数,这就让建筑边上的那几片云彩显得分外活泼。它们赶着在人们睡醒之前去到它们该去的位置,哪怕被像我这样的无趣之人看到那手忙脚乱的窘相。
  以天空之高远,为了能看清云彩的我往前走的这两步有点自不量力,阳台围栏的冰冷触感也的确令人冷静。可我还是用力地抓着,因为我想找到沙滩边隐约传来的声音。那像是有人在演讲,有人在附和,有人在训练,有人在喊口号。我不确定是否被建筑挡住了视野,只是我在东张西望的过程中发现随着太阳的逐渐升起,空气中那附着在皮肤之上反复蚕食又锻炼着我意志的寒冷已经逐渐减弱。不知不觉间我已经可以看清酒店花园里的很多细节了,初秋的落叶平均分配在各条小路上,暂时还无人打扫。夏天让人恼怒的鸟叫和蝉鸣也消失不见,在空气留下了真空般的回响。曾经在阳光照射下反射耀眼蓝色光芒的室外泳池由于光照不足,现在看起来分外阴沉又冷淡,幽幽的蓝光等待着一切落入其中的猎物。只是稍微注视了一下,我口鼻和喉咙深处就泛起了消毒液的味道,眼角的余光涌现出只有在水下才能看到的散射光芒。我后退半步,转移了视线。
  对面酒店的几个屋子已经亮起了灯光,我猜测他们一定是因为即将到来的节日早早地退房,马不停蹄地赶往机场。总之一定不会是因为和我一样无聊,每天早起这两个小时就为了早睡带来的社交隔绝。身后酒店房间的门后陆续传来了孩童在地毯上追跑打闹的噪音,而此刻在我隔壁的同事怕是毫不知情。这就是我分外珍惜的独处时光,只想独享的美好时光。
  02102022 眼前的湖泊安静地将肉眼范围内的一切震撼景色都如实倒映在了自己身上。远方的山峰上可以看到被狂风吹起的漫天大雪,云层之上。在靠近我的湖面上同样上演着完全一致的剧情,这一上一下的两座连绵不绝的雪山就像是合体成为了一辆在雪国飞驰的极速列车,而山峰上飞下的雪和山峰同样高的云彩就是火车冒出的浓烟。在雪的吸收噪音和反射阳光的双重特点之下,一辆咆哮着疾行着的白色猛兽就这么张牙舞爪地被刻在了时间上的某一刻度,寂静无声,亘古不变。
  湖面上除了那几座孤单的小岛便空无一物,没有动物甚至没有人类的拙劣造物。被少许云彩点缀的天空此刻还没有静止又深邃的湖水纯粹。小岛上也是千篇一律又精彩卓绝的装饰,它们和自己的略微深色一些的倒影组合成了多样的图案,在无人注视的地方自由地生长。近处岸边那每一颗笔直向上的单调乏味又各有千秋的高大松树也在纹丝不动的湖水上被塑造成为了两面毛糙的刷子,在相对平射的阳光照射之下还染着一丝金黄色的温暖氛围,为视野范围内的严寒留下了一丝缓冲的余地,在冷色系的世界中显得分外珍贵。
  同时也不难想象,当夜幕彻底降临,月光照亮这片宁静的湖泊时的那份静谧。墨绿色的森林将会彻底沦为黑色,清澈的湖水会因为失去大量的光线变成更加深沉的颜色。原本就并非透明的湖水此刻变成了千年的寒冰,不再是无色的介质而变为了深蓝色的固态。从人畜无害的人间仙境完成了变成吞噬生灵的寂静陷阱的蜕变,静静地等候毫无防备的冒失生命。
  刚刚,湖面上的第二个月亮刚刚泛起涟漪。也许是湖水下的精灵,那个不愿被打扰的高傲的精灵。那个拥有修长美腿的精灵,白发蓝眸和数十条纤细手臂的精灵。我享受着寒冷空气从鼻腔直冲大脑带来的冷静,也发现此刻我竟然已经无法动弹。就那么看着月亮的影子被一丝涟漪打破,而那水面下的异物也逐渐逼近我此刻伫立的岸边。
  肉眼可见的一切的植被都是垂直向上,唯独那个红白相间的信号塔是略有倾斜。毫无意外,人类的造物无法与这天地共鸣,这让我难以不和水下的精灵同仇敌忾。享受着后背越发肆无忌惮的寒意和水中逐渐清晰的影子同时向我逼近,我发自内心地露出了释怀的笑容。
  03102022在2044年的今天,我终于在港口成功说服了一个中国的船长,让他允许我登上他的船并用文字记录这在荒废牧场寻宝的一天。
  早在天还一片漆黑的时候我们就已经准备出发了,有经验的水手们都无聊地打着哈欠,整条船上看起来精神状态不错的只有我和船长。船只从码头解绑的那一瞬间令我兴奋不已。我也不由得看向船尾站在船舵之后的船长。他是如今海边很少见的中国人了,这么标准的中国人长相很轻松就可以推测出他和我是同一时期的人。而在那场持续了几年又蔓延了全球的巨大凯旋之后,我们就很少有人还外出从事着这种辛苦又没有丰盛回报的工作了。当然,我很能理解他,如果我没猜错的话,他应该是和我一样固执地热爱自己所热爱的事物的人。
  一旦离开海边,哪怕现在距离码头还不到100米,包括在内的全船人员就都不再回头。我们所有人各司其质地忙碌着,也都偶尔望向那太阳升起的方向。天空中的太阳还不算刺眼,赤红的光芒已经强势地渲染了整片天空。漫天的云彩整齐的像是鳞片,层层叠叠地布满了我们头顶之上的每一个角落。在我们前进的方向上,天空暴露出了唯一的漏洞,而那个大洞内正是此时光芒正劲的红日。被戳破的云洞内照射出的红光铺天盖地地替海面上的每一个海浪和每一滴腾空的海水都注入了一丝金红色。
  其实早在陆地上我就可以看到海岸线附近的海洋中歪七扭八地插着许多人为的巨物,这些茂密又庞大的金属废墟就是这篇海域被称之为荒废牧场的理由。如今,我已经如愿以偿地接近了它们。它们比我想象的还要神奇、雄伟百���。自称文字记录者的我并非出于对于这段历史的兴趣才出现在这里,尽管此刻铁锈和海风铺面而来,而不知道是不是海浪的拍打,我内心深处一直有一面战鼓在神奇地和什么频率开始共鸣。这区区的冰山一角就已经让我对那场旷日持久的大战到底有多惨烈产生了不可抑制地猜想,同时也感叹着船长居然能在如此危险的地方靠着风能驱动的船就出入自由。我拙劣地在船两侧看着会不会有碰撞发生,偶尔还多余地出声提醒,索性无事发生,代价不过是船员们对我的鄙视逐渐加重。
  战役过后人类的科技倒退了不止百年,我拿着纸笔记录着船员靠力气驱动船只,船长靠肉眼和记忆操控全局。感受着太阳逐渐加大着力度却越发寒冷的天气,我开始观察起这密密麻麻又连绵不绝的钢铁丛林。
  介于某种很浅显的化学知识,大量金属插入海床导致很多海洋生物的急速繁衍。这同样也可以解释放眼望去的破败巨兽上栖息了无数白色的海鸟,它们毫无节制地捕食着泛滥的鱼虾。时刻都有它们集体收紧翅膀一头扎入海中的身影,那连绵不绝的场景无时不刻地周围重复上演,是这片牧场里特有的小型白色雨。我将这前半生都没听说过的奇妙景象颤颤巍巍地写在小本子上,将本子和笔都塞回风衣的口袋里,正了正帽子站了起来。看着周围这些当年令敌人闻风丧胆的战争机器在死后竟然成为了海鸟的天堂而唏嘘不已。
  04102022很快,我们就在海鸟伴随着海浪冲击废墟的声音下不停地向着海下发起冲锋的见证下逐渐走出了钢铁的参天芦苇丛。(很快,随着海浪冲击废墟的声音下,我们见证着海鸟不停地向着海下发起冲锋,我们逐渐走出了钢铁的参天芦苇丛。)密集的机械残骸几乎消失不见,眼前的视野瞬间开阔了不少。耳朵中的海鸟鸣叫弱不可闻,而失去了其他目标的海浪也只好拿我们泄愤。刚才还叼着烟圈的船长和忙里偷闲时一样会东张西望的水手们在此刻都明显紧张了起来,在随时有可能碰撞或搁浅的废墟中穿行并没有让他们像现在一样紧绷。
  答案其实每个人都知道,由于多年前的那场大战,不光是地球的环境发生了变化,同时改变了的还有很多我们当时很熟悉现在却急速演化成了陌生模样的生物。纵然荒废牧场前段的复杂地形让很多技术和勇气都不达标的船长望而却步,但是在很多海边生活的人看来其实那些碍事的障碍才是保护了岸边人类的主要防线。现如今还没有任何确凿的证据表明海洋里的确出现了对人类杀伤力极大的海怪,但是时不时就会突然消失的船只的确让海边生活的每一个人头顶上都出现了阴霾。而我,可能是整艘船唯一一个期待那神秘的海怪真正出现的人了。科技的突然倒退让很多我们这个时代的人难以适应,我从没有哪怕一秒怀念过当时那个信息过载、蠢材横出的时代。在现在这个后现代复古时期的我们处在第二次蒸汽时代左右,学校里的孩子们听着之前的航天航空知识仿佛像是在听神话故事。而这就是我这种人可以名流青史的绝好时机,我靠着纸笔的力量记录并复原着大灾变后的一切。在我垂暮之前的最后一块拼图便是眼前海洋中可能存在的全新生物,想到这里我不再畏惧摇晃的船只和刺眼的阳光,我扶着栏杆站了起来,开始眺望我们驶向的前方。我猜我猜到了我身后的船长猜到了我的心理变化,他一定看到了我反常的兴奋,即便刚才的一切心理变化都只在我脑海中进行。他此刻可能已经把目光从我的背影上抽离,望向了更重要的海洋。
  我的雄心壮志没有改变我的体魄,原生内陆地区的身份还是在大海上不堪一击。我的肉体和我的意志很快就像是天气一样变得阴云密布、急转直下。此刻哪怕是在海上一无所知的我也能从风中听到不详,从天空中看到愤怒,从海的颜色中察觉到压抑,从海的形状中体会到危险。都说海上的风暴发生的很快,我一直都认为因为在无处躲藏的海洋上,水手们对于风暴的恐惧导致出现的认知偏差。没想到就在经验丰富的观察员喊出风暴来袭的前一秒,我就已经被扑面而来的大雨险些击倒。我只觉得眼前的海浪表面以极快的速度从远到近沸腾了一下,我们就被风和浪还有不能称之为雨水的水流同时打中。我立刻按住了胸前的小册子,在从干燥到湿润瞬间切换的甲板上小心翼翼地向着船的中心歪歪扭扭地前进着。我身边的水手同样在横着袭来的大雨中急忙地搬运着什么或者呼喊又回答着什么指令,但是他们明显在海浪中的姿态要比我优雅许多。戴上兜帽的我笑着想到自己小时候玩蹦床的时候会有大人闯入我们的领地,而这时所有的孩子都会拼命地围攻这个大人,想必我如今的狼狈姿态就像是被大海这群大人恶意驱赶的小孩子吧。在暴风的肆虐下,我们早早地收起了风帆,而就是船下涌动的海浪也一样屡屡让我们所有人上下翻飞。听着木质结构的船在呼啸的狂风中依旧刺耳又令人牙酸的声音,我感受到了我那个时代的人少有感触的大自然的怒火。
  05102022 陈旧酒吧里,两人身份和地位都不应该出现这里的人对面而坐。年长的中年男子没有脱下大衣的意思,他拿起手中的酒杯,轻轻喝了一口便放回了木质并轻微开裂的桌子上。他对面稍显年轻的男人则继续吹着手中的那杯拿铁,头都不抬。两人就这么坐在老酒吧的最阴暗、最偏僻的位置上一言不发。
  你上次说,你的夫人不见了?现在找到了吗?年轻人毫无征兆地将咖啡从嘴边移走,看着中年人的眼睛说道。
  并没有,警察还没有找到她。啊,可怜的孩子,快快回到我的身边吧。中年男子更加低迷地蜷缩了一些,他痛苦的面部就像是想要和桌面接触一样。
  是啊,亲爱的女士,不光警察找不到她,就连她的爱人也对她的下落毫不知情,真是可怜。咖啡被他喝了一口,话题也被他推进了一下。
  我又有什么办法呢,她总是夜不归宿,谁知道这次竟然四天夜里都没有回来。我实在害怕,才去报了警。中年对于已经发生的惨剧显然还不能接受,他把额头放在自己喝过的酒杯上,即疲惫又无力。
  警察就没有怀疑过你吗?我亲爱的大人,他们就没有想过是你把人藏起来的吗?年轻人终于说出了他压抑了很久的话语,说完这话他的嘴角都还在抽动。
  什么?你在说什么呀?中年人一脸不可置信的表情抬头看向了伸进灯光中的年轻人的愤怒的脸。
  我说你,亲手害了你的夫人,她一定是发现了你的情妇或者你的腐败。总之,你把她藏起来了,要不然就是你直接把她杀了!你这个凶手!年轻人坐直了身子,努力控制着自己的音量和音调。他手紧紧地抓住了椅子的扶手,看起来像是在预防自己的挣扎。
  我怎么会杀了她?我每天都在祈祷她的平安归来,你是不是病了?我是不是应该给你点上一碗热汤,服务员!中年人不再那么拘谨了,他开始扭头呼唤并不存在的服务员。
  你还不承认吗?你这个懦夫,我分明听你在梦里说过了!没想到吧,大人,有一天夜里你喝了太多啤酒,在梦里我听到你的忏悔了。年轻人越说越激动,他的头已经来到了桌子的正上方。要不是此刻他手腕上的手铐还连着他几乎没有坐上的椅子,他都快要爬上桌子了。
  也就是说,你没有证据?亲爱的先生,梦话可不能当作证据呀。中年人慢慢从椅子上下滑了一点,他逐渐离开桌子前面的光源,进入黑暗中。虽然如此还是能看到他的表情已经放松了很多,在其中还有一丝得意。
  06102022 2018年秋季,从泰特现代走入了细雨。你我都戴上了卫衣的兜帽,沿着泰晤士不紧不慢地向着绝不是最近的一个地铁站行进。刚才在馆内看到的展览普遍来头很大,其中有几个甚至连我都险些叫出名字。礼品店内的货物价格并不算离谱却依然让我望而却步,买了两杯价格正常的咖啡,它俩都没能活着走出大门。步行的过程自然是轻松写意的,比泰晤士还要美好的只有雨中的泰晤士。她从刚才有着些许聒噪,在我耳边不停地灌注着现代艺术的碎片化知识,而我自然更加虚伪地附和又在不理解的领域大放厥词。身边卖艺的人在雨中变得比以往更加卖力,简直像是癫狂。低矮又莫名其妙的桥洞下充满着我更能欣赏又不想承认的涂鸦,同时上下翻飞又时不时摔倒在地的滑板少年让我们两个人都加快了走路的速度。从彼此的脚步声中,从刚才不小心断开了一秒钟的谈话中我们都感受到了对方的老化。桥下,我借口抽烟,实际上是发现卫衣上的水珠已经快要彼此触碰。我回头看着靠在桥墩上又藏在兜帽里的她,第无数次感叹着她的容颜。将香烟吊在嘴里,我蹲下去替她系上一只脚的鞋带,抬头望去,她面无表情。我站起后用我的胸膛将她的压在了柱子上,远处的滑板少年们欢呼了一下,不知道是不是因为庆祝我们这两个老人的爱情。她吐出了一口香烟后,平静地用躲在我左肩后的嘴巴说着刚才是我第一次替她系上鞋带。随后又带着笑意地问我,这个动作你想了多久。我恶狠狠地回应,就凭你这个邋遢样子,大概从第一天起每天三次。
  随后,我们继续隔着彼此卫衣的袖子牵手一路走到了地铁口。伦敦的美,说起来很好唤回,随便几个地铁站的名字就可以闻到雨水。我们站在地铁站的屋檐下抽着烟,想要鼓起勇气走入地下。我眼中并不聚焦,看着屋檐下不断滴落的雨水有了一个不算明显的间隔。将口中家乡的香烟和空气中永远潮湿的空气一齐吸入肺中,没有回头就抓起她的手又走回了雨中。在下落越发缓慢的雨中,我带着她撞开了数不清的雨滴,我没有解释,她也没提出疑问。
  在一家贺卡店的门口,我把她塞进店家的伞下。从店家推门而出的时候,我向她展示了我买的一盒铅笔,怕被她偷走一样地又塞回了胸前。我向她保证,我将画出那匹黑色的白马,那一瞬间我的眼神一定比她的还亮。卫衣帽子下她嘴角的弧度从未消失,那匹马没有出现,那笑容我也画不出来。
  5年后的今天,画画早就已经不是我最痛苦的爱好,但那个被拉入雨中还会反过来抓紧我的人却和吸烟这个恶习一样变成了记忆。回民宿的路上,伦敦的那一班地铁没有空调。你我各自看着自己的书,偶尔的对话就和当时空气中一定存在的不快气味一样模糊。
  07102022 住在村东头的熊二婶就是这样的一个人,她对人严格的同时又总是怕伤害到他人的感情。偏偏她自己又停不下来那张咄咄逼人的嘴。家中排名老二的她其实家境十分优越,自己男人又长时间在外打工,每两年的圣诞节才回一次家,她就变着法子地打扮自己和自己的居所。所幸,她是个有品位也舍得花钱的女人。
村里人早就发现,不论有个什么节日或喜事发生,又或者只是天气的好坏,过几天就一定会有装修的队伍开始进出她的屋子。我们全村的人都亲眼见证了她屋子的内外的变化和装修队老头买了新车的事实,她屋子的变化比起海边天气还要多变。
  二婶她是个高挑又丰满的女人,她精心打点过的短发总是让人想起在城市中生活的那些模特。而她精心购置的各式外衣也同样在村庄内引人注目。她偏爱大面积的单色,这也就是为什么她的房子里总是被各种色彩切割开了。全村人都知道的那座海边的蓝房子属于她,而推开房门后又能看到棕色的墙纸贴满了屋子,每个人房间的地板颜色也从不相同,这一人让很多人都不能接受,其中不包括我。我喜欢她那红色又印有植物图案的客厅和米黄色上带着裂纹的厨房,至于那神秘的卧室,我虽然没有见过,但是也能猜到会是一样的色彩缤纷,绝不单调。而最让我敬佩的就是她家的装潢并非一成不变。她对待我们这些邻居的直言不讳,换在自己屋子上更是雷厉风行。
我已经忘记了这是第几次看到一卡车的工人在一大早就停留在她的门前了,她一如既往地在门口欢迎着她熟悉得不能再熟悉的工人们。工人自然也对她十分有礼貌,毕竟她一个人可能就养活方圆数十公里的装修工。在工人们完成了每次的工作后,她还会给他们端上果汁。每每这个时候,我们几个和二婶关系不错的邻居就猜到接下来一定会到来的聚会邀请。每一次,待她将房子收拾整齐,她就会挨家挨户地邀请我们一齐去她新装修好的房子里聚会。我是不是忘记说二婶本身也是个绝佳的厨师了?她家的聚会一直都保持着非常高的水准,不论是菜肴的丰盛水准还是美味程度都在我们村庄首屈一指。奇怪的是,每次她都是笑着看我们吃,而自己很少享受她自己烹饪的美食。起初,大家以为她是已经自己在家享受够了。直到有一次,一个邻居突然在她家门摔倒,被她扶进了自己家中。那个人无意间看到了二婶十分简单,甚至可以称得上是对付的晚餐。
也就是从那一天起,我们才意识到,心直口快的二婶其实并不是像她表现出来的那样热衷炫耀又奢侈。她只是尽力地想办法排解着自己的寂寞和孤单。就像是我小时候看到的那样,她在别人停止高谈阔论后,从不吹嘘自己华丽又精致的装潢,只是会经常趴在客厅的窗前,看着海边的景色,一言不发。
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hakutashin · 7 years
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bornanit · 2 years
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知乎回答:我对中国的未来很悲观
弱小和无知不是生存的障碍,傲慢才是。
世界我不太了解,我就只说说中国。
我对中国的未来很悲观。
一个国家的年轻人群体,代表了国家未来的竞争力。
有竞争力的年轻人群体应该是:睿智的、理性的、谦卑的、坚韧的、实干的、冒险的、创新的。
100年前,中国濒临灭亡,但因为有一批这样的年轻人,所以中国不会亡。
40年轻,中国一穷二白,但因为有一批这样的年轻人,所以中国会进步。
但今天,一部分的年轻人却变成了这个样子:
他们可以轻易因为“观点不同”而去给其他人扣上“公知”、“50w”、“1450”的���子,并且因此成为自己不用学习的理由——“知识越多越反动嘛”。
他们可以堂而皇之支持主权国家对另一个主权国家的侵略——你要是敢说一句反战(我只是不喜欢战争,我可没说支持美国,美国的侵略战争我照样反),直接就被打成“卖国贼”。
他们否定了“自由”和“民主”的意义——但他们却很喜欢看《觉醒年代》?——他们一边自己否定了五四时期前辈们用生命争取的“德先生”,一边大肆赞扬那时候的革命青年——简直就是巨大的精神分裂。
他们都有着深深的民族自负感,满脑子的比烂思维——中国就算这儿不够好,但外国就更好么?你美爹岂不是干得更糟糕?
他们觉得自己民族天下第一:美国要崩溃了,印度太垃圾了,日本韩国法国英国那都不算东西——虽然天天在互联网上这么骂其他国家——可真要买买买的时候,还是不自觉地买了“洋货”。
他们否定了“批评”的作用,剥夺了他人乃至自己对zf、政策批评的权力(稍微批评几句,就会被打成50w和恨国党)——可他们不知道,共和国与专制国家最大的不同,就是共和国允许人们批评(并且有不被秋后算账的权力),他们不知道,国家的进步,离不开批评——批评是进步的根源。
他们的思维非黑即白,二十多岁的人了,看世界还是二极管——其实这个世界根本没有绝对的好人和坏人,也没有好的国家和坏的国家,一切友好或不友好的关系都是为了利益,一切都是你看到的背后,都i是深层次的争斗。
还有一部分人,满脑子的男女对立,走极端,要么是大男子主义,要么是极端田园女权,互相挑拨,撕裂社会。
他们中还有一部分人,老想着回到四十多年前,以为那动荡的十年是天堂,以为那时候没有996没有剥削大家都很快乐——你大可以问问你的爷爷奶奶,那时候是什么样子的。
他们中还有一部分人,陷入宏大叙事不可自拔,而失去了对个体遭遇的最基本的怜悯和同情。
他们躺平了,不想工作,不想创新,老想着阶级已经固化,老想着有个青天大老爷给自己赏点吃的。他们喜欢看修仙爽文,幻想自己就是那个牛逼哄哄的天选之子,干死那些有钱人,自己当上有钱人。
这样的年轻人越来越多,我们的国家的未来前途,就会越来越渺茫。
下班发现这个回答赞同人数暴涨啊,失望的心稍微平和了一些。。。看了评论和私信,有赞同的也有批评的。赞同我的我表示感谢。批评我的,如果是有理有据的批评,我表示很喜欢很佩服,我们观点不同,但我誓死捍卫你表达观点的权力。但如果上来就是扣帽子或者问候我祖宗的,那我也只能问候你祖宗了。
回答几个有意思的问题:
1、你这个新注册的小号,第一个回答就带节奏,还这么多赞,是不是受过训练的1450?
答:哈哈哈,我不知道你是夸我还是骂我。我玩知乎八年了,有一个11万粉丝的大号,但那个号我只用来回答和商业、科技、影视相关的内容,不写政治相关(不想告诉你们那个号是啥)。所以我明白知乎的写作方法。就这么简单。
顺便说一句,我现实中自己是某创业公司的COO、合伙人。我个人年收入一百万左右,一分钱税没少交,二十几万吧。我的理想就是打造真正属于中国的高品质的消费品牌,干死那些欧美品牌。也能帮zf解决一些小小的就业问题,为中国的经济做一些微弱的贡献。同时,我还是杭州蓝天救援队成员,灭过火,救过人——也正是这段经历,让我抛弃了宏观叙述思维,开始关心每一个个体。
你们有谁要和我扯我不爱国:我先问问你,你自己交了多少税?帮助了多少人?你为了国家做了什么?除了给自己同胞扣帽子、刷来电了、ww、1450、恨国党,你还做了什么?
2、美狗你好,你美国爸爸轰炸南联盟、侵略阿富汗、伊拉克的时候,你干嘛去了?
答:美国轰炸我国驻南联盟大使馆时候,我应该小学,那时候群情激愤,我们学校组织了上街反美游行,那也是我参加的第一次反美游行(虽然那时候我什么都不懂,只惦记着小霸王游戏),不知道你们参加过么?美国入侵阿富汗,是走的联合国渠道,中俄都是弃权票,不需要反对。至于美国入侵伊拉克,首先我不觉得萨达姆是啥好东西,但我也坚决反对美国绕开联合国的军事行为。但那时候是2003,我一个初中小屁孩,也没互联网,你让我怎么反美?
3、十多年前公知遍地,那时候乌烟瘴气,现在只是矫枉过正,毛主席说了:矫枉必须过正。
答:我有幸经历过那段时期。我觉得你说的对,那段时期确实公知泛滥。公知泛滥的2005年开始,中国的gdp增速连续突破10%;公知泛滥的2004年,中国取消农业税;公知泛滥��2008年中国抵抗住了南方暴雪和汶川地震;公知泛滥的2008年中国举办了奥运会,那时候中国的国际关系前所未有的好;公知泛滥的2010年,中国举办了世博会,同年,中国经济总量超过日本成为第二;公知泛滥的2009,中国留学生回国人数历年最高。你看,这就是公知们做乱的结果。
无论是国家、企业还是个人,都是需要批评和监督的。批评,是事物进步的最大动力之一。当年除了极少部分的所谓公知真的想推翻zf外(基本都被关进去或者流亡海外了),绝大部分的公知不就是批评下公权力的不合理,表达了下对国外“好的地方”的期待而已。
当年,公知们关注孙志刚,促使政府废除收容制度。公知们专注黑煤窑,促使zf出台政策保障工人权益。公知们关注“躲猫猫”,让审讯制度开始改革。公知们关注厦门px事件,让zf开始关注环境与经济的关系。你看看,这就是大部分公知们干的坏事!而如今呢?闭嘴就完了!
ps:要读毛选就好好读,从第一篇湖南考察开始,别听别人扯了几句就以为自己读过毛选了。也别把毛选当成唯一的真理。人文社领域不存在真理。
4、你说的这些其他的国家年轻人就没有么?怎么只说我们啊?!
答:别的国家的年轻人看知乎么?我在这儿说别的国家的人干啥?有病啊?
你们听说过clubhouse么。去年还是前年最火那会,clubhouse上有无数个反华聊天室你们知道么?我绝对反对那上面的极端反华言论,我当时单枪匹怕和他们辩论,呵呵,一个“粉红”加入帮我的都没有,真的是孤立无援——都是窝里横罢了。你们真爱国,为啥不去twitter、ins、youtube等等去和那些反华言论当面对线?二只敢窝里横呢?
5、你就是屁股歪了,看了你的答案,我反而觉得我觉得我们这代人充满希望!100年前反对的就是你这样的人!
答:对,当年的日本,德国、意大利的青年人也是这么想的。
“操控民族主义的人,往往没有好下场,因为他们自己也会被民族主义的狂热反噬。”
话说我是怎么样的人?迂腐自大的慈禧?倒行逆施的独裁者袁世凯?出让国家利益卖国求荣的汪精卫?还是谁呢?你要反谁呢?
6、我已经举报你了,50w没跑了。
答:欢迎举报,但举报需要证据的哦。如果没有证据胡编一通,我可以告你造谣和侮辱名誉罪。
7、你说的只是一部分人,主要就是集中在社交媒体上,在现实中很多人不是这样的。
答:这个我赞同。至少在我现实的圈子里,大部分人没有什么极端的政治观点,都为了自己的生活和梦想而努力工作。
我赞同这样的观点,也羡慕这样的生活,也因此我或许认为自己是过度悲观了。
我们想让中国变得更好,那就去好好学习(包括学习各国的优势),好好工作,我们造芯片、造飞机、造操作系统、造3A游戏、拍出影响全世界的电影、建设全世界最安全和幸福指数最高的城市、做出世界级的品牌,做出世界级的企业,强势向世界输出中国的文化,让西方打心眼里崇拜我们,这才是我们这代年轻人的使命。
而不是对自己人扣帽子、搞zz运动、认为外国都是傻逼,就自己最聪明。。。
8、有人问什么是辩证思考,我举个初中时候学的马哲例子:
事物的发展,有内因和外因,内因是第一推动力,外因是第二推动力。
当遇到一些问题或事件的时候,二极管就会把问题或事件的原因单一归为外因或内因(一切都是美国的错,或一切都是zf的错)。
而辩证思维就是,实事求是,就事论事,根据此事物本身的原因,客观分析内因和外因——不同事件,内因外因的比例绝对是不一样的。
9、把俄乌冲突简单归纳为主权入侵,才是典型的二极管思维吧?当代青年思想更加成熟,不好忽悠了倒是真的。他们正是因为接收了残酷的应试教育和选拔制度的洗礼,才不再过于单纯和理想化。
答;· 入侵就是入侵,这是事实。比如杀人就是杀人,纵使你有万般理由,你可以说自己是被逼无奈。但你一但杀人,那也是应该判刑,毫无辩驳可言。可很多支持俄的人,连这一点都没有承认。
· 有人说了正当防卫的概念。我也是呵呵了。正当防卫是指a对b侵犯的时候(ing),b的反抗权可以无限大。请问乌克兰入侵俄罗斯了么?俄罗斯怎么就正当防卫了?当年日本入侵中国,中国人的抗战那才是正当防卫!
· 政治争论没有真理,都是观点,俄乌冲突背后有很深的原因,我不是专业的所以不能乱说,但是我只看到了“入侵”的现状,所以我反对入侵,因为我爱好和平,但并不意味着我支持美国。所以我支持官方的说法:反对侵略,也支持俄罗斯维护自己的权益。
· 所以,我反对俄罗斯的侵略,理解俄罗斯的处境,反对北约的东扩,有问题么?你要是问我那该怎么办?这是政治家的工作。作为p民,我只表达我朴素的和平观。
· 残酷的应试教育让人头脑更灵活更成熟,这种逻辑你自己信么?
10、你说别人扣帽子,自己不也是扣帽子?
答:我通篇答案没有给对方扣任何一个帽子,而只是在描述某几个群体的行为罢了。什么叫扣帽子?不分青红皂白,就用一个带有贬低性的词语,去概括某个群体或者某个人,以此彻底否定对方,这叫做扣帽子。
11、说了半天,你就是美狗,你就是1450!
答:我参加过反美游行,你有么?我能在外网和真正的ww对线,你行么?我能在生意场上和欧美公司竞争,给国家多纳税,你行么?到底谁是美狗?谁是1450?
如果只是说几句美国好话、表示下对欧美发达之处的羡慕、质疑一下当下zf的政策、关心下公共事件就是美狗、1450的——那我就是罢了。
12、不再更新,最后还是说一句大刘的话吧:
弱小和无知不是生存的障碍,傲慢才是。
(作为一个爱国者,我多希望西方可以一直傲慢下去,因为傲慢会导致灭亡。所以这句话我就不献给西方年轻人了。但因为我热爱祖国,所以我希望能把这句话献给中国的年轻人——保持谦卑,不要傲慢,不要比烂。) 链接
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huuhhygfgh · 4 years
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军妓方芸
   第一章??惨无妓道的特训   「分开腿,我要进来了。」   方芸下意识地分开双腿,迎接一根新的阴茎进入到自己的身体里。
  这已经是不知道第几个人了。   她也不知道自己在这张简单的钢床上躺了多久,似乎没有终结一样,不停地有男人进入到她的身体里,快速的耸动,然后把一滩精液射入到她的阴道里。   如此不停的循环,她的下身都已经麻木了,但头脑却还清醒得很。   粗壮的阴茎快速的在她的身体里进出着,每一次都直捣黄龙,她微微的发出「嗯嗯」   的娇吟,不是她没有快感,而是持续的高潮已经让他的身体早已经处于崩坏的境地。   这些在她身上轮番进出的小伙子们都是二十岁才出头的水兵,在整整一周的训练之后才能有这么一天集中地享受军妓服务的机会,自然每个人都是格外用力,甚至还有意犹未尽的,出去了之后又站到队伍的末尾要再来一发。   军妓,或者更正式的称呼叫做随军性服务者,是保障士气和战斗力的重要手段,也是一项非常重要的军用物资。   没错,物资,根据《国际战争法》,随军军妓不应当被视为战斗人员,除非其参与战斗。   被敌对方俘获的随军军妓应当为对方提供性服务,俘获方则可以根据本国的作战习惯及战争法规处置敌军随军军妓。   在国际市场上,随军军妓也是一些国家出口创汇的重要手段而在BB控制下的C国,成为一名军妓是非常光荣的事情,整个C国的国防军大概有400万人,其中包括了接近50万人的军妓。   这五十万名军妓,都是年纪处于20到28岁之间的年轻女子,每一个都是通过了非常严格的体检才能入选。   曾经有人戏称,应选军妓的标准超过了挑选飞行员的标准,这虽然是一句玩笑,但是每个军妓的身体素质都非常棒这是不争的事实。   因为曾经就发生过因为招选的时候人情放水只看容貌不看素质,导致军妓刚刚分配到连队就被身强力壮的大兵们活活奸淫致死的桉例。   所以,现在的每一个军妓都是美貌与体质并重,可上高原劳军,可下潜艇出征的全能选手。   方芸从舞艺附中毕业之后,就应选了当年的军妓,并顺利地被录用,签订了一份为期七年的服务合同。   签订合同之后,方芸被送到本市的一家军妓培训所接受了三个月的培训,培训结束之后便被分到了这个连队。   尽管从人数的比例上,差不多十个人就可以分配到一名军妓,但是在现实中,往往一个连队才能够有一名军妓,多的军妓哪儿去了?都在将军的别墅里呢。   这并不是什么潜规则,而是明文规定的级别待遇,到了营长这个级别就可以享受自己的一名专职军妓,团长两名,旅长五名,师长十名,军长,乃至于更高的集团军司令、军区司令,那就已经不是几名的待遇,而是所有的军妓都可以供他随意选的待遇了。   而她在这个连队,前一名军妓离职已经三个月了,连长跑到团部去发狠话说今天弄不到一个军妓就不回连队了,所以,方芸就这样稀里煳涂的来到了这一群饥渴难耐的大汉中间。   第一个晚上,她就被这一百二十多名大汉轮奸了整整一夜,接下来的三天,每天她都机械的分开双腿,让男人在她那肿胀不堪的阴道里射精。   休息了一周之后——军医那里有治疗性交创伤的特效药,只要一个疗程,阴道就会恢复到健康的状态。   她开始按班来接待这些可爱的大兵们。   他们只是太饥渴了而已!这些大兵们其实很善良,也尽力体贴她。   虽然动作有时候不免粗暴,但却并不会故意伤害她。   他们通常是在入夜之后,以一个班为单位整体而来。   一个班有九个人,这就意味着她一晚上要应对九条粗壮的阴茎。   而一个连队有六个排,每个排有四个班,再加上连部的成员,差不多一个班一个月只能轮到一次上她这里来,因此方芸并不会抱怨他们在她这里赖着不走或者是来了一发又一发。   不过今天的状况有些特殊,大兵们要出海参加演习了,一来一回估计要一个多月。   连长一合计,决定今天让大家伙儿都乐呵一下,全员都上,尽情放松,然后心情愉快精神饱满的去参加演习。   这结果就是方芸已经叉开腿被他们上了一天一夜,似乎还是看不到头。   她感觉自己腰以下似乎都已经完全失去了知觉一样,第一个人上来干她的时候,她那修长有力的双腿还能环绕在他的腰上,前五个上来的时候她还能甜美的呻吟,第十个来的时候正好能欣赏到她在延绵不绝的高潮下面色潮红,胸乳颤动的媚态,第二十个来的时候正好她阴道湿滑,媚眼如丝,两片大阴唇完整的张开,小阴唇也绽放如同花瓣一样,阴蒂高高的竖了起来,乳头挺立的笔直,白色的乳汁源源不断的从她饱满的乳房中分泌出来。   每一根阴茎进去的时候都顺滑无比,而方芸那被称为宝瓶鱼口的神器又把他们射在她身体里的精液牢牢地留在体内,说不定等到他们回来的时候,就可以看到一个小腹微微隆起的军妓方芸了呢。   正当她被人干的失神的时候,一双大手将她翻了个个儿,阴茎从她的屁股捅了进来:「辛苦你了。」   似乎是连长的声音,但是她都已经没有力气回应了,只能虚弱的哼哼两三声。   「我们走了,你可以好好休息一阵子。等我们回来,大家再……」连长一边在她的屁股里耸动着,一边安排着下一步的方针,方芸已经懒得去想那么多了,一个多月后的事情,反正不会被干死,只是辛苦一点而已啊。   连长在她的屁股里来了一发之后就让军医把她送到休息室里去。   她的双腿已经合不拢了,大腿根处的韧带似乎都断掉了一样的酸痛。   军医拿来一个尖嘴的软皮管子插进她的阴道里,一直往里面捅,一直捅到花心里面,方芸都疼得叫出来了,军医还在往里面捅,方芸疼的眼泪都快要留下来了,尖嘴终于捅穿了子宫颈,进入到她那被精液灌满了的子宫之中。   军医将软管的另一端接上一台机器,按下一个电钮,尖嘴中喷出了酸性的气泡液体,这些东西对于游荡在她体内的精子们而言是恐怖的天敌,而气泡却又是无孔不入的,不仅迅速的灌满了子宫内的空间,更进入到输卵管内,也有的倒流出到阴道内,方芸看到自己的阴道中似乎长出来了一根长长的触手一样,而无数如同啤酒倾倒出来的泡沫正从阴道中蜂拥而出,就好像是一瓶刚刚打开的香槟酒一样。   「你休息一下,很快就会好起来的。」   军医对于她身上的创伤已经见怪不怪了,只需要在疮口上涂抹些纳米机器人药膏明天就会洁白无瑕丝毫不留疤痕。   他给她带上氧气面罩之后,将她送入到生化医疗舱之中去,无数个触手开始在她身上忙碌了起来,很快方芸就感觉到疲惫从四面八方袭来,不知不觉的便陷入了香甜的梦乡之中。   那些富有灵性的自律机械触手有的变身为吸盘紧紧地包裹住她胸前的那一对丰满的吊钟乳瓜,这一对宝贝可是她最珍视的珍宝,但在军营之中,最美的乳房也是被那些在训练场上累了一整天的大汉们使劲搓揉的命运。   作为一名军妓,她每周都要按要求给自己注射催乳药水,所以她的奶水从来都没有停过,而且丰沛的量连她自己都感到吃惊。   好在军营之中吃饭不要钱伙食也还不错,不然她都会担心自己的营养能否跟得上。   比起那些总把女人的乳房当成皮球来揉的大汉们,这些自律机械们对她可要温柔的多,就连夹住了她的乳头的吸嘴都有节奏的一吮一吸,将源源不断的乳白色乳汁吸出她的乳房。   另一些自律机械则温柔的为她擦拭着身上的伤痕,两个触手分开了她的阴唇,开始涂抹清凉化瘀的药膏——长时间的性交,让她的阴唇都肿胀不堪,如果淤血不清除掉,会有很大的几率变成所谓的黑木耳,经过自律机械的处理之后,她那被一百多根肉棍轮番进出过的外阴,依然还像她十六岁时候一样美丽。   另有一根细细长长的自律机械,将它的触手伸进了方芸的肛门之中,菊花被侵犯的感觉让她在睡梦中也不免嘀咕了两声,但却并没有醒过来。   更多的自律机械缠绕了过来,他们绕着她的玉足,将她的每一根玉趾都细细地按摩,当她第二天醒来的时候,就会感觉到自己已经完全满血满魔了。   方芸将那根还插在自己阴道里的管子拔出来之后,双股间「噗」的一声流满了不知名的液体,还有些热乎乎的,她赶紧去冲了一个热水澡,在热气腾腾的水雾中,她仔细的检查了一遍自己的身体,依然是那么性感。   修长洁白的大腿,纤细苗条的腰肢,还有丰满若吊钟的乳瓜,怎么看都是媚倒众生的绝世尤物。   洗过澡之后她一丝不挂的从医务室走回了自己的宿舍:平时她也是这样的,因为在这群男人中间根本没有穿衣服的必要,只会浪费时间。   她是他们全连共有的一个精致的性玩具,要随时随地的接受他们与自己交媾的要求。   而且,全连也只有她一个女人,根本不会为她单独去修一个什么女卫生间或者女浴室。   她如果需要方便或者洗澡,都是和那些大兵们溷在一起。   有时候洗一个澡都要花上好几个小时,当然不是因为她洗的太干净,而是那些大兵们总是在她洗到一半的时候过来要干她一炮……宿舍,也是她平时工作的地方。   由于大兵们白天要在训练场上挥汗如雨顾不上到她这里来,所以她大部分的白天可以美美的睡一觉,等到吃过了晚饭,再施施然的回到房间里,拉上窗帘,涂点儿口红,抹点儿胭脂,把两颗嫩红的小乳头也装饰一下,再给阴道里抹一点儿香油,剩下来的事情就只要躺在床上,分开双腿就好了。   大汉们都是直来直去的,没有功夫玩太多花样,方芸已经习惯他们那粗壮的阴茎没有任何的前戏就送进自己的阴道里然后开始勐烈的抽插,大兵们喜欢一送到底,每一次抽插都要全根而入,几乎每一枪都能插到她的花心中,爽起来是特别爽,但是每次他们走了之后,小肚子都会疼许久。   而且,每一天都是一次轮奸。   他们会轮番在她的阴道里抽插,在她的后庭中冲刺,还要她用小嘴和双手为他们的服务,而她的那一对丰满的奶子,更是不知道要被反复揉弄多少次。   如果这些大兵们有谁生病了,或者思乡了,或者在训练场上受伤了等等状况,司务长就会让她白天也去为那个小伙子特别服务一下。   那时候,方芸才会认真的打扮打扮自己,有时候去看完病号她会穿上粉红色的护士服,遇上思念妈妈的小子她会把自己的乳头塞到他的嘴里让他一边流泪一边吮吸,要是有哪个英雄在训练场上表现的特别出众,那他可走运了,因为方芸会专门为他跳一支大腿上的脱衣舞。   方芸的脱衣舞跳得很好,得益于她过去在舞艺附中的学习,即便是在全团的所有军妓中,也没有比她跳得更好的了。   甚至于有一次团长下连队来检查,专门就点了方芸的脱衣舞,还想用他自己的一个专属军妓来和连长换,但连长却坚决不同意:战士们也绝不会同意把这样的一位顶尖的尤物交出去,哪怕是和团长换也不行。   现在连队里人都走光了,方芸一个人在宿舍里,找出一件军装短裙来换上,又拿出一对乳铃分别夹在两颗乳头上——不这样做的话,她的乳头会源源不断的流出乳汁,用夹子夹住,虽然会涨奶涨的难受,但是却不会把衣服弄脏。   然后带上一件半罩型的乳托拖住她那丰满的吊瓜乳房,再披上一件衬衫,描个眉抹点儿粉,施施然的这才上了路。   战士们都出去演习了,一来一回的要一个多月,这时间她可不能闲着。   早在战士们接到演习通告的时候,她也接到了师部军妓管理处的通知,要对她们全体军妓集中培训一个月,以便更好地为全军战士服务。   不过话是这么说,其实方芸知道,所谓的集中培训无非两件事:女孩子们集中在一起嘻嘻哈哈玩闹一段时间,然后搞一个选美比赛从中选一些领导满意的进入专为首长服务的后宫成为美宠。   成为美宠,工作量可比现在要小许多了。   毕竟首长们的人数在那儿摆着,但方芸却不喜欢。   因为在连队里虽然辛苦还要耐操,但是却是战士们哄着她,顺着她,让她有一种自己是女王,这一百多条大汉全都是自己男宠的美好幻想。   但要是去了「后宫」,那就是伺候人了,说不定还要和别的女孩子宫斗,那可就太没趣了!搭了通勤车到了师部,先去军妓管理处报个到,领了房卡和饭卡,然后就去住宿楼,在楼门口还领了一份活动通知,草草的扫了一眼,与往年的活动并没有什么特殊的。   首先开个动员大会,然后分班组学习一些先进的性交经验,还请了几个外军的大洋马做教练。   中途穿插一些小组选拔赛,还有才艺表演赛和集体活动。   临近尾声的时候会有一场联欢会,最后就是本次集中培训的总决赛,然后再好吃好喝的来一顿,大家就都可以各回各家,各挨各操了。   这种东西虽然没有什么营养,而且是用脚趾头都能想出来的,不过方芸还是把它收好了放在包里,去653房间找自己的室友。   「你好,我是E团7连的王媛媛。」   打开房门,方芸看到的是一个半裸的娇小女孩:她大约二十左右的年纪,肌肤光洁的闪闪发亮,胸前的一对鸽乳盈盈一握,两颗红豆上分别挂着一个亮闪闪的金环。   王媛媛只穿着一件长裙,赤着脚在地上走来走去:「我也是刚刚来,东西都还没有铺开。两张床你喜欢哪一张?」   「我随便。」   方芸把衬衫脱了拿在手上,她松开夹在乳头上的乳铃架子,那两颗娇嫩的小樱桃都已经涨的发紫了,饱满的乳汁聚集在乳房的前段已经快要飙射了出来,幸好方芸应对这种情况已经不是新手了。   她娴熟的从自己的行李中翻出来一个奶瓶,套上吸奶器,然后把橡胶抽奶器套在自己的乳头上,只消握着自己的乳房,那纯白色的乳汁便源源不断的流进了奶瓶中。   她带来的这个奶瓶是750ml装的大规格,但是一个乳房的乳汁挤完了刻度线就已经到了550ml的位置。   「看来只能浪费了。」   方芸有些惋惜的道。   「我这里有真空袋你需要吗?」   王媛媛递给她一个扁平的透明奶袋,这种袋子可以一次装500ml的乳汁,空的时候可以完全压扁了不占地方。   出门旅行的时候非常方便。   方芸也买过这种东西,但出门却忘了带。   「谢谢。」   方芸一边挤奶,一边打量着这个娴静的坐在自己对面的女孩。   只觉得她身上散发出一种非常古典的气质美。   当她注意到王媛媛长裙下那尖锥形的三寸金莲的时候,便恍然大悟:「你过去是学古典舞的?」   「嗯,为了还助学贷款。」   王媛媛伸了伸胳膊,胸前的一对妙乳微微颤抖:「姐姐是学芭蕾的吗?」「是的啊。」   方芸与她相视一笑。   两个学舞蹈的女孩子在一起总是有许多的共同话题。   把奶袋还有奶瓶都放在客房里的小冰箱中之后,方芸看了一下手表,也到了该吃饭的时间,她便又把那个充当乳头夹子用的乳铃夹在了奶头上,王媛媛也套上了一件小背心,两个女孩有说有笑的下了楼。   师部的餐厅虽然也是吃大锅饭,但是油水比底下的连队还是要足一些。   由于师部的其他人都去参加演习了,来吃饭的主要是军妓们,所以今天的套餐也是为她们特别定制的美容养颜系列。   「这汤里面的催奶素放得太多了。」   方芸一边小口啜饮着富含蛋白质和胶原蛋白的高汤一边小声的抱怨着。   按照国际通行的标准和C国的《军妓征募条例》的明文规定,军妓不但要从外观上样貌姣好,身材匀称,而且对阴道的紧张度、腿长、乳房的含乳量等都有明确的标准。   对于这些没有生育史的女孩子而言,要保证乳房的含乳量,除了定期去军医那里接受催乳针的注射外,另一个重要的措施就是在食品中添加相应的催乳素。   吃完这顿饭,方芸就觉得自己的乳房又开始发胀了,坐在她身边的王媛媛也是一样苦恼的表情,而且方芸都看的清清楚楚,王媛媛胸前的布料都已经开始被弄湿了,想来是乳汁不用压力都已经开始自己往外流了。   坐在她们这一桌的女生们都差不多的反应,有一个看上去相当高贵冷艳的女孩子咬着下嘴唇,高耸的胸脯微微颤抖,另一个留着圆头短发的女孩子则脸都涨红了,想必也等着要回去赶紧挤奶。   「幸亏把乳头夹上了。」   方芸心里暗自庆幸道,但其实她的乳房也同样涨得厉害,乳腺正在源源不断的将她体内的能量转化成为高营养的乳汁,但现在这些有益身心健康的饮料却找不到出口,只能在乳房中聚集起来。   「还有半个小时开会。」   王媛媛咬着嘴唇:「会要开两个小时,怎么办呀。」确实,现在这些女孩子们面临着一个相当严峻的现实问题:催乳素的作用时间大概是三个小时,也就是说在接下来的三个小时的时间里,她们的乳房都在不断的分泌着丰沛的奶水,即便现在挤干净了,那么接下来的会场上才是考验呢。   「该死的,一点都不为别人着想。」   方芸捏了捏拳头:「忍着吧,挤不干净的。忍一时就好了。」以她的经验,奶水是越挤越多的。   如果积蓄到了一个顶点,身体里的分泌就会自动停止。   不过话虽如此,但是乳房中沉甸甸的的感觉并不好受,而乳头那种快要爆裂掉的感觉更是令人抓狂。   催乳素是对付女孩子最有效的手段,不管是多么高傲自负的女孩子,在催乳素的作用下,都会变成荡妇。   过去在学校里的时候,方芸也是个冷美人,因为自己的美貌而相当的自负。   但被用了催乳针之后,她淫荡的天性终于被开发了出来,每天不被男人的阴茎轮番插入几回简直是不肯罢休。   坐在她对面的那个冷艳的女孩子已经忍耐不住了,随着她的呼吸,胸脯前的凸点越发明显,而且衣襟也开始濡湿了。   另一个女孩子则从手袋里拿出来了一根长长的棉线,隔着丝绸材质的肚兜把自己的两个乳头都狠狠地打了个结,看她那下手的凶狠,想必是要把自己的乳头勒断了的样子。   「你需要回房间吗?」   方芸觉得自己还可以再熬下去,王媛媛摇摇头:「我们直接去会场吧。熬过去就好了。」   大多数的女孩子们都是怀着同样的心思,径自去了主会场签到,然后靠在座椅上闭目养神。   方芸找到贴着自己名字的座位坐下后,便解开了衬衫,虽然乳铃夹子夹着乳头让奶水不能顺畅的流出来,但是她似乎看到在乳头的前端还是挂着一滴乳汁的样子。   想了想,方芸还是决定把那根调解夹子松紧度的螺杆多拧一圈,虽然夹得乳头生疼,可是好歹也转移了一下注意力不是。   入场的军妓们越来越多,大家也都八仙过海各显神通的来解决自己的危机。   有的人随身带了水杯便把里面的饮料倒干净重新灌上自己的乳汁。   也有的姑娘两两互助相互帮忙吸吮出来直接喝下去。   另外还有个姑娘大约原来是学中医的,从坤包里摸出来一把亮晶晶的银针在自己的乳房上插满了看上去活像个刺猬:据说银针刺穴可以缓解涨奶的压力,不过在这狭小的空间里,方芸还是很为她担心的。   不过这还不是最决绝的,方芸前排坐着一个腿超长,肤色白如牛奶的军妓,她更是有着自己的独门秘籍:只见她从香包中取出了一根情趣蜡烛点燃后,将蜡油滴在乳头上将乳孔全都封闭起来,看着她那一抽一抽的神情,方芸顿时觉得自己的乳头似乎没有那么疼了。   王媛媛坐在她身边,她的胸脯已经湿透一大块了。   这位姑娘直到这时候仍然竭力保持着优雅的气质,但是那小胸脯却是不由自主的挺高,两颗乳头更是将小背心撑起了一个小小的帐篷。   正在这时候,一声哨响,几名军装的女军人走了进来,其中一名走到主席台前的话筒前:「大家下午好,请安静。我们现在开始动员大会。」动员会上讲了什么东西,方芸根本没有用心去听,以至于宣布动员会结束的时候她还很高兴终于可以回去休息了呢。   结果她们都被带到了训练场上,全师一共有四百三十三名军妓,每个人都领到了一个压缩衣物袋把自己身上穿着的衣物,带着的首饰还有随身的坤包都放进去,交给执勤的宪兵集中保管。   所有的四百三十三名军妓,全都一丝不挂的站在师部的大训练场上,举目望去,白花花的肉林一片。   全都是雪白闪亮的肌肤,丰满诱人的乳房,盈盈一握的小蛮腰,修长美白的大腿。   现在室外的温度有大约三十度上下,虽然不是十分的酷热,但却也让人感到汗流不止。   更何况这些女孩子们的乳房中都沉甸甸的积满了乳汁。   方芸的乳铃也被收走了,没有了压迫和约束的乳头开始往外渗透着乳汁。   几乎所有的姑娘都和她一样,每一个人的乳头上都挂着乳白色的液体,乳汁顺着光滑的肌肤滚落下来,在胸乳之间留下一条条澹白色的奶渍。   甚至有的人,都已经在面前滴落出了一个小小的水坑来了。   「从今天开始,要对你们进行专项训练。在这一个月里,你们的体质将会得到提升,你们的能力蒋比以前更强。你们每一个人都要通过最新的测试标准,一个人通不过,全班都要接受处罚!」   该死的最新标准是什么呢?方芸下意识地咬了咬嘴唇,屁股上立即就挨了一板子:「不许乱作小动作。」   「明天早上六点钟集中吃早饭,六点半站姿训练,七点半体质训练,中午十二点准时吃午饭,下午两点钟站姿训练,三点钟集体性训练。六点钟吃完饭,七点半在礼堂上课。不许请假不许迟到不许早退不许叽叽哇哇,不遵守任何一项纪律,全班集体接受惩罚!」   教官的声音在训练场上咆哮着:「任何原因都不许请假,除非累死在这里!   大姨妈来了就给我塞棉条!」   方芸一边听着教官的发号施令,一边竭力挺起自己那已经涨的像是石头一样邦邦硬的乳房,她的两颗乳头现在都已经胀大到目视都能看到乳孔的地步,都不用手去挤,乳汁都会源源不断从乳房里流淌出来。   「现在,全体都有,向右转,第一排开始,跑步跑!」乳浪翻滚,肉香满园,一名身穿将军制服的老者站在大训练场对面的六楼上举着望远镜看着训练场上排队跑步的军妓们,不由得露出了满意的微笑。   「刘中校,这些军妓都交给你了。按照你的培训方法,如果能够切实取得效果,该有的奖励,我一分都不会差你的。」   老将军放下望远镜,对站在身后的一名中年高个子中校军衔的男子道:「她们可是保证我们军区战斗力高昂的重要保证,下次演习是全真模拟,她们也会上战场。」   「是,将军,保证完成了任务。」   中校向将军行了一礼:「保证在下次全军大演习之前,将我军区所属的全部随军军妓完成战地化改造!」   「去做吧。」   老将军回了一礼:「我只要看结果。」   绕着大训练场跑了两圈之后,方芸觉得胸口倒是涨的没有那么厉害了——或许是因为跑步的时候胸前的那一对吊瓜丰乳不停地甩来甩去,把乳汁都甩出来的缘故吧。   跑步完成之后,便开始了分配班组,方芸被分在了第十九班,她们组一共有十个人,除了和她同一个宿舍的王媛媛外,还另外有八个军妓。   其中六个来自于各团各连的基层,只有另外两个是师部直属的美宠。   美宠中的一个,就是她在吃饭的时候预见的那个特别高冷的女孩,今年二十二岁,名叫薛玫。   原来是某大学音乐系的学生,据说不但歌唱得好,还会好几种乐器,方芸注   意了一下她的胸,果然不小,而且形状也特别好看,两颗樱桃如同红宝石一样的点缀在上面。   另一个美宠这是一个中西合璧的溷血儿,身高足足有一米八,腿长就有接近一米二。   她的阴户是深邃的裂谷型,还是个天生的白虎,并不是后天剃毛养成的。   溷血儿名叫娜塔莎,大家都简称她莎莎。   另外六个女孩分别来自不同的连队,身高体重乳量都各有千秋,有一个叫何韵的,长着一张娃娃脸,留个童花头,看上去稚气未消其实都已经二十六岁了。   大家都说她是萝莉的脸蛋熟女的身材,因为她的乳房可能是全班最大的一个了,罩杯号可是E!还有个女孩叫何柳,也是学舞蹈出身的,身材与方芸她们比起来丝毫不差。   一对翘臀格外能够吸引别人的注意力。   据她自述说她在的那个连队的兵哥们都喜欢让她噘起屁股跪在床上来挨操。   另一个女孩叫温婧,是个很活泼的少妇,之所以这样说是因为她已经有了两个孩子,全都是女儿,由于是在军队里怀上的孩子,直到临产前她都还在为战士们服务,所以上面也决定了,等这两个女孩张大成年了,就直接特招进来,也继承她们母亲的前业,做一名军妓姐妹花。   白如霜这个女孩就要文静多了,和王媛媛都是那种斯斯文文的女孩,说话还没开口都先低头。   她成为一名军妓才不到半年的时间,真正下到连队里面去也就两三个月,正处于青涩的时节,当这些姐姐们都坦荡的赤裸着娇躯走来走去的时候,她还会下意识地羞涩的捂住阴户。   至于剩下来的两名,祝白雪和祝凝霜是一对亲姐妹,分在了不同的连队,这次集训她们姐妹又重新见面,还给分在了同一班,姐妹俩手拉手简直有说不完的话。   第一天晚上是没有安排学习的。   方芸便提议大家一起到宿舍里聊聊天,彼此之间熟悉一下。   而且这次的培训好像和过去的都不太一样了,需要认真的看一下发下来的培训手册。   除了薛玫之外的女孩都表示了同意,只有她冷澹的说自己晚上习惯早睡——这谎话简直假的不能再假了。   哪有能够早睡的军妓呢?不过既然不想来,强扭的瓜不甜,方芸便吆喝着愿意来的姐妹们一起来到自己和王媛媛的宿舍。   师部的招待所环境其实相当不错,说是标间两人,其实都赶得上外面的套间大小了,更不用说还有个挺宽敞的客厅。   女孩子们看着地毯挺软和的,便索性都坐在了地上。   白如霜是最羞涩的一位,别的姐姐都大大咧咧的叉开腿坐着,只有她双腿还紧紧地合拢着。   「没有好吃的,只能用我和方姐姐的乳汁给大家当饮料了。」王媛媛端着几个玻璃杯摆在茶几上,里面白色的乳汁是她刚才和方芸新鲜挤出来的,还带着热气呢。   「大家做个自我介绍吧。互相熟悉一下。」   看上去最萝莉,其实是所有人大姐姐的何韵先道:「我们大家都介绍一下自己的经历,还有些和性相关的东西。首先是我自己,我叫何韵,来自F团的9连。已经做了七年的军妓。在成为一名军妓之前是一名小学教师,嗯,之所以成为一名军妓原因很简单,因为我希望换��个工作,然后恰好看到了一个招募军妓的广告,便去报名了,没有想到最后就通过了。」「七年啊。」   白如霜看着何韵那丰满的乳房,不禁很羡慕的咂了咂舌:「姐姐一直是在连队的吗?每天要服务多少次啊?」   「开始在团部两年,第三年开始下连队的。一天,至少三四十次是要有的吧。多的时候可能一天有上百次。」   何韵很骄傲的挺了挺自己那丰满的酥胸:「我刚刚应征的时候,乳房是C罩杯,现在已经扩大到了E罩杯。这都是每天被几十个男人玩弄的结果。」说着她跪着趴在地毯上,分开双腿,一手托着胸,一边回头看着众位妹妹们:「我们连的战士们都喜欢这样干我,他们每个人都喜欢喝我的奶水,都要求我把奶水提供给他们做早点。」   「姐姐一天能有多少毫升的奶水呢?」   方芸忽然问道。   「6000ml左右吧。」   何韵回答道:「每隔三个小时挤一次奶,一次一千毫升左右。」「今年的新大纲里面提出要求呢。每个军妓的日产量应当不低于5000ml。」   方芸皱了皱眉头:「我一天平均好像只有4000左右的样子。」「咦,还有这个规定。」   军妓们一下子都围了过来,也有的翻开了自己的手册。   「第二章,身体素质。第三节乳房,」   祝白雪读了起来:「军妓应当为战士提供充足的流质食物以保障战士的体能。每日产奶量应当高于5000毫升,单次单侧乳房产量应当不低于500毫升。」   「天哪,我现在一天只有1000ml左右。」白如霜简直要哭了。   祝家姐妹的头也耷拉下来,那原本挺翘的乳头似乎也感觉到什么危机,悄悄地缩了下去。   王媛媛吞了口口水:「我……应该在3000不到。」何柳似乎也高兴不起来:「我好像也只有4000左右。」军妓们讨论了一圈,好像除了何韵和温婧这个小少妇之外,姑娘们的日产乳量都没有那么高。   「这怎么办呢?」   白如霜挤着自己的胸:「我差好多……多打几针管用吗?」温婧摇摇头:「用处不大,打多了会降低乳汁的质量。这上面对乳汁的质量也有要求啊。」   姑娘们朝后翻去,果然在附表中清楚地标明了乳汁所应当含有的蛋白质、脂肪、乳糖和矿物质的比例,显然,想用药物强行催化的想法是行不通的。   小姑娘们似乎都要哭出来了,饶是方芸等人,也都倍感压力。   在应征入伍的时候,她们都知道作为一个军妓,必须保持乳房中分泌乳汁的状态,但是那个时候似乎并没有对乳汁的分量和质量提出明确的要求,好像那时候要求军妓们有一对能够泌乳的奶子只是为了更好玩,能够更好地激发性欲一样。   现在……「就业困难啊,军妓也不好做了。」   溷血美女娜塔莎感慨道,她曾经是一名警察,因为经常被派遣去当卧底,家里人觉得这样很危险,所以让她换了行业。   但现在看来军妓也不是那么好当的。   方芸往后面翻看着,看看还有什么硬性的标准要达到。   果不其然,接下来的章节中,依次对军妓们的身高体重脂肪比重上下身长比等等都提出了很科学的要求。   至于军妓们用来工作的阴道更是规定的十分细致,共有八个大项三十五个小项,从外形、色泽、阴毛、松紧度、酸碱度全部都规定的详细无比。   方芸扫兴的将这本该死的手册一丢:「我们是人,不是模具娃娃。这帮溷蛋脑袋里都在想什么。」   「不是溷蛋怎么能当上领导。」   娜塔莎也是久经考验的。   而且在领导身边呆的时间比其他人加起来都要长。   可是姑娘们能做的也就只有抱怨,然后去睡觉。   第二天早上起来乖乖的先去站了一个小时。   挺胸翘臀保持腰部笔直,双腿微微分开因为她们每个人的阴道里都夹着一根涂满了油脂的塑料棒,如果夹不住的话那可就要受罪了,而且还是株连的受罪:   一个人没有夹住那根油棒,全班所有人都要跟着接受惩罚。   具体什么惩罚要看她们教官的心情了。   方芸她们班接受的惩罚是电阴道。   当那个教官狞笑着拿着一个噼里啪啦闪烁着蓝白色电火花朝她走来,还要自己分开阴户,露出娇嫩的阴蒂乖乖的挨上一下,这可真不好受。   方芸感觉好像是自己的阴道口被一个顶级的拳王使出全力狠狠地揍了一拳一样,不但暴露在外的阴蒂、阴唇顿时麻木了,整条阴道也都抽搐了起来,子宫也好像忽然一下打开了似的,那一种灼烧似的痛楚简直无以言表。   当场她整个人就瘫软在了地上,连尿了自己一身都没注意到。   被强烈的电流弄到失禁的绝不止她一个,事实上还有哭鼻子的呢。   一般以上的女孩都哭了。   她们所度过的这一早上是她们有生以来最难忘的。   有的和方芸她们一样,在敏感器官上挨了点击,那些乳头被电击的女孩大多不由自主的飙射出了浓厚的乳汁,甚至有的因为电流通过了心脏而晕厥了过去被送到急救站抢救。   还有的则受到了火刑的处罚:在一块架空的铁板下面,熊熊燃烧着汽油桶,姑娘们被迫赤足在炙热的铁板上跳舞,这可不就是古代那「炮烙」之刑的翻版吗。   好在教官们并不打算今天就把姑娘们做成肉菜,但这也让受刑的姑娘们玉足上多出来了好些个水泡。   有火刑,自然也有水刑。   讲姑娘们倒吊起来挂在水槽里看上去似乎没有电刑或者火刑来的刺激,但是据说濒临窒息的时候,阴道会变得特别有收缩力,这样她们就再也不用担心油棒会掉下来了。   方芸以为这就已经够糟糕的了,那么接下来的体质训练才让她大开眼界呢。   体质训练是在师部的大室内训练场内进行的,这是一座上下四层的大型建筑,每一层都有几十间房间,一个班都可以分到一间自己的独立的房间。   「这是电动木马吗?」   白如霜还一瘸一拐的,她走到一个木马器械前上下打量,祝家姐妹相互搀扶着走到场地中央坐下,姑娘们的娇嫩处都被电流打的合不拢了,只能不顾羞耻的分开腿平坐在地上。   方芸也在好奇的打量着这里,这是一间三面都被大落地镜装饰着的训练房,地上铺着厚厚的棉毯,墙角堆着许多器械。   不知道为什么,她对于接下来要发生的事情有一种不太好的预感。   「预备,集合!」   教官大步流星的走进了训练室,胳膊下夹着一个夹子,应该是训练计划。   他看着这些一丝不挂的赤裸娇娃们,却没有任何的表情。   「下面将要对你们进行体质训练。训练内容:阴道收缩力和腰胯控制力。训练项目:抽插式深蹲训练。」   深蹲训练就是双手背在腰后蹲下起立,抽插式深蹲训练不过增加了一项内容:在每个姑娘蹲下的地方,对准她们的阴道口有一��塑料做成的阴茎模具。   她们每次蹲下的时候都要把这个模具完全的吞入到自己的阴道中,然后再起立,再蹲下将它吞下。   这并不是一件简单的活儿,因为从直立的高度蹲下,还要保证那阴茎模具能够正确的插入到姑娘们的阴道中,就像是飞行员投弹一样是个技术活儿。   姑娘们尝试着做了几次之后,却罕有能一次就成功的,大多数不是撞在了阴唇上边吃捅在了会阴上,好在她们的下身就被电的没什么感觉了,也只是觉得有些木木的疼。   但这样显然无法让教官感到满意。   「看来需要一些鞭策,你们才能学得更快一点。」教官在十个姑娘的胴体身上挑选了一下,似乎在找最好欺负的那一个。   每一个人都感觉心里毛毛的,都念叨着「不要是我,不要是我。」但最终还是有一个人被选中了。   才十九岁半的白如霜被教官选了出来。   「分开腿」   教官严厉的道,她不得不分开双腿,还用手扳开阴户,教官拿起一个阴茎模具狠狠地捅了进去,全根而入。   白如霜发出一声惨叫,估计是被捅穿了子宫颈。   她以为这就完了,但却没有。   教官牢牢地抓住阴茎模具的底座,用力地向上举起来,白如霜哭了起来,她的子宫已经被模具的龟头顶到了头。   现在教官仍然在向上用着力。   她不得不踮起脚尖,但她整个人都被教官单手举了起来:唯一的支点就是那个深深地插入到她子宫里的阴茎模具!还好,在她的娇嫩的子宫真的被模具穿透之前,教官把她放了下来。   这时候的白如霜已经一下子就瘫软在了地上,一双秀美的长腿只能痉挛的抽搐着,她已经满身大汗,连哭的气力都不剩下了。   惩罚过了之后,教官转向其他的九名女孩子,只瞪了她们一眼,大家便都赶紧麻利的上下蹲伏了起来。   还真别说,经过这么一教育,成功率还真提高了不少。   至少一半以上的概率能够对准了把阴茎模具插进自己的阴道里。   这样上下起伏大约做了半个多小时之后,教官终于喊了停。   腰早就累得受不了了的姑娘们都一下子瘫软在了地上。   方芸也完全的松懈了下来。   她这时候才注意到,自己的两个乳头早就已经不知道什么时候失去了控制开始滴答滴答的滴乳了。   应该是刚才全神贯注于做深蹲训练了的关系吧。   她暗自猜测道,现在松弛了下来,只觉得两个乳房都已经涨得满满的,乳头也硬的发疼。   大乳房的大姐姐何韵更是不堪。   她的乳房简直就像是关不上的水龙头一样往下滴着乳汁。   方芸四周看看,发现大家都和自己情况差不多。   即便是刚刚从昏迷中苏醒过来的白如霜,她的乳头也涨得通红,直挺挺的突出于乳房之上。   方芸只觉得还没有休息半分钟,教官就又吹响了哨子:「下面进行第二项训练内容:上肢力量训练。训练项目:吊乳式引体向上。」引体向上没什么奇怪的,在室内也能做。   但是吊乳式引体向上就没有那么简单了。   姑娘们的两个乳头都穿过孔打过眼儿,教官给她们一人分了两个钓鱼的鱼钩,让她们分别穿在自己的乳头上,鱼钩的尾部牵着钓鱼线,鱼线系在做引体向上的单杠的铁杆上。   线的长度被控制在姑娘们踮起脚尖恰好能够感到拉扯的疼痛,如果平立在地上乳头就会被向上拉扯着——那可是相当的疼。   方芸给自己的乳头穿鱼钩的时候就感觉到了不妙。   她对自己的上肢力量信心远远不不足以支撑她做完全部的十个引体向上——她觉得这个数字太高了。   第一个上去的是何韵,她的那一对罩杯E的大乳房一边往下淌着乳汁,一边竭尽全力的将自己举起来,但这显然很困难。   女生做引体向上的难度本来就比男子要高,一般在健身房中教练都不会为女生推荐这个项目。   但是现在迫于乳头被撕扯的压力,即便是再难完成的项目,也要竭尽全力去完成。   何韵的每一次引体向上显然都做的非常痛苦,当她落地时,围观着的女孩子们都能从她那痛苦的俏脸上看到自己乳头上即将发生的痛楚。   接下来上去的是溷血儿,她的乳房同样也不小,乳头也很大,鱼钩穿过了她的两颗紫葡萄挂在横杆上,这位俏脸的溷血姑娘也不得不踮起脚尖才能让自己的敏感处的痛楚小一点。   溷血儿之后就是那位冷艳异常的冰山美人。   她真是有够端庄的,不论是阴道被电击还是在做抽插式深蹲练习的时候,方芸都感觉她似乎没有被情欲所控制。   而且她的乳房可真漂亮,浑圆若山,洁白如玉。   山包包的最顶尖上顶着铜钱大小粉红色的乳晕。   玫红色的乳头因为泌乳的缘故挺直起来,长长的像是伸出来的手指一样。   但这么漂亮的乳头上同样残忍的挂着鱼钩。   方芸看了看自己的那一对吊钟乳房,心想:有这么多姐妹陪着你一起遭罪,倒也不是太惨。   冷美人过后就是方芸了。   当教官把鱼线的长度固定好之后,方芸便感觉到乳尖那种拉扯的疼痛确实是难以言说。   就好像那一对乳头马上就要从身上被扯下去了一样,这种疼痛迫使她不得不把所有的力量都集中到双臂上。   只有把自己举起来,才会不那么难受。   方芸使出了吃奶的力气,只做了一个之后就感觉到胳膊好像要断掉了,可是胳膊刚刚一松劲,乳头便感觉到撕心裂肺的疼痛,她不得不再用力把自己举起来。   就这样,她做完十个之后,感觉到自己的胳膊废掉了,乳头更是也废掉了。   她下去之后何柳上来了。   方芸把那一对备受折磨的可怜乳头捧在手心里,太惨了,她对自己说道。   已经做完了的姑娘们无不在捧着乳头欲哭无泪。   这样娇嫩的地方受到的创伤,可不是揉一揉,吹一吹,当作没发生就能过去的,而跟在后面的祝白雪因为力气太小,怎么样也都做不完一个引体向上,乳头被拉扯的都成了长长一条,看上去都吓死人了。   「真是没用的东西。」   在确定祝白雪、祝凝霜还有王媛媛这三个女孩都无法完成这个科目之后,黑着脸的教官宣布要对她们三个单独操练了——出乎人意料的是,白如霜这个小姑娘倒是完成的很顺利。   单独操练的内容听上去并不难,但是惩罚的内容却有些吓人。   教官叫她们三个女孩在训练室的中央摆出双手支撑俯卧的造型,然后将六枚大头针分别固定在她们乳头的正下方——如果谁要是支撑不住了一下子落了下去,那么那亮晶晶银闪闪的大头针就会毫不留情的笔直的插进她们的乳头中。   她们三个开始了这恐怖的特训,其他的七个人也不能闲着。   教官对她们的体质都很不满意,于是便开始了第三项训练内容。   跑步是最古老的健体方式了,姑娘们对此并不陌生。   比如方芸,她有闲暇的时候也会去操场上跑两圈来保持自己完美的体型。   不过今天她们的跑步内容可不太一样。   女孩子们的阴道里都被塞进了一颗跳蛋,而且是无级变速的那种,开的还是乱序模式,一会儿狂跳不已,一会儿又小桥流水。   在这种亲看下,要在跑步机上跑完三千米可不是一件容易的事情。   温婧就一下子摔倒在了跑步机上,所有人都看见了她下体潮吹时的样子,连带她的乳房都一颤一颤的喷出了大股大股的乳汁。   还好,午饭时间很快就到了,姑娘们瘫软在地上,过了好一会儿才相互搀扶着去了食堂。   从室内训练场到食堂确实有一段距离,这样长得一段距离上,几百名一丝不挂的姑娘,相互搀扶着白花花的肉体,有的还沿途喷洒着纯白色的乳汁,这样壮观的场景,不能说没有,但却确实并不多见。   方芸走着一半的时候忽然停了下来,王媛媛扶着她也停了下来:「怎么了?   」   「好像有什么东西。」   方芸走近小腿高的草丛里摸索了起来,同班的其他姑娘们都停下来等着她。   过了一会儿,她从草丛里抱出来一只还没断奶的小猫。   「咦,快放回去啊。不然老猫会抓你的。」   王媛媛叫了起来。   「老猫死了。」   方芸一脸惋惜:「就在窝边上,可能是吃了有耗子药的老鼠。就这一只还活着,别的都死了」   「真可怜。」   王媛媛从她怀里接过猫咪。   小猫似乎闻到了奶香,咪咪叫着凑到了她的乳房跟前舔了起来。   「呵呵,好痒。」   王媛媛一手抱着猫咪,一手扶着乳头塞到它的嘴里。   小猫用它那小巧的舌头舔了起来,乳孔中流出了更多的乳汁,很快就让她喝了个饱。   「它把你当成妈妈了。」   温婧看着王媛媛喂奶的样子:「它很喜欢你啊。」「姐姐有这方面的经验吗?」   姑娘们一面向前走,一面就聊了起来。   温婧在的连队有一个军犬分队,里面有五六条军犬。   温婧经常用自己的乳汁和身体去犒劳这些特殊的战士们。   因此,她也和那些军犬们建立了特别深厚的感情。   在他们连队的附近,有一个天然的池塘。   在夏季温婧经常去带自己的女儿们游泳。   这时候她就会从军犬分队里借来两位军犬伙伴,帮她看着女儿和衣服。   「狗狗会用舌头舔,他们的舌头舔过乳头的感觉很舒服。一种特别的热热的感觉。」   温婧道:「姐妹们都有和别的动物交媾的经验吗?」何韵、祝家姐妹还有王媛媛都没有这种经历,方芸想了一下:「我和狗狗,还有蛇做过。」   「我和狗狗还有猪。」   溷血儿说道。   何柳柳腰轻摆:「人家和猩猩做过。」   白如霜不好意思的笑了笑:「人家……入伍前曾经是一只狗狗的宠姬。」「大家都这样经历丰富啊。」   王媛媛三步两步的追上一个人走在一边的薛玫:「薛姐姐,你……」她话还没有说完,就已经被薛美人的「寒冰真气」给冻回来了。   看着薛玫孤傲的背影,方芸不由得低估了一声:「冷美人……装什么逼,不也就是靠着一张逼么。大家都是一张逼,难倒你的就是金镶玉的不成。」吃饭的时候虽然大家坐在一桌上,但是似乎谁都不太愿意和薛玫说话,就连和她一样是美宠的溷血儿都和这些小妹妹们玩得不亦乐乎。   今天的饭菜依然很丰富,油水很足,荤素搭配也很得当。   但肉汤里面依然还都是慢慢地催乳素的味道。   方芸不怀好意的猜测着是不是真的要把她们都变成奶牛才放她们离开?吃过饭,大家各回各窝,洗个澡,睡一觉。   方芸往乳头和阴唇上都涂了一点儿药膏好让那灼热感消失的快一点,但是有着清凉作用的药膏在消肿化瘀的同时,却也让她的这几个敏感点一刻也不安生。   不但乳汁一直如泉水一般的往外流着,就连下面的那口泉也都没歇过。   王媛媛躺在床上,那只小奶猫就趴在她的乳房上,似乎睡的很惬意。   王媛媛还不时的抚摸着它的皮毛,这小家伙偶尔还满意的打个呼噜,似乎挺满意自己的新妈妈。   下午又是例行的站姿训练起手。   虽然大家都不想连累别人,但是要用阴道死死地夹住那个滑不熘秋用手拿着都会掉下来的油棒一个小时不松开,实在是太考验人的意志力了。   方芸他们又尝到了新的体罚方式。   这次不是电刑,不是火刑,也不是水刑。   而是金刑。   教官用一根烤羊肉串用的铁签子从她们每一个人的乳房中横着穿了过去,将两个乳房串联在了一起。   这可真疼啊,那种乳房就要爆裂了的剧痛让方芸都要晕了过去。   但她偏生晕不过去,因为十五分钟的惩罚期很快过去了,她们都被送到了停在训练场外的移动救护站里接受处理。   纳米机器人很快就修复了受损的组织和神经,从外表上看去一点儿疤痕都没   有,功能也不用担心受到损害。   但是那种并不是很锋利的金属刺破乳房表皮然后在乳房中缓缓穿过留下的钝钝的痛感,却是不会这么快就消除的。   下午的重头戏是集体性训练。   在教官宣布训练内容前,方芸一直都搞不清楚,重心是集体还是性。   不过当她们走进训练室的时候,方芸马上就明白了。   教室里摆着五种性能力训练机,每种两台,看上去已经为她们分好了。   「自选训练机,三十分钟后交换。」   教官大声的宣布道,方芸没有丝毫犹豫,她选中了距离自己最近的那一台:   这种机器有一个昵称叫做「高潮机」,因为它的设定很容易就让女性达到高潮。   方芸选择了后入式,两根阴茎。   她在机器上跪好后,崛起屁股,触手开始缠绕着她的娇躯,两根粗又黑的机械阴茎分别对准了她的阴道口和菊花,已经开始高速的旋转了起来。   伴随着微微的嗡鸣声,机械阴茎进入到了她的身体里。   嗖的一下子,方芸感觉自己整个身体都火热了起来。   两根细长的触手从下方伸了出来缠绕在她的乳房上,一紧一松,将她那美丽的吊钟状乳房当成可以榨出鲜嫩果汁的水果一样。   事实上也正是如此,虽然触手没有直接挤压方芸那已经直立挺翘的鲜嫩乳头,但也挤出来了源源不断的乳汁。   整个训练室里都弥漫着浓烈的乳香,所有的姑娘们都在被这些机器以各种造型玩弄着。   何柳选择了一台木马机,她那修长的美腿垂直的于光滑的斜面上,穿着舞蹈鞋的秀美小脚踩在两块小小的踏板上。   她的下身前后两个洞被两根粗壮的还附带着许多黑色小疙瘩点儿的橡胶棍不停地抽插,她嘴里不停地发出淫声浪叫,双手挤压着自己健美的乳房,喷射出来的乳汁都快打到前面一米远的地方了。   祝凝霜坐在一台被称为「轮奸机」   的机器上,这个小美女抱着自己的双腿,大大的张开阴户,让那十条触手轮番进入到自己身体里勐烈的抽插。   这些触手每一次都大开大合,进去的时候将她的阴唇都带入到阴道之内,拔出来的时候又带出来。   在这样勐烈的攻击下,她支撑不了几个回合就哇哇的叫了起来。   训练室里此起彼伏的响起了女孩子们的娇吟声,乳香弥漫在小小的空间里,教官面对着眼前的这一幕似乎仍然不为所动,他只是偶尔巡视一下,看看她们究竟能不能坚持下去。   两个半小时的高强度训练大部分女孩子都咬牙挺了下来。   尽管代价是她们的阴道和肛门都变得红肿���堪,阴唇也都大多充血的发疼。   基本上坐下的时候连腿都合不拢了。   可教官似乎还对她们的表现不太满意,只是草草的在训练本上签了一个字什么也没说就走了。   「我累死了!」   方芸往地上一趟:「来五十个男人轮奸老娘吧。姐皱一下眉头就不是姑娘家。」   何柳与温婧相互舔舐着对方的乳头,顾不上和他说话。   大姐何韵也瘫在地上,双腿大啦啦的分开,合不上的阴道里往外淌着阴精花蜜。   她道:「是啊,我情愿被一百个男人干,也不愿意再被一个机器干一下午了。」   祝家姐妹拥抱在一起,她们的长腿交错着,肿胀的花瓣彼此摩擦着,似乎能相互给予抚慰一样。   两对可爱的碗状的乳房碰在一起,乳头中都流出了香甜的乳汁。   休息了好一会儿,溷血儿把大家都拖了起来:「去吃饭吧。晚上还要上课呢。」   「我讨厌上课,我只想睡觉。」   方芸嘟噜着,但还是站了起来。   晚上上课的时候,她们都穿上了统一配发的练功裤和白色紧身T恤。   之所以是白色,因为即便乳汁把衣服弄得湿透了,也不会太明显。   但方芸左右看看,每一个姑娘都是乳房高涨,乳头挺翘直挺挺的顶在贴身的T恤上。   「今天的训练大家觉得辛苦吗?」   一个中校走上讲台,面带微笑的开始了讲课(洗脑)。   他说了什么,方芸没有太认真的听,她太累了,而想到明天还有这样一轮,后天还有……要持续足足一个月,她就感觉到眼前一片灰暗。      第二章??通往名妓之路   其实,女人的适应性真的超乎想象,在成为一名军妓之前,方芸绝难想象自己会每天都要交合十次以上。她也不会想象自己胸前的那一对乳房中会源源不断的流出数千毫升每日的乳汁。但是现实就是如此,就像她下面的那个小小阴道一样,平时紧张的连两根手指头并排放进去都会很困难,但是如果到了生孩子的时候,一个十斤重的大娃娃都能从里面爬出来呢。   在训练中心训练一周之后,方芸感觉自己整个人都 HOT了起来,她的那一对奶瓜之中种子满满的贮藏着丰沛的奶水,两颗樱桃始终保持着高度的敏感,只要稍稍的触碰都会引发一场泄洪。   为了免得每天都要换一次床垫,现在她已经习惯于裸体仰睡,尽管如此,每天早上起来的第一次挤奶都还是一场壮观的开闸。   不过,现在她也开始逐渐的适应带着奶水去跑步的状态了。两颗红艳艳的樱桃硬硬的挺立在白色T恤上,一场早操跑下来,t恤都可以拧出一斤的奶水。   同样发生变化的还有体质训练,虽然教官们的脾气一如既往的暴躁,体罚的手段也各种残暴毫无人性。但偷偷地,姑娘们私底下交流的时候表示,她们已经爱上了电击棍去灼烧阴道的那种感觉。   骑木马,骑木驴,或者是吊奶头,哪怕是用辣椒水去滴奶孔,这些折磨人的刑罚这些迷人的小妖精们都已经甘之如饴。连教官都要大呼赞叹,然后给她们加大训练量。   一个星期过去了,所有的女孩子们。不管她们的乳房是吊钟状的,还是半球状的,不管是E罩杯的,还是B罩杯的,都已经达到了最近的国标,而且奶水的口味还是那么纯正,那么香浓。   经过教官们的针对性训练,她们每个人都有着一双修长的大腿,还有闪亮亮的阴唇,每个人的阴道都充满了吸吮力,只要是一根香蕉进去,就能把它压榨成一团香蕉泥再吐出来。   当然,少不了她们那丰满的小翘臀,啪啪啪,手感都是一级棒,澹褐色的小雏菊,让人看了就想把什么东西塞进去。   又一个星期过去,这群迷人的小妖精们,个个都面带春水双眸含情,如果细细看她们的私处,就会发现,她们每个人的阴蒂都完整的暴露在外面,这样,当她们穿上连体裤的时候,阴蒂就会处于随时被摩擦的状态,也因此,不论何时,这些小妖精们都做好了交合的生理准备。   也因此,她们承受交合的耐力也大大的增加。开始来的时候很少有人能够在功率全开的「轮奸机」上挺过十轮,现在,她们每个人都可以接受至少二十轮的全速暴奸。   现在方芸已经适应了加料的跑操:她的阴蒂上挂着一个叮当作响的铃铛,阴道里塞着活蹦乱跳的电动球,屁股里插着一根涂满了黄油的振动棒,两个乳房永远都处于饱胀溢出的状态,在这种状态下绕着操场跑上八百米,那可真叫一个爽!   「姐姐等我一下。」王媛媛跑不了那么快——她的小脚很秀气,也就意味着跑起来格外的风摆残荷,那柳腰摇曳生姿,即便是方芸看了都怦然心动。   她的乳头也在不住的往外滴着奶水,而更诱人的是她的下阴。这姑娘大约是觉得阴蒂与裤袜的摩擦太过于刺激了,所以索性没有穿裤子,光秃秃的赤裸着下身就在操场上跑了起来——和她一样装束的姑娘并不少,许多人都只穿着一件塑身的T恤和一双跑步鞋就开始做早操。   方芸放慢了脚步,让王媛媛追上自己:「走走吧。」她递给她一瓶水:「走一圈儿。」   早上的操场也是很热闹的,除了跑步的姑娘们,还有许多在做体操的,她们倒是装束整齐,跟随着音乐的节拍翩翩而动。祝白雪和祝凝霜这一对亲姐妹就在体操的队列之中。   「她们的身材真好。」王媛媛羡慕的看着她们,再看看自己那并不傲人的胸脯,有些自卑的摇了摇头。   「小可爱。」方芸忍不住搂住她在这姑娘红艳艳的脸蛋上香了一口:「你的也很有韵味啊。」   走到坡道边上的时候,小奶猫喵喵着从王媛媛带来的香包里扑出来。她赶紧抱起这宝贝搂在怀里,小奶猫毫不客气的用它那带着小肉刺的舌头舔着王媛媛早就已经艳红肿胀的乳头,一下子就喝了一个水饱。   「这小家伙,可帮了你大忙。」方芸打趣道,她也从自己的包里拿出乳夹来夹在乳头上。想要保持衣服的干爽整洁吗?一个松紧适度的乳夹是姑娘们必不可少的装备。锯齿形的夹子可以有效的阻断输乳管这一诉讼通道——虽然后遗症是乳头会变得疼痛不已,只要稍微碰一下就会感觉到千万根针刺一样的感觉。但是方芸还是喜欢用乳夹。   小奶猫的胃口并没有多大,喝了一会儿就咕噜咕噜的饱了,但它彷佛是有灵性一样的,仍然不住的舔舐着王媛媛的两颗乳头,帮她分解乳房中那难言的压力。   祝家姐妹的早操也终于结束了,她们欢蹦着朝着自己同甘共苦的姐妹们跑过来——她们可真是一根稻草上的蚂蚱,有福同享有难同当,昨天,她们还一起尝到了马尾穿刺乳头的虐刑呢。   那可真是残酷的刑罚,每个姑娘都分到了十根细长细长的马尾,这种东西比绣花针还要细,有着充分的韧性和尖锐,教官给她们的惩罚是把这些马尾通过输乳管扎进自己的乳房中去。   姑娘们都是哭着完成的,毕竟要把这么长的东西通过那敏感的乳头刺进去,可不是说说就能完成的。   自己实在是下不了手,就只好哭着让自己的好姐妹来下手。那可是充满了乳汁的乳房啊,两颗乳头只要轻轻的一捏,就会喷射出一股浓香的奶汁。方芸和王媛媛都是相互捏着对方的奶头,又是哭又是叫,明明疼得不行,还要努力地挺起胸脯,保持着上身的笔挺,好让姐妹快点把剩下来的马尾刺进去。   虽然每一根马尾都有半米长,但她们都把它们完整的穿进了自己的乳房,也是这一天,教官破天荒的允许她们带上胸罩——这可不是什么恩赐,原本应当起到衬托额保护作用的胸罩,这时候却成了折磨女孩们的帮凶。她们的乳头被那胸罩上的海绵弄得瘙痒不堪,即便是坐在那里听教官讲话都源源不断的流出奶汁——那可真是壮观的一幕:   数百名下身赤裸,阴蒂上统一挂着配重小球,双腿呈八字分开的姑娘,双手剪在身后,每个人都保持着昂首挺胸的姿势,她们都穿着统一的宝蓝色胸罩,胸罩里的海绵都已经完全湿透了,吸满了水份。   教官说,之所以安排这么一个项目,原因很简单,就是要让所有的军妓们都亲如姐妹,体会那种水乳交融的姐妹之情。   「不知道今天又会安排什么项目来让我们做姐妹?」方芸和王媛媛她们用过了早饭之后回去洗了个澡,挤了两瓶奶之后来到了操场。   按序排队之后,她们把配重的金属小球用一根短短的金属链挂在自己的阴蒂上——她们就是用这种方式来强迫自己的阴蒂总是伸长再伸长。   这种时候是不能夹乳夹的,因为教官们喜欢看她们的乳头上挂着乳汁,一滴滴向下滴落的样子。   光着身子站在操场上,方芸都觉得自己变黑了不少,不知道等到这次的集训结束之后,连长会不会嫌弃她从一只白妞变成了黑珍珠?   「告诉大家一个好消息!」总教官拿着手提扩音器在这肉林之中穿梭着:「三周的集中特训已经快要结束,再进入下一阶段之前,你们将有三天的假期,去海边,好好地休息休息,开心不开心?」   「开心!」答桉是毫无疑问的。   「那好,努力完成今天的训练目标,明天早上乘车出发。没有完成的,将留下来,继续加倍特训!」   既然说好了是最后一天,那么这群以折磨女孩子为能事的教官们自然是会想尽各种办法来折磨、羞辱她们。   首先,他们就玩了一个相当「有意思」的小游戏,每个班组轮流出列在数百名姐妹以及教官们面前站立式放尿。如果有一个女孩没有尿出来,那么全组的姐妹都要受罚——电击尿道口。   在众目睽睽之下,做这样羞人的事情,还要站着分开双腿,向一个男孩子一样放尿。方芸过去想都没有想过。但是看到前面的姐妹们有因为各种缘故而尿不出来被电击针刺入尿道之后电的小便失禁的惨状,她也恨不能自己一上去就尿如奶下。   可惜的是,对于她们这些姑娘而言,碰碰奶头就有 100ml的奶水滚滚而下,用电击棒点一下奶头就能飚射出一米的奶柱,但要她们当众这样没羞没臊的尿出来,却还是颇有困难的。   终于轮到她们这一组了,站在众目睽睽之下——为了让大家看得更清楚,讨厌的教官们还拿来了一组板凳,让她们分别一只脚踩着一个,这样阴门就不得不分开,即便是不用亲自拿纤纤玉指扳开洁白无瑕的大阴唇和粉嫩鲜嫩的小阴唇,也会把那羞涩的尿道口展现在众多的姐妹们面前。   面对着满满一广场的姐妹们,方芸鼓足了勇气,憋足了劲,银牙咬碎,可是膀胱里虽然充满了尿意,可就是一滴尿液都没有滑出那短短的尿道。   尽管她知道自己不是唯一的,但她的心里仍然充满了歉疚,去和姐妹们一起接受长达十分钟的电疗——直到她们尿出来为止。   在之前的特训中,姑娘们已经享受到了十多种不同的电刑,也见识到了各种琳琅满目的电刑工具。比方说专门针对阴蒂设计的电刑钳子,它看上去就像是一个普通的电工钳子一样,除了多了两个小尾巴。   但是当它的尖嘴夹住女孩儿娇嫩的阴蒂的时候,那种酸爽,简直令人难以置信。电刑钳子不仅可以用来钳住阴蒂,还可以夹住阴唇,当左右两边都夹着电刑钳子的时候,那种平方倍的酸爽,简直是欲仙欲死。   还有为电击子宫颈而设计的阴道电容器,它看上去就像是一个用来烧开水的加热器一样,但当通电之后,整个阴道都会变成沸腾的小火锅!而位于底端的子宫颈则更是一阵酸麻接着一阵麻痒,那种感觉,方芸被电过一次之后整整一天都不想吃任何东西了。   还有为可以挂在乳头上的电击圈,一边飙射出奶水,一边看着自己的乳头上闪烁着蓝白色的电光,很多心理承受能力欠佳的姑娘在第一轮中就晕了过去,然后再被电击弄醒过来。   此外还有专门电击脚板底的电击鞋,这可是让姑娘们不停跳舞的好工具。电击耳垂的带电耳环——叫你们不听话,不听话。   今天,她们又可以尝道一种新玩具:电击针。   其实之前已经有姑娘品尝过这种奇妙的玩意儿了。它和那阴道电容器很相似,但是要细的多。尖尖的金属头,柔软可弯曲的金属身子,让方芸想起了可怕的小虫子,但是她却不得不把这条全身都是金属的虫子塞进自己的尿道里面去。   姑娘们都是愁眉苦脸的,方芸弄了半天才弄进去一个头,再要往里面去一厘米都是十分困难,而王媛媛的进度就要快许多了,她已经弄了一大半进去——不知道这里面是不是有什么诀窍。   白如霜也是费了好大劲而弄进去一点点。温婧可怜兮兮的看着教官,表示自己实在是弄不进去——于是教官们决定过来帮她一下——他们把一个电刑钳子插进了她的尿道,然后按下开关——方芸发誓,她看见这位美丽的姐姐至少跳起来有两米高!   「现在洞够大了。」教官们坏笑着按住温婧不断抽搐的身子,把电击针插进她的尿道中去。方芸看的两股战战,使出了吃奶的力气,拼命地把那细长的导线塞进自己的尿道中,一直深入到膀胱深处。   「好了,姑娘们,享受一下你们从未享受过的终极——快感吧!」教官坏笑着按下了电流,姑娘们都跳了起来,疯狂的舞蹈着。方芸已经完全无暇去顾及周围的任何人,她只晓得自己身体似乎已经完全摆脱了控制,从那难言的隐秘处传来的奇妙的快感,让她的双腿,她的双手,还有她的双乳,都完全不听使唤,快速而狂烈的舞蹈了起来。她只觉得自己的肚子里好像烧了起来,好像是沸腾了起来,整个人也似乎要腾飞起来似的。   当她最后停下来的时候,发现自己已经一屁股坐在了地上,双腿间水淋淋的一滩不用想也知道那是什么东西。   她捂着脸和王媛媛一熘小跑的跑回宿舍好好的洗了个澡——对着镜子,方芸发现自己的尿道口已经变大了许多,似乎都可以伸进去一根指头了。但碰一下却还是疼得厉害。看来这电击的后遗症会让她今天一天都骚骚的。   王媛媛也红着脸捂着下身表示,自己的里面好像被电坏了一样,尿液不断的滴出来,就像她的乳头一样。   到了教室里,姑娘们相互交流一下,表示自己也都差不多。祝家姐妹索性都拿出来了卫生巾垫在身下。这时候教官们来了,他看了一下姑娘们那湿漉漉的下身,耸耸肩:「今天就不训练你们的私处了,亮出你们的奶子来!」方芸松了一口气,她宁愿自己的奶子被玩一千次,也不想让自己的阴道再受苦了。王媛媛却还苦着脸:「我宁愿他继续把我的阴道玩坏,总要给我留个好的吧。」   各怀着自己的心思,姑娘们在地上坐好,挺起胸。看��教官给她们每人发了两根小蜡烛。   「把火点上。」教官一边给她们分发着火���,一边道:「然后放在地上,用你们的奶���对准它们,做俯卧撑。」   「我就知道不会轻松。」方芸小声嘀咕着,但还是按照教官的要求,点上蜡烛,然后把它们放在身下正对着自己奶头的位置。   闪亮的火苗如果是出现在生日宴会上无疑是很受欢迎的,但是如果出现在奶头下就很焦灼人了。姑娘们都没有这些教官们那样强悍的麒麟臂,但是如果不想让自己的奶头淹没在火焰之中的话,她们就要努力的支撑起自己的身子,和那一对此刻格外沉重的奶子。   白如霜的力气最弱,她已经快要支撑不住自己的身子了,那一对可爱如玉的小奶子就在火苗的上方晃来晃去,想必她那娇嫩的奶头早就已经感受到火苗的热情,此刻已经温热非常了呢。   还好,教官们并没有真的打算把她们的那一对可爱的乳房都做成烤肉的打算,七分钟之后就吹响了休息的口哨——这时候她们每个人都已经是满头大汗,一个个精疲力竭的仰卧在地上。胸口的那一对雪球玉乳不住的上下颤抖,看上去真的是赏心悦目。   「好了,别偷懒,下一轮开始。」教官拿皮鞋踢了踢她们那娇嫩的私处把她们一个个的叫起来,坐上三角木马——这可是如了王媛媛的心愿,她们的阴道可以好好的尝一尝被噼成两半的感觉。   同时,教官也没有忘记要玩坏她们奶子的承诺。他走来走去,把蜡烛的烛泪滴在她们的乳头上,然后再用火苗把凝结起来的蜡烛油烤成液体,如此反复,直到她们的每一个奶孔都被蜡烛油堵得死死地,一丝的缝隙都不留下来。   「现在我把你们的奶头都封死了,在你们接到命令可以开封之前,绝对不允许私自开封。否则,你们将面临最严厉的军纪惩罚,明白吗!」经过几个星期的残虐训练,这些姑娘们对教官说的每一句话都是当成圣旨来听了,即便他要求她们用刀子割下自己的乳房她们都不会有任何拒绝的心思的。   其实,腊封乳头并不算什么新闻,这对于军妓们来说其实还是一种保护呢。   这些楚楚动人的女孩子们饱满的乳房,由于经年累月的都处于泌乳的状态,乳腺和输乳管都处于巅峰的工作状态,娇嫩乳头上的乳孔也格外的容易收到各种外来物的侵袭,据军队医疗部门的统计,军妓们最常发的职业病就是乳腺感染。因此,过一段时间,就用具有天然杀菌作用的蜂蜡把乳头密封起来以避免细菌或者是其他什么鬼东西的侵袭,是十分有必要的保护措施。   而且,再开封也是件非常容易的事情,只需要将乳头浸泡在超过40℃的温水中五分钟即可。当然,如果事态比较紧急的话,用手大力的搓揉乳头也能起到同样的效果——俗话说得好,大力出奇迹嘛。但正像我们每次撕开易拉封包装的牛奶都会弄得自己满身一样,大力固然可以出奇迹,同时也会带来一点小小的社交困扰。   晚上下课的时候,教官终于允许她们解开这个邪恶的封印,女孩们就嘻嘻哈哈的在教室外玩起了射乳的游戏——她们相互挤着奶水,以把飙射对方一身都是自己的奶味儿为乐。   直到晚上洗香香睡觉觉的时候,方芸还和王媛媛在相互玩着对方的乳头——由于明天早上就可以出去开心的度假,女孩子们都很幸福,不约而同的都来到了这间屋子里准备提前狂欢一下。   祝家姐妹为大家表演起了她们姐妹的百合秘戏。姐姐温柔的吃着妹妹的爱液,妹妹用灵巧的舌头爱抚着姐姐那灵敏的蚌珠,看的方芸不由得就想起了自己的那个最可爱的妹妹慕容璃。   不过,王媛媛也不差。方芸托着乳房,看着正在闭目吮吸自己奶子的王家小妹妹,也觉得释然了许多。   小奶猫是今晚的大赢家,它不仅吃到了王妈妈的奶,还把在场的所有的妈妈们的奶子都咬了一个小小的牙印作为礼物。   「真像我家姑娘。」温婧抱着小奶猫,任它叼着自己的奶头不放:「我家姑娘小的时候吃的我奶也是这样,拔都拔不出来。现在给她吃她都不吃呢。」温婧家的女儿,大的十一岁,小的六岁,都在军队的寄宿学校读书。当军妓就是这点儿好,子女从生下来都有人管着,一点都不需要自己操心。温婧生头一胎的时候才十七岁,现在一转眼都快要一轮的时间过去了。她的女儿都快要来初潮了。   「等她来了初潮,就好送她去专门的学校学习。然后等到十六岁就应征入伍。」温婧计划的很好:「我明年就退役了,到时候可以陪陪她们姐俩。」说到这儿,方芸又想起了自己的爸爸,是他把自己从女孩变成了女人。她也顺口说道:「等我退役了,我要回去给我爸爸生一窝孩子。」「呀,原来方芸是和自己的爸爸有一腿啊。」女孩们窃笑,不过这倒并没有什么奇怪的,她们很多人都和自己的父亲,或者是兄长有着性欲上的关系,这叫什么来着——遗传性性吸引。很科学的。   「我想养一只马。」王媛媛语出惊人:「我曾经的室友,她是个千金小姐,她初潮的时候她爸爸就送了她一匹马,后来她把自己的处女血给了那匹马。」「哦……听上去可真……」白如霜似乎有些跃跃欲试的架势,但却又有些畏缩:「人家还是只要一只可爱的狗狗就好了。」「我还是喜欢男人。更多,更强壮的男人。」娜塔莎叉着腰,她的腿长,阴户也格外的高,长长的阴蒂突出在阴唇之外格外性感:「我说不定会找一家真正的妓院,去做一个最棒的妓女呢。」   何柳摇摆着她的柳腰:「人家想回去继续跳舞,当个老师也很不错。」「我要开一个甜品店。」何韵做个鬼脸:「就用我自己的乳汁,不用牛奶。   」   「那么我们一定要去捧场。」女孩子们欢笑道,相互闹成了一团,彼此间亲密的摩擦着对方最敏感的性器,同时还把自己的花蕾和花瓣奉送出去,不知不觉,居然就已经是第二天的早上了。   一路的欢呼雀跃,一路的叽叽喳喳,姑娘们开开心心的唱着歌,讲着笑话,八着卦,坐着大客车就来到海边——下车的时候,她们每个人都知道了彼此的初潮、周期还有开苞时间和对象。   「大海啊,大海!」方芸兴高采烈的站在海滩上叉着腰大喊大叫,虽然入的是海军,但是她们这个海军基地却压根不在海边上,以至于看到海水还把她兴奋地像是一个十六七岁的小姑娘一样。   换上比基尼,有的晒起了太阳,相互抹着防晒霜和橄榄油。还有的活泼好动的打起了沙滩排球。喜欢游泳的下海去游两圈,或者报个冲浪板去冲浪,姑娘们玩的不亦乐乎,花样百出。直到太阳下山了才恋恋不舍的回到她们定好的海滨酒店。   「要是有一些精壮的小伙子就好了。」方芸一边享受着泡泡浴一边感慨道,王媛媛依然还是她的舍友,她也依然还抱着那只可爱的小奶猫。小奶猫喵喵的舔着王媛媛的奶头,弄得她咯咯笑个不停。   终于,她们可以睡一个安稳的觉,不用再去当心明天早上起来会被电弧灼伤奶头或者是阴蒂,也不用再去害怕万一挤不出符合标准的奶水而被吊打奶头。终于,可以在舒适的大床上,盖着带着清香的被褥,枕着大海的波涛声,甜美的睡一个安静地美梦。   在梦中,方芸梦见自己身处于一片金黄色的麦田之中。游荡在秋千之上,似乎慕容璃还在和自己欢笑,这真是美丽的风光,最美不过的场景。若是可以,她希望一生一世都和最爱的小璃这样长相厮守,永不分离。   「起来啦!」王媛媛的呼喊声,把方芸从美梦中拖了出来:「我们去海滩吧,昨天约了她们打沙滩排球的。」   真是的……方芸慵懒的从床上爬起来,洗漱之后也懒得穿衣服——在海滩上,穿着比基尼毫无疑问是会晒出难看的痕迹的,索性什么都不穿,还赤条条的无牵挂呢。   一条不知道是哪儿来的小狗汪汪的追逐着这些一丝不挂的姑娘们,在她们的胯下穿来穿去,好生大饱眼福!   「来,我发球了!」方芸喊了一声后把排球击向了空中,娜塔莎个子高挑,她们这一队有这样一位主力,赢球总是轻轻松松的事情。   祝家姐妹玩的一身都是泥巴,还光着屁股在海滩上相互追逐着,嘻嘻哈哈的笑声传遍了整个度假村。   「真想这样的日子就一直下去。」玩累了的白如霜如同烂泥一样躺在沙滩椅上起不来,温婧笑道:「谁不想呢。这样的日子多好啊!」话音未落,天边却飘来了几朵乌云,眼尖的王媛媛喊道:「快回去吧,要下暴雨了!」   是啊,盛夏的海边,就是这样翻脸无情。刚才还玩的热火朝天的海滩呼啦啦一下子人都跑光了,刚才明明还是明媚无比的晴好天气,却忽然变得风狂雨骤。   「好像是热带风暴了,这两天都会有雨。」方芸查了查天气预报:「看来我们剩下来的假期就只能在酒店里面过了。」   「啊,那多无聊啊。」姐妹们一起抱怨道。   这时候,别的组的姐妹们正好有几个路过:「嗨,你们一起去玩吗?」「去哪里玩啊?」   「对面有个俱乐部,听说有轮修的军官下午到,我们先去看看。」「同去,同去!」   女孩们一下子斗志昂扬了起来,方芸却一把拉住娜塔莎和白如霜:「我说姐姐……你们就这样素颜朝天的去?」   还是方芸提醒的对,姑娘们赶紧都跑回各自的宿舍,拿出随身的化妆包来精心打扮一番。方芸换上一套性感至极的比基尼——在这里,还有比比基尼更好的交际礼服吗?和王媛媛她们手挽着手,嘻嘻哈哈的去了不远处的军官俱乐部。   虽然姑娘们并没有拿到卫兵口中所说的「邀请函」之类并不存在的东西,但是,她们那香喷喷的肉体和姣好的面容就是最好的通行证啊。   「我们不是客人!」温婧大姐挺胸怒斥着不识时务的卫兵小哥:「我们是物品。」   「对呀,对呀。」姐妹们一起叽叽喳喳:「我们是军官们的日用品。」长脚还会说话的日用品。当然不需要出示子虚乌有的邀请函了。焦头烂额的卫兵小哥在请示过他的领导之后,很快就把这些日用品全都放了进去。   「请尽情的享用我们吧!」姑娘们欢呼着,好像赢得了一场战役的伟大胜利一样。
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jinghuablog · 1 year
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三年笔耕在文城——留言集锦
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入城差不多三个年头,东拼西凑写了六十三篇博文,这些文章的质和量我觉得都不合自己的心意。首先质比不上城里一大群才女所写的锦绣文章,量更比不上每天辛勤笔耕的博主,所以没啥可值得骄傲的,自己唯一觉得欣慰的是以认真的态度写博,写博的目的是把感动自己的人和事写下来,再分享给他人,如果连自己都不能感动,又何来影响别人?而感动自己的前题只有"认真"二字,别无它途。
我除了认真写博之外,还体现在与博友的互动上。以���我只是埋头写博,不主动与人交流互动,那时我总觉得随便给人写留言,有点像一个小孩在一大群大人面前随意插嘴一样的无礼。直到半年前,我才开始尝试给一些博主写留言,谈读后感,也算是迈出了一小步。最近我蓦然发现半年来我总共写下六千多字的留言,真是一种意外的收获。留言是即兴的,很多都没经过深思熟虑,有很多错字,别字,甚至有文理不通,漏洞百出的病句。我把这些留言进行了修改和润色,略去一些不必要的问候寒暄的句子,汇总成一篇《留言集绵》的博文,也算是对自己入城三年的总结。
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1)用我们的谦卑欣赏他人的美丽;用我们的善良慰籍别人的痛苦;用我们的真话戳穿谎言的虚伪;用我们的良知筑起人性的底线,这是我来文学城的目的。
2)如果这个世界只有一种声音,我宁愿不再发声;如果这个黑夜特别的漫长,我宁愿独守到天明,"生活,恰恰是不顺从。"
3)这个世界不存在完美的社会,只有不断进步的社会,所以,我们在国外最常听到的是批评政府的声音,还从未听说过有赞美政府的说辞。只有完美才享有赞美,而歌功颂德去赞美政府不是蠢,就是坏。
4)《论语》里有一句话:"德不孤,必有邻",从平等兄的好文中能体会到什么叫"必有邻"。过去我经常说,用良知守住人性的底线,但仅仅一个"守"字,在目前的大环境里显得有些苍白,一味的坚守,最终会灰心丧气的弃守。可喜的是,文城中用良知作为武器用来反击的博主大有人在,实在应该给予大声的鼓与呼!
5)八十年代初,我也十分喜欢谢、王二重唱组合,他们的歌声纯美、悠扬、欢快,充满校园的青春气息。非常怀念那个风华正茂的年代,只可惜它竟成了一段永远回不去的岁月。谢谢墨脉的好文纪念,献歌缅怀。
6)菲儿写得真好!自由之树需要我们的万般养护才能枝繁叶茂,"自由之树需要经常用爱国者的殉道才能保持长青"。
7)住大房,外表光鲜,烦心事却也不少,特别是上了年纪之后,干什么事都有点力不从心,颇有点"佳丽当前,未能缱绻"的无奈,所以大房换小房应该是必然趋势,置换的小房最好带有一个小小的花园,每天能在园子里干点体力活,对身心健康很有帮助,
8)我们没有能力阻止一场场人间悲剧,但我们有责任记录一段段历史。拿起我们手中的笔,用文字来记录那风雨坎坷的岁月。
9)"润"是一个十分私人的话题。"润"是个过程,在这之前你得先有个目标和预期,如果"润"成功了,便会产生"润"的结果。每个人"润"的目的不一样,"润"出去之后,其结果又不尽相同,所以大家对"润"的看法,很多时候都南辕北辙。一般来说,"润"的预期和结果比较一致,甚至结果大大超过预期,对"润"持比较正面的看法,"润"的预期和结果不一致,则看法刚好相反。另外你对西方社会越是了解,越融入主流社会,"润"对你来说就更具个人意义。西方的民主自由虽不完美,但它却是当今最人性化的一种政治制度。
10)一次次地把悲伤留给自己,人的一生要经历多少次这样的痛苦?命运有时真的很残酷,个人唯一能做的是度过悲伤,走出悲伤,重新去笑对生活。生活从来不易,而微笑恰恰是对命运的不顺从。
11)里根总统:"任何事情都是可以谈的,除了我们的自由跟我们的未来不可以被妥协。"既然自由与我们的未来,我们子孙的未来划上了等号,它就值得我们拚尽全力去争取,去捍卫!
12)窥一斑能知全豹吗?有时还真能。海风姐现在闲情逸致的看工人们砍树,这恰好印证了一句古话:"若无闲事挂心头,便是人间好时节。"
13)"人到中年学会做减法",这个题目非常好。我们这个年龄段的人大多历经过许多风雨,以至于包袱太多,太重,如果生活中没有学做"减法"的大智慧,恐怕只会越活越累。人要活的轻松快乐,只有学习做"减法"一途,佛家的所谓"心空则灵"也是这个意思。
14)把看似平凡普通的生活,写成一篇令人玩味不尽的随笔,海风姐的文字功底不凡。
15)利用人们的善良和慷慨来行骗,实在应该罪加一等。
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16)"君子不立危墙之下",这个常识性的道理人人都懂,但为什么还会有人对此熟视无睹呢?其实人的常识经常败于复杂人性,而人性中的情感和理性都会左右你对危险的判断,所以人生的悲喜剧就此不断重复上演。
17)简朴的生活我喜欢。简朴的日子看似单调重复,但它却带给你真实,简单和随心随意,就像回到快乐的童年一般,而童年的无忧无虑才是人生最美好的时光。
18)俄罗斯侵略乌克兰已近一年,侵略者的残暴和抵抗者的英勇颠覆许多人的想象,由此可见,这场战争的血腥与残酷。乌克兰女性是这场战争最大的受害者,同时她们又是国家自由与独立的保卫者,她们才是我们这个时代最美丽,最伟大的女性。天佑追求自由与和平的乌克兰人民!
19)马克的退休模式真不错,自由自在,随缘而安,这样的生活我也十分向往。其实只要自己喜欢,哪儿都是理想的卜居之所。
20)如果把儿子当成一个如来佛,女儿当成一个观世音供着,然后幻想着孩子成为一个栋梁之材,简直就是天方夜谭。教育首先是把孩子当成孩子来看待,离自然近些,离功利远些,这样对孩子的身心健康都有利。
21)佳美的日子,看看书,码码字,喝喝茶,逛逛街,甚至外出游山玩水,寻古探幽,这就是退休带来的好处,这样的生活真让人羡慕!
22)"惊蛰一声雷,万物复苏生"这是自然界赐予人类节气上的春天,其实,我们还有一个春天,那就是一个人心灵中的春天。这个春天唯独垂青于精神明亮的人,
23)问题在"奇迹"二字如何诠释。如果一个人除了奇迹之外,剩下的还是奇迹,那他可真称得上是人间的"奇迹"。
24)这地球的一北一南,真像是冰火二重天。今天我们悉尼的气温高达40度,在高温酷暑下读小C这篇《大雪》的博文,不知怎的有种暑气渐消的感觉,神奇!
25)友谊需要二造,所以要维持这份感情长久于不坠并不容易。我认为要维系朋友的友谊长青,朋友间的价值取向所占的份量会越来越重。尤其处于大动荡,大变革的时代,许多成长中的友谊在风雨飘渺中更加的脆弱,友谊的小船倾覆沉没也会越来越常见。
26)啃老现象中外皆有,问题根源还是出在父母的教育上。其实孩子羽毛既丰,就应该让他们各自打拚,各奔前程,上、下二代保持可疏可密关系,这样对双方都大有好处。
27)我们是这个时代的亲历者,也将是这段历史的记录者。
28)特别喜欢麦子这篇的结尾:"这个星球上还有那么多未知的角落,我们一定要努力好好地生活,以便有更多的时间和更多的体力走向远方……"这个世界变得越好,我们就会走得更远!
29)城皇庙太熟悉了,整个八十年代,我在外滩上班,中午,经常约同事去那里吃中饭,单打、双打、油豆腐粉丝汤、南翔小笼包、阳春面、蟹肉馄饨、素菜包、鲜得来排骨年糕、宁波汤圆.……过去最平常的弄堂小吃,现在都摇身上了一个新台阶。过去家乡的那些人和事,现在只剩下美食最可爱了。
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30)我们从小耳熟能详的一句话就是:"戆人有戆福"。有戆福的人,在我看来主要是循规蹈矩,不折腾的人,而"规"与"矩"是不能轻易去打破的。一般来说,会折腾的人都活得比较累,人一折腾,福也就跑的无影无踪,不管是国家,还是个人都是如此,上海人讲的"装戆"与江泽民说的:"闷声大发财",有着异曲同工之妙。环视一下我周围的"澳戆"邻居们,个个都活得无忧无虑,超幸福。
31)“爱”是心理的“本我”,是发乎于情;“不爱”是心理的“超我”,是止乎于礼。"沈香说得真好!爱能表现出人天性中崇高的品质,而不爱和恨则刚好相反,甚至是孕育邪恶人性的温床。在"本我"和"超我"这场拉锯战中,人世间的爱恨情仇就这样永无止境的轮番上演。心理学家也是人,只是他们在演出时更加的出色。
32)"人权"和"重典",二者孰轻孰重,确实很难平衡。中国人还是信奉"乱世用重典",我认为这个"重典"应该用在惩处危害公民人身安全的犯罪上,而不是用在清除政治异己上。
33)看了弄弄的回国记,我也为国内的进步感到十分欣慰,真心希望老百姓都能过得平安富足。其实,我们身在国外华人对国內的认知也并没有错得离谱,如果你把时间线拉长,回去的时间拉长至二个月,二年。把地域线拉宽,从北京、上海扩大到三,四线城市,甚至穷乡僻壤。再把财富线拔高拉低,从权贵、富豪延伸至底层的市民、农民,或许回国的观感更加接近于真实的中国。
34)我们都是寻常百姓,人微言轻,不可能去影响历史。我们唯一能做的是直面自己所经历过的那个时代,凭着自己的良知,书写我们所见,所闻,所感,记录真实的家史,国史,也算是对得起我们走过的岁月。
35)上世纪七、八十年代,我经常去福州路上的旧书店淘书,那种淘书的乐趣,淘书而偶有所获的快感,真的能让人开心好几天。现在的那些高大上的书店,却再也找不到当年的感觉。非常认同菲儿说的:"读很多的书和有文化之间,并不一定是简单的线性关系。"读书读成书癖,势必是个浅见寡闻的书呆,所以它们之间还要有另一种关系,那就是行万里路。只有多读书,见识广,眼界宽,才会拥有谦卑和儒雅的文人品质。
36)海风姐金句频出:"那会儿的天仙配,‘郎才女貌’。现在变成‘郎财女貌’了,当中的字一改,整个世界变样了。""装富比装穷艰难得多,就像傻子要装聪明一样。装穷往往是表面,心里不慌,而装富就不同了,劳心啊。""有些装穷的,技巧太差了,便有了喜剧效果。"静下心来仔细琢磨一下这些话,还真是这个理。
37)"装"的前提是你不具备的东西,但又想要去拥有它,才会出演一幕幕扮富装穷的闹剧,其结果往往是贻笑大方。其实。不管是富,还是贫,只要用自己勤劳的双手,来享受自己应得的生活,有啥可横挑鼻子竖挑眼的。
38)啥叫"蠢"?骗子如果把热情诚实,助人为乐当作蠢,我承认澳洲人是够蠢的,简直是蠢到了家。十分幸运,我被这种"蠢"潜移默化教育了30多年,今天自己也变成"澳戆"的一份子。但"澳戆"并不傻,一旦他的诚实受了伤,你再想赢得他的信任堪比攀爬一座大山。
39)"这一年,对我来说,写二十四个节气文,既容易也不容易……"其实我们的人生又何尝不是如此呢?当我们处在顺境时,要懂得戒骄戒燥;蹭蹬失意时,决不自暴自弃,永远不失自已的纯真,自己的优雅,就像沈香那优美的文字,让人赏心悦目。
40)在这个世界上,有些人因为觉得自己很渺小,便有了敬畏之心,做人做事不逾矩,"举头三尺有神明";有些人觉得自己很强大,甚至于胆大妄为,"敢教日月换新天"。二种人,必然会有二种命运。前者即使历经磨难,也能靠着信仰的力量而得���,后者终将会走向强大的反面,遭人唾弃。
41)上世纪八十年代,我在外滩大楼里上班,天天一张报,日日一杯茶,相看两相厌,还有浦江水,单调乏味。下班带着女友,外滩情人墙,不夜南京路,相看两不厌,惟有未婚妻,温馨浪漫。外滩的每一条街,每一栋建筑都有我青春的记忆。上海是我的家乡,也是我的最爱。
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monqu1y · 3 years
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラ��クを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊が再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地方警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警��学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、��が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を���て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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kiraidayo · 4 years
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20 Works That Inspired the Play “Spank Happy”
〈本〉
スペインの宇宙食 – 菊地成孔
戯曲のタイトルとそれから登場人物4人の名前は,このエッセイに何度も登場する某カラオケユニットが由来です.ちょうどこの頃(と,いうのは戯曲を書いていた平成30年の夏~秋に)再結成されてました.エッセイは饒舌な文体が魅力で抜き書きを始めたらキリがないが,たとえば「香水とポマードの匂いに涙の匂いが混じると,一瞬茹でた豚肉の匂いがする」「かすかに雨の音がして,部屋には誰もいない/金星というのは,こんな場所なんじゃないかな?」といったフレーズは裁断して台詞に混入させています.
 失敬な招喚 – エドワード・ゴーリー
映画のあらすじを滔々と話すシーンをつくったのですが,その内容はほぼそのままこの絵本(柴田元幸氏による日本語訳)をなぞっています.葛藤や反省を無視した,あっけらかんと進行する惨劇にもはや笑うしかない.ちなみにゴーリーは絵本作家になる前から演劇活動をしていたそうです.
 女生徒 – 太宰治
中学か高校の教材で初めて触れて以来,自分の書くものは結局ぜんぶ『女生徒』なんじゃないだろうか,と思うことがあります.今回は冒頭部分を智美のモノローグに拝借しました.太宰はいつか『ダス・ゲマイネ』も演劇でやってみたいです.
 教祖の文学 – 坂口安吾
安吾好きです.『教祖の文学』は評論家・小林秀雄を批判したエッセイのような短い文章ですが,「女のふくらはぎを見て雲の上から落つこつたといふ」久米の仙人の話で締め括られていて,その終わり方がめちゃくちゃ格好良いです.「人間だけが地獄を見る.然し地獄なんか見やしない.花を見るだけだ.」
 透明ポーラーベア – 伊坂幸太郎
2017年に劇団ロロの三浦直之氏が演出する『透明ポーラーベア』のリーディング公演,という宮城つながりの企画がありました.原作小説にもある,唐突に手のひらから花を出すマジックを披露するシーンが印象的でした.
 ライ麦畑でつかまえて – J・D・サリンジャー
先述の『女生徒』と並ぶ,自分にとっての基本です.たしか主人公の死んでしまった弟が,退屈しないよう野球グローブに好きな詩のフレーズをたくさん書いて試合中読んでいた,みたいな挿話があったと思います.サリンジャーの他の作品でも,子供部屋の壁に古今東西の詩や名言が落書きされている描写があって憧れました.
 水中翼船炎上中 – 穂村弘
「もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水」という短歌があって,そこから想起される早朝の空気感をこの物語のはじまりに設定しようと決めました.
 Kと真夜中のほとりで – 藤田貴大
劇作家の作品集ですが,戯曲ではなく詩が収められています.言葉の置き方・並べ方,時間処理の仕方などをすごく参考にしました.
 システムの化学 – ハーバート・A・サイモン
戯曲のなかで死神代行が喋っている,蟻の行列の話はこの学術書が出典です.大学の講義レポートを書くために購入したが,未だ読み終わっていません….
 〈漫画〉
ハチミツとクローバー – 羽海野チカ
『スパンク・ハッピー』は,自分なりの『ハチクロ』が書けたと思います.
 なくてもよくて絶え間なくひかる – 宮崎夏次系
宮崎夏次系大好きです.戯曲では,ひとみが舞台化されたこの作品の主役を張るという設定でした.
 セッちゃん – 大島智子
他国でテロが起きたり学生政治団体が加熱したり(昨今で言えばBLMとか,)そうゆうとき社会の空気に直ちに共感できる人たちに上手く馴染めない女の子と,馴染んでるフリでやってきた男の子の話です.単行本表紙の明るいグレートーンで描かれた世界と,『スパンク・ハッピー』の世界は同じ空で繋がっているような気がします.
 犬は映画を見ない – 箕芳
Webで公開されているのを偶々読んで,サイケデリックな内容がとても印象的でした.「俺は……出来ることなら映画を見ながら死にたいよ」という台詞にヒントを得て,智美の人物造形を掘り下げていった感じです.
 〈音楽〉
Somebody Got Murdered – キエるマキュウ
テーマソング的な位置づけで,戯曲冒頭に歌詞を引用しました.ヒップホップはあまり日常的に聞くことが無いのですが,キエるマキュウは別格です.
 Blank Generation – Richard Hell
挿入歌です.破れかぶれな気分をこれ以上無いほど研ぎ澄ました,世界一のパンクロック・アンセムだと思います.
 LIFE VS LIFE – SEBASTIAN X
『スパンク・ハッピー』の具体的なアイディアは平成30年7月の高松から仙台へ戻る新幹線の車中で閃いたのですが,ずっと前から花束で殴る殺人のイメージが焼き付いていて,それはこの曲に出てくる「死に方はもう決めてるよ/花束で殴られて死ぬんだ」という歌詞が元になっています.
 砂場の世界 – Gateballers
ひとみの台詞に「愛し合うのが難しいことだなんて,悪い冗談ね」とあるのは,この曲から頂戴しました.Gateballersの歌詞はどれも綺麗です.
 〈映画〉
男と女のいる舗道 – ジャン・リュック・ゴダール
どこで聞いたか読んだか忘れたが,たぶんゴダールの言葉で「映画を批評したいなら,自分で1本映画を撮ればいい」というのが,自分で戯曲を書こうと決める1つのきっかけとなりました.あと『男と女のいる舗道』のようなコラージュ的手法で語られる物語が好きです.
 リミッツ・オブ・コントロール – ジム・ジャームッシュ
殺し屋が主人公にも関わらず,基本的に毎日街を散策してカフェで一服するだけで,そこで毎回べつの情報屋から意味深な雑談を聞かされる奇妙な映画です.最終的に殺し屋はターゲットを匿う厳重警備の屋敷にあっさり侵入し,どうやって入ったか聞かれると,ひと言「想像力を使ったのさ.」
 レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ – アキ・カウリスマキ
戯曲のなかで宇宙食が最近見た映画に挙げています.が,自分は見ていません.カウリスマキ作品は大好きです.
 サッドティー – 今泉力哉
初稿を書き終わったあとに初めてこの映画を見たら,大ネタが被っているだけでなく,やりたいことの方向性とかもかなり近い感じがしてショックを受けました.でもすごく面白い映画です.
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cuttercourier · 4 years
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティテ���調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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xf-2 · 4 years
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1人が死亡し18人がけがをした福島県郡山市の飲食店の爆発事故で、死亡したのはこの店で行われていた改装工事の現場監督だった仙台市の50歳の男性と確認されました。警察と消防はプロパンガスによる爆発とみて詳しい状況を調べています。
30日午前9時前、福島県郡山市島2丁目にある飲食店、「しゃぶしゃぶ温野菜郡山新さくら通り店」で爆発がありました。 店の中で男性1人の遺体が見つかり、警察が身元の確認を進めたところ、仙台市太白区の会社員、古川寛さん(50)と確認されました。 警察などによりますと、爆発が起きた店は新型コロナウイルスの影響で4月から休業し、その期間中に店舗の改装を行っていたということです。 古川さんが勤務する仙台市の設計施工会社によりますと、古川さんはこの店の改装工事の現場監督で、壁紙を塗装したり床を貼り替えたりする作業を行い、ガス関係の工事は請け負っていないということです。 今回の爆発では、このほか周辺の銀行のATMを使っていた人や近くの会社の事務所にいた人など、20代から80代の男女18人がけがをしました。 このうち40代の女性2人が重傷ですがいずれも意識はあり、残りの16人は軽いけがだということです。 消防によりますと、爆発が起きた建物の敷地にはプロパンガスのボンベが6本倒れていて、このうち3本でガスが漏れ、バルブが壊れていたということです。 警察や消防はプロパンガスが爆発の原因とみて詳しい状況を調べています。
仙台市にある設計施工会社の小西造型は、今回爆発が起きた現場の店舗で壁の塗装や床の張り替えなどの工事を請け負っていました。
この工事は、今月23日から始まり、30日は、店の看板を補修する予定だったということです。
古川さんは30日朝、宮城県内の自宅から会社の車で現場に向かい、午前8時10分ごろ、現場に着いたことを会社に連絡していました。
契約している警備会社に、古川さんが午前9時の数分前に現場の建物の鍵を開けた記録が残っているということで、それ以降は連絡が取れていないということです。
当時現場にいた社員は、古川さん1人だったということです。小西造型は「古川さんは仕事熱心で、誰よりも現場に詳しい優秀な方でした。事故の原因は分かりませんが、亡くなってしまったことは非常に残念です」としています。
爆発による衝撃 数百メートルにわたる
爆発現場となった郡山市島2丁目付近は、郡山市役所から西に1キロほど、JR郡山駅から、西に3.5キロほど離れています。
市の中心部で、商業施設や住宅地が広がる地域です。
爆発による衝撃は、数百メートルにわたって伝わったとみられ、周辺の店舗や住宅に、窓ガラスが割れるなどの被害が出ています。
このうち、現場から南に150メートルほどの離れた桑野協立病院では、職員が地震と間違えるような震動を感じ、1階から4階までの窓ガラスがあちらこちらで割れているということです。
また、現場から東に370メートルほど離れた郡山女子大学付属幼稚園でも、ドンという大きな音とともに窓ガラスが1枚割れる被害が出ています。
爆発は改装工事中のフランチャイズ店
「しゃぶしゃぶ温野菜」の運営会社を傘下に持つ外食大手の「コロワイド」によりますと、爆発があった「郡山新さくら通り店」は直営店ではなく、いわゆるフランチャイズ経営の店舗だということです。
平成18年に開業し、これまでに店側からガス漏れのトラブルが報告されたことはなかったということです。
この店舗は、ことし4月23日から新型コロナウイルスの影響で休業していて、今月21日から31日までの予定で改装工事を行っていたということです。
隣の電気工事会社 5人けが
爆発があった飲食店の東側にある、電気工事の会社に勤務している65歳の男性によりますと、当時、社内では100人ほどが勤務していたということで、男性は天井から落ちてきた照明が頭にぶつかりけがをしました。
また、この男性も含め合わせて5人が割れた窓ガラスが当たって首に切り傷を負ったり、崩れてきた壁で背中を打ったりするなどの軽いけがをしたということです。
男性は「とても大きな衝撃で、飛行機が墜落したかと思いました。事務所の窓ガラスが数多く壊れて、突然落ちてきた照明に頭をぶつけ、けがをしました。会社が再開できるように、いち早く復旧したいという思いです」と話していました。
100メートル余り離れた高校では
爆発が起きた飲食店から南へ100メートル余り離れた高校では、爆発の衝撃で教室の窓ガラスが割れ、けが人はいませんでしたが、生徒たちの間には動揺が広がっていました。
郡山女子大学附属高校は、夏休みが短縮された影響で31日までが登校日で、爆発が起きた当時は朝8時40分から全校で試験が行われていたということです。
学校によりますと、爆発による爆風や揺れで30枚ほどの窓ガラスが割れたりひびが入ったりしたほか、天井の配管がずれたり、ドアが壊れたりする被害があったということです。
けが人はいませんでしたが、被害を受けて、その場で泣きだしたり、過呼吸になった生徒が少なくとも10人はいたということで、担架や車いすを使って保健室に運び、休ませたということです。
もっとも被害が大きかった2年1組のクラスでは、校舎の北側にあたる窓ガラス2枚が大きく割れ、すぐ近くの机の下に落ちていました。
窓側から2列目の席に座っていたという生徒は「耳が痛くなるくらいの大きな音がして、同時にガラスが割れ、すぐに体を投げ捨てるようによけました。とても怖かったです」と話していました。
また、隣のクラスにいた40代の男性教諭は「窓が揺れるような風圧がものすごく強く、試験中だったが、生徒たちも動揺し、自分自身も恐怖を感じた。生徒には大きなけがの報告はないが、非常に動揺している」と話していました。
約120メートル離れた病院では
現場から北におよそ120メートル離れた病院に併設されたリハビリ施設でも爆発で大きな衝撃がありました。
施設の中にある浴室の脱衣場では天井の一部が崩れ、火災報知器が垂れ下がった状態になっていました。
また、リハビリなどを行う部屋でも天井についていたエアコンのカバーが2つ外れたということです。
そして、施設の中にある時計は8時55分のままで、爆発の衝撃で止まったものとみられます。
爆発当時、リハビリ施設で勤務していた理学療法士の海藤寛喜さんによりますと、施設には利用者とスタッフおよそ30人がいましたが、けが人はいなかったということです。
海藤さんは「耳が痛くなるような大きな音と地震のような大きな振動を感じ、最初は何が起こったのか分からなかった。利用者の安全性の確保を最優先に考えました」と話していました。
現場近くの病院看護師「爆発音が2回 すごい音と風圧だった」
爆発があった現場から南に100メートルほどの桑野協立病院では、現場側の病室などの窓ガラス、およそ90枚が割れ、さらに病棟内の一部の電灯も落ちる被害がありました。
当時、病院には入院患者およそ80人と看護師などのスタッフおよそ120人の合わせて200人余りがいましたが、けがをした人はいなかったということです。
病室にいた看護師は「突然、爆発音が2回して、すごい音と風圧だった。窓が粉々になって、外を見ると辺りは灰色の煙に覆われて見えなくなっていた。何が起きたか分からず、必死に患者の安全を確認した。振り返ってみるととても怖く全員が無事だったのは奇跡だと思う」と話していました。
病院は、30日は外来診療を休止し、31日からは一部を除いて再開する予定だということです。
美容院で働く女性「建物の近くの道路に人が倒れている様子確認」
福島県郡山市で爆発があったとみられる現場から東側に450メートルほど離れた美容院で働く女性は、当時の様子について「ドンという爆発音を聞いたので急いで店の外に出てみると、建物から煙があがっていました。建物の近くの道路には人が倒れているような様子も確認できました」と話していました。
また、この美容院の周辺の店舗などでも窓ガラスが壊れるなど被害がでているということです。一方、この美容院には被害はなかったということです。
郡山市が避難所を開設
福島県郡山市は、爆発の影響で住宅に被害を受けた人などを受け入れるため、午前10時から、市内の亀田1丁目にある「桑野地域公民館」に避難所を設けています。
総務省消防庁 現地に職員派遣
総務省消防庁は原因の調査を支援するため、消防研究センターの職員を現地に派遣することを決めました。
また、消防庁の職員も管轄の消防本部に派遣することにしていて、爆発が起きた状況などを詳しく調べることにしています。
専門家「漏れたガスの量もかなり多かったのでは」
東京消防庁のOBで、市民防災研究所の理事、坂口隆夫さんは「映像を見るかぎり、プロパンガスが室内に漏れて、何らかの原因で着火して爆発したと考えられる。店の天井や壁が全体的に吹き飛んでいて、骨組みだけになっている。周囲も4つの方向すべてで被害を受けている。漏れたガスの量もかなり多かったのではないか」と指摘しています。
そのうえで、「これだけ激しく建物が壊れているので、建物は耐火構造ではなく、簡易的な構造だったのではないかと推測される。耐火構造であれば、壁などがすべて吹き飛ぶということは、よほどの圧力が加わらないと起きないと思われる」と分析しています。
この飲食店は新型コロナウイルスの影響で4月から休業していて、その間に改装を行い、31日から営業を再開する予定だったということです。
こうしたことも踏まえ、爆発の原因については、「通常の状態であれば、ガス漏れはそう簡単に起きるものではない。営業再開に向けて改修工事をしていたならば、ガスの配管、あるいは器具の近くで工事などが行われていた可能性があり、それによってガス漏れが発生したのではないか、ということがまずは考えられる」としています。
また、長期の休業を経て営業を再開するほかの飲食店についても「ガスの元栓を閉め、店舗内にガスが供給されないような状況にしてほしい。ガスの元栓や配管の点検をしっかり行うことが必要だ」と注意を呼びかけています。
過去の主な爆発事故
建物が突然、爆発し死者やけが人が出た事故は過去にも相次いでいます。
おととし7月の西日本豪雨では、岡山県総社市のアルミ工場に近くの川からあふれた水が流れ込んで爆発が起きました。
周辺の住民数十人が骨折などのけがをしたほか、飛び散ったアルミで住宅が焼けるなどの被害が出ました。
また、おととし12月には、札幌市の不動産会社の店舗で爆発があり、周辺の住民など40人以上が重軽傷を負ったほか、まわりの建物の窓ガラスが割れるなどしました。
この事故では、店舗内で除菌消臭用スプレーを大量に噴射したことで可燃性ガスが充満し、給湯器のスイッチを入れたことで爆発が起こったとみられています。
さらに、今月5日には、静岡県吉田町の工場の倉庫から火が出て爆発的に燃え広がり、消防隊員3人と警察官1人の合わせて4人が死亡しました。火元を調べていた4人が、突然、爆発のようなものに巻き込まれたとみられています。
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taemonma · 4 years
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展覧会のお知らせ
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宏美 門眞妙 二人展「swimming」
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会期:2020年6月2日(火) - 14日(日)
   11:00-19:30、日曜-17:00迄 月曜休廊 入場無料
会場:Gallery TURNAROUND
   980-0805 仙台市青葉区大手町6-22-1F
   仙台市地下鉄東西線大町西公園駅~徒歩5分
主催 TURNAROUND
助成(公財)仙台市市民文化事業団
※新型コロナウイルス感染拡大防止のため、本展内容に変更が生じる場合もございます。ご理解のほどよろしくお願いいたします。
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[概要]
この度、地方を生活と制作の拠点としながらキャラクターを用いた絵画表現を続ける女性作家二名による展覧会を開催します。
岡山県出身・在住の宏美は倉敷芸術科大学を卒業した2014年にカオス*ラウンジが主催する新芸術校の前身ポストスーパーフラット・アートスクールに参加。以降東京と岡山を往復しながら双方の地での展示を積極的に重ねてゆきます。
宮城県仙台市出身・在住の門眞妙は東京藝術大学を卒業後、主に東京での展示を重ねたのち、2015年に地元仙台へと拠点を移します。東京での展示も続けながら、塩竈市杉村惇美術館での自主企画展を始め仙台とその周辺地域での展示も手探りで行ってゆきます。
門眞の作品は、キャラクターとその背後にある風景が寸でのところで交わるか交わらないかという緊張感を保っています。それはキャラクター自身が独立した人 間であることを補強し、雄弁な(人格を帯び始めたかのような)背景描写も相俟って観る者をキャンバスの内へと引き込んでゆきます。一方、宏美の作品は描 かれているものが解け込みあい―単純に素材としてカットしレイヤーを重ね構成する、ということに留まることなく―キャラへも動物へも植物へも建物へも、等 しくそして強く愛情が注がれ、制作者のまなざしがキャンバスの外へと広がってゆきます。
同ジャンルと一括りにしても微細な差異を読み取ることができる二人の共通点は、「キャラクター」という存在への「慈しみの視点」。そして生活する土地や、 場所から場所への移動時に体感するスケールを画面に落し込みながら、「キャラクター」をよすがにしこの世界にしるしとして残す絵画であると言えます。
宏美は東北初、そしてこれまで実現していなかった組み合わせの作家による展覧会をこの機会にご高覧ください。
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[トークイベント]
 6月13日(土)17:00~19:00
 参加費500円、定員20名予約優先 定員5名予約制→定員に達しました
 ご予約はinfo*turn-around.jp(*を@に)までメールでお願いします
  登 壇:宏美、門眞妙 
  聞き手:松崎なつひ(宮城県美術館学芸員)
  進 行:関本欣哉(TURNAROUND)
 ※トーク中は展示がご覧いただけなくなります。ご了承ください
 ※オンラインでの配信(有料)を検討中
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[プロフィール]
宏美 HIROMI
1989年 岡山県生まれ
2014年 倉敷芸術科学大学 芸術学部 卒業。
同年、カオスランジ*が主催するポストスーパーフラット・アートスクールに参加。
地方と都心でのアートの違いに違和感を持ち、東京と地元岡山の両方で展示を試みる。
https://h-hiromi-me.tumblr.com/
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門眞 妙 Tae MONMA
宮城県仙台市生まれ
2009 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業
現在 宮城県仙台市在住
アニメ的な少女のキャラクターと精緻な背景描写の絵画表現を中心に活動。
言葉にできない「感情」「時間」「一瞬」の集積と、この世界との和解を描く。
キャラクターの姿をした「人」としての少女のアップデートを続ける。
https://taemonma.tumblr.com/
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[新型コロナウィルス感染症対策]
・恐れ入りますが、体調が優れない方、2週間以内に特定警戒都道府県に行かれた方はご無理のないようにお願いいたします。
・マスクの着用をお願いします。
・手指の消毒をお願いします。
・室内定員5名とします。スタッフ判断によりお待ちいただく場合もございます。
・2メートルの間隔をあけ静かにご鑑賞ください。
・長時間の滞在はご遠慮ください。
・換気のため戸を開け、店内定期的に消毒してまいります。
・入口にて検温にご協力いただく場合もございます。
・カフェ営業は状況をみて判断します。
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コロナ対策について、宮城県の方針
「6/1~6/18までは北海道、千葉、埼玉、東京、神奈川への移動は慎重に対応するように」とのことですので、ご協力をお願いします。
 https://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/794567.pdf
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Instagram、オンラインショップにも掲載予定です  
 https://www.instagram.com/galleryturnaround/
 https://shop.turn-around.jp/
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aidenxuezi · 4 years
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解释
高中毕业之后就没再写过博客,可能是因为大学的环境让我一蹶不振,对生活不再有那股热情了,也有可能是。而如今回头看当年写下的日记,惊叹于自己那时的单纯和天真,如果生活能一直像中学时那么简单就好了。
2014年后我的生活经历了翻天覆地的变化。
大学四年没有印象特别深刻的事情,还能记起的是,上街时坐的107/118路公交车、让我暂时逃避现实的学校���书馆、傍晚八九点在食堂吃的一碗燃面...而真正值得留念的,或许是每周的小组聚会,和那些可爱的同路人,他们陪伴我成长、包容我的缺点,也正是因为这些人,我的大学四年变得那么与众不同,结识了许多靠我自己接触不到的人,同时我也从他们身上学到许多待人处事的方法,即使是现在,我对事情的看法都或多或少受到过他们的影响。更重要的是,这四年让我的信仰得到扎根、浇灌和生长。待在小组时,总觉得自己在另一个时空,可以暂时不用去理睬外面的世界正在发生的事,享受那几个小时的宁静就好。又或许只是是我的逃避心理作祟,不愿去面对学业和人际关系上棘手的问题。回到现实,临近毕业的那段时间我也陷入了迷茫,不敢去想象如果考研失败了,人生下一步该怎么走。
可是谁也没想到我的生活也出现了转折。
2018年或许是改变我人生走向的一年。
初中时期的同桌问我长大想做什么,那时因为特别喜欢美国的律政剧,看着西装革履的律师站在陪审团前有条不紊地进行辩护好不风光,我说我想学法律,我想当律师,可是他却立马给我泼了盆冷水——我一直记忆犹新——他说我这辈子不适合做别的,只能做点翻译了。多年后我突然想起他这句话,可有趣的是,人生哪有那么容易就看到头?峰回路转、柳暗花明,大学毕业后我恍然,不是这条路我走不了,而是未来有更好的选择。
我总是在思考,如果失败了该怎么办?失败了多丢人啊,我找个地方躲起来吧。”我可以逃到哪里去呢?我要去一个没有人认识我的地方重新开始。去澳大利亚怎么样?”——高三时的我对同桌说道,没想到四年后竟成了真。
走之前我特意让家人陪我去了南京,逛了逛那所与我擦肩而过的大学,走在四牌楼2号的街头发了条朋友圈问道:“理想多少钱一斤?” 没能实现的理想真的一文不值。然而很多故事就像这样不了了之了。
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离开南京后,真正的旅程开始于飞机飞过澳大利亚延绵海岸线的那一刻。
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很长一段时间,悉尼海岸线上的悬崖总让我联想起电影《傲慢与偏见》里的英国,凯拉奈特莉站在山石之上,风吹裙摆,好似那句“飘飘乎如遗世独立,羽化而登仙”。
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从悉尼市区的环形码头出发,只要乘半小时渡轮就能到达的曼利海滩(Manly Beach),以及一路向北的德威、科罗伊、纳拉宾,再到棕榈滩...它们被统称为北部海滩(Northern Beaches),这里,是我生活的开始。
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远离繁华的商业区,生活宁静祥和,有那么一瞬间觉得养老也不过如此。
后来的日子,我去参加周三的小组,认识了Alex,还有Matt,Ciao,他们点亮了我的生活,也正是他们帮助我慢慢融入了这里的环境。
回想这些时光,记忆中有几个主要的场景,在花园露台处吃早餐,午后有充足的阳光,游泳、骑车和慢跑,去朋友父母家吃晚餐,饭后的沉静,坐B-line公交进城,深夜回来,有时一个人,有时朋友开车送我回家。
在每年晴天天数超过300天、坐拥100多个海滩的悉尼居住,游泳和冲浪是生活的一部分,有时我们骑车去纳拉宾环湖,或者骑车去海边游泳,周日骑车去曼利的教堂,又或者晚餐后在朋友父母家蒸桑拿,去后山慢跑...这是住在市区无法体验到的,没有交通的压力和早晚高峰,没有拥挤的人潮和游客,随处可见的�����、鹦鹉,广场上的白鸽,房子后院的袋鼠,让我常常有一种活在电影里的错觉。 不禁想起《桃花源记》里的 “自云先世避秦时乱,率妻子邑人来此绝境,不复出焉,遂与外人间隔。问今���何世,乃不知有汉,无论魏晋。” ​​​
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还有些其他的场景——
傍晚的悉尼CBD,金色的夕阳照在海面,我坐在去市区的公交上,看着街道两旁的灯一盏盏点亮,美妙极了。走到市政厅时,看到银行大楼此起彼伏,街上的人行色匆匆,资本主义最精髓的地方都在这里了。 
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还有另外一些琐碎的场景——
夏日感官的光芒,与充满精力的日日夜夜。周末在Matt家看电影,认识新朋友,上街体验新的餐厅,探索这个城市的角落,夜晚开车去Pub吃牛排,尝试不同口味的啤酒...而因为我的长相太显年轻,总会遇到保安询问我的ID检查是否满了十八岁。
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我意识到,我过的是借来的时间,时间始终是借来的,再过一段时间,我要去另一个地方上学,悉尼的生活会在来年的冬天结束,可我现在就已经开始感到不舍了。夏天发生的事总让人忘得很快,趁我还能记起,把这些故事收集起来,在未来贫瘠的日子里,让过去的微光带给我温暖。
“他们又承认自己在世上是客旅,是寄居的。 ...他们若想念所离开的家乡,还有可以回去的机会;他们却羡慕一个更美的家乡,就是在天上的。” 
——
后记:这篇写于2018年年底,后来发生了更多未曾预料到的转折。这两年间,奶奶去世、和旧朋友说再见、去到塔斯马尼亚、留在悉尼读书、住进住宿学院、流行病爆发、被困在家半年...生活并不都是一帆风顺,也不会总是晴空万里,哪怕是在悉尼。但上帝仍然是爱我的,哪怕不是偏爱。
这篇文章的标题是《解释》,我想我并不能给出一个解释。
上帝是否希望我们受苦?C.S.路易斯说他并不确定。
我们不是靠尽量避免爱本身固有的痛苦来亲近神,而是通过抛开一切自我防卫,接受这些痛苦,将这些痛苦献给神,来亲近他。
——
拍拍衣袖上的灰尘,继续前行,
要大笑,要做梦,要与众不同,人生是一场伟大的冒险。
21/12/2018 - 24/05/2020
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diveyear · 4 years
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还原大先生——说说鲁迅的本来面目
共识沙龙的朋友们,大家晚上好!群主和群委们好!我要特别问候君主和群委们,因为看到他们很辛苦;还有制作音频的朋友们,辛苦了!很荣幸与大家在这里交流。不过我想说明一下,我很保守,而且胆小,本来就不大善于讲,又加上不大愿意讲,所以请朋友们对我的讲座别抱多大希望。因为只有不抱希望,最后才不至于太失望。
20年前,南京大学一个青年跑到各大学去听课,在南京听过高华的课,听过董健先生的课,到上海听了姜义华先生的课,又听了王晓明、许纪霖的课,到北京听了钱理群的课,好像还听了张维迎的课。然后跑到吉林大学,到中文系听了我的课,回去后写了一篇文章,其中有一节拿我与钱理群做了比较,他说:钱先生讲课开拳就打,一开始就充满激情;而李新宇则是走上讲台先叹气,似乎一切都无从说起。他说得很对。到如今20年过去了,我的状态没有变好,反而更糟。因为能说的话似乎越来越少,寻找语言的难度越来越大。当代中国的学者与世界上那些现代国家的学者不同,人家只要能发现问题、解决问题就够了;而我们却要花很长的精力去寻找语言,寻找表达方式,研究庖丁之术。有人说带着镣铐跳舞更见水平,我承认。但如果把一个高个子舞者关进一个矮笼子,那舞姿会是什么样呢?奇迹或许会有的,但他的艺术才华更可能表现在跪着舞或者坐着舞。很多朋友像我一样,是不愿跪着舞的,但天长日久,却也习惯了坐着舞,或者躺着舞。我是很喜欢坐着的,而且是双手合十的那种姿态。大家想,双手合十盘腿坐在笼子里,那舞姿能好看吗?这是我首先要请大家谅解的。
还有一个问题是,我没有这样对着手机讲过课,看不到听众,没有表情和目光的鼓励,大概很难找到感觉。所以,如果讲得像面无表情的新闻联播播音员,或者像乡村大喇叭里的村支书,也请大家原谅!同时我还担心,讲着讲着也许会忘了60秒内要动一下手指,又担心老是盯着手指头,也许就忘了要讲什么。没办法,试试吧!今天我要讲的题目是:《说说鲁迅的本来面目》,但就在刚才,我忽然觉得这个题目不是太好。虽然“本来面目”是中性的,不含褒贬,但在这里,却似乎是我有点不怀好意,要揭穿什么,其实我没有那个意思。所以,我想改一改,给它加上一个正标题“还原大先生”;原来的题目改为副标题,也就是《还原大先生——说说鲁迅的本来面目》。
说到鲁迅的本来面目,需要澄清的问题很多。原因大家都清楚,因为鲁迅曾经被捧上神坛,脸上被贴过金,被刷过漆,也被抹过污泥。我们这个时代还有一个现象很有意思:那就是贴金者以为是在贴金,看的人却可能觉得是在泼粪。这是不是另一种“低级红”和“高级黑”?全面清理鲁迅形象,不是一次讲座能够完成的,所以今天只是从头说起,略谈几点。
我想讲的第一点,是鲁迅的家庭出身。
朋友们大概都会承认,一个人走什么样的道路,成为什么样的人,与出身和教养是有关的。尽管人们常说“英雄不问来路”,或者是“英雄不问出处”。但在事实上,英雄、俊杰,都有出处。流氓、恶棍,也有出处。什么样的环境造就什么样的人。而这个环境首先就是家庭。
鲁迅出身于怎样的家庭呢?过去的教科书,因为要打造一个无产阶级文化旗手的伟大形象,又因为狭隘的阶级论观点,所以对鲁迅的出身往往是遮遮掩掩,轻描淡写。即使说到他出身于士大夫家庭,强调的也是“败落”:比如常年跑当铺,上不起交学费的学校,去南京求学时只带了8块大洋,等等,然后是强调他因家境败落而接触了底层社会,与劳动人民建立了联系,于是才对社会有了深刻认识。
按照过去那种思路,似乎鲁迅不穷就无法成就他的伟大。因此,人们对周家未败落之前,也就是鲁迅13岁之前的情况,进行的是淡化和模糊处理。那么,鲁迅到底出身于怎样的家庭?按照1949年前后,划分阶级成分的标准,鲁迅家应该属于官僚地主阶级。官僚地主阶级是最反动的一个阶级,是应该被消灭的。然而,伟大的无产阶级文化旗手,却偏偏来自这个阶级。
需要说明的是,官僚地主家庭有两种不同情况:
一种是有权有势的土豪。中国历史上那些新兴的王朝在初建时都会带来一批这样的新贵。他们因为参与打江山,胜利后自然要参与分红,于是就拥有了权力,占有了土地,成了官僚地主。不过,这种家庭,往往是有权、有钱、没文化,所以最容易无法无天,无恶不作。加上朝代更替,所以这样的家族一般都不能长久。
另一种官僚地主家庭却不是这样。同样是有权、有势、有地位,但他们的权势和地位不是来自打天下,而是来自“学而优则仕”。也就是说,那些能够温饱的家庭,有能力供孩子读书,于是他们中秀才,中举人,中进士,甚至中状元,攀宫折桂,一路进入上层。做官之后,经济情况自然更好,就更有条件让儿孙读书,几代下来,就成了官僚地主,同时又是书香世家。鲁迅就出生在这样的书香世家。
从他的六世祖中举人到鲁迅这一代,已经是第八代。鲁迅出生时,他家里有秀才举人一大帮,有的还中了进士,点了翰林,也就是抵达了国家文化宝塔的最高峰 。鲁迅的祖父周福清就是翰林。鲁迅形容人喜欢用“阔”这个词。他不说人家怎么富裕,也不说人家官多么大,地位多么高。他就喜欢说这人很“阔”,是“阔人”。其实,他家就很阔,而且不是一般的阔。根据他祖父周福清的记述,周家从明朝万历年间就很富。最富的时候,曾经拥有土地一万多亩,光是当铺就开了十多家,还有许多店铺和珠宝行。
鲁迅出生时,周家已经没有那么阔。但我们仅从他家的住宅看,就不是一般人家能够比的。去过绍兴的朋友肯定记得新台门和老台门,也就是鲁迅故居和鲁迅祖居,那是两所大宅院。其实还有一个过桥台门,现在没有了,也是鲁迅家的。鲁迅出生在新台门,那是一种五进院落。宅院的所谓一“进”,简单的说就是一道门加上一个院子。现在的人们大多住在共有的楼房,没有自己的宅院,所以没有“进”这个概念,但实物仍然能够看到:乡间的农家院,进门后四面是房屋,中间是院子,那就是一进。皇家的宅院,现在能看到的就是北京的故宫,是九进。曲阜的孔家也是九进。除了这两家,没有哪一家敢把宅院修成九进。有个说法大家都知道,“深宅大院”,“深”,说的就是进数多。纵向的进数多,横向的宽度也就大。五进的院子是什么样子呢?北京的一些王府就是五进的院落。大家读过《红楼梦》,荣国府也是五进院落。鲁迅家的院子跟荣国府一样的,是五进院落。
我喜欢看名人故居,走到一个地方,喜欢看那里的名人故居和墓地。中国近代以来的名人,尤其是文化名人,从严复、康有为、梁启超、章太炎、蔡元培、王国维等,一直到陈独秀、胡适、鲁迅,甚至包括徐志摩的,都去过了。经过比较,我的结论是:论家庭的阔气程度,还是鲁迅第一。除了他之外,没有哪一家有五进院落和一个那么大的后花园。新台门在1919年卖给朱家之后就被拆掉了,现在看不到了,现在的鲁迅故居只是当年的一小部分,不仅小,而且看不出原来的格局。但根据一百年前周家卖房的时候画的那个图纸,我们可以看到,他家坐北朝南,临街是大门,大门里面是仪门,仪门里面是大厅,大厅后面是大堂,大堂后面是后堂,后堂后面是后楼,后楼后面是杂屋……再往后就是鲁迅笔下的百草园。那是他们家的后花园,占地2000多平米。
周家有1万多亩土地的鼎盛时期鲁迅没赶上,到鲁迅出生时,因为经历了太平军之乱,周家已经衰弱了。太平军到过鲁迅家,杀过人,烧过房屋,也拿他家当过指挥部。这一折腾,家就败了。不过,瘦死的骆驼比马大,周家最穷的时候也没有跌落到劳苦大众的行列。我们不妨来看看他家最贫困时的情况:
鲁迅和周作人到南京和东京求学的时候,家里只有祖母、母亲和周建人三口,却仍然有男女佣人好几个。鲁迅的祖父周福清那时候在杭州坐牢。他坐的那个牢哇!坐牢,还带着一个小妾,带着一个男仆和一个女仆,租了一套楼上楼下的房子住着。大家知道,佣人要付工资,租房要交房租,那么一群人都要吃饭,那时候周家没有一个挣钱的。,在这种情况下鲁迅从日本回家结婚,家中竟然把太平军时期毁掉了的房子重修了起来。
鲁迅从来不夸富,1949年之后的回忆材料,都在拼命说周家穷。不过,我曾根据鲁迅签字画押的一张分单算过一笔账,1911年,也就是辛亥革命爆发的那年,在鲁迅名下的土地是105亩还多一点。江南,是寸土寸金的地方,绍兴的人均土地只有几分,鲁迅有100多亩土地,如果到1949年,改划成什么成分?
鲁迅一辈子没有受过穷,他是地地道道的阔公子,尤其是童年,简直是王子。他自己说过,他的童年像王子。在家里被佣人保姆簇拥着,走在街上被邻里另眼相看,即使到外婆家,也得高接远送。朋友们可能记得《社戏》里面鲁迅和那群孩子一起,划着船,去看戏,偷豆子,那种情景是写实的。那是周家少爷来了,村里的孩子不用去上学,不用去放牛,被安排来陪周家少爷玩。考察鲁迅的家庭出身,可以发现过去对鲁迅的一些解释很勉强。
鲁迅对劳苦大众和弱小者的同情,并不源于他自己的经济地位。一般人也许会“屁股决定脑袋”,也就是什么阶级说什么话。但伟大的头脑能够超越阶级地位。对于不同阶级、不同民族、不同性别,都有大悲悯,才是真正的伟大。同时,鲁迅又是真正的贵族,有贵族精神,所以才能看到阿Q们的可笑、可憎与可怜。
我想讲的第二点,是周家的家庭文化。
周家的文化怎么说呢?简单地为其命名的话,是一种复合文化。周家的男性家长都是读书人。那个时代,以科举为目标的读书人,应该都是儒家信徒,而且多有理学色彩。不过周家的男人理学气不重,女人就更加复杂。鲁迅儿时面对的三代女人,也就是他的曾祖母,他的祖母和他的母亲,都信佛。但是她们又都算不上佛教徒。因为不是虔诚的佛教徒,所以一点儿排他性也没有,能够接纳民间文化当中各种复杂的成分,包括各种神灵和鬼怪。读过《朝花夕拾》的朋友们一定记得,鲁迅的祖母和他的保姆阿长讲的那些故事,美女蛇,等等。
在这里,我只讲几件朋友们不一定关注的事儿。
第一件,从某种意义上说,鲁迅是个和尚。他一岁多就做了和尚,终生未脱僧籍。原因是他出生的那一天,正是某位菩萨生日。出生时又是蓑衣包,大概就是把脐带、胎盘披在身上那样出生了。按传统的说法,这样的孩子是被鬼神锁着的,很难养活。有什么办法呢?办法就是让鬼神找不到他,或者是不屑于理睬他。比如,明明是个男孩子,偏给他取个女孩名,甚至给他扎上耳朵眼儿,这都是过去解决这种问题的办法。再就是给他取个贱名,比如叫猪叫狗。在我的家乡,有的孩子甚至叫狗剩——狗吃剩下的,狗都不吃了,神鬼自然不屑于去理他。
进一步的办法,就是让他出家当和尚。周家为鲁迅做的安排,就是让他当和尚。长房长孙当然不能真出家,可是形式是必需的。找一个庙,拜一个师傅,把名字写进和尚名单,就算是出家了。所以,鲁迅就有了一个法名“长庚”,有了一个师傅——龙师傅。鲁迅临死的时候还写过一篇很动情的文章,题目就是《我的第一个师父》。
由此可以看到,鲁迅家很迷信,周家很迷信。
周家那样的大家族,规矩多、禁忌多、仪式多,一年到头说不清有多少祭祀活动。这种文化,今天的年轻人已经很少有人懂了,尤其是城市人,甚至真的是连“年”也不会过。鲁迅却什么都懂,什么都会。因为他是长房长孙,因为在他十几岁就失去了父亲,爷爷又在狱中,过年过节,上坟祭祖,许多场合都需要他来主持,怎么摆供、怎么烧香、怎么跪拜、怎么祝祷,这一切鲁迅都是内行。而且,鲁迅是读书人,所以过年的时候不但要与全家人一起祭拜天地,祭拜祖宗,自己还要祭书神。就像做生意的人必须敬财神一样,读书人当然要敬书神。我和周海婴、还有全国四十多位专家教授编的那套《鲁迅大全集》,就收了鲁迅在大年夜祭书神时写的祭文。我说这些,想说明的意思是,鲁迅是真正在中国传统文化当中泡透了的。同时想说明,他所受的教育,他所受的文化熏陶,不是唯物的。
在这样的家庭里,是不以鬼神为怪的,所以,周家就常常出现一些怪事儿。比如,周作人出生时就出了一件怪事儿,一个老和尚进了周家,长驱直入到了少奶奶房前,转眼不见了,然后,周作人就出生了。晚年的周作人曾经在文章中纠正那些传说,说是他的那个叔叔看花了眼,然后以讹传讹。但值得注意的是,这些话是周作人在经历了种种破除迷信的运动之后写的,年轻时却从来没说过他叔叔眼花,而是多次写诗说自己就是那个老和尚。二是周作人在回忆录当中所说的,他和他的妹妹一起生天花,本来妹妹已经好了,而他奄奄一息,全家人都无能为力。但是,静静的房间里突然大叫一声,全家人都知道那不是周作人的妹妹在叫,也不是周作人在叫。人们闻声跑来,却发现事情完全变了,奄奄一息的周作人好了,而已经好了的妹妹死掉了。
还有一件事,是鲁迅的父亲临死的时候,朦胧中看到一个女人来到他的床头,在他喝水的碗里倒了一点什么。他以为是妻子鲁瑞,就没睁眼,也没出声。可是那女人刚转身出去,鲁瑞就进来了,往他的碗里倒藕汁。鲁迅的父亲觉得奇怪:你不是刚刚才倒过吗?鲁瑞说她没来过。那么刚才进来的女人是谁?最后阿长讲道,那是鲁迅的父亲曾经订婚的一个姑娘,但是他们没等结婚,那姑娘就去世了,所以才另聘的鲁瑞。那姑娘现在来,就是他们情缘未了,找他来了。于是,家里人也就知道,少爷的病好不了了。老和尚的身影也罢,天花鬼的叫声也罢,鲁迅的父亲是被早已死去的未婚妻领走了也罢,是否可信并不重要。我觉得重要的是,它是一种文化,是周家人相信的一种文化,周家人曾侵润其中的一种文化。鲁迅是在这种文化当中长大的。过去的教科书和主流著作,都在努力把鲁迅打造成共产主义者的同时,总是在努力把他打造成唯物主义者。大家想,这种家庭文化,能培养出唯物主义者吗?
那么,周家的这种文化奇怪吗?应该说不奇怪。我们这个时代的人感觉到奇怪,但在那个时代它是某种普遍现象。大家知道,严复是中国近代的启蒙大师,但他一辈子信鬼神。遇到事儿,必去占卜。梁启超也是现代思想家,传播过一系列的科学思想。但是他自己说从十几岁就与鬼神打交道,而且他的妻子李蕙仙死后三年,竟然一直没有离开梁家。三年当中,梁思成生了病,都不是先上医院,而是先去找他妈,而他妈是已经死了的。三年之后,李蕙仙的灵魂才离开梁家。这话听起来很玄,但这不是别人说的,是梁启超自己在写给他女儿的信中说的。他没理由欺骗他的女儿。
还有章太炎到阴间去做判官的事,可能好多朋友都知道。在我们当下的文化当中,这一切都感到很离奇,不可思议,但在当时人们并不觉得奇怪。
接下来的问题是,周家的这种文化,包括梁启超和严复家的那种文化,好还是不好,很难简单回答。但我由此想到一个问题:对儿童来说,是给他一个“一就是一,二就是二,一切都清清楚楚“的世界好呢?还是让他面对一个有点神秘的世界好?这同样不能简单回答,但我想,后者大概更有利于培养孩子的想象力。一切都清清楚楚,一切都有标准答案,人的思考能力肯定是会退化的。
我想讲的第三点是鲁迅的学历。
我想特别指出的是,鲁迅是自然长成的。用今天的话说是绿色的,他们家没给他施过化肥,也没给他施过农药,更没有用过激素或者助长剂。他上学是玩着上的,读书是玩着读的,完全凭兴趣。这甚至导致了一个结果,���就是鲁迅饱读诗书,却有学历而没学位。说到学历和学位,新学的学历和学位,大家都知道,小学、中学、大学、研究生,这是学历。学位呢,有学士、硕士、博士。那么旧学呢?旧学的学位倒是有自己的体系,那就是秀才、举人、进士等,所以容易说清,比如在“五四”新文化运动的主将中,不少人都有旧学的学位,蔡元培是翰林,吴稚晖是举人,陈独秀、蒋梦麟等都是秀才,而鲁迅、胡适、钱玄同等,连最低的学位也没有。
但要说他们的旧学学历,却有点困难。因为旧学没有小学、中学、大学之分,也没有一年级、二年级、三年级这种区别。怎么说呢?只能说我读过《孟子》,你读过《四书》,他读过《九经》,旧学的学历只能这么去说。鲁迅读到哪里呢?用他自己的说法,是”几乎读过十三经”。朋友们大概知道,参加科举考试并不需要读“十三经”。而是只要读过《四书》,再读过《五经》,有这“九经”就够了。而且《四书》《五经》加起来的,虽然俗称“九经”,但这“九经”在“十三经”当中并不是九经,而是七经。因为《大学》和《中庸》都是从《礼记》中抽出来的。
也就是说,鲁迅多读了好多书。需要说明的还有一点,那就是鲁迅所说的“读过”。不是我们现在说“我读过《红楼梦》”“我读过《鲁迅全集》”这个意思,它不是浏览,说“读过”,就是能句读、能理解、能记住。那时候人们说读过《论语》,就是能把《论语》一字不错的背下来,说读过《四书》,就是能把《大学》、《中庸》、《论语》、《孟子》这四部书都背下来。
鲁迅几乎读过十三经,却连秀才也不是。但是读书多少、根底怎么样,是骗不了人的。内行一接触就知道。鲁迅的顶头上司蔡元培、夏曾佑都是进士,翰林。他们都不曾低估过鲁迅,认定他有学问。但考察鲁迅读书的情况,却很有意思,也很怪,从中也许能够得到某种启发。
从一八八七年到一八九二年,这五年,鲁迅先后在三个书房就读,
却没有走出他自家的大门。三位先生都是他本家的爷爷。不过用今天的目光看,那三位先生都不称职。第一位是朋友们大都熟知的蓝爷爷,他培养了鲁迅对花花草草以及各种奇怪事物的兴趣,却没有教鲁迅多少“正业”。后面两个,一个是鸦片鬼,一个是精神病。教书,完全是瞎对付,读错字,写错字,讲解更是信口开河。奇怪的是,鲁迅的父亲和祖父,竟然让鲁迅跟着他们过了五年。书香世家,对孩子的学业能这样不关心吗?应该是不会的。但是周家对孩子的管法真的很特别。鲁迅的祖父对孩子的学习很关心,亲自选课本,可是这本身也有点怪,他不用全国的“通用教材”。那时候一般人家的孩子开蒙先读“三百千”,也就是《三字经》、《百家姓》、《千字文》,然后开始读“四书”,读完“四书”读“五经”。周家的开蒙第一书却是《鉴略》,一种简明历史读本。
从七岁到十二岁,五年,鲁迅读了什么书?除了那本《鉴略》,就是读了《大学》《中庸》和《论语》,《孟子》读了一半,没读完。也就是说,用了五年的时间,鲁迅没有读完“四书”,这是非常奇怪的。因为大家知道,“四书”虽然是四本书,但量很小:《大学》只有一千七百来字;《中庸》只有三千五百来字;《论语》也只有一万三千七百字;《孟子》最长也不过三万五千字。“四书”加起来,总共是五万三千字。五万三千字,读了五年只读了三万六千字!
那时候没有数理化,除了拿出少量的时间,写字,对对子,别的时间都是读书。鲁迅竟然就读了这么一点书,这速度也的确是太慢了。
从七岁开蒙到十二岁,如果读得快,能够到什么程度?我们可以随便举出一些例子:梁启超是十二岁就中了秀才。蔡锷,也就是蔡锷将军,也是十二岁中了秀才。当时不少人,都是十二岁就能中秀才。能中秀才,意味着读完了“四书”,又读完了“五经”,而且学会了做八股文和试帖诗。鲁迅比人家慢了多少呢?我们不妨来看看“四书五经”的具体情况。我是给他算过帐的。前面说过了,“学庸孟论”“四书”加起来是五万三千字。而“诗书易礼”和《左传》,加起来是三十八万五千字。“四书”和“五经”加在一起是四十三万八千字。
梁启超、蔡锷等都是十二岁就把四十三万八千字全都读过了,而且学会了做八股文,学会了做试帖诗。而鲁迅到十二岁的时候,却只读了三万八千字,也就是一个零头,学业只完成了人家的十分之一。是鲁迅太笨吗?显然不是。那么问题出在哪里?就出在家长和老师对他没有要求。鲁迅上学上得太自在了,有大量的课余时间可以在百草园里尽情的玩儿,玩植物、玩昆虫、捉蟋蟀、养老鼠、描图画画、学捉鸟。他当然也读书,不过读的主要是闲书,与功课无关。这又是很奇怪的一件事,家长竟然是不管他。
书香世家,翰林门弟,对孩子的学业怎么会放任不管?鲁迅的祖父整天盼着能在门上挂一块匾,上面写上“祖孙父子兄弟叔侄翰林门第”。他是希望他的儿子、孙子都进翰林的,尤其是对长孙,寄予厚望,当然不会不管。但是,周家的教育真的是自有一套,看鲁迅、周作人、周建人等小的时候,家里就是放飞,给他们更多的自由,不急于套上笼头,更不急于把功名这样的目标过早地压在孩子身上。
说到这里,我想到今天的许多的家长,都那么怕孩子输在起跑线上,想种种办法让孩子不输在起跑线上。看看当年周家,完全没有这样的焦灼感。别人家的孩子早就“入场”跑了好几圈,已经中了秀才,他们家却还在让孩子尽情玩儿,不让他们进入跑道。怎么会这样呢?从另一方面想,敢于这么做,基础显然是一种文化自信,是一种家族的文化自信。因为家长自身的文化层次,因为相信自己的孩子不愚,就敢于让孩子自由发展,而不是像一般人家那样随大流、抢时间、赶速度,你们报什么班,我就给孩子报什么班,把孩子弄得疲惫不堪。鲁迅的童年读书是玩儿着读的。这应该是一个关于教育的特别个案,我觉得很值得研究。孩子主要是玩儿。鲁迅和周作人、周建人都没有苦读的经历,都不曾为学习而受折磨。但结果呢?周氏兄弟个个成才,取得的成就远非那些苦读者能够相比。这其中的奥妙是不是很值得研究?
我想讲的第四点,是鲁迅在教育部的官职。
简单地说,鲁迅是民国时期的高干,按照那时的称谓是高等文官。他很有权力,是当时国家意识形态和宣传教育、新闻出版、图书市场等等这些事业的掌控者。这是教科书和研究鲁迅的著作一般都不讲的,但我们只要回到历史现场,就会看到,从一九一二年到一九二六年的夏天,十四年的时间,鲁迅在中华民国教育部工作。过去的教科书和主流著作说到这一节,都是说鲁迅在教育部做过下层小官吏,这个小官吏是什么呢?社会教育司第一科的科长。现在的人们一看是科长,觉得这官职真的微不足道。其实,那时候的科长和现在的科长不一样。现在的科长当然是最小的官,那时候却不是这样。部下面是司,那时候和现在一样,但那时候司下面就是科,没有处。所以,那时候的科长与县长同级。用今天的话说,就是正处级。同时,鲁迅又不只是科长,他是佥事兼科长。大家知道,兼职都是高兼低,而没有低兼高的,部长可以兼司长、司长可以兼处长,而没听说哪个县长可以去兼省长。同时值得注意的是,鲁迅的科长职务,是由教育总长委任的。他的佥事职务是由大总统袁世凯亲自任命的。按照当时的规定,科长是中等文官,佥事是高等文官。也就是说,鲁迅是那个时候的高干。
根据当时的《中央行政官官等法》,中央行政官员除特任官之外分为九等。第一二是兼任官,三四五是荐任官,六七八九是委任官。科长是委任官,佥事是荐任官。在荐任官当中,鲁迅的情况又有些特别,他一开始是五等,但是在很短的一年多就晋升为四等,又过了不到两年,到一九一六年的二月就晋升为三等。他就抵达了荐任官的最高等——月工资三百大洋。
在九等官制当中位居三等,这个官位还能说是下层小官吏吗?可是我们一直就说他是教育部的一个下层小官吏,好像微不足道。既然谈到了工资,我们就看看他的工资,当时是高还是低。从1916年二月开始,鲁迅每月拿300大洋。300大洋,是高还是低呢?当然不能与总长相比,更不能与总统、总理相比,我们也不去把他和下层工人相比,因为那时候的保姆月薪才两元(鲁迅的日记里,他雇的女工就是两元)。我们把他跟北京大学的那些教授们比一比,应该更有可比性。按照当时的规定,教授工资是280元至180元。教授当中最低的拿180元,最高的拿280元。预科教授工资是240元至140元。胡适回国到北大去做教授,蔡元培给他的是教授的最高工资月薪280元。而当时的钱玄同、周作人、刘半农等,都比鲁迅低得多,李大钊的月薪是180元。
这是鲁迅的工资的情况。由此可以看到,他的地位是不低的,官不算大,但是也不算小,工资至少比胡适等这些北大的最高级的教授还要高一级。更重要的是鲁迅所处的岗位非常重要。那时候没有中宣部、文化部、新闻出版署等等,这些部门的事谁来管呢?主要由教育部来管,教育部又由社会司来管。因为教育部一共就三个司,那两个司一个管大学教育,一个管中小学教育,第三司是社会教育司。
社会教育司有司长一人,没有副司长,下面就是两个科,鲁迅是第一科的科长。因为他分管的事情多,同时他又为司长所倚重,所以他就成为了社会教育司地地道道的二把手。也就是说,他是当时中央管理思想文化和新闻出版事业的二把手,这个地位不重要吗?因为重要,所以才出现了好像是不好理解的一些事儿,为什么那么重要的一些事儿,都是鲁迅干的,比如,中华民国的国徽应该由谁来设计?是鲁迅领着两个人设计的;再比如,中华民国的国歌由谁来选定?还是在鲁迅的领导下选定的。什么样的小说应该被查禁?什么样的戏剧应该被提倡?标准由谁来定?仍然是鲁迅领着人去做决定。所以,《新青年》是不会被查禁的,因为权力就在鲁迅手里。
俄国的盲诗人爱罗先珂来到北京,一些学校就请他演讲。他是无政府主义者,无政府主义,在当时被看作危险思想,所以被人举报了,警察局要来管,怎么办?鲁迅陪着去,鲁迅往那里一坐,就什么问题都没有了,因为他正是管这方面事务的最高官员。
需要说明的是,鲁迅在教育部的工作勤勤恳恳,兢兢业业,很卖力。后来人们总是要让他跟“北洋军阀政府”对立,甚至连周作人在后来的文章当中都说鲁迅去上班不过是去点个卯。事实完全不是这样。鲁迅很卖力,每次考核成绩都很好。所以教育部一次次大裁员,从来也裁不到鲁迅。他不但不会被裁,而且屡次受奖,而且得过袁世凯授予的勋章。顺便说一下,鲁迅对袁世凯、徐世昌等那些总统,都很有感情。袁世凯因为称帝失败,在去世的时候,虽然是国葬,但名声已经不好,所以,政府要求文武官员去祭奠,不少人就以种种理由拒绝,但是鲁迅不但不拒绝,而且很主动。他没有大礼服,从朋友那里借来了大礼服,穿戴整齐,到总统府去,鞠躬上香,祭奠了袁世凯。
说到这里,我忽然想到一个问题,那就是鲁迅的政治选择与国家归属问题。这可以算是我们今天的最后一个话题吧!
我想请大家想一想:鲁迅属于哪一个国家?他应该归属哪个国家?有朋友可能会说,他没有加入过外国籍,当然属于中国。但是我在这里想说的是,从政治学意义上使用国家这个概念,却不得不注意这样一个问题:“中国”存在吗?在历史上,有大秦帝国、大汉帝国、大唐、大宋,直到大清国。在现实中,所谓中国人,有人持中华人民共和国的护照,有人持中华民国的护照。国名,一个是七个字,一个是四个字,谁的护照上是两个字的“中国”?
同时,人的国家归属感,常常不是现实的,而是想象的。大家知道,明遗民生活在大清国却不承认大清,清遗民生活在民国却不承认民国。郑孝胥曾经说过,他与民国乃敌国也。严复逝世于一九二一年,自己拟好的墓碑却是“清侯官严几道先生之寿域”。墓志上写的,不是中华民国北京大学校长,也不是中华民国总统府顾问;而是“清资政大夫”和“清海军协统”。也就是说,严复死后又回到大清帝国去了。他虽然做过民国的官,但最终归属于大清国。
他曾经置身于三个不同的国家。首先是大清国,他曾是大清国的子民,但从他加入光复会开始,他就已经背叛了大清。辛亥革命之后,他属于中华民国,从1912年到1926年十四年的时间,他一直是中华民国的官,直到1926年带着失望离京南下。
他曾经对南方抱有希望,但到广州亲历过国民革命之后就失望了。所以当国民党人北伐成功建立党国之后,他没有到政府做官,而是选择了不合作。甚至因为不合作而被通缉。从这个意义上说,鲁迅晚年有一种悲凉的意味,他失掉了自己的国家,他再也找不到自己的国家。他无国可归,只好在租界度过晚年。他之所以成为左翼,与反抗政府的力量走在一起,成为同路人,与这种处境和心态有关。
换句话说,鲁迅一生经历的这三个国家:一个是帝国,一个是民国,一个是党国。他背叛了爱新觉罗家的帝国,拒绝了国民党的党国,唯一亲近的并且为之服务长达14年的是摇篮里的那个共和国,也就是五色旗下的那个民国,也就是被我们的教科书涂抹的一片昏暗的所谓北洋军阀政府统治时期的那个民国。
今天我们就讲这些吧,时间也差不多了。若有不当之处,请大家批评指正。若有疑问也请提出来,我们继续讨论。谢谢大家!
回答提问:
这位朋友提出了一个很好的问题:鲁迅是权力的敌人还是庸众的敌人?
我���,他既是权力的敌人,又是庸众的敌人,但首先是权力的敌人,然后才是庸众的敌人。因为在强者与弱者、阔人与不阔的人之间,在统治者与被统治者之间,鲁迅总是选择站在后者一边,站在弱者一边,站在被压迫、被欺凌的一边。关于鲁迅的祖父周福清这个人怎么样,我觉得应该说那是一个很有个性的人,也是一个非常聪明人。能够中进士,点翰林,的确不是吃白饭的。不过,他的确做了一件很不光彩的事儿,当然,放在我们这个社会的话,已经很普遍,也就不算多么不光彩了,
自己的儿子,已经中了秀才好多年,却就是考不上举人。正好,同年做主考了,于是就想走走后门,结果事情没办好,败露了,然后被判刑。周福清这个人,有一点是我们值得注意的:那就是他和鲁迅的感情关系,他很爱鲁迅,很关心鲁迅,但是鲁迅对他的感情很复杂,因为祖父的案件使鲁迅心理上受过伤害,所以对父没感情。真的是没感情,但受祖父的影响却很大。鲁迅性格当中好多方面很像他的祖父,包括我刚才说到的那种对权势者的态度。根据周作人等人的回忆,周福清是很喜欢骂人的,但是他可以骂太后,骂皇上,骂他的上司;却从来不骂下层人,这是很有意思的一件事。鲁迅对他祖父的感情,其实也很矛盾,他在好多方面应该说对不起他的祖父,这是我的看法。尤其是在他从绍兴往北京搬家的时候,把他祖父的日记给烧了。他祖父写了一辈子的日记,他给烧了。但在另一方面,现在我们能够看到的周福清的诗集,周福清写的家训,都是鲁迅亲手抄的。图书馆存的也是鲁迅的抄本。从他对鲁迅的教育,对周作人的教育当中,我们可以看到这个人的确很了不起。所以,鲁迅把他的日记烧了,是很遗憾的事,如果不烧的话,那是研究那个年代的官场、那个年代的文人、以及周家文化的很好的材料。
有朋友提出:鲁迅生活那么富贵,如何变得那样不宽容?点我想与他的祖父真的有关,与他的祖母也有关,那的确是他们家人的一种性格,包括鲁迅的父亲也是那样。鲁迅和周作人在外面跟人打了架回家去,父亲首先要问是谁先欺负的谁?周家从来就不会无原则的宽容,先问是谁欺负的谁?如果是自己的孩子欺负了人家,那是绝对不行的。可是如果人家先欺负了自己的孩子,那是可以以牙还牙,以眼还眼的。这也是一种家风。
关于鲁迅的文学地位?好像没必要说,在中国现代文学史上,其他的那些作家,没人可以与他相比。虽然是鲁郭茅巴老曹,但后面五位是没法跟鲁迅相比的。当然,这看上去有点怪,鲁迅总共就写了那么点点东西,《呐喊》、《彷徨》、《故事新编》三个小说集编成一本也不厚,可是他的地位,却没人能比。这里的关键,一是思想的深度,一是艺术的才华。一些人虽然是作家,其实并不适宜当作家,或者不配当作家。
关于鲁迅和他的原配夫人朱安的关系,是很有意思的一个话题。20多年前,第一个提出这个问题,说鲁迅对朱安太无情的,是我的一个学生。用我们今天的目光去看,一个女人被悬置在那里,那样过了一辈子,鲁迅对朱安太无情了。但是,如果回到那个年代去看,可能我们能够理解鲁迅。这个前提就是,鲁迅与朱安的婚姻是地地道道的包办婚姻,新婚第一夜,两人就分开了,真的是没有爱情。那么如果按照现在的观点去看,你不爱人家,跟人家结婚干什么?你结了婚发现没有爱情,你可以离婚呵!这种看法,只能是我们这个年代的看法,放在100多年前,这是不可能的,也是女人无法接受的。重要的还是女人无法接受。因为朱安从嫁到周家的那一天开始,就打定了主意,生是周家的人,死是周家的鬼。而我对此不大理解的倒是鲁迅为什么那么坚决地不喜欢。因为按照正常的情况,考察当时那种包办婚姻,好多人都是在结婚的时候还没见过,但后来也过得很好。一个男人和一个女人在一起,时间长了,慢慢的可能会产生感情,照样会有正常的夫妻生活,朱安当年所抱的希望就是这样,但是鲁迅却让她失望了。到底为什么鲁迅那么不喜欢朱安,这是一个迷,到现在还没有人能够解决。
不过,鲁迅研究界关于鲁迅和朱安关系的一些说法,我认为是不可靠的。因为他们两口子从来没吵过架,朱安总是很好地伺候鲁迅,而鲁迅对朱安也并非漠不关心。在这里,我只讲一个很小的例子,大家看一看:鲁迅很喜欢吃甜食,所以在上班、下班的时候顺便到甜食店买一些甜食,比如什么江米条啊,蜜三刀啊,等等,买一大包捧着回去。回到家,鲁迅总是先捧着到母亲那里,让母亲挑一些留下,然后又捧着到朱安那里,让朱安挑,然后他才把点心拿回自己的房间。就从这样的一种关系看,鲁迅和朱安的这种两口子的关系,是能够和平共处的。
如果我们把鲁迅跟朱安的这种关系放在那个时代去看的话,大家可能很容易发现有三种不同的类型。一种咱们可以拿郭沫若、郁达夫等人作为代表,他们就是借着那种婚姻自主恋爱自由的时代潮流,喜欢谁就去追谁。有了新的爱情,就为这新的爱情去结婚,为了自己的爱情,而对不爱了的妻子不负责任。这是社会最时髦最新潮的一种表现。第二种是另一个极端,那就是以胡适为代表的那种情况。包办婚姻,妻子识不了多少字、小脚,但是照样生活下去,维持着那种旧的婚姻。可是,大家可能知道,那种维持有时候也是很难的。胡适事实上也有过若干次的婚外情,只是维持了那个婚姻。第三种就是鲁迅这样的,他对朱安的确缺少爱情。可是又离不开,他要是把朱安给休了,朱安就没法活下去。那个年代,女孩子嫁出去了,如果她被休掉,是没办法回到娘家去的。如果朱安是一个职业女性,有自己的工作,能够独立生存,那一切都好办。可是朱安能干什么呢?他毕竟是阔小姐,让他去给人当佣人当保姆,一切都不大可能。所以刚开始的时候,鲁迅是想就这样跟朱安过一辈子的。他四十多岁了,写下的文章还是决心就这样过一辈子。因为他不想害另一个人,因为他知道另一个人是无罪的,不应该承担那种悲剧性的后果。但是,人有时候又管不住自己。所以后来遇到许广平,在强大攻势之下,这个中年男人,终于坚持不住了!
鲁迅离开北京南下,其实很重要的一个原因就是爱情。他有了与许广平的这种关系,家里却有一个朱安,怎么办,最好的办法就是离开北京。这是一个转型时期很特殊的情况。鲁迅已经无力抗拒与许广平的爱,但他又不能不要朱安。所以一直到他死的那一天,都一直承担着朱安的生活费。
事实上,鲁迅对这两个女人都有着对不起。对朱安,他不能给感情,而只是提供生存保障。对许广平,他有感情,却又不能给名分。他与许广平的关系,一直是同居的关系,没有像别人那样正式结婚。这是鲁迅当时的一种尴尬境地。
关于鲁迅与周作人的这种分裂,好多人都很关心,关心的是兄弟失和的原因。兄弟为什么失和?直到现在,几乎所有的研究都是推测。因为这里面有很神秘的一点,就是鲁迅从来不说,周作人也从来不说。而且,这种失和,就是周作人从此不想见鲁迅了,却对鲁迅没有怨恨,就是不见他了。鲁迅想约他谈一谈,他也不谈。有一次在后院两个动手打过一架,那是因为鲁迅回去拿书,进了后院。那么亲密的两兄弟,从此成为路人,到底是什么原因呢?站在鲁迅一边的人,总喜欢拿周作人的妻子说事。我觉得这样做也不大公道。还有种种说法,尤其是现在网上,常常很不负责任地那样炒作各种说法,比如说鲁迅偷看羽太信子洗澡,或者听房,等等。但是,这些说法都是不能成立的。为什么不能成立呢?因为对于日本女人来说,偷看洗澡根本算不上什么事儿。那个年代的日本,还存在着男女同浴,洗澡被人看,算什么呢!对于鲁迅听房,有人说过,那个窗子外面是没法站人的。所以,这两种说法都可以排除。但是,有一种说法,我觉得值得考虑。当然,我们没法做结论,只是值得考虑。那就是:是鲁迅先熟悉羽太信子的,周作人晚,周作人到日本留学,很快就喜欢上了羽太信子,两人开始恋爱,然后结婚。所以有人做出这样的推测,认为鲁迅在周作人到日本之前,就和羽太信子有这样那样的关系。如果真是那样,鲁迅本来就和羽太信子关系暧昧,那么到了北京之后,生活在一个屋檐下,两人就比较难处了。这里值得注意的,是周作人的儿子周丰一谈到的一个情况。鲁迅研究界对周丰一的说法几乎是群起而攻之,但我觉得或许存在着某种可能。周丰一说,他的舅舅,也就是羽太信子的弟弟,曾经看到鲁迅与羽太信子有亲密接触。如果真是那样,兄弟两个的确不好再在一起生活了。作为弟弟,当他知道哥哥与妻子的关系,当然会非常尴尬,恨却没有足够的理由。与此同时,羽太信子倒是真的对鲁迅充满怨恨。从她的那种怨恨,倒是可以体会到点儿什么。羽太信子竟然不让她的孩子到前院去,要让鲁迅和朱安孤独,以此惩罚鲁迅,报复鲁迅。这样的一些表现,体现着一种被抛弃者的怨恨,让人觉得他们两个好像真的曾经有什么关系。
朋友们提出的问题很多,原谅我不能一一的回答。我只能是看到哪一个,就先回答哪一个。书虫在这里提到一个问题:他看到了一本《鲁迅传》,里面说鲁迅是个悲观主义者,问是否属实。我想,这种说法应该基本是对的。鲁迅的确很悲观,别看他在批判国民性,在揭露社会问题,等等,但对于问题的解决,并不抱多大希望。这一点我们从他的《呐喊》自序就可以看到,关于铁屋子的那种议论,可以看到他的悲观。
有朋友问:鲁迅是否真的爱钱?鲁迅爱钱,这是一个事实。咱们看他的日记,别的事可以不记,哪一个月拿了多少工资,却是都要记的。对稿费等等,他都很在乎,还为此打过官司。我想,这与他从非常阔到后来没钱花,大有关系。我刚才说他即使最穷的时候仍然比别人富,但是这里有一个落差,他原先太阔,一下子跌落下来,心理感受就特别的强烈。没钱了,才知道钱很重要,才特别重视钱。这个问题提得正好,可以跟前面接上。鲁迅在十三岁之前,是地地道道的阔公子,什么都不缺。后来从小康到困顿,只能说困顿。其实,鲁迅说小康是谦词,他本来那么阔,何止是小康?后来的困顿,主要也是一种感觉。阔公子一下子跌落下来,有一个心理承受的问题。
鲁迅的心理上的确受了一些委屈。但是如果用咱们一般人的情况来看,那种委屈又算得了什么?你再穷也没有穷到社会底层。你最穷的时候,还有那么多的地,还是年年秋天去收租。但是,因为他小时候生活太优越,所以家庭突然出现变故,真是一点委屈也受不了。比方说,他在舅舅家,那个妗子说话伤害了他。如果放到咱们一般人身上,那种伤害算什么?她是对邻居们悄悄说的,把他称作“要饭的”。家里出了事,到舅舅家去住,当然像“要饭的”一样。如果真是一个要饭的,你说他是要饭的,他肯定不敏感。可是一个阔公子突然被人看作“要饭的”,这刺激就非常大。如果当年鲁迅年长一些,就应该明白妗子与外甥的关系。舅舅、姥姥跟外甥的关系,是比较亲近的,而妗子,也就是舅母,本来就比较远。你住在舅舅家里,舅母要安排你的生活,给你做饭,大概还要好好招待,等等,这个舅母有点抱怨,不是很正常的嘛?可是因为鲁迅当年太小,十二三岁,听到了就再也忘不掉,记了一辈子。鲁迅真的很敏感啊,对他好或对他不好,他都能记一辈子。
关于鲁迅的人格是否有缺陷?关于这一点,我想这么说——人格上没有缺陷的人不是太多。鲁迅那种以牙还牙以眼还眼,那么计较的做法,如果说他是一种缺陷,也未尝不可。但我们如果明白一点的话,对这些就不会大惊小怪。因为凡是大艺术家,无论是作家还是画家,性格上、心理上没有点问题的不多。
关于鲁迅与胡适等一些知识界人的关系,这是一个挺复杂的问题。我想,您关心的大概主要是鲁迅与胡适的关系。我想说明的是,在“五四”时期,鲁迅与胡适等关系非常好,是后来变得不好了。关于这种不好了,有好几个方面的原因:一是从个人心理上讲,两人后来的疏远有某种必然性。从一九一八年开始,尤其是在一九二二年、二三年、二四年,鲁迅和胡适非常密切。但是,他们的密切存在障碍,所以好不到什么时候。原因是这里有个问题:鲁迅比胡适年龄大,大九岁。“五四”时期,鲁迅写出什么作品,胡适就说好。胡适关心什么问题,鲁迅也马上去关心什么问题。他们二人配合得很好。但是这种配合注定长不了。如果翻过来,胡适比鲁迅大十岁,那就没问题了;可是恰恰是鲁迅比胡适大了近十岁,这就决定了鲁迅不可能长久地追随胡适。
人就是这样啊,包括我们。让一个比你年龄小的,很年轻的,资历很浅的人,排在你前面,做领袖,而你是一个追随者,这种情况长得了吗?一般长不了。而鲁迅的情况恰恰是这样。胡适二十七岁从美国回来就成了新文化运动的领袖,新文学的倡导者。而鲁迅尽管作品写得好,但只能是新文学界的主将之一,不是领袖。这种秩序随着鲁迅影响的增大,必然要重新调整。
关于鲁迅与胡适的分歧,关心这个问题朋友都能够注意到,胡适从来不攻击鲁迅,而鲁迅屡屡攻击胡适。这里有一个很重要的原因是政治原因。这个政治原因还不在于鲁迅与胡适走向了不同的道路,一个左,一个右,而在于他们对当权者的一种不同态度。现在大多数人都比较赞赏胡适,包括我也比较赞赏胡适。因为那是一种比较实际的,比较重视效果的做法。对于一九二八年之后出现在中国的那个党国,那个政权,鲁迅根本不承认,所以不合作,宁愿被通缉也不合作。那么胡适是不是就能接受呢?胡适也不能接受。如果他完成能接受,他就不会要在一九二九年发起一场人权运动。他要反抗,他要向那个新生的国家要人权。只是这里两人在认识上和态度上有所不同。胡适是明明知道民国已经变成了党国,但是有一点希望也要去争取,去努力。一旦跟蒋介石这样的高层统治者能说上���了,他就会很温和地走上去,试图挎着人家的膀子,拍着人家的肩膀,一块往前走,试图把人家拉向民主宪政这条路。鲁迅却不是这种性格。鲁迅更像他的老师章太炎。民国易帜后,章太炎就不承认这个国家了,自称“中华民国遗民”,不与党国合作。鲁迅没有自称民国遗民,但也拒绝与党国合作。当他看到胡适等人那样去跟新政权套近乎的时候,心里真的有一种看不起。由此我们可以看到的,是鲁迅的傲骨,是骨子里的一种贵族气。胡适对他的态度,不还击,原因也在这里。他把胡适等人看作焦大,觉得胡适你怎么这个样子,国家已经变了,民国变成了党国,你还那样不把自己当外人?鲁迅的意思是,我们已经成为奴隶,而一些人却不知道自己的奴隶地位,偏偏要管主子的事,替主子操心。鲁迅是不同情焦大的。焦大被塞一嘴马粪,在鲁迅看来,是活该。
鲁迅的问题就在于,他太清楚自己的地位:我已经是奴隶,这个国家已经没有我说话的地方,我只能在旁边冷嘲热讽,绝对不去找你们提什么建设性的意见,这是鲁迅对党国的态度。
这种态度决定了他的后来。鲁迅的确是与所谓“北洋政府”更接近,今天我们说的那个北洋政府,应该说这称谓本身就是错的,不应该用“北洋政府”、“北洋军阀政府”,因为那个政府是当时中华民国唯一的合法政府。为什么被称为北洋政府、北洋军阀政府呢?那是因为孙文到广州建立了另一个政府,要否定这个政府,是他们把北京的民国政府称为北洋军阀政府。
今天回头看,如果说中国知识分子生活得更舒适,言论更自由,文化发展更健康,还要数那个所谓“北洋军阀政府统治时期”。因为那时候司法是独立的,新闻出版、学术研究、文学创作,方方面面,都是自由的。你只要高兴,想组党就组党,想办报就办报,一切都是自由的。因为那是公民的权利,因为“约法”里头规定着,“中华民国主权属于国民全体”。而这个规定到了1928年之后,就没有了,成为国民党代替公民行使国家主权。为什么由国民党代行主权?有一个理由,就是中国人民素质太低,所以还不能实行民主,所以,由国民党代行主权。要经过一段训政时期,人民有了行使民主的能力了,那时候再还政于民。最后这一点应该很重要,这意味着国民党人当时虽然剥夺了全体国民的主权,但他们并不认为这是永久合法的,所以还有一个还政于民的承诺。胡适之所以对那个政府寄予希望,原因大概也在这里。否则,他的态度就无法解释了。因为在“训政”结束之后就要实行“宪政”,所以还有希望。鲁迅的不同之处,在于他强烈地感觉到“中华民国已经不是中华民国了”这一点,而不相信那个遥远的希望。
关于这些年鲁迅的作品不断地被从中学语文课本里删除,可以说这是必然的。原因即使我不说,大家也知道,因为我们这个时代,简单概括,可以称作维稳的时代。稳定高于一切。鲁迅的作品,一般被认为是不利于稳定的。早在90年代中期,前文化部长王蒙就曾经说,我们的作家当中有一个鲁迅那太好了,可是如果有好多鲁迅,我的天啊,那会引发地震的。正因为这样的认识,鲁迅那些斗争性的文章,那些太尖锐的文章,在教材里基本上没法生存下了。前几天,我给一家出版社编了一个鲁迅作品散文集,编辑就特别说,李老师,能不能选一点柔软的、轻的作品。我说,好,专门选轻的。可是在序言里头,我说了,有一些作家,你从他最重的作品里选,也仍然是轻的;有一些作家,你选他最轻的作品,可能还是很重。中学语文课本里减少鲁迅作品,这是很正常的。过去鲁迅作品选得太多,应该说不正常。我觉得,即使中学语文课本里只留下几篇鲁迅的作品,也不影响鲁迅在中国现代文学史上的地位。他的这种地位已经是没法撼动的。有些人想依靠捧起金庸来,或者捧起张爱玲来,等等,其实都没法取代鲁迅。
好,我就说这些吧!往回翻了一下,看到还有好多问题没有来得及回答。对不起!时间不早了,咱们今天就到这里,后面一些问题咱们可以放在别的时间再来继续讨论。谢谢大家!
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