#ヴィクト���・ニキフォロフ
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妄想シュガー
ヴィクトルが長谷津へ来た夜、勇利はベッドの中で幾度も寝返りを打ち、寝つかれなかった。ヴィクトルは一緒に寝ようとこころみていたけれど、ちゃんとあきらめてくれたのだろうか? 彼があんなに親しみ深く、積極的だとは思わなかった。あれだけのスケートができるのだから、きっと不屈の精神を持っているのだろうし、もしかしたら、いまも部屋の外で勇利の様子をうかがっているかもしれない。勇利が眠ったらこっそり忍びこみ、同衾して朝まで過ごそうなんて……。 もし──もしそんなことになったら──どうすればよいだろう? きっとヴィクトルはしばらく勇利の寝顔をじっとみつめ、それから頬を撫でて話しかけるのだ。 『ねえ、勇利』 あのつやっぽくてあたたかみを帯びた声ときたら、勇利をどきどきさせずにはおかない。 『きみは俺のファンじゃないの? どうしてそんなに避けるんだ? かなしいなあ』 ヴィクトルは勇利の身体を引き寄せ、額をくっつけてほほえむ。 『こんな取り扱いを受けたのは、生まれて初めてだよ』 ヴィクトルのくちびるが勇利の頬をかすめた。 『いや──自分から誘ったのが生まれて初めて、かな……。勇利、きみって不思議な子だね。まだ出会ってすこししか経ってないのに、こんなに俺の胸をときめかせる』 ヴィクトルは額に落ちかかる勇利の前髪を払いのけ、ぴったりと閉じているまぶたにくちづけた。 『ほんとに眠ってるの?』 『…………』 『無防備なんだね。俺が一緒に寝ようって言ったの、忘れたわけじゃないだろう? 夜に忍んでくるかもしれないとは思わなかったのかい?』 『…………』 『それとも──そうされるのを待ってたのかな?』 『…………』 『勇利……』 ヴィクトルの手が、勇利の寝巻の中にそっと入った。勇利はびくりと身体を揺らし、ヴィクトルを押しのけようとする。しかしヴィクトルはその力を抱き潰して、服を脱がせながらささやいた。 『勇利のこと、いろいろ知りたいな……』 『あ……』 『これからきみのコーチをするんだから……身体のことも知っておかないとね?』 勇利はふっとまぶたをひらいた。微笑をたたえたヴィクトルのおもてを見、ゆっくりと幾度か瞬く。 『ヴィクト……ル?』 『起きたかい?』 ヴィクトル��顔を近づけた。勇利は、なんてうつくしいのだろうとその端正なつくりにうっとりと見蕩れていた。くちびるをふさがれ、たちまち舌が入りこんできた。 『んっ……んんっ?』 なにこれ。息が苦しい。勇利はもがいた。しかし口の中をかきまわされ、すぐに力が抜けてしまった。気持ちいい……。キス? キスなの? これが? ぼく、ヴィクトル・ニキフォロフとキスしてる? 『はっ……』 くちびるがようやく離れ、口元にほそい糸がしたたった。勇利は顔をまっかにし、涙を浮かべて口を押さえた。 『ん? どうしたんだい?』 ヴィクトルが優しく尋ねる。 『い、いま、キ、キスし……』 『そうだよ。いやだった? そんなことないよね? 勇利は俺のファンだし』 『そ、それはそうだけど、でも、』 『きみは俺を好きだろう? キスなんて、されてうれしいくらいじゃないのかい? もう一度してあげようか?』 『やっ、やだ、待って、やだ……』 勇利は急いで顔をそむけた。彼の目に涙がうかび、まなじりにじわっとそのしずくがにじんだ。 『泣いてるの? なんで?』 『ぼ、ぼく……』 勇利は口元を覆ったまま、かぼそい声でつぶやいた。 『キ、キスなんて、そんな……』 『あれ? もしかして初めてだったのかい?』 ヴィクトルがにっこりした。 『ワーオ。ごめんね。奪っちゃったね。勇利のファーストキスか。俺にくれてどうもありがとう』 『ひ、ひどい。ひどい……ぼく、ぼく、こんなの……』 『そんなに驚いたの? きみって純真でうぶなんだね! 国で指定して保護しなきゃ』 『ば、ばか。ばかばかばか。もう出ていって。出ていってください……』 『待って。そんなにキスが気に入らなかった? じゃあもう一度ちゃんとするよ。今度は満足させてみせるから……』 『やだ、やだ、やだ。だめだめ! そんなのだめっ……』 『勇利、かわいい。本当に初めてなんだね。きみのファーストキスをもらえてうれしいよ。二度目もくれないか』 『やだ、いやです。だめ……』 『俺、きみのこと、気に入ってるんだ。勇利は俺が嫌い?』 『す、好きだけど、でもそんなことは……』 『好きならいいじゃないか』 『だめ……』 『いいよ』 『絶対だめです……』 くちびるが重なり、勇利は夢中でヴィクトルにすがりついた。ヴィクトルの手が衣服の中へ入り、素肌に直接ふれる。勇利はぞくぞくして身をふるわせた。 『勇利……』 ヴィクトルがくちびるを合わせたままささやいた。 『きみのことをもっと知りたい……』 『あ……』 『くちびるだけじゃなく……身体のことも……』 『あ、あの、ぼく……』 『こっちの初めても、俺にくれないか……』 ヴィクトルの手がスウェットパンツをすっと下ろした。勇利は混乱し、うそ、そんな、ヴィクトルが、とうろたえた。 『ね……』 『や、だ、だめ、だめです、そんなの、ぼく知らないし、ヴィクトルとなんてっ……』 『知らないなら教えてあげるよ。俺がなんでもしてあげる』 『でもヴィクトルとそんなのっ……』 『いいじゃないか。愛しあってるんだし……』 『あ、愛しあって……』 『ね。いいね』 ヴィクトルは見たこともないほどうつくしい笑みを浮かべると、勇利の下着をつかみ、するっと下ろしてしまった。勇利はまっかになり、『恥ずかしいっ……』とヴィクトルにしがみついた。 『大丈夫だよ。かわいい。俺が全部、いいようにしてあげるからね。落ち着いて。一緒に気持ちよくなろう……?』 『ヴィクトル……』 『大好きだよ、勇利。ファイナルで話して以来、きみのことが忘れられなかった。きみに会うために俺はここへ来たんだ』 『ヴィクトルっ……』 勇利はヴィクトルに抱きつき、熱愛のこもった口ぶりで訴えた。 『こわいよ、ぼくどうなっちゃうの……っ』 そこまで想像したところで勇利は眠りに落ち、すやすやと寝息をたて始めた。翌朝目ざめた彼は、ベッドにひとりで寝ている自分を自覚し、ぼんやりとつぶやいた。 「ヴィクトル……来なかったな……」 中国大会のバンケットで、ヴィクトルは浮かれ騒いだ。勇利の四回転フリップがよほどうれしかったのだとみんなうわさした。本当だろうかと勇利は思った。ヴィクトルがあのジャンプを喜んでくれたことは疑いようもなかったけれど、転倒してしまったので、あとで冷静に立ち返って考えてみれば、例のお説教の対象なのではという気がしてならなかった。 いや、でも、ヴィクトルは本当に驚いて、仕返しにキスまでしてくれたんだ。怒っているはずがない。怒っているというのなら、むしろ──。 「今夜は酔ってないんだね」 部屋へ戻る途中、廊下を歩きながらヴィクトルが静かに言った。勇利は笑って、「酔ってたのはヴィクトルでしょ?」と答えた。 「今日のことじゃないよ」 「ヴィクトルは、酔いは……さめた?」 「そうだね……」 その言葉通り、ヴィクトルはまったく落ち着いた顔色をしていた。笑いが止まらないといった様子で騒ぎ、クリストフに「君がそんな男だとは思わなかった」とからかわれていたのがうそのようだ。 「ヴィクトル……」 「なんだい」 「…………」 何か怒ってるの。そう尋ねようとして勇利は言葉をのみこんだ。きっと訊いたら、ヴィクトルは、ヴィクトルは──。 『怒ってるにきまってるだろう。反対に訊くけど、なんで俺が怒ってないなんて思えるんだ? 勇利は俺をなんだと思ってるの?』 笑いながら挑戦的に言われたら、勇利はもうしゅんとするしかない。 『……何に怒ってるの?』 『わかっていてそういうことを言う。勇利はたちが悪いし意地悪だな。俺をいじめて楽しい?』 『だって本当にわからないんだもの。ヴィクトル、疲れてるんじゃない? 今回はいろいろあったものね。ゆっくりやすんだほうがいいよ。きっと酔いもまださめてない』 『逃げるのか』 ひとりで部屋へ入ろうとした勇利を、ヴィクトルはひきとめた。 『逃げるってなに? ぼくは自分の部屋で眠ろうとしてるだけだよ』 『話はまだ終わっていない』 『何の話? ぼくにはさっぱりわからないよ』 勇利はすこし怒ったように言った。 『自分から始めておいてそれはない。勇利、俺の気持ちを何もかもわかっていて、もてあそんでいるだろう。たちの悪い子だ』 『言ってる意味が──』 ヴィクトルは勇利の手からカードキーを取り上げると、扉を開け、勇利を押しこむようにしながら一緒に部屋へ入った。勇利はいつにないヴィクトルの荒々しさにおびえ、ふらつきながら奥へと逃げた。 『ヴィクトル、どうしたの』 『勇利がどうしたんだ』 『貴方、こわいよ……』 『何がこわい? ���に何かされると思っているのか?』 『おねがい、ひとりにして。ぼくもうやすみたい』 勇利は恐怖にふるえながら懇願した。ヴィクトルはきっぱりとかぶりを振ると、勇利の手首を握り、強引に引き寄せた。勇利の足元があやしくなり、ヴィクトルのたくましい身体にぶつかる。その瞬間、抱きすくめられ、くちびるを奪われた。 『んんっ……』 全身がしびれるような気がした。ヴィクトルのくちづけは魔法だ。勇利から、理性も、言い訳も、思考も、すべてなくしてしまう。 『ん、あ、う、ん、ん……』 息苦しくなり、顔をそむけたら、追いかけられてまたキスされた。勇利の目に涙がにじんだ。 『ヴィクトルっ……』 『今夜は眠らせない』 その低いささやきに、勇利はびくりとした。ヴィクトルは勇利の肩を押しやり、後ろを向かせると、そのままうつぶせになるようベッドに押し倒した。 『あっ……』 彼は寝台に膝をつき、勇利の手を押さえた。そしてもう一方の手で、ぎゅっと臀部をつかみしめた。 『ヴィ、ヴィクトル……』 『クリスにここをさわらせていたね』 ヴィクトルが笑みさえふくんだ優しい声でささやいた。勇利はぞくっとした。 『いつもそうさせてるの?』 『そ、そんな、ちがう……。あれはクリスが、冗談で、』 『冗談で、毎回させてるんだ』 『ちがう、ちがうの。ヴィクトルだってわかってるじゃないか。クリスがどういう人かなんて……。何も意味なんかない、ただぼくをからかっただけなんだよ。そうじゃなきゃ……』 『からかいだったら、何をされてもいいのか?』 ヴィクトルがにっこりした。 『じゃあ俺も、これから、勇利をからかうためにカメラの前でべたべた身体にさわろうかな』 『や、やめて』 『なぜ? 冗談ならいいんだろ? そうだ、どうせなら服に手を入れてしまおう。きっとみんな驚くだろうね』 ヴィクトルはくすくす笑った。 『そして……、勇利の恥ずかしい姿を見せつけようかな。ああ、顔は見せないよ。それは俺だけのものだ。でも、そうしたら、みんなおまえが誰のものか思い知るだろう。さわってくるやつなんかひとりもいなくなる』 彼は勇利の耳元に口を寄せ、『ね?』と甘ったるくささやいた。勇利はたまらなくなった。 『だから、クリスはそういうんじゃないってば……! ヴィクトルがいやなら、もうしないでって伝えておくよ。そうしたら……』 『俺がいやだからさせないんだ。勇利の意思ではしてもらいたいんだね』 『そうじゃないよ!』 『それならいままでにそう言って断ってるはずだろう? いまだにさわられてるってことは、きみがゆるしているということだ』 ヴィクトルは丁寧に言って聞かせながら、ゆっくりと臀部をさわった。勇利はいまにも服を脱がされそうで、気が気ではない。 『……本当はさわられるのが好きなのかな』 ヴィクトルがとろけるような口ぶりで言った。 『こんなふうに……』 ヴィクトルの長い指が、つつ……と引き締まった肉の上を伝ってゆく。勇利はぎゅっと目を閉じた。 『ヴィ、ヴィクトル、やめて……』 『おやおや。クリスには言わないのに、俺にはそう言うんだね』 『ちがうよ、だってヴィクトルは……』 『俺よりクリスのほうが好きなの?』 『そうじゃないよ。そんなんじゃない』 『勇利、本当に絞ったね。綺麗なかたちだね……』 ヴィクトルがつぶやいた。勇利は、は……と吐息を漏らした。 『……おまえは俺の気持ちをぜんぜんわかってない』 ふっとヴィクトルの香りが強く漂った。その瞬間、仰向けに転がされ、勇利は自分にのしかかるヴィクトル���見た。 『……おしおきだね』 『な、何を……』 『勇利は俺のことを好きだという目で見てくるくせに、そうやって無防備になんでもさらしているから、ちゃんと教えておかないといけない。そうだろ?』 『あ、や、やめて……』 ネクタイをほどかれ、シャツの前をひらかれて、勇利はとりみだした。 『ヴィクトル、おねがい、やめて』 『いやなのか?』 『いやじゃない、けど、いまのヴィクトル、こわい……』 『嫌いになった?』 『ぼくが好きなのはヴィクトルだけだよ。貴方だけ。貴方だけだから、おねがい……』 『……そうか』 ヴィクトルは微笑を浮かべ、甘く勇利をみつめて言った。 『だったら、抱いても問題ないな』 「ヴィクトルっ……」 勇利はみずからの身体をぎゅうっと抱きしめ、その場にぴたりと足を止めた。 「どうしたんだい?」 ヴィクトルが振り返って心配そうな顔をする。 「気分が悪い? やっぱり酔ってるのかな?」 「あ……」 彼は勇利の頬にふれ、髪をかきわけて撫でてくれた。 「今夜は早くやすんだほうがいい。試合の疲れも抜けていないだろうし、すぐにロシア大会があるからね。万全の調子でのぞまないと」 「……う、うん、そうだね……」 勇利はこくこくとうなずいた。 「勇利……顔が赤い。酔ってるせい? それとも熱でも出た……?」 「あ、へ、平気だよ。ちょっとまだ興奮してるだけ」 「そうかい? どこかおかしかったらすぐに言うんだよ」 ヴィクトルは勇利と額を合わせ、いとおしそうにそっとつむりを左右に揺らした。 「ん、大丈夫……」 彼は勇利の代わりに鍵を開けると、うやうやしいしぐさで中へ入るよう示し、最後に優しくにっこりした。 「おやすみ、いい夢を。ぐっすりやすんで、明日はまた勇利のかわいい笑顔を見せてね」 「う、うん……おやすみなさい」 勇利はこくりとうなずき、ひとり部屋へ戻った。自室の扉の閉まる音。続いて、ヴィクトルの部屋の戸の音。 「はあ……」 勇利はほてった頬にてのひらを当てた。そうか……。 「ヴィクトル、自分の部屋に戻っちゃうのか……」 グランプリファイナルのバンケットは、まったく楽しかった。勇利はほとんどずっと笑っていた。ヴィクトルも同様だった。彼は自分の復帰についてふれられるたび、それを言ってきた人に「勇利と一緒にやっていくんだ」と自慢した。 「勇利とふたりでスケートをするんだよ。これからはずっと勇利が隣にいるんだ。うらやましいだろう?」 同じ話を幾度もするので、とうとうユーリに「ジジイ、うるせえ、耄碌したのか!」と怒鳴られる始末だった。しかしそれでもヴィクトルはにこにこしていた。 「勇利は引退しないんだ。俺も引退しない。ふたりですべるんだよ。そうだろう?」 「ヴィクトル、酔ってるの?」 「酔っているとも。幸福に酔ってる! 勇利、俺と踊ろう!」 ヴィクトルはいつだって陽気で楽しそうで、中国大会のときも浮かれていたけれど、それ以上にその夜の彼には愛情と親しみがあふれていて、勇利は情熱的な青い瞳にどきどきした。ヴィクトルと手をつなぎ、「部屋へ戻ろう!」と笑う彼と歩き出したとき、これから自分に何が待ち受けているのかと頬を紅潮させた。部屋の扉が閉まったときに、その興奮はいちだんと増した。 「ヴィクトル、大丈夫? お風呂入ったらあぶないんじゃない? 明日にしたら?」 「勇利と入る」 「えぇ?」 「ほらほら、早く早く」 ヴィクトルとともに入浴しながら、勇利はのぼせ上がっていた。いままで温泉でいくらでも見てきた彼のしっかりとした男らしい身体が、どうしても見られなかった。ヴィクトルってどうしてこんなにすてきなんだろう? それに……、どうしてこんなにくっつくのかな? ぼくとスケートできることがそんなにうれしいの? ヴィクトルは、ヴィクトルは……。 「勇利、ずいぶん無口だね」 ふたりしてベッドに横になると、ヴィクトルが不満そうに言った。 「何を考えてるんだ? きっとまたろくなことじゃない」 「何も考えてないよ」 勇利はうそをついた。考えているのはヴィクトルのことで、「ろくなことじゃない」どころの騒ぎではない。 「それより、ふたりで寝るのは狭くない? ベッドはこんなにくっついてるんだから、別々でもいいんじゃないかな」 「そうやって勇利はすぐつれないことを言う!」 ヴィクトルは盛大に溜息をつき、抗議するように勇利を抱きしめた。 「俺たちは明日にははなればなれになっちゃうんだよ。かなしくないの? 平気なのか?」 「それぞれ試合があるんだから仕方ないでしょ。それに、ほんのすこしのあいだじゃないか。一年も二年も別れるわけじゃない」 「ああそうか。勇利はそうなんだろうね。俺がこんなに勇利と一緒にいたいと思ってるのに、きみはジャパンナショナルのことで頭がいっぱいなんだ。そこでいい成績をおさめられたら、コーチなんかいなくてもやっていけるとかなんとか言い出すつもりなんだろう!」 「そんなわけないでしょ? ぼくと競技続けてくださいって、ぼくからおねがいしたんだよ」 「この指輪だって勇利からくれたよ。でもおまえは別れを切り出した」 「その指輪はただのお守りっていうか、お礼だって言ったよね?」 「ああつめたい。勇利はつめたい。徹底的につめたいんだ!」 ヴィクトルがぎゅうぎゅう勇利を抱擁した。 「いいさ、そうやって平気ぶっていれば。再会したとき俺がさびしさのあまり痩せ細っているのを見て後悔すればいい」 「ヴィクトルったら……」 勇利はくすくす笑った。彼の胸はずっとどきどきと早鐘のように打っていた。ヴィクトルにはわからないのだろうか? ヴィクトル、ぼくのこと、そんなに好きなら……。 勇利はうっとりとヴィクトルをみつめ、まぶたをほそめた。 そんなに好きなら、貴方はきっと……。 『ねえ勇利。笑ってないで俺をちゃんと見てくれ』 『見てるよ』 『見るだけじゃなく執着してくれ。もう二度とあんなこと言わないで。そして、たとえすこしのあいだでも、別れるときは、もうすこしかなしそうにしてくれ』 『かなしいってば』 『うそだ』 ヴィクトルは勇利に頬をすり寄せ、たまらないというようにささやく。 『……ねえ、本当にわかってるかい? 俺たちは明日別々の国に戻るんだよ。八ヶ月間、ずっと一緒にいたのに、明日には遠く離れてしまうんだ』 『仕方がないよ』 『仕方がない、じゃない。俺は……』 ヴィクトルはすこし顔を離し、熱っぽい瞳で勇利をみつめた。 『……別れる前に、約束が欲しい』 『再会はもうきまってるよ。代表に選ばれたら、四大陸、付き添ってくれるんでしょ?』 『そうじゃない。俺たちの気持ちのことだ』 『気持ち……』 『おまえは俺のもので俺はおまえのものだ。そのよりどころとなる約束が欲しい』 『……好きと言えということ?』 『ちがう。言葉じゃ足りない。もう……』 ヴィクトルが真剣な目をつらそうにほそめた。勇利のこころも激しく痛んだ。 『……今夜、おまえを俺のものにしたい』 勇利はまっかになった。彼はヴィクトルの胸に顔を押しつけ、『……本気?』とつぶやいた。 『本気だ。こんなこと、冗談で言えると思うのか?』 『でも……』 勇利はためらった。 『ぼく、そういうの初めてだし……よくわからない……』 『俺も初めてだ。これほどくるおしくひとを愛したのは』 ふたりの指先がふれあい、それぞれ、相手の手を握りあった。熱心な視線がからまり、目が、おまえが、貴方が欲しいと訴える。 『このまま離れてしまうなんて我慢できない。きっとさよならと手を振って三歩も歩いたら、もうせつなくなって振り返ってしまうよ。そうならないために、勇利、俺に慈悲を与えてくれないか……』 『慈悲だなんて、そんな……』 勇利は視線をそらし、口元に手を当てた。 『ぼくはヴィクトルの言うことなら、なんでも応えたいと思ってるよ……』 『本当かい?』 『……本当かどうか……』 勇利は赤くなってつぶやいた。 『ためしてみてよ……。ぼくを奪って』 『勇利』 ヴィクトルが勇利を抱きすくめ、性急なしぐさで寝巻をみだした。勇利はぞくぞくして、興奮が増すのをおぼえた。 『あ、でも乱暴にしないで。こわいよ……』 『そんなに煽っておいてよく言う』 『だって、だめ、だめだめ、ぼくすぐに試合が……』 『痛いことはしない。大丈夫だよ』 『あっ、ヴィクトル、荒っぽい……』 『そうだ』 ヴィクトルは勇利の瞳をのぞきこんだ。 『俺はそういう男なんだ。知らなかっただろう。これからじっくり教えてあげる』 『ヴィクトル……』 『勇利』 『あ、あぁ……』 『好きだ、勇利……』 「勇利、好きだよ」 ヴィクトルが情熱的にささやき、勇利をぎゅっと抱きしめた。勇利ははっと我に返り、夢からさめたように瞬いた。あ、そうか……ぼくちょっとぼんやりしてた……。 「もし痩せ細っていても、理想のヴィクトルとちがうだなんて言って、俺を嫌いにならないでくれ」 耳元でそんなふうに頼まれ、勇利はまっかになった。ヴィクトル……。 「いいかい?」 「う……うん……」 「約束だよ」 勇利の胸がどきんとひとつ打った。約束。約束……。 きっといまからヴィクトルは言うんだ。約束が欲しいと。かたちとして示してくれと。そしてぼくがためらったら、強引に奪いに来て、寝巻をみだして、ぼくのことを……。 「勇利が金メダルを俺に見せてくれるのを楽しみにしている」 ヴィクトルが優しく言った。 「それをなぐさめに……俺もがんばるよ」 「う、うん……」 「勇利、愛してる」 ヴィクトルは勇利のくちびるにかるく接吻すると、このうえもなく甘く笑い、「おやすみ」と挨拶した。 「え……?」 「もっとくっついて。今夜は勇利の夢を見たい」 「あ、あの……」 「同じ夢を見ようね」 ヴィクトルは間もなく寝息をたて始めた。勇利はきょとんとして彼のうつくしいおもてを見ていた。 「え……ほんとに……?」 寝ちゃったの? ヴィクトル、寝ちゃったの? 約束は? ぼくが欲しいんじゃないの? 会わないあいだがんばるためにするえっちは? 「あれぇ……?」 勇利は首をかしげた。 「寝ちゃうんだ……?」 彼は口元に手を当て、横を向いたり、視線を下げたりしていろいろ考えていたが、ひとこと、「おかしいなあ……」とつぶやいて、そのうち眠りに落ちた。 さまざまなことを経て、勇利は大きな意味のあるシーズンを終了させ、ロシアはサンクトペテルブルクへと渡った。そこではヴィクトルのところに住む約束をしていたので、その通り、彼のもとへ行った。ヴィクトルはこれまでにないほど喜び、目を輝かせ、勇利をリンクへ案内した。それから、街のいろいろなことを教えてくれた。ヴィクトルの自宅はあたたかなところで、彼の���いがした。勇利の部屋だよ、とくれた一室は近代的であり、いかにも過ごしやすそうで、ヴィクトルが気をつけて支度をしてくれたのだということがたやすく知れた。この異国の地でこれからヴィクトルとともに暮らしをいとなんでゆくのだという気持ちが勇利を高揚させた。 しかし、彼にはひとつ、気になることがあった。じつは、まだヴィクトルにコーチ料を支払っていない。いろいろなことがあったのですっかり忘れていた。下宿代だって無料というわけにはいかない。ヴィクトルは「うちにおいでよ」と気軽に言って金銭の話はいっさいしなかったけれど、だからといってぬくぬくと甘えるなんてできない。 合わせていったいいくらになるのだろうと勇利はおびえていた。自分に支払える金額だろうか? これから仕事は選り好みできないかもしれない。ヴィクトルに返すためのお金を稼いでぼくは一生を終えるんだな……ということをぼんやり考えた。 でも──でも、果たして本当にそうなるだろうか? この家を見てもよくわかるが、ヴィクトルはすでに財産持ちなのだ。世界王者に対するロシアの取り扱いには手落ちがない。いまさら、勇利からの支払いにこだわったりするだろうか? もちろん、お金はいくらあっても困るものではないので、いらないとは思っていないだろうけれど、それでも──。 「勇利、疲れた?」 ヴィクトルが温かい飲み物を持って隣に座った。勇利は、このソファについて、一度座ったら立ち上がれないようなやつだ、という感想を持っていた。 「日本にくらべて寒いだろう? いろんな人に会って気疲れもあっただろうし、今夜は早くやすんだほうがいいかもしれないね」 「うん……」 勇利はカップを受け取り、ちいさくうなずいた。 「寒さの種類がちがうよね。でも、思ったほどじゃないよ。もう雪がとけてるからかもしれないけど」 「そうだね。本格的な冬になるとまた大変だよ。もっとも、勇利はまるで知らないわけじゃないだろうけどね。ロシア大会のとき、夜はひとりでうろうろしてたんだって? ユリオから聞いた。だめだよ、そんなことしちゃ。迷子になるかもしれないし、あぶない」 「あははっ、なんだかぼく、子どもみたいだね」 「そうだ、子どもだ。でも本当は子どもじゃないから余計に困るんだ」 ヴィクトルがじっと勇利の目をみつめた。その意味のこもったまなざしに勇利はどぎまぎし、赤くなって視線をそらした。 「勇利……」 ヴィクトルが勇利の肩を抱き寄せた。勇利はびくっとし、それから期待をこめてヴィクトルを見た。 「……俺に何も言わず勝手にどこかへ行ったりしないと、約束してくれ」 「ヴィクトル……」 「勇利が油断のならない子だというのはもうよくわきまえてるからね。俺は気が気じゃないんだ。わかるだろう?」 勇利は気恥ずかしそうに目を伏せた。 「……どこにも行かないよ」 「本当に?」 「本当だよ」 「誓う?」 「どうしたの? ヴィクトルのほうが子どもみたいだね」 「勇利の言葉は信用できない。俺はこわいんだ」 「そんな……」 ぼくもこわいよ……。勇利の胸はどきどきと高鳴った。ヴィクトル、どうしてそんな目でぼくを見るの。どうしてそんなに手が熱いの。どうしてそんなに……ぼくにくっつくの。 「どこにも行けるわけないでしょ? ぼく、ヴィクトルに借金も返してないのに」 勇利は冗談でごまかそうとした。 「借金?」 「だってほら、コーチ料、まだ支払いしてないよね。請求書は改めてって言われた���ど、いつ来るのかってびくびくしてるよ。それに、ここに住まわせてもらうのも、ただというわけにはいかないし。じらさないで、そろそろ教えてよ。ぼく、ヴィクトルにいくら払えばいいの?」 ヴィクトルの瞳が、ますます情熱的なひかりを帯びた。 「もう仕事は選んでいられないっていう気がしてるんだよね。こんなぼくでもね、たまにはコマーシャルの依頼とか来るんだよ。ちびっこスケート教室の特別講師とか……。どっちも苦手なんだけど、そんなこと言ってられないよね。でもさ、ヴィクトル、ヴィクトルはこんな家に住んでお金持ちなんだから、すこしは割引きして欲しいなあ。そうだ、家のことはぼくがするよ! それで一割引きくらいにはならない? なんてね。いまのは冗談だよ。ちゃんと払うよ。だけど、本当に真剣にお会計して欲しいな。ね、どう?」 勇利は話を結び、口をつぐんだ。沈黙が落ちる。ヴィクトル、どうして黙ってるんだろう……。なんとなく気持ちが落ち着かず、勇利はカップに口をつけた。甘いココアだった。美味しい、とくちびるの動きだけでつぶやいたとき、ヴィクトルの手が勇利からカップを取り上げ、わきのテーブルへ置いた。 「ヴィクトル……?」 勇利の鼓動はますますはやくなった。彼は赤くなってどぎまぎした。おずおずとヴィクトルを見る。ヴィクトルは真剣な表情をしていた。 「ど、どうしたの……?」 「勇利……」 彼の声はかすれていて、ひどくつやっぽかった。勇利は耳も首もまっかになった。言われるんだ、と思った。言われちゃうんだ。ぼく、ヴィクトルに言われちゃうんだ……。 『金はいらない』 ヴィクトルは低くつぶやいた。 『もっと別のもので支払ってもらいたい』 『別のもの……?』 勇利は無理にほほえんだ。心臓が痛いくらいだ。 『そう』 『それって……なに?』 『聞いても後悔しない?』 『え?』 『いつ言おうかと、ずっと迷っていた。言うべきか悩んでもいた。このまま、うやむやにできるならそうしたいと考えていた』 『うやむやだなんて、そんなのおかしいよ。ヴィクトルが得るべき正当な報酬だよ。いけないよ、そんなこと』 『でも俺はやめたほうがいいという気がしていたんだ』 『ヴィクトルの取り分なのにいらないの? だめだよ』 『金の話じゃない。そう言っただろう』 『ヴィクトル、何が言いたいのかわからないよ……』 ヴィクトルがふいに勇利にくちづけた。勇利は目をまるくした。ヴィクトルはすぐに顔を離し、『ココアの味がする』とほほえんだ。そして勇利を抱き上げると、大股で歩いてゆき、寝室に入った。 『ヴィクトル、寝るの?』 勇利はヴィクトルにしがみつきながら尋ねた。 『ああ、そうだ。きみも寝るんだ』 『待って、一緒に寝るの? そんなのだめだよ』 『だめ? なぜ?』 『だって、そんな……』 ベッドの上にそっと下ろされ、勇利は両手を握り合わせた。ヴィクトルが、着ていたシャツを頭から抜き取り、それを投げ捨てながら迫ってくる。 『ヴィ、ヴィクトル……』 『なんだい』 『あの……、どうしたの……』 『コーチ料の話だったね』 ヴィクトルはかすかな微笑を浮かべた。 『えっと、コーチ料の話って、寝室でするようなこと? ぼく、もっとちゃんと相談したいなあ……』 『寝室ですることだ。ベッドですることだよ、勇利』 『ヴィクトル、どうして服なんて脱ぐの。ぼく、あの……』 『勇利』 ヴィクトルが勇利の両脇に手をつき、顔を近づけてささやいた。 『コーチ料は、身体で払ってくれ』 『えっ』 『ほかには何もいらない。俺が欲しいのはそれだけなんだ』 『ヴィ、ヴィクトル……』 勇利は口を押さえ、恥じらった。 『身体って……身体って……』 『意味、わかる��ろう?』 『……あの』 勇利はどぎまぎしてうつむいた。 『……か、考えさせて』 『考える余地はない。勇利、きみに拒否権はないんだよ』 『でも、そんなのひどい』 『ひどい?』 ヴィクトルが優しく言った。 『俺にそうされるのがいやなの?』 『え、えと……』 『俺を好きじゃない?』 『ぼくは……』 『俺が嫌いだ、そんなこと絶対したくない。勇利の心構えがそんなふうなら、確かにひどいだろうね。でも……』 ヴィクトルのくちびるが耳たぶにふれた。勇利はぞくぞくっとして目を閉じた。 『……勇利は俺が好きだろう?』 『あ……』 『だったらいいじゃないか。身体で払うのはむしろ好都合なんじゃないか?』 『そ、そんな、そんな、ぼく……』 『さあ』 当たり前のようにシャツの裾をたくし上げられた。勇利はまっかになり、『やめて……』とかぶりを振って拒絶しようとした。 『言っただろう。おまえに拒否権はない。俺に抱かれて、俺のものになるしかないんだ。さあ脱いで』 「や、やめてぇ」 甘ったるい声が勇利のくちびるからこぼれ、ヴィクトルは目をまるくして身体を引いた。 「え? ご、ごめん」 彼は慌てたように謝り、「何かいやなことした?」と申し訳なさそうに尋ねた。 「えっ?」 勇利も驚いた。あれ? なんで? ヴィクトル? 「……なんでソファにいるの?」 「え?」 「ベッドにいたんじゃないの?」 「え?」 ヴィクトルはぱちぱちと瞬いた。 「……俺たち、さっきからここで飲み物飲んでたよね?」 「あ……あれ?」 えっと、そうだっけ……なんで……? 勇利は首をかしげた。 「ごめん、なんか勘違いしたかも。なんの話だっけ?」 「勇利への請求額の話だよ」 「あっ……コーチ料。コーチ料ね」 勇利はほほえんだ。そうだった。これからヴィクトルは勇利に要求額を言うのだった。 「うん、いいよ。おいくら? 書面できっとくれるだろうけど、その前にざっとした額を教えて欲しいから」 「ああ」 ヴィクトルはきまじめにうなずいた。彼は勇利の手を取り、愛情をこめて握りしめた。勇利は期待に胸をときめかせた。 「勇利、コーチ料は……」 「うん」 「きみが……」 「うん」 「きみが引退したときで、いいよ」 「……え?」 勇利はぽかんとした。ヴィクトルの言ったことがちょっと信じられなかった。 「引退したとき……?」 「そう」 ヴィクトルは真摯な目をしていた。 「勇利のコーチは、引退まで俺だろう?」 「それは……そうだね」 「だったらまとめてしまったほうが、手間もかからなくていいんじゃないかと思うんだ」 「あの……」 「あ、あまりにも高額になると思ってる? でもそれはいま言っても同じことだよね。勇利の現役の時代が減ったり増えたりするわけじゃない。勇利は支払いがまださきだからといって、安心して無駄遣いしたりもしないだろうし。一度に支出があるか、年ごとにか、ってそれだけのちがいじゃないか。俺もそういうのはいちいちめんどうだし、とりあえずいまはいいよ。だから勇利……、勇利?」 ヴィクトルはぱちりと瞬いた。彼は、あぜんとしている勇利を見て不思議そうな顔をした。 「勇利……、そんなに意外だった? ああ、まあそうだろうけど。きっといままで、ちゃんと毎年契約をして、契約ごとに完了させてきたんだろうからね。でもいいじゃないか。俺と勇利は特別な関係だし、普通の師弟とはちが──」 「ヴィクトル」 勇利はヴィクトルの言葉を遮った。彼はヴィクトルの手を握り返し、熱心な口ぶりで言った。 「そうなの?」 「え?」 「お金がいいの?」 「何が……?」 「ヴィクトルは、コーチ料……」 勇利は信じられないという気持ちだった。 「身体で払って欲しいんじゃないの?」 「えぇ!?」 ヴィクトルが仰天したように目をみひらいた。彼は口をぽかんと開け、それから何か言おうとし、結局何も言わなかった。 「か、身体って、それは、つまり……」 「あっ」 勇利はそこでようやく我に返った。とんでもないことを言ってしまった。いけない。このままでは変に思われる。 「な、なんでもない!」 彼はヴィクトルの手を振り払い、慌てて立ち上がった。どうしよう、とうろたえたあげく、まだカップにココアが残っていることに気がつき、それを一気に飲み干した。まだすこし熱かったのでびっくりしてしまった。 「あ、あの、ぼくもう寝るね!」 勇利は自室へ逃げ帰った。ヴィクトルはちゃんと──いや、当たり前に、というべきか──勇利の私室にもベッドを整えておいてくれたので、彼と一緒に寝なければならないということはなかった。 「はあ……」 とほうもないことを言っちゃった。あぶないあぶない……。勇利は頬に手を当てた。あ、歯みがきしてない。寝る前にしなきゃ。ヴィクトル、まだ居間にいるかな。あそこ通らないと洗面所に行けないんだよなあ……。 もう寝たかも、という期待を持って扉に近づき、居間のあかりをうかがおうとした。するとノックの音がし、勇利は飛び上がってしまった。 「は、はいっ?」 声が甲高くなる。落ち着け、落ち着け。 「勇利、ちょっと話が……」 「あ、あの、ぼくもう寝るから」 「いいから開けるんだ」 その命令的な物言いに、勇利はぞくぞくした。彼はおずおずと扉を開け、「どうぞ……」とヴィクトルを招いた。ふたりは並んでベッドに座った。 「勇利、さっきの話だけど」 「あっ、あの、あれは……」 「黙って聞きなさい」 「……はい」 勇利は両手をそろえ、膝の上に置いた。 「……あれは、どういうことなんだ。身体でって、肉体労働の意味じゃないよね? つまり、性的なことを俺が言い出すと思ってたってこと?」 「あ、や、その、それは……」 「ちがうのかい?」 「えと……」 勇利は泣き出しそうになり、頬を押さえた。どうしよう。肉体労働の意味です、と言っても、おまえが何の役に立つんだと言われそうである。勇利にできるのはせいぜいスケートだけれど、それにはヴィクトルの助けが必要だ。本末転倒というものだ。ならば、性的な親切で払います、と言ってしまえばよいのか。でもそれでは、ヴィクトルがそんな要求をするような男だと思っていると宣言するようなものである。あまりにも失礼だろう。 「そうなんだね」 「あっ、いえ、ちが……」 「じゃあどういうことなんだ」 「えっと……」 「そもそも」 ヴィクトルは溜息をついた。 「そういうことを思いつくのはまだいい。いや、よくはないが、俺がそう言い出しそうなふうだったということだからね」 そんなことはない。ヴィクトルはいつだって紳士で禁欲的だった。勇利は彼から性的な合図を感じたことなど一度もないのだ。 「でも、それに対し、勇利がいやな顔をしていないのはどういうことだ? むしろ、そう言われないのが不思議というくらいの態度だったじゃないか。普通、身体で払えなんてそんな請求をされたら、けがらわしいとか、がっかりしたとか、もう顔も見たくないとか、嫌悪が生じるものだろう? 一般的な人物が相手でもそうだが、俺はきみのあこがれの男じゃないか」 「あ……」 「ちがうのか?」 ヴィクトルが厳しく勇利を見据えた。 「夢を持っていた男にセックスでコーチ料を払えなんて言われて、それでも平気、応じてもいいだなんて、勇利はいったい何を考えているんだ。スケートのためならそんなのはぜんぜん構わないと��うこと? その決意のあらわれなのかい?」 「あの、あの、それは……」 勇利は混乱してきた。目がまわってしまいそうだ。わけがわからなくて、ヴィクトルにはしたないやつだと思われたかもしれない、ということさえ考えつけなかった。 「それは、何度もしてるので、平気というか、構わないというか、ぼくの中では日常で、当たり前なので……」 「日常で当たり前!?」 ヴィクトルがぎょっとしたように叫んだ。あっ、あっ、と勇利はまた慌てた。何かまちがえたらしい。 「勇利、きみ、いままでコーチ料をセックスで支払ってきたのか!?」 「あっ、ちがいます! ちがいますー!」 そうか、そう受け取られてしまったのか。いや、そうとしか取りようがないかもしれない。いまの勇利の物言いでは……。 「そうじゃない! そうじゃないの!」 「でも慣れてるんだろう!」 「いや、あの、慣れてるのはそういう行為じゃなくて、そんなのは一度もしたことないし、ぼくは……あの、ぼくは──ただ、妄想を何度もしたから、というだけであって……」 「……妄想?」 ヴィクトルが眉根を寄せた。彼は、この子はまた変なことを言い出した、というように勇利を見る。 「妄想って、どういうこと?」 「あの、だから……」 勇利は何も考えられず、問われるままにすらすらと説明してしまった。 「ヴィクトルのことで、いろいろと妄想を……」 「どういう?」 「えっと、とりあえずヴィクトルがうちに初めて来たときは、貴方が一緒に寝ようって執拗だったものだから、夜中に忍んできていろいろされるんじゃないかとか」 「……は?」 「あと、中国大会のときは、クリスにお尻さわられたから、それに怒っておしおきだってえっちなことされちゃうんじゃないかとか」 「な……」 「ファイナルのあと別れるときは、はなればなれになるのがつらいから約束が欲しいって、強引に抱かれちゃうとか」 「…………」 「ほかにも、いろいろ……。中四国九州大会では、勝手にジャンプ構成を戻したから、今後ちゃんと言うこと聞くように躾けてあげるって言われたし、四大陸選手権で再会したときは、離れてるのがつらかったって会うなりベッドに押し倒されたし、世界選手権のあとは、ロシアに来ることになったんだからおまえはもう俺のものだって身体に教えられたし──」 「…………」 「あ、もちろん、ぼくの頭の中でだよ! なんか、すごくそんな気がしてくるんだよね。そうされちゃうみたいな……ヴィクトルに、えっちなこと……」 勇利は頬を上気させ、瞳をきらきらと輝かせて宙をぼんやりとみつめた。 「慣れてるっていうのはそういうことで……本当には一度もしたことないよ。でも、想像の中のヴィクトルは、すっごくエロスで、男っぽくて、色っぽくて、ぞくぞくして、強引で、優しくて、意地悪で、ぼく、とっても──」 「……つまり」 ヴィクトルは低い声で言った。 「つまり今回は、身体で払えと要求する俺を想像したということなんだね」 「あ、うん、そう」 勇利は無邪気に答え、両手を握り合わせてこくこくとうなずいた。 「もう、大変なんだよね。想像と現実がまぜこぜになっちゃって……ごめん、ヴィクトル。びっくりさせたよね」 ヴィクトルが額に手を当てた。彼は悩ましげに長い溜息をついた。それで勇利は急に心配になった。 「ヴィクトル……ヴィクトル、怒ったの?」 「…………」 「ごめんなさい、ヴィクトル。そんな想像されて、さぞ気分が悪いだろうね」 勇利はかなしくなって目を伏せた。 「ヴィクトルはきちんとした人なのにね。ぼくにそんなよこしまな思いは持っていなかったのに、勝手にえっちなひとにされちゃって……」 「…………」 「……本当にごめんなさい」 しゅんとし、誠実に謝った。自分のことしか考えてなかった、と反省した。こんなことを言われたらヴィクトルだって衝撃だろう。教え子が、自分との性行為を妄想していたなんて。 「勇利……」 ヴィクトルは顔を上げると、勇利の肩に手を置き、真剣に勇利をみつめた。 「あのね……、いいかい、きみ」 「はい」 「俺は身体で払えなんて言わない」 「う、うん。そうだよね。ごめん……」 「おしおきをすると言ったり、躾けてやると言ったり、会うなり押し倒したり、そんなことはしない」 「うん……」 「そもそも、身体で払うってなんだ? コーチをしている代償なのかい? それがなければ俺は勇利を抱けないのか?」 「え?」 「俺はそんなものがなくても勇利が欲しい。ただ、純粋に愛を交わしたい」 「……どういう……こと?」 勇利は首をかしげた。ヴィクトルの言うことがよくわからない。 「だから勇利の妄想はまちがっている。俺はそんなことはしない」 「は、はい……」 理解できないままに、勇利はこくんとうなずいた。 「ただ……、」 ヴィクトルが、目をほそめて厳しく勇利をにらんだ。 「……そういう希望を抱いたことがないとは言わない」 「……えっ?」 ますますわからなくなった。勇利は大きな瞳をさらに大きくみひらいた。 「勇利、妄想だと言ったね。そうだろうか。本当はちがうんじゃないのか。きみ、俺の考えていることがどうしてわかるんだ?」 「え? え?」 「全部俺がやりたいと思ったことなんだけど。勇利は俺のこころが読めるのか? これっていったいどういうこと?」 「あの……」 「でもすべて我慢したよ。俺は、勇利の妄想の中の俺みたいに、理性をかなぐり捨てた人間じゃない」 「はい……」 勇利はぽかんと口を開けてヴィクトルを見ていた。このひと、いったい何を言ってるの? 「だけどね勇利」 ヴィクトルは熱心に続けた。 「俺は、やるときはやる男なんだ」 「は、はい。そうですね……」 そうでなければ、いろいろな大会を連覇し、リビングレジェンドと呼ばれたりはしないだろう。 「勇利」 ヴィクトルが、脳裏でえがいたさっきの彼のように、乱暴にシャツを脱ぎ捨てた。そして、勇利がいままでさんざん妄想したのと同じように──いや、それ以上に強引なやり方で、勇利をベッドに押し倒し、くちづけした。 「んっ……ぁ、や、ヴィクトル……っ」 「どんな想像の俺よりも現実の俺がいいって、ここにいる俺が気持ちよくしてあげられるって、いま、教えてあげる」 「あっ、う、うそ、ちょ、ちょっと待って! あのぼく──」 勇利は混乱した。これは本当? 現実? いつもの妄想じゃなくて? いま、ぼくの身に起こっていることなの? 「いいだろ。それだけ妄想して、『慣れる』くらい俺に抱かれてきたんだ」 ヴィクトルはかすかに口元を上げ、甘くささやいた。 「どうせたいした想像してないんだろう。本物のセックスを教えてあげるよ」 何が起こったのかよくわからず、勇利はぼうぜんとしていた。ただ、「本物のセックス」とやらを体験したのは事実だし、妄想のそれとはまるっきりちがっていたのも確かだった。勇利はいままで、何も知らなかったのだ。 「勇利、大丈夫かい?」 ヴィクトルが勇利の裸身を抱きながら優しく言った。 「う、うん……」 「いろいろわかった?」 「は……はい……」 「そう」 ヴィクトルはくすっと笑った。 「これで、もう今後、妄想なんていうものはしなくなるかもしれないね。それはそれでさびしいな。もしまたしたら、そのときは俺に教えてくれ。きみの想像以上のことをしてあげるよ。だって勇利はいつだって俺の想像を超えるからね。ところで勇利、もしかして、俺が長谷津に行く前にもそういうことを考えたりしてたのかい? つまり、試合ですれちがったときなんかのことだけど」 「あ、そ、それは、それは……」 ヴィクトルの愛をふんだんに受けて満足しきっていた勇利はあっさり白状した。 「ぼくあんまり世界大会の成績よくなかった���だけど、たまにそうじゃないことがあって、そういう試合のあとは、ちょっと……」 「なに? どんなこと? どんなふうに想像したの?」 ヴィクトルが熱心に尋ねるので、まだ放心状態から立ち直っていない勇利は、さらに従順にそれを話してしまった。 「ヴィクトルは試合の興奮がおさまらなくて……、たまたま目についたぼくを……ぼくをトイレに……連れこんで……」 ヴィクトルがかるい笑い声をたてた。 「ひどい男だね」 「そんなことないよ!」 勇利は一生懸命、過去の妄想のヴィクトルをかばった。 「無理に壁に押しつけられて、ジャージもいきなり下ろされて、びっくりしたしこわかったけど……、ちゃんと念入りにさわってくれたし、入れるときも優しかったし、身体のことを褒めてくれたし、すごく夢中になってくれたし、またしたいねって言ってくれたし、ぎゅーってしてくれたし、本当に……最高だったんだから」 「そうか」 ヴィクトルは、いま勇利が言った通り、勇利のことをぎゅーっと抱きしめ、甘やかすようにささやいた。 「……じゃ、シーズンが始まったら、どこかの会場で勇利をトイレに連れこんであげるよ」 「ば、ばか!」 勇利は赤くなって、ヴィクトルの胸におもてをうずめた。ヴィクトルが笑い、身体をゆらゆらと左右に揺らす。勇利はまぶたを閉じて、すうっとヴィクトルの匂いを吸いこんだ。とてもしあわせだった。こんなことになるなんて。ヴィクトルとえっちしたら、こんなふうなんだ。想像とぜんぜんちがう。すてき……。 でも、これだけは言っておかなければならない。 「……ねえヴィクトル。あのね、ぼくの妄想では、一度こうして愛してくれたあと、ヴィクトルは、疲れてもうだめって言うぼくを逃がさないで、『まだ足りないよ。一回きりで終わりだなんてどうして思ったんだ? ほら、もっと俺に捧げて。身もこころも全部』って逆らいがたい優しさで脚をひらかせるんだけど、現実のヴィクトルは、どう?」
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ぼくを誰だと思ってるの?
「勇利、一緒に寝ようか」 ヴィクトルの誘いに勇利は顔を上げ、じっとヴィクトルをみつめた。 「ね? いいだろ?」 ヴィクトルは陽気にもう一度言った。勇利はしばしの沈黙のあと、にっこり笑い、静かに首を左右に振った。彼は「おやすみ」と短く挨拶して自室へ向かい、ぱたんと扉を閉めた。 勇利がロシアへ渡ってきて、ヴィクトルが最初にかなえようとした個人的なことは、「勇利と一緒に寝る」ということだった。長谷津では一度も受け容れてもらえなかったし、そのほかでも、試合のおり、ホテルで昼寝をしようと添い寝したときしかゆるしてもらえなかった。あれも、勇利が緊張しきっていてものを考えられなかったから自然とそうなったことであって、ヴィクトルもただ勇利を安心させて寝かしつけたかっただけだし、「一緒に寝る」というのとは程遠かった。 長谷津でいくら誘いかけてもうなずいてくれなかったのは、照れているからだと受け取っていた。勇利は初め、とにかくヴィクトルの存在に緊張していたし、慣れてからも、家族がいるからという理由で断っているのだと思っていた。ヴィクトルはべつに不届きなことをするつもりではないのだけれど、そうだとしても、勇利としてはコーチがいなければ眠れない、なんていうことを家族に知られたら──そう思われたら──恥ずかしいのだろうと想像していた。しかし、こうしてロシアでふたりきりで暮らすようになっても拒絶するということは、それが理由ではないらしい。嫌われているとは思わないが、どうも勇利からは「ここからは入ってこないで」という冷静さを感じる。踏みこみすぎると大変なことになるとわかっているので、ヴィクトルも無理なことはしない。 「どうしてそんなにいやなんだ?」 幾度めかに断られたとき、ヴィクトルはなかなか真剣に尋ねてみた。 「ヴィクトルはどうして一緒に寝たいの?」 反対に訊かれてしまった。 「どうしてって……」 「普通、成人したら、人とは一緒に寝ないものなんだよ」 「恋人や夫婦は一緒に寝てるよ」 「ぼくたちどっちでもないじゃん」 それはそうだ。それはそうなのだが……。 「俺たちに一般常識って関係ないと思うんだよね」 ヴィクトルが陽気に言うと、勇利は苦笑を浮かべた。 「確かに『常識』ってヴィクトルにものすごく縁遠い言葉だね」 「でしょ? だから勇利、そんな世間のきまりなんか無視して、今夜こそ俺と」 「寝ません」 ヴィクトルは溜息���ついた。 「勇利に嫌われてるみたいでさびしいなあ、俺」 「ぼくがヴィクトルを嫌ってないことなんて、ヴィクトルがいちばんよくわかってるでしょ。適当なことを言って同情を引かないでよ」 確かに勇利からは愛を感じる。何か特別な合図をされたとか、率直に想いを打ち明けられたとか、そういうことはないのだけれど、この子は俺を愛しているな、と思うことが毎日のいとなみの中でひんぱんにあるのである。それは目つきだったり、言葉の調子だったり、笑い方だったり、ふれあう指先だったりといろいろだ。理屈ではない。ただ、直感的に、俺たちは愛しあっている、と感じるのだ。 それなのにどうして一緒に寝るのはいやなのだろう? よくわからない。好きならもっとふたりでいたいと思うのが普通ではないのか。──いや、勇利にだって、「常識」や「普通」という言葉は似合わないのだけれど。この子が一般的だというのなら、世の中はすべて狂ってしまう。しかし、勇利の愛情表現は時にひどくまっすぐだ。わかりやすい。それなら同衾することだって──でも、愛しているからこそあんな忌まわしいせりふを言ったりもするのが勝生勇利だし……。 「愛してる相手と一緒に寝たいと思わない?」 考えてもわからないので、ヴィクトルは素直に尋ねることにした。勇利はきょとんとしてヴィクトルを見た。 「……なんだい?」 「うん……ヴィクトルって愛する相手と一緒に寝たいんだーと思って……」 ヴィクトルは顔をしかめた。これもあまり好きなたぐいの言葉ではない。 「そういうところは普通なんだね」 勇利が感心した。 「否定はしないけど……、というか、勇利は俺をどういう人間だと思ってるんだ?」 「異星人」 ヴィクトルにとっては勇利のほうが異星人だ。 「いったい何が気に入らないのさ? ベッドはひろいし、ふとんもあったかいよ。ふかふかだ。色だって勇利の好きな色だし」 「寝るんだから色なんか関係ないと思うけど……」 「まくらもいいやつだよ。それ以上何を望むんだい? 勇利が変えて欲しいものや必要なものがあるならどうにでもするから……」 「いや、べつにそういうのはないよ。何もいらないよ」 「じゃあどうして? 何が不満なんだ? 全部そろってるし──何より俺がいるじゃないか。勇利が大好きなヴィクトル・ニキフォロフがいるんだよ。なんでいけない?」 「それがいちばんの問題だと思うけどね」 勇利が笑いながら言った。ヴィクトルはぎくっとした。もしかして……。 「……勇利」 「なに?」 「その……何もしないよ?」 勇利が眉を上げた。ヴィクトルはためらいがちに続けた。 「一緒に寝るってそういう意味じゃないよ。それはまあ……勇利がいいならしたくないことはないけど。っていうかしたいけど」 おっと、こういうことは言わないほうがよかったのだろうか? しかし隠しておける感情ではないし、勇利だってうすうすわかっているのではないだろうか。だからこそ警戒しているのでは……。 勇利は穏やかに微笑して言った。 「何かするとかしないとかじゃないんだよ」 彼は、ヴィクトル、何もわかってないなあ、というように笑った。 「そういうことじゃないの」 ヴィクトルは懲りずに勇利を誘い続けた。「勇利、一緒に寝よう!」「今夜は俺のところで寝るよね?」「勇利……俺、勇利がいないと眠れないなあ」「ねえ勇利、マッカチンも勇利に来て欲しいって!」「ゆうりぃ、新しい敷布にしてみたよ! 寝心地をためしたくない?」──どんな言葉にも勇利はうなずかなかった。勇利の頑固者め、とヴィクトルは思った。 「いい加減あきらめてよ」 「いやだ。あきらめない」 「なんでそうこだわるのかな。一緒に暮らしてるんだからいいじゃない」 「勇利の望みはかなえたいから」 「いや、ヴィクトルの望みじゃん」 「俺の望みもかなえたいんだよ」 「変なの」 そうだ、と思い立って、ある夜、ヴィクトルはマッカチンとともに勇利の私室を訪問した。何も自分の寝室でなければならないというきまりはない。ヴィクトルのほうから勇利のベッドへ行けばよいのである。 「オジャマシマス……」 勇利が寝静まったころ、彼の部屋の扉を開けたヴィクトルは、ベッドに近づき、そっとふとんを持ち上げて中へすべりこんだ。うわ、あったかい、と思った。勇利の匂いがする。どきどきするし、興奮するなあ。下半身は抑えないとね。俺を大好きな勇利のことだから、なんだかんだいってとろけて「いいよ、ヴィクトル……」なんて言い出すかもしれないけど。 ──と。 勇利に喜んで寄り添おうとしたヴィクトルは、ぴたりと動きを止めた。ほの暗い中で、はっきりと勇利が目をひらいていた。その目つきのつめたいことといったら! ヴィクトルはたらっと汗をかいた。 「あー、えっと、勇利……」 「何してるの?」 声も氷のようである。ヴィクトルはどうにか笑って見せた。 「いや、俺は、ただ……」 「何してるのかって訊いてるんです」 「ちがうんだ勇利、これはね、」 勇利が黙って扉のほうをまっすぐに指さした。ヴィクトルはうなずき、そろっとふとんから出てベッドを下りた。 「マ、マッカチン、戻ろうか」 「マッカチンはいていいよ」 「ずるくないか!?」 「おやすみ、ヴィクトル」 勇利はひどい。勇利は理不尽だ。なんであんなに俺につめたくできるんだ? 悪魔め! ヴィクトルはその夜、涙をのんでひとりで眠った。 その日のことは、「ヴィクトル夜這い事件」というたいへん不名誉な名付けをされた。勇利は何かあると「ヴィクトルは夜這いをかけてくるからね」とからかうのである。「ヴィクトルでも夜這いするんだー」などと言うのでたまらない。怒っていないようだからよかったけれど。それにしても、あこがれの男の愛ある行動を夜這い呼ばわりだなんて。本当にかわいくてどうしようもないな、勇利って。 ヴィクトルはひらめいた。そうだ。勇利が冷静なときに誘うからこういうことになるのだ。もっと自分にとって有利にことが運ぶようにしなければ。 「勇利、今夜は飲もう!」 「夜這い事件」のほとぼりがさめたころ、ヴィクトルは勇利が好みそうな酒をいくらか支度し、さあさあ、と彼に勧めた。 「えぇ……ぼくはいいよ……���ういうのは……」 「そう言わずに。そんなに強くないやつだから」 「あとで後悔するんだから……」 「俺が量をみててあげるよ。かるく酔う程度。ね?」 「うーん……」 ヴィクトルとて、泥酔するほど酔わせたいわけではない。例のソチでのバンケットのときほど酔われては、かえってヴィクトルのほうが困るのである。ちゃんと自分の意思は保ってもらいたい。べろんべろんに酔っ払わせて、正体がないところをベッドに連れこむ、というのは下品のきわみだ。ヴィクトルが望んでいるのはそういうことではない。 「じゃあ……、ちょっとだけ……」 「ワーオ!」 勇利は酒が入ると明るくなるので、ふたりは陽気に飲んだ。ちゃんと、勇利が記憶をなくすようなことはさせず、ただ楽しく話せる程度にとどめておいた。途中からだんだんと勇利のほうが積極的になり、「もっとちょうだい」「足りない」「欲しい」と言い出したので困った。 「だめだよ勇利、これ以上は」 「なんでぇ? ヴィクトルが飲もうって言ったのに」 「勇利はちょっとだけって言っただろ」 「まだほんのすこしだよ。ぜんぜんだよ」 「だめ」 「ヴィクトルの意地悪」 勇利は口をとがらせ、上目遣いでヴィクトルをにらんだ。う、かわいい……とヴィクトルはめまいをおぼえたが、誘惑に負けている場合ではない。 「もうやめておいたほうがいいよ。そろそろ寝よう」 「えー」 「えーじゃない。また二日酔いで頭痛くなるよ」 「横暴コーチ」 どっちが横暴なんだ。ヴィクトルは可笑しかった。勇利こそ普段から俺をいじめてばかりいるくせに……。 ヴィクトルはテーブルを簡単に片づけた。よし。言うならいまだ。 「勇利」 「なにー」 「一緒に寝ようか」 勇利がヴィクトルを見た。 「夜中に勇利の気分が悪くなったら大変だし」 ヴィクトルは明朗に説明した。 「勇利も俺のことは好きだろ? 一緒にいたいだろ?」 「…………」 「ね?」 勇利は黒目がちの大きな瞳で、じっとヴィクトルをみつめている。ヴィクトルはにこにこした。ふっと勇利が笑った。 「……ふうん」 彼はヴィクトルにぐっと顔を近づけた。 「そういうわけ……」 「そういうわけって?」 「そうやってぼくをベッドに連れこむために酔わせたんだ」 勇利の指が、ヴィクトルの頬からおとがいへと伝っていく。おいおい、とヴィクトルは思った。 「とんだ誘惑もあったもんだね……」 「いまきみがしていることのほうがずっと誘惑だぞ」 「ヴィクトルのえっち」 勇利がくすっと笑った。 「勇利、俺は何も勇利にいやらしいことをしようと思ったわけじゃないぞ」 ヴィクトルは抗議した。 「わかってるよ。でもえっちだよ。してることがえっち」 勇利はまぶたをほそめ、あえかな吐息をついてくちびるを寄せてきた。 「そんなにぼくと一緒に寝たいの……?」 ヴィクトルはぞくぞくした。勇利、おまえ、警戒心とか危険信号というものがないのか。俺を安全な男だとでも思ってるのか? そんなことをして、無理やり押し倒されても知らないぞ。 「困ったひと……」 勇利がくすくす笑った。勇利のほうがよほど「困ったひと」だ。 「でも……」 勇利はいたずらっぽく続けた。 「……どうして何もわからなくなるまで飲ませなかったの?」 彼はそっとヴィクトルと鼻先をふれあわせた。 「そうしたら……一緒に寝られたのに」 「それじゃ意味がないんだよ」 「ヴィクトルは紳士だね」 「そういうことじゃない」 「えっちだけど紳士なんだ」 勇利はふふっと笑った。 「えっち紳士」 「なんだそれは」 「ヴィクトル、優しいー」 勇利はぎゅっとヴィクトルに抱きついた。ヴィクトルは彼の髪に頬を寄せた。ふたりはしばらく抱きあった。 「……勇利」 「ん……?」 「一緒に寝よう」 勇利はすこし顔を離し、キスしそうなくらい���ちびるを近づけてささやいた。 「だ・め」 その夜のことは、「ヴィクトル襲い事件」と名付けられた。まったくもって不本意だ。 「襲ってないぞ」 「襲うくらいの盛んな意気があればよかったのに、っていうことだよ」 「襲ったら怒っただろ?」 「当たり前じゃん」 「勇利は理不尽だ」 「ヴィクトルあのさ、いくらがんばってもぼくはヴィクトルと一緒に寝ないよ。そろそろあきらめたら?」 「でも、俺は勇利と一緒に寝たいんだ。勇利だってそうだろ?」 「だからなんで自分の希望をぼくの希望にすり替えようとするんだよ」 ふたりは一緒に入浴していた。お風呂はいいのになあ、とヴィクトルは首をかしげた。これもヴィクトルのほうから望んだことだが、「温泉と同じだろ?」と強引に了承させることができたのだ。なのに同衾はいけないらしい。いったい入浴と何がちがうのだろう。どうせまた勝生勇利式の妙な理屈があるのだ。 「勇利……」 ヴィクトルは勇利を膝の上にのせ、かるく抱いて顔を近づけた。勇利はヴィクトルと向かいあって、濡れた髪をかき上げている。試合のときみたいにすっきりしているけれど、それよりも幾分か幼く見える。同じ髪型なのに不思議だ。 「今夜、一緒に寝ようよ」 勇利が噴き出した。彼は口元に手を当て、「へこたれないなあ」と感心した。 「いいだろ?」 「だめだよ」 「なぜなんだ? 俺には勇利がわからないよ。俺が好きでしょ?」 「好きだよ。大好きだよ。あこがれのひとだし、愛してるひとだ」 「だったらどうして……」 「ヴィクトル……」 勇利はヴィクトルを向こう見ずな瞳でみつめ、ゆっくりとささやいた。 「……ぼくを誰だと思ってるの?」 いっそ優しい、言い聞かせるような物言いに、ヴィクトルはちょっと考えこんだ。ぼくを誰だと思ってるの。 「ヴィクトルと一緒に寝るって、そんな簡単なことじゃ、ないから」 陽気に「一緒に寝よう」なんて誘われて、「うん、そうしよう」と答えられるほど簡単じゃないから──。 勇利はにっこりし、口ぶりを変えてこう続けた。 「ぼくの名前は勝生勇利。どこにでもいる日本のフィギュアスケート選手で、二十四歳だよ」 いまの勝生勇利は、世界一愛している男とも──惚れ抜いた男だからこそ、たやすく同じベッドに入ったりはしないようだ。 確かに勝生勇利ならそうなのかもしれない。ヴィクトルは反省し、以降は勇利を誘わなくなった。勇利と一緒に眠れたらなあという気持ちはずっと続いているけれど、やはりそれは踏みこみすぎというものなのだろう。普段の理性を保っている勇利は、きよく正しく、毅然として、高潔な精神でいるのだ。ふたりで眠ればそれが崩れるとはヴィクトルは思わないが、勇利がどう思うかはまた別問題である。彼のこころを正しく理解しようとすることは、ヴィクトルはもうあきらめているのだった。わからないところも愛しているから、それでよいのだ。 だから次にヴィクトルが「一緒に寝よう」と誘ったとき、それは、以前のようなはしゃいだ気持ちからではなく、ただ勇利を心配したからだった。 勇利は全日本選手権のために一時帰国していた。ヴィクトルはロシア選手権があったので、付き���うことができなかった。大丈夫だろうと信じていた。実際、勇利は金メダルを獲った。しかし演技の内容は、いつもの彼には程遠いものだった。勇利は失敗を積み重ね、試合後のインタビューは見ていて痛々しいほどだった。落ちこんでいるのがありありとわかったからではない。落ちこんでいるのに、そんなふうに思われないように気丈にふるまうところが痛々しかったのである。 ああ、俺がそばにいたなら、とヴィクトルは思った。彼を抱きしめ��やれない自分が歯がゆかった。早く俺のもとへ戻っておいで勇利、とねがった。そうしたら、思いきり甘やかして、頭を撫でて、何もかも忘れさせてあげるから──。 間もなく勇利は家に帰ってきた。予定より早かったのでヴィクトルは驚いた。明日だと思っていたため、早々にベッドに入り、うとうとしているところで物音がしたのだ。ヴィクトルは急いで玄関へ行った。いつの間に雨が降っていたのか、勇利は濡れていた。 「勇利!」 ヴィクトルは勇利の頬を包みこんだ。 「こんなに濡れて……かわいそうに」 勇利はうつむいてじっとしていた。 「早くこっちへおいで。服を脱いで。タオルを持ってくるよ」 ずぶ濡れの勇利の世話をしているあいだに湯を沸かし、勇利を風呂に入れ、ヴィクトルはあたたかい飲み物をつくった。上がってきた勇利の髪を乾かしてやり、ソファに座らせて抱き寄せた。勇利はカップをずっと両手でくるんでいた。 「冷えただろう。すぐやすんだほうがいい」 「ヴィクトル、ごめんなさい……」 そのときようやく、勇利が口をひらいた。ヴィクトルは耳をそばだてた。 「あんな演技……」 「いいんだ」 ヴィクトルはすばやく遮った。 「不調というものはある。そんなことで俺は怒ったりしないよ。あとで映像を見てまた立て直そう。なに、心配することはない。勇利はもともと不安定な選手だからね。コーチとして覚悟はできてるさ」 ヴィクトルが明るく言うと、勇利はほのかな微笑を浮かべた。ヴィクトルはほっとした。しかし、このまま勇利をひとりにしたくはなかった。だから言った。 「今夜は俺の部屋へおいで」 「…………」 勇利は「簡単なことじゃない」と言った。ヴィクトルと寝るのはそんなものではないと。ヴィクトルはいま、簡単に言っているわけではなかった。それは勇利にも伝わっただろう。だが彼はこう答えた。 「やめとく……」 「なぜ?」 ヴィクトルは真剣に言った。 「おまえが心配なんだ」 「わかってる。でも大丈夫だよ」 勇利はヴィクトルの腕に手をかけた。 「ひとりになっても泣いたりしないから安心して」 「勇利、だが、」 「ゆっくり考えてみたいんだ」 勇利はやわらかくつぶやいた。 「まだ、ひとりであの演技について思案できてないんだ。試合が終わってから何してたんだって思われるかもしれないけど、ずっと上の空で、ぼうっとしてて……、考えられなかったんだ。ヴィクトルの顔を見て、初めて正気に返った」 勇利はほほえんだ。 「甘えてるんだと思う。ヴィクトルがいなくちゃ自分のことも振り返れないよ。まだ動画も見てない。こわくて……」 「そんなにひどい失敗じゃない。メダルは獲ってるんだ」 「うん」 勇利は素直にうなずいた。 「そのこともふくめて、ひとりでちゃんと思い返したいんだ。自分の力で整理するよ。明日、そのことについてぼくと話しあってくれる?」 「もちろんさ」 「これくらい自分でできなくちゃだめだと思う」 勇利は自分の言葉にうなずいた。 「ヴィクトルに頼りきって、なぐさめてもらってちゃだめだよ。ただでさえ、ヴィクトルにはいろんなことをしてもらってるのに」 こんなときこそ甘えればよいのだ。ヴィクトルはそう思ったが、勇利がこころぎめをしている以上、何も言えなかった。なぜなら彼は勝生勇利である。 「わかった……」 ヴィクトルは困ったように笑った。勇利が目をほそめた。 「なんか、ヴィクトルのほうが心細そうだね」 少なくとも、そんなふうに言えるのだから彼は自分を取り戻したのだろう。ヴィクトルの顔を見てそうなれたならよかった。ヴィクトルは特別だということだ。でも、甘えていいのに、とそんなことをヴィクトルはずっと考えていた。 勇利はよくなかったところを練習し直し、��ちんと調整し、四大陸選手権にのぞんだ。これにはヴィクトルも帯同できた。しかし、全日本選手権でのことが思い出されるのか、勇利は公式練習のときから異常なほど緊張しており、練習内容もあまりよくなかった。 「勇利、何も心配いらない。自信を持って。勇利は俺の生徒だ。できないわけがないだろう?」 「う、うん……わかってる」 「俺は勇利がひどい成績を獲るような教えは何ひとつしなかったはずだよ」 これでは勇利が重圧を感じるだろうか? ──いや、これでよいのだ。勇利を信じるのだ。 「勇利……」 ヴィクトルは試合の前夜、がちがちにかたくなっている勇利の耳元にささやいた。 「今夜は一緒に寝ようか?」 勇利がはっとしたようにヴィクトルを見た。彼は瞬き、それから笑い出し、ヴィクトルに抱きついてかぶりを振った。 「ヴィクトルとは一緒に寝ないよ」 やはり勇利は勝生勇利だった。 「世界選手権で俺が勝ったら、勇利、一緒に寝てくれる?」 久しぶりにヴィクトルは、最初にしたように陽気に、勢いこんで勇利に尋ねた。勇利は笑って拒絶した。 「だめ」 「じゃあ勇利が勝ったらご褒美に一緒に寝てあげる」 「はいはい」 「はいはい、か。オーケィってことだな……」 「そんなわけないでしょ?」 勇利はあきれたように言った。 「一緒には寝ません」 「勇利は手ごわいな……」 「そんな簡単なことじゃないんだよ」 「俺も簡単には言ってない」 「うそばっかり。気軽に誘ってくるじゃない。ぼくにとってヴィクトルは、唯一無二の、崇高なひとなんだからね。わかってるのかな、もう……」 確かに、世界選手権が終わっても、勇利は一緒に寝てくれなかった。 ある夜のことだった。ヴィクトルはマッカチンと並んでやすみ、気持ちよく寝息をたてていた。月はみちており、あまりにまばゆくうつくしいので、カーテンは開けてあった。寝入るまでヴィクトルは、それをひとり見上げていたのだ。隣に勇利がいて、彼とともにみつめることができたら、と考えた。そんな夜を、これまで幾夜と知れず過ごしてきたのだ。スケートをしているとき、食事のとき、町を歩くとき、買い物をするとき、楽しい経験をするとき──それらすべてのときに勇利はヴィクトルのかたわらにいたけれど、唯一、夜眠るときだけはそうではなかった。ヴィクトルはそれがひどくさびしかった。しかし仕方がない。いまの勇利がそう言うのだから……。 ヴィクトルは浅く眠っていた。何か物音が聞こえ、ベッドがきしんで振動が伝わってきたが、夢の中の出来事だと思った。ぬくもりがそば近く寄ってきて、ヴィクトルの腕を持ち上げ、胸におさまり、そのあたたかみをかるく抱いても、ヴィクトルはまだ夢を見ているつもりだった。やけにやわらかく、おぼえのある感触だな、と思った。 「うわ、寝るとき、全裸なんだ。下着くらい穿いてるのかと思った……」 そんな声が聞こえた。それからかるい吐息。まあいいか、というのんきな声。 「ヴィクトルってこんな顔で寝るんだー……」 頬に何かがふれてきた。くすっという笑い声がした。 「寝てるときも綺麗だね。鼻つまんでみようかな。怒るかな?」 それからくちびるにも感触があった。 「……ヴィクトルでも眠るんだぁ……」 そこでようやくヴィクトルはおかしいと気がついた。夢にしては生々しい。 「……知ってるだろ、そんなこと」 ヴィクトルはうすく目を開けた。 「いまさらなんだ。一緒に住んでおいて……」 「そうだけど、改めて見るとね……」 「試合のとき、ホテルでも全裸で寝てるぞ、俺は」 「いちいち確認してないよ、そんなの」 ヴィクトルはぱっ��りとまぶたをひらいた。勇利は月のひかりを浴び、あどけない瞳でヴィクトルを見ていた。 「……なんでいる?」 「だめだった?」 勇利はいたずらっぽく言った。 「何回も誘ってくるから、べつにいいのかと思って……」 「俺とは一緒に寝ないんじゃなかったのか?」 「簡単なことじゃない、と言っただけだよ」 ではその「難しさ」を乗り越えたというのか。ヴィクトルにはわけがわからなかった。 「裸の男のベッドに入ってくるのがどういうことか、教えてあげようか」 「裸だなんて思ってなかったんだよ」 「同じことだ。あっても下着一枚だろう。それなりの覚悟をしてきたってことかな」 「ヴィクトルはそんなことしないと思うな」 「どうだろう。勇利が一緒に寝てくれないから欲求不満が爆発しそうなんだ」 「今夜はしないんじゃないの?」 「さあね。俺だってどうなるかわからない。いきなり何か始めても、『ヴィクトル襲い事件その二』なんて言って泣かないでくれよ」 「今夜は『勇利夜這い事件』だね……」 勇利は自分で言ってくすくす笑った。ヴィクトルは勇利を抱き寄せ、その瞳をきまじめにのぞきこんだ。 「勇利、……本当に勇利?」 「……そうだよ」 「どうして?」 「…………」 勇利はほのかに笑い、ささやくように言った。 「ヴィクトル、一緒に寝ようよ」 「…………」 「これから、毎日……」 「……なんで急にそんなこと言う?」 「それはね……」 勇利はヴィクトルにぎゅっと抱きついた。 「……思い出したからだよ」 ヴィクトルは目をみひらいた。 「思い出した……?」 「そう。思い出した」 勇利はまぶたをほそめてくすぐったそうな顔をしている。 「だから、ここへ来た……」 「…………」 「ありがとう、ヴィクトル……。貴方はなんて優しいのでしょう」 勇利は、可憐な告白をするようにささやいた。 「……怒った?」 ヴィクトルは息をついた。怒ったか、だって? 手のつけようもないほど胸がときめいているのに。 「勇利って本当に勝手だよね……」 「うん」 勇利はうれしそうにうなずき、ヴィクトルの胸に顔をうめた。 「それはそうだよ。ぼくを誰だと思ってるの?」 「えっと、ユーリ・カツキ……」 ヴィクトルが迷うような声を出し、それから優しく「ユーリ」と呼んだ。インタビューで何度も聞いたあのすてきな声が、自分のことを「ユーリ」と発音してくれる。そのことに勇利はうっとりした。 「大丈夫かい?」 「うん、大丈夫……」 勇利は、これまでにないくらい大丈夫だと思った。こんなに気分が爽快だったことはない。だってヴィクトルが──あのヴィクトル・ニキフォロフがそばにいて、勇利を気遣って、髪を撫でたり、頬にふれたりしてくれているのだ。 「ほら、靴を脱いで……」 ヴィクトルが勇利の足から靴を取り去った。そしてどうにか体裁を整え、ちゃんとベッドに入れて息をついた。 「ここに水を置いておくからね」 「んー、みずぅ……?」 「そうだ。喉が渇いたら飲むように。渇かなくても飲んだほうがいいんだけどな……、難しそうだね」 「水くらい、飲める」 勇利は主張した。ヴィクトルに、何もできない子どもみたいなやつ、と思われたくなかった。 「そうかい?」 ヴィクトルがほほえんだ。その神々しいほどの洗練された笑みに、勇利は、ヴィクトル、かっこよかぁ……と目を輝かせた。ヴィクトルが可笑しそうに言った。 「どうしてそんな目で見るんだい?」 「だって……」 「きみってほんとに変わってるね」 ヴィクトルはしみじみとつぶやいた。 「ダンスバトルを仕掛けてきたり、その結果次第でコーチになれと言ったり、とても勝手だし……」 勝手だ、と言いながら、ヴィクトルはこのうえもなくうれしそうに笑っていた。なぜだろう? 「なんか、今後、いろんな意味できみには手こずらされそうな気がするよ」 ヴィクトルは身を��がめ、勇利の耳元に語りかけた。 「悪い気分じゃ、ないけど」 勇利はぱちぱちと瞬いた。ヴィクトルは目をほそめた。 「さて、名残惜しいけどもう行くよ……。これ以上一緒にいたら、俺は何を言うかわからなくてこわい。きみって不思議だから、俺は思わぬことを口走るかもしれないよ。だって数時間前──バンケットが始まるまでは、俺は日本の選手の部屋に入って、こんなふうに介抱してるなんて、想像もしていなかったんだ」 ヴィクトルはひとりごとのように続けた。 「こんなに楽しいバンケットになるなんて……考えもしなかった」 彼は勇利の髪をさらさらと撫でた。 「じゃ……行くね」 ヴィクトルが身を起こす。勇利は急にさびしくなって手を差し伸べ、ヴィクトルの上着の裾をぎゅっとつかんだ。 「行かないで」 ヴィクトルが振り返った。 「行かないでよ、ヴィクトル」 「ユーリ……」 「ここにいてよ」 勇利の目に透明なしずくが浮かんだ。 「ぼくんとこにいて、ヴィクトル」 ヴィクトルが何か言いたそうにくちびるを動かした。勇利は言いつのった。 「さびしいよ。ヴィクトル、一緒に寝ようよ。ぼくヴィクトルとふたりで寝たい」 「ふたりで……」 「一緒がいいよ。一緒がいい。ふたりで寝よう。ね? ぼくヴィクトルが好きなんだ。大好きなんだ。一緒に寝たい。毎日そうしたい。だめ?」 「…………」 「いやだよ。ヴィクトル行かないで。行かないでよ。ひとりにしないで」 涙があふれて止まらなかった。勇利はわけもわからず泣きじゃくった。行かないで、ここにいて、一緒に寝て、とくり返しねがった。 「今夜はいけないよ」 ヴィクトルはかがみこみ、幼子に言い聞かせるように言った。 「次会ったとき、そうしよう」 「次……?」 「ああ」 ヴィクトルはすぐれて優しい、甘いくちぶりで言った。 「もし次のときもユーリがそのつもりで、俺のことを好きだと言ってくれるなら、俺はユーリと一緒に眠るよ」 「……ほんと?」 「本当だよ」 ヴィクトルはにっこり笑った。 「ユーリの言う通りにするよ。いくらでもするよ。一緒に寝るのなんてちっともだめなことじゃない。俺だってそうしたいくらいなんだ」 「ほんとに?」 「だから次までこの約束、おぼえておいて」 ヴィクトルは勇利の手を握りしめた。 「ヴィクトル、絶対だよ」 勇利が涙に濡れた瞳で一生懸命に訴える。ヴィクトルは請け合うというようにこっくりとうなずいた。 「絶対だ」 「ぼくと一緒に寝てね」 「ああ」 「ひとりはいやだよ」 「わかった」 「約束」 「約束だ」 勇利はほっと安心した。次はヴィクトルと一緒に寝られるんだ、と思った。大好きな、世界一すてきなヴィクトルと。愛する彼と。そうなったら、もう絶対に離れない。 「早くヴィクトルに会いたいな……」 勇利がつぶやいた。ヴィクトルはくすっと笑い、大きなてのひらで、そうっと勇利のまぶたを覆った。 「ゆっくりおやすみ。ユーリ・カツキ。今夜のこと、忘れないよ」
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