ステファン・ランビエール2017年ロステレコム杯インタビュー
Rostelecom Cup2017, mixed zone talk with @StephaneLambiel
Text&Photo(C) Reut Golinsky(@tuerush)
Japanese Translation(日本語訳) @MrAmadeus4jazz
SPの後のミックスゾーンでお話を伺う事ができました。
ステファンはスクリーンに映し出される結果を見てデニスに何か話しかけていて、少し感心できないといった様子。
どうしたのかと聞くと、冗談交じりにデニスは数を数える事ができなくてね(スピンの回転数を誤り、減点となった)と微笑みました。
彼らにインタビューしようとしている記者が私1人だったので去年の2人の人気を考えれば奇妙な気分になりましたが。(去年デニスは前半の滑走グループでその後強豪グループを観る事も可能だった為に記者が話を聞きに行きやすかったというのもあるかもしれませんが。私も羽生結弦以外は観れなかったので。2人に観ておきたい演技はあるかと聞くと羽生結弦と答えたので、彼の滑走までの間だけ話す事に。)
R:先ずお伺いしたいのが…貴方のチームで迎えたスケーターに注目が集まっています。公式に貴方が誰のコーチをしているのかは発表されてはいませんが、彼らのインスタグラムから様子を伺えました。それぞれの選手についてお伺いできますでしょうか。
『チーム・シャンペリー』のファンも多いものの、状況が解らないという方もいらっしゃり…
S:本当に知らないの?(と微笑む)
それってすごく、すごく不思議な話だね。だって3人はリレハンメルのユース・オリンピックに出てたのに。
R:そうですね。『リレハンメル繋がり』で。
S:確かに『リレハンメル組』と呼んでも良いかもしれないね。高志郎に会ったのは…
R:…『Ice Legends』…
S: 高志郎に出会ったのは『Ice Legends』より前で、僕が日本で教えていた時だよ。
彼はノービスにいて、とても良いスケーターだなと思ったんだ。それをきっかけに『Ice Legends』への出演をオファーしたんだ。その後、リレハンメルでの彼を見た。
そしてその後ショート・プログラムの振り付けを頼まれてね。同時期に彼の当時のコーチが両親の面倒を見る為に市外へ引っ越す事が決まっていて。高志郎自身、新しい練習環境を探していたんだ。
彼はデニスと僕が抱えていた怪我を彼も抱えていたので、だから何と言うか、そういった全ての偶然や共通項等の関係が僕たちを繋げた。
…たった16才の少年に遠い国の日本からスイスに引っ越してくる事を提案する事になったけどね…
R:彼は英語を話すんですか?余り得意ではない?
S:いや、とても上手だよ。
D:一緒に料理が出来るって事は、喋れるって事だよ。
S:実際よくやっていると思うよ。怪我の治療のリハビリの為にトロントに長く滞在していたから、短期間で英語がとても上達したんだろうね。
(ここでステファンにデニスから話を聞く必要があるか尋ねられ、後で羽生結弦の演技を観る時に声をかける約束をしながら「よくやったね。本当によくやった」と声をかけながら休憩に行くように促しました。(そして私に向かって)「美しかった、本当に、とっても、とっても…美しい演技だったよ…」と呟きました。)
R:待って。衣装について聞きたかったんだけど。これはエキシビジョンで着たのと同じ衣装?
(と質問をしながらも目の前のデニスを見てロンバルディアで着てたのとは違うものだと気付きましたが遅かったです。/笑)
D:いや、これは新しい衣装だよ。この前のはエキシビジョン用の衣装だったけど。
S: Reutさんらしくないな!君はもっと観察眼に長けてるはずなのに!
R:貴方が余りにもたくさん生徒を抱えてらっしゃるから!全部憶えられるだけの許容量が私には無いんですよ!
S: 『たくさんの生徒』だなんて。他のコーチに比べたら僕は少ない方だよ!
R:その沢山の生徒についてお伺いしたいのですが。去年、この同じ場所のミックスゾーンで他のコーチが同じ大会に複数の教え子が出場する場合どうやってこなしているか想像もつかないと仰っていましたが。
今回、高志郎とノエミが同時にジュニア・グランプリに出てみてどうでしたか?
S:思ったほど大変では無かったよ。ノエミは2012年から教えていて、もう5年にもなる、長い教え子だから。
高志郎も責任感の強い子だし、さほど大変ではなかったよ。
初戦のロンバルディアではデニスに集中しようと決めてたんだ。初戦から僕が四方に注意力が散漫してしまっている様ではいけないからね。それで上手くいったよ。
その次がディアナのブラチスラヴァ。彼女の初戦にもきちんと帯同してあげたかったからね。その次がジュニア・グランプリ2戦…僕自身がヴェローナのショー(インティミッシミ)に出るから全部には行けなかったんだけどね…だからこの6週間の間に…ロンバルディア(イタリア)、ブラチスラヴァ(スロヴァキア)、その後にザグレブ(クロアチア)、そしてインティミッシミ(ヴェローナ/イタリア)があって、スイス大会の後に、このロステレコム(モスクワ/ロシア)…
R:あぁ、スイス大会も…
S:先週スイス大会もあったんだ。だから内容の詰まった6週間だったね。
だけど皆で必死に頑張って作り上げたプログラムだからね…とても自然な事に、僕自身も揺らぐことは無かったよ。
彼らと一緒にスケートをしてきたし、例えばディアナの調子が悪い日があったとすれば「よし、課題を与えてみよう」ってね。僕が実際に滑って見せる事によって闘争心を駆り立てるんだ。
僕自身がまだ現役で滑っているし、ステップをやって見せて、一緒に滑ってみて、エッジワークをつきつめる。一緒にいれる事も、お互いに触発し合えるのも良い事だと思う。互いを高め合える良い環境だと思うんだ。前進できるから。デニスやノアや、ノエミだけに限らずね。
R:全員一斉にリンクで滑らせるんですか?
S:いや、分けて滑らせてるよ。午前中にセッションを2回、午後にセッションを2回して、分けてるんだ。
R:各選手それぞれセッションを受けられるんですか?
S:いや、2グループに分けてる。基本的に午前中に2グループ、午後に2グループと分けてセッションして。最後の1時間はアナとロブと一緒に小さい子たちを教えながら、各自更にもっと練習したい者がいれば(高志朗やデニス等が) 滑れる時間を設けているんだ。
R:コート、脱がれます?
S:熱いね。そうしようかな。
R:ファンがそのコートの事を『コーチング・コート』って呼んでるって、知ってました?
S:『コーチング・コート』か。なるほどコーチ用のコートだね!
僕もそう呼ぼうかな。
R:高志郎がどうやって貴方と出会ったかはお伺いしましたね。ディアナとはどうやって?
S:トライアルを受けたいと申し出があったんだ。いつだったか正確には憶えてないけど、場所はチューリッヒで、『ファンタジー・オン・アイス』に行く前だったな。
R:ユース・オリンピック前には繋がりは無かったんですか?サマーキャンプに来たとかでもなく?
S:違うね。彼女とはユース・オリンピックで出会って。5月にトライアルを受けたいとの連絡を受けたんだ。
その数日後、お父様とシャンペリーに来て、その後数日間の間にコーチを頼まれて…5月か6月の末だったと思うんだけど憶えてないな…いつだったかと聞かれると…
R:今年後半の記憶がおぼろげでしょうか…
S:あやふやでは無いよ、ただ本当に『いろいろと沢山』あっただけで。(笑)
それにもう過ぎた事に関しては、あまり憶えていようとは思わないしね。
R:だけど私達には全て真新しい情報ですよ。今まで情報が無かったので。
S:まぁともかく、トライアルに来たんだよ。それに彼女は怪我も抱えていてね。昨シーズン踵を痛めていて、少し背中やお尻にかけても痛めていた。
R:成長期でもありますしね…
S:そう。成長期だったから、注意を払わなければいけなかった。だけどトライアルは上手くいってね。彼女のお父様にシャンペリーの学校に迎え入れられる余地はあるか聞かれたんだ。そこで計画し始めた。
この夏は僕が多忙を極めていて国外に出ている事を伝えて、帰国するまではスケジュールがハッキリしないと告げたんだ。
だけど一先ず彼女はシャンペリーに残る事を決めて、僕が日本に行っている間はラトビアに戻った。
プログラムを一つ組んで、トライアル期間中にプログラムを出来るところまで仕上げて、出来なかった所は追々という事にしたんだ。
シャンペリーのリンクがまだ整ってないから翌週はチューリッヒに行くことを告げると、お父様が『ディアナがこのまま残ってプログラムを完成させられれば良いのですが…』と仰るので完成させて、一旦ラトビアに帰って自国のスケート審査を受けて。その後サマーキャンプに参加して、今シーズンのプランを練ったんだ。
彼女の為に競技用のスケジュールを組んで、それで…
R:だけど、何故あなたを選んだのでしょうか?デニスの影響?
S:なんで僕の所に来たかって?それは解らないけど。彼女の猫の名前が…
R:ウォンカ?
S:ステファンなんだ。(と微笑む)もしかしたら、僕のファンなのかもね。
R:もしかしたら?ファンなのかどうか彼女に聞いて無いのですか?
S:多分そうなのかな。解らない。
ステファンという名前の猫を飼っているんだから、そうかも。
ディアナはとても良い子だよ。才能もあるしね。とってもとっても才能がある。
R:本当に?追々それが発揮できれば良いんですが…(ディアナのファンには申し訳ないけど、私はそういう印象を持てませんでした。ステファンが自身のスケートの為の時間は勿論のこと、 睡眠時間、休憩時間や自由時間を割いて教えているのにという偏見があったのかもしれませんが。)
S:今彼女のフィギュアスケートへの方向性を見直しているんだ、ジャンプさえこなせれば良いと思っている節があるから。だけど僕はディアナに伝えようとしているんだ…彼女は天性の振り付けへの感応力と音楽への興味を備え持っているから。持って生まれた動きの才能と音楽への愛情を繋ぎ合わせて、それを観客に魅せることができれば最高だと思うんだ。彼女はそれだけの能力をもっているからね。まぁ、結果は追々だね…
R:ディアナはトリプル・トリプルのコンボはこなせるんですか?
S:うん。いとも簡単にね。ブラチスラヴァではベストな状態でのパフォーマンスとは言えなかった。昨シーズンは沢山の怪我を抱えていたしね。
ジュニア・ワールドではFSに進めなかったし、成長期で、手術も受けて、厳しいシーズンだったと思うし、彼女にとってシーズン初の試合だから、勿論プレッシャーも大きかったと思う。彼女はオリンピックに出場したいと強く願っているので、出場枠を獲得できる様に頑張ってるよ。
R:ナショナルでそれは決まりそうですか?
S:翌週はザグレブのゴールデン・ベアーがある。このタイトなスケジュールの6週間の後にデニスとのNHK杯があって、高志郎の為にも時間を割かないといけないから、(ザグレブには)ロブが帯同する事になってるよ。
ロブは高志郎とノエミと一緒にグダニスク(ポーランド)にいく事にもなっている。
R:アンゲリーナは今シーズン競技に出ていませんが、何かありましたか?
S:僕は何も聞かされてないから、全く解らないんだ。だけど���女は確か…
R:ブラチスラヴァを棄権しています。出場する予定だったはずですが。
S:そう。競技できると願っていたんだけど実現しなかった。 アンゲリーナ の事も、僕は気にかけてる。
R:ワールドで(オリンピック出場枠)を獲得したのは彼女の方でしたね。
S:そう、だけど枠を獲得した人が(オリンピックに出場する)なんてルールがある国は無いはずだ。その時調子が良い選手が出れば良いと僕は思うのだけど。ただ僕はアンゲリーナにが出場する事に異論は無いよ、僕はただディアナのコーチだし、アンゲリーナが頑張るのであれば、彼女が行くべきだと思う。
その時ベストな状態の選手が行くべきだ。
(R:アンゲリーナは今週末ミンスクに出場しましたが結果は良くありませんでした…彼女に何が起きてるのかは把握できませんが、ステファンが1人どころか2人の教え子を連れて韓国に行く確率が上がったという事は確かです!)
R:貴方がデニスのコーチをすると決めた時、我々の大多数は『どうやってコーチと自身のスケートを両立させるのだろう?』と疑問に思いました。今3人の生徒を抱えて…
S:いや、生徒は6人だよ。
R:いえ、国際大会に出る生徒という意味で…6人ですか?ノアとノエミと他に誰が?
S:もう一人の子はスイスレベルのスケーターだよ。彼女は『パフォーマンス』グループに属している。
僕たちは『パフォーマンス・グループ』、『競技グループ』、『スケート学習グループ』に分けてるんだ。
『パフォーマンス・グループ』と『スケート学習グループ』を重点的にやっていて、一日の終わりのセッションで一握りの『競技グループ』を教えているんだ。
R:質問に戻りましょう。そもそも、どうやって両立を?今シーズンは貴方にとってこなさなければいけない事が山積みの様に思えます。どうやって全て両立させているのですか?限界は決めてらっしゃいますか?許容量として、あと何人の生徒を抱えれると思いますか?
S:生徒を何人抱えるかは考えていないんだ…今現在、今シーズンにおいては現状が僕の限界かな。
他にも沢山のオファーがあって、依頼も他にもいっぱい、本当にいっぱい受けているんだけど…
R:ええ、どう対応されているのだろうと。デニスと帯同する事によってあれほどまでに彼に注目を集めさせ、Twitterで「自分もキスクラで『君が1番だ』ってステファンに言われたい」という書き込みを目にしたりしますよ。
S:(笑いながら)依頼は沢山受けているんだけど、残念ながら僕にも限界があって…
R:ここまで、と決めてらっしゃるなら良いんですが!まるで限界が無いように見えるので…
S:大丈夫だよ、自分の限界は解ってる。今は有難い事に悪い事は何も起きてないし、何も犠牲にしていない。自分で『ここまでだ。この状態ならバランスを保てる』と自負できているからね。
将来的にどうなるかは解らないけど、僕はまだパフォーマンスをする事を愛しているし、まだスケートがしたい。僕にとって大事な事だから…
R:御存知だとは思うのですが、貴方自身がまだパフォーマンスをし続ける事を多くの方が願っている事も大事なのです。どうぞそのことを忘れないでくださいね。
S:そうだね…僕自身にとっても大事な事だ。それに、パフォーマンスを出来るだけの状態を維持できていないなら、表舞台に立つ意味は無い。例え観客が僕に演技をし続けて欲しいと願っていたとしても。それだけのクオリティを保てないなら…
R:いえいえ、ゆっくりで良いんですよ…ワルツ・ジャンプができる間は大丈夫ですよ。
S:そうだね…ってワルツ・ジャンプ?!解ったよ、ワルツ・ジャンプだけのプログラムを作るよ。(微笑む)
いや、実際まだ僕は演技し続けたいと思ってるよ。サロメと相談してて、4月には自分の為の時間を割いて…
R:新しいプログラムを振りつける予定なんですか?しかし『Art on Ice』に向けても2つ新しいプログラムを作りあげる必要があるのでは。
S:うん。来週サロメと会って…
R:プログラムを組み始めるんですか?
S:えーと…スケジュールを組もうかと。今は取り敢えずスケジュールを組むことが先決で、そこから先はまぁ何とかなるよ。
R:最後の質問です。明日のコンテンツにクワドが入っているようですが。当初からロステレコムで組み込む予定だったのですか?何故小さな大会では無く今なのですか?
S:ロンバルディアでクワドを入れたかったんだけど、6分間練習の時にトリプルにしなさい、と僕が言ったんだ。
だけど明日は、できれば成功すると良いなと願ってる。デニスは今、新しいことに挑戦する必要がある。今は着氷に成功する事に集中しなければならない、絶対にやってやるんだという気持ちを持ってね。
R:練習で10回中、何回成功させているんですか?
S:まだ現時点では成功できてないね。
R:4回転サルコウは?
S:両方。トウとサルコウ、現時点では同程度の仕上がりだね。着氷できる状態だけど、持ちこたえられていない。
自分自身を強く信じて着氷する事だ。ジャンプの仕上がりとしては、そこまできてるよ。
R:また明日の6分間練習の出来で考えるのか、それとももう既に『モスクワでやってみせる』と心は決まっているのでしょうか。
S:『モスクワで、やってみせるよ』!
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2/20~21長野フィールドワーク報告
1. 長野駅にて
3週間にわたって展開された「はんごりん国際連帯ツアー」、最初のフィールドワークとなったのは1998年冬季オリンピックが開催された長野。一泊二日の行程で、オリンピックから20年が経過した競技施設や周辺地域をめぐりました。
案内して下さったのは、80年代から長野五輪反対運動に取り組まれて来た「オリンピックいらない人たちネットワーク」の皆さん。雪の降る長野駅で高速バスを降りると、代表の江沢正雄さんの「やあ~ようこそ!!」という力強い声で出迎えられました。
1985年、長野県議会が冬季オリンピック招致を決議し招致活動がスタート。91年のIOC総会で長野が98年大会の開催都市として選定されます。この間、バブル経済の只中という状況も相まって、周辺にはオリンピックにかこつけたリゾート開発計画の波が押し寄せました。
そんな中、江沢さんたちも88年、地域の人々が親しむ飯綱高原の一角にリゾートホテルが建設される計画を知り、これに対する反対運動を始めました。これがきっかけとなり、やがてオリンピック反対の運動が取り組まれていくこととなります。
長野での反対運動は、デモや抗議行動などの��接行動のほか、実に粘り強い情報開示請���や、裁判闘争(それも弁護士を立てず自分たちで!)など多岐に渡ります。
中でも、江沢さんたちが長野に到着したばかりの私たちに最初に紹介してくれたのは1989年の長野市長選挙の取り組みでした。
当時、立候補者は招致委員会会長でもあった現職市長と、同じく推進派の共産党候補者のみ。「オリンピックは県民の総意」などとも言われ、反対の声を挙げられない、反対の声などない、というような空気が地域全体を覆っていたと言います。(今の東京と同じですね)
そのような雰囲気の中、オリンピック反対の候補者を立てようにも、なかなか名乗りをあげる人はいません。そこで立ち上がったのが、江沢さんのパートナーの紀子さんでした。(今回のフィールドワークではお会いすることができませんでした。残念!)子どもたちの未来のために、反対の声があることを示さなければとの信念のもと、オリンピック反対を公約に掲げて選挙を闘われました。オリンピック反対を掲げたことで、選挙ポスターの印刷を断られる、嫌がらせの電話を受けるなどの困難にあいながらも、結果得票数15000票。当選こそならなかったものの、オリンピックに反対の意思を持つ人々が少なくとも15000人いる、という事実を世に指し示すことに成功しました。
しかし、この多くの人々のNOの声にも関わらず、長野オリンピックは開催へと突き進んで行くこととなったわけです。
さて、さっそく江沢さんのマシンガントークが止まりません。オリンピックのおかしさ、反対運動の取り組み、伝えたいことがたくさんあってその情熱が次から次へと溢れてくるのがよくわかります。
より詳しくお知りになりたい方は、江沢正雄さんのご著書「オリンピックは金まみれ―長野五輪の裏側」を是非ご一読ください。以下は、なるべく現地で見聞きしたことを中心にご報告いたします。
2. ビッグハット、エムウェーブ見学
長野駅でひととおりお食事と挨拶を終えると、2台の車に乗り込みさっそく市内のオリンピック関連施設へ。
アイスホッケー会場のビッグハット(現在は多目的スポーツアリーナ)と、スピードスケート場エムウェーブを訪ねました。いずれも現在は第三セクターである株式会社エムウェーブが管理運営を行っているとのことですが、今がまさにウィンタースポーツ真っ盛りの時期であるにも関わらず、なんだか閑散とした雰囲気です。
エムウェーブは、その名の通り建物がM字のデザインになっており、これは周囲の山並みとの調和を考慮したものなのだそうです。オリンピックで散々自然を破壊しておきながら自然との調和とは?一同ため息が漏れます。
このエムウェーブの建設費はわかっているだけで360億円(1985年当時の長野市年間予算は760億円)。建物の周囲には広々とした公園が付随していますが、この造成にかかった費用は公園整備費など別の費目で計上されているため、総額でいくらかかったのかもはや正確にはわからないそうです。
中に入ろうとすると「今日はリンクには入れません」ええ!?後で調べてみると、2月は半月以上一般営業をしておらず、私たちはその期間に訪れてしまったようです。一般営業日であれば、有料でスケートを楽しむ大勢の市民の姿が見られたのでしょうか。ちなみに無料で開放されるのは年に7日間だそうです。
オリンピックミュージアムなら開いているというので「仕方ない、見ておくか」と皆で移動。誰もいない展示室に、1998年のメダルやユニフォーム、選手の写真などが並び、いかに長野オリンピックが素晴らしかったかを厚かましく訴えかけてきます。展示コーナーを一通りぬけると、リンクの観客席に入ることができましたが、営業日ではないので、当然人気はありませんでした。
帰り際、事務所にいた職員に江沢さんが声をかけ、リオとピョンチャンから来たお客様だとお二人を紹介すると「これはこれは、昨年は開催成功おめでとうございます」と挨拶され、苦笑いするしかありませんでした。彼にこの施設の収支について尋ねたところ、2015年度は支出が4億3000万円に対して、歳入が利用料等で2億円、そして長野市から1億円、政府から8000万円の補助を受けていると説明されました。とても採算の取れている事業とは思えません。
3. ロッジピノキオの夜
その夜、私たちが宿泊したのはロッジピノキオ。普段から山や自然に親しむ若者などに多く利用されている場所だそうで、オーナーの園長さん(通称)は、今回のフィールドワークの運転も引き受けて下さり、車内ではたびたび江沢さんと軽妙な掛け合いで私たちを楽しませてくれました。
夕食の席には、地元の食材を使ったお料理や鍋、この日のために宇都宮から届いた餃子(!)などなど所狭しと並び、心づくしの大歓待。(ありがとうございました!)にわかにリオ、ピョンチャン、長野、東京の反オリンピック交流会と相成りました。
食事の後には、長野オリンピック当時の反対運動の写真やビラを見せていただきました。最初にうかがった長野市長選のポスター、通信、デモの写真、競技施設の建設工事を追った様子。どれも一つ一つ大切に分類・保管されていて、当時の熱気が伝わってくるようです。
長野での反対運動が、自然を愛し、地域での暮らしを大切に営む人々によって取り組まれてきたこと、SNSなどなかった時代に丁寧にその連帯の輪を広げて来られたことが垣間見えるような、とても素敵な夜でした。
4. スパイラル見学
夜の間にだいぶ雪が降ったようで、2日目の朝は雪かきからスタート。豪雪地帯の暮らしの厳しさを思い知らされます。名残惜しいけれどピノキオともここでお別れです。
まず向かったのはリュージュボブスレー会場「スパイラル」。ガランとした広大な施設をしばし眺めていると、たった一人の職員が、長らく来客がなく寂しかったのか和やかに挨拶をしてくれました。
本来リュージュ・ボブスレーはより寒冷な地域で行うものだそうで、ここ長野では人工的にコースを凍結させる仕様で施設が作られました。年間2~3ヶ月コースを凍らせるために1日150万円の電気代がかかるなど高額な維持費が問題になっています。
一方でリュージュ・ボブスレーの競技人口は少なく、施設利用による収益も見込めません。長野オリンピック後にアジア大会が鳴り物入りで開催されましたが、日本以外はインド人選手が1名、観客も150名程度だったそうです。
私たちが訪問する直前の新聞記事によると、このスパイラルは、ピョンチャンオリンピックまではナショナルトレーニングセンターに指定されているため1億円の補助が出ているそうですが、それ以降については採算の目処が立たず、10年間の凍結休止が検討されているとのことでした。(その後、4月に正式に休止が発表されました。)
私たちを出迎えてくれた職員の方はこうなることを2年前から知っていたそうです。
5. 浅川ダムとオリンピック道路
車で移動中、何度も「ここもオリンピック道路なんですよ」というところを通りました。中でも最も力を入れて説明されたのは浅川ダムのループ橋です。
この地域では1985年に地すべりが発生し、市街地と飯綱高原をむすぶ道路が寸断されました。(このとき老人ホームが被害にあい高齢者が亡くなったそうです)予算等の問題で、元の場所での道路の復旧は断念されていました。そこへオリンピック招致やリゾート開発の流れが起こり、なんとしても道路を建設しなければということに。
そこでなんと降って湧いたようにダム建設計画が持ち出され、ダム建設予算から作られたのがこのループ橋だというのです。ダム建設費80億円に対して道路建設費が240億。もはやダムはついでですね。オリンピックのために道路を、道路のためにダムをという無理やりな計画です。しかもこうして作られたダムは水がたまらず、オリンピック開発で農地が減ったため農業用地の需要も少なくなり、大して存在意義がないのだとか。
オリンピックのためのなりふり構わぬ開発、その典型例のような場所でした。
6. 環境に優しい長野オリンピック?
飯綱高原のフリースタイル競技会場。今回は立ち寄ることができず車から遠景を眺めるのみでしたが、ここは山を削り、地形を大幅に改変して造られた上に、環境への配慮をアピールするためか緑化工事と称して外来種のクローバーなどが化学肥料とともに吹き付けられ、生態系に大きな影響があったと言います。
長野オリンピックでは、このように大規模な自然破壊が行われていながら、一方でまったく意味のない(場合によってはさらに悪影響をもたらす)対策が取られ、それを以て環境に優しいオリンピックであると謳われるエピソードが多々あるようです。
その象徴的な言葉が、木を「一本伐ったら二本植えれば良い」というもので、実際に子どもたちを動員しマスコミを呼��で大々的に植樹イベントが行われたそうです。私たちも、その時に作られた「森」を目の当たりにしましたが、森と呼ぶには程遠い、狭い敷地に植えられたなんともお粗末で人工的な数本の木々の群れに、思わず閉口してしまいました。
7. 白馬ジャンプ台
白馬のジャンプ台は当初30億の予算で建設される予定でした。しかし、IOCの現地視察でシャワーやエレベーターなど様々な要求を突きつけられ、予算は76億円に増加。さらに、夏も運営できるように芝の吹きつけ工事を行った結果さらに増額して86億円にまで膨れあがったそうです。
リフト乗り場のスタッフに話を聞くと年間7万人の来場者があるとのことでしたが、私たちの訪問時は私たち以外に人影はありませんでした。せめてもの賑やかしにとバナーを掲げて記念撮影。
8. 長野県庁での記者会見
その後、一同は再び長野市内へ戻り長野県庁にて、今回のはんごりん国際連帯ツアーにおける長野訪問について、記者会見に臨みました。
招致活動時、IOC委員を出迎えるために何百人もの職員が旗振りに動員されたというエントランスを抜け、いざ会見場へ。それぞれ自らの都市で起こっていること、そして長野を訪問しての意見などを堂々と述べました。
まずジゼレさんより、リオオリンピックにおける都市再開発、貧困者への暴力・排除、強制立ち退き、公務員への賃金不払いなどの問題について報告がありました。長野を訪問し、様々な説明を聞いてきたが、ここでも同じように公共の資金が人々の生活のためではなく競技場や道路など無用の長物のために浪費されていると鋭く指摘しました。
ギョンリョルさんは、ピョンチャンが同じ冬季オリンピック開催都市であることからさらに具体的に長野について言及しました。
2014年に長野を視察した江原道議会が、視察の結果、長野五輪の施設は子孫に残す重要な価値のあるもので、長野五輪は地域の発展に寄与していると発表したそうです。しかし、長野のスパイラルが10年間凍結休止になったように、韓国でもボブスレー・スケルトンの競技人口は少なく、ピョンチャンでも同じ問題が必ず起きる、我々は長野から学ばなければならないと強く訴えました。そして、オリンピックによる地域の被害を最小限におさえ、新しい政権のもとで朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との交流も打開できるような運動をしていきたいと思いを語りました。
続いて反五輪の会からいちむらさんが発言。東京の状況について、コンパクト五輪と銘打ちながら予算は1兆8000億円にまで膨らみ、都営住宅の住民や明治公園の野宿者に対する強制的な立ち退きが行われた��となどを報告しました。一方、湾岸部では地価が上がり「五輪マンション」などと呼ばれる高層マンションが投資・投機の対象となっているとし、オリンピックによって金持ちが儲かり貧乏人は排除され、町が壊されていく、世界中で同じことが起こっていて私たちは何度も経験して知っているはずだと強調。2020年東京オリンピックは返上すべき、世界中の人々とつながって反対していきたいと結びました。
最後にまとめて下さったのは記者会見のコーディネータを務めた江沢さん。
長野の住民としてスパイラルの休止問題に触れ、コースを凍結させないことで20年間で数十億の節約ができると言われているが、そんなものは動物のいない動物園やコンセントを抜いた冷蔵庫と同じ、いずれにしても無駄なものであるとバッサリ。
オリンピックは持続可能な開発につながるとIOCは言うが、競技施設は老朽化するのみで住民にとってプラスにはならず、市内は空き店舗だらけで寂れている。パラリンピックで障碍者に住みよい街になるとよく言われるが、オリンピックに使う金を人々の暮らしのためにそのまま投資すればよいと訴えました。
そして江沢さんもまた、今回交流を持った3都市と、過去に共に反対運動を行ったトリノ、バンクーバー、アルベールビル、リレハンメルの市民グループとも力を合わせて、2020年までにオリンピックを全面的に見直すようなアクションを行いたいと語りました。
9. 最後に
多くの皆さんの助けを得て、私たちは無事2日間の旅程を終えることができました。長野では、たった2週間のオリンピックのお祭り騒ぎのために、深刻な自然破壊が行われ、巨額の税金が湯水のように使われ、どんなに反対の声を上げても最後にはオリンピックありきでまかり通ってしまう。そんな惨憺たる状況の数々を見聞きしました。もちろん、それでオリンピックに対する怒りを新たにしたのですが、それよりも私の心に印象深く残ったのは江沢さんはじめ、反対運動に取り組んで来られた方々のいきいきとした力強さです。理念やスローガンだけではない、長野の自然を愛し、地域に根ざした暮らしの中から生まれた抵抗運動だからこそ持ちうるたくましさ、温かさを感じ、はっとさせられました。今後も引き続き、長野の経験にも学びながら、各都市がつながってオリンピック反対の声をあげていきたいと思います。最後に、2日間の案内、運転、宿や食事の確保など、このツアーのために様々な形でご尽力くださった皆様に感謝します。ありがとうございました。
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